2011年11月11日金曜日

宗祖法然上人800年大遠忌法要への参加 (1)

浄土宗宗祖の法然上人が建暦2年(1212)に80歳で入寂されてから800年、今年平成23年(2011)がその法然上人800年大遠忌に当たる。この遠忌は50回忌以降50年おきに行なわれているもので、大きな転換点となったのは、資料によると、後柏原天皇の御世の大永4年(1524)に、天皇による「大永の御忌鳳詔」が出され、知恩院での法然上人の御忌を7日間にわたって勤めるように定められ、以降、毎年1月18日から25日までの7日間忌日法要が行われるようになった。その後ご入滅から486年を経た元禄10年(1697)になり、当時の東山天皇から「円光大師」の大師号を下賜された。そしてその14年後の宝永8年(1711)の500年遠忌には、時の中御門天皇より「東漸」の大師号が加賜され、それ以後、中日22日の法要をするとした50年周期の遠忌法要の法式が確立された。以後50年の遠忌ごとに、宮中からは大師号が加賜されてきた。なお、明治10年(1877)からは、それまで1月に行なわれてきた遠忌法要は4月に行なわれることになった。以後800年大遠忌まで、50年ごとに加賜された大師号は次のようである。
 宝暦11年(1761) 550年遠忌 桃園天皇より「慧成大師」の号を賜る。
 文化8年(1811) 600年遠忌 光格天皇より「弘覚大師」の号を賜る。
 万延2年(1861) 650年遠忌 孝明天皇より「慈教大師」の号を賜る。
 明治44年(1911) 700年大遠忌 明治天皇より「明照大師」の号を賜る。
 昭和36年(1961) 750年御遠忌 昭和天皇より「和順大師」の号を賜る。
 平成23年(2011) 800年大遠忌 今上天皇より「法爾大師」の号を賜る。
 当初、知恩院での800年大法要は、第Ⅰ期の古式法要が3月27日から4月3日までの8日間、第Ⅱ期の記念法要が4月4日から17日までの14日間行なわれることになっていて、石川教区は第Ⅱ期の3日目(4月9日)の念仏会日中法要に組まれていた。ところがあの未曾有の東日本大震災により、法要は秋に延期になった。折しも浄土真宗でも、親鸞上人750年遠忌が今年執り行われることになっていて、東本願寺では予定通り、西本願寺では秋に延期となった。知恩院では、古式法要は10月2~9日の8日間、記念法要は9月28日と10月12~22日と24~25日の14日間、加えて10月11日に東日本大震災物故者追悼法要が行なわれることになった。石川教区の念仏会法要は10月15日の午前である。
 今回の法要参加の旅は、法要の前日に奈良の興福寺と唐招提寺を拝観し、当日は午前の念仏会法要に参列し、帰沢するという予定で、主催は浄土宗石川教区・同壇信徒会である。

1.興福寺
 10月14日の天気は雨とのことだったが、金沢では晴れていて、旅行日和の感があった。朝8時に金沢駅西口に集合、バスは1号車、全部で5台である。バスの座席は菩提寺ごとに仕分けされていて、私達夫婦は前の方だった。福井を過ぎる頃から雨模様になる。途中2回のトイレ休憩があり、車中昼食で午後1時には奈良市登大路の興福寺に着いた。小雨が間断なく降っている。興福寺は昨年が創建1300年、国宝館開館50周年とかである。
 興福寺は南都六宗の一つ法相宗の大本山、創建は和銅3年(710)で、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、春日社の実権を手中にし、大和国を領するほどになり、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護は置かず、興福寺がその任に当たったという。また江戸時代には、21,000余石の朱印を与えられ保護されていたが、明治元年(1868)に出された神仏分離令・廃仏毀釈、明治4年(1871)の社寺上地令によって、子院はすべて廃止、寺領は没収、僧は春日社の神職となり、境内の塀は取り払われ、奈良公園の一部となり、寺は廃寺同然となったが、その後復興した。現在でも寺には塀がなく、公園の中に寺がある状態となっている。
 興福寺は創建以来、7回もの焼失・再建を繰り返してきた。中金堂は文政2年(1219)に仮再建されたが、老朽化したため平成12年(2000)に解体された。現在境内整備が行なわれていて、第1期は中金堂及びその周辺の整備で、平成10年(1998)から平成35年(2023)の26年間が当てられている。これまで中金堂基壇、中門、回廊、前庭の発掘調査が終わり、平成22年(2010)の創建1300年には中金堂の立柱式が行なわれ、平成30年(2018)には復元される予定である。これには約60億円の費用が見込まれる。この伽藍復興に向けて、私も平瓦に記名し寄進した。中金堂の規模は、東西36.6m、南北20m、高さ21.2mだったという。
 団体で国宝館に入った。今日は金曜日、中学生や高校生の団体も大勢来ていて、皆さん資料を持って学習していて、館内は芋の子を洗う状態。これだけ拝観者が多いと、ゆっくり鑑賞するというのは困難で、人の波に体を委ねての移動となる。まるでところてん式に押し出されて外へ。ここでの滞在時間は1時間、残りの時間、境内を散策する。東金堂、五重塔、北円堂、三重塔は国宝。南円堂、大湯屋は重要文化財。中金堂は再建中。西金堂、回廊、中門、南大門、鐘楼、経蔵は跡のみ。全体の再建はまだまだのようだ。現在拝観できるのは、国宝館と東金堂のみである。現在興福寺に収蔵されている仏像等の国宝は54点、重要文化財は44点と多く、奈良県指定文化財も3点ある。本尊の釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像(重文)、四天王像(重文)は、現在仮金堂に移安置されている。

2.唐招提寺
 興福寺を出て、奈良市五条町の唐招提寺に移動する。
 唐招提寺は南都六宗の一つ、律宗の総本山、開基は鑑真和上、本尊は慮舎那仏である。宗祖の鑑真和上は中国揚州の生まれ、21歳で授戒を受けた後、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽には並ぶ者がない律匠と称えられていた。54歳の折に日本からの熱心な招きに応じて渡日を決意されたが、遣唐使船での5回の渡海の試みのうち、3回は事前の密告で出国できず、2回は暴風雨で失敗、そして失明された。しかし渡日の意志は強く、六度目にして漸く琉球を経て天平勝宝5年(753)12月に薩摩に上陸、翌年4月に奈良へ着いた。66歳だった。この年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇、光明皇后はじめ四百余人に授戒された。その後東大寺で5年を過ごされ、天平宝字2年(758)には大和上の称号を賜り、併せて新田部親王の旧宅地を下賜され、翌3年(759)には戒律を学ぶ人達のために修行の道場を開き、「唐律招提」と称した。鑑真和上の私寺として発足した当初は、講堂と新田部親王の旧宅を改造した経蔵や宝蔵があるだけで、金堂が完成したのは弟子の如宝の尽力による。鑑真和上は日本で10年過ごされ、天平宝字7年(763)5月にその生涯を閉じられた。76歳だった。
 寺の建造物では、金堂、講堂、鼓楼、経蔵、宝蔵が国宝、御影堂、礼堂・東室が重要文化財となっている。ほかには仏像6点と舎利容器1点が国宝、絵画4点、仏像30点、工芸品19点、古文書等12点が重要文化財である。金堂は平成12年(2000)から10年かけて大修理され、平成21年11月に落慶法要された。この平成大修理の際、江戸時代と明治時代にも大修理が行なわれていたことが判明した。
 唐招提寺の前には広い駐車場があり、グループごとに境内へ入る。南大門から入り、参道の玉砂利を踏んで進むと、見慣れた金堂が正面に対峙することに、でも実物を見るのは初めてである。正面に並ぶ8本の円柱の吹き放ちは、正に天平様式、ギリシャの神殿建築様式が伝わってくるような印象を受ける。その簡素な美しさの中にも厳かさを感じる。内陣には慮舎那仏坐像(国宝)を中央に、左手東方には現世の苦悩を救済する薬師如来立像(国宝)が、右手西方には理想の未来へ導く十一面観世音菩薩立像(国宝)が見えている。本尊の脇には梵天・帝釈天の立像(国宝)、須弥壇の四隅には四天王像(国宝)が立つ。ここ独特の雰囲気、魅了される。
 次いで鼓楼の脇を通り、講堂へ回る。ここでは中へ入る。この建物は平城宮唯一の宮殿建築の遺構で、中には、本来は菩薩像であるのだが、ここでは本尊弥勒如来坐像(重文)として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されている。ほかに持国・増長の二天(重文)も共に配されている。出て、境内の礼堂・東室を横に見て、地蔵堂に上がり、迂回して日本最古の校倉といわれる宝蔵・経蔵の前を通り、南大門に戻った。今回は鑑真和上座像(国宝)が納められている御影堂は、屋根しか見えなかったが、ここには東山魁夷画伯による障壁画が奉献されている。ここが公開されるのは、毎年6月6日の開山忌舎利会の際の前後3日間のみである。

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