2011年11月30日水曜日

「シンリョウのジュッカイ」(1)

永坂鉃夫先生の随筆集の「ドンキホーテシリーズ」の第四集である「ドンキホーテの述懐」を読んで、その読後感を書く予定にしていて、それには以前上梓された折に書いた感想文を参考にして「晋亮の呟き」に乗せようと思っていた。ところが以前書いたものを読んでみると、とても読後感とは言えず、挫折してしまった。ただその時、先生が回想なさっている部分を私に置き換えて書き残してはとフッと思いついた。ですから少し書き進んだところで、もう一度改めて読後感に取り掛かりたいと思っている。とは言っても、書く文章のレベルにはかなりの格差があり、人様に読んで頂く代物ではなく、私のメモのつもりでいる。でもそのタイトルは先生にあやかって「シンリョウのジュッカイ」とした。そしてそのテーマ選びやスタイルは、厚かましくも先生の「ドンキホーテの述懐」の項目にヒントを得たいと思っています。勝手な思い上がりですがお許し下さい。
 ところで、私の述懐といっても、そのテーマは思い付きで、先生のように整然とはゆかず、全くアットランダムになりそうです。 

● 木村家は野々市では旧家ではない
 私、木村晋亮は初代から数えて五代目、元祖は五右衛門という。江戸時代には姓はなく、屋号は木屋で、読みはキイヤゴヨムサ、略して木五と言った。五右衛門の名からも判るようにうちは分家で、本家の五左衛門の方は吉田の姓を名乗っていて、どうも前田の殿様に伴って加賀へ来たらしい。吉田の墓が野々市にあることから、野々市に住んでいたらしく、町には吉田の姓がかなりあり、みな親戚まついである。ところで五右衛門は39歳で他界している。亡くなったのは安政5年(1858)10月2日、これは過去帳に記されている。とすると生まれたのは文政2年(1819)である。また五右衛門の妻は文政9年(1826)の生まれ、明治44年12月22日に亡くなった。享年85だった。丁度100年前にあたる。
 木村の姓は屋号から来ていると思われるが、戦前四百戸といわれた野々市町で、木村という家は二軒あり、もう一軒は分家である。初代の墓は今の木村の墓地にあることから、亡くなった時は野々市に住んでいたようだ。野々市はその昔弘法大師様に水をお上げしたので、松任や三馬(旧野々市新といい、野々市の出村だったが、一町一村の制度で、野々市村が野々市町になった時に切り離され、三馬村の字になった)と違い水は豊富で、手取川の伏流水が地表数メートル下に流れていて、一軒ごとに井戸があったものだ。でも昨今は水位が下がってしまった。現在敷地は五百坪あるが、敷地内に井戸が三本あったことから、三軒分の屋敷を三代の仁太郎(祖父)の時に取得したと思われる。
 仁太郎は田圃に使う消石灰を扱う肥料商をやっていて、菰包みの石灰を金石港から川舟で伏見川を遡って道番(現在の伏見橋辺り)まで運んで陸揚げし、後は荷車で遠くは鶴来まで運んだという。これで財をなしたが、農協組織ができると、この商売は成り立たなくなった。しかしこの財で近隣の土地を買い上げ、石川県では初めてと言われる区画整理をして、整然とした一区画250坪の田に整備した。また当時の火消しは手押しポンプであったが、祖父は石川県で第1号の消防車を野々市町に寄贈したという。また祖父は多額納税者で貴族院議員の選挙権があったと聞いた。
 しかし終戦を境にして状況は一変する。農地改革が断行され、富奥村粟田・藤平田、野々市町にあった四百町歩、分家の二百町歩の田圃は小作人にただ同然でで払い下げられ、第九師団の主計大尉で在郷軍人会長だった父仁吉はレッドパージで公職につけず、一町歩百姓になった。金庫にごっそりあった戦時国債も紙屑に、母は百姓の傍ら、学生を下宿させ、昼は織物工場の検反に精を出した。でもこれが定年後厚生年金の受給で潤うことになる。一方父の方は、軍人恩給の受給資格年限が3ヶ月足りないばかりに支給されず、母は父が支那事変に出征し、除州作戦で迫撃砲の破片で大怪我をしたのに(「麦と兵隊」のモデル)傷痍軍人になることを潔しとせず辞退し、結局全く恩給は何も貰えず仕舞いなので、ずいぶんボヤいていた。百姓は終戦百姓で全くの素人、町に親戚はなく、マッカーサー様様の旧小作人からは意地悪され、ずいぶん苦労した。またその頃の肥料は糞尿、近くに貰える家はなく、浅野川の天神橋を渡った御徒町まで貰いに行った。私もよく手伝った。当時弟は小さくて虚弱、妹も小さくてしかも鼠けいヘルニア、それで田圃の手伝いはもっぱら私に回ってきた。今から思うと本当に隔世の感がある。

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