2011年9月15日木曜日

石徹白への旅と話

 未だ一度も通ったことのない美濃禅定道を、南竜山荘から下ろうと、7月と8月に挑戦したが、7月は台風6号による強風で、8月は停滞前線による濃霧と降雨で、石徹白へ下りることを断念した。下山した後は石徹白で宿泊することにして、民宿を白鳥観光協会にお願いしたところ、「民宿おしたに」を紹介してもらえた。この時の条件は、下山した際に登山口まで車で迎えに来てもらえることだった。これに対し鴛谷さんからは、①先ず前日の晩に一度連絡下さい。②下る日、別山か、三ノ峰か、最終的には銚子ヶ峰から携帯電話で連絡して下さい。そうすれば時間に合わせて迎えに行きますとのことだった。登山口へ下りてからは、電話は通じませんとも。朝5時に南竜を発てば、1時か2時には下りられるとのこと。ところでこれで二度もドタキャンしたので、一度お礼を兼ねて寄ろうということのなり、家内と9月11日に行くことにした。
● 石徹白へ
 私はこれまで石徹白へ行ったことがない。金沢からは勝山回りで3時間ばかりとかで、朝9時に家を出た。白峰から谷峠を越えて勝山へ下り、九頭竜川を上流へ、ダム手前の旧和泉村役場から石徹白川に沿って、国道314号線を上流へ向かって進む。此処から石徹白下在所に至る途中にあった旧和泉村の3集落は廃村になり、石徹白まで部落はない。ただ旧村落の跡地は整備されてキャンプ場になっていた。途中から狭い峡谷沿いの一車線の道になる。かなり走って道路が広くなり、山間の峡谷から開けた明るい山地になり、家が点在してくると、そこが石徹白だった。石徹白は40年位前は福井県大野郡石徹白村だったが、昭和の大合併で岐阜県に越県合併し、現在は郡上市白鳥町石徹白となっている。
● 石徹白の大杉
 朝は上天気だったのに、石徹白へ着いた頃には曇ってきて、雨もパラついてきた。今度も雨かと気が滅入ったが、とにかく石徹白道の登山口へ向かうことに。上在所の白山中居神社を過ぎると道は狭くなり一車線になる。ここから登山口までは6kmの道のり、途中10台位の車と交差する。登山口には、乗用車が10台位とマイクロバスが1台、車の人皆さん銚子ヶ峰まで行ったとか、バスには運転手と客が2人ばかり残っていて、皆が帰るまで待つとか。雨が降ってきたが、ここまで来たからには、大杉へは雨でも出かけようと、山スタイルに着替え、靴も山靴に履き替えた。石段は420段、段差20cmとすれば84mの高度差、10分程度の登り、この程度なら家内も行くというので一緒に登ることに。この登山口には休憩舎もトイレもあり、水場もある。また休憩舎の脇にはスキーのストックが沢山置いてあり、家内は運転手の方に勧められたとかで、ストックを2本持っていた。その方がよい。私は何時ものステッキである。かなり急な石段、石段は丸い石で組んであるので、雨で滑る。距離は340m、丁度10分で大杉に着いた。家内は歩くと浮腫が出るとかで全く歩いていないが、ここは時間も短く、本人は大丈夫と言っている。幹周り14.5m、樹高25m、樹齢1,800年といわれる国指定の特別天然記念物の大杉である。幹の半分は枯れて、白い樹肌を見せているが、残りでは葉が繁っている。ここは標高1,000mの小さな平になっていて大杉平というそうだ。ここには美濃禅定道の今清水社があった場所でもある。ここから銚子ヶ峰までは5km、ざっと900mの登り、上り3時間、下り2時間である。
● 白山中居神社
 登山口から上在所に戻る。ここには20棟ばかりの家があるが、今は常住している人はいないと聞いたが、どうなのだろう。鳥居脇に駐車して参道を本殿へと向かう。大きな川石を組んだ段を下り、長瀧川を渡り、再び丸い川石を組んだ段を上ると拝殿に出る。八千余坪の境内は鬱蒼とした杉の老樹の森、中でも「浄安杉」は目通り12.1mで、この森とともに岐阜県の指定天然記念物になっている。そして一番高みには本殿があり、御祭神は伊邪那岐神と伊邪那美神で、祀られたのは景行天皇12年(83)とのことである。その後元正天皇の養老年間(717-724)に、泰澄大師が白山開山の折に社殿を修復、社域を拡張し、神仏混交となった。そして江戸時代には、神職に関わる人は二百余戸にも達したという。その後明治になっての神仏分離では、仏像などは中在所に建立された「大師堂」に安置された。また鴛谷さんでは、神宮・神社の参道で、途中で川を渡るのは、日本広しと言えども、伊勢神宮とここ白山中居神社のみとかである。
● 満天の湯
 今晩泊まる宿の主人は法事とかで、3時半過ぎにお出で下さいとのこと、神社を出たのが午後2時過ぎ、それで宿の主人も推奨の「満天の湯」へ向かうことにする。この天然温泉は国道314号線の桧峠近くにあり、標高は1,000mばかり、泉質はナトリウムー炭酸水素塩温泉で、源泉温度44.0℃、湧出量は134ℓ/分、本館には露天風呂、内風呂、サウナがあるほか、個室の露天風呂が10室ある。ここで1時間ばかり過ごす。土日祝日は午後9時まで営業しているので、夜は満天の星を見ながらの入浴も可能である。
● 民宿おしたに
 午後4時に今宵の宿「民宿おしたに」へ向かう。鴛谷さんからは、水道工事をしているので迂回しなければならず、もし分からない時は連絡して下さいとのことだったが、日曜は工事をしてなくて、頂いた地図どおりに行くことができた。
 主人の鴛谷さんは、白山室堂の厨房に33年間おいでたとのこと、沢山の方をご存知で家の前で初にお会いしたとき、木村先生には特に懇意にしてもらいましたという話が飛び出た。その木村さんは実は私の叔父ですと話したら、びっくりされていた。外での話しに花が咲いての立ち話、話題が次から次へと、奥さんに促されて漸く中へ入った。来週の土日は、恒例の室堂友の会の集まり(室堂職員と金大医学部の白山診療班で構成)がここでであるとか、20人ばかりがお集まり、私の知っている人も何人か入っている。
● 鴛谷さんから聞いた話
 以下に聞いたことなどを、思いつくままに記してみる。
『美濃馬場』:平安時代の天長9年(832)に、白山には三つの馬場(加賀・越前・美濃)が開かれ、加賀馬場・白山中宮、越前馬場・平泉寺と並んで、美濃馬場・白山中宮長滝寺は、長滝から石徹白の白山中居神社を経て、白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。その後白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、石徹白の地も重要性を増し、最盛期には「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかし蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは失われつつあったが、それでも文政8年(1825)には再建後五百年を経た大講堂が改築され、盛大な上棟遷座法要が営まれた。だが、明治維新の際に発せられた神仏分離令により、それまでの白山中宮長滝寺は解体され、大御前・別山・大汝と他の末社は長滝白山神社に、大講堂と諸堂各坊は白山長瀧寺(ちょうりゅうじ)となった。ところが明治32年(1899)に近隣の民家から出た火災で、これら本殿や大講堂をはじめ大部分が灰燼に帰してしまった。そしてその後、長滝白山神社の本殿は大正8年(1919)に、白山長瀧寺は昭和11年(1936)に焼失した大講堂跡に規模を小さくして本堂が再建され、現在に至っている。
『大杉への参拝道近道』:現在の石徹白道の登山口へ行く林道が完成されたのは40年位前で、その折に石徹白の大杉までの420段の階段が新設された。それまでは白山中居神社の裏手から尾根通しに参拝道があり、最初に渡る谷の初河谷、次いで倉谷を渡り、大杉に至った。今この径は毎年7月半ば過ぎに、石徹白の有志により、刈り分けされている。

0 件のコメント:

コメントを投稿