2011年12月22日木曜日

「シンリョウのジュッカイ」 (5)

● 年暮れの餅搗き(1) 戦前
 年暮れになると、どこの家でも、正月に飾る大小の紅白の鏡餅や、雑煮に用いる紅白の延し餅を搗くのが習いだった。だからこの季節になると、近所からはペッタンペッタンという音が伝わってきたものだ。私が生まれたのは昭和12年、だから私の戦前の餅搗きの記憶というと、あの皇紀二千六百年の祝いがあった昭和15年から終戦前年の昭和19年にかけてということになる。もっとも近くには造り菓子屋があって餅菓子も造っていたが、自家消費する餅を商売屋に頼む家はなく、わが家で食べる餅は皆自前で餅搗きしていた。
 戦前の木村家は大地主だったので、祖父や父が餅搗きに加わることはなく、僅かに祖母(当時60歳前後)や母(当時30歳前後)が手伝う程度で、前日に行なう洗米から当日の蒸し、搗き、鏡餅造り、延し餅造りは、近くに住む大口の小作人のうち、いつも決まった顔ぶれの男手二人と女手二人が手伝いに来てくれていた。その皆さん方は当時40歳前後だったのではと思う。しかし手伝いとは言っても、四人の技量はまるで職人並みで、手際の良さには目を見張るものがあった。また搗く糯米の量は半端でなく、多いときは4斗(40升)、重さで言うと16貫、60kg にもなった。お米は精白するとかち減りするが、一晩水に浸けるとふやけて体積は元に戻る。通常は二升一臼なので、単純には20臼ということになる。
 当時は道具蔵と米倉・納屋と母屋に囲まれた空間が、高い吹き抜けの広い土間になっていて、その場所は蔵や倉と同じ高さの瓦屋根で覆われていた。その片隅に直径二尺はあろうという鉄製の大きな竈を置き、それに架ける大きな釜、その上を覆う真ん中に穴の開いた厚い大きな鉄板を置き、その上に厚手のやはり真ん中に穴の開いた布を敷き、その上へ蒸篭を四段に積んで載せた。蒸篭と蒸篭の間にも穴の開いた厚い布が挟まれ、蒸気が漏れないようにしていた。
 水に浸けてある米を笊に上げ、蒸篭に簾を敷き、その上に荒く編んだ目の布を敷き、そこへ上げた米を移す。溢れないようにほぼ一杯にすると、水量りで二升入る。真ん中に拳で窪みを作り、その蒸篭を積み重ねる。大体四段で餅搗きを支障なく回転させることができる。竈には薪を使う。納屋には沢山の割った薪が積まれていて、どんどん焚かれる。火力が衰えないように竈前は大事な仕事である。そして一番上、下から四段目の蒸篭から勢いよく蒸気が出てきたら、一番下段の蒸篭が蒸せた目安になるので、その最初の蒸篭を取り出し、お湯で温められた欅の大きな臼に、蒸篭の中の蒸し米を移す。よく蒸せていると布からの蒸し米の離れはよいが、そうでないと布に蒸し米がくっついて往生する。この最初の取り出し時に、蒸篭と鉄板を外し、釜にお湯を補充する。釜の空焚きは厳禁である。その後前と同じ順で蒸篭を積み重ねる。新しい蒸篭が最上段になるようにする。
 餅搗きは最初の捏ねが大事で、この段階でほぼ餅の塊になる。この後搗きと返しを交互に繰り返す。このときは搗く人と返す人との呼吸が合っていなければならず、間合いが大事である。また返す人は、適宜餅に水を補給し、餅を返し、突いて凹みを付け、万遍なく均一な餅となるようにする。でも慣れた人は、阿吽の呼吸で、凡そ80回近く搗くと餅が搗き上がり、その後20回位軽く搗いて仕上げる。出来上がった餅は、大きさに応じて、そのまま、半分、適宜の大きさに臼の中で手で切り分け、盤台に米粉を篩った処に餅を置き、周囲から餅を摘まみ上げ、包むように結んで球にし、引っ繰り返して回転させながら風を送って冷やす。そうしないとだれて平べったい鏡餅になる。ずっと後には枠に入れてだれないようにしたものだが、当時はなく、またその必要もなかった。この出来が餅の形を左右する。さすが当時来てくれていた人達は皆ベテランだった。終戦後、全くの自前でやるようになったが、この時の経験が糧になった。鏡餅は下が白、上が赤、赤は若干小さく造った。延し餅は米粉を篩って、張り板に直接長方形になるように斗棒で延した。
 餅搗きの合間に、餅に餡や黄粉を付けて食べたり、餡を餅でくるんで大福餅にしたり、また水餅にして大根下ろしで和えて食べたりした。2日後位になると延し餅は堅くなるので、両方に握りの付いた包丁で二寸角の大きさに切り分けた。こうして正月準備が整う。餅搗きにおいでてた女の方達は、正月料理の手伝いにもおいでてた。餅は向かいにあった分家にも届けていたようだった。
 こんな餅搗きは、寒に入っては「かき餅」造りになった。10臼ばかり、中にはいろんなものが入った。色では、そのままの白、色粉の入った赤や黄、ほかには黒豆、切り昆布、胡麻などの入った餅が搗かれた。餅は細長い箱に入れられ、固まったら莚の上に置き、2日後位に一分程の厚さに切り、藁で十枚ほどずつ編み上げ、蔵の前に三段に簾状に吊るしたが、実に壮観だった。乾いてくると割れて落ちてくることがあるので、それを拾って食べるのも楽しみの一つだった。餅搗きは春秋のお祭りや御十夜(報恩講)にもされた。

● 年暮れの餅搗き(2)  戦後
 終戦後、農地改革が進み、木村家は漸く一町歩の田を確保できた。ところが父は師団の戦後処理のうち、旧野村錬兵場の広い土地を元の持ち主に返還する事業の責任者として現地駐在ということになり、私達一家は金沢市十一屋町へ移った。ここには終戦翌々年の3月まで居た。この間、暮れの餅搗きはどうしていたのか、全く分からない。前に来てくれてた方々が義理立てして手伝いに来てくれていたかも知れないし、そうでなかったかも知れない。ただ三番目の叔父が除隊して帰ってきていたから、叔父が中心になってやっていたかも知れない。でも父が野々市に帰ってからは、自前でしか餅搗きはしていない。
 道具はそのまま残っていたので、同じように餅搗きをすることが出来た。幸い祖母も母も元気でしかも器用だったので、心配するようなことはなかった。ただ三番目の叔父が養子に出てからは、餅搗きは父一人で請け負った。私は小学校でも中学校でも背が低く、順ではずっと前から5番目で、とても大きな杵を持つなど思いもよらなかった。その頃は竈前と団扇扇ぎが関の山だった。背が伸び出したのは高校へ入ってからで、三年生になってやっと杵が持てるようになった。でも父はまだ50代後半、まだ主役だった。百姓になってからは、農家が皆そうしていたように、田圃一枚は糯米作りに当てていた。この頃はとても以前のように4斗は搗いていないが、でも2斗は搗いていた。そして四番叔父が所帯を持ってからは、そこへ正月のお餅を届けに行った。一番大変だったのは三八豪雪のときだった。前年の暮れ、吹雪と降雪で電車は動かず、リュックにお餅を詰めて、徒歩で横安江町近くの叔父の家までお餅を届けた。その折、やはり降雪と着雪で北陸線の架線が切れ、帰省客を乗せた列車が途中で動かなくなり、乗客は雪道の国道8号線を歩いて帰る破目に。長靴を履いている人はほとんどなく、中には靴下だけで歩いている人も見受けられた。大変な光景だった。
 こうした餅搗きは、私が昭和40年に結婚した後も続けられ、石川県職員を退職する平成8年まで続いた。もっともその頃には田圃は全面委託していたし、餅搗きといっても1斗ほど、自家用のみとなっていた。そしてその後、米倉も納屋も旧宅も壊して新宅にしてからというもの、餅搗きをすることは全くなくなり、必要な分は菓子屋にお願いするというふうになった。もうあれから15年にもなる。

● 餅搗き外聞
(1)大釜の空焚き:私の後輩である金沢大学山岳部員が、冬山合宿に餅を持って行きたいが、市販の餅ではなく、自分たちで搗いた餅を持って行きたいという。誰に相談したのか、その話が私のところに回ってきた。糯米の量は5kgとのことなので2臼程度、いつも使っている大釜を用意した。餅搗きも無事終わり、餅はすべて丸餅にした。でもうっかり油断してしまって、大釜が空焚きになってしまい、ひびが入って大釜はお釈迦になってしまった。このトラブルで翌年からは新しく大きめの釜を使用することにし、それに合う竈を新設しなければならないことになった。昭和40年頃のことである。
(2)中村先生ご家族の餅搗き体験:金沢大学医学部微生物学教室の同門会でお会いした中村先生(現金大学長)から、子供たちに一度餅搗きを体験させてやりたいのでお願いできないかと相談を受けた。餅搗きの当日には奥さんもおいでて、2臼ばかり搗いた。先生も杵を持たれて搗いたし、奥さんや子供さんも餅を丸められたり、搗きたてを食べられたり、ご満悦のご様子で感謝された。昭和60年頃のことだったろうか。
(3)予防医学協会へ出張餅搗き:日本寄生虫予防会が主催した寄生虫病診断講習会には発展途上国数カ国から十数人の医師や検査技師が参加し、その一行が私が勤務する石川県予防医学協会にも寄られることになった。そのアトラクションに餅搗きをしようということになり、私に相談があった。臼と杵を提供し、屋根のある大きな駐車場で餅搗きをした。まあお祭りなので、搗く人も入れ代わり立ち代りで、外人の方は特に盛り上がっていた。平成10年頃だったろうか。

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