2011年12月2日金曜日

「シンリョウノジュッカイ」 (2)

● 母のこと(1) 奈井江から野々市へ嫁に
 私の母好子は明治45年に北海道空知郡奈井江で、父細野生二・母しずの四女としてこの世に生を受けた。上に姉が三人、下に弟が一人と妹が四人、長女と八女とは歳に大きな隔たりがあり、一番末の妹は私の母がよく面倒を見たものだから、大きくなってからも、私の母が実の母だと思っていたと述懐していたのを聞いたことがある。当時細野生二は奈井江原野に開拓された広大な高島農場の管理人をしていた。生二は金沢の生まれで、若くして易に興味を持ち、横浜の高島嘉右衛門の内弟子になっていた。兄弟子は高島易断を継いだ高島呑象である。生二は嘉右衛門が奈井江に高島農場を開いた折に、そこの管理人として出向いた。私も小さい時に二、三度母と母の実家に寄ったことがあるが、町から遠くに見える山の際までが農場だと聞かされ、驚いたものだ。屋敷も広く、門から家まで百米もあったろうか、家は平屋だったが広くて、優に小作人が全員入れる広さがあった。
 さて、私の父仁吉は大学を卒業した後、第九師団に主計少尉として任官していた。結婚適齢期になり、隣村の地主の長女を嫁に貰った。ところが気立ては好かったが身体が弱く、しかも肺病らしいということもあって、また相手の石高が小さかったこともあって、離縁となった。父は好いていたと私に話したことがあるが、病には勝てなかったようだ。そのうちどういう風の吹き回しか、仁吉の母の玉は、北海道にいる兄の生二には女の子が沢山いるから、そのうちの一人を嫁に貰ったらということになり、父と祖母は一度奈井江へ出かけたようだ。生二は生まれ故郷に娘を嫁にやるのも悪くはないと、話を進めることにしたという。ところが、厳しそうな姑とお坊ちゃん然とした婿さんに皆が尻込みし、しかも北海道を離れたくないと突っ張ったという。困った生二は、妹の世話をよくみた四女の好子に懇願することになる。母が話していたが、姉妹の中では一番色も黒く、他の姉や妹では、野々市ではとてもやって行けないと思ったようで、それで白羽の矢が私に来たのだろうと話していた。そして母はしぶしぶ承諾してしまうことに。その頃の木村家は素封家、輿入れの用意は全て野々市でするから、身体一つで来て貰えばよいとのこと、生二は妹玉のこの言葉を信じた。 
 昭和11年(1936)春、好子は父生二と二人きりで野々市に来た。途中鎌倉にいた兄の申三(号燕台)のところへ寄っている。母は初めてで終いの二人旅だったと話していた。母が北海道から持ってきたのは柳行李一つのみだったこと、結婚は父が二度目だったこと、北海道は敷居が高くないと値踏みされたこともあって、家での結婚式は簡素だった。仲人もおらず、もちろん結納もなく、身内の従兄妹添いとあって、母の方はオンブにダッコの筈だったが、これがまた苦労の初めとなる。
● 母のこと(2) 私の出生と父の出征、
 私の父は長男で、妹が一人と弟が三人いた。妹は既に小立野の片岡家へ嫁いでいたが、片岡の姑も中々の人で、まあ苦労はされたらしい。しかしその反動もあって、野々市へ帰って来ると、お里ということもあって、存分に小姑ぶりを発揮したようだが、姑の玉は知らん振り、母に言わせると、父が居ないともう姐や扱いだったという。お金は一切持たせてもらえず、葉書を出すにも一々頭を下げて頼んだとか。父も内緒で少しは融通したのだろうけど、バレたら怖かったという。甘いものが食べたかったと話していた。母は妊娠して私を身籠ったが、朝から晩まで働きづめ、私が生まれる数日前までそうだったという。
 丁度時を同じくして小姑の片岡繁も妊娠し、しょっちゅう実家へ来ていたという。そして小姑は産婆でなく、金沢一の内田病院に通っていた。臨月になり、小姑は内田病院に入院した。その頃病院で出産するなど、余程の素封家か産婆の手に負えないようでないと利用しないものなのだが。そして出産、時に昭和12年(1937)2月10日のことである。逆子で女の子だった。そしてその翌日の2月11日の朝、母も産気づき、近所の産婆さんに来てもらい取り上げてもらった。この日は紀元節で、しかも旧正月の元旦、そして男の子の誕生とあって、父も祖父も大喜びで祝盃を挙げていたというが、姑は実に機嫌が悪かったという。祖父は私に吾助という名前を付けたかったらしいが、さすがに母もこれだけは願い下げてもらったという。
 しかしこの年の7月7日、盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発、父は出征することになる。そして母は孤立無援に、私が唯一の心の砦だったという。母は寝る前には必ず私の成長を日記につけ、一週間分をまとめて戦地の父に手紙として送っていたという。この手紙は父の生前に私に託され、今私の手元にある。まだ一度も開いたことはないが、いつかは開かねばならないだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿