3.知恩院
前夜の宿は、京都市東山区三条大橋東入ルにある団体専用の宿舎「日昇館尚心亭」で、修学旅行の宿舎よりはゆったりした感じがした。男性5人の相部屋で、話は弾んだ。中に羽咋の方がいたが、実は昔近所にいた方で、私の3歳年上、50年ぶりの再会だった。宿を8時40分に出て知恩院に向かう。
程なく三門前の駐車場に着き、グループごとにまとまって、女人坂経由で御影堂前の広場に向かう。足が不自由な人はシャトルバスで行く。広場では随行される僧から説明を受ける。私たちを担当された僧は大変博識で、実に丁寧な説明をされた。
[境内]:上段、中段、下段があり、上段には勢至堂や法然上人廟がある域で、開創当時の寺域である。中段には御影(みえい)堂(本堂)などの中心伽藍がある域、下段は三門や塔頭寺院がある域で、この中段と下段は、浄土宗門徒でもあった徳川家康によって慶長13年(1608)以降に寺域が拡大され、諸堂の造営が行なわれ、造営は二代将軍徳川秀忠に継がれて、元和7年(1621)には知恩院の伽藍の大部分が出来上がった。しかし寛永10年(1633)に火災があり、三門、経蔵、勢至堂を残してほぼ全焼したが、その後三代将軍徳川家光の下で再建が進められ、寛永18年(1641)までにはほぼ旧に復した。
{三門}:この三門は二階建てになっていて、高さ24m、間口50m,奥行12mあり、現存する日本の寺院の三門の中では最大で、国宝に指定されている。私たちは御影堂前広場から阿弥陀堂の脇を通り、三門二階へ直接入られるように特設された桟道を通って行く。ここは通常は非公開の場所である。上層内部は仏堂になっていて、釈迦如来像と脇侍像3駆(いずれも重文)と十六羅漢像(重文)が安置されている。また天井には狩野派による絢爛豪華な龍や天女が描かれている。
[集会(しゅうえ)堂〕:御影堂での念仏会日中法要のため、一旦集会堂に参集する。この建物は御影堂の北側にあり、南北15間の鶯張りの渡り廊下で御影堂と結ばれている。現在半解体修理が施されている。間口43m、奥行23m、高さ17mの入母屋造り本瓦葺きである。その後私たちは渡り廊下の両側に3列に並んで座り、法要に出席する夥しい数の僧侶を念仏を唱えて迎えることになる。この日の導師は石川教区の高野上人、脇導師は4人である。僧列が切れるまでかなりの時間を要した。その後歩廊を迂回して御影堂に入った。
[御影堂(本堂)]:寛永16年(1639)に徳川家光によって再建され、国宝に指定されている。南に向いて建てられていて、「大殿」とも呼ばれ、宗祖法然上人の木像が安置されていることから、「御影堂」と呼ばれる。入母屋造りの本瓦葺きで、間口45m、奥行35mで、周囲には幅3mの大外縁(歩廊)が巡らされている。堂内には木造阿弥陀如来立像(重文)と木像善導大師立像(重文)も安置されている。この建物は大遠忌の法要を終えると平成の大修理に入り、解体修理される。完成は平成31年(2019)の予定である。御堂に入ると、参加者と同じ数の木魚が置かれていて、順次座る。法要は既に始まっている。導師が表白を延べられている。その後開経され、唱経があり、元祖大師の御遷座と献香・献茶・献菓があり、念仏一会に入る。同唱で、堂内にいる人全員が一緒になって念仏のナヌアミダブを唱える。終りに近くなり中座して、歩廊で知恩院の七不思議の一つの「忘れ傘」の説明を受ける。左甚五郎ゆかりとか、白狐の化身の濡髪童子ゆかりとか、この後の解体では下へ下ろされることから、何か判るかも知れないとも。御影堂を出て坂を上り、大鐘楼へ行く。
[大鐘楼]:重要文化財で、延宝6年(1678)の建立である。ここにある梵鐘(重文)は寛永13年(1636)の鋳造で、梵鐘の重さは70t、この重い釣鐘を吊り下げるため、鐘楼には特別な工夫が施されているという。この鐘の音は年末の除夜の鐘では定番である。坂を下り、御影堂の東方に建つ経蔵(重文)の脇を通り、境内東側の長い坂を上って小高い場所にある唐門(重文)に至り、勢至堂に行く。
[勢至堂(本地堂)]:寺内の建物では最も古く、室町時代の享録4年(1530)の建立、当初は本堂/知恩教院として使われていて、知恩院発祥の地でもある。間口21m、奥行20mの入母屋造り本瓦葺きの建物で、重要文化財である。ご本尊はもとは法然上人のご尊像(御影)だったが、現在の御影堂が建立された折に移されたため、それ以降は勢至菩薩像(重文)がご本尊として安置されている。浄土宗では、法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしているが、これは法然の幼名が勢至丸ということに因んでいるのだろう。
[千姫の墓]:二代将軍徳川秀忠の長女、幼少7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪落城後、姫路城主本多忠政の子息忠刻と再婚、忠刻病没後、落飾して天樹院と称した。享年70.分骨した大きな墓が、勢至堂の北側に広がる墓地にある。
[濡髪大明神」:千姫の墓の奥に祠があり、知恩院を火災から守る濡髪童子が祀られている。濡髪童子に貸した傘が有名な御影堂の忘れ傘とも伝えられている。
[御廟」:境内の最上段にあり、法然上人のご遺骨が安置されている。御廟にお参りするときは、手前に建つ拝殿から参拝する。御廟、拝殿、唐門(重文)は大遠忌に当たって修理・修復された。
この後、遠影堂前広場に戻り、北門から出て、黒門から退出した。その後団体参加者専用の特設会場で遅い昼食をとり、午後3時に帰沢の途についた。
4.法然上人八百年大遠忌石川教区法要
知恩院での法然上人大遠忌に参加して3週後の11月6日の日曜日、浄土門主で総本山知恩院の第88世門跡の伊藤唯眞大僧正を迎えての石川地区での大遠忌法要が催されることになった。石川教区に浄土門主がおいでるのは極めて稀と聞き及んだものだから、ぜひ参加したいと思った。会場は金沢市文化ホール、時間は午後2時から4時半まで、どんなことをするのかという好奇心もあって参加した。沢山の人が集まるだろうと思い、受付が1時半からなので、15分位前に着くようにして出かけた。場所は大ホールと思いきや、大ホールの向かいにある建物の2階にある大集会室(400人収容)であった。まだ来場者は100人ばかり、最前列に座る。中央に基壇が設けられ、中央正面には真新しい木彫りの阿弥陀如来立像が安置されている。その前に三具足が供えられる。
何かお寺で行なわれる法要とは様子が異なる雰囲気を感ずる。10分ほどしてそれが現実となる。浄土宗の法要でご詠歌なるものを聞いたことがないこともあって、ご詠歌が八十八番もあると聞いたときは、異次元の世界に来たような気分になった。今まで一度でも経験していれば、慌てることもなかったろうに、しかもその中にある宗歌を法要の冒頭に皆で歌うので、これから歌えるようになるまで練習しますと言われたのにはたまげた。
浄土宗歌が「月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ」という法然上人が詠まれた歌であるであることは知っているが、これに節を付けて歌うのは初めての経験だった。大正琴を弾いて合唱隊を指揮するのは、どこかのお寺の奥さんだろうか。もっとも20回も練習すれば、何とか付いて歌えるようにはなるが、違和感が残った。そういえば、読売ジャイアンツに元木という選手がいたが、彼は大阪の上宮高校の出身で、この高校の校歌がこの浄土宗歌であった。歌った節回しがその校歌と一緒かどうかは分からない。
法要が始まる時間が近づき、200人分用意された椅子は足りなくなり、さらに100人分増やしたようだった。時間になり、初めに法然上人御影の御分身が運び込まれ、次いで僧侶と伊藤御門跡が入場される。この間会場の信者は念仏のナムアミダブを木魚に合わせて唱える。導師が正面に、左右に脇導師が6人座られる。浄土宗歌が全員で詠唱奉納されて法要が始まる。導師によるお身拭いの後、開経げに続いて唱経が行なわれる。終わって導師が退出され、御分身のお身拭い式が出席者全員で順次行なわれる。きれいな布で、御分身の墨染めの衣を数回軽く拭う儀式だ。全員なのでかなり時間がかかる。この間僧侶による念仏が延々と続く。漸くお身拭いが終わって、御分身が遷座される。
再び伊藤御門跡が入場され、御親教(法話)があった。この地方教区における法要では、法然上人八百年大遠忌に当たり、法然上人が建暦2年(1212)正月25日に入寂された後、弟子の勢観房源智上人が法然上人への報恩に報いるために、わずか1年足らずの間に5万数千人もの結縁交名を成し遂げられた知恩報恩の心に習い、法然上人御影の御分身の巡錫と八百万人念仏結縁のために行なわれるもので、総本山知恩院の「おてつぎ運動」の一環でもあるとのことだった。法話では、法然上人が亡くなる2日前の正月23日に勢観房源智上人に請われてしたためられた「一枚起請文」の説く専修念仏と念仏結縁について説かれた。
私にとっては、法然上人八百年大遠忌出座も御門跡からの直々の法話聴聞も初めての経験だった。このような貴重な経験はもう私の生前には無かろう。合掌。
2011年11月15日火曜日
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