こう二つを並べて挙げると、何だろうと訝られそうだ。この二つに共通しているのは、両方とも歌であるということである。後者は校歌とあるから歌であることに間違いはない。でも前者の方は、先ず関係者の間でしか歌われていないから、先ず無関係の方には無縁の歌といえる。もう一つの共通点は、作詞が郷土の詩人室生犀星(1889-1962)によっているということである。ところで「名無草」とは何かというと、旧金沢薬専(金沢医科大学付属薬学専門部)の学生歌に類する歌といえばよいだろうか。
この名無草が作られたのは昭和4年(1929)で、現存する楽譜の原本には趣意書が付けられていて、その経緯を知ることができる。昭和3年(1927)、金沢薬専が広坂通りの第四高等学校(四高)の校舎から、小立野の金沢医科大学の敷地に移転したのを機会に、学園の面目を一新せんとし、当時の二年生らがそれに相応しい歌をという発案をし、彼等が卒業する翌年にそれを具体化すべく、一,二年生と相はかり、郷土の詩人室生犀星の門をたたき、ここに「名無草」なる一草を得たという。そして弘田龍太郎(1892ー1952)が曲を付け、この歌が完成した。こうして学生の熱意で作られたこの歌は、薬専生のみならず新制大学の薬学生にも受け継がれ愛唱されてきた。私も薬学部の学生になってこの歌の洗礼を受けた。同窓会でもコンパでも、薬学生の集いには、必ず自然発生的に歌いだ出される歌である。以下に歌詞を記す。
名 無 草
室生犀星 作詞
深雪(みゆき)のしたの 名無草(ななしぐさ)
けふは匂はむ はるは来ぬ
くろがねいろの とびらさえ
打ちくだかれむ 汝(なれ)が日に
汝(なれ)が日に はるのとびらよひらかれむ
さて、金沢大学校歌であるが、依頼されて出来上がった室生犀星の詞に、信時潔(1887-1965)が曲を付けて出来上がった。出来たのは恐らく新制大学ができた昭和24年(1949)前後じゃなかろうか。私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)であるが、入学の時にこの校歌を聴いたかどうかは定かではない。しかしこの歌を私が諳んじているということは、どこかで最初に接したはずなのだが、その覚えが全くない。かといって、何か大学の行事で歌ったという記憶もない。ところで今はどうなのだろうか。折角こんなに素晴らしい歌があるのに、学生がもっと誇りをもって歌えるように、大学は努力すべきじゃなかろうか。在学生、卒業生の皆さん、ぜひこの格調の高い校歌を歌いませんか。以下に歌詞を記す。
金沢大学校歌
室生犀星 作詞
天(あま)うつなみ けぶらひ
天(あま)そそる 白ねの
北方(ほくほう)のみやこに学府のありて
燦然(さん)たる燈(ともしび)をかかげたり。
人は人をつくるため
のろしをあげ
慧智(えいち)の時間(とき)を磨く
光栄(はえ)ある人間(ひと)をつくらむと
新風文化の扉(と)は 開かれ
あたらしの人 世代にあふれ
手はつながれ 才能(さい)は結ばれ
こぞりてわが学府につどへり。
こぞりてわが学府につどへり。
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