「はじめに」
家内が勤務していたのは、野々市市にある内科/外科を標榜する「舩木医院」である。家内はこの医療機関の創設時からのメンバーで、ほかにも数人いるが、年かさでは最年長である。家内は昨年11月には満75歳となり、以前から辞意をもらしていたが、先ずは後継者の育成を頼まれ、それに2年ばかりを要したようだ。職務は医療事務なのだが、その守備範囲は医療行為以外の諸々の分野にわたっていて、金銭・物品出納事務のほか、対税務署、対社会保険事務所、対保健所、対労働基準監督署への対応、加えて職員からの苦情相談などにも応ずるといった具合である。目処がたった以降も何度か辞意を表明したが、その度に慰留され続け、でも漸く院長先生から許可が下りて、退職できることになった。
「プロローグ」
この病院の開設者は舩木悦郎先生で、金沢大学医学部を卒業され、開設直前には金沢赤十字病院内科医長をされていた。私の父がずっと背の痛みを訴えていて、あちこちで診察を受けたが痛みの原因が分からず、その後日赤病院へ診察に訪れた時の担当が舩木先生で、その後先生の診断で、痛みの原因は肝臓がんからきていることを知らされた。当時私は石川県衛生公害研究所に勤務していて、日赤病院と隣り合わせだったこともあり、先生から急に呼び出され、その結果を知らされたことを思い出す。その時にはもう末期で、そのまま入院したが、そのf後程なくして父は他界した。
当時先生は野々市町に在住されていて、先生の奥さんはバドミントンの愛好者で、一方家内も好きだったこともあって気が合い、野々市町にママさんバドミントンクラブを創設させた。そんなこともあって、先生とは家族ぐるみでの付き合いをさせて頂いた。だから先生が野々市町で開業を決意されて以降、諸々の準備に家内もいろいろ手伝うことになった。そして昭和60年7月に「舩木内科外科病院」が開設された。院長は長男の先生で内科、次男さんは事務長、三男の先生 (金沢大学医学部卒) は副院長で外科担当、病床数45の病院の誕生である。私も開院の祝賀会に招かれたが、大変盛大だった。
その後病院は長男先生が他界されて、次男先生が院長になられた。その後次男先生も他界された後は、一時次男先生の奥さんの弟さん (金沢大学医学部卒) が院長をされたが、現在は次男先生の長男 (宮崎大学医学部卒) の方が院長をされている。この間名称は「舩木内科外科病院」から「舩木病院」、そして現在は病床数19の「舩木医院」として、爾来31年有余にわたって、地域医療に貢献してきた。そして家内は4代の院長先生の下で、病院事務に携わってきた。
「送別会は1月31日」
送別会は偶然か勤務最後の日に設定された。でも最後のご奉公と言うべきか、その日の午後に保健所の監査が入った。正に最後のご奉公となった。送別会は金沢市内のとあるレストランで行なわれ、全職員の6割ばかりの方達が出席されたとか、送別会でこれ程多くの方が出席されたのは初めてとか、大変嬉しいことである。それに非番でなかった方々、家庭の都合で出られなかった方々、また既に退職された方々で、後日改めて送別会を企画されているとか、何とも大変嬉しいことである。また3月下旬には、有志の方々が我が家へ押し寄せる計画もあるとか、これだけ皆さんに愛され慕われたということは、家内にとっては望外の喜びだったろう。私としても大変誇りに思っている。有難いことだ。
家内は退職に当たって、全従業員に心ばかりの品と、一人一人に想いを込めたメッセージを書いて渡したという。その内容は知らないが、多分心のこもった文だったのだろう。
また沢山の餞別の品々や花々を頂いた。送別会では25本の深紅の薔薇の花束を頂いたし、ほかにも色とりどりのストック百本もの花束とか、青・赤・ピンクの薔薇や黄色のシンビジュウムなどを組み合わせた花束とかを頂戴した。心から感謝している。
「送別会での挨拶」
家内は退職にあたって、盛大な送別会を催して頂いた折、会の最後に皆さんにお礼を述べた。家内からその原稿を見せてもらったので、ここに再掲する。
「退職に際しまして、一言ご挨拶申し上げます。今日この日を迎えるに当たって振り返って見ますと、悦郎先生、宏美先生、健一郎先生と三代にわたり31年もの長きにわたって勤務することが出来ましたのも、ひとえに本当に素晴らしいスタッフに恵まれたからと心から感謝いたしております。今日無事にこの日を迎えることが出来ましたのも、それは素晴らしくそして優しい皆さん方達と一緒に仕事が出来たからこそと思っております。そして今日は私のために、このように盛大な送別会を催して頂きまして、本当に有り難うございました」。
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