私は昭和34年に金沢大学薬学部を卒業し、石川県衛生研究所へ薬剤師として採用された。県では当時能登地区での河川水による簡易水道の普及に力を入れていて、その水質検査に追われていた。ところで当時の石川県は全国有数の結核と赤痢の王国とまで言われていて、折しも起きた大規模な集団赤痢が発生した折、私はその応援に駆り出された。化学検査から全く未知の細菌検査へ、当初苦労したが、1年もやっていると元へ戻れなくなっていた。そこで金沢大学医学部衛生学教室から赴任されていた三根先生の働きで、私が国立公衆衛生院の微生物コースを受講し、3ヵ月後に帰任した際、今後衛生研究所でもウイルス検査をしなければならなくなるということで、金沢大学微生物学教室へ三根先生と同道し、西田先生にお願いし、波田野先生の下で専修生として御指導頂くことになった。昭和37年4月のことである。当時の教室は重厚な木造2階建ての建物、1階が微生物学教室、2階が衛生学教室だったように記憶している。
当時衛生研究所は (旧) 石川県庁の裏手にあり、半日勤務の後、午後2時頃から7時頃まで教室にいた。当初波田野先生からは空気のような存在であれと言われ、当時助手だった森田さんの手伝いに徹した。彼は金沢泉丘高校の1年後輩で理学部出身、特にウイルス検査に必須のガラス器具の洗浄には特に慎重でなければならず、これには大変気を遣った。そして間もなく、波田野先生は2年間の米国留学に出かけられた。この間私は森田さんから、ウイルス検査の基礎となる組織培養やふ化鶏卵でのインフルエンザウイルスの増殖の手技を教わった。これはそれまで国立予防衛生研究所がやっていた冬季のインフルエンザ流行時の検査を、地方の衛生研究所でやらねばならなくなった時に大いに役立った。
ところで昭和39年4月、前年創設された癌研究施設にウイルス部門が追設されることになり、その部門の教授に留学から帰任された波田野先生が就任され、私も微生物学教室から癌研究施設に移ることになった。しかしまだ研究室はなく、以前の助教授研究室での研究は続いた。森田さんの指導のお陰である程度の技術はこなせるようになり、波田野先生からは帰任後に、先生が持ち帰られたインフルエンザ株の株間の差異を血清学的に解明するテーマを頂き、微生物学教室の一画で没頭した。しかし1年後にはプレハブの新しい施設が出来上がり、そこへ引っ越した。
当時の微生物学教室には何故か耳鼻科の先生方が多く、野球好きだった西田先生の下、1チームが作られていたようで、雨の日など、廊下では西田投手と森田捕手のコンビでの投球練習が見られたものだ。そして教室には、薬学部の1年後輩の山岸さんが、もう学部在籍の頃から微生物学教室に所属されていて、そんな縁もあって所属されていた他の専修生の方々とも顔見知りになった。貴重な経験だった。
その後癌研究施設の方は結核研究所と合併し、組織も新しく「がん研究所」となり、建物も医学部敷地に新設された。私も正式にテーマを与えられ、昭和49年には、波田野先生の主査、西田先生の副査で学位審査が行われ、翌昭和50年2月には学位が授与された。そして2年ばかりだったが微生物学教室に所属していたこともあり、西田先生の特別なお計らいで同門会の末席に名を連ねさせて頂くことになった。そしてその後2回ばかり同門会の幹事もさせていただいた。随分昔のことだ。
「注」上記の文章は、同門会誌の「楷樹2017〜金沢大学医学部微生物学教室同門会〜」への投稿原稿である。
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