2009年12月25日金曜日

「がん」に効果がある健康食品はあるのか

 済陽(わたよう)高穂医師が著した「今あるガンが消えていく食事」では、特別な食品を食した結果ではなく、要は新鮮な植物性食品(野菜・果物)の大量摂取、動物性食品・脂肪の制限、限りなく無塩に近い塩分制限によるものであった。これにはいわゆる「がん」に効くとかいわれる健康食品の類の摂取は全くなく、通常の食品の摂取による体質改善が根底にあるだけである。ところでこれを読んでいて、ひところ風靡した「がん」に効果のある健康食品、いわゆる「抗がんサプリ」はどうなっているのかが気になった。ここでいう健康食品とは何なのか、まず国立健康・栄養研究所のホームページを覗いてみると、「健康食品」とは、「国が制度化しているものではなく、また表示、許可、認証、届出といった規制もなく、ただ、「平成15年に新設された健康増進法の虚偽誇大表示の禁止規定のほか、食品衛生法での表示基準(保健機能食品と紛れるような名称、栄養成分の機能及び特定の保健の目的が期待される旨の表示の禁止)、薬事法、景品表示法に違反してはならない」とあった。健康食品は医薬品ではないので、医薬品のような疾病の治療・予防を目的とする表示や、身体の構造や機能に影響を及ぼすことを目的とする表示は医薬品的な効能効果とされ、表示することはできない。ただ国の制度の「保健機能食品」については、身体の構造や機能に影響を及ぼすことを目的とする表示を行って販売することができるとある。ここでいう「食品」とは、「医薬品及び医薬部外品以外の飲食物」とされている。
 ところで、アガリクス、メシマコブ、サメ軟骨、フコイダンといったいわゆる「抗がんサプリ」はその市場規模は1兆円を超すともいわれ、通販を軸として簡単に買い求めることができる。これらは俗に「抗がん効果がある」とか「免疫力を高める」とかいわれているが、国立健康・栄養研究所のホームページにある「素材情報データベース」をみると、現時点でのヒトでの有効性と安全性についての信頼できるデータの表示は出ていない。
 次にそのデータベースの記載項目を記す。 [1]名称 [2]概要 [3]制度・法規 [4]成分の特性・品質(主な成分の性質・分析法) [5]有効性(循環器・呼吸器、消化器・肝臓、糖尿病・内分泌、生殖・泌尿器、免疫・がん・炎症、骨・筋肉、発育・成長、肥満、その他) [6]参考情報(試験管内・動物他での評価) [7]安全性(危険な情報、禁忌対象者、医薬品等との相互作用、動物他での毒性試験、AHPA=米国ハーブ製品協会のクラス分類及び勧告) [8]総合評価(安全性、有効性、参考文献)。
 現在ここには358の個々の素材について、上述の項目すべてについての詳細なデータが示されていて、閲覧することができる。しかし「抗がんサプリメント」と称する素材で、試験管内(in vitro)や動物での実験(in vivo)で効果があっても、ヒトでの有効性が立証された素材は今のところない。一方で安全でないデータやかえって逆効果になる恐れのあるデータも記載されていて、それらの根拠となった文献もすべて網羅されている。
 週刊朝日の2005.9.16号に、「アガリクスやサメ軟骨にも危険性!? 抗がんサプリの『信頼度』と『逆効果』の徹底検証」という記事が載ったことがある。この中では主に漢方を用いた「がん」の代替療法を行っている福田一典医師(国立がんセンター研究所や岐阜大学医学部でがん予防の研究に携わっていた経歴をもつ)が、信頼できるヒトでのデータがないだけに、間違えるとかえって「逆効果」になると警鐘を鳴らしている。例を示そう。
 アガリクスやメシマコブといったキノコ類のがんに効く成分とされているのはβグルカンという物質で、培養細胞による実験では、がん細胞を攻撃するリンパ球を活性化することが確認されている。また、βグルカンが含まれる抽出物をネズミに注射すると、人工的に移植したがんが高い確率で消滅するという結果も出ている。これらのことから、アガリクスなどのキノコ類には免疫増強作用があり、これががんに効果があるとされる根拠になっている。しかしリンパ性白血病や悪性リンパ腫など、リンパ球ががん化する病気に用いると、がん細胞を活性化する可能性があること、また免疫力を増強すると、免疫細胞から分泌される物質によって、がんに伴う炎症が悪化したりすることも知られている。個々にこれらの関係を検証するのは難しいが、抗がんサプリを大量に摂取したために病状が悪化したとしか考えられない患者を何人も経験していると福田医師はいう。
 またビタミンCやコエンザイムQ10などの「抗酸化サプリ」は、がんの発生や悪化の原因となる活性酸素を除去するとされているが、抗がん剤や放射線治療中の使用には問題がある。というのは、ある種の抗がん剤や放射線は、正に活性酸素の力を利用してがん細胞を死滅させるため、抗酸化サプリを飲むと活性酸素を消去して治療効果を弱めてしまう可能性がある。
 このようにして、抗がんサプリには期待される?効果がある一方で、逆の効果もあるといった諸刃の剣の要素をもっている。でも藁をも縋る思いでこれらを用いた代替療法が行われていることは事実で、厚生労働省も漸く科学的な裏付けをとるために「臨床試験」を行い検証する必要があるとしている。この場合、信頼性の高いのは「ランダム化比較試験」という方法で、一定数以上の被験者を、本物を摂取するグループと、偽者(プラセボ)を摂取するグループとにランダムに分けて、両者の効果を比較するもので、このとき主観的な評価が入らないように、試験者も被験者も、誰が本物を摂取したかが判らないようにする「二重盲検(ダブルブラインド)」という手法を取り入れることで、試験の信頼性はさらに高まる。そしてこうした臨床試験を複数の施設で実施し、それらの結果を総合的に評価した後に科学的な判定がなされる。この方法は薬の効果判定には一般的に用いられる方法ではある。
 ところで、売らんがための広告では、〇〇でがんが治ったとか消えたとかいった個人の体験談が出てくるが、読者を引き込むにはこんな作文など朝飯前である。また、よしんば本当に平癒したとしても、サプリの効果なのか、治療していた抗がん剤や放射線の効果なのかは、判別し難い。いま巷間を賑わしているサプリの多くは、試験管内やマウスを使っての実験で効果があったというデータだけで、飛びついて市販され出したものが大半で、それをもってヒトにも効果があるとするのは早計である。この度ようやく国でも人を対象とした抗がん効果の真偽について検証しようと腰を上げたことは素晴らしいことだと思う。
 抗がんサプリの科学的根拠が証明されていない現在、医師が抗がんサプリを使ってがんの治療をすることはあり得ない。しかし、もう治療法がない患者をフォローする医師がいないのも事実である。とすると患者のとるべき道は、静かに待って死と対峙するか、効果は不明でも抗がんサプリを使うかであるが、がん患者の半数は後者の選択をするという。冒頭にあげた済陽高穂医師による食事療法や文中の福田一典医師による漢方による代替療法はこの方面での草分け的存在であるが、まだ広く敷衍しているわけではない。また日本で初めて補完医療学講座を開設した金沢大学大学院医学系研究科の鈴木信孝教授も、今は「もしかしたら効くかも知れないという精神的な支えとなるのも抗がんサプリの重要な要素」というにとどまり、何をもって代替療法とするかについては言及していない。これに呼応してか、抗がんサプリを10種均等に配合したミオス(MIOS:Multi In One Supplement)なる散剤製品がさくら新薬から発売されていることをネットで知った。10種の内訳は、アガリクス、メシマコブ、サメ軟骨、フコイダン、霊芝、アラビノキシラン、紫イペ、キチン・キトサン、冬虫夏草である。大部分は抗がんサプリとして名を聞いたことがあるものばかりで、個々の量を減らして副作用を減弱させる一方で、相乗効果を狙うといった魂胆が見え見えである。個々の材料の質を吟味すればするほど、価格に跳ね返り高価になる。価格は1週間分で約1万円、1年間では50万円だとのこと、こういう製品こそ「臨床試験」が待たれるのではないか。
 この続きには、個々の抗がん作用があるとされる健康食品について、国立健康・栄養研究所のホームページにある「素材情報データベース」のデータを紹介してみたい。

2009年12月16日水曜日

今あるガンが消えていく食事

 ある日銀行に勤めている次男坊から家内に表記の本が送られてきた。私も読ましてもらったが、先頃新聞等を賑わした〇〇キノコのような類のものではなく、信憑性の高い啓蒙書であるように思った。家内はその本を夫がガンの疑いがあるという友人に上げたようだった。本の副題は「進行ガンでも有効率66.3%の奇跡」とある。著者は済陽高穂(わたよう・たかほ)という千葉大学医学部卒業の消化器外科医で、先祖は明朝末期に中国から渡来し、九州・都城の島津氏に仕えた薬師だという。著者は外科医として30年間に執刀した手術は約4000例、でも手術は成功したにもかかわらず、5年生存率が52%だったことに愕然としたという。ところがガンが進行していたりして十分な手術ができず、ガンを取り残したまま自宅療養になった患者のなかに、少数ながら定期検査のたびに検査結果がよくなる特殊な例があることに気付いたという。このような人達に共通していたのは、「徹底した食事療法」で、よく観察すると、野菜を中心とした植物性食品の摂取、動物性食品・脂肪摂取の忌避、それと塩分の制限に行き当たったという。著者がこの事象に遭遇したのはかれこれ14年前のこと、以後このことに傾倒していくようになる。
 このようなガンと食事の関係に最初に着目したのはマックス・ゲルソンというドイツ人でおよそ100年前のこと、日本には自身も大腸ガンだったという星野仁彦医師が日本人向けに改良した「星野式ゲルソン療法」を紹介しているし、また西式健康法に甲田光雄医師が改良を加えた「西式甲田療法」もガンの食事療法として用いられているようだ。著者は内外の文献を読みあさる一方でこの分野の先達とも接し、自分なりに納得できる理論に裏づけされた「ガンに効果的な食事指針」をまとめて食事指導を始めたところ、中には進行ガンだったにもかかわらずガンを制御できた例も出てきて、これには驚いたという。10年間に晩期ガンを含む進行ガン110例に適用しての成績は、完全治癒13、改善58、不変2、死亡34で、有効率は66.3%だった。これが副題にも使われている成果である。このことは体質改善がなされた結果の賜物であって、ガンとはいわず生活習慣病や難病やアレルギー疾患の人達にも適用できることも分かり、著者は最近では認知症の方にも勧めて確かな手応えを感じ始めているという。もちろん自身も実践されていることはいうまでもない。
 しかし考えてみれば、私達の体は口から入る食物で形づくられているわけで、正常な細胞も異常な細胞も同様である。すると食事が如何に大切であるかということに帰着する。以下に済陽式のガンの食事療法の要点と科学的裏付けについて記すが、ここでは細かいカロリー計算や何を何グラムとかいう面倒なことは一切なく、またガンに特効のあるようなものの使用もなく、実行しようと思えばすぐにも実行できるものばかりであるが、ただ心の構えは必要なようだ。以下に私の注解も混ぜながら紹介する。
(1)限りなく無塩に近い食生活
 食塩を構成しているNaは生体にとっては必須のイオンである。ところで、生体を構成する細胞の内液と外液とではNaイオンとKイオンの量が異なり、内液ではKイオンが多く、外液はNaイオンが多い。ただ双方の間では微妙なバランスが保たれている。しかしNaイオンが過剰に多くなると、このバランスが壊され、結果的には塩分過多となり、細胞のガン化を促すことになる。日本では外国に比べ胃ガンが多かったのはこのことによる。ただ近年食生活の改善で減塩がすすみ、日本での胃ガンの発生は少なくなった。ところで特に調味料として食塩摂取をしなくても、口にする食品に含まれる食塩量でもどうも充分らしい。どうしてもというときは、減塩した調味料を少し使うか、酢や旨み成分、香辛料、香味野菜などを活用すればよいという。また塩分を含んだ加工品は極力避けるようにする。
(2)動物性タンパク質・脂肪の制限
 ここでいう動物とは四足歩行の動物のことで、ガンの食事療法目的の場合は少なくとも半年間は牛肉や豚肉の摂取はしないことが肝要であると。これらはガンの悪化を助長するという。米国では大腸ガンの発生率が高いが、日本でも食事の欧米化とともに大腸ガンが急増していることは周知の事実である。そこで食してよいのは、鶏肉では脂身のない部分、魚では白身魚(カレイ、ヒラメ、タラ、サケなど)や、EPAやDHAを多く含む青背魚(イワシ、アジ、サンマ、サバなど)、ほかにはイカ、タコ、エビ、カニなども対象となる。でも対象となるのは生であって、塩蔵品や干物は避けるようにする。また魚介類の内臓はタウリンやいろんな酵素・代謝産物あり体によいとあるが、できれば丸ごと、あるいは内臓も食したほうがよいということなのだろうか。ただ魚肉でもHbやMbが多い赤身は避けるようにする。また鶏卵は栄養バランスのとれた健康食品だが、できれば放し飼いの品質の良いものを1日1個食するとよいという。
(3)新鮮な野菜と果物の大量摂取
 Naを控え、Kの摂取を心がけるには、Kを多く含む新鮮な野菜や果物を多く食するとよいという。また野菜や果物にはポリフェノールやその一種のフラボノイド、カロチノイド、クロロフィル、VC、葉酸、硫黄化合物といった抗酸化物が豊富に含まれていて、活性酸素を除去する働きを担っている。これらはファイトケミカルとも呼ばれていて、消化力や免疫力を高める働きもある。ただこの中には熱で効果が失われるものがあり、できれば生で摂取する。これらを大量に摂取するのがガンの食事療法の要で、それにはジュースにして1日1.5~2Lを飲用するとよい。そしてジュースは作り置きしないで絞りたてを飲むようにする。材料は野菜(葉菜、果菜、花菜、根菜など)や果物で、生で食してもよいが、すべて生というと量的に限度があるので、ミキサーでなくジューサー(スクイーズタイプのもの)を用いるとよい。これらの中で特に抗酸化物質やビタミンが多い青菜や人参はお勧めである。またレモンはクエン酸を多く含み、ガンの食事療法では特に大切な食材で、1日2個を目安とする。
(4)胚芽成分及び豆類の摂取
 主食は玄米や全粒粉パンにする。胚芽成分には植物が発芽して発育するのに必要な栄養素や酵素が豊富に含まれていて、それはVB群、VE、抗酸化物や食物繊維などである。またイモ類も食物繊維が豊富である。また豆類(大豆、大豆製品)には植物性タンパクのほか、抗酸化物でもあるイソフラボン(植物性エストロゲンといわれる)が含まれ、ホルモン依存性のガン(乳ガンや前立腺ガンなど)と競合することが知られている。
(5)乳酸菌、キノコ、海藻ー天然の免疫賦活剤ーの摂取
 腸内にいる悪玉菌の出す毒性物質は体調不良や病気を引き起こす一方でガンの発生にも関与している。ところが善玉菌である乳酸菌(乳酸を出す菌の総称)が多く繁殖して優勢になると、腸内は酸性に保たれるようになり、悪玉菌の繁殖や活動が抑えられる。そしてインターフェロンやNK細胞を活性化する。成人では腸内での乳酸菌は少数派なので、ヨーグルトなどの乳酸菌製品を補給して対応する必要がある。このように腸内細菌叢のバランスを改善することにより、宿主に有益な働きをする微生物をプロバイオティックスといっている。そしてガンの食事療法目的にはヨーグルトを1日400~500g、最低でも300g摂取する必要がある。一方、食物繊維や大豆、蜂蜜、玉ねぎに多く含まれるオリゴ糖などの難消化性の食物成分は、腸内での乳酸菌の代謝活動や増殖の促進に関与していて、プレバイオティックスと呼ばれている。またキノコに含まれるβグルカンや海藻に含まれるフコイダンは免疫賦活物質で、免疫力を高め、インターロイキンなどの産生を高める。
(6)ハチミツ、レモン、ビール酵母の摂取
 ハチミツにはビタミン、ミネラル、オリゴ糖、花粉が含まれ、免疫賦活化を促すので、1日に大匙2杯程度摂取するようにする。ジュースに混ぜたり、砂糖代わりに調理に使うとよい。レモンにはVC、クエン酸、ポリフェノール、カリウムを含むので1日2個、ジュースやスライスして食べる。ビール酵母(エビオス錠)はアミノ酸のバランスがよく、朝晩10錠ずつ、1日20錠飲む。
(7)オリーブ油・ゴマ油の活用ー脂肪酸のバランスをとるー
 動物性脂肪は飽和脂肪酸で常温では固形である。それに対し植物性脂肪や魚油は不飽和脂肪酸で常温では液体である。食事療法に必要なのは後者である。後者はさらに1価不飽和脂肪酸(オリーブ油、ゴマ油、ナタネ油、ベニバナ油など)、n-3系多価不飽和脂肪酸(シソ油、エゴマ油、アマニ油など)、n-6系多価不飽和脂肪酸(コーン油、綿実油、大豆油、旧タイプのサフラワー油など)に分けられるが、このうちリノール酸系といわれるn-6系は食生活での摂取が最も多く、多く取り過ぎると弊害があり、生活習慣病を助長したりする。そこで1価やn-3系を多く取るようにしてバランスをとるようにする。食事療法にはシソ油、エゴマ油、アマニ油が推奨される。ただこれらは加熱すると酸化されるので、加熱調理には酸化されにくいオリーブ油やゴマ油が推奨される。このほかトランス脂肪酸といって、液状の不飽和脂肪酸を固めるために水素を添加して飽和脂肪酸にしたものがあり、マーガリン、ショートニング、スナック菓子、フライドポテト、プロセスチーズなどに多く含まれている。これはLDLコレステロールを増やして動脈硬化の危険を高めるとともに、マクロファージの活性を弱め免疫機能を低下させるので、食事療法では避けるようにする。チーズを食べるならナテュラルチーズにする。
(8)自然水の摂取と断酒と禁煙
 成人の体内では1日に2Lの水が使われ、入れ替わっている。水は塩素やフッ素が含まれる水道水ではなく、自然水を飲む。またお酒は病状が回復するまでは飲まない。アルコールの介在で、有害物質や発ガン物質の吸収が高まるし、食道ガンと咽頭ガンとには因果関係があるといわれる。よくなれば、週に一度は適量の飲酒なら可である。禁煙は当然。

 現在ガンに対する治療は、手術療法、薬物(抗ガン剤)療法、放射線療法という三大療法が主流である。ところがこのような治療を行っているにもかかわらず、平均した5年生存率は5割台と高くない。もっともこの中には病巣が広がっていて上記療法さえも行い得ない例もあるだろうし、一方、抗ガン治療による極度な体力の減弱から感染症を併発して死亡する例もあろう。著者はこのような患者に対し、栄養・代謝を整える食事療法を行うことにより、患者の免疫力を高め、回復力を増し、一方で体質改善をすることにより患者自身が持つ自然治癒力を引き出し、究極的にはガンも排除できればと願ってこの療法を編み出した。ただ食事療法というのは、飲食できる状態の人でないと適用できないのは当然で、体力が極端に落ちた状態では適用は困難である。この食事療法をガンの予防目的で日常生活に採り入れることは不可能ではないが、現実的ではないような気がする。ただ主旨をよく理解して一部を採り入れることは十分可能だと思うし、応用もできよう。因みにこの食事療法での代謝量をみると、大体1500~1600kcal/日と低めである。

2009年11月30日月曜日

『ダブル・ファンタジー』がトリプル受賞

 村山由佳の小説『ダブル・ファンタジー』が、第4回中央公論文藝賞、第22回柴田錬三郎賞、第16回島清恋愛文学賞と三つの賞を貰ったとのこと、オメデトウと言いたい気もしないではないが、あの内容でという思いもある。週刊朝日で作家林真理子が聞き手となって対談する「マリコのゲストコレクション」は12月4日号で494回目、もう9年半も続いている人気の対談だが、それに村山由佳が登場したのは今年の4月17日号、林さんにしてこれほど見事に「化けた」女性作家を目の当たりにするのは初めてと言わしめている。私はこの作家を全く知らなかったし、大体そういう何とか賞受賞の文学作品を読むということとは全く縁がない部類の人種であるからして、この対談も特別な関心もなく読み始めた。ところで対談での彼女の紹介によると、1993年に「天使の卵 エンジェルス・エッグ」で第6回小説すばる新人賞を、10年後の2003年には「星々の舟」で第129回直木賞を受賞、そして最新刊の「ダブル・ファンタジー」は濃密な性愛描写で作家としての新境地を開いたとあった。林真理子は、「夫と一緒に農業をやっている脚本家の女性・奈津が、こんな生活でいいのかと日常に倦んでいたところ、ある男性の導きで官能の世界に引きずり込まれ、体の求めるままに男性遍歴を重ねる・・・・」という小説で、面白くて一気読みしちゃいましたと、また清純派からの大化けだとも。私自身こんなことを書いてあっても大概は歯牙にもかけないのに、林真理子の呪縛にかかって、この長編のポルノまがいの小説に魅せられて読む破目に。
 彼女は1964年生まれ、立教大学卒業、厳しい母親に躾けられ、自身の発言でも、性欲そのものを認めるのもよくないという環境で育ったこともあり、性的なことに関しては罪悪だという感覚の持ち主だったという。結婚した相手は千葉の鴨川で農業をしていた男性、その夫は彼女が文筆活動をするにあたっての有能なマネージャーでもあって、彼女が書いた作品は書きかけであっても読んで批評もし、方向づけまでもするという御仁、その支配に対して「いやだ」とか「ちがう」とかも言えずに隷従してきたという。でもそういう環境で書かれた作品が直木賞まで取ったのだから夫の影響も馬鹿にならないことは確かだ。これまでの彼女の作品には、おっとりとした、自然が好きな、うぶでおぼこい、夫一途な、しかも自身は性欲はタブーという性格も相まって、いわゆるさわやかで明るい清純派ともいうべき作風があったという。また彼女は、夫婦の性生活は夫からの一方通行で、性の喜びなどなかったと言っているし、とはいっても浮気することもなく過ごしてきたと述懐している。
 ところが、小説ではそこに年長の大物演出家が登場し、メールのやりとりから性に火を付けられ、性に目覚めるが、しかしその後飽きられて捨てられ、それから性の遍歴をすることに。それまでの彼女は文章に「乳首」って書くのも恥ずかしくて書けなかったそうだが、以後は変身して体のどの部位も、顔とか手とかを描写するのと全く同じように書こうと思うようになったと。そうなってからは夫との間に乖離が生じ、夫とは情として断ち切れないものはあったけれども、17年間の夫婦生活に別れを告げ、東京へ出ることにしたと。そしてこれまでの財産は元夫に残したとも。そして東京の現実の生活では10歳年下の若い男性と同棲し、したいときにすぐできる態勢を確保して好きな小説を書けるなんて最高の環境と嘯いているという。読むとあの小説は実生活そのものだと確信する。それを感じたのは性交の描写があるエロちっくな部分で、特に性交での受身側である女性の快楽の表現は、男性のポルノ作家にはない微妙で新鮮な驚きがあったことは確かで、これは女性にしか書けないものなのではと思った。性の快楽を初めて書いたということは、実体験なしの想像では書けない。彼女自身、発刊後の女性誌のインタビューで、私は生命力が強いので、性欲もものすごく強いんですと言いのけている。母と前夫の呪縛というか、抑圧という重しが一挙に外れてしまって出来上がったのがこの作品だ。あるパーティーで渡辺淳一と出会い本の感想を訊いたところ、「まだ読んでないけど今までにないものを書いたそうじゃないか」と言われ、「実は私一人になったので」と夫の束縛から離れたことを話し、彼に「その自由は君の財産だ」と言わしめている。
 渡辺淳一があのリアルで緻密な性交描写に感心して選考したと考えたくはないが、もしあの小説からあの性描写を外したら、恐らくは全くの駄作だとしか言いようがないと思う。だから私は、色白で、ぽっちゃりした、小太りで、色っぽく、可愛い直木賞作家が、実体験に基づいて描いた性交描写が実にリアルで素晴らしかったということで過大に評価されて受賞した小説にほかならないと思う。聞けば受けた三賞すべてに、渡辺淳一が選考委員にたずさわっていたということだが、それを気にしている方もいよう。

2009年11月26日木曜日

『剱岳 撮影の記』 を観て

 11月18日の前田さんのブログに「剱岳 撮影の記」が載っていた。富山市在住のS君からの情報とある。私もヤマケイ・ジャーナルで11月上旬に東京、大阪、富山の3カ所で限定公開予定という情報は得ていたが、先ず「点の記」の二番煎じと思っていたから、富山くんだりまで出かけるなど全く下らんと思っていた。ところで公開は11月14日。ところが前田さんのブログで、石川でも公開されていることを知った。上映場所はイーオンかほくに隣接するシネマサンシャインかほく、「点の記」ではそこここで上映されていたのに、マイナーな作品ともなればこうなるのか。でも近くで観られるとなれば観ないという手はあるまい。ブログの最後には、「『剱岳 点の記』を観た方には必見の作品だが、この来場者数(312席あるのに5人だけ)を考えたら、長く上映されることはないだろうから、早く行かれたほうがいいと思う」とあった。
 「剱岳 点の記」は公開後14週で観客動員数が230万人、興行収入も25億円を超える大ヒットとなった。でこのドキュメンタリー映画は、親映画のクランクイン前から監督木村大作にも密着取材し、かつ200日を超える山岳ロケにもメイキングとして同行して撮影したもので、題名は『剱岳 撮影の記ー標高3000メートル、激闘の873日ー』である。この映画のディレクターは、自身で撮影もし編集も担当した大澤嘉工氏である。「剱岳 撮影の記」の上映時間は1時間53分、ちなみに「点の記」は2時間19分だった。
 映画はキャストとスタッフが全員集まった会の場面から始まる。木村監督は「この映画は制作に2年、ロケでは山で200日を予定しているが、機材はすべて自分で持ち、自分の荷物は自分で持つように。また山小屋では原則として雑魚寝、テントに泊まることもある。この撮影はありきたりな撮影とは違い、お釈迦様の教えにある『苦行』と思え」とはっぱをかけて言った。そしてインタビューでは、「最後まで撮り切ることが出来れば、絶対に凄い映画になるが、撮り切ることが出来るかどうかは全く分からない」とも。また「もし事故が起きた場合には、その時点で制作を中止する」とも。大澤氏のインタビューは、木村監督のみならずキャストやスタッフにも及び、映画では随所に挿入しているが、映画としてはそれがその分やや冗長になった感がする。山へ向かうにあたって、スタッフ一同を対象としたテントの設営訓練の様子が映し出されていたが、テントは最新のものから昔々の重い防水テントまで、いろいろ出てきていて感慨深かった。またガイドからの最も大事な安全確保の指導シーンも出てきた。
 主な撮影の拠点は天狗平山荘と剱澤小屋。小屋での宿泊、休憩、食事、宴会、会話、娯楽、寛ぎのシーンも随所に出てきて、これらはロケ場面ではないが、撮影隊の日常を垣間見ることができて興味深かった。2007年6月下旬~7月上旬の実景ロケは天狗平から五色ヶ原へのロケで始まる。旧道経由での30kgもの荷物を担いでの行軍は私も昔を思い出した。そして最初の試練は、五色ヶ原への行軍、生憎の雨の中、初日は12時間かけて、二度目は3日後にまた同じコースを辿るが、この日も非情の雨、もくもくと歩いて天狗平山荘へ戻るスタッフ。でもスタッフは五色ヶ原への二度の往復で、歩くことに自信が持てたと。そして明日は帰郷という日になって皮肉にも天気は晴れ、監督は急遽雄山での撮影を思い立つ。午前は雄山谷での過酷なロケ、でも午後には雄山頂上で神主から長期撮影の無事を祈願し、お祓いをしてもらうという僥倖にもありつけた。くっきりとした富士山が印象的だった。監督とスタッフは一旦帰京後再び7月下旬に入山し、剱沢を拠点に長次郎谷から剱岳に登り、頂上からは別山尾根を経由して剱沢へ、この間もしっかりロケハンした。
 キャストが加わってのロケは9月と10月に。芦くら寺、弥陀ヶ原、天狗山、天狗平のテント場、室堂乗越、別山、剱沢でロケする。中でも圧巻なのは、監督の特別な思い入れでの池ノ平への片道9時間の往復、でも映画で使われたのはたったの1カットだけだったというから驚きだ。そして別山尾根の剱岳南壁、さすが此処は凄い迫力だ。撮影隊も命懸けだ。また剱沢では暴風雨になるのを待っての下山シーン、これも半端じゃない。そして雨は新雪になった。
 翌2008年、3月には明治村でのロケ、宮崎あおいの撮影で、NHKよりきれいに撮れとハッパをかける監督。そして6月には再び山へ、しかしここで事故が起きた。平蔵のコル上部の尾根で、落石はなく安全と思われたハイマツが密生する尾根で、スタッフの一人が落石を頭部に受け、ヘリで病院へ搬送された。事故があれば中止という方針だったが、全員の希望もさることながら、息子さんから「撮影は最後まで続けて下さい。父もそれを望んでいます」と言われ、一旦は帰京するが、10日後には全員が再び現場に戻った。長次郎のセリフに「山に危険はつきものです。無理をしても行きましょう」とあるのは、この事故に鑑みて木村監督が入れたものだという。
 7月になりいよいよ剱岳登頂と物語の登頂コースとなった長次郎谷の撮影に入る。機材・食料を長次郎谷の熊ノ岩にデポする。7月12日は深い霧、でも13日は晴れ、朝3時半に3班に分かれて剱沢を出発、5時間かけて頂上へ、着いた時には晴れていたのに、間もなくガスで真っ白、頂上直下で一般の登山者がさっきまでは晴れていましたがというシーンも、でも下は晴れていて、頂上のみが雲の中。この日は明治40年に測量隊が登頂した日から数えて丁度101年目の日、しかも木村監督の69歳の誕生日、頂上では期せずしてハッピーバースデイの祝福コール。でも4時間待っても晴れず、この日は無念の下山、フイルムは全く回らなかった。翌14日は雨、15日は曇り、でも16日は晴れの徴候が出て何シーンかを撮影し、件の付け加えられたセリフも長次郎が口にし、いよいよ明日は決戦と闘志を燃やす。
 翌7月17日、キャスト9人、スタッフ17人、ガイド10人からなる撮影隊が5班に分かれて順次剱沢を出発、時に朝3時。4日前に通った径をひたすら登る。どの班も3時間台での登頂、3時間を切って登った班も出る始末、気合が入っている。この日は正真正銘の快晴、二度とない好条件とて撮りまくる。お陰でフイルムが足りなくなり下から取り寄せるハプニングも。頂上でのシーンはもちろんのこと、長次郎のコルまで下りての剱岳初登頂直前のシーンも。これで剱岳頂上での撮影は感激のうちにすべて終った。この日も秀麗な富士が遠望できた。午後3時過ぎ、雷注意報が発令と聞き、別山尾根を避けて平蔵谷を下り、登り返して剱沢へ、長い1日が終った。
 あとは長次郎谷登行シーンの撮影、撮影隊は源次郎尾根と八ツ峰に撮影場所を確保しての困難な撮影、ガイドの協力なしではとても実行できなかったろう。また熊ノ岩周辺では雪渓の斜度が急で、これも滑落の危険が伴う撮影とて緊張の連続、とても素人集団では出来ない相談だった。そしてこの山での撮影行の集大成ともいうべき撮影は、映画のラストシーンにも出てきた別山での撮影。この日の撮影は一切テストなしの一発勝負と宣言していた監督、期待に応えて盛り上がった雰囲気ですべてOKの出来、これで山での撮影はすべて終った。そして監督はじめ何人かが胴上げされ宙に舞った。
 天候に翻弄されたロケも、山の人たちの協力で、7月末にはクランクアップした。「点の記」のエンドロールには、監督はじめ、この作品に携わった総ての人々の名前と関係団体・施設の名称が、「仲間たち」として同列に表示されていたが、これは監督の協力者に対する餞だったのだろう。
 [映画を観ての後日談]:映画のなかで木村監督が何か気まずい雰囲気をほぐそうとして、今まで決して喋らないでおこうと思ったことがあると。実は剱岳頂上から早月尾根を下っているとき(いつなのか、どこまで下ったのかわからない)、先の二人が目障りなので先へ進ませ、危ないところがあったらそこで待つように言って下っていたとき、何か根か枝につまずいて、転んだが、とっさに体を反転させて命拾いをしたと。、それをジェスチュアたっぷりにするものだから、その場の緊張は一編に吹き飛んでしまった。右は切れ落ちた谷、もし落ちていたら仏様になっていたろうと。カメラをまわしていた大澤氏にはこのシーンを撮るなと言い、もし撮ってもボツにするからと言っていたが、何故か残って我々は目にすることができた。

2009年11月13日金曜日

高齢運転者のための「高齢者講習」

 私の運転免許証の有効期間は誕生日より1ヵ月長い平成22年3月11日までである。誕生日は昭和12年2月11日、更新時の誕生日には70歳以上になるので、新しく平成21年6月から適用になった「高齢者講習」を受講して「講習終了証明書」を免許証更新時に持参しないと更新できなくなった。先ず県の公安委員会から親展で「高齢者講習通知書」が届く。これには「この講習は、運転免許センターでは実施していません」と朱書きしてあり、さらに「この講習を受講されていない方は、免許証の更新が出来ませんので、免許証の更新を予定されている方は、更新手続きの前に必ず受講して下さい」と続く。受講できる期間は、更新日の前5ヵ月からと後1ヵ月までの半年間で、通知書に明記してある。受講場所は自動車学校、県内にある14のどこかへ予約して受講するようにと。私には9月4日付けで届き、期間は平成21年9月11日から平成22年3月11日までとあった。
 そこで私は免許講習を受けた自動車学校に予約を申し込んだところ、10月までは予約で一杯で、今のところ11月なら予約可能ですとのこと、ならばと11月4日(水)にした。必要なものは、運転免許証、高齢者講習通知書、手数料と筆記用具とある。手数料は通常の高齢者講習ならば5,800円、ただし運転技術に自信がある方はチャレンジ講習を受けることが可能で、これだと2,650円で、合格すれば更に簡易特定任意高齢者講習を受講する。この手数料は1,500円、締めて4,150円で1,650円の割り得となる。しかしチャレンジしても基準点数に達しないと、もう一度チャレンジ講習を受けねばならず、1回でパスしないとうまみはない。
 講習の当日、私は通常の「高齢者講習」を受講した。1クラスの人数は12人、開始10分前までに集合、内容は講義と運転適性診断と技能講習である。講習時間は正味3時間、休憩もあるので、実際は3時間半程度である。講義の中で、高齢者の運転事故が多いことから、その対策として教育を兼ねた講習を義務付けるための法改正があり、これに対応するには運転免許センターでは物理的に受け入れ困難で、民間の自動車学校で対応することになったとのことだった。因みに石川県の場合、免許証保有者約76万人のうち、70歳以上は8.4%、6万4千人いる。また75歳以上になると予備検査が義務付けされ、①今の年月日・曜日・時刻を言わせる、②果物や動物の絵を記憶させ答えさせる、③言われた時刻の時計の絵を書かせる、検査をするという。私も次回から該当することになるが、講師では①を聞いただけでほぼ見当がつくとのことだった。
 講義の後、4人1組で視力検査(静止視力、夜間視力、動体視力、視野)、3人1組での運転適性検査、3人1組での実車運転がある。この自動車学校では、この講習での検査に必要な自動測定装置を購入して対応していると話していた。講習には講師1人にアシスタントが7人付いての対応である。
 視力検査で、静止視力は右・左とも0.3以上、両眼で0.7以上が必要だが、これは裸眼でクリア。夜間視力での視認時間は40秒、減衰していないという20秒(A)には及ばずBランクの21秒~60秒以内に該当し、減衰していると指摘された。なお61秒以上はCとなる。動体視力は3回の平均が0.3、静止視力から平均動体視力を引いた数値0.4が私の値で、これは0.4以下のAであった。なおBは0.5~0.6、Cは0.7以上である。視野検査は右目が右方71度左方56度の計127度、左目は右方53度左方75度の計128度で、Bの100~149度、視野の範囲が狭くなっているので、左右に顔を動かして周囲を広く見て下さいとの指摘を受けた。因みにAは150度以上、Cは100度以下である。この検査で私は眼鏡をかけて測定したが、眼鏡枠のところで一瞬白球が見えなくなるのでボタンを押したが、この検査では眼鏡をかけずに受検した方がよい。
 次に高齢者用の運転適性検査、先ず運転に必要な基本的反射動作能力(単純反応)検査をする。前面にモニターが出る模擬車に座り、レバーを発進にし、アクセルを踏むと画面が前へ進む。画面の上半分は暗く、そこに突然青、黄、赤のシグナルが現れる。青ではそのままアクセルを踏み続け、黄ではアクセルから足を離し、赤ではブレーキに踏みかえるという動作をするというもので、結果は自動記録される。私が始めよく間違ったのは、青が点くと一瞬黄の時のように足が離れてしまうことで、これは後半には慣れてきた。したがって反応のバラツキを指摘された。また平均反応時間は0.33秒で、30~50代の平均0.31秒より0.02秒の遅れだった。時間は3分間である。
 次に状況の変化に対する反応の速さと正確さ(選択反応)検査で、走行画面には右左に障害物が現れるが、運転は自動的にこれら障害物を避けて運転してくれる。前半はゆっくりと、後半はやや早めとなるが、運転者は信号の点滅にのみ対応すればよいというシステムである。反応の速さ、正確さ、むらが判定される。反応時間はアクセルを離すまでの時間(秒)とブレーキを踏むまでの時間(秒)とが記録される。赤の点灯は20回、青も黄も同数である。結果は、信号の見落としや誤反応はなく、アクセルを離すまでの時間は0.42(0.49)秒、ブレーキを踏むまでの時間は0.53(0.72)秒で、5段階評価では4(4)であった。ここでの( )内数字は30~50代の平均値である。なお反応の正確さは3(2)、反応のむらは4(3)だった。コメントは、①前方の障害物に気が付き、ブレーキを踏むまでの時間はほぼ安定しています。反応時間の遅れは前方をよく見ていても、脇見をしていなくとも発生します。②あなたの状況判断、操作は平均的(普通)と考えられます。ただし、急いでいると間違った操作になる恐れがありますので、注意して下さい。
 次に注意力とその持続性・ハンドル操作の巧みさ(ハンドル検査)と複数の作業を同時に行う能力(注意配分・複数作業)検査を行う。モニター画面は前の検査と似ているが、今度のは障害物を自らの運転で回避し、かつ信号に対応しなければならない。障害物は3分30秒の間にランダムに右左に現れ、左右同数で90個ばかりだろうか、ハンドル操作では、避けられなかった数がエラー数として右左別々に70秒ごとにカウントされ表示される。また信号の点滅は45回あり、アクセルを離すまでの時間(秒)とブレーキを踏むまでの時間(秒)が計測される。ハンドル操作でのミスは、前半70秒では左10回右5回の15回、中盤70秒では左11回右7回の18回、後半70秒では左5回右4回の9回で、左右の注意配分に差が出た。ただ後半では操作が上手くなり、練習効果率は40%上昇した。アクセルを離すまでの時間は0.57(0.57)秒、ブレーキを踏むまでの時間は0.72(0.80)だった。評価は、反応の正確さは3(3)、反応の速さは4(3)、反応のむらは4(3)、ハンドル操作は3(1)だった。コメントは、①運転中周辺に対する注意力は、さほど問題ありません。ただし、人間は急いだり考え事をしていると、周辺の危険物に気が付くのが遅れることがあります。②あなたの判断・操作は、運転を急ぐと確実性に欠ける場合が考えられます。いつどんな時も急がず、確実に一時停止や安全運転を励行して下さい。
 以上の運転適性検査の総合的な評価は4(3)クラス、総合コメントは次のようであった。「あなたの本検査による機能は、全般的にやや優れています。また非高齢者と比較しても、平均的(普通)です。しかし状況判断機能がやや低下しています。交差点では確実に安全運転をしてから運転操作に移る習慣をつけて下さい。また、交通状況に対応する運転操作が間に合わないことがあります。ひとつの事のみに集中せず、広く視野をとって確実な運転をして下さい」。
 最後にAT車による実車運転、車には3人ずつ分乗する。後部座席もシートベルトを着用する。始めに講師による模範運転、コースは暗記する必要はなく、実運転では指示をするとのことだった。内容は周回からの車線変更、指定車庫への入庫、止まれ標識での停車と左右確認後の発進、停車線で止まっても左右の安全確認ができない交差点での少しずつ前へ出ての確認後の発進、指定のS字カーブの通行、信号のある交差点の通行等で、クランク通行、縦列駐車、坂道発進、踏み切り一時停止等はなかった。講師は助手席で運転者のチェックをしていたが、その評価は知らされていない。でもペーパードライバーだとかなりハードルが高いかも知れない。これで講習はすべて終了した。
 修了後、教室で「講習終了証明書」が渡された。書面には、「上記の者は、平成21年11月4日、道路交通法第108条の2第1項第12号に掲げる講習(認知機能検査の結果に基づいて行う講習以外の講習)を終了した者であることを証明する。 平成21年11月4日 石川県公安委員会」とあった。
 この日は晴れていて、雪をまとった白山がきれいだった。   

2009年11月10日火曜日

第3回金沢大学ホームカミングデイ

 平成19年(2007)11月3日に第1回の金沢大学ホームカミングデイが開催され、金沢大学の第1回から第10回の卒業生を対象に、新しく整備された角間キャンパスの披露も兼ねての招きがあった。あの時は薬学部の卒業生も20数名見えていたし、同期生も4人ばかり顔を見せた。ただ翌年春に金沢で同窓会を企画していたこともあって、新しい薬学系の教棟の紹介はその時にと計画していたものだから、遠くの人の参加はなかった。
 この年、金沢大学は大きく変貌しようとしていた。というのは、従来の8学部25学科から3学域16学類に変容することになったからである。私達が卒業した薬学部という学部は消滅し、名称も医薬保健学域の薬学類と創薬科学類になることに。当時の林勇二郎学長はこれからの金沢大学のあり方について熱っぽく語られ、ハード面での整備は目処がついたので、これからはソフト面の充実が急務であると話されたのが印象的だった。その後は新しい選出方法で就任された中村信一学長がこれからの舵取りをすることになり、組織も独立行政法人ということもあって、随分斬新なものになった。中村学長は医学部微生物学教室の出身、私も当初は席を置いていたこともあり、同門会ではよく顔を合わす間柄である。また理事(病院担当)副学長には医学部耳鼻咽喉科の古川刃教授が就任されたが、彼は私も師事していたがん研究所ウイルス部門の波田野教授のもとで一緒に研鑽を積んでいた間柄である。また学長特別補佐に就任した辻彰前薬学部長も薬学同窓会会長をしておいでて旧知である。ただ皆さんは私より6~7年はお若い。
 今年は第3回目で、10月31日(土)の開催、卒後50年、45年、40年、30年、20年、10年の方と75歳以上の方達が対象で、該当者は7千8百名強とのこと、事務処理だけでも大変である。7月始めに卒後50年ということで案内があり、参加することにしたが、第1回の時もそうだったが、旧城内キャンパスに比べ角間キャンパスは何と不便で遠いことかとの感想が多かった。今年は正午開会の前の1時間を軽食交流会として歓談できるようにし、しかも家族同伴での参加も歓迎ということでの案内で、参加者の増が図られた。確かに親が学んだ大学を見せ、将来は子供らにも学ばせようとする意図の卒業生もおいでた。そういう方に配慮したのか、セレモニーは2時間で切り上げ、バスで角間、小立野(旧工学部)、宝町(医学部、病院、がん研、旧薬学部)キャンパスを回り、旧城内キャンパスの金沢城公園を散策し、資料館で「よみがえる城内キャンパス」という写真展を見ていただく趣向になっていた。
 交流会で古川副学長にお聞きすると、参加者は案内した該当者の3%弱、そして半数は70歳以上、そして7割は北陸在住、残りは在関東、在中京、在関西の方で、その比は面白いことに4:2:1だったとのことだった。彼にもう一つ聞いたのは「金沢大学基金」のこと、薬学の同窓会でも協力の話は余り出てこないからだ。東大では基金設立後あっという間に20億円とか50億円という金が集まったとのこと、それに比べ金大は過去60年に7万5千人強の卒業生を輩出しているにもかかわらず、まだ1億円程度だと、大学では5年間で10億円をもくろんでいるようだが、もっと加速しなければ。寄付金控除対象になることも浸透していないようだ。
 開会に先立って大学歌(校歌)の斉唱があったが、石川県民の歌もそうだが、知らない人の何と多いことか。中村学長の歓迎の挨拶の後、同窓会連絡協議会会長の挨拶、在学生の学長表彰、金沢大学創基150年記念事業シンボルマークの発表と続き、次に「すべてはお客様のために」と題しての記念講演、講師は工学部昭和49年卒の塚本外茂久氏、地元の加賀電子株式会社(東証1部上場)の社長である。本業は電子部品の製造・販売なのだが、面倒見がよく、お客からのどんな相談にも乗るという手法は下の従業員にまで浸透しており、例えば本業外のゴルフのクラブヘッドの扱いでは業界一だとか、これもお客様からの相談に手を差し伸べたということがきっかけだとか。まさにお助け親父である。洒脱でひょうきんな話は共感を呼んだ。原稿なしなので、時間きっかり、これも好感が持てた。締めは古川副学長の閉会の挨拶、彼はこのホームカミングデイを全学挙げての会にしたいとのこと、そして将来は外国、彼はフィラデルフィアを引き合いに出していたが、大学も金沢市とタイアップして、市の行事となるようにしたいと抱負を述べた。また学部が消滅してしまうので、学部ごとの同窓会を全学一本にして行うようにしたいとも語った。個々の同期の会もこの機会に便乗してもらいたいとも。彼の言は1期6年の間に実現するだろうか。
 来年は11月6日(土)の開催である。、

2009年11月7日土曜日

2009年秋の探蕎は山形・福島・新潟のそば処へ

 平成21年秋の探蕎は日にちと宿は決まったものの、立ち寄るそば処が何処なのかは全く知らされず、そば処通の久保副会長に一任ということで、言ってみれば全くのミステリアスな探蕎行ということになった。初日は山形の白鷹町と聞いたような気がするが、といって何という蕎麦屋へ入るのかは知らされていない。初日がそうだから、2日目も3日目も当然霧の中、でも久保さんのこと、一同は大船に乗ったような全部お任せのしかも興味津々の探蕎行となった。
 初日:「さんご」(山形県白鷹町浅立183−1)
 今回の秋の東北探蕎の一行は8名、久保車と和泉車に4名ずつ分乗し、当然久保車が先導することに。朝6時に北陸自動車道の不動寺PAで待ち合わせをしてから出発、天気は上々、北陸道から日本海東北自動車道へ、北上して終点で下り、小国街道を東へ、そして最上川の中流域を北上すると白鷹町に至る.何でもこの町にある簗場は常設では天下一とかで、この前に訪れた時は、尺はあろうかという落ち鮎を棒串に刺して焼いている様を見て、たまげたものだ。ときは丁度お昼時、久保さんが目指されたのは、白鷹町浅立にある酒・そば工房「さんご」というそば屋だった。屋敷の入口には関所にあるような門が、横から迂回するのかと思っていたら、車ごと堂々と門をくぐって屋敷内へ。「しらたかは隠れそば屋の里」という幟がはためいている。そば屋は二階建ての民家、中へ入る。玄関の上がり框には「そば工房 さんご」と彫られた衝立てが。
 縁を通り部屋へ。畳敷きの部屋に座テーブルが4脚、手前の2脚に8人が座る。皆さんの所望は期せずして「天そば」、ということは「もりそば」と「天ぷら」の組み合わせである。誰の采配か、運転の労をとられたお二方には「そば」と「天ぷら」一人前、その他の6人には「天ぷら」は二人で一皿ということに。ここのそばは石臼挽き自家製粉、生粉打ちとある。聞けばこの町一番の蕎麦打ち名人だった細野正五氏直伝の生粉打ちとか、楽しみである。蕎麦前は何にするかと相談していると、奥さんが4合瓶の冷酒を抱えて来られ、「これになされたら」と、早速に飛びついてしまった。見ると酒瓶のラベルには「笑酒招福」とあり、純米吟醸原酒生酒と記してある。このお酒は弁天酒造(後藤酒造)さんに依頼して造って頂いたマイタンクのオリジナル酒だと仰る。こんな小さな店で酒タンク1基とは、大冒険じゃなかろうかと心配になる。皆さんに注ぎ、香りと味を楽しんでもらう。馥郁とした芳しい香り、運転の方は香りだけ?に、そんなこともあって、半分くらいに減ったところで、残りは運転の方に飲んでもらうことにと、封をされてしまった。
 「もりそば」が出てきた。方形の竹の簾にそばはこんもりと盛られている。色は黒く、細打ち、量はやや多め、汁は4人分が縦長の陶器にまとめて、色は濃い。そばをよく見ると、小さいホシが見えている。手繰ると、なかなかコシが強い。でも細いので喉越しは良い。汁のほかに粗塩も付いている。天ぷらは海老、大葉、南瓜、獅子唐、鱚?など、天つゆは別に付いている。そばは実に美味しく、四方が追加された。
 主人の矢萩さんが顔を出される。「さんご」の由来について聞くと、珊瑚ではなく、先祖が三五郎なので頭二文字を仮名書きにしてつくったのだと仰る。私だったら「三五郎」にしたろうに。お酒のラベルのいわれを聞くと、この辺りは笑川原の荘という小字、それでその最初の一字をとったのだとか。現在白鷹町には5軒のそば屋があって、「しらたかの隠れそば屋」を名乗っているとのこと。また後で知ったのだが、この家は地元の富豪のゲストハウスだったとか、それでトイレは総漆塗りだとか、見参し損ねた。また竹の簾は屋敷内の薮の竹から手作りで作ったものだそうだ。敷地は2500坪もあるというが、表の方しか拝見しなかった。帰り際、玄関先に見慣れない小灌木が、聞くとミツマタとか、あの和紙の原料となるあれ、コウゾは見たことはあるが、これは知らなかった。久保さんのエスコートに感謝して、今宵の宿の新高湯温泉へと向かうことに。レシートを見ると、「おしょうしな」とあった。
 2日目:「ラ・ネージュ」(福島県猪苗代町城南140−1)
 初日の宿、新高湯温泉「吾妻屋旅館」を朝9時に発つ。白布温泉まで下り、ここから吾妻山越えをして山形から福島へ。途中最上川源流の地の碑が、辺りは紅黄葉の真っ盛り。さらに高度を上げて峠へ、今日はやや霞んでいるが、磐梯山も檜原湖も見えている。前に訪れたときには全く見えなかったのに、今日はハレオヤジやハレオナゴがいるからなのだろう。西吾妻スカイバレーを下って檜原湖の湖畔へ、ここでも紅黄葉が真っ盛り。でもこれから何処へ行くのだろうか。久保車はさらに南下して猪苗代町へ、そして行き着いたのが、町役場がすぐ近くのくいものや「ラ・ネージュ」。着いたのは11時少し前、建物は白いペンション風のレストラン、店で聞くと、開店は11時30分とか。駐車場はガラ空き、待つ客は我々のみ。誰かが近くに資料館があるから時間つぶしにというので車に乗って出かけることに。一通りざっと見て戻ったのは開店10分前くらいだったろうか。ところが驚く勿れ、長蛇の列ができているではないか。正に不覚の至りだ。数えると20人は下らない。さて我々8人の運命や如何に、全員が入れるには、席数が20人として28席、22人として30席はないと入れない勘定、ヤキモキする。ドアが開いて、呼び込みが始まった。ところが定員は35名とか、どうやらスンナリ入ることができた。それに僥倖だったのは、右手に8人掛けのテーブルが丸々空いていたこと、全員が一つテーブルに座ることができた。皆さん個々にお好きなものを注文することに。冷かけおろしたぬきそば3人、野菜天ざるそば3人、ざるそば・ミニヒレカツ丼セット1人、私は当店お勧めの地酒の冷酒に合わせて山菜きのこそばにした。地酒の銘柄は忘れてしまったが、口当たりはまずまず、諸氏は如何だったろうか。ここの蕎麦は地元産、地粉100%の完全手打ちと銘打ってある。くいものやとあるだけに、うどんはもとより、スパゲッティやピラフもある。そばの提供は11:30−14:15と17:30ー21:00のみで、中間の14:15−17:30はレストランとしての営業をするということだった。(因みにネージュは仏語で雪)。
 猪苗代町の蕎麦屋は全部で22店、うち手打ちそば処の15店が「猪苗代そば暖簾の会」に加盟しているという。「ラ・ネージュ」もその一員、後で聞いたのだが、この店は加盟店の中でも知る人ぞ知る店とのことであった。私が食べたのは「かけそば」だったが、コシもしっかりした細打ちで、温かい汁でも延びることもなく戴けた。行列ができるわけがよく理解できる。よくぞ選んで貰えた一店ではある。この日の宿は南会津の檜枝岐温泉、猪苗代湖畔からは4時間はかかろうかという地である。
 3日目:「わたや」平沢店(新潟県小千谷市平沢1丁目8−5)
 2日目の宿、檜枝岐温泉「旅館ひのえまた」を朝8時に発つ。今日の目的地は新潟県小千谷市、檜枝岐村からは一旦南下して山越えして奥只見湖(銀山湖)を経由して新潟県魚沼市へ出る方が距離的には近いが、道幅も狭くヘアピンも多いとかで、距離は長いが、一旦北上して只見町へ迂回し、田子倉湖から六十里越を越えて魚沼市に出ることに、この方が時間的には短いという。お任せである。途中車窓から越後駒ヶ岳(百名山)と八海山(二百名山)を見る。
 この日の昼は「へぎそば」、過去に一度食したことがあるが、なんとも変わった食感だったという記憶がある。目指すは「わたや」、それも本店ではなく平沢店だと仰る。平沢店の方が新しくて広いとのこと、本店は知らないが、確かに此処は駐車場も店舗もゆったりしている。案内されて席に着く。へぎそばのつなぎには、小千谷縮みに使われている海藻の「ふのり(布海苔)」が用いられていて、それがあの独特のツルツルシコシコした食感を醸し出しているとのこと。また「へぎ」とは「へぎおしき(折敷)」のことで、木を剥いで作った「へぎ板」を四方に折りまわして縁をつけた角盆のことで、この地では蕎麦折敷のことを指す。本来は白木なのだが、出てきたへぎは塗りが施された大変立派なものだった。我々には一口大に丸められたそばが1列に7個、4人前とて4列に、一つずつの形は独特で、なんでも湯から上げたそばを一口サイズに摘まみ、水の中で振りながら形を整えるそうで、「手振りそば」の別名もあるとか。一人前7個というのは標準で、5個を控えめ盛り、10個を大盛りと称するそうである。我々のテーブルには4人前が2枚、それに山海天ぷら盛り合わせが2個運ばれた。蕎麦前には蕎麦の酒「蕎」を戴いたが、特にこれが蕎麦酒といった印象はなかった。小千谷では10店が「小千谷そばの会」をつくっているが、汁や薬味は各店の秘伝らしいが、そばについては言及されていない。ということは、「へぎそば」はどの店でも同じなのではないかと思ったりする。
 〔付〕檜枝岐の「裁ちそば」:これは伸したそばを重ねて切る(裁つ)もので、小麦粉がつなぎに使われるようになってからも、山里では高価で使えず、折り畳むと折れて切れてしまうので、重ねて切る(裁つ)のだと何かで読んだ記憶がある。「旅館ひのえまた」では、料理の一品として出てきたので、十分吟味して味わうことが出来なかった。



2009年10月31日土曜日

東北の秘湯:東北探蕎の宿

 平成21年秋の探蕎は8月に開いた世話人会で東北ということに決まった。日にちは10月23〜25日、金土日の3日間、しかし立ち寄るそば処をどこにするかは、探蕎会一のそば処通の久保副会長にお任せということになった。宿の第一候補は久保さんからの希望で姥湯温泉が、誰も異存はなくすんなりと。もう一つの宿を何処にするか、私としては尾瀬の北に位置する檜枝岐を希望した。尾瀬には過去3回入っているが、北へ沼山峠を越えて檜枝岐へ入ったことはないし、「そば」でいえば、この地は「裁ちそば」の地、無理を通したわけではないが、檜枝岐も一夜の宿に決まった.ところで交渉は前田事務局長の役目?と決まっているわけではないが、尽力して頂いた。ところが姥湯温泉「桝形屋」は満室で断念せざるを得なくなり、代わって新高湯温泉「吾妻屋旅館」に、また檜枝岐温泉は「旅館ひのえまた」ということに、いずれの温泉も初めてながら宿も初見、「そば」もさることながら、「やど」も「ゆ」も楽しみだ。

新高湯温泉「吾妻屋旅館」(山形県米沢市関湯の入沢3934)
 米沢市内から約20km、探蕎会では二度の宿となった白布温泉の「中屋別館不動閣」の前を通り過ぎ、天元台ロープウエーの湯元駅を左に見て山中へ。道はアスファルトから山道に、そして道は段々傾斜を増す。これは並の車では来れないと思っていると、程なく車の幅のみアスファルトに、県道や市道でなくて私道となると自費で管理、中々大変だ。しかし一部舗装でも、冬季雪があると4輪駆動でないととても行き着けないだろう。でも後で分かったことだが、冬はロープウエーの湯元駅で車を止め、宿へ連絡すれば迎えに来てくれるとのことだった。駅から宿まで標高差はおよそ150mはあろうか、歩けば25分はかかるだろう。でもとにかく宿に着けた。
 宿は西吾妻山の北面の中腹、標高1126mにへばりつくように建っている鄙びた一軒家。宿の裏手は屏風のような崖、右手には落差こそ10mはないものの「白金の滝」が落ちていて、その手前には滝見の露天風呂がある。宿は明治35年(1902)の開湯という。急な石段を上がって玄関へ、玄関横にはウッドテラスが。玄関に続くロビーは小綺麗なロッジ風、明るく感じがよい。部屋は17室、すべてに植物の名が付けられていて、我々一行のうち男性は「まんさく」、女性は「こぶし」に、入口には木の花の写真が、爽やかである。
 着替えて早速露天風呂へ。露天風呂は混浴が3つ(滝見、根っこ、岩の湯)に女性専用が1つ(大岩)あり、混浴の露天風呂は午後6時半から8時までは女性タイムに、また女性専用の大岩風呂は午前6時から7時までは男性にも開放される仕掛けになっている。先ずは滝見に。湯は程よい加減、源泉は滝見の湯壺の上方の斜面にあり自然湧出していて、これを内湯にも外湯にも配湯している。岩風呂は5人は入られよう。滝を眺め、紅葉は若干過ぎてはいるが、眼下に見える山々の斜面は今が盛りである。正面には端正な姿の兜山、至福の時である。湯から上がって歩みを下り、東やの大きな岩風呂へはしご、この湯は滝見よりは温かい。当然ここも掛け流しである。そしてさらに隣の根っこへはしご、ここには直径1mはあろうという大木の幹を横にし、その真ん中をくり抜いて湯船にしたものと、その切り株を縦にして芯をくり抜いてつくった円形の風呂とがある。どちらも一人しか入れないが、なんとも野趣に富んでいる。また内湯は男女別で檜風呂、平成16年(2004)の改装とかで、まだかぐわしい香りが漂うゆったりとした空間である。女性専用の二つの巨岩に囲まれた大岩風呂には翌朝入湯した。ここは正に隠れ風呂、変に落ち着く空間で、例の葭簾で囲われた風呂とは全く趣きが違っていて必見の湯だ。さすが「日本秘湯を守る宿」だけのことはある。
 夕食は米沢牛のステーキプランコース、ベースは山の幸・渓流の幸をふんだんに使った山奥のかあちゃん手料理、これだけでも満腹になる。お酒は和泉さんの所望で米沢の地酒の燗酒にしたが、燗酒でステーキを食うという実に貴重な体験をした。圧巻は大きな朱塗りのお椀に入った芋煮と立派な形の岩魚の塩焼き、これらも含めおそらく全部平らげた御仁はいなかったのではなかろうか。でも十分満喫した。
〔温泉情報〕泉質は「含硫黄ーカルシウムー硫酸塩泉」、源泉は自然湧出で毎分170L、泉温は56℃、加水・加温はなく、源泉掛け流し。適応症は、切り傷・火傷・慢性皮膚病・糖尿病・筋肉痛・関節痛・五十肩・冷え性・病後回復・疲労回復・健康増進など。
〔付記〕宿の主人の安倍さんの話では、吾妻山の東にある140年の歴史がある高湯温泉「吾妻屋」とは縁があって、110年前に吾妻山の西のこの地に湧き湯が見つかった折、高湯温泉に因んで新高湯温泉とし、宿の名も「吾妻屋旅館」と「吾妻屋」にあやかったとのこと。高湯温泉は福島県、新高湯温泉は山形県だが、直線距離では15km位、吾妻山の東と西に位置する。なお高湯というのは固有の地名ではなく、標高の高い処にある温泉という意味で、以前は白布高湯温泉、蔵王高湯温泉という風に呼んでいたが、今では単に白布温泉、蔵王温泉というようになり、高湯と新高湯はそのまま残ったとのことであった。

尾瀬檜枝岐温泉「旅館ひのえまた」(福島県南会津郡桧枝岐村居平705)
 桧枝岐村は尾瀬国立公園の北の玄関口、西は新潟県魚沼市、南は群馬県片品村、東は栃木県日光市と隣接している。尾瀬沼や尾瀬ケ原は境界域、そして尾瀬のシンボル燧ヶ岳や会津駒ヶ岳は完全に村の区域内の山であるから驚きだ。この2山はいずれも深田久弥の日本百名山である。大概高い山は市町村の境にあるものだが、正に村の山なのである。ところで尾瀬檜枝岐温泉は村役場の所在地にあり、昔は辺鄙な場所で陸の孤島だったろうが、今では道路が整備され、往年の鄙びた面影は少なくなり、極端な言い方をすれば、山中の温泉街という印象を受ける。旅館は5軒、ほかに民宿が33軒もある。我々が投宿した「旅館ひのえまた」は、これまた「日本秘湯を守る会」の会員であった。
 着いて驚いたのは、今宵の宿が総5階建ての立派な建物だったこと、洋室もあり、優に80名は宿泊できるという。2部屋ある401号室に男性5名、隣の402号室に女性3名が入る。部屋には愛称がなく都会のホテル並み、鄙びた宿を期待していた向きにはそぐわないかも知れない。浴場は「燧ヶ岳の湯」と「みずばしょうの湯」の二つ、時間を区切って両方に入れるようになっている。内湯は大きな木枠の湯船、それに方形と円形の露天風呂が隣接している。前者はたたきも木で設えてあり、新しくやさしい印象を受ける。ここの温泉は35年前の昭和49年(1974)にボーリングして得られたアルカリ泉で、ツルツルヌルヌルしている。しかしここの湯は掛け流しではなく、補湯しての循環、聞くと1本の湯元から旅館と民宿全てに配湯しているからだそうだ。村で掘削したのだから、当然といえば当然なのだが。
 夕食は名代の「裁ちそば」付きの「山人(やもうど)料理」、あまりのおいしさに村人が食べるのは御法度だったというのが由来の檜枝岐名物「はっとう」も付いている。でも圧巻は「山人鍋」、大きな鍋に舞茸、木耳、鴨肉、山菜等の地元素材に、そばをつまんだ「つめっこ」が入った味噌仕立て、とても腹には納まりきれない量だ。お酒は地元の燗酒のほか、地元産の舞茸の骨酒?をもらう。舞茸の香りがして中々美味い。なくなって今一度熱燗を注いで二番煎じ、ついでに舞茸も食した。郷土色豊かな酒と食、堪能した。
 ところでお目当ての「裁ちそば」はどうだったのかと言われそうだ.檜枝岐ではそばを裁つのは女手、祖母から母へ、母から娘や嫁に代々受け継がれていて、この日のそばも旅館の女将が裁ったものだった。でも「裁ちそば」は山人料理の一品として出ていて、沢山の料理の合間とて十分吟味して味わう間もなく胃の腑に納まってしまった.汁は岩魚で出汁を取ったものとか、次の機会にはそばだけでじっくり味わいたいものだ。
〔付記〕翌朝4時半頃、「燧ヶ岳の湯」の露天風呂に浸かりながら南の空を見ていると、放射点から右下に流れ星が尾を引いた。オリオン座流星群だ。出発の23日の早朝5時前に和泉さんの車を待つ間、南中したオリオン座の方を見ていたら、この時はほぼ真下に流れる大きな流星が見られた。この探蕎行では二度もお目にかかったことになる。
〔温泉情報〕泉質は「アルカリ単純温泉」、源泉温度は64℃で分湯されている。加水はないが加温があり、利用形態は「給湯口を含む加温・濾過・殺菌循環」となっていて、これは「一度浴槽へ給湯された温泉が、湯量や適温を保つ為の理由により循環利用する中で、濾過・殺菌され、再び給湯口から給湯し利用している利用形態」とされている。適応症は、神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・冷え性・病後回復・疲労回復・健康増進など。

2009年10月19日月曜日

金沢大学にもいた超人・山男

 私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)、山へ行きたくて、当時新人募集していた「山の会」へ入った。後で分かったことだが、「山岳部」というのもあったらしいが、活動は全くしておらず正に有名無実、でも名が存在していたために、有志が結成した表記の会がそれに類した活動をしていたことになる。もっとも翌年には晴れて総意で「金沢大学山岳部」を名乗れるようになった。それで当時の1年生は7名ばかり、ほかに年輩の方も入部している。「山の会」という学内組織があった以上、責任者はもちろん会員もいたはずなのだが、山行はあったものの、先輩からこれといったいわゆる山岳部的な指導は受けたことはなく、同好会に毛が生えたような存在だった。
 ところで新入りの1年生に医学部の若山という男がいた。彼は島根県の出身、高校で山岳部に所属して活動をしていたかどうかは聞きそびれたが、彼が率先して指導者となり、特に岩登り、いわゆるロック・クライミングを指導してくれた。トレーニング・フィールドはもっぱら倉ヶ岳、基本的なザイルさばきや結び方、ハーケンの打ち方、ジッヘルやセルフビレーの仕方、懸垂下降、オーバーハングの登り方等、彼からは岩登りの初歩的なことをみっちり教えてもらった。ただ彼とは倉ヶ岳でのトレーニングのみ一緒で、彼とほかに山行を共にしたことはない。ところで、医学部は6年制、教養部2年、専門学部4年で、留年は同年、つまり2倍の12年間在学できる。彼がどのような山行をしていたのかは知らないが、私達に構っていた以外はどうも単独で山へ出かけていたみたいなようだ。というのは教養部を4年かけて専門課程へ進んだことでも伺える。年に200日以上も山へ入り込んでいたのではないだろうか。学部卒業は昭和39年(1964)、ということは卒業まで9年、教養部で2年、学部で1年留年したことになる。何時だったかこれは彼から直接聞いたことだが、ある時このままではとても卒業が覚束ないと感じ、一念発起して山の道具一切を頑丈な木箱に入れ、絶対開けないように、また開かないように、釘でしっかり封印し、これからは学業に専念するのだと言っていたのを思い出す。彼の山行の内容を聞いたことはないが、ある意味彼は山に対して超人的な才能と体力を持っていたように思う。
 彼の指導で、山岳部らしい山岳部に発展し、毎年素晴らしい後輩が入部し、ワンダーフォーゲル部ができてからも、毎年数人の入部があり、昭和57年(1982)には独自でカラコルムのハッチンダール・キッシュにも遠征隊を送り、登頂に成功している。また卒業後も海外への遠征隊に参加したり、OB同士でも遠征できるまでになった。先鋭化してきたこともあって、国内でも海外でも遭難の訃報も聞かれるようになったが、これも飛躍の一里塚、通らねばならない通過点だったのかも知れない。
 ところで、雑誌「岳人」に「私も山が好き」というコラムがあり、それに矢作直樹という人が紹介されていた。昭和31年(1956)生まれ、昭和56年(1981)金沢大学医学部卒業、現在東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部教授とあった。生まれは横浜市だが、中学の頃は町田市にいて、裏山から高尾山まで歩いたという。高校では山岳部に入ったものの、トレーニングばかりなのに嫌気がさし退部している。そして金沢大学医学部に入学、大学では何故か水泳部に所属している。しかし山も半端ではなく、彼の言によれば、山には年間200日は入っていたと、そして特に倉ヶ岳の岩場にはよく通い、ソロクライミングの練習に徹したとも。無雪期は主に剱岳、70回ほど頂を踏んだという。「晴れた日に家にいるのは罪悪と思っていた」という。一方で「技術的には自分は絶対に落ちないという自信を持っていて、落ちなければ確保者は不要なわけだから、山へは独りで十分である」と。そして更に高じて「山登りとは、冬季単独行のことだとしか頭になかった」とも、でも今では当時は自惚れていたと述懐している。
 彼のビッグな山行をみると、大学2年の正月には三伏峠から北岳への厳冬期単独縦走、大学3年の正月には光岳から北岳への厳冬期単独縦走、同年3月には槍ヶ岳北鎌尾根冬季単独縦走をしている。また大学4年の夏には剱岳八ツ峰の完全フリーソロを、そして翌年3月には、単独で杓子尾根から白馬岳、鹿島槍ヶ岳、烏帽子岳、槍ヶ岳、南岳西尾根を計画し実行に移したが、鹿島槍ヶ岳北峰頂上直下で雪庇を踏み抜き、カクネ里まで約1000mも滑落したものの軽傷で、そこから天狗尾根を登り返して幕営し、翌日大川沢沿いに鹿島まで戻り、信濃大町へ。ここで必要部品を調達して休息し、行動日の制約もあったことから、鹿島槍ヶ岳と烏帽子岳の間は割愛して、烏帽子岳以降を再開し、踏破して新穂高温泉に下りたという。そしてその年の年末、残った鹿島槍ヶ岳と烏帽子岳間をトレースすべく出かけたが、針ノ木岳でアイゼンが脱げて、針ノ木岳北面の雪壁を100m滑落し、足を傷め下山することに。「扇沢駅が近くなり、岩小屋沢の方を眺めていると、突然はっきりと『もう山へ来るな』という天の声?が聞こえ、それは幻聴ではなかった」と。そして彼はそれっきり、キッパリ登山は止めてしまうことに。彼の述懐では、「当時は全身全霊をこめて、特攻の心意気で山に臨んでいたし、絶対に生還できると確信していた。今から思うと、何かにとりつかれていて、謙虚さと慎重さを欠いていた。二度の事故で生還できたのは奇跡に近い」と。
 さて、このような超人的な山行を繰り返していた人が身近にいたのに、医学部の十全山岳会や金大山岳部の人達の間では話題にならなかったのだろうか。あの山行は質・内容共に見過ごせるような山行ではないからである。医学部に入学して金沢大学山岳部に籍を置いた人は延べ7人いる。彼の卒業は昭和56年(1981)だが、医学部在籍の山岳部員としては2年先輩に昭和54年(1979)卒業の加藤がいたし、同期の部員も5名いて、まだ山岳部は凋落の傾向は見えておらず活躍していた時期である。彼には一匹狼的な傾向があることは疑いないが、声をかける位のことは出来なかったものだろうか。よきリーダーに出会うと、レベルは飛躍的に一挙に向上するものだ。
 山を断念した彼は、弟の勧めもあって自転車に傾倒することに。大学の最終学年、彼は金沢から自宅のある町田市まで片道500kmを往復したり、自転車で日本一周を企てたりしている。卒業後は富山医科薬科大学を経て京都大学大学院医学研究科へ、学位取得後は滋賀医科大学へ、ここには10年在籍することに。ここでも自転車と水泳に興じ、琵琶湖の遠泳横断もしている。この間実家が町田市から富士市へ移ったこともあって、富士山へ出かけている。そして平成10年(1998)に帝京大学医学部附属溝口病院へ移った時に転機が訪れる。10歳若い渋谷氏と出会い、山へ誘われて近場の山へ。以後は渋谷氏や東大医学部山岳会の現役やOBと一緒に、縦走やピークハント、沢登りに興ずるようになったと。彼はこれを「散歩的な山歩き」と言っている。でも彼はこの山歩きがとても気楽で新鮮で素晴らしいという。だが最近の山行をみると、富士山のランニング登山の参加とか、無雪期の剱岳や立山、穂高連峰、谷川岳や上越の山々、奥多摩・奥秩父・丹沢の山々や渓谷など、決してお遊びとはいえないハードな面もある山や谷を堪能している。それにしても、今ではもう単独での山行はないという。それが彼のいう「散歩的山行」なのだろう。

2009年10月8日木曜日

映画「剱岳 点の記」 登山者の見方

 佐伯邦夫氏が「岳人」10月号の「かわら版」に表記の標題で投稿されていた。佐伯氏といえば、魚津市の生まれ、魚津岳友会の結成にも参画され、北アルプス北部、とりわけ剱岳、剱岳北方稜線、毛勝三山、頚城山群を四季を問わずホームグラウンドとして活躍した御仁である。著書には「会心の山」「山との語らいー剱岳のふもとから」「渾身の山ー我が剱岳北方稜線」「富山県の山」など、写真集にも「雪山邂逅写真集」「美しき山河ー僧ヶ岳・毛勝三山の四季」「富山海岸からの北アルプス」などがある。今年72歳、たまさか小生と同年齢である。
 映画「剱岳 点の記」は今更ここで紹介するまでもなく、新田次郎の同名の小説を映画化したものである。この小説自体、史実に忠実な部分もあるが、決してノンフィクションではなく、かといって事実を題材にした完全なフィクションでもなく、言ってみればセミフィクションとでもいうべきか。これを基にして木村大作監督は映画を制作したが、ここでもいろんな、一見ドキュメンタリーともとれるアクションが付け加えられた。ただコンピューターグラフィックや空撮は排除したとのことだが、場面の中にはいろいろ山ヤからすると不自然なシーンの数々があったことも事実である。しかし山の大ベテランである佐伯邦夫氏にしてみれば、どうしても一筆したためなければという想いがあって投稿されたのだろうと思う。しかし、投稿の最後には、「まあ、娯楽映画だから、目くじら立てるのも・・・・という気がしないでもない。しかし『CGや、空撮、用いず・・・・』と、こだわりがことさら強調されるのであれば・・・・、ということである」と語っている。
 佐伯氏の映画を観た感想では、さすが天下の名峰剱岳が大画面に展開されたのは大した見応え、しかも長年この山に親しんできた者にさえ、新鮮とも思えるショットも少なからずあったと絶賛している。しかし、自然はさておき、そこに繰り広げられる人間模様となると、「チョッと待て」、いうところも少なくなく、佐伯氏は一登山者の立場から「オカシイ」と思われる点を確認しておきたいと言われる。ここで佐伯氏は単に「登山者」と名乗っておいでるが、私のような山ヤにチョッと毛が生えたような者でさえ、観てオカシイと思う点が多々あったが、ここでの佐伯氏は「山の大ベテラン」として、また「真の山ヤ」としての立場からの指摘であるように思う。もっとも細かい点にまで当たれば、もっと沢山指摘すべきことがあったのだろうけれど、投稿であれば字数制限もあり、重要なことのみに限定されたような感がする。
 第一の指摘はガイドの宇治長次郎の歩き方であるという。「映画では、ガシガシと、息を荒くして歩く場面があるが、これは素人、ベテランはこういう歩き方はしない」と。また「上体をむやみに揺するような動きは、無駄が多く疲れ、状況が厳しいほど『省エネ歩行』に徹しなければならない」とも。これには気が付かなかった。
 二点目は、「猛吹雪に素顔のまま耐えているシーンも、どういうものか」と。わざとらしいと言われる。「手拭いで頬かむりくらいしなければ。厳しさを出そうとして、かえってリアリティーを損なっている」とも。そういえばそうだ。 
 三点目は装備。先ずカンジキ。「芦クラ寺にしろ大山村にしろ、あの舞台となっている一帯は『立山カンジキ』の里、カンジキでは日本一ともいえる代物、その立山カンジキを全く使わないで、どこのものとも素性の全く分からないカンジキばかり使っている」とは厳しい。しかしこれは厳しいとは言っても、当然配慮しなければならない点ではなかったろうか。私は気が付かなかったが、カンジキはその地方地方によって、形も大きさも材質も異なるから、佐伯氏ならずとも当然の指摘で、彼にとっては噴飯ものだったろう。しかも長年親しんで用いてきただけに、我慢ならなかったのだろう。しかも「カンジキは同じものばかりでなく、中には山へ入るのに里用のものもあり、ありえないことだ」とも。また「どこからかき集めてきたのか」とも。残念至極と言われる。さすがである。
 また「蓑、笠、草鞋等々も下界用の簡便なもので間に合わせている」と指摘される。そして「同じ蓑でも、山中で何日も使うものは作りが全く違う」と言われる。これも炯眼だ。
 次いでキスリング型のザック、これはさすがの私もオカシイと思った。昭和30年頃の山行きでは、メインのザックはキスリングしかなかったが、考案されたのはそんなに古い昔ではない。彼は言う。「キスリング型のザック、のっぺりとした大型の袋、大きなポケットが両サイドにあるそれ。映画では柴崎が担いだり、宇治長次郎が背負子にくくりつけたりしているのが定番装備になっている。現今ではほとんど見かけず、歴史を感じさせるのは確か。しかし、これは明治・大正時代には存在せず、日本にもたらされるのは昭和に入ってから。それも広く一般化するのは戦後。なれば、時代考証が50年ほどズレていることになる」と。キスリングというのはあのザックを考案した人の名前じゃなかったろうか。ちなみに小生のものは片桐のものだった。
 四点目は滑落の場面、麻ザイルの切れ方、ジッヘルの仕方も不自然だったが、それより岩場で滑落というより墜落の様相だったのに、あの急斜面の雪渓で、ほとんど素手の状態で滑落を免れたのはさすがスタントマンと感心したが、通常なら東大谷の雪渓の末端まで飛ばされての滑落死が常套だ。「派手な墜落をして、負傷の程度はさておき、ああいう場合は、帽子、ザック・・・・、持ち物の多くが飛ばされてしまう」と。
 五点目は雪崩。映画の雪崩のシーンは正に迫真、人工雪崩とはいえ、凄い迫力だった。時は春、春の雪崩は底雪崩、底の土も巻き込んでのもの、きれいごとではすまされない。また雪質が重く、一旦圧雪されると這い出すことは困難だ。でも映画のシーンは、苦労はしたようだが見た目には容易に脱出でき、埋まった仲間も救出し、荷物も無事回収でき、小さな表層雪崩での芝居のようだったのは確かである。もっとも人工雪崩の後に穴を掘って脱出できるように埋め込んだのだから当然だが、不自然だといえば不自然だ。「春の雪崩にあって、全員が生きているというのは考えにくい。雪の中から簡単に這い出たり、埋まった仲間をすぐに見つけ出して、掘り出すというのも荒唐無稽。映画のシーンに使われた規模の雪崩なら、不可能と言い切ってもいいと思う。この場合も、もし命があったとしても、持ち物はほぼ失う」と。「時代劇で、大立ち回りを演じても、主人公は掠り傷も負わず、髪も服装もほとんど乱れていない、というのと同じか」とも。
 佐伯邦夫氏の限られた紙面での指摘点は以上であるが、もっと沢山あるだろうことは想像に難くない。しかしこの作品の制作には山に素人の人ばかりでなく、大学山岳部のOBや山小屋の主人達も大勢参画している。事前にシナリオを見る機会はないにしても、最低限不自然なことには助言できなかったのだろうか。完璧を期すことはこのような大自然を相手にしたドラマでは無理なことであろうが、あまりに山の常識を越えた非常識、不自然さは、山を主舞台としたドラマ、言ってみれば山と四つに取り組んだ映画であっただけに残念な気がしないでもない。考証はよりリアリティーを高め、作品をより崇高なものにする。
 大画面での剱岳とそれを取り巻く山々、剣からの富士山も、私が初めて見た時の感激が思い出されてきて感動した。後立山の峰々、槍・穂高の峰々、ひとしきり感慨にふけることができた貴重な時限だった。しかし、出演した誰かが述懐していたが、映画の画面もさることながら、やはり本当の自然に優るものはないと。その言に間違いはない。

2009年9月29日火曜日

西本智美とロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

 西本智美がロンドンのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(RPO)の日本ツアーの指揮者として来日するということで、今度こそはどうしても聴きたいと願っていた。というのも過去に2回、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)を振る予定だったのに、2回とも体調不調とかでドタキャンになった経緯があるからで、今度こそはと意気込んだわけである。この度の日本ツアーは東北から九州にかけての12公演、プログラムの目玉はマーラーの交響曲第5番、ベートーベンの交響曲第7番、それにフレディ・ケンプとのモーツアルトのピアノ協奏曲第20番の共演で、金沢では9月24日に石川県立音楽堂で催された。曲目は始めにモーツアルトの歌劇「後宮からの逃走」序曲、次いでピアノ協奏曲第20番、休憩を挟んでマーラーの交響曲第5番が演奏された。
 ロイヤル・フィルはロンドンが誇る名門5大オーケストラの一つとはいっても、中では最も新しく、第二次世界大戦後の1946年の創設である。既に当時はロンドン交響楽団(1904年創設)を始めとして、BBC交響楽団(1930年創設)、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1932年創設)とロイヤル・フィル創設前年の1945年に結成されたフィルハーモニア管弦楽団があった。ロイヤル・フィルの創設者はトーマス・ビーチャム、彼はロンドン・フィルを自前で創設したが、その後自主運営団体に移行したために、再び自分の楽団としてロイヤル・フィルを立ち上げた。結成に際しては優秀な楽団員が集められ、4大オーケストラに匹敵する楽団が出来上がった。名称の「ロイヤル」については問題も提起されたが、英国女王から公式に使用が認められ、今日に至っている。
 創設者ビーチャムの死後は自主運営団体となり、以後音楽監督には、ルドルフ・ケンペ、アンタル・ドラティ、アンドレ・プレヴィン、ウラディミール・アシュケナージなど錚々たる顔ぶれが着任し牽引されてきた。その後1996年にイタリアの若いダニエレ・ガッティが音楽監督に就任して、フレッシュな空気の吹込みが図られ、更なる向上が期待されたのに、2008年にはフランス国立管弦楽団の音楽監督に就任したためポストを離れたが、ロイヤル・フィルは彼に桂冠指揮者の称号を与えた。現在は芸術監督兼首席指揮者にはシャルル・デュトワが就任、首席客演指揮者にはピンカス・ズッカーマンが加わっている。そしてこの楽団の特徴として、共演する指揮者やアーティストがバラエティーに富んでいるということが挙げられるとされ、こうした方針が今度の日本ツアーに西本智美を抜擢して指揮者にしたのではという一面がある。またマーラーはロイヤル・フィルでは特によく取り上げている曲目であるという。一方、純粋なクラシックばかりでなく、ライトクラシックやミュージカル・ナンバーの演奏でも定評があるというから、既存の有名オーケストラとは一線を画しているという感がある。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督だった岩城宏之氏がポピュラーを取り入れた構想も、案外ロイヤル・フィルの柔軟性や順応性にヒントを得て手を染めた可能性がある。また国内や海外の演奏旅行が多い点の類似もロイヤル・フィルに習ったのではないかと思ったりもする。
 さて、西本智美についてだが、彼女は大阪音楽大学では作曲を専攻していて、指揮は留学したロシアのサンクトペテルブルグ音楽院で学んでいる。従って活躍の舞台は始めは主としてロシアであり、比較的小さな交響楽団や歌劇場の首席指揮者や客演指揮者を歴任している。当時その活躍ぶりが日本でも報道され、女性指揮者として驚きの目で見られたものだ。その後彼女はロシアから東欧、中欧、西欧と活動の拠点を移動しながら、今年はロンドンへ拠点を移そうとしていた矢先、ロイヤル・フィルとの出会いがあり、日本ツアーでの共演が実現したという。まさに僥倖というべきか。またロイヤル・フィルにとっては一つの賭けだったのではなかったかと思う。彼女の信条としては、活動は一か所に固執するのではなく、あちこちに拠点を置いて活動したいという希望があり、日本ツアー以降はバルト三国で、次いではアメリカに渡って活動し、再びヨーロッパに帰るのが目標という。これは彼女の言葉を借りるならば、拠点を移すのではなく、拠点を広げるということだそうで、活動範囲を広げるということになるのだそうだ。でも一面からすれば「渡り鳥」の感がないでもない。もっともまだお若いからそんな冒険もよいのかも知れないが、いつまでもというのには疑問を感じる。
 女の指揮者としては、ピアニストでもあるウラディミール・アシュケナージを一番に思い出すが、彼女はある時期ロイヤル・フィルでも音楽監督兼首席指揮者として席を置いていた。また今でもピアノ奏者としても活躍している。またオーケストラ・アンサンブル金沢の初代指揮者として登場した天沼裕子も今は東欧の歌劇場で活躍しているが、岩城さんがヨーロッパのどこかの指揮者コンクールで優勝した彼女を迎えたものの、彼女の思想は楽団員には受け入れられず、結局彼女は去ることになった。またブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した松尾葉子は今どこで振っているのだろうか。このコンクールは若手指揮者の登竜門としてはつとに有名で広く知られていて、過去には小沢征爾を始めとして、佐渡裕、下野竜也らが優勝しているが、その活躍ぶりは周知のとおりであり、下野竜也は過去2回来沢しているが、指揮者からはオーラが発しているのが感じられ、聴衆が圧倒されるような凄さだったことを思い出す。女性の指揮者にはほかにもおいでるのだろうけど、思い出せない。
 さて、演奏会の当日は、いつものオーケストラ・アンサンブル金沢の定期公演とは違った雰囲気を感じた。この日は北國新聞社の主催であったせいなのかも知れない。音楽堂の主催でないこともあって、音楽堂のチケット売り場での座席の割り当ては少なく、私の席は2階の正面の5列目であった。演奏会当日の入りは8割程度、何故か2階側面では空席が目立った。ロイヤル・フィルは4管編成、室内楽団のオーケストラ・アンサンブル金沢のざっと倍の規模、でもこれは有名交響楽団の普通の編成である。曲目の前半はモーツアルトの「後宮からの逃走」序曲とピアノ協奏曲第20番、パンフレットでは、指揮者は第1曲からは「復讐せず許す」というテーマを読み取れ、第2曲については「こみ上げてくるパッション=情熱/受難の音楽」と受け止められると述べている。しかし凡庸な小生にはそんな大それた奥深さに至るまでもなく、楽しく大編成のオーケストラの音楽を聴かせてもらった。でも、モーツアルトの音楽ならば、大編成よりはむしろ2管編成の方がじっくりと味わえるのではと思った次第である。ピアノ独奏者のフレディ・ケンプにしても、特に素晴らしかったという印象は少なく、8歳から共演しているというから身内のようなもの、今一感動は少なかった。
 後半はテーマのマーラーの交響曲第5番、ロイヤル・フィルが最も得意とするレパートリーの一つでもあることから大いに期待した。しかし指揮者のむしろ単調に思える指揮ぶりを見ていると、指揮者の崇高な想いが楽団員に本当に伝わっているのだろうかという疑問が起きた。ということは、どちらかと言えば、あのロイヤル・フィルがあってこその指揮者西本智美だったのではなかったろうかと。マーラーの音楽は内に秘めたいろいろな想いが表現されていて、聴く人にも自問させるような感慨を与えるものだが、その点では実に素晴らしかったと思う。第1楽章の葬送行進曲を聴いただけで身震いを感じ、フォルティッシモからピアニッシモまでの荘重で優美な旋律の演奏が繰り広げられ、人間の感情のあらゆる表情を醸し出した演奏だった。もしこれがすべて指揮者西本智美の意図したものだとすると、曲もさることながら、彼女の意図が十分伝わっての演奏ということになるが、この曲はロイヤル・フィルの十八番なだけに、あの指揮ぶりからは、むしろ助けられたのではないかと穿った見方をしている。ともあれ、素晴らしかったことには変わりはなく、第5楽章までの70分は長くは感じられなかった。颯爽?と久しぶりに登場した憧れの西本智美にではなく、むしろ渾身の演奏でマーラーを聴かせてくれたロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の面々に感謝して拍手した次第である。

2009年9月15日火曜日

美濃探蕎ー胡蝶庵仙波〔岐阜市)と萬屋町助六(関市)

 平成21年度探蕎会後半の行事は8月上旬の世話人会で大筋が決まり、9月は例年ならば近隣の県のそば屋巡りなのだが、今年は岐阜の胡蝶庵への日帰りということになった。それで胡蝶庵へ行くなら「蕎麦三昧」に挑戦したいと願ったが、胡蝶庵では部屋でしか蕎麦三昧は食べられず、しかも4人限定の2部屋のみ、入ってもし蕎麦三昧にありつけても8人が限度ということになる。事務局で予約すると、1日4名様とか、前田さんの計らいで11日と12日に分けて行くことになった。私は和泉さん夫妻、松川さんと4人で後半の12日の訪問となった。和泉さんの車で、私が野々市で、松川さんが予防医学協会で乗り込み出発、この日だけが生憎の雨模様、6時少し前に金沢西ICから高速道に入る。ETCのトラブルで若干時間を浪費したものの、後は順調、ひるが野PAで休憩し、東海北陸道の関ICで下りる。時刻は8時半、少し早すぎた。 
 ICを下りると、やたら沢山車が止まっている。何とこれがギャラリーの車、知らなかったが、今日は関IC近くにある関CC東コースで全日本女子プロゴルフ選手権大会の3日目とのこと、道理で混んでいるわけだ。車にはナビがなく、大雑把な地図と道路標識を頼りにやっと目印の忠節橋に辿り着いた。ここまで来ればしめたもの、どうやら目的地に着けた。着時間予定を10時半としたが、1時間以上早く着いてしまった。駐車場の一番奥に止めようとしたら、ご主人の仙波さんが出てきて、この場所以外に止めて下さいと言われる。時間つぶしに大通りまで出て、とある喫茶店に入り、時間をかせぐ。11時少し前に胡蝶庵へ戻る。丁度この時間に合わせるように車が2台、岐阜ナンバーだ。ここは10歳以下のお客様は入店不可とある。
 11時丁度に木戸の戸が開けられ、中に入る。予約の方ですねと言われ、奥の一間に通される。手前の部屋には地元の二人が、後でもう一人来た。着座すると直ぐに、末広の赤土色の美濃焼きの茶碗に蕎麦茶がたっぷり出されっる。品書きの蕎麦前はと見ると、特別本醸造の樽酒の片口が630円、房島屋の純米吟醸の片口が840円とある。ほかに達磨正宗の古酒があったが、これは敬遠した。吟醸の「ひやおろし」はと聞くとないとのこと、初めに本醸造の樽酒を頼む。片口は蔓がついた内面金色の陶器のつくり、杯は腰高の磁器、先ずは乾杯する。
 初めに「蕎麦寿し」が出る。細打ちのそばと椎茸、ほうれん草、紅生姜を色に、きっちりと綺麗に巻き上げ、4切れが黒い釉薬を施した厚手の皿に端正に盛られて出てくる。繊細さを感ずる。実に見事である。蕎麦前を純米吟醸にする。酒を替えると、杯も替わる。次いで「吸い物」、黒塗りの椀に松茸の切り身と三つ葉を浮かしたすまし汁、程よいしのぎとなっている。次に「そばがき」、粗挽きの蕎麦粉をしっかりかき込んであって、洗練された荒々しさを感ずる。汁と海塩が付いていて、どちらでもと言われる。蕎麦は酒のツマにはならないと言うが、そばがきで飲むのも一興、純米吟醸を追加する。次いで「卵巻き」が、大振りに切ったのが4切れ、出汁を含んだ焼き目のない巻き、若干緩い感じが、ツマに辛味大根のおろし。そして最後は「天ぷら」、志野の皿に赤い線が踊り、懐紙には車海老と獅子唐が盛られ、それにレモンの串切り、もう一本シメに本醸造の樽酒を貰う。
 最後に「ざるそば」が出た。そばは高杯の使い込まれた笊に盛られている。この手挽き生粉打ちの細打ちは、正に芸術品である。この端境期にあってのこのそば、繊細で瑞々しく、ホシが今にも蠢きそうなそばである。葱も山葵も要らない素晴らしいそばだ。蕎麦湯は別に誂えたもの、程よい濃さがよい。中座して厠へ行くと、玄関の待ち場所には沢山の人が待っている。もう一枚「おろしそば」とのことだったが、長居は失礼だろうと腰を上げることにした。
 品書きは次のようである。[冷]ざる蕎麦945円、とろろざる蕎麦1155円、天ぷらざる蕎麦1575円、おろし蕎麦1155円、[温]かけ蕎麦945円、とろろ蕎麦1155円、天ぷら蕎麦1575円、鴨南ばん1680円、[他」蕎麦三昧3675円、蕎麦寿司945円、そばがき1050円、三種肴1050円、かも汁1050円、卵巻き945円、焼き鴨840円、天ぷら630円、胡麻豆腐525円。
 胡蝶庵でもう一杯を止めたので、もう1軒行くことに、店は「ダンチュウ」という雑誌に出ていた関市本町8丁目交差点のすぐ近くにある「そばきり萬屋町助六」である。今の主人は二代目、先代のときは町の「めん処」として、丼もそば・うどんも中華そばも、そして出前もやっていた。ところが先代が亡くなって店を継いでからは大改革をしたという。出前をなくし、中華そばを止め、うどんを止め、手打ちそば一本にしたという。以前の常連客は去ってしまったが、新しく石臼挽き自家製粉を始め、3年を経て新しいリピーターが付くようになったという。助六のそばはつなぎを入れているが、巾広の「円空鉈切りそば」が名物、これと美濃の酒とはウマが合うという。一度挑戦したいものだ。さて、目指す「助六」は見つかったものの、午後1時頃とて、店の中には立って待つ人もいるという程の満員、駐車場も満杯、雨降りでもあり、またの機会ということにして残念ながら引き返すことに。店の造りは前のままとて、一見何でもありのありふれた食堂という印象、でも中身は中々のものらしい。再見だ。 

2009年9月9日水曜日

「歩く」と「登る」の違いー72歳の白山登山

 私は血糖値が極めて高かった(HbA1cが8%台)こともあり、医師と管理栄養士とから栄養指導と運動療法の指導を受けた。もう2年くらい前になるだろうか。栄養指導では、特にお酒が槍玉に挙がり、晩酌4合を半量の2合に妥協させられた。通常の食事では特に指摘はなかった。ところで運動については、少し歩いて下さいということで、当初は家から半径2kmの地点までの往復を企て、雨が降っていなければ朝食前に歩くことにした。そうこうするうちに、半径2km以内にある白地図の道はすべて赤線が引かれてしまった。昼が短い季節では午前4時や5時台はまだ暗いので、自動車が通る道を歩くときは自己防衛で蛍光ジャケットを着用した。1年ほど経っての検査ではHbA1cの値も6%台になり、さすが効果があったようだった。そこで以後も続けることにしたが、歩くのは夜でも明るいルートを1本選んで歩くことにした。ただ私の住んでいる野々市町は高低差が4mしかない平らな町、そこが金沢市と違うところで、効果的な歩きを実施するには不適である。それで今は金沢市窪町の満願寺山の麓まで往復5.8kmのコースを毎朝歩くことにしている。ただ高低差が25mと少ないのが難点である。歩く時間は約1時間、しかしマンネリになったせいか、それとももう限界なのか、HbA1cが5%台になることはない。またこの歩きは血糖値対策もさることながら、少しは山へ登る足しにでもならないかとの目論見もあるのだが、今回の白山登山で、メタボ対策にはなっても登山対策にはならないということが分かった。ここでは足の鍛錬の成果を試したものの、成果がなかった白山登山での顛末について記す。
 今年はまだ一度も白山へ行ってなく、せめて年に一度はと少し焦り気味に。9月5日の土曜日にと思っていたが、天気がスッキリせず、では日曜日と思ったらOEK(オーケストラアンサンブル金沢)の今シーズン初の定期演奏会、それじゃ休んで月曜日にでも。休暇の連絡は、東京に滞在の家内にしてもらうことにしての白山行きとなった。装備は山ヤとして恥ずかしくない必要最低限のものを持つことに、重量は7kg程度。家を出たのは5時10分前、別当出合の駐車場まで1時間10分、朝の車の駐車状況は、市ノ瀬50台位、別当出合100台位だった。もっともこの中には日曜午後の規制解除後に入った車もあろうし、またこの後に入ってくる車もあろうが、私が着いた頃はそのような状況で、まさに今から登ろうとしているのが数組いた。中に小学生らしい女の子を同伴している親子がいたが、学校を休んでの登山なのだろうか。
 駐車場から出会いのセンターまでは10分50mの上りである。センターには数人いたが、大半は出かけたようだった。中年の白山初めての男性、格好からして登山素人の人、指導員から観光新道からの上りは下山路にした方がと言われていた。歩き始めは私と一緒、私は歩きに自信がないことから、彼にお先にどうぞと言ったが、後でいいと言うことで私が先に、私はマイペースでゆっくり休まずに、彼氏は休んだ分だけ送れた。中飯場までの間にランニングスタイルの若者2人が駆け抜けていったし、また仲良し三人娘にもお先にと越された。私は糖尿病性神経障害ということもあって、足の裏が痺れているような感じがあり、今一登山靴と山道との間にフィット感がない。従って足元をしっかり見て歩かないとという前田さんの言を思い出しながら歩く。遅くても安全第一だと心して歩く。三人娘は中飯場にいたが、私が着くや手を振って出立していった。中飯場から別当覗の間で、立派な髭を蓄えた軍人なら大将格の御仁を越したが、話を聞くと、土曜に来たけれど天気が悪かったので今日また登るのだと。軍服のような出で立ち、私は72歳だというともっと上だと、恐れ入った。新しい迂回路に入ってダブルストックを持った長身の若者に道を譲る。朝8時、天気はよく晴れていて、陽が当たると暑いくらいだ。そろそろ迂回路の出口という処でかの三人娘に会った。座り込んでおにぎりをパクついていた。もう少しで小屋なのにと言うと、お腹が空いたからと言う。若くて元気でも空腹じゃシャリバテもしよう。お先にと言って先へ進む。もう甚之助小屋に近いという場所で、お相撲さん似の人が下りて来た。室堂を一番先に出たのだろうか、ゆっくりゆっくり下っていった。この日下る人に会った第一号だった。
 小屋で少憩の後、水平道(展望)分岐へ、これまでなら20分で着くのに30分もかかる。今日は晴れていて眺望がきく。砂防新道へ。二の坂を登ると、三の坂に点々と先行者が連なって見え、先頭は坂の頂に達している。十二曲りの急登でも、つづら折れの坂には点々と登山者が、ここでも私より年輩の紳士に出会った。ゆっくりと私と大体同じペース、でも延命水を汲んでゆくとかでリュックを下ろされた。坂上から下を見ると、お姉さんが一人速いピッチで登ってくるのが見えた。坂の上の方に来て、時々立ち止まる。これで私も安心して立ち止まれるというもの、どうやら私の方が先に黒ボコ岩に逃げ込めた。ここでは十数人がたむろしていて、写真を撮りあっている。お母さん三人組の一人が元気がない。見ると何が入っているのかザックがすごく膨らんでいる。肝っ玉母さんのような方が持ってみて、こんなに重けりゃバテルわよと、私がそれを背負ってあげると。エライ。弥陀ヶ原の木道を歩いて五葉坂下に着いたら、あの肝っ玉母さんは、ここまで来たら室堂に着いたも同然よと言う。私など、これからもう一本100mの登りがと思うのだが、大したものだ。この坂は後輩が春にホワイトアウトで遭難死した場所でもあり、何となく今は通行禁止の水屋尻の径の方が好きだ。もう坂の頂に近いところで、夫婦のご婦人の方がうずくまっていた。もう1分も歩けば室堂が見えますよと言うと、少し元気が出たようだった。その時外国の元気な坊や達が十人ばかり、3人の大人に引率されて下りてきた。皆コンニチワと挨拶をして下っていった。清々しい。そしてどうやら室堂に着いた。 
 室堂センターには登山者はまばら、前の広場にもそんなに多くはいない。50人ばかりか、もっとも御前峰への登路には点々と登山者が見える。ここまで休みを入れて3時間46分、以前なら3時間だったのにと、この歳ではもうこれより速いペースは考えられない。休みは合計して18分、差し引いても3時間半だ。衰えは歴然、当初は大汝峰へも回る予定だったが、今日は御前峰だけにしておこうと、自信の無さが顔を出す。食事をして御前へ向かう。登り始めて気が付いたのだが、標高2000mまでは雲の海、それが徐々に上がってくる。頂上に着く頃にはその雲海の高さは2300mの高さに、別山も頂上が見えるのみの有様、東の方の北アルプスも同様で、山の頂のみが遠望できるのみ、奥の宮に着いてお参りをする。下の室堂平にある奥宮の社務所には、お宮は8月31日で閉めましたと張り紙してあったが、例年ならば賽銭箱は置いてあるのに、今年は取り外してあって、お賽銭は上げられず終いになった。登山者がある間は、置いておけばよいのに、大汝峰と別山にもお宮があるが、そこも撤去したのだろうか。昨年は白山比め神社の千五百年祭があって、白山奥宮の社務所は7月末で神官が居なくなったが、頂上奥宮には賽銭箱は置いてあった。昨年秋、室堂閉鎖後の10月18日に平瀬から登った際、頂上奥宮にお参りしたところ、賽銭を入れるとチャリンともいわないので見ると、賽銭箱は満杯になった状態、そこで白山比め神社に電話して、忙しいのは分かるが、せめて室堂閉鎖のときに白山観光協会の職員にでもお願いして、お賽銭を下ろせなかったのですかと言ったら、えらく恐縮していたが、その後どう処置されたのだろうか。それにしても、神官が山を下りると、賽銭箱も外すとは如何なものか。因みに白山観光協会は白山比め神社内にある外郭団体なのだが。
 頂には50人ばかり、若い男女が多く、皆さん眺望を楽しんでおいでる。私も大汝へ行かないと決めて、ゆっくり30分ばかり滞在した。下りもゆっくり下る。時々足がもつれる感じもするので尚更だ。中に二人走って下る人が、径を譲るとスミマセンと言って駆け下りていった。若いときは競い合ったこともあるが、とても今は出来ない。下りに22分も要した。以前より5~7分余計にかかっている。上りだけでなく下りでも歳を感ずる。
 下山するには少々早いが、午後1時前に室堂を発つ。五葉坂でまた一人サポートタイツを着けた走り組が、坂は石組みなので、駆け下りるとまではゆかないが、かなりのスピードで下りていった。弥陀ヶ原の木道は駆け足で、近頃はこの種のトレイルランナーが増えてきたようだ。エコーラインからのんびり下る。下るにつれてガスの中に入る。水平道から砂防新道との三叉路へ、この辺りから上りの人が目立つようになる。大きな荷物の人は、南竜のテント場だろう。夫婦や恋人同士の数組に会う。南竜小屋は外側が大分傷んでいたが、見ると足場が組まれていて、修復しているようだ。荷の少ない人は小屋泊まりなのだろう。明日の天気予報は曇りか霧だった。甚之助小屋に着いたのが午後2時近く、ここでも何十人もの登山者がいた。今からだと泊まり、南竜にしろ室堂にしろゆっくり時間がある。でも驚いたことに別当の七曲りで若い女性一人が登ってくるのに出会った。時刻は午後3時、荷はほとんど持っていないものの、小屋へは日没寸前になるだろう。ベテランなのかも知れない。こうして今年初の白山行は終った。下りはエコー経由で2時間38分を要した。72歳ではこんなものか。

2009年9月1日火曜日

東北の秘湯:八幡平周辺の温泉

 八幡平は深田久弥日本百名山に入っていて、秋田と岩手に跨っている。標高は1613mで、頂上らしきものはなく、山頂と思しき場所に展望台が建てられている。ここには「八幡平頂上」というバス停や見返峠駐車場があり、標高は1541mで、岩手・秋田の県境、八幡平アスピーテラインと八幡平樹海ラインの交差点でもある。ここから八幡平の山頂までは1.3kmの距離である。一帯はなだらかな高原状で、地塘が散在している。この地域一帯は、昭和31年に八幡平、秋田駒ヶ岳(二百名山)、岩手山(百名山)の特別区域を含む八幡平地域が、十和田国立公園に追加指定され、十和田八幡平国立公園となった。またこの八幡平一帯には多くの温泉が点在していて、新玉川温泉への湯治の際には探訪することにしている。マイカーでなく路線バスを利用するので、1日に1湯しか巡れないから1年に1湯、3年かけてようやく3湯をゲットした。いずれも秘湯というのに相応しい温泉で、みな個性があって面白い。
1.後生掛(ごしょがけ)温泉 (秋田県鹿角市八幡平熊沢国有林内後生掛)                                
 後生掛温泉の場所は、玉川温泉との間にある焼山を挟んで丁度反対側に位置している。玉川温泉からは向かいの焼山へ登り、毛せん峠を経て行く登山道があり、歩いて5時間ほどで着ける。路線バスだと、焼山を大きく迂回して行くことになる。新玉川温泉からは八幡平頂上行きのバスに乗り、八幡平アスピーテラインのバス停「後生掛温泉」で降り、300mばかりの緩い坂道を下ると温泉宿に達する。右手に大きな湯治棟、左手に旅館棟がある。ここは標高1000mばかり、ここからは奥へ後生掛自然研究路という約2km/約40分のコースが延びていて、いろんな火山現象を見ることができるので、巡るとよい。
 舗装された道を暫く歩くと、右手川原に大きな熱湯が噴出している場所があって、「オナメ(妾)」だという。またその隣りには激しく水蒸気が噴出している「モトメ(本妻)」という場所があり、この温泉の名称の謂われとなっている。さらに進むと「紺屋地獄」があり、煮えたぎった黒青色の泥湯が溜まっている池が、そして次には「小坊主地獄」と呼ばれる、泥湯が泡立つ「マッドポッド」の光景が見られる。そして更に進むと、およそ1haはあるという大湯沼が現れ、展望台まで登るとこの沼の全貌を見ることができる。ここで左折して沢に沿った道を行くと、「中坊主地獄」と呼ばれる強酸性の湯が湧き出ている場所がある。さらに進むと、「泥火山」といって、水分を多量に含む粘土が火山が噴火しているように噴き上がっている泥池に達する。そして噴気孔、正に火山活動を間近に見ることができるコースである。途中の売店で、ここでしかないという黒いゆで卵を求めたが、後で宿へ帰ってから開けて見ると、色はかなり薄れていて、何か狐にばかされたような感じがした。
 入湯料400円を払って湯屋に入る。ここのお湯は、正に今見てきた泥湯そのもの、大きな箱型に入った泥湯に身を沈めると、何とも奇妙な感じである。泥は極めて肌理が細かく、身にまつわりついてくる。泥湯は裏の泥湯池から引いてくるとか、出るときはなるべく泥を落として上がって下さいとある。箱から出て、残りの泥を滝湯で流してから大浴場に入る。女性は美容のため、顔を含め体全体に塗布するとか。またここにはオンドル棟もあって、年中地熱で床が温まっていて、リウマチや神経痛の湯治に使われているという。
 湯から上がって食事をして、帰りのバスの時間を見計らって温泉を出る。バス停までは300mばかりの上り、急ぐと息が切れる。バス停に着くと、左手に大沼が見え、湖畔に大沼温泉が、ここにもバス停がある。また目を右に転ずると、八幡平温泉が見える。
2.蒸(ふけ)ノ湯温泉 (秋田県鹿角市八幡平熊沢国有林内蒸ノ湯)
 後生掛温泉から八幡平頂上へ向かって、バスでアスピーテラインを標高で200mばかり登ったところに「大深温泉」のバス停があるが、そこから急な枝道をおよそ100mばかりクネクネと下ると、そこに「ふけの湯」のバス停がある。途中にスキーのリフトがあったが、今は使われていない。以前にはもっと高いところまでリフトが延びていて、蒸ノ湯まで滑り込んだというが、今はリフトは残骸となっている。バス停からさらに徒歩で下ると蒸ノ湯がある。木造の校舎のような建物で、玄関を入ると正面に「ふけの湯神社」が鎮座していて、左右に大きな一対の「金勢(精)さま」があり、その間には沢山の金勢さまが所狭しと並べられている。何でも此処の湯は「子宝の湯」として知られていて、子宝が授かった湯治客がお礼に金勢さまを奉納するのだとか。建物の中にも内湯があるが、はるか向こうに湯煙が上がっている大きな露天風呂が見えていて、そこへ入ることに。入湯料500円を払い、荷物を預け、露天風呂へ向かう。大きなヒバの浴槽が2つ、聞くと、元はこの場所に建物があったが、土砂崩れで倒壊し、建物は現在地に移したが、浴槽はそのままにして露天風呂として使っているとかである。浴槽の周りにはスノコが敷かれていて、湯から上がったらそこで寛ぐこともでき、ここでビールを飲んだら最高だろうなと話す。でも本館とはかなり離れていて、それは叶わない。湯量は大変多く、掛け流しである。ここは標高1100m、見上げると、一帯はブナやダケカンバの緑一色、何でもマイナスイオンの含有量が日本で最大とか、ともかく実に素晴らしい環境である。お湯は淡い乳白色をしていて、目にも優しい。上がって本館に戻り、食堂で地ビールと地酒を飲み、山菜そばを食べる。
 ここは「日本秘湯を守る会」の一員。営業は4月中旬から11月上旬まで、冬季は休業となる。
3.藤七温泉「彩雲荘」 (岩手県八幡平市松尾寄木北の又)
 バス停「八幡平頂上」にある八幡平パークサービスセンターから南に目を向けると、下に藤七温泉「彩雲荘」の赤い屋根が見える。いつかは一度行きたいと思っていた温泉だ。この日は新玉川温泉からバスで終点の八幡平頂上まで上り、頂上のバス停まで藤七温泉のマイクロバスで迎えに来てくれるように予めお願いしておいた。昨年は都合で送迎して貰えず、行けなかった。もっとも車道を歩いても約2kmと150mばかりの下りだが、帰りはその逆で大変である。藤七温泉からは、天気が好ければ、岩手山や秋田駒ケ岳、それに八幡平の南半分を独り占めしたように眺めることができる。何でも東北では最も高所にある温泉とか、標高は1400mである。従って営業は4月末日から10月末日までで、冬季は休業である。
 宿は二階建ての木造、冬は雪に閉じ込められる山の宿とて、立派なものではない。しかし、ここの露天風呂は実に素晴らしい。混浴の露天風呂は5箇所、それに女性用が1箇所、本館には内湯に続く外湯が男女各1つ、私達は玄関右手の露天風呂群へ出かける。日帰り入湯は600円、木戸を通って脱衣場から露天風呂へ、一番目の露天風呂には夫婦の先客がいた。乳白色のお湯は湯温を調節してある。暫く間があってから、ご婦人が一番上の露天風呂に行ってごらんなさいと。何でもその風呂では湯床からブクブクと気泡が出ていて、ジャグジーみたいな感じで気持ちがいいですよと教えてくれた。早速50mばかり先にある風呂へ坂を登っていく。その露天風呂はそんなに大きくはないが、入ると底からそんなに激しくはないものの、しょっちゅう気泡がそこここから出ている。こんな経験は初めてだ。どうもこの一番上の露天風呂のみが特に激しいらしい。一番高みにあるので、露天風呂全体を見下ろすことができ、実によい眺めである。順に下の風呂へと入りながら下る。風呂の泉質は少しずつ違うような印象を受ける。一番下の右手に簾で囲って大きく「女」と書かれた女性専用の露天風呂がある。上がって昼食にする。食事はバイキング、そばも出た。客は20人ばかり、今日は天気がよくなく、ガスがかかっている。少憩の後、マイクロバスで八幡平頂上のバス停まで送ってもらう。天気が良かったら最高だったろうに。聞けば、この湯も「日本秘湯を守る会」のメンバーだった。

 以下に、温泉巡りをした三湯の[泉質]と[適応症]を挙げる。
1.後生掛温泉。[泉質]酸性単純硫黄泉。[適応症]神経痛、リウマチ、喘息、冷え性、婦人病、血行障害など。[泉温]94℃。
2.蒸ノ湯温泉。[泉質]単純酸性泉・低張性酸性高温泉。[適応症]神経痛、リウマチ、婦人病など。「子宝の湯」として知られる。[泉温]96~98℃。
3.藤七温泉。[泉質]単純硫黄泉。[適応症]神経痛、慢性消化器病、糖尿病、皮膚病、動脈硬化症、婦人病、冷え性など。[泉温]91℃。

2009年8月27日木曜日

『傷は絶対消毒するな』 この非常識的常識

 この『傷は絶対消毒するな』という表題の本は、形成外科医である夏井睦(まこと)が、これまでの医学的常識に科学的根拠に基づいて挑戦した書であると言える。副題は「生態系としての皮膚の科学」とあり、この部分はある程度基礎知識がないと理解できないことも多いが、何ともショッキングな表題であって、少なくとも擦り傷、切り傷、軽い火傷については、これまで消毒第一だった常識が実は間違いであると断言している。そこでこのタイトルには書名の主題の後に、従来は常識だったパラダイムがそうではないということで、私は「この非常識的常識」をくっつけた。
 本書はまえ・あとがきと11章からなっているが、ここでは本書の主題に直接関係する章の内容について、これを読めば素人でも確実に治せるという手当てを紹介する。そして更にその傍証となる科学的根拠を知りたくなったら、光文社新書の本書を参照されたい。

1.はじめに
 冒頭、「普段何気なくしていることの中には、よく考えると、何故それをしているのか分からないものが結構ある」と、そしてその例として、「蕎麦に七味唐辛子」を挙げた。「大概のそば屋には七味が置いてあるが、どう考えても、蕎麦の繊細な風味は七味で殺される」と、また「七味をかけることで、蕎麦の味がよくなることも風味が増すこともない」と仰る。次に「ワサビを醤油に溶かして食べるのもおかしい。山葵の辛味成分は揮発性のため、溶かすとすぐに辛味も香りも飛んでしまうからで、辛みと香りが命のワサビなのに、なぜわざわざ不味くして食べるのか、ちょっと不思議である」とも。著者は、これは「皆がしているからしている常識」のパラダイムの類いだとしている。
 さて、傷の手当てだが、著者は素人にも浸透している[傷は消毒してガーゼを当てて乾かして治す]という治療法が、科学的根拠に基づいていないと指摘する。「傷が治るメカニズムが解明されているのに、なぜかその知識は研究者の間では知られているものの、実際に傷の治療が行われている医療現場には全く伝えられていない」という。そこで著者は傷が治るメカニズムに沿った治療を始めたという。その結果、『傷の湿潤治療』に行き着いたという。それは[傷を消毒しない][傷を乾かさない]という二つの原則を守るだけで、傷は驚くほど早く、しかも痛みもなく治ってしまうという、患者はもちろん、当の医師も驚いたという。

2.なぜ「消毒せず、乾かさない」と傷が治るのか
 この「外傷の湿潤治療(うるおい治療)」は、創傷治癒過程(傷が治る過程)の徹底的な研究成果に基づいて作り上げられた治療で、擦りむき傷と熱傷とでは原因は異なるが、治る過程は同じであり、要はその治る過程の邪魔をせず、助けてやりすればよいのだと。傷の治り方をみると、傷が浅くて毛穴が残っている場合には、毛穴(及び汗管)から皮膚が再生してくるし、毛穴が残っていない傷が深い場合には、先ず肉芽が傷を覆い、その表面に周囲から皮膚が入り込んで再生する。そして、この修復に 重要な働きをする新生された皮膚細胞や真皮や肉芽は乾燥状態ではすぐに死滅してしまうので、乾燥しないようにする必要があると。なんのことはない、人体を構成する細胞はすべて乾燥は大敵であって、しかも一旦死んでしまった細胞は絶対に蘇らず死骸となる。傷あとのカサブタはその残骸なのだそうである。ということは、傷を乾かさないようにすれば、傷の表面は新たに増えた皮膚細胞で覆われ、確実に皮膚が再生されるということになる。
 具体的には、[水を通さないもの、空気を通さないもの]で傷口を覆ってやればよいという。なぜなら傷口からは傷を治すための細胞成長因子という生理活性物質が出ていて、これが傷を治す働きをする。「膝小僧を擦りむいた時、傷口がジュクジュクしてくるが、これがその成分、つまり、人間の体は自前で傷を治すメカニズムを持っていて、この傷のジュクジュクはいわば人体細胞にとっては最適の培養液なのである」と。それで、[水を通さないもの、空気を通さないもの]で覆ってやると、「傷の表面は常に滲出液で潤った状態になって乾燥しなくなり、傷表面の様々な細胞は活発に分裂し、傷はどんどん治ってしまう」ことに。
 では、傷の上を覆うものは何がいいか。「実は何だって浴よく、人体に有害な成分が含まれてさえいなければ、(1)傷にくっつかない。(2)滲出液(=細胞成長因子)を外へ逃さない。この二つの条件を満たせば十分だが、さらに、(3)ある程度水分(滲出液)吸収能力がある。という条件が満たされればベストである」。(3)が必要なのは、皮膚は排泄器官でもあるので、皮膚を密閉すると、その機能が働かず、結果として汗疹(あせも)などができる。この三つの条件を満たした治療材料を「創傷被覆材」といい、病院での傷や床擦れの治療に使われ始めている。その一つがハイドロコロイドという素材で、現在「キズパワーパッド」という商品名で販売されている。また「プラスモイスト」という治療材料もこの三つの条件を満たしており、水分吸収能力という点では後者が優れていて、素人にも安心して使える。そしてこれらが入手できない場合には、ラップ(サランラップなど)を用いてもよい。ただラップは吸水力が全くないので、汗をかく時期には一日に数回ラップを剥がし、傷周囲の皮膚をよく洗って貼りかえる方がよいという。
 「湿潤治療」の特徴をまとめると、次のようになる。(1)傷の治りが早い。(2)湿りで痛みがなくなる。(3)擦りむいた傷も深い傷も熱傷も同じ方法で治療できる。(4)消毒薬も軟膏も不要。(5)最低限、水とラップと絆創膏があれば治療できる。(6)治療方法が簡単、簡便。

3.傷の正しい治し方
 治療に当たって必要なものは、先ず創部を洗浄する水で、飲用できる水や糖分が入っていないペットボトルのお茶でもよい。次に、創部をきれいにするため、血液や汚れを拭うためのタオルやティッシュペーパー、ガーゼなどが要る。それと創部を覆うもの(プラスモイスト、市販のハイドロコロイド被覆材、食品包装用ラップ、白色ワセリンなど)と絆創膏や包帯などである。
 [一般的な傷の治療] (1)出血があれば、先ず出血を止める。これには創部にタオルなどを当てて、その上から軽く圧迫すれば数分で止まる。(2)傷の周りの皮膚の汚れを拭き取る。もし傷の中に砂などが入っていたら、水道かシャワーで洗い落とす。(3)ハイドロコロイドの場合は、直接傷の上に貼る。絆創膏は不要。(4)プラスモイストの場合は、傷よりやや大きめのサイズに切って、薄く白色ワセリンを塗って傷を覆い、絆創膏で固定する。(5)ラップの場合は、ラップの上にタオルかガーゼを当て(漏れ出てくる滲出液を吸収するため)、その上から包帯を巻く。(6)ハイドロコロイドとプラスモイストは1日1回は貼りかえる。ラップの場合は、寒い時期なら1日1回、暑い時期なら1日2~3回交換する。いずれも交換の際は、傷周囲の皮膚をよく洗って、汗や滲出液を十分に洗い落とす。この操作は大事である。(7)傷の部分がツルツルした皮膚で覆われ、滲出液が出なくなったら、治療終了。(8)顔など露出部の場合は、再生された皮膚は紫外線に当たると色素沈着を起こしやすいので、市販のUVカットのクリームなどを塗り遮光する。期間は3ヵ月程度。
 [ヤケドの治療] (1)水疱はできていないが、赤くてヒリヒリするヤケドの場合、面積が小さい場合はハイドロコロイドを貼付、面積が広ければプラスモイストやラップに白色ワセリンを塗布して貼れば、ヒリヒリした痛みはすぐに治まる。半日程して剥がし、赤みがなくなってヒリヒリ感がなくなれば治療終了。日焼けの場合も同様である。(2)小さい水疱ができている場合には、そのまま白色ワセリンを塗ったプラスモイストやラップで覆い、交換を続けて水疱が平らになったら治療終了。(3)水疱が2~3cm以上だったら、水疱を破って膜を除去する。そして白色ワセリンを塗ったプラスモイストやラップで創面を覆う。交換する際に新たな水疱ができていたら必ず除去し、同様の処置をする。水疱の部分が乾燥してツルツルした皮膚で覆われたら治療終了。
 [病院を受診した方がよい外傷] 次のような場合は、必ず病院を受診してほしい。 (1)刃物を深く刺した。(2)異物(木片、金属、魚骨など)を刺し、中に破片が残っている。(3)古い釘を踏んだ。(4)動物に咬まれて血が出ている。(5)動物に咬まれて腫れている。(6)深い切り傷とか大きな切り傷。(7)皮膚がなくなっている。(8)切り傷で出血が止まらない。(9)指や手足が動かない。(10)指などが痺れている。(11)大きな水疱ができているヤケド。(12)面積が広いヤケド。(13)貼るタイプのアンカ、湯たんぽ、電気カーペットなどによる低温熱傷。(14)砂や泥が入り込んでいる切り傷や擦りむき傷。(15)赤く腫れて痛みがある傷。

4.消毒薬とは何か
 消毒薬は家庭常備薬の王で、細菌も殺すが、人間の細胞膜タンパクも破壊し、細胞を死滅させる。消毒薬は傷口の破壊薬なので、消毒薬で傷口は破壊され、痛むことに。すなわち、消毒薬による傷の消毒というのは、言ってみれば「傷の熱湯消毒」と変わりない。というわけで、一生懸命に傷を消毒すればするほど、傷の治療は遅れ、場合によっては傷が深くなり、その結果として傷が化膿する危険性も高くなる。でも消毒薬は現代医療になくてはならないもの、消毒は医療活動とは切っても切れない関係になっている。正に消毒文化というべきか、喫煙文化と似ている。かくしてこのように根拠もないのに、その時代の誰もが盲信していることを「パラダイム」という。

5.「化膿する」とはどういうことか
 傷の化膿とは、医学的には「細菌感染によって傷が炎症を起こしている状態」とされるが、素人的には「膿が貯まっているか、膿が出ていて、傷の周りが赤く腫れていて痛い」ということになろうか。突き詰めると、「痛い」か「痛くない」かが重要である。だから、傷口に細菌がいても化膿しているとは言わないし、細菌が入っても化膿するわけではない。例えば、切れ痔の傷は大便の無数の細菌に曝されるが、化膿することはないし、口の中の傷もいつも口内細菌に曝されているが、化膿することなく治る。しかし、「傷から細菌が入ると化膿する」と小さい時から教えられてきた。でも犬や猫は傷口を舌で舐めて治してしまう。この一見矛盾する事実の説明は、傷の化膿にとって細菌の存在は必要条件だが、十分条件ではないということだ。細菌だけで化膿するのではなく、もう一つの条件の「細菌が増殖できる場」が必要で、細菌といえども増殖できる場がなければ、傷を化膿させることはできない。
 細菌といえども生物であり、水と栄養分がなければ生きて行けない。「細菌は乾燥状態では増殖できない」のは事実だが、これが傷の治療を誤った方向に導いてしまった。では細菌が傷口から入ったとして、どこで増殖するのだろうか。傷の場合で多いのは血腫(創内に出血した血液が吸収されずに残っている血の塊)で、元は自分の血液であるが、血腫内部には免疫細胞は移動できないし、抗生物質も届かない。つまり、細菌にとって血腫は栄養満点の格好の増殖環境となる。要は「溜まって澱んでいる」場所で細菌は増殖する。だから血液でなくリンパ液が溜まっても、また傷口から出た滲出液も澱めば感染源になる。ラップやプラスモイストを1日1回交換し、創傷部分を清拭するのもこのためである。

6.あとがき
 私は主にこの本の前半の「傷の治療」の部分を紹介した。この本を通じて著者が言いたいことは、「医学はどこまで科学に迫れるか」という命題であり、これは「科学的思考で医学の諸問題をどこまで解決できるか」という挑戦でもある。しかし一方で「医学は芸術である」と高吟された高名な医師もおいでる。これは医学における事象が、物理実験や化学実験のように再現性がほとんどないことに起因していて、結果としてそう言わしめている可能性はある。近年EBM(根拠に基づいた医療)が医学に導入され、一見科学的根拠が取り入れられたような感があるが、正しいと判断する基準が曖昧で貧弱である以上、科学的とは言うものの、実は科学とは程遠い。著者が行っているケガやヤケドの治療は極めてクリアカットで、生物学や化学の基礎的事実に合致した現象しか起きていない。少なくともケガやヤケドの治療に関する限り、診断も治療も科学だと言える。しかしこのような論理性は、ケガやヤケドの治療にしか現れない特殊な現象であって、他の医学分野にはないと考えるのはおかしいと言わざるを得ない。今、著者は人間の体を一つの生態系として捉え、全く新たな視点から人間の病気、感染症の関係について再構築できるのではないかという可能性を探っているが、今後の進展を期待し、医学界に革命的な新風を吹き込まれんことを望む。
 この書は、表題もさることながら、実に優れた医学の啓蒙の書となっている。

2009年8月24日月曜日

東北の秘湯:乳頭温泉郷(2)

 新玉川温泉に逗留した1日、朝4時半に起き、玉川温泉まで朝の冷気を浴びながら、山道を20分歩いて岩盤浴に出かける。この時間にはもう8割方、場所は埋まっている。目指す場所がある人は、辛抱強くそこが空くのを待っている。岩盤浴は大体1時間位温まるのが目安で、それ以上居る人はまずいない。この日は日中は乳頭温泉郷の先達川に沿った温泉の湯巡りをすることにする。新玉川温泉から田沢湖駅へ行くバスの一番は9時30分、羽後交通の路線バスである。バスは標高800mの高原から玉川沿いに南下し、玉川ダム(宝仙湖)の縁を巡り、田沢湖へと下る。湖畔でジャンボタクシー(10人乗り)をチャーターし、先ずは乳頭温泉郷へ向かう。
 田沢湖からは乳頭温泉行きのバスは出ているが、行き先の「乳頭温泉」は「乳頭温泉郷」といった方が正確かも知れない。乳頭温泉というと鶴の湯温泉と思いがちだが、鶴の湯へは路線バスなら「鶴の湯温泉旧道口」で、黒湯温泉なら「国民休暇村」で下車して、どちらも30分位歩かねばならない。路線バスで直接に行けるのは、終点の「乳頭温泉」下車の大釜温泉と、一つ手前の「妙乃湯温泉」の妙乃湯温泉のみである。
 タクシーの運転手は実に親切で、いろんな話をしてくれる。それで温泉巡りの話をすると、黒湯温泉から反時計回りに、孫六温泉、大釜温泉、蟹場温泉、妙乃湯温泉と巡って、妙乃湯温泉からバスで田沢湖へ戻った方がよいと教えてくれた。タクシーは秋田駒ケ岳(1637m)の山裾を巡り、さらに山奥へ、前方に乳頭山(1477m)が見えてくる。一見して女性の乳房そっくりの山体、しかも頂上が乳首のように尖っている。別名は烏帽子岳である。乳頭スキー場を過ぎると休暇村田沢湖高原に着く。ここにも温泉が出ている。ここから県道のバス路線を外れて林道に入る。車の交差をする待避所が所々にあって、番号が付されている。湖畔から30分ほどで駐車場に着いた。車なら30台は止められる位の広さ、黒湯温泉や孫六温泉へ車で来る人はここで車を止めることになる。乗合タクシーの料金は7千円、一人千円とは安い。
3.黒湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖生保内黒湯2-1
 駐車場から急な山道を下ると、すぐに茅葺きの屋根が下に見えてくる。黒湯はこの温泉郷では最奥に位置している。開湯は鶴の湯に次いで古いと言われ、一時は鶴の湯を凌ぐ賑わいだったとかで、「鶴の湯」に対して「亀の湯」と呼ばれた時期もあったようだ。でも開業したのは大正になってからという。宿は数棟あり、湯治客のための自炊棟もある。入湯料はこの温泉郷では妙乃湯を除いてすべて500円である。
 早速混浴露天風呂がある「上の湯」へ行く。白濁した温泉水と温度調節のための先達川の渓流が樋を伝って流れ込む仕掛けになっていて、一方は熱め、もう一方は温め加減になっている。木で組んだ湯船には10人は入れようか、かなり広い。お湯はやや青みを帯びた白濁した湯だが、サラッとしているのは川の水を導いているせいだろうか。もちろん内風呂もある。ほかに、打たせ湯や内湯、女性専用の露天風呂もあって、こちらは「下の湯」と言われていて、お湯はやや重いとされている。泊り客は、朝は「上の湯」、晩の寝る前には「下の湯」という入り方をするそうだ。鄙びた素朴な開放感のあるお湯に浸っていると、正に極楽である。従業員の方の応対もよく、実に清々しい。
 次に行く孫六温泉への道を聞くと、一旦元の駐車場へ戻ってから行くよりは、山道を辿れば5分位で行けますと言われる。
4.孫六温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林)
 温泉脇の人一人通れる位の細い径を下ると、程なく駐車場からの広い道に出た。なおも下っていくと、先達川の向こう岸に孫六温泉が見えてきた。川に架かる木橋を渡るとそこが孫六温泉である。受付に男の人が一人、ここの親父さんなのだろうか。次に行く大釜温泉への道を聞いても、茅葺きの小屋の脇に道があるとだけ、えらくつっけんどんだ。黒湯温泉が賑々しく親切だっただけに、粗野な感じがする。内風呂は勿論、露天風呂がどこにあるかも分からない。うろうろしていると、標柱に案内があった。ここには4つの源泉があるとかで、それぞれに湯小屋があり、点在している。始めに「石の湯」に入る。
小屋の中に、石切り場の石を切り出した後の穴蔵のような雰囲気の湯船、冷たい暗い感じがする。早々に出て、外の石で囲った混浴露天風呂に移る。底も石で固めてある。お湯は無色透明、無味無臭である。ほかに内風呂が3つ、露天風呂が3つあるそうだが、2つ入ってここを出ることにする。茅葺きの小屋まで行くと、道があり、ここまで軽自動車が入ってきている。下流に向かって20分ばかり歩くと建物が見えてきた。
5.大釜温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
 建物は学校の校舎そのもので、入口には「乳頭温泉小学校分校」の標識、二宮金次郎の石の像もある。何でも温泉宿は火災で全焼し、その年廃校になった分校の校舎を移築して営業を再開したとか。建物の正面には大きな丸い大時計もある。時間は丁度お昼、食事をしたいと言ったが、昼食は出していないという。もう一つ下のバス停にある妙乃湯さんだったら出すかも知れませんとかで、此処はパスすることにした。聞くと強酸性の熱泉が源泉とか。外には足湯もある。この温泉の前が、終点「乳頭温泉」のバス停である。
6.妙乃湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖生保駒ケ岳2ー1 
 バス道路の県道を3分ばかり歩いて橋を渡ると、左手に妙乃湯が見えてきた。見た目には旅館という雰囲気で、ここでは湯治と言う雰囲気は全く感じられない。聞くと、今時予約が難しい温泉宿の一つだという。昼食はと聞くと、出せますとのことで、上がることにする。ここの入湯料は、他より200円高い。混浴露天風呂には「金の湯」と「銀の湯」があり、金の方は鉄分を含むのか黄土色の濁った湯、一方銀の方は無色透明、どちらも遠泉水と湧き水とを混ぜて湯温の調節をしている。渓流の豪快な流れを眺めながらの入浴、なんとも気分は最高である。金と銀とに交互に入る。また建物の2階に内風呂「喫茶去」というのがあると案内があったので、何かと興味津々、行くと木で組まれた大きな湯船の底に、黒い中位の玉石が敷き詰められた風呂で、立って入ると足裏のツボが刺激される仕掛けになっていて、気持ちが良い。珍しい趣向である。
 私は内風呂を終いにして、食事をする妙見の間に戻ったが、約何人かは混浴露天風呂に残っていた。するとそこへ赤ん坊を連れた外国人の夫婦が入って来られたとかで、相棒達が部屋へ戻ってくるのは随分と遅かった。私達が食事をしていると、件の外国人夫婦も上がってこられたが、中々綺麗な方だった。帰りのバスはこの宿の玄関の真ん前に止まるという。破格の待遇である。今の繁盛になったのは、今の女将が建築会社で仕事をしていて、建物も調度もセンスの高いものにしたからとかで、特に女性に人気が高いということだった。
 この後、県道の最奥にある蟹場温泉へ行く予定だったが、新玉川温泉までバスで帰るとすると、15時のバスを逃すと帰られなくなるので、割愛することにし、またの機会とする。
7.蟹場温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
 行けなかったが、簡単な紹介をしたい。開湯も開業も江戸末期という古い温泉場だが、現在は建物は近代的な旅館に建て替えられている。この温泉の先代は村長をしていて、氏の尽力で乳頭温泉郷までの山道が県道に整備されたという。蟹場温泉は、その県道の最奥に建っている。この温泉の自慢は露天風呂の「唐子の湯」で、本館から雑木林の中の一本道を歩いて行くと、渓流沿いに広々とした露天風呂が現れるという。夜には湯屋には灯りが入り、幻想的な雰囲気が現出され、写真にはこの灯りが入った情景の写真が多い。
8.休暇村・田沢湖高原 (秋田県仙北市田沢湖生保駒ケ岳2-1)
 乳頭スキー場の先、乳頭温泉郷の入り口にあり、近代的な設備が整っている。

 以上8つが乳頭温泉郷8湯で、外来入浴できる7湯というのは、鶴の湯別館を除く温泉を指し、乳頭温泉巡りという場合にはこの7湯巡りを指す。因みに7湯の代表的な泉質と適応症を挙げる。
1.鶴の湯温泉 [泉質]含硫黄・ナトリウム・カルシウム・塩化物・炭酸水素泉。ほか3種。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症、リウマチ、皮膚病、糖尿病ほか。
3.黒湯温泉 [泉質]単純硫化水素泉。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症、抹消循環障害、糖尿病ほか。
4.孫六温泉 [泉質]ラジウム鉱泉。ほか3種。 [適応症]胃腸病、皮膚病(蕁麻疹)、創傷ほか。
5.大釜温泉 [泉質]酸性含砒素ナトリウム塩化物硫酸塩泉。 [適応症]真菌症(水虫)、慢性膿皮症、リウマチ性疾患ほか。
6.妙乃湯温泉 [泉質]カルシウム・マグネシウム硫酸塩・単純泉。 [適応症]動脈硬化症、皮膚病、消化器病など。
7.蟹場温泉 [泉質]重曹炭酸水素泉。 [適応症]糖尿病、皮膚病ほか。
8.休暇村・乳頭温泉郷 [泉質]単純硫黄泉・ナトリウム炭酸水素泉。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症など。

2009年8月18日火曜日

東北の秘湯:乳頭温泉郷(1)

 私が住んでいる石川県石川郡野々市町本町二丁目西地区(旧町名は新町)では、還暦を過ぎた男衆を中心に壮年部を結成し、毎年3月初めには温泉の1泊旅行、また湯治と称して、有志が4泊5日で秋田の玉川温泉もしくは新玉川温泉へ毎年出かけている。私も都合がつけば出来るだけ参加することにしている。玉川温泉というのは、西洋医学治療で見放された病人でも、何故か此処で湯治していて本当に治ったという例もあって、人気の湯治場である。この温泉の特徴は、一つは強酸性(pH1.2)の熱泉ともう一つは北投石に代表される低レベル放射線で、これが様々に相互影響しあって良い効果をもたらすようである。この効果を科学的に解明するために、「玉川温泉研究会」なる組織が昭和18年(1943)に東北大学をコアにして設立され、今日に至っている。岩盤浴で放射能を浴び、強酸性のお湯に浸かって湯治をするのだが、どちらも長く浴びたり浸かったりすると、かえって副作用が出て、湯中りがひどい。したがって、その間は休まねばならないが、そこでこの昼間の空き時間を利用して、近郷の温泉巡りをすることにしている。先ずは2年にわたって巡った乳頭温泉郷について書いてみたい。
1.鶴の湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
 傷ついた鶴が湯浴みをしているのを勘助というマタギが見付けたことから、「鶴の湯」と名付けられたといわれている。開湯は江戸時代初期といわれ、元禄時代には湯守がいて、農家の人達の湯治場として賑わったとある。ここへは秋田新幹線の田沢湖駅へ向かうバスで田沢湖畔もしくは田沢湖駅で降り、タクシーに乗り継いで行くことになる。バスで行く場合は、乳頭温泉行きのバスに乗車し、鶴の湯温泉旧道口で下車し、山道を30分ばかり歩かねばならない。バスの本数は少なく、バスも数社乗り入れのため、乗り継ぎはスムースではない。
 鶴の湯温泉と他の乳頭温泉郷の温泉とは若干離れていて、鶴の湯以外の温泉相互間の距離は徒歩で5~20分程度だが、鶴の湯へは約1時間はかかる。したがって、鶴の湯も含めて全湯を一巡するには、日帰りは到底無理で、二つは別に企画するか、もしくはどこかに1泊する必要がある。林道は鶴の湯までついているが、自家用車で入ることは出来ないようで、その場合は別館の「山の宿」まで車で入り、奥の鶴の湯温泉へはブナ林の遊歩道を30分位さらに歩く必要がある。
 鶴の湯温泉は、この温泉郷の中では最も人気があるお湯で、現在では春夏秋冬利用できる。以前は冬は閉鎖されていたが、今は冬でも営業している。ただ昨年には裏山で雪崩が発生して、露天風呂で入浴していた女性が亡くなったことがあった。車を降りて砂利道を進むと、江戸の町の木戸を思わせる門があって、本陣「鶴の湯」と大きく墨書してある。江戸時代を思わせる本陣と呼ばれる宿舎と湯治棟の間を通って行くと、奥に男女別の木造の湯小屋が3棟あり、なおも進むと、その先に白濁した少し青みを帯びた乳白色の大きな混浴露天風呂とその奥に女性専用の露天風呂が見えてくる。湯小屋や露天風呂は一見無造作な配置、しかも湯小屋の屋根はすべて杉皮で葺かれていて、実に風情がある。
 私達が訪れたのは初夏の一日、駐車場にはマイクロバスが1台いたきりで、混んではいなかった。入湯料を払って混浴の露天風呂を目指す。乳白色のお湯が庭一杯に広がっていて、溢れている。周りは深い森、今は一面緑だが、秋の紅葉も、冬の雪景色も、また夜の満天の星も素晴らしいだろう。私達が入っていたら、奥の女性専用の露天風呂から、妙齢の女性が「お邪魔しても宜しいですか」と言って入って来られた。簾で囲った風呂よりこちらの方が開放的で素晴らしいと仰る。旦那さんも交えて暫し談笑する。ツアーでの参加で、泊まりは此処ではないとか。お湯は他にも内湯の黒湯、白湯、中の湯があるが、露天風呂とは離れていて、泊り客ならば浴衣姿で回れるが、日帰り客だと回り辛い。件のご婦人では、この湯が最高、四方板で囲われた湯小屋は、湯治の方ならともかく、日帰り観光でおいでたのなら、ここで十分ですとのご託宣、ここで終いにする。此処は人は多いというものの、正に秘湯である。聞けば鶴の湯は「日本秘湯を守る会」の会員であるとか。因みに石川県にも4湯あるという。
2.鶴の湯別館 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢湯の岱1-1)
 鶴の湯の下流2kmのところに、鶴の湯本館のお湯を引いて営業する鶴の湯別館「山の宿」がある。でもこの湯は泊り客しか利用できず、乳頭温泉郷で唯一日帰り入浴ができない宿となっている。まだ開館して10年たったばかりという。

2009年8月13日木曜日

小林よしのり編「日本を貶めた10人の売国政治家」を読んで

 この本の発刊は7月10日で、25日に第三刷が発行されている。前田書店のブログ「めくれない日めくり日記」に、主の秀典氏が8月2日と3日にこの本の紹介をしている。興味をもって読んだが、偶然か当の秀典氏からの勧めでこの本を読むことになった。表題の本は幻冬舎新書である。「売国」とは大げさなとは思ったが、読むにつれて正にそれに該当する御仁がいて、しかも今ものうのうと、秀典氏の言を借りれば、売国奴呼ばわりされた位では蛙の面にナントカで、屁とも思わず平然としているのを見ていると、この程度ではまだまだ手ぬるいのではと思ったりもする。この本では、20人の学者・言論人に登場してもらって、断罪すべき政治家5人を理由を付して挙げてもらい、1位に5点、2位に4点と順に点を振って集計している。持ち点は一人15点になるから、総点数は300点になる。さて、「売国」とは何か、本では広辞苑ほかを引用しているが、自国に不利益、敵国に利益は分かるが、その中に「私利のため」とか「私利をはかる」とあるが、この部分はどうもしっくりしない。

 でははじめに、その集計結果(順位・点数)と『売国政治家名』、その〔検証者〕と標榜するタイトル、それと文章の小節の頭の見出しを書き出して紹介する。これを見れば罪状の凡その見当はつくというものだ。その後で私の選んだ不届きな輩を書き出してみようと思う。
 第1位:単なる談話で日本を「性犯罪国家」に貶めた『河野洋平』52点.〔八木秀次〕:(1)証拠もないのに慰安婦問題を内外に謝罪した河野談話.(2)「河野談話」に先立つ「加藤談話」.(3)天皇訪中という宮澤内閣の大罪.(4)そもそもフィクションから生まれた慰安婦強制連行説.(5)一貫して軸足が日本にない政治家.(6)巨悪にすらなれない最悪の売国奴。
 第2位:万死に値する「国民見殺し」「自国冒涜」の罪『村山富市』45点.〔高森明勅〕:(1)大震災でも緊急災害対策本部を設置せず.(2)政治信条のために国民を見殺し.(3)「国民見殺し」の背景にあった歴史認識.(4)理性があれば出せない「村山談話」.(5)万死に値する売国奴政治家。
 第3位:「改革」で日本の富と生命を米国に差し出した『小泉純一郎』36点.〔関岡英之〕:(1)政治家小泉純一郎の本質.(2)大蔵族としての小泉純一郎.(3)保険族としての小泉純一郎.(4)どうしても総括されなければならない前回選挙の本質.(5)そして日本の医療が崩壊した.(6)小泉構造改革の本質は「朝日新聞」が喝采する日本崩壊。
 第4位:「ねじれ現象」を生んだ無節操な国賊『小沢一郎』29点.〔西尾幹二〕:(1)何も変わっていない民主党,三つのグループの正体.(2)小沢が権力維持のために手離さない人事とカネ.(3)ねじれ現象をつくった張本人.(4)もはや国連中心主義にリアリティはない.(5)外国人の地方参政権を認める愚。
 第5位:靖国問題をこじらせた元凶『中曽根康弘』22点.〔大原康男〕:(1)「公式参拝」を復活させるも方式に重大な問題.(2)中国に抗議され安易に中止する.(3)純然たる国内問題を外交の犠牲に供した不見識さ.(4)A級戦犯の合祀取下げを密かに画策.(5)国立戦没者追悼施設のルーツも中曽根.(6)戦犯の処遇は講和条約とは何の関係もない.(7)国家の威信を損ね,国内にも不思議な亀裂。
 第6位:自虐外交の嚆矢となった「不戦決議」『野中広務』16点.〔潮 匡人〕:(1)根拠をベールに隠して攻撃する.(2)中国・朝鮮への歪んだ歴史認識.(3)最悪の「村山談話」を生んだ野中の「不戦決議」.(4)引退後もメディア露出を続けるダーティーな輩。
 第7位:日本国を構造破壊し共和制に導く経済マフィア『竹中平蔵』12点.〔木村三浩〕:(1)カジノ資本主義の推進者.(2)国富,国益,社会を「献米」する代理人.(3)共和主義者として構造破壊に奔走する仕掛け人。
 第8位:無為,無内容,無感情『福田康男』11点.〔潮 匡人〕:(1)総理になりたくなかった男の空虚な中身.(2)真面目ですらなかった黙殺と放棄の男.(3)軽薄な偽善と売国の所業の数々。
 第9位:保守を絶滅に追い込んだ背後霊『森 喜朗』10点.〔勝谷誠彦〕:(1)国柄を貶めた売国奴ウイルス.(2)「横入り」の男が上りつめた首相の座.(3)密室での談合で決定した後継首相.(4)事欠かない「サメ並の頭脳」の証拠。
 第10位:戦後レジームの滑稽なゾンビ『加藤紘一』10点.〔西村幸祐〕:(1)はずかしき「自民党リベラル」.(2)戦後レジームのゾンビ.(3)二つの大罪ーご訪中と加藤談話.(3)北朝鮮を利する発言を繰り返す。
 なお、次点は『土井たか子』の9点だった。そのほかに19人(5点~1点)がいる。

 次に、点数でなく、20人が選んだ人を多い順に羅列してみた。すると、1位は15人が選んだ『河野洋平』、2位は12人が選んだ『村山富市』、3位は9人の『小沢一郎』、4位は8人の『小泉純一郎』、5位は6人の『中曽根康弘』『加藤紘一』『野中広務』、8位は5人の『福田康夫』と『土井たか子』、10位は3人が選んだ『森 喜朗』と『竹中平蔵』だった。そのほか、2票が3人、1票が16人いた。

 さて、私ならどうしようか。先ず挙げたいのは、小泉ー竹中ラインによる小泉改革路線の推進に功のあった『小泉純一郎』(第1位)と『竹中平蔵』(第5位)である。先ず「郵政民営化」であるが、これは小泉がまだ一匹狼の頃からの20年来の念願だった。大蔵族でもあった小泉は、日本の金融界と大蔵省の悲願でもあった郵政民営化を遂に実現した。郵便貯金と簡易保険は目の上のタンコブだったわけだ。しかし、一見国内問題にみえる民営化の根底には、米国保険業界の強力な要望と後押しがあったことは表に出てはいない。郵政民営化選挙では、民営化だけが先走りして、民営化イエスかノーかで、国民の代表として暫し塾考をと待ったをかけた良心的な議員に「抵抗勢力」「守旧派」「族議員」のレッテルを貼り、選挙では落下傘で刺客を送り、多くの有能な人材が議席を奪われた。マスメディアは小泉劇場と囃し立て、ニセ改革の旗手小泉へ忠誠をつくす小泉チルドレンに代表される操り馬鹿人形ばかりが当選した。国民は「改革」という迷い言に乗せられ、完全に騙されたわけである。衆議院で3分の2を確保し、小泉の人気最後の1年は、参議院でも過半数を占めている状態が続き、何でも好き放題にできた。こうして郵政民営化は小泉ー竹中の二人三脚で押し通された。刺客に敗れた城内実氏は郵政民営化をこう説明している。「魚を三枚に下ろして、骨の部分(郵便事業)は捨ててしまい、美味しい切り身の部分、つまり郵貯と簡保を米国金融業界に『どうぞ』と差し出す。これが小泉ー竹中のやり方だ。」と。この二人は我が国を巧妙に支配する二つの見えざる権力、すなわち米国と旧大蔵省の『忠実なポチ』にしか過ぎないと。
 もう一つの大罪は後期高齢者医療制度の導入である。衆議院でも参議院でも過半数を占めた時期に、米国保険業界の強い外圧で、米国追随の医療制度改革を行った。高齢者の財政負担を重くし、国の負担を軽くし、病気は自己負担で解決しなさいと迫り、不安なら米国資本の民間保険会社の医療保険に入りなさい、出来ない人は早く死んでしまいなさいという内容だ。今の野党三党は郵政民営化の見直しと後期高齢者医療制度の廃止を訴えて選挙を戦っている。正しい国民の審判が下ることを臨む。
 第2位には「村山富市」を挙げよう。社会党委員長で、本来なら万年野党で到底与党にはなれないのに、自民党のお御輿に乗せられ、総理大臣に祭り上げられてしまった。当然のことながら、党是の自衛隊違憲、日米安保反対は後退してしまい、この無節制は社会党の凋落につながることになる。そして国賊として逃れられない罪の一つは、あの阪神・淡路大震災での対応の馬鹿さ加減である。首相というのは、国民の生命・財産を守るべき最高責任者なのに、おかしな潜在意識から、自衛隊の出動要請をせず、また米軍の援助も断わり、あたら時間を浪費し、結果として多くの人命・財産が失われ、多くの国民を見殺しにした。災害対策基本法では甚大な被害が見込まれるときは、災害緊急事態を布告し、総力を挙げてこれに対応することになっていて、それには警察・自衛隊の出動も含まれる。でも意識下にはこれが戦前の戒厳令的なものと認識していたと。第一義的には当時の貝原兵庫県知事の信じがたい無為無策であるが、村山首相が官邸に入ったのは地震発生後1時間半後、自衛隊出動要請は4時間後、それも数の制限をしたという。5時間半後には非常災害対策本部ができたものの、これは国務大臣がトップで、首相がトップの緊急災害対策本部とは権限もスケールも違う。初の緊急閣議が開かれたのは28時間後、緊急災害対策本部はとうとう設置されなかった。私もテレビの画面を見ていたが、はじめは神戸市の2箇所でのみ火災が起きていただけだったのに、みるみるうちに火は広がっていった。病気でも早期発見、火事では初期消火が肝心なのに、なんとしたことか。それで3日後には緊急対策本部が設置されたが、「災害」が抜けた本部は何をしたのだろうか。この大震災の死者は6千5百人、負傷者は4万4千人、被害総額は9兆6千億円、発生後1時間以内に対応しておれば、この数字はずっと小さなものになっていたろう。村山首相の釈明では、「ナニブン初メテノ経験デスシ、早朝ノ出来事デシタカラ」と信じられない能天気、恐るべき危機管理意識欠如である。この大震災の犠牲の大部分は天災ではなく、村山首相本人の確信犯的な救助放棄による人災だったと言える。
 今一つは売国奴的な「村山談話」である。閣議決定されたというこの総理談話は、後々の今日でも生きていて、誤字があるのも問題だが、それより日本にとっては大きな足かせ、中国、韓国、北朝鮮にとっては格好の大歓迎談話である。正に売国奴面目躍如というべきか。妙な文章の一部を引用する。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を進んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべきもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明します」。
 第3位は「河野洋平」、第4位は加藤紘一」である。河野は衆議院議長を憲政史上最長の在任期間務めあげた。売国罪状の最たるものは、、宮澤喜一改造内閣での官房長官として発表した「慰安婦関係調査結果に関する河野官房長官談話」で、証拠もないのに日本が性犯罪国家であることを印象付けた、いわゆる「河野談話」である。この伏線となったのが、前任の官房長官である加藤紘一の「加藤談話」である。ここで加藤は、「従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できず、衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」とした。そして韓国の小説「修羅道」の中で、当時の『赤紙』と『女子挺身隊』、それに日本兵の『慰安婦』をゴッチャにして、あたかも慰安婦の強制連行があったかのごときストーリーを真に受け、「河野談話」がでっち上げされた。少なくとも政府が調べた資料の中には強制連行を示す記録は全くなく、歴史的事実はないとしているのにである。談話では、「官憲等が慰安婦の強制連行に直接加担したことを歴史の事実として認め、全面謝罪したばかりか、歴史教育を通じて永久に国民の記憶にとどめる」とした。この両談話は今日もなお外務省のHPに掲げられている。
 河野はこんな思想の持ち主であるから、靖国神社への参拝には一貫して反対している。それどころか、歴代の総理大臣には電話であるいは公邸に呼んで、参拝自重をお願いしているというが、これは越権行為だろう。そして毎年の全国戦没者追悼式では、「河野談話」と同じ感覚で、日本軍の加害について述べ、謝罪とお見舞いを言っているが、戦没者の霊に向かって言うのは礼を失しているのではないか。「河野洋平」は「江(沢民)の傭兵」とも言われる所以である。
 私見では、この本での10人のうち私が挙げた5人は正に売国奴と言える。そのほかには「中曽根康弘」と「野中広務」も臭い。でも、「小沢一郎」、「森 喜朗」、「福田康夫」は国賊とは言えても売国奴ではないと思う。

2009年7月27日月曜日

近代になっての剱岳初登と錫杖頭・鉄剣の発見

小説「剱岳 点の記」と映画「剱岳 点の記」
 映画「剱岳 点の記」は新田次郎の同名の小説を映画化したものである。この小説が出版されたのは昭和52年(1977)8月で、この小説を書くにあたって、新田次郎は2年にわたって多くの取材をしているほか、前年には剱岳にも登頂している。しかし取材したことをすべて小説にそのまま反映させているわけではなく、、ノンフィクションのようで実はそうではない。主人公は陸軍参謀本部陸地測量部に所属する柴崎芳太郎測量官が前任の古田盛作の後を継いで、地図の空白地域としての剱岳に三角点を設置しようと一途に努力し、四等ではあるが造標することができた物語である。それには先ず剱岳に登頂しなければならないわけで、山の案内人には前任者からの薦めもあって、大山村の宇治長次郎を選んでいる。立山周辺の三角点設置には、これまで立山信仰の拠点である芦クラ寺の人達に山の案内や機材・資材を運ぶ人夫を頼んできたが、剱岳は信仰では死の山、決して登ってはならない山と位置付けされていたために、芦クラ寺での案内人・人夫の調達は出来ず、代わって対岸の大山村に協力を申し出た経緯がある。
 ところで小説では、柴崎芳太郎測量官が主役、宇治長次郎が重要な脇役となっている。初登頂されたのは明治40年(1907)、前年には夏から秋にかけ、大山村の長次郎の家を根拠地にして、柴崎と長次郎は剱岳の登路を探るための下見をしている。そして尾根伝いでは早月尾根も別山尾根も頂上直下に岸壁があり、三角点の標石や測量機材・資材を上げることは困難と判断、残るルートは東面の沢をまだ雪渓が残っている時期を見計らって登ることにし、そしてこの沢筋のルートから登頂できた。第1回目の登頂は、明治40年(1907)7月12日、登頂者は測夫の生田信(ノブ)と人夫の宇治長次郎、岩木鶴次郎、宮本金作、第2回目の三角点測量標建設には、7月27日に柴崎芳太郎測量官、木山作吉測夫と人夫の宇治長次郎、宮本金作、山口久右衛門、南川吉次郎が登頂した。しかし正規の三角点設置は出来ず、木片をつなぎ合わせて四等三角点とした。そして初登頂の折に、頂上の凹地に錫杖の頭と鉄剣を長次郎が発見したとしている。(登頂日は事実の日より1日早くなっている)
 映画では、二度ではなく一度で登頂したことになっていて、登行ルートは小説と同じ三ノ沢(長次郎谷)からで、登頂者は柴崎芳太郎測量官、測夫の木山作吉と生田信、人夫の宇治長次郎と山口久右衛門で、宮本金作と岩木鶴次郎は残留となっている。登頂して木片で四等三角点を造り、錫杖の頭と鉄剣を見つけたのは長次郎で小説と同じである。ロケでは実際の登頂日である101年目の7月13日にスタッフが登頂しているが、本隊が到着した20分後には頂上のみガスで視界がきかず、やむなく下山、7月16日に再度登頂、この日は快晴だったとか。
剱岳登頂の記録と錫杖頭の発見
 さて史実では、柴崎らが下山して後、富山日報の取材を受け、柴崎芳太郎測量官の談話が明治40年(1907)8月5日と6日に『剣山攀登冒険譚』として新聞に連載された。それによると、第1回目の登頂は7月13日、ルートは現在の長次郎谷から、私が生田測夫と人夫4名(山口、宮本、南川、氏名不詳)を引率して登ったが、氏名不詳の1名は雪から岩へ移る地点で落伍し、残り5名で登頂したと。そしてその折、小さい建物跡のような平地に錫杖の頭と鉄の剣を発見したと。第2回目は三角点測量標を建設するために、木山測夫と人夫岩木其の他を率いて三角点を設けようとしたが運び上げられず、やむなく四等三角点を建設したと。それも木片4本を接いで漸く6尺になる柱1本を立てたに過ぎないと。この第2回目には日にちの記載はない。
 小説では、柴崎らの陸地測量部と日本山岳会が剱岳登頂の先陣争いをしたような展開になっているが、史実ではそういう事実はない。また映画では柴崎らの登頂数日後に、小島烏水率いる山岳会のメンバー4人が登頂しているが、これは全くの作り話で、小島は生涯剱岳には登っていない。だが小島烏水は日本山岳会(当時は単に山岳会)の有力な創立メンバーで、正式な発足は明治38年(1905)10月14日で、機関紙として「山岳」を年3回発行しており、第1年第1号は明治39年(1906)4月に刊行されている。そしてその第3年第3号の雑録に、小島烏水が柴崎芳太郎の談話記事として、「越中剣山の探検」は登山史上特筆する価値があるとして、その全文を紹介している。しかしこの内容は先に示した「富山日報」の内容と同じである。
 その後明治43年(1910)3月発行の「山岳」第5年第1号に、吉田孫四郎の登山記「越中剱岳」が出た。これは一般人としての剱岳初登頂の記録で、登頂は明治42年(1909)7月24日で、同行はほかに河合良成、野村義重、石崎光搖の山岳会メンバーである。案内人は宇治長次郎、佐々木浅次郎、立村常次郎ら大山村出身の者達で、当時の立山温泉では、既に長次郎は剱岳へ登った「剛の者」として知られており、その情報を基に特別待遇で雇われたという。吉田の言では、彼は一点の非難されるべきことなく、しかもこれほどの好漢はいないと高い評価をしている。そして一行が登った谷を「長次郎谷」と命名し、剱岳にその名を留めたとある。またこの記述の中で、「長次郎は柴崎測量官一行の測量登山に従事して剱岳に登った」と文章で記している。これには石崎が撮影した「剱岳頂上の南望」という小さな測量標を前にした写真が写っていて、その測量標は天然木の皮むきの支柱で、針金で固定されていた。これは柴崎が話した木片を接いで柱を立てたという話とは異なっている。時にこの天然木は長次郎が一昨年自身で担ぎ上げたものだと言っていたと。また陸地測量部の剱岳登頂については、人夫の宮本金作が語ったこととして、第1回目は生田測夫と人夫宇治長次郎、第2回目は木山測夫と生田測夫、人夫は宮本、山崎ほか2名、但し自然木の支柱は長次郎が担ぎ上げたとしている。要は引率したのは技能抜群の測夫木山、生田の両氏で、かの古器二品を発見したのは生田測夫であると。そして柴崎測量官は前後両回とも登頂に参加していないと。
 これに対し柴崎芳太郎は、明治44年(1911)5月発行の「山岳」第6年第1号に、宮本金作の話には相違があるとしている。それによると、第1回目は「測夫・生田に命じて、査察させた」。第2回目は「測量上の判定を下すべく、測夫・木山を率いて自ら登山し、四等三角点の建標を建設することに決定した」と書いている。このように剱岳登頂についての疑問に対しては上のような弁明と反論を載せているが、長次郎の剱岳登頂については一言も触れておらず、肯定も否定もしていない。このように責任者としての柴崎測量官が正しい事実を述べなかったことがいろいろな憶測を生み、情報を錯綜させている。
 柴崎芳太郎の長男柴崎芳博は、昭和55年(1980)12月発行の「山岳」第75年に「剱岳登頂をめぐってーある疑問点について」の一文を寄せ、その文中で、父の登頂は第2回目であるとしている。そして父のメモでは、第1回目は生田信測夫、人夫は山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、その他1名、第2回目は木山作吉測夫、人夫は岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎で、柴崎は第2回目に登頂したと。メモには宇治長次郎の名前は出てこないが、第1回目のその他1名がそうであろうと。信仰心の厚い長次郎にとっては剱岳は登ってはいけない山という伝統的心情のため、雪渓を登り詰めながら登頂を断念したというのが本当で、それが落伍したと伝えられたのではと。結論的な見解として、信心深い長次郎が、その禁忌があったために「落伍」とされ、神聖な絶頂を土足で踏むことを避けさせ、厳しい掟が足を釘付けにしたのが一般的な見方だとしている。
 また山岳会メンバーとして一般人として剱岳初登頂した河合良成は、昭和38年(1963)4月にNHKの「趣味の手帳」で、「半世紀前の剱岳登山」と題して話した内容を日本山岳会の「会報」227号に寄稿している。登頂した時の様子を、「頂上には長次郎が一昨年担いで来て立てた天然木の皮を取ったような棒が一本立っていて、それが針金で支えてあるところの三角台がそこに立っていて、『これは私が担いで来て立てたんだ』と長次郎が言っていたと。多分その年に何回も剱岳へ登ったと思われ、おそらく第1回は長次郎だけで、後から柴崎測量官が登ったんだと思います」と。
 また錫杖の頭と鉄剣については、その発見者は小説では長次郎となっているが、新田次郎の取材記事では、剱岳登頂の折、「ここら辺りで生田測夫が見つけたのだと思いながら岩石が積み重なった辺りに目をやった」と記している。古くは「富山日報」では、一行が発見したことになっているし、また他の文献・史料では、柴崎芳太郎が発見し持ち帰ったと記されている。現に新田次郎は柴崎家でこの錫杖の頭と鉄剣を手にとっている。その際長男の芳博氏はしかるべき時にしかるべき場所へ返すと言われていたと。現在は重要文化財として立山博物館に収蔵されている。生田測夫の孫の生田八郎は、平成19年(2007)の秋に、立山博物館に展示されている錫杖の頭と鉄剣を見た後、剱沢小屋の主人佐伯友邦の家に立ち寄って、「錫杖の頭と鉄剣は祖父が見つけたと親から聞いている」と話したと。
 以上、剱岳の近代になってからの初登頂と四等三角点の造標、錫杖の頭と鉄剣の発見については、真実はただ一つであるにもかかわらず、剱岳を含む三角網を完成させるために、周辺27箇所に三等三角点を造標し、その指揮を取った責任者が真実を語らなかったばかりに無用な推測を生み、宇治長次郎なる人物は全く知らない、記憶にないと死ぬまで言い切ったのは何故なのか、実に理解に苦しむ。近代の登山界にあっての重鎮ともいうべき田部重治や冠松次郎は、「宇部長次郎は性質は温和で人と争うという風なところが微塵もなく、そして山に対しては凄い勘の持ち主だ」と褒めている。また柴崎測量官が剱岳に造標した四等三角点は木片を4本接いで造ったと発表しているが、2年後に登頂して見たのは天然木だったことからしても、柴崎測量官の言質は怪しいと思わざるを得ない。現存している写真が確かなその証拠である。
 登山史家であり、また宇治長次郎の出身地でもある富山県大山村の出である五十嶋一晃は、宇治長次郎の登頂に関することが、いつまでも登山史上の疑問の対象になり、議論されることが残念でならないと言っている。彼は「剱岳測量登山の謎ー長次郎を巡る疑問」の中で、いくつかの情報から帰納的に推理を重ねてみると、次のようになると。
・測量登山は2回行われた。
・第1回目は明治40年(1907)7月13日、登頂者は生田信、山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、宇治長次郎。
・第2回目の登頂日は不明、登頂者は柴崎芳太郎、木山竹吉、岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎。
・観測用の自然木を背負い上げたのは宇治長次郎。
 なお、第2回目の登頂日については、陸地測量部に保存されている「四等点標高程手簿」からは、明治40年(1907)7月28日となっている。
 また、錫杖頭と鉄剣の発見者は生田信、持ち帰ったのは柴崎芳太郎であろう。

付記1:明治期の三角測量班の編成は、測量官1名、測夫2名、人夫5~6名が標準となっていた。
付記2:大正2年(1913)、近藤茂吉は佐伯平蔵、宇治長次郎、人夫1名と長次郎谷から剱岳へ登り、近藤と平蔵は別山尾根を初下降し、長次郎と人夫1名は平蔵谷を初下降している。「平蔵谷」と命名したのは近藤である。

2009年7月16日木曜日

映画「剱岳 点の記」-監督木村大作の根性と拘泥ー

「点の記」
 「点の記」とは、三角点設定の記録である。三角点には一等(全国に972点、約40~50km間隔)、二等(全国に5,056点、約8km間隔)、三等(全国に32,699点、約4km間隔)がある。「点の記」には三角点を置くことを決めた(選点)年月日と選点者、三角点を設置した(埋石)年月日と設置者、観測のための櫓(点標)を造り(造標)、経緯儀を使って観測した年月日と観測者のほか、その三角点へ行く道筋や所要時間等を記載することになっている。これら明治21年以降の「点の記」の記録は、今は国土地理院に永久保存資料として保管されている。剱岳の「点の記」については、当時三等三角点を設置する予定だったが、登頂すら困難だったうえ、ましてや94kgもある三等三角点の柱石や測量機材を運び上げることはとても絶望的で、埋石を断念した経緯がある。その後現実に剱岳頂上に三角点が設置されたのは平成16年(2004)8月になってからで、この時点で初めて「剱岳点の記」が生まれたことになる。これを見ると、選点年月日は明治40年7月13日、選点者は柴崎芳太郎、設置年月日は平成16年8月24日新設、設置者は伊藤純一、観測年月日は平成16年8月25日、観測者は中山雅之、方法はGPS測量となっている。測量は1970年頃までは三角測量、その後20年間は光波測距儀という機械を用いての三辺測量、以後現在はGPS測量が一般的なものとなっている。 
 石川県でも現在登山路がない山々にも三角点が設置されているが、三角点があれば「点の記」が存在するわけで、例えば笈ヶ岳は最も奥まっていて行きづらい山であるが、この山へいつ、誰が、どんなルートで、100kg近くもある柱石や測量機材を運び上げたのかは「点の記」を見れば判明する。また陸地測量部の人達が登頂した時には、剱岳と同じように、修験者が残したと見なされる錫杖があったという。
小説から映画へ
 本年6月20日に全国で封切りされた映画「剱岳 点の記」は、新田次郎の同名小説に拠っている。これは剱岳に三角点を設け、測量の空白地域を埋めるという役割を担う、旧陸軍参謀本部陸地測量部測量官の苦闘の物語で、明治40年(1907)7月に測量官柴崎芳太郎が剱岳に四等三角点を選点したという事実を中心に物語は展開する。ところで小説の推移は事実(史実)との隔たりが大きいうえ、ドラマとして面白くするために、柴崎芳太郎測量官が宇治長次郎の協力を得て初登頂し、また陸地測量部と日本山岳会(当時は単に山岳会)とで剱岳登頂先陣争いをさせたりしているが、これは物語上のみでの展開である。映画ではこれを更に映像での迫力を高めるためにいろんなアレンジを加えている。ところで柴崎芳太郎は死ぬまで、生前の記録には勿論、友人や息子にも宇治長次郎なる男の記憶は一切なく、全く知らないと言っていたという。何故なのか、ミステリーである。でも小説も映画も協力して登頂し選点したというのは、事実はどうあれ心休まる物語となっている。
 この映画の監督はカメラマンを40年近くやってきて40本近い映画を撮ってきた木村大作である。この構想が生まれたのは2006年2月、能登の海を撮りたくて出かけた帰り、内浦や氷見の海岸から富山湾を隔てて見えた立山・剱の連峰に感激し、上市町へ行き、剱岳を見ながら新装版の文庫で出版された原作を読み返したとき、ただ黙々と地図を作るためだけに献身している測量官に自分を重ね、これを映画にしたいと思ったという。新田次郎の小説は最も映画になりにくいと言われる。構想を坂上順製作責任者に相談したところ、藤原正彦の「国家の品格」を読んだらト薦められ、そこに「悠久の自然、儚い人生」という言葉を見つけ、これは正に我が人生と思ったという。この時はその著者が新田次郎のご子息とは知らなかったという。早速申し入れしたところ快諾されたうえ、以前の新田作品映画化でのカメラマンだったことを覚えておられ、原作をいかようにも変えて頂いても結構ですとまで言って頂いたという。またもう一人の亀山千広製作担当からは、2年かかるけれど、全部本物の場所で撮影しなさいとの助言をされた。この時、脚本も撮影も監督も自分でやるしかないと腹を括ったと述懐している。
監督の構想と出演者への注文
 2006年の春から夏にかけて、木村監督単独もしくは菊池敦夫プロジューサーと二人で立山へ数回出かけ、天狗平、室堂、室堂乗越、別山、剣御前、剣沢へ、そして7月末には剣岳にも登頂する。帰ってからは精力的に脚本作りに没頭する。二人のほかに宮村敏正監督補佐も加わる。そして同時に一緒に闘う仲間となるキャストやスタッフを全員面接して集めた。特に主役の柴崎芳太郎役の浅野忠信には、監督がはまり役と思い込んだだけにかなり強引に引っ張り込んだようだ。またもう一人の案内役の宇治長次郎役の香川照之も、意気込みが凄くて諾しかなかったと言わしめている。後はかなりスムースに決まったようだ。そして最大の演出は、明治39年から40年にかけて、剣岳周辺の地図を作成するために黙々と献身的に測量した人達を実写すること、そしてただひたすらに懸命に生きる人々に光を当てることで、「永遠の自然と儚い人生」を対比して浮かび上がらせることだと。それには作品に出てくる人物になりきって追体験してもらうためにも、撮影は順撮りすることにしたと。監督の構想では、撮影はすべて現地で、しかも合成による撮影はしない。山の撮影にヘリコプターを使っての空撮はしない。CG(コンピューター・グラフィック)は使わない。更にロケ地現場への移動はすべて徒歩による。撮影機材は人力で担ぎ上げる。自分の荷物は自身が背負って運ぶ。泊まりは山小屋(雑魚寝)かテント泊。また、この撮影ではもっと過酷なことを強いるかも知れないが、この撮影は単なる撮影ではなく、お釈迦様の教えにある「苦行」であると。これらの条件を受け入れて、共に山へ登る覚悟をして参加してほしいと。これを全員に徹したという。
 監督が狙っていたのは、もし本物の状況の中に俳優を立たせ、そこに嘘を加えない同じ状況下で撮影すれば、そこで俳優がその時感じていることは、その役の人もそう感じていただろうと。だからそのような状況のときに、もしアドリブが自然に吐露しても、それはその役の人の言としてOKにしたという。このほかにも脚本にない場面が随時挿入された。奇想天外と言わしめた着想だ。現に現場での撮影には、荷物を少しでも減らそうと、脚本を持たずに参加した人が大部分、でも現場第一の監督には、脚本は不要だったかも知れない。そして山の天候の急変に驚きもし、自然の荘厳さと恐怖とをしっかりと実写し、これまで接したことのない映像を具現化してくれた。 
山での撮影行ー俳優なしでの実景ロケ
 実景ロケは2007年春から夏にかけて3回行われた。第1次ロケは4月、天狗平山荘を基地に、天狗平、弥陀ヶ原、天狗山、室堂、雷鳥平、室堂乗越など。その後別山での撮影のため剱御前小舎へ移動しようとした際、前日雷鳥沢で雪崩があったこともあり、尾根筋を吹雪のなか移動する破目に。スタッフ5人・ガイド4人がホワイトアウトの中、アンザイレンして登る。最初の試練。転ぶなら右へ、左だと助かりませんと言われたと。翌日も終日猛吹雪。でも次の日は風は強いが晴れ、荘厳な日の出と朝日に輝く峰々を激写、別山からは感激の剣岳を撮影。でも次の日は暴風雨、山の天気の急変に驚く。翌日は小康状態の合間に一気に下山。その後能登半島、島尾海岸、馬場島から剱岳を、更に5月の連休には八方尾根から唐松岳に登り剱岳を撮影。
 第2次ロケは6月下旬から7月上旬にかけて、前半は剱御前小舎をベースに室堂、雷鳥沢、剱御前、室堂乗越で撮影。後半は天狗平小屋をベースに五色ヶ原へ、1回目は一ノ越、浄土山、龍王岳、鬼岳、獅子山、ザラ峠で撮影しながら五色山荘へ、霧と雨の中の撮影行。翌日は更に南行しようとするが天候回復せず、沈殿せずに天狗平小屋へ雨の中を引き返す。翌々日再度五色ヶ原へ、でも霧が濃く撮影かなわず、再び天狗平小屋へ戻る。この雨の中の2往復はきつかったと。でもスタッフは一歩一歩確実に歩けば、必ず目的地に着けることを確信したとも。帰る前日は晴れ、監督は急に雄山へと。そして大汝山でも撮影、雄山に戻り、東尾根を下らせての撮影、でもこれはプロモーション用。終って雄山頂上で今後の撮影の無事を祈願してお祓いを受ける。
 第3次ロケは8月上旬、長次郎谷から剱岳頂上へ、頂上で富士山実写。別山尾根から下山、途中南壁でロケハン。剣山荘と剱澤小屋をベースに剱沢付近を撮影。下山前に奥大日岳を下見。
山での撮影行ー俳優入っての測量行ロケ
 〔2007年秋季ロケ〕 9月下旬~10月下旬。柴崎芳太郎と宇治長次郎が山に下見に入る。芦くら寺、弥陀ヶ原、天狗山、雄山、室堂乗越、別山、剱沢で。ある日、剱沢から池ノ平へ、片道9時間、しかし2カットのみ。更に剱御前、南壁のシーン撮影。別山で剱岳へは「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」と暗示された行者を、降雪の中、二人で山から下ろすシーンを撮るため雪待ち、それで本隊は一旦帰京。10月下旬になり雪、下山シーン撮影。その後須山の洞窟、称名滝、岩くら寺など撮影。
 〔2008年春季ロケ〕 3月中旬。雪の馬場島と新潟の雪崩実験現場での雪崩シーン撮影(2月に一度失敗)。カメラ4台、木村監督のカメラのみ流されず、他はカメラマンもカメラも雪崩で流される。4月上旬~5月中旬。測量隊が出発。雄山神社、弥陀ヶ原、天狗平、天狗山、室堂乗越、馬場島で。天狗平での雪崩後の脱出シーンの撮影では、測量隊5人を雪に穴を掘り完全に埋めての脱出。その後、雄山、一ノ越、浄土山、五色ヶ原で撮影。下山後、常願寺川の河原で五色ヶ原で嵐に遭うシーンを撮影、ダンプで雪を運び、消防団の協力でホース20本、巨大扇風機2台で撮影、通常ホースは上向きにするが、この時は横向き、団員をしてこれは消火だと言わしめたほど。日暮れと同時に本番となったが、真夜中にライト切れ、翌日も続行。5月には山岳会の部分ロケ。
 〔2008年夏季ロケ〕 6月中旬には雷鳥荘と剱澤小屋をベースに奥大日岳での点標設置と平蔵谷からの南壁アタック。7月中旬には剱岳頂上と長次郎谷登行のシーン撮影。7月13日、101年前の登頂日に合わせて登頂するが、本隊登頂時にはガスが濃くなり撮影断念。16日再度挑戦。天気好く、剱沢から頂上まで3時間、気合が入る。頂上シーン、長次郎コルでの長次郎登頂辞退のシーン等を撮りまくる。フイルム不足で小屋へ取りに下りる事態も。帰りに南壁シーン撮影。雷注意報発令で平蔵谷を下りる。翌々日、長次郎谷登行シーン撮影、コル手前まで登る。次の日、別山に造標、ラストシーンを撮る。日暮れギリギリに撮影終了。翌日世話になった剣山荘、剱澤小屋、剱御前小舎、雷鳥荘、室堂の山岳警備隊、天狗平山荘に挨拶して下山。山の人たちの協力がなければ、この映画はできなかったろう。下山後、河原で土砂降りのシーンを撮影して、すべての撮影終了。
おわりに
 木村 「みんな馬鹿だよ、馬鹿の集まりだよ、馬鹿じゃないと、こんなこと、やってられないよ! 俺は、馬鹿の親玉だ」
付 木村監督の「剱岳 点の記」のBGMに対する拘り
 監督はこの映画のBGMは、近年の邦画では珍しくすべてクラシックにすることにし、それも既成の音楽の二次使用ではなく、演奏会場でフイルムを流しながらの音入れをすることを希望した。このような手法は監督が敬愛する黒澤明監督の映画で経験したもので、しかも生演奏を希望した。したがって、音楽監督・編曲指揮には、黒澤映画での生演奏指揮の経験がある池辺晋一郎氏にお願いすることになった。この人は作曲家で東京音楽大学教授、演劇のための音楽も手掛け、活動の範囲は広く、映画音楽やNHK大河ドラマのテーマ音楽などもこなす、日本作曲界の重鎮である。選曲は木村監督の希望も入れて調整したようだが、音入れは画面を見ながら、池辺音楽監督が仙台フィルハーモニー管弦楽団を指揮しての生演奏による実施となった。この演奏はこの作品の大きな魅力の一つとなっていて、観ていても全く違和感がなく、実にその場面に相応しい素晴らしい雰囲気を醸し出していた。
 使用された楽曲のリストと使われたシーン・場面は次のようである。
(1) J.S.バッハ作曲・池辺晋一郎編曲、前奏曲(幻想曲)とフーガ ト短調 BWV.542 「大フーガ」 から 幻想曲。 〔映画の導入シーンで〕
(2) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第4番 ヘ短調 「冬」 op.8-4 から 第1楽章/第2楽章/第3楽章。 〔柴崎と長次郎が秋に剱岳登頂の下見に山に入る一連のシーンで〕
(3) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第1番 ホ長調 「春」 op.8-1 から 第2楽章。 〔柴崎家での夫婦の語らいのシーンで〕
(4) A.マルチェルロ作曲、オーボエ協奏曲 ニ短調 から 第2楽章。 〔天狗平のテント場でのシーンで〕
(5) T.アルビノーニ作曲、アダージョ ト短調。 〔雪崩の後のシーンで〕
(6) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第3番 ヘ短調 「秋」 op.8-3 から 第2楽章。 〔三ノ沢(長次郎谷)の雪渓の登りのシーンで〕
(7) J.S.バッハ作曲、管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV.1068 から 第2曲エア(G線上のアリア)。 〔剱岳頂上手前のコル(長次郎のコル)でのシーンで〕
(8) G.F.ヘンデル作曲・池辺晋一郎編曲、ハープシコード組曲第2巻第4番 ニ短調 から サラバンド。 〔この映画に携わったすべての個人・団体を「仲間たち」として最後にテロップで流す場面で〕
 
 以上、長調が3曲、短調が5曲。
 個々の音楽と場面の一致については、映画を観ながら、メモ用紙に暗がりで手元を見ずにメモしたこともあって、後での判読が実に困難で、多分そうでなかったかと想像して当てはめたものもあり、間違いがあるかも知れないことをお断りしておく。
 
 

2009年7月6日月曜日

「そば」を楽しむ

 小さい時は「そば」が嫌いだった。祖母が田圃で実った蕎麦を石臼で挽き、それを打って「そばきり」にするのだが、何せ「つなぎ」が入っていない生粉打ちだから、いくら「とれたて」「ひきたて」「うちたて」「ゆでたて」といっても、出来上がったものはきれぎれ、それに汁をぶっかけて雑炊のように啜るのだが、それが何とも子供心に大嫌いで、蕎麦を挽く手伝いは致し方ないにしても、食べる段になると本当に地獄だった。
 「そば」ともう一つ祖母の料理で大嫌いなものがあった。家の前と屋敷内には用水が流れていて、昔は野菜を洗える位きれいな水だった。魚も泳いでいて、庭の川に迫り出した大きな石には、時折魚を狙うカワセミも見られた。カワセミが何を狙っていたのかは知らないが、とにかくドジョウもよくいた。祖母は夕方タモを持って用水からよくドジョウを取ってきて、晩のお汁種にした。生きたままお湯に入れると、白い眼が飛び出て睨まれているようで、とても食べる気にはなれなかったが、目を瞑って我慢して食べたものだ。特に大きめのものは苦手だった。栄養満点なのだろうけど往生した。でも今にして思えば、どちらも栄養素豊富な素材だ。時は移って、成人する頃になると、「そば」も「どぜう」も好きになってきたが、蕎麦はともかく、ドジョウは川から姿を消していた。
 地元金沢の大学に入って初めて「そば屋」に入った。とは言っても金沢はうどん圏、市内で自前で「そば」を作っている店は1軒のみだった。東京へも機会あって出かけた折にはそば屋を求めて歩いたが、昔は三千軒もあったとはいうものの、昭和30年初頭では百軒ばかりになっていた。しかし日本橋で初めて「白いそば」に出会った時は正に青天の霹靂、「そば」とは黒いものだとばっかり思っていたものだから、正直驚いてしまった。今では一番粉か更科粉を使えばそうなるとは知っているが、初めての時は本当に仰天だった。
 私はいつも落語と「そば」の浮き沈みは同じような流れを辿ってきたような気がする。どちらも幕末から明治にかけては大いに繁盛してたのに、昭和になると陰を潜めてしまった。もっとも連綿と百年以上も続いているそば屋の老舗もあるにはあるが、総じて今ある大部分のそば屋は昭和50年以降の開店である。落語もそうで、同じ頃から再び火がついてブームになったような気がする。今はどちらもブームの最中と言っても過言ではないだろう。50年前、石川県でそば屋といえる店は1軒のみ?だったが、今は150軒ばかりもある。しかし今とりわけ人気のそば屋はというと、平成生まれが多い。
 あるそば屋の主人は、千人以上もの素人さんを対象に「そば打ち」を指南してきたという。近頃は巷でも「そば教室」があるし、福井県などでは「そば道場」も沢山あり、「そば打ち」を習おうと思えば、いくらでも機会がある。だから自称趣味「そば打ち」という方も見かけるし、なかには虜になって道具一式を揃え、打ちは玄人はだしという人もいる。そうなると、出張して打ったりもするし、高じては店を開く方も出てくる。しかしそば屋と銘打って人様に「そば」を提供するには、「たかが蕎麦」とはいうものの、「されど蕎麦」で、中々一年を通して満足ゆく「そば」を出すことは至難の業である。
 さて私はというと、「そば」が好きで、家内とも時々あちこちへ出かける。私の学問の師匠は当初はそんなにそば好きでもなかったのだが、大学を退官され福井へ行かれてからは「越前そば」に憑かれてしまった。お昼は職員を誘っての「そば」、晩は蕎麦前(お酒)と〆に「そば」、私も付き合わされたことがあるが、多いときは5軒もの梯子、ギブアップだった。そのうち持ち前の科学する心で、独断と偏見と断わってはあるものの、福井のそば屋の無責任番付を作られた。するとこれが評判になり、新聞にも紹介された。その後このそば屋巡りは在福十年ばかりの間に、全国1都1道2府29県の延べ4百軒にも及んだ。先生の評は「そば」や汁はいうに及ばず、器、サービス、風格、雰囲気を総合的に評価するもので、福井ばかりか石川でも知られるようになった。金沢へ戻られてからは、そば好きの同志を誘い「探蕎会」なる会を立ち上げた。平成10年正月のことである。趣旨は蕎麦を愛し、各地の銘店を訪ね、その土地の文化に触れ、蕎麦道を探究するというもので、この会に賛同する人は多い時には百名にもなった。年に十回位行事があり、年に2回は泊付きの探蕎をする。行事等は会報に掲載され、会報は年に4回位発行され今日に至っているが、これは事務局を預かる前田書店の主に負うところが多い。会員は正に多士済々、蕎麦前を飲み、「そば」を手繰っての談論風発は実に楽しい。仲良し倶楽部にもならず、かといって同人会にもならず、それが延命効果をもたらしているようだ。
                        (建設国保機関紙 Our Health HOKURIKU の寄稿原稿)

2009年6月23日火曜日

蕎麦と蕎麦つゆは本来無関係?

 週刊朝日に東海林さだおが「あれも食いたいこれも食いたい」というコラムをもう20年間も書き綴っている。毎週である。よくネタ切れしないものだと感心している。ところで私の見落としがあるのかも知れないが、蕎麦が俎上に上ったことはないような気がする。しかし初かどうかは別として、今回は蕎麦がテーマで、題は「現代の冒険水蕎麦」。自称「丸かじりのオッサン」は文の冒頭で次のように書き出している。
 「水蕎麦というものをやってみようと思った。/『え? 水蕎麦って、まさか蕎麦を水につけて食べるんじゃないでしょうね』/と、うろたえる人もいると思うが、蕎麦を蕎麦つゆではなく水につけて食べる食べ方が、あるんです。」/(中略)「ぼくが水蕎麦をやってみようと思ったのは(中略)好奇心からです。/蕎麦を水につけて食べるとどういう味になるんだろう。/とりあえず、旨くはないだろうな。/蕎麦には味がなく、水にも味がなく、味がないものを、味がないものにつけて食べると、どういう心境になるのだろう。」
 思うに東海林さんは、水蕎麦は田舎の農繁期などで米飯を早く食べねばならないときに、水やお湯をブッカケてかきこむとか、修行僧がわざと粗食をするときに水をかけて食べるとか、止むを得ないときを想像して、蕎麦でもそういうこともあり得ると想定して設定したような印象を受ける。すなわち世に水蕎麦なる商品はないものと思い込み、蕎麦を水につけて食べようとの暴挙に出ようとしたとしか思えない。
 たしかにそば屋でそばを食べようとすれば、どんな場合であろうと蕎麦つゆが付いてくるのであって、その味や塩加減や量や出し方はまちまちであるが、先ず出ないことはない。ただ水蕎麦を標榜している場合には、蕎麦つゆが付いてこないこともある。会津の山都宮古では、水蕎麦が厳然と商品としてあり、村松友視が「夢見水」と名付けた水が入った朱塗りのお椀に、細打ちのそばが入って出てくる。以前は太くて、噛みしめて食べると蕎麦の香りが口中に広がったものだが、細くなったお陰で、噛みしめなくても喉へ滑り込んでしまう。確かに喉越しはよいが、田舎っぽさはなくなった。ほかに水蕎麦として出しているのは信州の安曇野穂高にある「上條」である。ここのはざるに盛られ、ぐい呑みか茶碗のような磁器に水が入ってくる。でも蕎麦つゆも付いてくるから、これは好みでというか、なぐさみに銘水に浸して食べるのも話の種という程度かも知れない。
 さて、近頃はそばの食べ方をお品書きに書き記してある店も出てきた。曰く「最初は何もつけないで蕎麦本来の味だけを味わって下さい」と。確かにこれを知ってからは、先ずそばをそのまま手繰って食べることにしている。儀礼的には、そうすると蕎麦本来の風味がよく分かりますと言うことにしている。ではどんな風味ですかと言われると絶句してしまう。この間京都の「じん六」へ行ったときに、福井、茨城、滋賀、大分と4種類の蕎麦を出された。それぞれに個性があって美味しかったが、さてその違いをどう表現するかとなると、表現力に乏しい小生には的確な味や香りの違いを書き記せなかった。
 東海林さんは続ける。「現代人の生活にはあまりにも冒険の部分がない。/私は決然と勇猛をふるって危険をかえりみず水蕎麦に挑む。」(中略)「買ってきた生の二八蕎麦を茹でる。/水でようく洗い、ようく水を切る。/ざるに盛る。/蕎麦徳利に水を入れる。/蕎麦徳利から蕎麦猪口に水を注ぎ入れる。(中略)/箸で取りあげた七、八本の蕎麦を、猪口の中の水に、通の作法を無視して、どっぷりひたす。/すする。蕎麦がまとまったどっぷりの水分をまず感じる。」ここで、今さっき水をよく切ったばかりなのに、また水にひたすという行為にはどういう意味があるのかという疑念がおきたと。「なにしろ、蕎麦つゆ!という部分がないので、蕎麦そのものに集中せざるをえない。/蕎麦特有の微かな苦味がある。うどんの滑らかさとは違ったざらつく舌ざわりがある。(中略)/飲みこむとき、のどの奥のほうにかすかに蕎麦の香りが立つ。/二口目。穀物ということをいっそう意識する。/三口目、四口目、少しも飽きてこない。特別旨いとも思わないが、まずいとも思わず、次から次へ箸が出る。/何の迷いもなく食べ終わった。そしてすぐにかねて用意しておいた蕎麦つゆにつけてもう一度食べてみた。/誰もが蕎麦と蕎麦つゆは一体のものと思っているが、本来無関係で、無関係の二種のものをいっしょに口に入れた、という思いがした。/とても不思議な感覚でした。」
 冷えた米飯でも、米に本来の旨みがあれば、水をかけて食べても、温かいのには敵わないにしてもおいしいものだ。そばも香りがあって旨ければ、水蕎麦の形式でもいけるに違いない。ところが他の麺類ではどうだろうか。素麺、冷麦、きしめん、うどん、はたまたラーメンとなると、おそらく汁(つゆ)がなければ食べられないのではなかろうか。とすると、蕎麦は五穀ではないが、自己主張できる素晴らしい穀物だということができる。蕎麦万歳!

2009年6月18日木曜日

水無月の信州探蕎は三店三人三様

木曽・時香忘、浅間温泉・玉之湯、安曇野・時遊庵あさかわ
 6月13,14日の土日は、かねてからの計画に沿って、信州への探蕎に出た。9名の参加だったが、直前になって7名に、久保車と和泉車に分乗、随分余裕のある旅となった。計画はすべて久保副会長によるもの、初日に訪れる「時香忘」には10時半必着とあって、白山市番匠の「和泉」を午前6時に出発する。久保車の先導で金沢西ICから高速道へ、北陸道から東海北陸道と進み、飛騨清見ICで下り、高山市街を抜け、国道3フォント サイズ61号線沿いの道の駅「飛騨たかね工房」では午前9時の開店を待って工房熟成の唐辛子調味料を仕入れ、後はひたすら木曽街道を一路目的地へ、前回は開田高原で秀麗な御岳を眺めていて不覚をとったが、この日は生憎の雲り空で山は拝めず、お陰で開店の10時半前に着けた。
一、ZCOBO 時香忘(じこぼう) (店主:高田 典和)
 昨年秋に訪れた時は僅か5分位の遅れだったのに、沢山のバイクと車、入ると店内は3席が空いているだけ、結果としては2順目まで待つことになった。しかし今回は広い駐車場に車の陰はなく、一番乗り。入り口にはまだ木のバーがかかっている。奥さんが竹箒で周りを掃いておられ、もう少し待って下さいと言われる。何故か私に蜜蜂が寄ってくる。コニャックの香りのせいだろうか。集合写真を撮っていただく。横を流れる清流からはカジカの鳴き声が、うるさい程だ。そして開店の10時半少し前にバーが外され、木道の回廊を進む。周りには朴の木が沢山植生されていて、緑の大葉が瑞々しい。70米ばかり進むと玄関に着く。主人がお出でて、好きなテーブルにと言われ、窓際の6人掛けテーブルに5人、隣の4人掛けテーブルに2人掛ける。他に客はいない。注文は初めに「夜明け」7枚、次いで予約の「野点」、5人分とかだが7枚にしてもらう。蕎麦前には木曽の「七笑」をお願いする。主人の高田さんが、まだ他に客がおいでないこともあって、テーブルの側に来られ、お話を始められた。これは予期せぬこと、望外の喜びだった。次の客が入ってきて話しは終ったが、やがて30分近く話されたのではないか。
 高田さんは名古屋の出身、50代前半。事業をされていたが、人生の後半、何か振り返ってよかったというようなことをしたいと、それも未知の場所で、ゼロから挑戦ということで、6年前にこの地でそば屋を始めることに。店の名前の由来を聞いたところ、先ず此処へ来た方が、この山の森の中で、流れる沢の水音を聴きながら朴の林に身を置くことによって、都会の喧騒を忘れて頂き、林の中の木道の回廊を、大きな朴の葉の間から見える方形の池を見ながらそぞろ歩くことによって、時を忘れて頂こうと。そして漸く辿り着いた先では、吹き抜けの素晴らしい空間で、ガラス越しに見える森を眺めながら、香り高いそばをゆったりと食べて頂こうとの願いを込めて命名したのだと。また英字のZCOBOのZはJではないかと言われるが、私はZにこだわるのだと。何故ならZはzeroのZ、ゼロから出発したから。そしてアルファベットの最後はZ、究極の目的を求めるからZだと言われた。これだけでも半端じゃない。
 また高田さんは「そばの原点」ということを何度も口にされた。それは年老いた田舎の婆ちゃんが古い石臼で挽いている蕎麦は、石臼の目立ても古くなってきれいに細かくならないが、でもこの粗挽きともいえるそばが本物ではないかと。だから私のそばは粗挽きなのだと。粗挽きよりもっと進化したのが石臼を使わず実を石で割った「石割り」であり、究極は丸抜きを潰してつくる「野点」だと。だから此処の「そば」は噛んで味わって食べてほしいと。細かく挽いたそばは、打つときに香りも味もとんでしまうと仰る。とにかくお客様に美味しいそばを出す、それには美味しいそばに仕上げる、これが信念だと。
 一方で、いろんなそばに挑戦しているとも。「雪解け」は雪解け後に大地から新芽が躍り出るイメージで、フキノトウを入れて打つことにしているとも。またマスタードとかガーリックソースを使ったそばにも挑戦したいとも。いつか京都の「もうやん」で見たときは度肝を抜かれたが、結構若い世代には気に入られているようだが、土台のそばがしっかりしていないと中途半端なものになりかねないが、その点高田さんなら次元が違う。
 「石割り」や「野点」はつなぎがないと打ちにくい。極粗挽きのそばのつなぎを求め、高田さんは飯山市富倉にまで出かけ、オヤマボクチを知り、独自の方法で葉脈のみを取り出し、これを極少量練り込むことにより、粗挽きそばだけでは出ない、喉越しやコシのよさを出せたという。粗挽きというとどちらかといえば喉越しが悪いが、その荒々しさがオヤマボクチを加えることにより、荒々しさはそのままに、滑らかさも相備わるようになったという。ただ自生するオヤマボクチは3年くらいでなくなる。というのはどうも連作障害があるようだという。需要が少ないときは採取するにしても場所を違えればよいが、需要が多くなると深刻になる。高田さんは代わりに十日町の「へぎそば」に使うフノリを使用してみたという。でも出来上がったそばを噛んだ感触は、オヤマボクチではスッと切れるのに、フノリの場合は弾力性があって切れにくく、高田さんの目指す究極の粗挽きそばにはそぐわなかったという。
 オヤマボクチは栽培しても連作できないことから収量は見込めず、新しい素材の開発に目を向けた。オヤマボクチはキク科の植物で、通称山ごぼうの一種である。(ヤマゴボウ科の植物とは別物)。そこで畑で栽培しているゴボウの葉を同様に処理してみたが、通常のゴボウでは葉が薄く、葉脈を十分量集めることができなかったものの、同じ効果が期待できた。そこで葉が厚くて葉脈がしっかりした品種を選び処理したところ、オヤマボクチに匹敵する収量が期待できたという。現在はこのゴボウを栽培し、10日ごとに20kgずつ葉を採取し、渓流で両面をきれいに洗い、5日間かけて処理して葉脈を採っているという。
 このようにオヤマボクチやゴボウの葉脈繊維を入れたそばは通常のものよりも硬く、したがってより時間をかけて打っているし、硬いこともあって切る包丁の寿命も半分だと仰る。また此処では「そばの三たて」は通じなくて、むしろ時間をかけることにより熟成ということも起きるという。また丸抜きの蕎麦を窒素ガスで急速冷凍すると、よりモチモチ感が増すことも経験できたと。玄蕎麦は信州産の信濃1号を使用しているとのこと。
 次の客が見え、高田さんは奥へ、。程なく「夜明け」が出た。田舎と水ごねの更科とを張り合わせ、夜明け前の漆黒の闇と夜明けの白々とした明るさを表現したという限定もの。昨秋よりもより切りが細い印象を受けたが、この方がより上等だ。立派な生山葵と鮫皮おろしが付いてくる。次いで「野点」、これもやはり細くなっている。見ると蕎麦の実の粒がしっかり見えている。やはりこれは噛んで味わうべきだろう。そして汁ではなく塩で頂く。塩は3種、広島の藻塩、アンデスのピンク色の岩塩、沖縄のぬちまーす。
 客が立て込んできて、失礼することに。精算のときに店主と奥さんが来られた。寺田会長は断わってツーショットをものにされたが、小生はおじけてそれはできなかった。

時香忘「夜明」
時香忘「野点」
 当初は夕方までに間があり、もう1軒と言っていたが、程よい腹加減なので止めにした。車は木曽谷から伊那谷に抜け、中央道を岡谷ICで下り、諏訪一ノ宮の諏訪大社の春宮へ、この前は秋宮だった。その後久保車の先導で美ヶ原高原へ、2千米近い高原は天気晴朗ならば一大パノラマが展開するのに生憎の梅雨空。ビーナスラインを北へ下り、美ヶ原温泉を経て浅間温泉の玉之湯に着く。午後4時少し前だった。
二、浅間温泉・ホテル玉之湯 (社長:山崎 良弘)
 このホテルを選定したのは、ここの館主がそばを打つからとか、昨年の美ヶ原温泉の宿もそばが縁だったが、あの時は満腹でどうにも入らず、随分残してしまった。男ばかり7名は3階の和室へ、12畳と6畳がセットになっている。時間が早かったこともあり、夕食は6時に、湯上りにビールといきたかったが、生憎と冷蔵庫の中は空、仕入れる必要があったようだ。「神の河」を持参していたので、氷と冷水を貰って喉を潤す。夕食は当初年寄りが多いからということでミニ会席になっていたが、ネットで見ると昼食のような感じ、事務局にお願いして通常のものにしてもらったが、少し残された方もいた。また食事は当初から「そば」となっており、昨年のこともあり心配したが、コシもあり喉越しもよい二八の細打ちでよい出来だった。ここの社長は信州産のそば粉で手打ちする「信州そば切りの店」を普及する信州そば産地表示推進協議会の事務局長をしている。このような制度は福井県が先進県で、県内ばかりでなく、県外にもこの制度を普及している。
 夕食が終った後、1階のふれあい広場車座でフラメンコの夕べがあるという。こんな温泉場でのショーなどと高を括っていたが、中々の出来に引き込まれ、最後まで見てしまった。フラメンコギターを弾いた若者は大変上手で、初めから終いまで主役となり脇役となって場を盛り上げた。歌・踊りもさることながら、ソンブレロを冠った一見メキシコ人と思しき人が現れ、その人の仕草は現地の人そのもの、スペイン語と日本語を自在に操る器用さには驚いた。するともっと驚いたことに、そこへ女将が登場して、実はこの人は私の主人ですと?、こんな外人と一緒になってどうするのかとマジに心配したが、実はその人は社長の良弘さんだった。まんまと騙された。二人の間には三男二女がいるという。旦那は大学ではスペイン語専攻、メキシコでの留学経験もあるという。メキシコでそばを打ち、高じてメキシコで蕎麦を蒔き、収穫して、それを打つという。30年近く前に、明治18年創業の老舗旅館へ来た経緯は知らないが、何か縁があったのだろう。ひょうきんさを持ち合わせた御仁だが、確たる信念を持った方だ。またメキシコやスペインへそばの普及に出かけるという。
 翌朝、女将の見送りを受けた。一緒に集合写真を撮る。旦那はと聞くと、そばを打っていますとのこと。昼に出すそばなのだろうか。
 浅間温泉を後にして一路西へ、山麓から山中へ。行き着いた先は栗尾山満願寺、真言宗豊山派の名刹である。駐車場から本堂までは約50米の登り、途中の仁王門の山号には「救療山」とあった。下がって山麓を北へ、穂高有明にある「時遊庵あさかわ」へ向かう。11時前に着いた。開店は11時半、ゆっくり待つことに。
三、そば処時遊庵あさかわ (店主:淺川 政昭)
 浅川さんは25年間、土地開発の会社に勤務していたという。山岳写真家・田渕行男の失われてゆく安曇野の憂いに共感し、先ずは安曇野の敷地にギャラリー喫茶を開き、地域づくり運動を始めた。しかし景観の保護というのは実に難しいことに気付く。「あさかわだより」によれば、人の心が荒ぶのは自然の生命力に素直に感動できる目と心がなくなってしまったからだと思ったと。そして自分が出来ることは何だろうと考えつつ山を散策していたときに、川辺に咲いていた山紫陽花に心を打たれ、安曇野をこの花で彩ろうと、平成3年春から苗木を育て始めたと。親が開いた1200坪の土地に、太陽の光、風の匂い、野の花、雑木に出会える小道を設え、そこに「あさかわ」を開いたのが11年前、店は廃材を利用、庭には廃線の枕木350本を敷き詰め、桜、梅、楓、桂、山葡萄、あけびを植えた。根元には安曇野の草花や山紫陽花を植えた。開いた畑地には、菜の花、春そば、秋そばが植えられ、花を咲かせる。今では県内県外の多くの人達の協力で、蒐集した山紫陽花の品種は113種にもなり、株数は1千株にもなった。
 私達が着いた時にはもう数台の車が、30分以上待たねばならないのにである。入り口にある予約表を見ると、久保さん8名がトップに書いてある。予約したものだから、あちらで先に書かれたのではとは久保さんの弁。奥に小さなギャラリーがあり、そこには鉢植えの山紫陽花が数株置かれている。楊貴妃というのもある。見ると、「お客様へ お待ちして頂いている間、安曇野の原風景、森林浴を当店の『時遊庭ーふれあいの小径』でお楽しみ下さい」とある。一歩庭へ踏み出すと、そこは里山の雑木林の風情、開いた畑地には春そばが真っ白な花をつけている。山紫陽花も其処此処に咲いている。なんと素晴らしい自然空間なのだろう。でもこれは千坪もの土地があればこそ出来ること、並みの人がそば屋を開業しようとしても、こうはゆかない。
時遊庵「ざる」
 時間になって中へ入る。4人掛けのテーブルに4人と3人に分けて掛ける。注文は「わさびの花芽ざる」と「天ぷら」の単品。蕎麦前は大雪渓の冷酒。サービスに野菜の煮物も出た。ここでは「花芽ざる」の場合、「わさびの花芽おひたし」と「ざる」に汁が別々に登場する。だから別々に注文しても結果としては同じになる仕掛け。ざるは細打ちの二八、コシもあり喉越しもよい。使っている塗りの器も猪口もギャラリー時代からの仲間が作ってくれたものという。安曇野を愛する仲間との縁の賜物だと。客が次から次へと訪れる。中々の人気店だ。外へ出ると、車が20台以上止まっている。県外ナンバーもある。また訪れたい店だ。
 帰りに大町市立の山岳博物館に寄る。ここは高台にあり、天気が好ければ、餓鬼岳から白馬岳まで一望できるのに、生憎のガスで山は見えていない。充実した二日を過ごすことができた。

2009年6月15日月曜日

白山にライチョウー65年ぶりに確認

 6月5日夕方のNHK金沢のテレビニュースで、白山でライチョウが確認されたとの情報を流していた。びっくりすると同時にヤッパリとも思った。というのは12年前に家内と平瀬から7月半ばに登山した際、大倉尾根から室堂平に入って最初の雪渓に出くわす辺りで、私達が通りかかったからか、鶏大の鳥が凹地の上手に向かって低く羽ばたいて飛び去るのを目撃したからである。室堂へ着いてからカクカクシカジカと職員に話したが、幻だとか、カラスだったのではとか、大きさの誤認だとかで一笑に付されてしまった。特にあそこの主とも言えるオバハンからは、白山に居ないものを見たというのは夢でも見てたのではと、けんもほろろに一蹴されてしまった。カメラは持っていたものの一瞬のできごと、眺めているだけで何もできなかったが、冷静に対処できていれば何かモノを言えたのにと臍を噛んだ。独りならまだしも、家内も目撃していたのにである。場所は2400mを超えているハイマツ帯である。
 今回の通報は5月26日に目撃したという登山者からのもので、通報先が県の白山自然保護センターというのも幸いしたように思う。6月1日に情報が寄せられ、翌2日に同センターの上馬次長(金沢大学在学時にはワンゲル部に所属、白山には詳しい)が、目撃情報があった付近で雌の成鳥1羽を確認したという。ライチョウは餌となるガンコウランとコケモモの芽や葉をついばみ、30分後に飛び去ったという。この情報は環境省と石川県から「世界環境デー」の6月5日に発表された。当日の夕刊に記事はなかったが、翌日の朝刊には、地元の北國新聞には1面トップで「白山にライチョウ」、「雌1羽66年ぶり目撃」「豊かな自然裏付け」「北アルプスから移動?」の見出しが踊った。また朝日新聞でも1面に「白山にライチョウ」「雌1羽、65年ぶり確認」と、いずれの新聞も写真付きで報道された。金沢大学山岳会(KUAC)ネットでも、畏友佐久間君が6月6日に〔KUAC:1692〕で、「白山にライチョウ」、〔KUAC:1694〕では「ライチョウ」の一文を載せている。
 さて、今回の白山でのライチョウの目撃は、地元の北國新聞では66年ぶりと報じた。その根拠は、白山麓では昭和18(1943)年以降は目撃情報がないことによっていて、白山では絶滅したとされていることによる。朝日新聞では65年ぶりとあったが、これは県内では昭和20(1945)年頃から目撃情報が途絶え、石川県では絶滅種に指定したとの根拠によっている。また〔KUAC:1692}では、白山では1930(昭和5)年以降絶滅したとされてきたとある。またこれは誤認と思われるが、上杉喜寿が著した「白山」(1986)の中では、昭和30(1955)年7月に白山が国定公園に指定された折、日本野鳥の会の一行が白山の鳥類の調査を行った際、55種を確認したが、標高1700mから2700mの頂上付近までに21種を確認し、この中にライチョウも含まれていたとの記述があり、この時の踏査コースは市ノ瀬から入山し中宮温泉へ下山していて、全行程45kmとある。でもこれは明らかに間違いで、引用した原典は不明だが、ミスか勘違いである。私が知っているのは、石川県が昭和23(1948)年に鳥の中西、植物の本田、動物の岸田、昆虫の名和とその道の権威に委嘱して白山の動植物の調査を行った折に、ガスに煙った室堂平でライチョウの鳴き声を聴いたとの中西悟堂の記載が白山でのライチョウの公式記録の最後である。県の資料では目視ではないので(〇)となっていた。それでも61年ぶりということになる。
 ライチョウは「氷河期の遺留動物」といわれ、日本では本州中部の高山帯にだけ生息する。ライチョウの棲む場所としては南アルプスが世界最南端となっていて、昭和30(1955)年には国の特別天然記念物に指定されている。また環境省が絶滅の恐れのある野生動物を指定するレッドデータブックリストでは、絶滅の危険が増大している絶滅危惧Ⅱ類とされている。現在ライチョウは、北アルプス、南アルプス、乗鞍岳、御岳にしか生息していないとされるが、生息域については、日本野鳥の会編集の「日本の野鳥」〔1982〕では、本州中部の日本アルプス、白山、新潟県の焼山及び火打山に留鳥として分布するが、近年白山では記録されていないと記載されている。また日本野鳥の会会員の真木広造と大西敏一による「日本の野鳥590」(2000)では、留鳥として南北両アルプスと新潟県の火打山及び焼山の高山ハイマツ帯やそれに続く高原植物の草原に生息し、冬は亜高山帯へ移動するとある。日本での生息数は昭和59(1984)年の信州大学の調査では約3千羽と推定されているが、その後の登山ブームや地球温暖化の進行で高山植物の生育環境が悪化し、約2千羽にまで減少したのではとの指摘もある。また〔KUAC:1964〕では、最近の調査によると、南アルプス白根三山周辺では20年前の40%にまで減少しているとのこと。更に平均気温の1℃上昇で90%、2℃上昇で61%、3℃上昇で28%に減少するとされ、将来は白馬、槍、穂高の3集団のみになると推定されるとも。というのは、3℃上昇すると、植生垂直分布が400m上昇し、餌となるハオマツ帯が現在の2500mから3000m近くまで上がり、そうするとライチョウはほとんどが姿を消してしまうことになるとしている。
 ところで何故白山でライチョウが見つかったのだろうか。石川県の自然保護課では、厳冬期に1500m前後の高い山々を飛び継いで移動しながら白山まで来たのではないかと分析しているという。もっとも確認されたのは雌1羽で雄とのつがいは確認されておらず、白山に棲みついて生息している可能性は低いとされる。移動の根拠は、ライチョウの最大移動距離が約35kmとされることによるらしいが、これは本当に本土に棲むライチョウの記録なのだろうか。立山では容易にライチョウに会えるし、春先の縄張り争いでは飛ぶライチョウの姿も目撃されるが、あの体躯で長時間飛行できるとは考えにくい。というのはライチョウが飛ぶときには翼を激しく羽ば立たせてからでないと飛べず、しかも平地では滑翔するのであって、他の鳥のように急に高くに飛び上がれるとは思えない。
 とは言え白山で見つかったライチョウが長距離を移動してきたとして、元の生息域は何処なのだろうか。報道ではライチョウは標高2400m以上に生息するから、白山から最も近い生息域は、立山連峰の南に位置する北ノ俣岳(2661)と笠ヶ岳(2898)で75km離れているとしている。そうならば乗鞍岳(3026)や御岳(3067)もほぼ同じ距離である。でも留鳥であるライチョウが、渡り鳥のような帰巣性もないのに、天敵もいように、どうして75kmも西進したのだろうか。それに白山に辿り着くまでには神通川と庄川という二つの河川を横断しなければならない。報道されたように、冬に1500m前後の山岳を移動しながらとなると、ずっと移動距離も長くなり、困難を伴うのではなかろうか。低山での給餌も問題である。また県はライチョウが移動してきたのは、白山には豊かな自然が維持されていることを裏付けたものだと自画自賛しているが、ライチョウにそのような本能があるのだろうか。
 ライチョウの生態については、日本野鳥の会偏の「日本の野鳥」では、「雌雄または雛を連れた家族群で生活し、秋から冬は群れで生活している。草の種子や芽、昆虫等を地上でとるが、ハイマツの上や木の下枝に止まることもある。春にはナワバリを見張るため、雄はケルンや岩、木の上によく止まる。冬は雪に穴を掘って眠る。」とある。とすると、縄張り争いに敗れた雄が長躯白山へ新天地を求めて飛来したというなら話は別だが、見つかったのは雌の成鳥で、この鳥が長距離を移動してきたとは考えにくい。では生息していたのかとなると確証はないが、将来雄や雛が見つかれば難問は解決する。〔KUAC:1962〕では、学者によると、白山ではハイマツ等の植生からみて、70羽程度の生息は可能としている。ところで、第一発見者が5月26日に目撃した場所の付近で再度確認できたということは、テリトリーが出来ているような印象を受ける。環境省は今回の具体的な発見場所は非公表としているので分からないが、写真からは雪渓跡の砂礫地と思われ、私達が以前に遭遇した場所と相似している。御前峰東方の台地ならば、ライチョウにとっても棲みやすい場所なのではなかろうか。とは言え〔KUAC: 1694〕によれば、寿命は雄で11年、雌で8年、60年以上生息していたとすると、そこそこの個体数がいなければならないことになるが、そうなると半世紀もの間、全く人目につかずに生き長らえられたのかという疑問も残る。でも御前峰東面台地は登山客が簡単に入り込める場所でないうえ、豊富な深いハイマツ帯と草原帯がある。石川県では、「ライチョウ発見で多くの人が白山に関心を持ってくれるのは嬉しいが、登山道を離れて探すようなことはしないでほしい」としている。また環境省も「もし見つけても静かに見守ってほしい」と呼びかけている。
 ライチョウといえば富山県の県鳥で、立山はライチョウのまとまった生息地として知られている。だが、かつては白山にも生息していて、ライチョウとヒトとの交流の歴史を辿ると、古くは雷鳥というと白山の神鳥として有名だったという。以下に北國新聞社編の「霊峰白山」(2004)から抜粋して紹介する。
 白山の雷鳥が登場する最古の文献としては、正治2(1200)年の歌集「夫木抄(ふぼくしょう)」が知られる。「白山の松の木陰にかくろいて やすらにすめるらいの鳥かな」、これは後鳥羽上皇が詠まれた歌である。このように白山の雷鳥が当時の都に知られていたのは、白山に登った修験者が珍しい存在として語り広めたからと思われ、歌に詠まれたばかりでなく、説話をもとに絵としても描かれている。江戸期に入ると、加賀藩五代藩主前田綱紀が白山の雷鳥の生態調査を行ったというが、これは野鳥保護の先駆けともいうべき試みだったと評されている。また江戸期の白山紀行文には、「越の白山に雷鳥あるといふ その形雉に似たり 人まれに見るといへり」、「雷鳥は実に霊鳥にて 神の御使なる事知るべし」、といった記述もみられるという。雷鳥の資料を収集している金沢市在住の八木史郎さんは、雷鳥が神格化された理由をこう説明している。「白山でも2千米以上に生息していた雷鳥は、天に最も近い鳥であって、平地で見られる鳥とは棲む世界が違っていて、山岳修行者は高山でも生きる気高い姿を神の使いとして受け止めたに違いない」と。また八木さんによると、神鳥としての雷鳥は、雷除けや魔除けになるという信仰もあって、その羽が売買されたという記録もあるという。
 〔KUAC:1694〕では、「奈良時代より白山信仰の盛んな頃はライチョウの宝庫だった」とある。とはいっても、白山は独立峰であり、棲息するのに適した縄張りの数も限られることから、ライチョウの宝庫とはいっても必ずしも適した環境ではなく、どちらかといえば個体数の維持が難しいと言えるのではないか。江戸時代に加賀の前田の殿様が行った白山のライチョウの生態調査はどうだったのだろうか。前述の白山紀行文にもあるように、稀にしか遭遇しなかったのではと思う。加えて白山にはライチョウの天敵と目されるイヌワシやオコジョもいる。この鳥の習性として、天候のよいときは天敵を恐れて出歩かないとも言われるほどである。
 白山のライチョウに関しては、少なくとも戦後、その生態に関する正確な記録は皆無である。ある人は白山のライチョウが絶滅に向かったのは明治後期から大正時代にかけてではなかろうかと言っている。もっとも絶滅の原因は謎といってよい。〔KUAC:1694〕では、「主に人の捕食で絶滅したと考えられている」としている。ライチョウは植物の種子や芽、それに昆虫を食しているから、その肉はきっと美味だろう。だからその気になれば容易に捕獲できようし、個体数もそれ程多くなければ、簡単に絶滅に追いやられたと思われる。このような人為的な乱獲のほかにも、天敵の存在や感染症の蔓延による絶滅も指摘されてはいるものの、これといった決め手はなく、やはり絶滅の原因はナゾに包まれたままである。
 この度、白山でライチョウが目撃されたことは、大きな反響を呼んだ。そっと見守るのも必要かも知れないが、専門家による詳しい調査での実態の解明が待たれる。
 〔付記〕白山市の白山ヒメ神社の宝物殿には、白山にいたライチョウの剥製が保管されている。また長野県大町市の大町山岳博物館には、ライチョウの生態や孵化から成鳥になるまでの各ステージの雌雄別の成長や季節による換羽の状態が沢山の剥製の個体で展示されている。よくあれだけの数を蒐集できたものだと感心する。実に貴重な財産である。

2009年5月28日木曜日

ジョルジ・カラゼと三男坊は瓜二つ

 OEKの第261回定期公演が5月23日の土曜日に石川県立音楽堂コンサートホールで午後3時からあった。この日の指揮者は広上淳一、現OEKの音楽監督をしている井上道義の後任として京都市交響楽団を率いている常任指揮者である。公演前のプレトークで、この日の演目の作曲者にメンデルスゾーンとハイドンを選んだ理由は、メンデルスゾーンが生まれた1809年に世を去ったのがハイドン、したがって今年2009年はメンデルスゾーンの生誕200年とハイドンの没後200年が重なる年だからとのことだった。曲目は初めにメンデルスゾーンの交響曲第1番、この曲は稀に見る早熟の才を持った彼が15歳で作曲し、18歳で初演の指揮をしたという曲である。メンデルスゾーンは38歳で早逝したが、その作品はあらゆる分野にわたって数多く、旋律の美しさで知られ、特筆すべきは、20歳の折に大バッハの「マタイ受難曲」を復活演奏し、19世紀におけるバッハ復興のきっかけをつくったことで知られている。曲は初の大編成にもかかわらず、わずか1ヶ月で完成したという。とても15歳の坊やの作品とは思われない。モーツアルトの再来とまで言われたのもむべなるかなである。それも坊ちゃん専属の弦楽器のみだが楽団があり、既に13歳から14歳にかけて13曲の「弦楽のための交響曲」を作曲していたからこそということができる。それのしても肩の凝らない楽しい曲であった。
 次の2曲はハイドンの作品、初めにチェロ協奏曲第1番、この曲は1761年頃に作曲されたとされているが、発見されたのは200年後という曰く因縁つきの、しかもかなりの技巧を要する質の高い曲である。チェロを演奏したのは1984年グルジア生まれ、新進気鋭の弱冠25歳のジョルジ・カラゼ、多くの主要なチェロ・コンクールで入賞し、わけても2006年のエマニュエル・フォイアマン・グランプリにおいて一等賞と審査員賞を受賞してからは、とみに注目される若手演奏家として国際的な名声が高まったという。加えてギドン・クレーメル率いる楽団と共演していて、彼が使用しているチェロはその楽団基金から貸与されている1765年製のマンテガッツァだという。演奏は荒削りともとれる無類の大胆さで、高度な技巧で曲を苦もなく鮮やかに弾きこなし、観客を心底魅了した。ハイドンにこれほどの難曲があろうとは思いもつかなかった。とにかく実に素晴らしい演奏だった。将来カザルスやロストロポービッチのような巨匠になるかも知れない。初来日だという。とにかく演奏が終った後での拍手は、その質、量、大きさとも久方ぶりの凄さ、音楽堂全体が興奮の坩堝となった。アンコールの嵐はあのホセ・カレーラスのときに匹敵するものだった。OEKにはルドヴィード・カンタという日本でも十指に入るチェロの名手がいるが、彼の印象はどうだったろうか、感想を聞きたいものだ。ところで演奏者のカラゼは六尺の長身、演奏時の服装は黒の着流し風、一層スリムに見えたが、それがなんと私の三男坊と顔立ちも姿格好も歩く様もそっくり、あまりに似ているのでびっくりしてしまった。翌日の朝刊に彼の演奏スナップが載っていたが、家内もあまりの空似に正直口あんぐりだった。正に瓜二つである。彼の今後の大成を祈りたい。


 ハイドンの2曲目は交響曲第60番「うつけ者」、通常は4楽章だが6楽章。それは付随音楽からの6曲を交響曲に転用したからとあった。その付随音楽の題名が「うつけ者」である。邦訳では「うすのろ」「うっかり者」「迂闊者」「うすら馬鹿」といろいろだ。この曲にはハイドンらしい茶目っ気あるハプニングがあり、第6楽章の冒頭にコンサートマスターが突然立ち上がって指揮者に何かわめいて噛み付くというとんでもない場面があることだ。これには驚いた。曲は何回か聴いているが、その場面を実際に見たのは初めてだった。アンコールも含めて終ったのは5時半近くだった。
 〔むだばなし〕メンデルスゾーンをそのまま訳すると「メンデルの息子」となる。ということは、この姓の元の姓はメンデルということになる。メンデルといえば、あの「メンデルの法則」を発見したグレゴール・ヨハン・メンデルが有名であるが、メンデルスゾーン家はメンデル家の遠い昔の分家ということになろうか。