2009年10月19日月曜日

金沢大学にもいた超人・山男

 私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)、山へ行きたくて、当時新人募集していた「山の会」へ入った。後で分かったことだが、「山岳部」というのもあったらしいが、活動は全くしておらず正に有名無実、でも名が存在していたために、有志が結成した表記の会がそれに類した活動をしていたことになる。もっとも翌年には晴れて総意で「金沢大学山岳部」を名乗れるようになった。それで当時の1年生は7名ばかり、ほかに年輩の方も入部している。「山の会」という学内組織があった以上、責任者はもちろん会員もいたはずなのだが、山行はあったものの、先輩からこれといったいわゆる山岳部的な指導は受けたことはなく、同好会に毛が生えたような存在だった。
 ところで新入りの1年生に医学部の若山という男がいた。彼は島根県の出身、高校で山岳部に所属して活動をしていたかどうかは聞きそびれたが、彼が率先して指導者となり、特に岩登り、いわゆるロック・クライミングを指導してくれた。トレーニング・フィールドはもっぱら倉ヶ岳、基本的なザイルさばきや結び方、ハーケンの打ち方、ジッヘルやセルフビレーの仕方、懸垂下降、オーバーハングの登り方等、彼からは岩登りの初歩的なことをみっちり教えてもらった。ただ彼とは倉ヶ岳でのトレーニングのみ一緒で、彼とほかに山行を共にしたことはない。ところで、医学部は6年制、教養部2年、専門学部4年で、留年は同年、つまり2倍の12年間在学できる。彼がどのような山行をしていたのかは知らないが、私達に構っていた以外はどうも単独で山へ出かけていたみたいなようだ。というのは教養部を4年かけて専門課程へ進んだことでも伺える。年に200日以上も山へ入り込んでいたのではないだろうか。学部卒業は昭和39年(1964)、ということは卒業まで9年、教養部で2年、学部で1年留年したことになる。何時だったかこれは彼から直接聞いたことだが、ある時このままではとても卒業が覚束ないと感じ、一念発起して山の道具一切を頑丈な木箱に入れ、絶対開けないように、また開かないように、釘でしっかり封印し、これからは学業に専念するのだと言っていたのを思い出す。彼の山行の内容を聞いたことはないが、ある意味彼は山に対して超人的な才能と体力を持っていたように思う。
 彼の指導で、山岳部らしい山岳部に発展し、毎年素晴らしい後輩が入部し、ワンダーフォーゲル部ができてからも、毎年数人の入部があり、昭和57年(1982)には独自でカラコルムのハッチンダール・キッシュにも遠征隊を送り、登頂に成功している。また卒業後も海外への遠征隊に参加したり、OB同士でも遠征できるまでになった。先鋭化してきたこともあって、国内でも海外でも遭難の訃報も聞かれるようになったが、これも飛躍の一里塚、通らねばならない通過点だったのかも知れない。
 ところで、雑誌「岳人」に「私も山が好き」というコラムがあり、それに矢作直樹という人が紹介されていた。昭和31年(1956)生まれ、昭和56年(1981)金沢大学医学部卒業、現在東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部教授とあった。生まれは横浜市だが、中学の頃は町田市にいて、裏山から高尾山まで歩いたという。高校では山岳部に入ったものの、トレーニングばかりなのに嫌気がさし退部している。そして金沢大学医学部に入学、大学では何故か水泳部に所属している。しかし山も半端ではなく、彼の言によれば、山には年間200日は入っていたと、そして特に倉ヶ岳の岩場にはよく通い、ソロクライミングの練習に徹したとも。無雪期は主に剱岳、70回ほど頂を踏んだという。「晴れた日に家にいるのは罪悪と思っていた」という。一方で「技術的には自分は絶対に落ちないという自信を持っていて、落ちなければ確保者は不要なわけだから、山へは独りで十分である」と。そして更に高じて「山登りとは、冬季単独行のことだとしか頭になかった」とも、でも今では当時は自惚れていたと述懐している。
 彼のビッグな山行をみると、大学2年の正月には三伏峠から北岳への厳冬期単独縦走、大学3年の正月には光岳から北岳への厳冬期単独縦走、同年3月には槍ヶ岳北鎌尾根冬季単独縦走をしている。また大学4年の夏には剱岳八ツ峰の完全フリーソロを、そして翌年3月には、単独で杓子尾根から白馬岳、鹿島槍ヶ岳、烏帽子岳、槍ヶ岳、南岳西尾根を計画し実行に移したが、鹿島槍ヶ岳北峰頂上直下で雪庇を踏み抜き、カクネ里まで約1000mも滑落したものの軽傷で、そこから天狗尾根を登り返して幕営し、翌日大川沢沿いに鹿島まで戻り、信濃大町へ。ここで必要部品を調達して休息し、行動日の制約もあったことから、鹿島槍ヶ岳と烏帽子岳の間は割愛して、烏帽子岳以降を再開し、踏破して新穂高温泉に下りたという。そしてその年の年末、残った鹿島槍ヶ岳と烏帽子岳間をトレースすべく出かけたが、針ノ木岳でアイゼンが脱げて、針ノ木岳北面の雪壁を100m滑落し、足を傷め下山することに。「扇沢駅が近くなり、岩小屋沢の方を眺めていると、突然はっきりと『もう山へ来るな』という天の声?が聞こえ、それは幻聴ではなかった」と。そして彼はそれっきり、キッパリ登山は止めてしまうことに。彼の述懐では、「当時は全身全霊をこめて、特攻の心意気で山に臨んでいたし、絶対に生還できると確信していた。今から思うと、何かにとりつかれていて、謙虚さと慎重さを欠いていた。二度の事故で生還できたのは奇跡に近い」と。
 さて、このような超人的な山行を繰り返していた人が身近にいたのに、医学部の十全山岳会や金大山岳部の人達の間では話題にならなかったのだろうか。あの山行は質・内容共に見過ごせるような山行ではないからである。医学部に入学して金沢大学山岳部に籍を置いた人は延べ7人いる。彼の卒業は昭和56年(1981)だが、医学部在籍の山岳部員としては2年先輩に昭和54年(1979)卒業の加藤がいたし、同期の部員も5名いて、まだ山岳部は凋落の傾向は見えておらず活躍していた時期である。彼には一匹狼的な傾向があることは疑いないが、声をかける位のことは出来なかったものだろうか。よきリーダーに出会うと、レベルは飛躍的に一挙に向上するものだ。
 山を断念した彼は、弟の勧めもあって自転車に傾倒することに。大学の最終学年、彼は金沢から自宅のある町田市まで片道500kmを往復したり、自転車で日本一周を企てたりしている。卒業後は富山医科薬科大学を経て京都大学大学院医学研究科へ、学位取得後は滋賀医科大学へ、ここには10年在籍することに。ここでも自転車と水泳に興じ、琵琶湖の遠泳横断もしている。この間実家が町田市から富士市へ移ったこともあって、富士山へ出かけている。そして平成10年(1998)に帝京大学医学部附属溝口病院へ移った時に転機が訪れる。10歳若い渋谷氏と出会い、山へ誘われて近場の山へ。以後は渋谷氏や東大医学部山岳会の現役やOBと一緒に、縦走やピークハント、沢登りに興ずるようになったと。彼はこれを「散歩的な山歩き」と言っている。でも彼はこの山歩きがとても気楽で新鮮で素晴らしいという。だが最近の山行をみると、富士山のランニング登山の参加とか、無雪期の剱岳や立山、穂高連峰、谷川岳や上越の山々、奥多摩・奥秩父・丹沢の山々や渓谷など、決してお遊びとはいえないハードな面もある山や谷を堪能している。それにしても、今ではもう単独での山行はないという。それが彼のいう「散歩的山行」なのだろう。

1 件のコメント:

  1. はじめまして。私は出羽寛とい者で、10年前に北海道旭川大学を定年退職、専門は動物生態學で、野ネズミやコウモリ類の調査を行っています。2009年の「晋亮の呟き」へのコメントが木村晋亮さんに届くことを願って、お尋ねしたいことを書きます。私は北海道旭川生まれで昭和44年に横浜市立大学を卒業、大学では探検部に所属、朝日連峰の登山やフィリピン・パラワン島へネズミの調査(?)等に出かけていました。昭和34年夏横浜市大探査会(当時、後に探検部)は山岳部と合同で知床半島を4班に分かれて初めての縦走を行い、その3年後の昭和37年7月に大雪山系白雲岳下部に広がる扇ヶ原(100近くの沼がある)の湖沼形態、動植物の学術調査を12日間にわたって行いました。そのことを記念して地元上川町の人たちが、テントを設営した藤沼(当時そう呼ばれていた)を「大学沼」と改称して現在定着しています。
    ところが、昭和59年12月に、当時の北海道の北海タイムスに掲載された「大雪山と人と」という連続ものの一つ「明美沼」に、「・・・昭和34,35年頃だったと思うが、金沢大学の学生が七人、高原温泉の沼の調査に入った。そのうち二人が女性で、明美さんと、もう一人はしのぶさんといったな、高原温泉(扇ヶ原の登り口)に詳しい立岩吉松さん(78歳)は証言する」、「調査した沼は78あったはず。水深や水温、プランクトンなどを調べ尽くした。・・・明美沼はそのとき学生が付けた名前だ。・・・そして、大学沼はこの金沢大学の学生がキャンプを張ったところから、立岩さんが”大学沼”と付けたという。つまり、数年後の横浜市大と同じような調査を行い、同じ場所テントを張り、その時に名前が付いたと書かれています。もう一つ、昭和41発行の上川町史には昭和36年に上川町の関係者が扇ヶ原に現地調査に入り、その時に法政大学のキャンプ隊がいたことから「大学沼」の名称がでたとありマス。翌昭和37年の横浜市大探査会の調査のことは詳しく書いてあります。「大学沼」の命名に関して横浜市大、金沢大学、法政大学の3つがでてしまい混乱しています法政大学山岳部に問い合わせたところ、その当時北海道での活動はないとのこと、また法政大学探検部は結成が後の時代です。
    長々と書きましたが、木村さんが当時金沢大学の山岳部か探検部(?)等の学生がは大雪山系扇ヶ原へ調査に入った、または登山に出かけたということがあったかどうか、もし分かることがあれば教えていただけると幸いです。突然で無理なお願いかもしれませんが、よろしくお願いします。

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