2009年6月18日木曜日

水無月の信州探蕎は三店三人三様

木曽・時香忘、浅間温泉・玉之湯、安曇野・時遊庵あさかわ
 6月13,14日の土日は、かねてからの計画に沿って、信州への探蕎に出た。9名の参加だったが、直前になって7名に、久保車と和泉車に分乗、随分余裕のある旅となった。計画はすべて久保副会長によるもの、初日に訪れる「時香忘」には10時半必着とあって、白山市番匠の「和泉」を午前6時に出発する。久保車の先導で金沢西ICから高速道へ、北陸道から東海北陸道と進み、飛騨清見ICで下り、高山市街を抜け、国道3フォント サイズ61号線沿いの道の駅「飛騨たかね工房」では午前9時の開店を待って工房熟成の唐辛子調味料を仕入れ、後はひたすら木曽街道を一路目的地へ、前回は開田高原で秀麗な御岳を眺めていて不覚をとったが、この日は生憎の雲り空で山は拝めず、お陰で開店の10時半前に着けた。
一、ZCOBO 時香忘(じこぼう) (店主:高田 典和)
 昨年秋に訪れた時は僅か5分位の遅れだったのに、沢山のバイクと車、入ると店内は3席が空いているだけ、結果としては2順目まで待つことになった。しかし今回は広い駐車場に車の陰はなく、一番乗り。入り口にはまだ木のバーがかかっている。奥さんが竹箒で周りを掃いておられ、もう少し待って下さいと言われる。何故か私に蜜蜂が寄ってくる。コニャックの香りのせいだろうか。集合写真を撮っていただく。横を流れる清流からはカジカの鳴き声が、うるさい程だ。そして開店の10時半少し前にバーが外され、木道の回廊を進む。周りには朴の木が沢山植生されていて、緑の大葉が瑞々しい。70米ばかり進むと玄関に着く。主人がお出でて、好きなテーブルにと言われ、窓際の6人掛けテーブルに5人、隣の4人掛けテーブルに2人掛ける。他に客はいない。注文は初めに「夜明け」7枚、次いで予約の「野点」、5人分とかだが7枚にしてもらう。蕎麦前には木曽の「七笑」をお願いする。主人の高田さんが、まだ他に客がおいでないこともあって、テーブルの側に来られ、お話を始められた。これは予期せぬこと、望外の喜びだった。次の客が入ってきて話しは終ったが、やがて30分近く話されたのではないか。
 高田さんは名古屋の出身、50代前半。事業をされていたが、人生の後半、何か振り返ってよかったというようなことをしたいと、それも未知の場所で、ゼロから挑戦ということで、6年前にこの地でそば屋を始めることに。店の名前の由来を聞いたところ、先ず此処へ来た方が、この山の森の中で、流れる沢の水音を聴きながら朴の林に身を置くことによって、都会の喧騒を忘れて頂き、林の中の木道の回廊を、大きな朴の葉の間から見える方形の池を見ながらそぞろ歩くことによって、時を忘れて頂こうと。そして漸く辿り着いた先では、吹き抜けの素晴らしい空間で、ガラス越しに見える森を眺めながら、香り高いそばをゆったりと食べて頂こうとの願いを込めて命名したのだと。また英字のZCOBOのZはJではないかと言われるが、私はZにこだわるのだと。何故ならZはzeroのZ、ゼロから出発したから。そしてアルファベットの最後はZ、究極の目的を求めるからZだと言われた。これだけでも半端じゃない。
 また高田さんは「そばの原点」ということを何度も口にされた。それは年老いた田舎の婆ちゃんが古い石臼で挽いている蕎麦は、石臼の目立ても古くなってきれいに細かくならないが、でもこの粗挽きともいえるそばが本物ではないかと。だから私のそばは粗挽きなのだと。粗挽きよりもっと進化したのが石臼を使わず実を石で割った「石割り」であり、究極は丸抜きを潰してつくる「野点」だと。だから此処の「そば」は噛んで味わって食べてほしいと。細かく挽いたそばは、打つときに香りも味もとんでしまうと仰る。とにかくお客様に美味しいそばを出す、それには美味しいそばに仕上げる、これが信念だと。
 一方で、いろんなそばに挑戦しているとも。「雪解け」は雪解け後に大地から新芽が躍り出るイメージで、フキノトウを入れて打つことにしているとも。またマスタードとかガーリックソースを使ったそばにも挑戦したいとも。いつか京都の「もうやん」で見たときは度肝を抜かれたが、結構若い世代には気に入られているようだが、土台のそばがしっかりしていないと中途半端なものになりかねないが、その点高田さんなら次元が違う。
 「石割り」や「野点」はつなぎがないと打ちにくい。極粗挽きのそばのつなぎを求め、高田さんは飯山市富倉にまで出かけ、オヤマボクチを知り、独自の方法で葉脈のみを取り出し、これを極少量練り込むことにより、粗挽きそばだけでは出ない、喉越しやコシのよさを出せたという。粗挽きというとどちらかといえば喉越しが悪いが、その荒々しさがオヤマボクチを加えることにより、荒々しさはそのままに、滑らかさも相備わるようになったという。ただ自生するオヤマボクチは3年くらいでなくなる。というのはどうも連作障害があるようだという。需要が少ないときは採取するにしても場所を違えればよいが、需要が多くなると深刻になる。高田さんは代わりに十日町の「へぎそば」に使うフノリを使用してみたという。でも出来上がったそばを噛んだ感触は、オヤマボクチではスッと切れるのに、フノリの場合は弾力性があって切れにくく、高田さんの目指す究極の粗挽きそばにはそぐわなかったという。
 オヤマボクチは栽培しても連作できないことから収量は見込めず、新しい素材の開発に目を向けた。オヤマボクチはキク科の植物で、通称山ごぼうの一種である。(ヤマゴボウ科の植物とは別物)。そこで畑で栽培しているゴボウの葉を同様に処理してみたが、通常のゴボウでは葉が薄く、葉脈を十分量集めることができなかったものの、同じ効果が期待できた。そこで葉が厚くて葉脈がしっかりした品種を選び処理したところ、オヤマボクチに匹敵する収量が期待できたという。現在はこのゴボウを栽培し、10日ごとに20kgずつ葉を採取し、渓流で両面をきれいに洗い、5日間かけて処理して葉脈を採っているという。
 このようにオヤマボクチやゴボウの葉脈繊維を入れたそばは通常のものよりも硬く、したがってより時間をかけて打っているし、硬いこともあって切る包丁の寿命も半分だと仰る。また此処では「そばの三たて」は通じなくて、むしろ時間をかけることにより熟成ということも起きるという。また丸抜きの蕎麦を窒素ガスで急速冷凍すると、よりモチモチ感が増すことも経験できたと。玄蕎麦は信州産の信濃1号を使用しているとのこと。
 次の客が見え、高田さんは奥へ、。程なく「夜明け」が出た。田舎と水ごねの更科とを張り合わせ、夜明け前の漆黒の闇と夜明けの白々とした明るさを表現したという限定もの。昨秋よりもより切りが細い印象を受けたが、この方がより上等だ。立派な生山葵と鮫皮おろしが付いてくる。次いで「野点」、これもやはり細くなっている。見ると蕎麦の実の粒がしっかり見えている。やはりこれは噛んで味わうべきだろう。そして汁ではなく塩で頂く。塩は3種、広島の藻塩、アンデスのピンク色の岩塩、沖縄のぬちまーす。
 客が立て込んできて、失礼することに。精算のときに店主と奥さんが来られた。寺田会長は断わってツーショットをものにされたが、小生はおじけてそれはできなかった。

時香忘「夜明」
時香忘「野点」
 当初は夕方までに間があり、もう1軒と言っていたが、程よい腹加減なので止めにした。車は木曽谷から伊那谷に抜け、中央道を岡谷ICで下り、諏訪一ノ宮の諏訪大社の春宮へ、この前は秋宮だった。その後久保車の先導で美ヶ原高原へ、2千米近い高原は天気晴朗ならば一大パノラマが展開するのに生憎の梅雨空。ビーナスラインを北へ下り、美ヶ原温泉を経て浅間温泉の玉之湯に着く。午後4時少し前だった。
二、浅間温泉・ホテル玉之湯 (社長:山崎 良弘)
 このホテルを選定したのは、ここの館主がそばを打つからとか、昨年の美ヶ原温泉の宿もそばが縁だったが、あの時は満腹でどうにも入らず、随分残してしまった。男ばかり7名は3階の和室へ、12畳と6畳がセットになっている。時間が早かったこともあり、夕食は6時に、湯上りにビールといきたかったが、生憎と冷蔵庫の中は空、仕入れる必要があったようだ。「神の河」を持参していたので、氷と冷水を貰って喉を潤す。夕食は当初年寄りが多いからということでミニ会席になっていたが、ネットで見ると昼食のような感じ、事務局にお願いして通常のものにしてもらったが、少し残された方もいた。また食事は当初から「そば」となっており、昨年のこともあり心配したが、コシもあり喉越しもよい二八の細打ちでよい出来だった。ここの社長は信州産のそば粉で手打ちする「信州そば切りの店」を普及する信州そば産地表示推進協議会の事務局長をしている。このような制度は福井県が先進県で、県内ばかりでなく、県外にもこの制度を普及している。
 夕食が終った後、1階のふれあい広場車座でフラメンコの夕べがあるという。こんな温泉場でのショーなどと高を括っていたが、中々の出来に引き込まれ、最後まで見てしまった。フラメンコギターを弾いた若者は大変上手で、初めから終いまで主役となり脇役となって場を盛り上げた。歌・踊りもさることながら、ソンブレロを冠った一見メキシコ人と思しき人が現れ、その人の仕草は現地の人そのもの、スペイン語と日本語を自在に操る器用さには驚いた。するともっと驚いたことに、そこへ女将が登場して、実はこの人は私の主人ですと?、こんな外人と一緒になってどうするのかとマジに心配したが、実はその人は社長の良弘さんだった。まんまと騙された。二人の間には三男二女がいるという。旦那は大学ではスペイン語専攻、メキシコでの留学経験もあるという。メキシコでそばを打ち、高じてメキシコで蕎麦を蒔き、収穫して、それを打つという。30年近く前に、明治18年創業の老舗旅館へ来た経緯は知らないが、何か縁があったのだろう。ひょうきんさを持ち合わせた御仁だが、確たる信念を持った方だ。またメキシコやスペインへそばの普及に出かけるという。
 翌朝、女将の見送りを受けた。一緒に集合写真を撮る。旦那はと聞くと、そばを打っていますとのこと。昼に出すそばなのだろうか。
 浅間温泉を後にして一路西へ、山麓から山中へ。行き着いた先は栗尾山満願寺、真言宗豊山派の名刹である。駐車場から本堂までは約50米の登り、途中の仁王門の山号には「救療山」とあった。下がって山麓を北へ、穂高有明にある「時遊庵あさかわ」へ向かう。11時前に着いた。開店は11時半、ゆっくり待つことに。
三、そば処時遊庵あさかわ (店主:淺川 政昭)
 浅川さんは25年間、土地開発の会社に勤務していたという。山岳写真家・田渕行男の失われてゆく安曇野の憂いに共感し、先ずは安曇野の敷地にギャラリー喫茶を開き、地域づくり運動を始めた。しかし景観の保護というのは実に難しいことに気付く。「あさかわだより」によれば、人の心が荒ぶのは自然の生命力に素直に感動できる目と心がなくなってしまったからだと思ったと。そして自分が出来ることは何だろうと考えつつ山を散策していたときに、川辺に咲いていた山紫陽花に心を打たれ、安曇野をこの花で彩ろうと、平成3年春から苗木を育て始めたと。親が開いた1200坪の土地に、太陽の光、風の匂い、野の花、雑木に出会える小道を設え、そこに「あさかわ」を開いたのが11年前、店は廃材を利用、庭には廃線の枕木350本を敷き詰め、桜、梅、楓、桂、山葡萄、あけびを植えた。根元には安曇野の草花や山紫陽花を植えた。開いた畑地には、菜の花、春そば、秋そばが植えられ、花を咲かせる。今では県内県外の多くの人達の協力で、蒐集した山紫陽花の品種は113種にもなり、株数は1千株にもなった。
 私達が着いた時にはもう数台の車が、30分以上待たねばならないのにである。入り口にある予約表を見ると、久保さん8名がトップに書いてある。予約したものだから、あちらで先に書かれたのではとは久保さんの弁。奥に小さなギャラリーがあり、そこには鉢植えの山紫陽花が数株置かれている。楊貴妃というのもある。見ると、「お客様へ お待ちして頂いている間、安曇野の原風景、森林浴を当店の『時遊庭ーふれあいの小径』でお楽しみ下さい」とある。一歩庭へ踏み出すと、そこは里山の雑木林の風情、開いた畑地には春そばが真っ白な花をつけている。山紫陽花も其処此処に咲いている。なんと素晴らしい自然空間なのだろう。でもこれは千坪もの土地があればこそ出来ること、並みの人がそば屋を開業しようとしても、こうはゆかない。
時遊庵「ざる」
 時間になって中へ入る。4人掛けのテーブルに4人と3人に分けて掛ける。注文は「わさびの花芽ざる」と「天ぷら」の単品。蕎麦前は大雪渓の冷酒。サービスに野菜の煮物も出た。ここでは「花芽ざる」の場合、「わさびの花芽おひたし」と「ざる」に汁が別々に登場する。だから別々に注文しても結果としては同じになる仕掛け。ざるは細打ちの二八、コシもあり喉越しもよい。使っている塗りの器も猪口もギャラリー時代からの仲間が作ってくれたものという。安曇野を愛する仲間との縁の賜物だと。客が次から次へと訪れる。中々の人気店だ。外へ出ると、車が20台以上止まっている。県外ナンバーもある。また訪れたい店だ。
 帰りに大町市立の山岳博物館に寄る。ここは高台にあり、天気が好ければ、餓鬼岳から白馬岳まで一望できるのに、生憎のガスで山は見えていない。充実した二日を過ごすことができた。

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