2009年6月15日月曜日

白山にライチョウー65年ぶりに確認

 6月5日夕方のNHK金沢のテレビニュースで、白山でライチョウが確認されたとの情報を流していた。びっくりすると同時にヤッパリとも思った。というのは12年前に家内と平瀬から7月半ばに登山した際、大倉尾根から室堂平に入って最初の雪渓に出くわす辺りで、私達が通りかかったからか、鶏大の鳥が凹地の上手に向かって低く羽ばたいて飛び去るのを目撃したからである。室堂へ着いてからカクカクシカジカと職員に話したが、幻だとか、カラスだったのではとか、大きさの誤認だとかで一笑に付されてしまった。特にあそこの主とも言えるオバハンからは、白山に居ないものを見たというのは夢でも見てたのではと、けんもほろろに一蹴されてしまった。カメラは持っていたものの一瞬のできごと、眺めているだけで何もできなかったが、冷静に対処できていれば何かモノを言えたのにと臍を噛んだ。独りならまだしも、家内も目撃していたのにである。場所は2400mを超えているハイマツ帯である。
 今回の通報は5月26日に目撃したという登山者からのもので、通報先が県の白山自然保護センターというのも幸いしたように思う。6月1日に情報が寄せられ、翌2日に同センターの上馬次長(金沢大学在学時にはワンゲル部に所属、白山には詳しい)が、目撃情報があった付近で雌の成鳥1羽を確認したという。ライチョウは餌となるガンコウランとコケモモの芽や葉をついばみ、30分後に飛び去ったという。この情報は環境省と石川県から「世界環境デー」の6月5日に発表された。当日の夕刊に記事はなかったが、翌日の朝刊には、地元の北國新聞には1面トップで「白山にライチョウ」、「雌1羽66年ぶり目撃」「豊かな自然裏付け」「北アルプスから移動?」の見出しが踊った。また朝日新聞でも1面に「白山にライチョウ」「雌1羽、65年ぶり確認」と、いずれの新聞も写真付きで報道された。金沢大学山岳会(KUAC)ネットでも、畏友佐久間君が6月6日に〔KUAC:1692〕で、「白山にライチョウ」、〔KUAC:1694〕では「ライチョウ」の一文を載せている。
 さて、今回の白山でのライチョウの目撃は、地元の北國新聞では66年ぶりと報じた。その根拠は、白山麓では昭和18(1943)年以降は目撃情報がないことによっていて、白山では絶滅したとされていることによる。朝日新聞では65年ぶりとあったが、これは県内では昭和20(1945)年頃から目撃情報が途絶え、石川県では絶滅種に指定したとの根拠によっている。また〔KUAC:1692}では、白山では1930(昭和5)年以降絶滅したとされてきたとある。またこれは誤認と思われるが、上杉喜寿が著した「白山」(1986)の中では、昭和30(1955)年7月に白山が国定公園に指定された折、日本野鳥の会の一行が白山の鳥類の調査を行った際、55種を確認したが、標高1700mから2700mの頂上付近までに21種を確認し、この中にライチョウも含まれていたとの記述があり、この時の踏査コースは市ノ瀬から入山し中宮温泉へ下山していて、全行程45kmとある。でもこれは明らかに間違いで、引用した原典は不明だが、ミスか勘違いである。私が知っているのは、石川県が昭和23(1948)年に鳥の中西、植物の本田、動物の岸田、昆虫の名和とその道の権威に委嘱して白山の動植物の調査を行った折に、ガスに煙った室堂平でライチョウの鳴き声を聴いたとの中西悟堂の記載が白山でのライチョウの公式記録の最後である。県の資料では目視ではないので(〇)となっていた。それでも61年ぶりということになる。
 ライチョウは「氷河期の遺留動物」といわれ、日本では本州中部の高山帯にだけ生息する。ライチョウの棲む場所としては南アルプスが世界最南端となっていて、昭和30(1955)年には国の特別天然記念物に指定されている。また環境省が絶滅の恐れのある野生動物を指定するレッドデータブックリストでは、絶滅の危険が増大している絶滅危惧Ⅱ類とされている。現在ライチョウは、北アルプス、南アルプス、乗鞍岳、御岳にしか生息していないとされるが、生息域については、日本野鳥の会編集の「日本の野鳥」〔1982〕では、本州中部の日本アルプス、白山、新潟県の焼山及び火打山に留鳥として分布するが、近年白山では記録されていないと記載されている。また日本野鳥の会会員の真木広造と大西敏一による「日本の野鳥590」(2000)では、留鳥として南北両アルプスと新潟県の火打山及び焼山の高山ハイマツ帯やそれに続く高原植物の草原に生息し、冬は亜高山帯へ移動するとある。日本での生息数は昭和59(1984)年の信州大学の調査では約3千羽と推定されているが、その後の登山ブームや地球温暖化の進行で高山植物の生育環境が悪化し、約2千羽にまで減少したのではとの指摘もある。また〔KUAC:1964〕では、最近の調査によると、南アルプス白根三山周辺では20年前の40%にまで減少しているとのこと。更に平均気温の1℃上昇で90%、2℃上昇で61%、3℃上昇で28%に減少するとされ、将来は白馬、槍、穂高の3集団のみになると推定されるとも。というのは、3℃上昇すると、植生垂直分布が400m上昇し、餌となるハオマツ帯が現在の2500mから3000m近くまで上がり、そうするとライチョウはほとんどが姿を消してしまうことになるとしている。
 ところで何故白山でライチョウが見つかったのだろうか。石川県の自然保護課では、厳冬期に1500m前後の高い山々を飛び継いで移動しながら白山まで来たのではないかと分析しているという。もっとも確認されたのは雌1羽で雄とのつがいは確認されておらず、白山に棲みついて生息している可能性は低いとされる。移動の根拠は、ライチョウの最大移動距離が約35kmとされることによるらしいが、これは本当に本土に棲むライチョウの記録なのだろうか。立山では容易にライチョウに会えるし、春先の縄張り争いでは飛ぶライチョウの姿も目撃されるが、あの体躯で長時間飛行できるとは考えにくい。というのはライチョウが飛ぶときには翼を激しく羽ば立たせてからでないと飛べず、しかも平地では滑翔するのであって、他の鳥のように急に高くに飛び上がれるとは思えない。
 とは言え白山で見つかったライチョウが長距離を移動してきたとして、元の生息域は何処なのだろうか。報道ではライチョウは標高2400m以上に生息するから、白山から最も近い生息域は、立山連峰の南に位置する北ノ俣岳(2661)と笠ヶ岳(2898)で75km離れているとしている。そうならば乗鞍岳(3026)や御岳(3067)もほぼ同じ距離である。でも留鳥であるライチョウが、渡り鳥のような帰巣性もないのに、天敵もいように、どうして75kmも西進したのだろうか。それに白山に辿り着くまでには神通川と庄川という二つの河川を横断しなければならない。報道されたように、冬に1500m前後の山岳を移動しながらとなると、ずっと移動距離も長くなり、困難を伴うのではなかろうか。低山での給餌も問題である。また県はライチョウが移動してきたのは、白山には豊かな自然が維持されていることを裏付けたものだと自画自賛しているが、ライチョウにそのような本能があるのだろうか。
 ライチョウの生態については、日本野鳥の会偏の「日本の野鳥」では、「雌雄または雛を連れた家族群で生活し、秋から冬は群れで生活している。草の種子や芽、昆虫等を地上でとるが、ハイマツの上や木の下枝に止まることもある。春にはナワバリを見張るため、雄はケルンや岩、木の上によく止まる。冬は雪に穴を掘って眠る。」とある。とすると、縄張り争いに敗れた雄が長躯白山へ新天地を求めて飛来したというなら話は別だが、見つかったのは雌の成鳥で、この鳥が長距離を移動してきたとは考えにくい。では生息していたのかとなると確証はないが、将来雄や雛が見つかれば難問は解決する。〔KUAC:1962〕では、学者によると、白山ではハイマツ等の植生からみて、70羽程度の生息は可能としている。ところで、第一発見者が5月26日に目撃した場所の付近で再度確認できたということは、テリトリーが出来ているような印象を受ける。環境省は今回の具体的な発見場所は非公表としているので分からないが、写真からは雪渓跡の砂礫地と思われ、私達が以前に遭遇した場所と相似している。御前峰東方の台地ならば、ライチョウにとっても棲みやすい場所なのではなかろうか。とは言え〔KUAC: 1694〕によれば、寿命は雄で11年、雌で8年、60年以上生息していたとすると、そこそこの個体数がいなければならないことになるが、そうなると半世紀もの間、全く人目につかずに生き長らえられたのかという疑問も残る。でも御前峰東面台地は登山客が簡単に入り込める場所でないうえ、豊富な深いハイマツ帯と草原帯がある。石川県では、「ライチョウ発見で多くの人が白山に関心を持ってくれるのは嬉しいが、登山道を離れて探すようなことはしないでほしい」としている。また環境省も「もし見つけても静かに見守ってほしい」と呼びかけている。
 ライチョウといえば富山県の県鳥で、立山はライチョウのまとまった生息地として知られている。だが、かつては白山にも生息していて、ライチョウとヒトとの交流の歴史を辿ると、古くは雷鳥というと白山の神鳥として有名だったという。以下に北國新聞社編の「霊峰白山」(2004)から抜粋して紹介する。
 白山の雷鳥が登場する最古の文献としては、正治2(1200)年の歌集「夫木抄(ふぼくしょう)」が知られる。「白山の松の木陰にかくろいて やすらにすめるらいの鳥かな」、これは後鳥羽上皇が詠まれた歌である。このように白山の雷鳥が当時の都に知られていたのは、白山に登った修験者が珍しい存在として語り広めたからと思われ、歌に詠まれたばかりでなく、説話をもとに絵としても描かれている。江戸期に入ると、加賀藩五代藩主前田綱紀が白山の雷鳥の生態調査を行ったというが、これは野鳥保護の先駆けともいうべき試みだったと評されている。また江戸期の白山紀行文には、「越の白山に雷鳥あるといふ その形雉に似たり 人まれに見るといへり」、「雷鳥は実に霊鳥にて 神の御使なる事知るべし」、といった記述もみられるという。雷鳥の資料を収集している金沢市在住の八木史郎さんは、雷鳥が神格化された理由をこう説明している。「白山でも2千米以上に生息していた雷鳥は、天に最も近い鳥であって、平地で見られる鳥とは棲む世界が違っていて、山岳修行者は高山でも生きる気高い姿を神の使いとして受け止めたに違いない」と。また八木さんによると、神鳥としての雷鳥は、雷除けや魔除けになるという信仰もあって、その羽が売買されたという記録もあるという。
 〔KUAC:1694〕では、「奈良時代より白山信仰の盛んな頃はライチョウの宝庫だった」とある。とはいっても、白山は独立峰であり、棲息するのに適した縄張りの数も限られることから、ライチョウの宝庫とはいっても必ずしも適した環境ではなく、どちらかといえば個体数の維持が難しいと言えるのではないか。江戸時代に加賀の前田の殿様が行った白山のライチョウの生態調査はどうだったのだろうか。前述の白山紀行文にもあるように、稀にしか遭遇しなかったのではと思う。加えて白山にはライチョウの天敵と目されるイヌワシやオコジョもいる。この鳥の習性として、天候のよいときは天敵を恐れて出歩かないとも言われるほどである。
 白山のライチョウに関しては、少なくとも戦後、その生態に関する正確な記録は皆無である。ある人は白山のライチョウが絶滅に向かったのは明治後期から大正時代にかけてではなかろうかと言っている。もっとも絶滅の原因は謎といってよい。〔KUAC:1694〕では、「主に人の捕食で絶滅したと考えられている」としている。ライチョウは植物の種子や芽、それに昆虫を食しているから、その肉はきっと美味だろう。だからその気になれば容易に捕獲できようし、個体数もそれ程多くなければ、簡単に絶滅に追いやられたと思われる。このような人為的な乱獲のほかにも、天敵の存在や感染症の蔓延による絶滅も指摘されてはいるものの、これといった決め手はなく、やはり絶滅の原因はナゾに包まれたままである。
 この度、白山でライチョウが目撃されたことは、大きな反響を呼んだ。そっと見守るのも必要かも知れないが、専門家による詳しい調査での実態の解明が待たれる。
 〔付記〕白山市の白山ヒメ神社の宝物殿には、白山にいたライチョウの剥製が保管されている。また長野県大町市の大町山岳博物館には、ライチョウの生態や孵化から成鳥になるまでの各ステージの雌雄別の成長や季節による換羽の状態が沢山の剥製の個体で展示されている。よくあれだけの数を蒐集できたものだと感心する。実に貴重な財産である。

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