佐伯邦夫氏が「岳人」10月号の「かわら版」に表記の標題で投稿されていた。佐伯氏といえば、魚津市の生まれ、魚津岳友会の結成にも参画され、北アルプス北部、とりわけ剱岳、剱岳北方稜線、毛勝三山、頚城山群を四季を問わずホームグラウンドとして活躍した御仁である。著書には「会心の山」「山との語らいー剱岳のふもとから」「渾身の山ー我が剱岳北方稜線」「富山県の山」など、写真集にも「雪山邂逅写真集」「美しき山河ー僧ヶ岳・毛勝三山の四季」「富山海岸からの北アルプス」などがある。今年72歳、たまさか小生と同年齢である。
映画「剱岳 点の記」は今更ここで紹介するまでもなく、新田次郎の同名の小説を映画化したものである。この小説自体、史実に忠実な部分もあるが、決してノンフィクションではなく、かといって事実を題材にした完全なフィクションでもなく、言ってみればセミフィクションとでもいうべきか。これを基にして木村大作監督は映画を制作したが、ここでもいろんな、一見ドキュメンタリーともとれるアクションが付け加えられた。ただコンピューターグラフィックや空撮は排除したとのことだが、場面の中にはいろいろ山ヤからすると不自然なシーンの数々があったことも事実である。しかし山の大ベテランである佐伯邦夫氏にしてみれば、どうしても一筆したためなければという想いがあって投稿されたのだろうと思う。しかし、投稿の最後には、「まあ、娯楽映画だから、目くじら立てるのも・・・・という気がしないでもない。しかし『CGや、空撮、用いず・・・・』と、こだわりがことさら強調されるのであれば・・・・、ということである」と語っている。
佐伯氏の映画を観た感想では、さすが天下の名峰剱岳が大画面に展開されたのは大した見応え、しかも長年この山に親しんできた者にさえ、新鮮とも思えるショットも少なからずあったと絶賛している。しかし、自然はさておき、そこに繰り広げられる人間模様となると、「チョッと待て」、いうところも少なくなく、佐伯氏は一登山者の立場から「オカシイ」と思われる点を確認しておきたいと言われる。ここで佐伯氏は単に「登山者」と名乗っておいでるが、私のような山ヤにチョッと毛が生えたような者でさえ、観てオカシイと思う点が多々あったが、ここでの佐伯氏は「山の大ベテラン」として、また「真の山ヤ」としての立場からの指摘であるように思う。もっとも細かい点にまで当たれば、もっと沢山指摘すべきことがあったのだろうけれど、投稿であれば字数制限もあり、重要なことのみに限定されたような感がする。
第一の指摘はガイドの宇治長次郎の歩き方であるという。「映画では、ガシガシと、息を荒くして歩く場面があるが、これは素人、ベテランはこういう歩き方はしない」と。また「上体をむやみに揺するような動きは、無駄が多く疲れ、状況が厳しいほど『省エネ歩行』に徹しなければならない」とも。これには気が付かなかった。
二点目は、「猛吹雪に素顔のまま耐えているシーンも、どういうものか」と。わざとらしいと言われる。「手拭いで頬かむりくらいしなければ。厳しさを出そうとして、かえってリアリティーを損なっている」とも。そういえばそうだ。
三点目は装備。先ずカンジキ。「芦クラ寺にしろ大山村にしろ、あの舞台となっている一帯は『立山カンジキ』の里、カンジキでは日本一ともいえる代物、その立山カンジキを全く使わないで、どこのものとも素性の全く分からないカンジキばかり使っている」とは厳しい。しかしこれは厳しいとは言っても、当然配慮しなければならない点ではなかったろうか。私は気が付かなかったが、カンジキはその地方地方によって、形も大きさも材質も異なるから、佐伯氏ならずとも当然の指摘で、彼にとっては噴飯ものだったろう。しかも長年親しんで用いてきただけに、我慢ならなかったのだろう。しかも「カンジキは同じものばかりでなく、中には山へ入るのに里用のものもあり、ありえないことだ」とも。また「どこからかき集めてきたのか」とも。残念至極と言われる。さすがである。
また「蓑、笠、草鞋等々も下界用の簡便なもので間に合わせている」と指摘される。そして「同じ蓑でも、山中で何日も使うものは作りが全く違う」と言われる。これも炯眼だ。
次いでキスリング型のザック、これはさすがの私もオカシイと思った。昭和30年頃の山行きでは、メインのザックはキスリングしかなかったが、考案されたのはそんなに古い昔ではない。彼は言う。「キスリング型のザック、のっぺりとした大型の袋、大きなポケットが両サイドにあるそれ。映画では柴崎が担いだり、宇治長次郎が背負子にくくりつけたりしているのが定番装備になっている。現今ではほとんど見かけず、歴史を感じさせるのは確か。しかし、これは明治・大正時代には存在せず、日本にもたらされるのは昭和に入ってから。それも広く一般化するのは戦後。なれば、時代考証が50年ほどズレていることになる」と。キスリングというのはあのザックを考案した人の名前じゃなかったろうか。ちなみに小生のものは片桐のものだった。
四点目は滑落の場面、麻ザイルの切れ方、ジッヘルの仕方も不自然だったが、それより岩場で滑落というより墜落の様相だったのに、あの急斜面の雪渓で、ほとんど素手の状態で滑落を免れたのはさすがスタントマンと感心したが、通常なら東大谷の雪渓の末端まで飛ばされての滑落死が常套だ。「派手な墜落をして、負傷の程度はさておき、ああいう場合は、帽子、ザック・・・・、持ち物の多くが飛ばされてしまう」と。
五点目は雪崩。映画の雪崩のシーンは正に迫真、人工雪崩とはいえ、凄い迫力だった。時は春、春の雪崩は底雪崩、底の土も巻き込んでのもの、きれいごとではすまされない。また雪質が重く、一旦圧雪されると這い出すことは困難だ。でも映画のシーンは、苦労はしたようだが見た目には容易に脱出でき、埋まった仲間も救出し、荷物も無事回収でき、小さな表層雪崩での芝居のようだったのは確かである。もっとも人工雪崩の後に穴を掘って脱出できるように埋め込んだのだから当然だが、不自然だといえば不自然だ。「春の雪崩にあって、全員が生きているというのは考えにくい。雪の中から簡単に這い出たり、埋まった仲間をすぐに見つけ出して、掘り出すというのも荒唐無稽。映画のシーンに使われた規模の雪崩なら、不可能と言い切ってもいいと思う。この場合も、もし命があったとしても、持ち物はほぼ失う」と。「時代劇で、大立ち回りを演じても、主人公は掠り傷も負わず、髪も服装もほとんど乱れていない、というのと同じか」とも。
佐伯邦夫氏の限られた紙面での指摘点は以上であるが、もっと沢山あるだろうことは想像に難くない。しかしこの作品の制作には山に素人の人ばかりでなく、大学山岳部のOBや山小屋の主人達も大勢参画している。事前にシナリオを見る機会はないにしても、最低限不自然なことには助言できなかったのだろうか。完璧を期すことはこのような大自然を相手にしたドラマでは無理なことであろうが、あまりに山の常識を越えた非常識、不自然さは、山を主舞台としたドラマ、言ってみれば山と四つに取り組んだ映画であっただけに残念な気がしないでもない。考証はよりリアリティーを高め、作品をより崇高なものにする。
大画面での剱岳とそれを取り巻く山々、剣からの富士山も、私が初めて見た時の感激が思い出されてきて感動した。後立山の峰々、槍・穂高の峰々、ひとしきり感慨にふけることができた貴重な時限だった。しかし、出演した誰かが述懐していたが、映画の画面もさることながら、やはり本当の自然に優るものはないと。その言に間違いはない。
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