11月18日の前田さんのブログに「剱岳 撮影の記」が載っていた。富山市在住のS君からの情報とある。私もヤマケイ・ジャーナルで11月上旬に東京、大阪、富山の3カ所で限定公開予定という情報は得ていたが、先ず「点の記」の二番煎じと思っていたから、富山くんだりまで出かけるなど全く下らんと思っていた。ところで公開は11月14日。ところが前田さんのブログで、石川でも公開されていることを知った。上映場所はイーオンかほくに隣接するシネマサンシャインかほく、「点の記」ではそこここで上映されていたのに、マイナーな作品ともなればこうなるのか。でも近くで観られるとなれば観ないという手はあるまい。ブログの最後には、「『剱岳 点の記』を観た方には必見の作品だが、この来場者数(312席あるのに5人だけ)を考えたら、長く上映されることはないだろうから、早く行かれたほうがいいと思う」とあった。
「剱岳 点の記」は公開後14週で観客動員数が230万人、興行収入も25億円を超える大ヒットとなった。でこのドキュメンタリー映画は、親映画のクランクイン前から監督木村大作にも密着取材し、かつ200日を超える山岳ロケにもメイキングとして同行して撮影したもので、題名は『剱岳 撮影の記ー標高3000メートル、激闘の873日ー』である。この映画のディレクターは、自身で撮影もし編集も担当した大澤嘉工氏である。「剱岳 撮影の記」の上映時間は1時間53分、ちなみに「点の記」は2時間19分だった。
映画はキャストとスタッフが全員集まった会の場面から始まる。木村監督は「この映画は制作に2年、ロケでは山で200日を予定しているが、機材はすべて自分で持ち、自分の荷物は自分で持つように。また山小屋では原則として雑魚寝、テントに泊まることもある。この撮影はありきたりな撮影とは違い、お釈迦様の教えにある『苦行』と思え」とはっぱをかけて言った。そしてインタビューでは、「最後まで撮り切ることが出来れば、絶対に凄い映画になるが、撮り切ることが出来るかどうかは全く分からない」とも。また「もし事故が起きた場合には、その時点で制作を中止する」とも。大澤氏のインタビューは、木村監督のみならずキャストやスタッフにも及び、映画では随所に挿入しているが、映画としてはそれがその分やや冗長になった感がする。山へ向かうにあたって、スタッフ一同を対象としたテントの設営訓練の様子が映し出されていたが、テントは最新のものから昔々の重い防水テントまで、いろいろ出てきていて感慨深かった。またガイドからの最も大事な安全確保の指導シーンも出てきた。
主な撮影の拠点は天狗平山荘と剱澤小屋。小屋での宿泊、休憩、食事、宴会、会話、娯楽、寛ぎのシーンも随所に出てきて、これらはロケ場面ではないが、撮影隊の日常を垣間見ることができて興味深かった。2007年6月下旬~7月上旬の実景ロケは天狗平から五色ヶ原へのロケで始まる。旧道経由での30kgもの荷物を担いでの行軍は私も昔を思い出した。そして最初の試練は、五色ヶ原への行軍、生憎の雨の中、初日は12時間かけて、二度目は3日後にまた同じコースを辿るが、この日も非情の雨、もくもくと歩いて天狗平山荘へ戻るスタッフ。でもスタッフは五色ヶ原への二度の往復で、歩くことに自信が持てたと。そして明日は帰郷という日になって皮肉にも天気は晴れ、監督は急遽雄山での撮影を思い立つ。午前は雄山谷での過酷なロケ、でも午後には雄山頂上で神主から長期撮影の無事を祈願し、お祓いをしてもらうという僥倖にもありつけた。くっきりとした富士山が印象的だった。監督とスタッフは一旦帰京後再び7月下旬に入山し、剱沢を拠点に長次郎谷から剱岳に登り、頂上からは別山尾根を経由して剱沢へ、この間もしっかりロケハンした。
キャストが加わってのロケは9月と10月に。芦くら寺、弥陀ヶ原、天狗山、天狗平のテント場、室堂乗越、別山、剱沢でロケする。中でも圧巻なのは、監督の特別な思い入れでの池ノ平への片道9時間の往復、でも映画で使われたのはたったの1カットだけだったというから驚きだ。そして別山尾根の剱岳南壁、さすが此処は凄い迫力だ。撮影隊も命懸けだ。また剱沢では暴風雨になるのを待っての下山シーン、これも半端じゃない。そして雨は新雪になった。
翌2008年、3月には明治村でのロケ、宮崎あおいの撮影で、NHKよりきれいに撮れとハッパをかける監督。そして6月には再び山へ、しかしここで事故が起きた。平蔵のコル上部の尾根で、落石はなく安全と思われたハイマツが密生する尾根で、スタッフの一人が落石を頭部に受け、ヘリで病院へ搬送された。事故があれば中止という方針だったが、全員の希望もさることながら、息子さんから「撮影は最後まで続けて下さい。父もそれを望んでいます」と言われ、一旦は帰京するが、10日後には全員が再び現場に戻った。長次郎のセリフに「山に危険はつきものです。無理をしても行きましょう」とあるのは、この事故に鑑みて木村監督が入れたものだという。
7月になりいよいよ剱岳登頂と物語の登頂コースとなった長次郎谷の撮影に入る。機材・食料を長次郎谷の熊ノ岩にデポする。7月12日は深い霧、でも13日は晴れ、朝3時半に3班に分かれて剱沢を出発、5時間かけて頂上へ、着いた時には晴れていたのに、間もなくガスで真っ白、頂上直下で一般の登山者がさっきまでは晴れていましたがというシーンも、でも下は晴れていて、頂上のみが雲の中。この日は明治40年に測量隊が登頂した日から数えて丁度101年目の日、しかも木村監督の69歳の誕生日、頂上では期せずしてハッピーバースデイの祝福コール。でも4時間待っても晴れず、この日は無念の下山、フイルムは全く回らなかった。翌14日は雨、15日は曇り、でも16日は晴れの徴候が出て何シーンかを撮影し、件の付け加えられたセリフも長次郎が口にし、いよいよ明日は決戦と闘志を燃やす。
翌7月17日、キャスト9人、スタッフ17人、ガイド10人からなる撮影隊が5班に分かれて順次剱沢を出発、時に朝3時。4日前に通った径をひたすら登る。どの班も3時間台での登頂、3時間を切って登った班も出る始末、気合が入っている。この日は正真正銘の快晴、二度とない好条件とて撮りまくる。お陰でフイルムが足りなくなり下から取り寄せるハプニングも。頂上でのシーンはもちろんのこと、長次郎のコルまで下りての剱岳初登頂直前のシーンも。これで剱岳頂上での撮影は感激のうちにすべて終った。この日も秀麗な富士が遠望できた。午後3時過ぎ、雷注意報が発令と聞き、別山尾根を避けて平蔵谷を下り、登り返して剱沢へ、長い1日が終った。
あとは長次郎谷登行シーンの撮影、撮影隊は源次郎尾根と八ツ峰に撮影場所を確保しての困難な撮影、ガイドの協力なしではとても実行できなかったろう。また熊ノ岩周辺では雪渓の斜度が急で、これも滑落の危険が伴う撮影とて緊張の連続、とても素人集団では出来ない相談だった。そしてこの山での撮影行の集大成ともいうべき撮影は、映画のラストシーンにも出てきた別山での撮影。この日の撮影は一切テストなしの一発勝負と宣言していた監督、期待に応えて盛り上がった雰囲気ですべてOKの出来、これで山での撮影はすべて終った。そして監督はじめ何人かが胴上げされ宙に舞った。
天候に翻弄されたロケも、山の人たちの協力で、7月末にはクランクアップした。「点の記」のエンドロールには、監督はじめ、この作品に携わった総ての人々の名前と関係団体・施設の名称が、「仲間たち」として同列に表示されていたが、これは監督の協力者に対する餞だったのだろう。
[映画を観ての後日談]:映画のなかで木村監督が何か気まずい雰囲気をほぐそうとして、今まで決して喋らないでおこうと思ったことがあると。実は剱岳頂上から早月尾根を下っているとき(いつなのか、どこまで下ったのかわからない)、先の二人が目障りなので先へ進ませ、危ないところがあったらそこで待つように言って下っていたとき、何か根か枝につまずいて、転んだが、とっさに体を反転させて命拾いをしたと。、それをジェスチュアたっぷりにするものだから、その場の緊張は一編に吹き飛んでしまった。右は切れ落ちた谷、もし落ちていたら仏様になっていたろうと。カメラをまわしていた大澤氏にはこのシーンを撮るなと言い、もし撮ってもボツにするからと言っていたが、何故か残って我々は目にすることができた。
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