2009年7月27日月曜日

近代になっての剱岳初登と錫杖頭・鉄剣の発見

小説「剱岳 点の記」と映画「剱岳 点の記」
 映画「剱岳 点の記」は新田次郎の同名の小説を映画化したものである。この小説が出版されたのは昭和52年(1977)8月で、この小説を書くにあたって、新田次郎は2年にわたって多くの取材をしているほか、前年には剱岳にも登頂している。しかし取材したことをすべて小説にそのまま反映させているわけではなく、、ノンフィクションのようで実はそうではない。主人公は陸軍参謀本部陸地測量部に所属する柴崎芳太郎測量官が前任の古田盛作の後を継いで、地図の空白地域としての剱岳に三角点を設置しようと一途に努力し、四等ではあるが造標することができた物語である。それには先ず剱岳に登頂しなければならないわけで、山の案内人には前任者からの薦めもあって、大山村の宇治長次郎を選んでいる。立山周辺の三角点設置には、これまで立山信仰の拠点である芦クラ寺の人達に山の案内や機材・資材を運ぶ人夫を頼んできたが、剱岳は信仰では死の山、決して登ってはならない山と位置付けされていたために、芦クラ寺での案内人・人夫の調達は出来ず、代わって対岸の大山村に協力を申し出た経緯がある。
 ところで小説では、柴崎芳太郎測量官が主役、宇治長次郎が重要な脇役となっている。初登頂されたのは明治40年(1907)、前年には夏から秋にかけ、大山村の長次郎の家を根拠地にして、柴崎と長次郎は剱岳の登路を探るための下見をしている。そして尾根伝いでは早月尾根も別山尾根も頂上直下に岸壁があり、三角点の標石や測量機材・資材を上げることは困難と判断、残るルートは東面の沢をまだ雪渓が残っている時期を見計らって登ることにし、そしてこの沢筋のルートから登頂できた。第1回目の登頂は、明治40年(1907)7月12日、登頂者は測夫の生田信(ノブ)と人夫の宇治長次郎、岩木鶴次郎、宮本金作、第2回目の三角点測量標建設には、7月27日に柴崎芳太郎測量官、木山作吉測夫と人夫の宇治長次郎、宮本金作、山口久右衛門、南川吉次郎が登頂した。しかし正規の三角点設置は出来ず、木片をつなぎ合わせて四等三角点とした。そして初登頂の折に、頂上の凹地に錫杖の頭と鉄剣を長次郎が発見したとしている。(登頂日は事実の日より1日早くなっている)
 映画では、二度ではなく一度で登頂したことになっていて、登行ルートは小説と同じ三ノ沢(長次郎谷)からで、登頂者は柴崎芳太郎測量官、測夫の木山作吉と生田信、人夫の宇治長次郎と山口久右衛門で、宮本金作と岩木鶴次郎は残留となっている。登頂して木片で四等三角点を造り、錫杖の頭と鉄剣を見つけたのは長次郎で小説と同じである。ロケでは実際の登頂日である101年目の7月13日にスタッフが登頂しているが、本隊が到着した20分後には頂上のみガスで視界がきかず、やむなく下山、7月16日に再度登頂、この日は快晴だったとか。
剱岳登頂の記録と錫杖頭の発見
 さて史実では、柴崎らが下山して後、富山日報の取材を受け、柴崎芳太郎測量官の談話が明治40年(1907)8月5日と6日に『剣山攀登冒険譚』として新聞に連載された。それによると、第1回目の登頂は7月13日、ルートは現在の長次郎谷から、私が生田測夫と人夫4名(山口、宮本、南川、氏名不詳)を引率して登ったが、氏名不詳の1名は雪から岩へ移る地点で落伍し、残り5名で登頂したと。そしてその折、小さい建物跡のような平地に錫杖の頭と鉄の剣を発見したと。第2回目は三角点測量標を建設するために、木山測夫と人夫岩木其の他を率いて三角点を設けようとしたが運び上げられず、やむなく四等三角点を建設したと。それも木片4本を接いで漸く6尺になる柱1本を立てたに過ぎないと。この第2回目には日にちの記載はない。
 小説では、柴崎らの陸地測量部と日本山岳会が剱岳登頂の先陣争いをしたような展開になっているが、史実ではそういう事実はない。また映画では柴崎らの登頂数日後に、小島烏水率いる山岳会のメンバー4人が登頂しているが、これは全くの作り話で、小島は生涯剱岳には登っていない。だが小島烏水は日本山岳会(当時は単に山岳会)の有力な創立メンバーで、正式な発足は明治38年(1905)10月14日で、機関紙として「山岳」を年3回発行しており、第1年第1号は明治39年(1906)4月に刊行されている。そしてその第3年第3号の雑録に、小島烏水が柴崎芳太郎の談話記事として、「越中剣山の探検」は登山史上特筆する価値があるとして、その全文を紹介している。しかしこの内容は先に示した「富山日報」の内容と同じである。
 その後明治43年(1910)3月発行の「山岳」第5年第1号に、吉田孫四郎の登山記「越中剱岳」が出た。これは一般人としての剱岳初登頂の記録で、登頂は明治42年(1909)7月24日で、同行はほかに河合良成、野村義重、石崎光搖の山岳会メンバーである。案内人は宇治長次郎、佐々木浅次郎、立村常次郎ら大山村出身の者達で、当時の立山温泉では、既に長次郎は剱岳へ登った「剛の者」として知られており、その情報を基に特別待遇で雇われたという。吉田の言では、彼は一点の非難されるべきことなく、しかもこれほどの好漢はいないと高い評価をしている。そして一行が登った谷を「長次郎谷」と命名し、剱岳にその名を留めたとある。またこの記述の中で、「長次郎は柴崎測量官一行の測量登山に従事して剱岳に登った」と文章で記している。これには石崎が撮影した「剱岳頂上の南望」という小さな測量標を前にした写真が写っていて、その測量標は天然木の皮むきの支柱で、針金で固定されていた。これは柴崎が話した木片を接いで柱を立てたという話とは異なっている。時にこの天然木は長次郎が一昨年自身で担ぎ上げたものだと言っていたと。また陸地測量部の剱岳登頂については、人夫の宮本金作が語ったこととして、第1回目は生田測夫と人夫宇治長次郎、第2回目は木山測夫と生田測夫、人夫は宮本、山崎ほか2名、但し自然木の支柱は長次郎が担ぎ上げたとしている。要は引率したのは技能抜群の測夫木山、生田の両氏で、かの古器二品を発見したのは生田測夫であると。そして柴崎測量官は前後両回とも登頂に参加していないと。
 これに対し柴崎芳太郎は、明治44年(1911)5月発行の「山岳」第6年第1号に、宮本金作の話には相違があるとしている。それによると、第1回目は「測夫・生田に命じて、査察させた」。第2回目は「測量上の判定を下すべく、測夫・木山を率いて自ら登山し、四等三角点の建標を建設することに決定した」と書いている。このように剱岳登頂についての疑問に対しては上のような弁明と反論を載せているが、長次郎の剱岳登頂については一言も触れておらず、肯定も否定もしていない。このように責任者としての柴崎測量官が正しい事実を述べなかったことがいろいろな憶測を生み、情報を錯綜させている。
 柴崎芳太郎の長男柴崎芳博は、昭和55年(1980)12月発行の「山岳」第75年に「剱岳登頂をめぐってーある疑問点について」の一文を寄せ、その文中で、父の登頂は第2回目であるとしている。そして父のメモでは、第1回目は生田信測夫、人夫は山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、その他1名、第2回目は木山作吉測夫、人夫は岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎で、柴崎は第2回目に登頂したと。メモには宇治長次郎の名前は出てこないが、第1回目のその他1名がそうであろうと。信仰心の厚い長次郎にとっては剱岳は登ってはいけない山という伝統的心情のため、雪渓を登り詰めながら登頂を断念したというのが本当で、それが落伍したと伝えられたのではと。結論的な見解として、信心深い長次郎が、その禁忌があったために「落伍」とされ、神聖な絶頂を土足で踏むことを避けさせ、厳しい掟が足を釘付けにしたのが一般的な見方だとしている。
 また山岳会メンバーとして一般人として剱岳初登頂した河合良成は、昭和38年(1963)4月にNHKの「趣味の手帳」で、「半世紀前の剱岳登山」と題して話した内容を日本山岳会の「会報」227号に寄稿している。登頂した時の様子を、「頂上には長次郎が一昨年担いで来て立てた天然木の皮を取ったような棒が一本立っていて、それが針金で支えてあるところの三角台がそこに立っていて、『これは私が担いで来て立てたんだ』と長次郎が言っていたと。多分その年に何回も剱岳へ登ったと思われ、おそらく第1回は長次郎だけで、後から柴崎測量官が登ったんだと思います」と。
 また錫杖の頭と鉄剣については、その発見者は小説では長次郎となっているが、新田次郎の取材記事では、剱岳登頂の折、「ここら辺りで生田測夫が見つけたのだと思いながら岩石が積み重なった辺りに目をやった」と記している。古くは「富山日報」では、一行が発見したことになっているし、また他の文献・史料では、柴崎芳太郎が発見し持ち帰ったと記されている。現に新田次郎は柴崎家でこの錫杖の頭と鉄剣を手にとっている。その際長男の芳博氏はしかるべき時にしかるべき場所へ返すと言われていたと。現在は重要文化財として立山博物館に収蔵されている。生田測夫の孫の生田八郎は、平成19年(2007)の秋に、立山博物館に展示されている錫杖の頭と鉄剣を見た後、剱沢小屋の主人佐伯友邦の家に立ち寄って、「錫杖の頭と鉄剣は祖父が見つけたと親から聞いている」と話したと。
 以上、剱岳の近代になってからの初登頂と四等三角点の造標、錫杖の頭と鉄剣の発見については、真実はただ一つであるにもかかわらず、剱岳を含む三角網を完成させるために、周辺27箇所に三等三角点を造標し、その指揮を取った責任者が真実を語らなかったばかりに無用な推測を生み、宇治長次郎なる人物は全く知らない、記憶にないと死ぬまで言い切ったのは何故なのか、実に理解に苦しむ。近代の登山界にあっての重鎮ともいうべき田部重治や冠松次郎は、「宇部長次郎は性質は温和で人と争うという風なところが微塵もなく、そして山に対しては凄い勘の持ち主だ」と褒めている。また柴崎測量官が剱岳に造標した四等三角点は木片を4本接いで造ったと発表しているが、2年後に登頂して見たのは天然木だったことからしても、柴崎測量官の言質は怪しいと思わざるを得ない。現存している写真が確かなその証拠である。
 登山史家であり、また宇治長次郎の出身地でもある富山県大山村の出である五十嶋一晃は、宇治長次郎の登頂に関することが、いつまでも登山史上の疑問の対象になり、議論されることが残念でならないと言っている。彼は「剱岳測量登山の謎ー長次郎を巡る疑問」の中で、いくつかの情報から帰納的に推理を重ねてみると、次のようになると。
・測量登山は2回行われた。
・第1回目は明治40年(1907)7月13日、登頂者は生田信、山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、宇治長次郎。
・第2回目の登頂日は不明、登頂者は柴崎芳太郎、木山竹吉、岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎。
・観測用の自然木を背負い上げたのは宇治長次郎。
 なお、第2回目の登頂日については、陸地測量部に保存されている「四等点標高程手簿」からは、明治40年(1907)7月28日となっている。
 また、錫杖頭と鉄剣の発見者は生田信、持ち帰ったのは柴崎芳太郎であろう。

付記1:明治期の三角測量班の編成は、測量官1名、測夫2名、人夫5~6名が標準となっていた。
付記2:大正2年(1913)、近藤茂吉は佐伯平蔵、宇治長次郎、人夫1名と長次郎谷から剱岳へ登り、近藤と平蔵は別山尾根を初下降し、長次郎と人夫1名は平蔵谷を初下降している。「平蔵谷」と命名したのは近藤である。

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