2009年9月9日水曜日

「歩く」と「登る」の違いー72歳の白山登山

 私は血糖値が極めて高かった(HbA1cが8%台)こともあり、医師と管理栄養士とから栄養指導と運動療法の指導を受けた。もう2年くらい前になるだろうか。栄養指導では、特にお酒が槍玉に挙がり、晩酌4合を半量の2合に妥協させられた。通常の食事では特に指摘はなかった。ところで運動については、少し歩いて下さいということで、当初は家から半径2kmの地点までの往復を企て、雨が降っていなければ朝食前に歩くことにした。そうこうするうちに、半径2km以内にある白地図の道はすべて赤線が引かれてしまった。昼が短い季節では午前4時や5時台はまだ暗いので、自動車が通る道を歩くときは自己防衛で蛍光ジャケットを着用した。1年ほど経っての検査ではHbA1cの値も6%台になり、さすが効果があったようだった。そこで以後も続けることにしたが、歩くのは夜でも明るいルートを1本選んで歩くことにした。ただ私の住んでいる野々市町は高低差が4mしかない平らな町、そこが金沢市と違うところで、効果的な歩きを実施するには不適である。それで今は金沢市窪町の満願寺山の麓まで往復5.8kmのコースを毎朝歩くことにしている。ただ高低差が25mと少ないのが難点である。歩く時間は約1時間、しかしマンネリになったせいか、それとももう限界なのか、HbA1cが5%台になることはない。またこの歩きは血糖値対策もさることながら、少しは山へ登る足しにでもならないかとの目論見もあるのだが、今回の白山登山で、メタボ対策にはなっても登山対策にはならないということが分かった。ここでは足の鍛錬の成果を試したものの、成果がなかった白山登山での顛末について記す。
 今年はまだ一度も白山へ行ってなく、せめて年に一度はと少し焦り気味に。9月5日の土曜日にと思っていたが、天気がスッキリせず、では日曜日と思ったらOEK(オーケストラアンサンブル金沢)の今シーズン初の定期演奏会、それじゃ休んで月曜日にでも。休暇の連絡は、東京に滞在の家内にしてもらうことにしての白山行きとなった。装備は山ヤとして恥ずかしくない必要最低限のものを持つことに、重量は7kg程度。家を出たのは5時10分前、別当出合の駐車場まで1時間10分、朝の車の駐車状況は、市ノ瀬50台位、別当出合100台位だった。もっともこの中には日曜午後の規制解除後に入った車もあろうし、またこの後に入ってくる車もあろうが、私が着いた頃はそのような状況で、まさに今から登ろうとしているのが数組いた。中に小学生らしい女の子を同伴している親子がいたが、学校を休んでの登山なのだろうか。
 駐車場から出会いのセンターまでは10分50mの上りである。センターには数人いたが、大半は出かけたようだった。中年の白山初めての男性、格好からして登山素人の人、指導員から観光新道からの上りは下山路にした方がと言われていた。歩き始めは私と一緒、私は歩きに自信がないことから、彼にお先にどうぞと言ったが、後でいいと言うことで私が先に、私はマイペースでゆっくり休まずに、彼氏は休んだ分だけ送れた。中飯場までの間にランニングスタイルの若者2人が駆け抜けていったし、また仲良し三人娘にもお先にと越された。私は糖尿病性神経障害ということもあって、足の裏が痺れているような感じがあり、今一登山靴と山道との間にフィット感がない。従って足元をしっかり見て歩かないとという前田さんの言を思い出しながら歩く。遅くても安全第一だと心して歩く。三人娘は中飯場にいたが、私が着くや手を振って出立していった。中飯場から別当覗の間で、立派な髭を蓄えた軍人なら大将格の御仁を越したが、話を聞くと、土曜に来たけれど天気が悪かったので今日また登るのだと。軍服のような出で立ち、私は72歳だというともっと上だと、恐れ入った。新しい迂回路に入ってダブルストックを持った長身の若者に道を譲る。朝8時、天気はよく晴れていて、陽が当たると暑いくらいだ。そろそろ迂回路の出口という処でかの三人娘に会った。座り込んでおにぎりをパクついていた。もう少しで小屋なのにと言うと、お腹が空いたからと言う。若くて元気でも空腹じゃシャリバテもしよう。お先にと言って先へ進む。もう甚之助小屋に近いという場所で、お相撲さん似の人が下りて来た。室堂を一番先に出たのだろうか、ゆっくりゆっくり下っていった。この日下る人に会った第一号だった。
 小屋で少憩の後、水平道(展望)分岐へ、これまでなら20分で着くのに30分もかかる。今日は晴れていて眺望がきく。砂防新道へ。二の坂を登ると、三の坂に点々と先行者が連なって見え、先頭は坂の頂に達している。十二曲りの急登でも、つづら折れの坂には点々と登山者が、ここでも私より年輩の紳士に出会った。ゆっくりと私と大体同じペース、でも延命水を汲んでゆくとかでリュックを下ろされた。坂上から下を見ると、お姉さんが一人速いピッチで登ってくるのが見えた。坂の上の方に来て、時々立ち止まる。これで私も安心して立ち止まれるというもの、どうやら私の方が先に黒ボコ岩に逃げ込めた。ここでは十数人がたむろしていて、写真を撮りあっている。お母さん三人組の一人が元気がない。見ると何が入っているのかザックがすごく膨らんでいる。肝っ玉母さんのような方が持ってみて、こんなに重けりゃバテルわよと、私がそれを背負ってあげると。エライ。弥陀ヶ原の木道を歩いて五葉坂下に着いたら、あの肝っ玉母さんは、ここまで来たら室堂に着いたも同然よと言う。私など、これからもう一本100mの登りがと思うのだが、大したものだ。この坂は後輩が春にホワイトアウトで遭難死した場所でもあり、何となく今は通行禁止の水屋尻の径の方が好きだ。もう坂の頂に近いところで、夫婦のご婦人の方がうずくまっていた。もう1分も歩けば室堂が見えますよと言うと、少し元気が出たようだった。その時外国の元気な坊や達が十人ばかり、3人の大人に引率されて下りてきた。皆コンニチワと挨拶をして下っていった。清々しい。そしてどうやら室堂に着いた。 
 室堂センターには登山者はまばら、前の広場にもそんなに多くはいない。50人ばかりか、もっとも御前峰への登路には点々と登山者が見える。ここまで休みを入れて3時間46分、以前なら3時間だったのにと、この歳ではもうこれより速いペースは考えられない。休みは合計して18分、差し引いても3時間半だ。衰えは歴然、当初は大汝峰へも回る予定だったが、今日は御前峰だけにしておこうと、自信の無さが顔を出す。食事をして御前へ向かう。登り始めて気が付いたのだが、標高2000mまでは雲の海、それが徐々に上がってくる。頂上に着く頃にはその雲海の高さは2300mの高さに、別山も頂上が見えるのみの有様、東の方の北アルプスも同様で、山の頂のみが遠望できるのみ、奥の宮に着いてお参りをする。下の室堂平にある奥宮の社務所には、お宮は8月31日で閉めましたと張り紙してあったが、例年ならば賽銭箱は置いてあるのに、今年は取り外してあって、お賽銭は上げられず終いになった。登山者がある間は、置いておけばよいのに、大汝峰と別山にもお宮があるが、そこも撤去したのだろうか。昨年は白山比め神社の千五百年祭があって、白山奥宮の社務所は7月末で神官が居なくなったが、頂上奥宮には賽銭箱は置いてあった。昨年秋、室堂閉鎖後の10月18日に平瀬から登った際、頂上奥宮にお参りしたところ、賽銭を入れるとチャリンともいわないので見ると、賽銭箱は満杯になった状態、そこで白山比め神社に電話して、忙しいのは分かるが、せめて室堂閉鎖のときに白山観光協会の職員にでもお願いして、お賽銭を下ろせなかったのですかと言ったら、えらく恐縮していたが、その後どう処置されたのだろうか。それにしても、神官が山を下りると、賽銭箱も外すとは如何なものか。因みに白山観光協会は白山比め神社内にある外郭団体なのだが。
 頂には50人ばかり、若い男女が多く、皆さん眺望を楽しんでおいでる。私も大汝へ行かないと決めて、ゆっくり30分ばかり滞在した。下りもゆっくり下る。時々足がもつれる感じもするので尚更だ。中に二人走って下る人が、径を譲るとスミマセンと言って駆け下りていった。若いときは競い合ったこともあるが、とても今は出来ない。下りに22分も要した。以前より5~7分余計にかかっている。上りだけでなく下りでも歳を感ずる。
 下山するには少々早いが、午後1時前に室堂を発つ。五葉坂でまた一人サポートタイツを着けた走り組が、坂は石組みなので、駆け下りるとまではゆかないが、かなりのスピードで下りていった。弥陀ヶ原の木道は駆け足で、近頃はこの種のトレイルランナーが増えてきたようだ。エコーラインからのんびり下る。下るにつれてガスの中に入る。水平道から砂防新道との三叉路へ、この辺りから上りの人が目立つようになる。大きな荷物の人は、南竜のテント場だろう。夫婦や恋人同士の数組に会う。南竜小屋は外側が大分傷んでいたが、見ると足場が組まれていて、修復しているようだ。荷の少ない人は小屋泊まりなのだろう。明日の天気予報は曇りか霧だった。甚之助小屋に着いたのが午後2時近く、ここでも何十人もの登山者がいた。今からだと泊まり、南竜にしろ室堂にしろゆっくり時間がある。でも驚いたことに別当の七曲りで若い女性一人が登ってくるのに出会った。時刻は午後3時、荷はほとんど持っていないものの、小屋へは日没寸前になるだろう。ベテランなのかも知れない。こうして今年初の白山行は終った。下りはエコー経由で2時間38分を要した。72歳ではこんなものか。

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