「点の記」とは、三角点設定の記録である。三角点には一等(全国に972点、約40~50km間隔)、二等(全国に5,056点、約8km間隔)、三等(全国に32,699点、約4km間隔)がある。「点の記」には三角点を置くことを決めた(選点)年月日と選点者、三角点を設置した(埋石)年月日と設置者、観測のための櫓(点標)を造り(造標)、経緯儀を使って観測した年月日と観測者のほか、その三角点へ行く道筋や所要時間等を記載することになっている。これら明治21年以降の「点の記」の記録は、今は国土地理院に永久保存資料として保管されている。剱岳の「点の記」については、当時三等三角点を設置する予定だったが、登頂すら困難だったうえ、ましてや94kgもある三等三角点の柱石や測量機材を運び上げることはとても絶望的で、埋石を断念した経緯がある。その後現実に剱岳頂上に三角点が設置されたのは平成16年(2004)8月になってからで、この時点で初めて「剱岳点の記」が生まれたことになる。これを見ると、選点年月日は明治40年7月13日、選点者は柴崎芳太郎、設置年月日は平成16年8月24日新設、設置者は伊藤純一、観測年月日は平成16年8月25日、観測者は中山雅之、方法はGPS測量となっている。測量は1970年頃までは三角測量、その後20年間は光波測距儀という機械を用いての三辺測量、以後現在はGPS測量が一般的なものとなっている。
石川県でも現在登山路がない山々にも三角点が設置されているが、三角点があれば「点の記」が存在するわけで、例えば笈ヶ岳は最も奥まっていて行きづらい山であるが、この山へいつ、誰が、どんなルートで、100kg近くもある柱石や測量機材を運び上げたのかは「点の記」を見れば判明する。また陸地測量部の人達が登頂した時には、剱岳と同じように、修験者が残したと見なされる錫杖があったという。
小説から映画へ
本年6月20日に全国で封切りされた映画「剱岳 点の記」は、新田次郎の同名小説に拠っている。これは剱岳に三角点を設け、測量の空白地域を埋めるという役割を担う、旧陸軍参謀本部陸地測量部測量官の苦闘の物語で、明治40年(1907)7月に測量官柴崎芳太郎が剱岳に四等三角点を選点したという事実を中心に物語は展開する。ところで小説の推移は事実(史実)との隔たりが大きいうえ、ドラマとして面白くするために、柴崎芳太郎測量官が宇治長次郎の協力を得て初登頂し、また陸地測量部と日本山岳会(当時は単に山岳会)とで剱岳登頂先陣争いをさせたりしているが、これは物語上のみでの展開である。映画ではこれを更に映像での迫力を高めるためにいろんなアレンジを加えている。ところで柴崎芳太郎は死ぬまで、生前の記録には勿論、友人や息子にも宇治長次郎なる男の記憶は一切なく、全く知らないと言っていたという。何故なのか、ミステリーである。でも小説も映画も協力して登頂し選点したというのは、事実はどうあれ心休まる物語となっている。
この映画の監督はカメラマンを40年近くやってきて40本近い映画を撮ってきた木村大作である。この構想が生まれたのは2006年2月、能登の海を撮りたくて出かけた帰り、内浦や氷見の海岸から富山湾を隔てて見えた立山・剱の連峰に感激し、上市町へ行き、剱岳を見ながら新装版の文庫で出版された原作を読み返したとき、ただ黙々と地図を作るためだけに献身している測量官に自分を重ね、これを映画にしたいと思ったという。新田次郎の小説は最も映画になりにくいと言われる。構想を坂上順製作責任者に相談したところ、藤原正彦の「国家の品格」を読んだらト薦められ、そこに「悠久の自然、儚い人生」という言葉を見つけ、これは正に我が人生と思ったという。この時はその著者が新田次郎のご子息とは知らなかったという。早速申し入れしたところ快諾されたうえ、以前の新田作品映画化でのカメラマンだったことを覚えておられ、原作をいかようにも変えて頂いても結構ですとまで言って頂いたという。またもう一人の亀山千広製作担当からは、2年かかるけれど、全部本物の場所で撮影しなさいとの助言をされた。この時、脚本も撮影も監督も自分でやるしかないと腹を括ったと述懐している。
監督の構想と出演者への注文
2006年の春から夏にかけて、木村監督単独もしくは菊池敦夫プロジューサーと二人で立山へ数回出かけ、天狗平、室堂、室堂乗越、別山、剣御前、剣沢へ、そして7月末には剣岳にも登頂する。帰ってからは精力的に脚本作りに没頭する。二人のほかに宮村敏正監督補佐も加わる。そして同時に一緒に闘う仲間となるキャストやスタッフを全員面接して集めた。特に主役の柴崎芳太郎役の浅野忠信には、監督がはまり役と思い込んだだけにかなり強引に引っ張り込んだようだ。またもう一人の案内役の宇治長次郎役の香川照之も、意気込みが凄くて諾しかなかったと言わしめている。後はかなりスムースに決まったようだ。そして最大の演出は、明治39年から40年にかけて、剣岳周辺の地図を作成するために黙々と献身的に測量した人達を実写すること、そしてただひたすらに懸命に生きる人々に光を当てることで、「永遠の自然と儚い人生」を対比して浮かび上がらせることだと。それには作品に出てくる人物になりきって追体験してもらうためにも、撮影は順撮りすることにしたと。監督の構想では、撮影はすべて現地で、しかも合成による撮影はしない。山の撮影にヘリコプターを使っての空撮はしない。CG(コンピューター・グラフィック)は使わない。更にロケ地現場への移動はすべて徒歩による。撮影機材は人力で担ぎ上げる。自分の荷物は自身が背負って運ぶ。泊まりは山小屋(雑魚寝)かテント泊。また、この撮影ではもっと過酷なことを強いるかも知れないが、この撮影は単なる撮影ではなく、お釈迦様の教えにある「苦行」であると。これらの条件を受け入れて、共に山へ登る覚悟をして参加してほしいと。これを全員に徹したという。
監督が狙っていたのは、もし本物の状況の中に俳優を立たせ、そこに嘘を加えない同じ状況下で撮影すれば、そこで俳優がその時感じていることは、その役の人もそう感じていただろうと。だからそのような状況のときに、もしアドリブが自然に吐露しても、それはその役の人の言としてOKにしたという。このほかにも脚本にない場面が随時挿入された。奇想天外と言わしめた着想だ。現に現場での撮影には、荷物を少しでも減らそうと、脚本を持たずに参加した人が大部分、でも現場第一の監督には、脚本は不要だったかも知れない。そして山の天候の急変に驚きもし、自然の荘厳さと恐怖とをしっかりと実写し、これまで接したことのない映像を具現化してくれた。
山での撮影行ー俳優なしでの実景ロケ
実景ロケは2007年春から夏にかけて3回行われた。第1次ロケは4月、天狗平山荘を基地に、天狗平、弥陀ヶ原、天狗山、室堂、雷鳥平、室堂乗越など。その後別山での撮影のため剱御前小舎へ移動しようとした際、前日雷鳥沢で雪崩があったこともあり、尾根筋を吹雪のなか移動する破目に。スタッフ5人・ガイド4人がホワイトアウトの中、アンザイレンして登る。最初の試練。転ぶなら右へ、左だと助かりませんと言われたと。翌日も終日猛吹雪。でも次の日は風は強いが晴れ、荘厳な日の出と朝日に輝く峰々を激写、別山からは感激の剣岳を撮影。でも次の日は暴風雨、山の天気の急変に驚く。翌日は小康状態の合間に一気に下山。その後能登半島、島尾海岸、馬場島から剱岳を、更に5月の連休には八方尾根から唐松岳に登り剱岳を撮影。
第2次ロケは6月下旬から7月上旬にかけて、前半は剱御前小舎をベースに室堂、雷鳥沢、剱御前、室堂乗越で撮影。後半は天狗平小屋をベースに五色ヶ原へ、1回目は一ノ越、浄土山、龍王岳、鬼岳、獅子山、ザラ峠で撮影しながら五色山荘へ、霧と雨の中の撮影行。翌日は更に南行しようとするが天候回復せず、沈殿せずに天狗平小屋へ雨の中を引き返す。翌々日再度五色ヶ原へ、でも霧が濃く撮影かなわず、再び天狗平小屋へ戻る。この雨の中の2往復はきつかったと。でもスタッフは一歩一歩確実に歩けば、必ず目的地に着けることを確信したとも。帰る前日は晴れ、監督は急に雄山へと。そして大汝山でも撮影、雄山に戻り、東尾根を下らせての撮影、でもこれはプロモーション用。終って雄山頂上で今後の撮影の無事を祈願してお祓いを受ける。
第3次ロケは8月上旬、長次郎谷から剱岳頂上へ、頂上で富士山実写。別山尾根から下山、途中南壁でロケハン。剣山荘と剱澤小屋をベースに剱沢付近を撮影。下山前に奥大日岳を下見。
山での撮影行ー俳優入っての測量行ロケ
〔2007年秋季ロケ〕 9月下旬~10月下旬。柴崎芳太郎と宇治長次郎が山に下見に入る。芦くら寺、弥陀ヶ原、天狗山、雄山、室堂乗越、別山、剱沢で。ある日、剱沢から池ノ平へ、片道9時間、しかし2カットのみ。更に剱御前、南壁のシーン撮影。別山で剱岳へは「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」と暗示された行者を、降雪の中、二人で山から下ろすシーンを撮るため雪待ち、それで本隊は一旦帰京。10月下旬になり雪、下山シーン撮影。その後須山の洞窟、称名滝、岩くら寺など撮影。
〔2008年春季ロケ〕 3月中旬。雪の馬場島と新潟の雪崩実験現場での雪崩シーン撮影(2月に一度失敗)。カメラ4台、木村監督のカメラのみ流されず、他はカメラマンもカメラも雪崩で流される。4月上旬~5月中旬。測量隊が出発。雄山神社、弥陀ヶ原、天狗平、天狗山、室堂乗越、馬場島で。天狗平での雪崩後の脱出シーンの撮影では、測量隊5人を雪に穴を掘り完全に埋めての脱出。その後、雄山、一ノ越、浄土山、五色ヶ原で撮影。下山後、常願寺川の河原で五色ヶ原で嵐に遭うシーンを撮影、ダンプで雪を運び、消防団の協力でホース20本、巨大扇風機2台で撮影、通常ホースは上向きにするが、この時は横向き、団員をしてこれは消火だと言わしめたほど。日暮れと同時に本番となったが、真夜中にライト切れ、翌日も続行。5月には山岳会の部分ロケ。
〔2008年夏季ロケ〕 6月中旬には雷鳥荘と剱澤小屋をベースに奥大日岳での点標設置と平蔵谷からの南壁アタック。7月中旬には剱岳頂上と長次郎谷登行のシーン撮影。7月13日、101年前の登頂日に合わせて登頂するが、本隊登頂時にはガスが濃くなり撮影断念。16日再度挑戦。天気好く、剱沢から頂上まで3時間、気合が入る。頂上シーン、長次郎コルでの長次郎登頂辞退のシーン等を撮りまくる。フイルム不足で小屋へ取りに下りる事態も。帰りに南壁シーン撮影。雷注意報発令で平蔵谷を下りる。翌々日、長次郎谷登行シーン撮影、コル手前まで登る。次の日、別山に造標、ラストシーンを撮る。日暮れギリギリに撮影終了。翌日世話になった剣山荘、剱澤小屋、剱御前小舎、雷鳥荘、室堂の山岳警備隊、天狗平山荘に挨拶して下山。山の人たちの協力がなければ、この映画はできなかったろう。下山後、河原で土砂降りのシーンを撮影して、すべての撮影終了。
おわりに
木村 「みんな馬鹿だよ、馬鹿の集まりだよ、馬鹿じゃないと、こんなこと、やってられないよ! 俺は、馬鹿の親玉だ」
木村 「みんな馬鹿だよ、馬鹿の集まりだよ、馬鹿じゃないと、こんなこと、やってられないよ! 俺は、馬鹿の親玉だ」
付 木村監督の「剱岳 点の記」のBGMに対する拘り
監督はこの映画のBGMは、近年の邦画では珍しくすべてクラシックにすることにし、それも既成の音楽の二次使用ではなく、演奏会場でフイルムを流しながらの音入れをすることを希望した。このような手法は監督が敬愛する黒澤明監督の映画で経験したもので、しかも生演奏を希望した。したがって、音楽監督・編曲指揮には、黒澤映画での生演奏指揮の経験がある池辺晋一郎氏にお願いすることになった。この人は作曲家で東京音楽大学教授、演劇のための音楽も手掛け、活動の範囲は広く、映画音楽やNHK大河ドラマのテーマ音楽などもこなす、日本作曲界の重鎮である。選曲は木村監督の希望も入れて調整したようだが、音入れは画面を見ながら、池辺音楽監督が仙台フィルハーモニー管弦楽団を指揮しての生演奏による実施となった。この演奏はこの作品の大きな魅力の一つとなっていて、観ていても全く違和感がなく、実にその場面に相応しい素晴らしい雰囲気を醸し出していた。
使用された楽曲のリストと使われたシーン・場面は次のようである。
(1) J.S.バッハ作曲・池辺晋一郎編曲、前奏曲(幻想曲)とフーガ ト短調 BWV.542 「大フーガ」 から 幻想曲。 〔映画の導入シーンで〕
(2) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第4番 ヘ短調 「冬」 op.8-4 から 第1楽章/第2楽章/第3楽章。 〔柴崎と長次郎が秋に剱岳登頂の下見に山に入る一連のシーンで〕
(3) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第1番 ホ長調 「春」 op.8-1 から 第2楽章。 〔柴崎家での夫婦の語らいのシーンで〕
(4) A.マルチェルロ作曲、オーボエ協奏曲 ニ短調 から 第2楽章。 〔天狗平のテント場でのシーンで〕
(5) T.アルビノーニ作曲、アダージョ ト短調。 〔雪崩の後のシーンで〕
(6) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第3番 ヘ短調 「秋」 op.8-3 から 第2楽章。 〔三ノ沢(長次郎谷)の雪渓の登りのシーンで〕
(7) J.S.バッハ作曲、管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV.1068 から 第2曲エア(G線上のアリア)。 〔剱岳頂上手前のコル(長次郎のコル)でのシーンで〕
(8) G.F.ヘンデル作曲・池辺晋一郎編曲、ハープシコード組曲第2巻第4番 ニ短調 から サラバンド。 〔この映画に携わったすべての個人・団体を「仲間たち」として最後にテロップで流す場面で〕
以上、長調が3曲、短調が5曲。
個々の音楽と場面の一致については、映画を観ながら、メモ用紙に暗がりで手元を見ずにメモしたこともあって、後での判読が実に困難で、多分そうでなかったかと想像して当てはめたものもあり、間違いがあるかも知れないことをお断りしておく。
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