2018年9月27日木曜日

OEK (2018 - 2019) 定期公演始まる (2)

「新年度初めての定期公演」
 設立 30 周年を迎えたシーズンの皮切りの第 406 回定期公演が石川県立音楽堂コンサートホールで 2018 年9月 20 日に開催された。指揮は新しく常任客演指揮者になった川瀬賢太郎、ピアノは小山美稚恵、コンサートマスターはアビゲイル・ヤングだった。川瀬賢太郎は弱冠 34 歳ながら、神奈川フィルの常任指揮者、名古屋フィルの指揮者、八王子ユースオーケストラの音楽監督をしている。これまでも何回か OEK を指揮していて、その端正な指揮ぶりには定評がある。小山美稚恵は日本を代表するピアニスト、チャイコフスキー国際コンクールやショパン国際コンクールに入賞された実績を持つ重鎮、久しぶりにお目にかかったが、オバサンになられた。昨年度はこれまでの功績で紫綬褒章を授与されている。アビゲイル・ヤングはもう随分前から OEK の第一コンサートマスターをされていて、定期公演の半分以上はコンサートマスターを務めておられ、ソロ奏者としても素晴らしい技巧をお持ちで、これまで何回も超技巧の難曲を聴かせて頂いた。
 さて今年度初回の定期公演は、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンの3曲、どなたの選曲かは知らないが、共通しているのは、この3人の天才が同時期に生存していたということである。ハイドンは 1732 - 1809 、モーツアルトは 1756 - 1791 、ベートーベンは 1770 - 1827 、そうすると、ベートーベンが生まれた 1770 年からモーツアルトが没した 1791 年の 21 年間は、3人が共存していたことになる。演奏されたハイドンの交響曲第90番は 1778 年の作品、モーツアルトのピアノ協奏曲第20番は 1785 年の作品、ただベートーベンの交響曲第5番はモーツアルトの没後の 1808 年に出来上がった作品である。
1.ハイドン:交響曲第90番ハ長調  Hob. 1− 90
 ハイドンの「パリ交響曲」群の続編の2曲中の1曲、初めて聴く曲だった。ところでこの曲の第4楽章、弦・管・打が大音響であたかも曲が終わったかのような印象、当然大きな拍手、ところが指揮者は暫くしてやんわり拍手を制して再び演奏を続行、そして再び全曲が終わったような演奏、今度こそ終いと当然大きな拍手が、ところが再び指揮者が間をおいて拍手を制して再度演奏を続行、そして三度目の大団円が本当の終いだった。この曲も一度でも聴いていればこんな失態をやらかす羽目にはならなかったと思うが、何ともハイドンらしい茶目っ気のある曲だった。よく引き合いに出されるのは、ウェーバーのピアノ曲の「舞踏への勧誘」である。
2.モーツアルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K. 466
 モーツアルトには短調の曲は少なく、41番まである交響曲ではト短調の第 25 番と第 40 番の2曲のみ、また27番まであるピアノ協奏曲でも、このニ短調の第 20 番と ハ短調の第 24 番のみと少ない。さて演奏は、ベテランのピアニストと新進気鋭のコンダクターの取り合わせ、カデンツァの部分もかなりあり、指揮には随分気を遣っている様子が伺えた。しかし終わってみれば、実に晴々とした二人の表情が実に印象的だった。ひょっとして初めてのコラボだったのでは。鳴り止まぬ拍手に応えて弾かれたアンコール曲は、バッハ作曲平均律クラヴィア曲集第1部「 24 の前奏曲とフーガ」から第1番ハ長調、4分弱の曲、丁寧な弾き方だった。
3.ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
 言わずと知れたあの冒頭のタタタ・ターンというリズムのある曲、作曲者のベートーベンが「運命が扉を叩く音」と語った音は、曲は知らなくても誰もが知っていよう。熱演だった。アンコール曲はシューベルト作曲「ロザムンデ」から間奏曲第3番変ロ長調、この曲もよく知られている曲だ。
 終わって指揮者の川瀬さんから挨拶があった。このシーズン何度か棒を振られるだろうが、新進気鋭の俊英の川瀬賢太郎さんに今後も期待したい。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。私は出羽寛とい者で、10年前に北海道旭川大学を定年退職、専門は動物生態學で、野ネズミやコウモリ類の調査を行っています。2009年の「晋亮の呟き」へのコメントが木村晋亮さんに届くことを願って、お尋ねしたいことを書きます。私は北海道旭川生まれで昭和44年に横浜市立大学を卒業、大学では探検部に所属、朝日連峰の登山やフィリピン・パラワン島へネズミの調査(?)等に出かけていました。昭和34年夏横浜市大探査会(当時、後に探検部)は山岳部と合同で知床半島を4班に分かれて初めての縦走を行い、その3年後の昭和37年7月に大雪山系白雲岳下部に広がる扇ヶ原(100近くの沼がある)の湖沼形態、動植物の学術調査を12日間にわたって行いました。そのことを記念して地元上川町の人たちが、テントを設営した藤沼(当時そう呼ばれていた)を「大学沼」と改称して現在定着しています。
    ところが、昭和59年12月に、当時の北海道の北海タイムスに掲載された「大雪山と人と」という連続ものの一つ「明美沼」に、「・・・昭和34,35年頃だったと思うが、金沢大学の学生が七人、高原温泉の沼の調査に入った。そのうち二人が女性で、明美さんと、もう一人はしのぶさんといったな、高原温泉(扇ヶ原の登り口)に詳しい立岩吉松さん(78歳)は証言する」、「調査した沼は78あったはず。水深や水温、プランクトンなどを調べ尽くした。・・・明美沼はそのとき学生が付けた名前だ。・・・そして、大学沼はこの金沢大学の学生がキャンプを張ったところから、立岩さんが”大学沼”と付けたという。つまり、数年後の横浜市大と同じような調査を行い、同じ場所テントを張り、その時に名前が付いたと書かれています。もう一つ、昭和41発行の上川町史には昭和36年に上川町の関係者が扇ヶ原に現地調査に入り、その時に法政大学のキャンプ隊がいたことから「大学沼」の名称がでたとありマス。翌昭和37年の横浜市大探査会の調査のことは詳しく書いてあります。「大学沼」の命名に関して横浜市大、金沢大学、法政大学の3つがでてしまい混乱しています法政大学山岳部に問い合わせたところ、その当時北海道での活動はないとのこと、また法政大学探検部は結成が後の時代です。
    長々と書きましたが、木村さんが当時金沢大学の山岳部か探検部(?)等の学生がは大雪山系扇ヶ原へ調査に入った、または登山に出かけたということがあったかどうか、もし分かることがあれば教えていただけると幸いです。突然で無理なお願いかもしれませんが、よろしくお願いします。

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  2. はじめまして。私は出羽寛とい者で、10年前に北海道旭川大学を定年退職、専門は動物生態學で、野ネズミやコウモリ類の調査を行っています。2009年の「晋亮の呟き」へのコメントが木村晋亮さんに届くことを願って、お尋ねしたいことを書きます。私は北海道旭川生まれで昭和44年に横浜市立大学を卒業、大学では探検部に所属、朝日連峰の登山やフィリピン・パラワン島へネズミの調査(?)等に出かけていました。昭和34年夏横浜市大探査会(当時、後に探検部)は山岳部と合同で知床半島を4班に分かれて初めての縦走を行い、その3年後の昭和37年7月に大雪山系白雲岳下部に広がる扇ヶ原(100近くの沼がある)の湖沼形態、動植物の学術調査を12日間にわたって行いました。そのことを記念して地元上川町の人たちが、テントを設営した藤沼(当時そう呼ばれていた)を「大学沼」と改称して現在定着しています。
    ところが、昭和59年12月に、当時の北海道の北海タイムスに掲載された「大雪山と人と」という連続ものの一つ「明美沼」に、「・・・昭和34,35年頃だったと思うが、金沢大学の学生が七人、高原温泉の沼の調査に入った。そのうち二人が女性で、明美さんと、もう一人はしのぶさんといったな、高原温泉(扇ヶ原の登り口)に詳しい立岩吉松さん(78歳)は証言する」、「調査した沼は78あったはず。水深や水温、プランクトンなどを調べ尽くした。・・・明美沼はそのとき学生が付けた名前だ。・・・そして、大学沼はこの金沢大学の学生がキャンプを張ったところから、立岩さんが”大学沼”と付けたという。つまり、数年後の横浜市大と同じような調査を行い、同じ場所テントを張り、その時に名前が付いたと書かれています。もう一つ、昭和41発行の上川町史には昭和36年に上川町の関係者が扇ヶ原に現地調査に入り、その時に法政大学のキャンプ隊がいたことから「大学沼」の名称がでたとありマス。翌昭和37年の横浜市大探査会の調査のことは詳しく書いてあります。「大学沼」の命名に関して横浜市大、金沢大学、法政大学の3つがでてしまい混乱しています法政大学山岳部に問い合わせたところ、その当時北海道での活動はないとのこと、また法政大学探検部は結成が後の時代です。
    長々と書きましたが、木村さんが当時金沢大学の山岳部か探検部(?)等の学生がは大雪山系扇ヶ原へ調査に入った、または登山に出かけたということがあったかどうか、もし分かることがあれば教えていただけると幸いです。突然で無理なお願いかもしれませんが、よろしくお願いします。

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