2011年8月8日月曜日

遠州・美濃探蕎の旅の2日目、岐阜に吉照庵を訪ねる

 表記表題の初出は「探蕎」会報第34号(平成18年7月20日発行)で、遠州・美濃探蕎の旅に出たのは、平成18年(2006)6月10日と11日、吉照庵を訪ねたのは6月11日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 「今回は長老扱いに」
 遠州・美濃探蕎の旅の2日目の朝は、浜名湖畔舘山寺温泉の宿「ニューいずみ館」で迎えた。同室は寺田先生と久保さんと私、部屋割りは前田局長によるものだが、これまでは少なくとも小生は長老と目される方々との同室はなかったと記憶しているのだが、今回は到々年寄り扱いにされてしまった。外は霧雨か、湖面が煙って見える。釣り人も傘を差している。御両名は装束を改めて、近隣へ朝の散策にお出かけになった。小生はというと、朝風呂から上がり、部屋で湖面を渡る風を満身に受け、持参の「菊の露」で身を清めていた。そこへ前田局長のお出まし、一献を勧めるが、不要とのこと、代わりに「白州の水」を所望とか。それもよしとするか。
 用件は、今日の探蕎先である「胡蝶庵」と「吉照庵」の割り振りのことである。昨日から案が二転三転、大筋としての、前田・塚野両名の胡蝶庵、木村の吉照庵は良しとして、後の面々は流動的であったが、漸く確定したと。胡蝶庵は1組4名様までとあるので、2卓8名が限度とあって、その辺りが思案のしどころだが、局長の英断で、胡蝶庵8名、吉照庵7名となった。
 「胡蝶は本隊、吉照は別働隊」
 気になったのは、胡蝶を本隊、吉照を別働隊と命名したことである。両庵は岐阜市では双璧だろうが、片や新進気鋭の洗練された蕎麦屋、片や古い街中にある昔からの大衆蕎麦屋、雰囲気が全く違う。胡蝶庵へは、現在地へ移転して2年ばかり経った頃に寄ったことがあるが、鮮烈な印象が残っている。印象記なる拙文を「探蕎」会報第11号の蕎麦屋情報一筆に寄稿したことがあるが、雰囲気としては、とにかくわいわいがやがやとは全く縁がない、静寂が漂う店なのである。本来ならば皆さんに両方の雰囲気を味わって頂ければ、この上ないことなのだが、それは時間的にも無理なことである。それに、胡蝶庵には小型車しか駐車できず、マイクロバスは吉照庵にしか停められない。両店間の距離は長良川を挟んで、直線にして2kmばかり。結論として、バスで胡蝶庵へ行き、局長のいう本隊を下ろし、残りの別働隊はバスで吉照庵に行き、ここにバスを駐車することに。そして本隊は終了後、川辺をブラブラ散歩しながら吉照庵まで帰って来るという手立てにした。
 朝食には軽くビールが付いた。身支度をして、8時過ぎに宿を後にする。東名高速道経由で岐阜市に至る。小生は程よい振動と菊の露とキリンでお休みの体、目が覚めると、車は既に岐阜市に入っていた。長良川に架かる忠節橋が目指す胡蝶庵の第一の目印。以前の記憶では、橋を渡り、電車の線路の手前を左に折れ、最初の踏切を渡り、そこをそのまま進んで掘割を渡ると右手にあったと記憶している。だが電車は廃線になった由。バスは元の駅を左に見て直進する。そこで次の交差点を左に入ってもらう。少々行き過ぎだが、とすれば戻ればよい。道はT字路になる。もう近い筈。本隊8名はここで下車し、小生が勘を頼りに先導、先ず掘割へ。ものの1分程で掘割に当たる。そして右へ掘割沿いに進むと、お目当ての胡蝶庵が見えた。既に高級車が3台ばかり駐車している。玄関のつくばいの風情が良い。初めに1組4人、次いで残り4人が庵に消えた。一抹の寂しさを禁じ得なかったが、小走りにバスへ戻る。
 「パトカーに道を尋ねる」
 古い街並みでは路が狭く、特に吉照庵辺りはそのせいで一方通行が多い。塚野さんから頂いた道路地図が頼りだ。橋は一本上の金華橋が目印。バスはとにかく東進して広い通りへ出たら右折して、取りあえず川を渡る算段。ところがかなり東へ進んで右折したのに、渡った橋は忠節橋、リングヴァンデリングだ。気を取り直し、川沿いに金華橋へ向かう。右手には金華山が聳える。バスにはナビは付いてはいるが、吉照庵のある米屋町の表示が出ない。というのも町名表示が昔のままで、町の区画が実に小さい。金沢で言えば、油車や池田町界隈のような感じだ。金華橋を渡ってから反転して南下するが、何処で左折してよいのか全く分からない。丁度とある交差点で止まったところ、隣にパトカーが止まったので、吉照庵はどこですかと尋ねると、次の交差点を左折し、広い通りを道なりに進み、広い通りの交差点を右折、二本目の一方通行の路を入ればすぐとのこと。地理不案内で先導して貰いたい位だった。でも迷わずに着けた。駐車場は広いが、バスの区画はない。鍵を預け、そぞろ店に入る。店は大正初期の数奇屋風の造り、古めかしく落ち着いた佇まい、一見して老舗という感じがする。雰囲気は中々良い。
 中はほの暗い。座敷でもなく、かといって小上がりでもなく、その中間。部屋の感じは百年以上タイムスリップしたよう。昔野々市に「にゅうりや」という仕出しもし、そこで料理を取り酒も飲める店があったが、フッとそんな印象が過ぎった。上がると、ある一画に案内され、漆塗りらしき座机二連に7名が座った。
 「蕎麦前教育不足では」
 姐さんが来たので、取り合えずお酒を5合と言うと、5合もですかとびっくりした様子に、こちらが驚いた。1人5合なら驚いて貰ってもよいのだが。此処では蕎麦前の教育はしていないのだろうか。銘柄を任され、根尾の「薄墨桜」とする。酒の菜は個々に色々と注文する。板わさ、天麩羅、山かけ納豆、そば豆腐、イクラ下ろし等々。やがて薄墨桜が片口に入ってきた。盃も大きくてよい。流行の手作り風だ。と言って、お酒を飲まれない会計担当の米田さんは何を飲まれたかさっぱり記憶にない。別働隊は共同体のような雰囲気で、あれこれ少しずつ賞味する。個々には何ら不満はなく、満更でもない。更に2合の追加を所望する。そばは皆さん「鴨せいろ」を頼んだ。
 「画竜点晴を欠いていた鴨せいろ」
 「鴨せいろ」が来た。そばは長方形の使い込んだせいろ2段に入っている。そばは十割の伝承美濃そばとの触れ込み、色は黒くなく、むしろ白っぽい。伝統の極細打ちだが、そばの太さは不揃い。一見手打ちと分かるが、素人目にも不揃いはいけない。仮にもプロならば、揃っていてほしい。一筋取ってそばの味を味わおうとすると、取れないではないか。団子状とまではゆかなくても、せいろに入っているそばが全部持ち上がってくる感じだ。これは茹でに問題があるのか、締めに問題があるのか、せいろに盛ってから時間が経ち過ぎているのか。ならば,伝統に拘らずに、極細でなく細打ちにした方が良いのではと思ったりする。この日も混んでいて、どれ位の人数が入っていたかは知らないが、しかし天下の吉照庵のそばがこれじゃお粗末過ぎる。出汁の方が上等だっただけに、画竜点晴を欠いていた。
 「小吉と大吉と」
 かれこれ1時間ばかり居たろうか、吉照庵を出る。タイミングよく本隊から連絡あり、松田さんには吉照庵までは遠すぎるので迎えを頼むと。OKせずばなるまい。帰り際フッと見ると、店の外れに道路に面して高札があり、ここが江戸時代、歴代尾張藩主が岐阜御成りの際に本陣を勤めた賀島家があった処とか。その賀島家は明治24年の濃尾大震災で焼失したとのこと、由緒ある地なのだ。
 忠節橋を渡り、件のT字路にバスを止め、胡蝶庵へ迎えに行く。本隊第2陣は外にお出ましだったが、第1陣はまだ中とか。入ると奥の間に未だ鎮座。局長の言では、蕎麦三昧が丁度我々で終いであったが、中々良かった由。ただ出てくるのに時間が掛かったので、この時間になったとか。止むを得まい。済むのを待ってバスへ戻る。これで全員集合。こうして今回の探蕎の目的は果たされ、帰路につく。小吉、大吉はあったものの、一応は大団円。当初ではもう一軒という案もあったようだが、高速利用ということで割愛となった。
 「おわりに」
 小生バスに乗っては白河夜船、どこのICから上がったかも知らず、目が開いたら蛭ヶ野PA,清算を兼ねて休憩する。大日ダイナランドスキー場が雄大に広がって見える。晴れていれば、大日岳も白山も見える景勝の地なのに、雲に隠れている。今回の会費は4万円也、それが清算で8千円も戻り、すこぶる得した感じ。参加の皆さんご苦労様でした。特に往復の運転をして頂いた和泉さん、島田の宮本で水酒を飲まれずに和泉さんの運転の代行をされた塚野さんに、深甚の謝意を表したい。

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