表記標題の初出は「探蕎」会報第4号(平成12年5月8日発行)で、行事があったのは平成12年(2000)4月23日(日)である。 「晋亮の呟き」に転載する。
夜来の雨も朝には上がり、総勢13名、3台の車に分乗し、福井市福町の中山重成氏が主宰する「越前そば道場」に向かう。金沢西インターから小一時間、予定の午前11時に四半時早く道場に着く。道場主の中山さん、当会会長とは7,8年のご縁とか、小生も当時福井県衛生研究所所長であった会長のお供でかれこれ2回訪れている。かの動物王国のムツゴロウ氏を彷彿とさせる人懐かしい風貌、見せられる為人、藍染の作務衣に箱帽姿でお出ましになる。庭は丹精に手入れされており、玉砂利に新緑が映える。磨き上げられた欅の式台から板張りの道場に導かれる。正面に道場主中山さんと師範数名の名が記された札が掛けられている。これは以前には無かったものだ。
会長が中山さんの簡単な紹介をされる。中山さんは会長が福井衛研に赴任されて以降の知己、知る人ぞ知る、福井県麺業組合の大ボス、かの「めん房つるつる」の総帥でもある。初めての出会いは何か食品関係の会合だったと聞いたことがある。ややあって、中山さんが口を開かれる。過去二回とも作業に入る前に御高説を承ったが、今回も当然のことと腹を括っていたが、今回はあにはからんや、蕎麦の薬理効能ばかりでなく、「越前そば」自説無責任ルーツ、「献そば」なるパフォーマンス、質問に答えての「おろしそば」への拘り、そして「玄蕎麦」と「辛味大根」の品種選びや栽培育成の経過等々、初めて拝聴することも多く、大変興味ある講話だった。以下に掻い摘んで記そう。但し、一応メモは書き取ったものの、案の定判読困難も多く、従って極めて正確を期し難く、確認を取ることもなく、独断と偏見に満ちた記述となった。であるからして、後日もし必要ならば、何方かが誤りを正していただければ幸いである。お許しを乞う。
Ⅰ.中山さんの講話の要旨
1.越前そばのルーツ
ルーツは400年前、正確には399年前に遡るという。関が原の合戦が終わった翌年の慶長6年(1601)に、現武生の府中に封じられた本多富正公に同行した金子権左エ門なる蕎麦師が、今日いう「おろしそば」を越前に伝えたと言う。ただ文献はない。しかし反論するデータもない。従って史実が出てくれば、潔く撤回するとも。自称無責任ルーツという所以である。当時の庶民は、稗、粟、蕎麦を食していたが、そばの食べ方としては、恐らくそばがきだったろうと思われる。しかし既に宮家では、公家がそばを延し、線状に切ったものを食したという記録があることからすれば、殿様が庶民の食するそばを、切りそばとして、大根のおろし汁に醤油で味付けした出汁をかけて食したのではということは十分あり得るのである。爾来400年、正に来年がその年に当たる。
2.そばの普及
中山さんは昭和60年(1985)、越前名物の「おろしそば」に風格を持たせるべく、普及のための施設を建設した。当てにした建物は昭和初期に建てられた総欅造りで、頼みに頼んで譲り受け移築したもので、名称は思案の末、修行の場とも言える道場の語句を入れて、「越前そば道場」とした。今日あちこちに見られるそば打ち体験施設「そば道場」の元祖である。一方で蕎麦栽培を農家にお願いしたが、当時は田一反当たりの収入が、米では20万円なのに、蕎麦では2万円と10分の1、とても難儀されたようだ。しかし米作の減反に乗じ、蕎麦栽培をお願いし、また丸岡町長という強力な助っ人にも恵まれ、蕎麦作りが軌道に乗った。
3.そばの特徴
そばの特徴としては、(1)短期促成型の植物で、種蒔きから収穫まで75日、盆過ぎに蒔けば十月末には収穫できる。これに対し、米は120日、麦は6ヵ月かかる。(2)タデ科の植物でヤセ地を好む。風などで倒されても、倒れたところから立ち上がる大変自生力の強い植物。昔は篭城食として、城中でも栽培された。(3)栄養面からは薬草的位置付けができ、昔はこの効能は知られていなかったと思われるが、体内浄化作用がある。ルチンの効能は知っての通り。正にそばと大根おろしの組合せは長寿食そのものである。
4.献上そばの奉納
中山さんらしい発想である。平成12年(2000)1月15日、中山さんの肝いりで、福井そば愛好会の面々が、全員白装束に身を固め、神式に法り、いかにも古来から伝承されていたかの如く、選ばれた三人の名人蕎麦師が蕎麦を打ち、松平春嶽公ゆかりの佐佳枝廼社神楽殿に奉納した。後見役はもちろん中山さん、紋付、羽織、袴の出で立ちで、打ったそばを三宝に載せ、恭しく奉納したとのこと、目に浮かぶ。会長から「年中行事にしたら」との提案に、「当然そう考えています」とのこと、「今年よりもっと厳粛に」とも。あの説によれば、来年が正に伝来400年、盛大に行なわれることは想像に難くない。会長の参加申し入れに、中山さんは「いいとも」、ぜひ観覧したいものである。
5.越前蕎麦の栽培
福井の土地に合った蕎麦を栽培すべく、昨年、玄そば振興協議会が約100種もの蕎麦を栽培し比較したところ、大野と美山みやじの在来種が、強くて栽培しやすく、美味しく、かつそばになりやすく、協議会としてはこの2品種を奨励しているとのことである。玄そばは原則として経済連に集荷され、品質管理、保管を行なう。蕎麦専用の乾燥機も設置されているとのことである。本格的である。売買は福井県内の製粉業者との間でのみ行い、協議会が行司役を勤める。
6.おろし大根
これまで福井の「おろしそば」に用いる大根は、全く千差万別で、通常のものから、拘りの辛味まで、様々であった。そこでやはり福井の土地に合った辛味大根を求めるべく、昨年は園芸試験場の川崎さんが中心となって、20品種につき調査を行い、食味や風味等の試験で5種に絞ったとのこと。今年はこの5種につき、栽培地による差を検討するとか。栽培する土地の土壌が微妙に影響することが考えられるためという。因みに、砂地の栽培は大根には向かないそうである。
7.本来のおろしそばのあるべき姿
「越前おろしそば」は、正式には、そばを水切り後、浅いそば皿に盛り、大根のおろし搾り汁に生醤油を加えて味付けしたつゆを、人数分大きな器・鉢に入れ、それに薬味として、おろした辛味大根、刻み葱、削った鰹節、一味や七味唐辛子を添えて出す。食する人は、自分の好みで、適量のつゆをかけ、好みの薬味を載せて食する。肝要なことは、そばの味を引き立てるようにすることで、無闇と辛いおろしそばでは、そばの味がしなくなるとも。これはけだし名言で、付け入る隙がない。辛ければ良いというものではないとのことである。とすれば、これはそばと酒との関係もかくあるべきで、どんなに上等な酒であっても、そばの味を殺す酒は、そばとの相性は良くないと言わざるを得ない。
8.「越前おろしそば」の頒布
越前おろしそばは、福井へ来なければ食べられない。しかし福井県の名物ブランド30品目に加えてもらうべく運動し、念願が叶った。ところで頒布する越前おろしそばは、福井へ来ないと食べられないそばとは少し異なっていて、当然のことながら日持ちする工夫が施されている。そしてゆうパックグルメの会で頒布したところ、福井県一の大変な人気商品となった。
Ⅱ.そば道場でのそば打ちと自前そばの賞味
道場で食するそばは、挽き立て、打ち立て、茹で立ての三立てのほかに、身贔屓からか大変愛おしい味がすると言います。そばは不思議な生き物で、その時その場の状態で、味に変化が出、同じ味はあり得ません。ここでは、蕎麦そのものの味を味わって下さい。営業は営業、道場は道場、目的がハッキリと異なります。かくして中山さんの薀蓄ある講話は終り、いよいよそば打ちに入る。
道場の名の入った腹掛けを着け、打ち場に入る。女性軍は高見の見物、塚野師範代は数日前にこの場で打ったとかで、指南役よろしく打ち場に入らず兼カメラ役。この日用いる蕎麦は、昨年11月に収穫した大野産、昨年は大変豊作であったとか。2日前に製粉したもので、中心部の更科粉と甘皮がついた部分を二度挽きした粉、いずれも60メッシュ(以前は80だったとか)で篩ったものを、適宜ブレンドして用い、今日は二八、13人分で1.4kg、2組に分かれて打ちにかかる。
冒頭、中山さんから「今日は波田野師範の先導で」という冗談ともつかぬお言葉、漆塗りの大きな木鉢にブレンドされた蕎麦粉と強力粉が入り、先ず十分に攪拌混和、しかる後に水を3回に分けて回し入れ、フレーク状にする。木鉢三年、どうもこの辺りが最初の難関である。それでも面々は蕎麦まみれにもならず、不完全な分は主が纏め上げられる。要の纏めは主でないと無理である。堂に入った主の手捌き、腰の使い方はリズム感に溢れ、実に流麗、無駄がない。名人登竜門のコツを説かれるが、大方の素人には馬の耳に念仏、どだい塚野師範代以外は門外漢に等しく、理解は到底困難だ。今師範代とその他大勢とでは雲泥の差がある。一人師範代のみじっと観察し聞き入っている。分かりやすいオーバーな仕草が興を誘うが、だが面々はとても真似ができない。
捏ねに入る。右手で押して、回して、立てて、曲げて押す、この規則正しい仕草は菊の紋様を作り出す。しかし面々の手になると、紋様は途端に瓦解、手や肩に余分な力が掛かるせいもあって、リズム感など全くない。やはり仕上げの臍出しは主がされることに。師範代は捏ねの回数は百回位だと言う。主の手になった肌理の細かい餅肌の玉、感嘆する。
次いで延しに入る。始めは掌で、ある程度の大きさになるまで延し、次いで短い麺棒で延す。肩幅で麺棒を握り、力を入れて延す。天地を持ち、右に半回転させ、更に延し、これを繰り返す。次第に大きくなり、形も円形から菱形に、更に正方形へと変形してくる。次いで長い麺棒に巻き付け、手を中心から外方向へとずらしながら、力を入れて延す。最後は厚さ2mmに仕上げるとか。段々と薄くなり、扱いが難しくなる。一寸引っ掛けても、簡単に破れる。破れると修復不可能。最後の仕上げはやはり主が、巻き付けたまま、一部を長い麺棒で厚さが均一になるように、手早く延していく。主の手にならなければ、だごだご状の数珠状のそばが誕生したことだろう。最終段階に入り、均一に延した布状のそばを畳む。とても素人には無理だ。しかし主は何事も無かったかのように仕上げてしまう。延し三月。そして切りに入る。
まな板に、畳んだ布状のそばの生地を置き、駒板を当てて切りに入る。主が手本を示す。左足を半歩前に、左目で駒板を、右目で包丁の当たるそばの生地の部分を、そして細く、1kg位ある包丁の重みを利して一気に前へと押し切る。以前包丁で切った後、包丁を少し倒すことによって駒板をずらしてから切る、これが正統と思っていたが、主は切った瞬間左手で駒板を微妙にずらし、早いテンポでリズミカルにトントントントンと切りを繰り返す。あっという間に、均一で細いそばが出来上がった。見た目にも清々しく美しい。50回位で一旦包丁を休め、切ったそばをさっと捌き、包丁の腹に載せ、浅い木箱(生舟)にはらりと並べる。全く無駄がない。
面々が切りに入る。どちらかというと太め、しかも幅は不揃い、斜め切りあり、先まで切れていないものあり等々、名古屋にご縁のある御仁はきしめん状、会長のは半平切れ端状のものもありであるが、でも前回よりは遥かに進歩の後が見える。腰の備えが悪いからか、とにかく悪戦苦闘、包丁の重さを利してとはいっても、どうしても包丁を手首で持って切るせいか、実に疲れる。包丁三日?、何方かは最も難しいとも。結果として、年長組の出来は年少組に比べて格段に見場が悪い。主は「会長の切ったそばは一目で分かる」と仰る。漸く切りが終わった。
切りも終わりに近くなった頃、女性軍が辛味大根(昨年11月に収穫、美山鼠か)をおろし、葱を刻み、汁と薬味を用意する。先ず年長組のそばが釜に入る。茹でが最も難しいとか。これは主がされる。面見て加減するとか、大変である。太めあり、不整形あり、中山さんの経験でさえ、不揃いのそばを湯掻くのは至難の技だと仰る。やがて茹で上がったそばは冷水に晒され、程なく浅い皿に盛られ、出される。一人2皿当て、食すると太いが歯触りが良く、美味い。判官の身贔屓からか。他とは比べられない。番付外の上とすべきか。次いで年少組の制作品、先のに比べ多少食べやすい。都合一人4皿当て、すっかり無くなった。終わりに近く、会長土産の「一本義」の純米酒が主の中山さんから振る舞われる。これも美味。かくして今日の主眼の「そば打ち」の行事は終わった。参加者一同、中山さんを囲み記念の撮影を終え、辞したのは午後1時半であった。
Ⅲ.松平家ゆかりの地見聞の後「山英」へ
探蕎会は、蕎麦のみならず、処々で見聞を広めるのも主旨のうち、この日は旧福井藩主松平家ゆかりの場所を、会長の案内で巡ることに。先ずは松平家菩提所の北陵三十三箇所観音霊場第十番札所臨済宗妙心寺派萬松山大安禅寺を訪ねる。開基は第四代藩主の松平光通公、本尊は十一面観音菩薩、開山は大愚宗築禅師。寺内を巡った後、松平家御廟所、橘曙覧(あけみ)之奥墓に詣でる。また車内より笠原白翁之墓を拝む。西に山一つ越えた越前海岸の此地から、再び福井市街へ戻る。佐佳枝廼社、福井城跡を経て、国の名勝で江戸時代には「御泉水屋敷」と称されていた福井藩主松平家の別邸「養浩館」を訪れ、書院建築と回遊式林泉庭園を愛でた。古文書により、平成5年(1993)に復元されたとか、以前訪れた時は未だ整備中だった。
陽も傾く頃、最後の予定地、加賀市大聖寺へ向かう。拘りの石臼挽き自家製粉生粉打ちそば処、南郷の「山英」に着き、細長い囲炉裏のある部屋に寛ぐ。自在鉤に花入れ、マンサク、ボケ、ミツバツツジ、サルトリイバラ、壁掛けにエンレイソウ、野趣に富んでいる。程なく蕎麦味噌、酒は「緑端渓」、少々甘く、寧ろ下級の「上善如水」の方がさらりとして良い。初めに6合、冷えた片口に入って来る。ぐい呑みで流し込むと一息ついた感がじわっとする。宵越しの酒の気もこの期に及んで漸く身体から抜け、爽快、監査役は未だ抜けていないとのことで辞退されている。親父がそばの注文を取りに来る。会長のみ拘りからか「おろしそば」、他の12人は「ざる」、田舎より笊の方が旨そうだ。会長ももう一枚笊を所望、さも有りなん。誰とは言えないが、酒が少々足りない様子に、会長は酒と磯辺揚げを追加注文、これで終いと、「緑端渓」と「天狗舞」山廃吟醸が出る。満足そうな御一行の面々、親父のサービスでコシアブラの新芽の天麩羅が出た。丁度良いほろ酔い加減、今日の行事はこれで打ち止めに、そして散会した。
2011年7月6日水曜日
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