2011年7月11日月曜日

蕎麦屋情報:珠洲「さか本」と岐阜「胡蝶庵」

1.珠洲上戸に「さか本」を訪ねる
 上記標題の初出は「探蕎」会報第4号(平成12年5月8日発行)で、訪れたのは平成12年(2000)4月14-15日である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 薄曇りの4月14日の昼、かねて「草庵」庵主夫妻推奨の珠洲上戸の「さか本」を訪ねるべく、有志6名、羽咋市兵庫町の「多門」に落ち合う。絶品の30回転石臼手挽き、粗挽き十割の蕎麦切りと蕎麦掻き、萬歳楽を賞味後、久保車に波田野会長と松原副会長、木村車に太田、小塩両氏が分乗し、一路珠洲へ向かう。午後6時には少々間があり、突端の禄剛崎へ回る。珠洲岬の丘は風荒び空霞み、佐渡や立山は言うに及ばず、七ッ島も見えずも、暫し連翹と藪椿と鶯の丘を散策する。丘に「此処が日本の中心」と称する碑があり、此処からは釜山より浦潮斯徳が近いとある。海沿いに珠洲市飯田に戻り、小径を辿り上戸寺社の「さか本」に入る。一見民家風、桜が数本植栽されている。蕾膨らむ風情、週余で満開か。裏は孟宗竹林と杉林、辺りに畑と水田、野放しの地鶏、田舎の原風景そのものである。二犬の歓迎を受け、土間に靴を脱ぐ。黒塗りの板廊下を渡り、火袋のある部屋へ案内される。囲炉裏には炭火が熾り、郷愁が感じられる。暫時後、お湯に入る。聞けば、少量の鉄分を含む鉱泉とか、源泉は中庭の薬師如来を祀る祠の前にあり、滾滾と湧き出る。薄闇が迫る頃、囲炉裏を囲み、箱膳で夕食となる。酒は地元の「宗玄」に非ず越中の「立山」、先付きに手造りの寄せ豆腐が出、ややあって今回お目当ての「そば」が運ばれる。太い孟宗竹の浅い受け皿に小振りの水切り丸笊、その上に微小な星が点々とした細打ちの「そば」が鎮座、早めに食するように促される。お代わりはないと、また予約がなければ出さないとも、また此処は蕎麦屋に非ずとも、賞味するには余りにも量が少なく、逸品とありまるで貴重品扱い、物足りなさを感ずる。蕎麦は地元高屋の産とか、石高は少なく、刈取り時期も吟味し、収穫後の管理にも万全を期しているとか、亭主の拘りを感ずる。料理は次々と出される。地元の山海の珍味の数々、自家製の品も多く、堪能する。宴の後、青蛙の大合唱を聴き寝入る。牛鼾あるも、鶏鳴で朝を迎える。赤米地鶏卵での朝食後、一夜の宿を辞す。帰路、七塚白尾の「かめや」で談笑し、散会した。

2.つなぎなしの石臼挽き蕎麦の「胡蝶庵」
 上記標題の初出は「探蕎」会報第11号(平成13年2月12日発行)の蕎麦屋情報としてである。訪ねたのは平成12年(2000)11月18日である。「晋亮の呟き」に転載する。

 11月18日、岐阜市で開催された日本感染症学会中日本地方会に出席したのを機に、かねて訪れたいと願っていた胡蝶庵へ出向いた。前田局長より地図の入った案内をFAXして貰ったのを見ると、会場の未来会館の西方2km、午前11時に合わせて出掛ける。しかし貰った地図の場所には見当たらない。聞くと、踏切を渡った向こう側で、用水の際の場所に移ったとか。そして看板は出ていなくて、田舎家風の目立たない感じの店ですと。後で店で聞いたのでは、今の店は旧店の北西300mとか、3年前に移転したという。新住所は、岐阜市日光町3丁目26。近くまで来ても分からず、通りがかった人に問うと、真ん前を指差す、やっと辿り着けた。見れば小さな表札に、片や胡蝶庵、片や仙波浩と書いてある。これじゃ一見の客には分かるまい。
 外観は蕎麦殻色、平屋建て、7台駐車可。入り口に「十才以下御入店お断り」「毎週月曜休」「午前11時から売切れ次第終了」「店内禁煙」「御一組四名様迄」とある。入ると、南天、千両、万両、蛇の鬚、楓の植え込みを左に、敷石を踏み、屋に入る。中は薄暗い。一瞬未だなのかなあと思う。案内を乞うと、どうぞという声、白いブラウス?に黒のズボン、やはり仄暗い空間に美女二人。小生が今日初の客だ。「おろし」を所望する。品書きには「つなぎなしの石臼挽き蕎麦」と銘打ってある。程なく運ばれて来た。そばは殻付きのままの粗挽き、星が大きい、それで細打ち、量は少ない。長野親田の辛味大根の一撮みが鎮座、出汁をかけてお召し上がり下さいと。仄かな香り、そして何とも言えない喉越し、「多門」のそばを洗練するとこうなるのかもと。これで酒をじっくりととなれば最高なのだが、学会へ戻るとあって控えた。そば湯も粉を溶いたもので濃く、葛湯のようだ。今一つ、「そばがき」を所望、時間が掛かるかと思いきや、ややあってすぐに出てきた。これは田舎風、粗挽き粉を湯で捏ねたもので、一寸硬め、ふっくらとお餅の様なとは程遠い感じ、生山葵点付、粗塩と生醤油が付くが、塩の方が良い。祖母の味を想い出した。
 席は1卓4人座席で、14畳に3卓、6畳2間に各1卓、計5卓あり、Max20人座れる。

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