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「子うし会」という同窓会がある。昭和11年(1936)4月2日から昭和12年(1937)4月1日の間に、旧野々市町と旧三馬村横川出に生まれ、町立野々市小学校や野々市中学校に在籍した同窓生の集まりである。延べ人数は54名、うち1名は在学中に死亡しているので、小学校、中学校、もしくは小・中学校を卒業した同窓生は、男28名、女25名ということになる。このうち旧三馬村横川出の児童・生徒はいわゆる金沢市からの寄留で、本来なら金沢市の小学校や中学校へ入るべきなのだが、あのころは野々市町の学校がはるかに近かったので越境していたが、現在はこのような通学形態はない。
現在いる会員は誕生日が来れば75歳になるはずで、干支では子年の遅生まれと丑年の早生まれとが混在していて、会の名称はこれに因む。読みは「コウシカイ」である。卒業生のうち、これまで男7名と女3名が他界しているほか、消息不明が男に2名いて、現在の会員数は男19名女22名である。このうち自他ともに元気だと言える人は男4名女3名くらいしかいない。でも医者に罹りながらも一見元気そうで同窓会に足を運んでくれる人は半数の20名ばかりになる。ところで後の半数は会って確認したわけではないが、会には身体の具合が悪くてとても出られないと言っている。一方会に出てくる人は、もういい歳で先も見えていることもあって、毎年会いましょうということになり、10年位前からは、1回は近場の温泉で1泊、もう1回は1泊もしくは2泊の旅行、それを交互に行なって親睦を深めている。
旅行をするにあたっての一番の隘路は、女性では、一見元気そうなのだが本人は足腰が悪くて歩けない、次いでバス旅行だと車酔いでダメという人が多く、もうこうなると出られる人は限られてしまい、数えると女性は10名に満たない。その点男性は、一見元気そうだと、足腰が萎えたとか、車酔いの人は少なく、12,3名は参加の見込みがある。そして近場の会では、宴会を椅子席にすることによって、少々足腰が悪くても参加してもらえるような配慮はしている。昨年は芦原温泉に集まった。その際今年の旅行のことを諮ったが、こればかりは元気な女性の希望に沿うことが多く、希望では、日本の秘境といわれる奈良の「十津川郷」と世界遺産にも関連する「熊野三山」、旅行社のプランでは、初日の頭に「明日香村」、翌日に「瀞峡」の遊覧と「太地町」を加えたものを作ってくれた。催行人員は15名、2泊3日の旅である。
旅行は3日とも平日、北陸交通の中型バスをチャーターしての旅行、野々市町出発帰着で、参加者は男9女6の15名、うち小松で1名、米原で1名、奈良で2名の乗車があった。出発を午前6時にしたが、女性からはもっと遅くならないかとの要望もあったが、長旅を考慮すると、決して早くはないと思うのだが。結果として、朝食欠食の方は尼御前SAで食事をしてもらった。この日の天候は晴れ、旅行日和である。昼少し前に第一目的の明日香村に入った。
(1)明日香村:埋葬者は蘇我馬子らしいと言われる古墳時代後期の古墳の「石舞台古墳」を見る。すごい巨石の石室、すごい墓だ。生徒が沢山見学に来ていた。社会勉強なのか修学旅行なのか。次いで蘇我馬子が開基の5世紀に創建されたという「飛鳥寺」へ寄る。ここには奈良の大仏よりも先に鋳造されたという飛鳥大仏が安置されている。当時は寺の規模も大きかったらしいが、今は堂宇一つのみだ。裏へ周って蘇我入鹿の首塚を見、水落遺跡を巡り、埋蔵文化財展示室へ立ち寄る。食事を済ませて「高松塚古墳」へ、ここにも沢山の生徒たち、壁画館では、展示はすべてレプリカだが、あの見慣れた女子群像や四神、天井部の星宿図を初めて実物大で目の当たりに見た。
(2)十津川村:奈良県の最南端に位置する日本一広い村で、山と十津川の本流・支流により深く刻まれたV字渓谷、そんな村である。川を渡るには橋は欠かせず、幹線道路以外は吊橋、しかもそれは生活用、そんな吊橋が村内に60余基あるとか。私たちが渡った「谷瀬の吊橋」は、村人が共同出資して昭和29年(1954)に架設されたもので、全長297m、高さ54m、中央には80cmの板が敷いてあり、バイクなら通れる橋である。渓谷を縫うように、南北に国道168号線、東西に国道425号線が通っているが、険しい山間とて道幅は狭小である。村の西寄りには、南北に熊野古道の小辺路(こへち)が、東の村境には大峯奥駈道が熊野本宮大社に向かってついている。 初日の宿は「十津川温泉」、泉質はナトリウム炭酸水素塩泉で掛け流し、夕食にはボタン鍋が出た。 翌日は村の東南と和歌山・三重の県境を流れる熊野川の支流の北山川の「瀞峡」の下瀞(瀞八丁)と上瀞の間を往復し、巨岩、奇岩、断崖が続く渓谷美を味わった。
(3)太地町:鯨とイルカの町、そして過剰な海洋環境保護団体という乱暴者のシーシェパードが乗り込んだ町でもある。二日目の夕方、ここにある「くじら館」を見学した。捕鯨に関する貴重な資料が多く集められていた。
(4)熊野三山:二日目の午前に本宮町の熊野本宮大社へ行く。大きな鳥居の横には、初代天皇の神武天皇東征のおり、熊野から大和へ入るのに、天照大神の使者として先導を務めたという三本足の烏「八タ烏」の旗が掲げられている。午後には新宮市にある熊野速玉大社に参詣した。三日目午前には那智勝浦町にある那智大滝と熊野那智大社・青岸渡寺へ、下の駐車場からは雨の中を熊野参詣道・中辺路の大門坂の石畳を上る。雨のせいで、那智大滝の水量は凄く、圧倒された。そして上の駐車場から大社へは、さらに表参道を標高差で100mばかり上らねばならず、5人がパスした。お寺からはよく絵で拝見する三重塔と那智大滝が望見できた。昼食には、滝が見える食堂で、日本一のマグロの水揚げを誇る勝浦港直送のマグロのちらし寿し、私は何時ものように刺し身のみ頂戴し、ビールで喉を潤した。
こうして、時間的にも盛り沢山のスケジュールのすべてをこなすことは困難で、いくつかを割愛せざるを得なかったが、年齢を考えればもう少しゆとりがあった方がベターだろう。また遠方ならば、現地でのバス調達という方法もある。一考を要する。
この度の熊野三山巡りに際して、「熊野」「熊野三山」「熊野古道」「熊野参詣道」について、若干の知見を得たので、以下に書き記す。
[熊 野]
熊野とは、近世の牟婁郡、明治以降の和歌山県の東・西牟婁郡、三重県の南・北牟婁郡の総称で、現在の市・郡では、これに田辺市、新宮市、尾鷲市、熊野市が加わった4市4郡がその範疇となる。地理的には紀伊半島の南部、地誌的には紀伊山地南部の壮年期の山地で、熊野三千六百峰と呼ばれる山々が連なり、古座川・熊野川などが深い谷を刻んでいる。このように鬱蒼とした森林に覆われた熊野は、神々が宿る地とされ、人々から崇められてきた。
日本への仏教の伝来により、熊野の地は「神仏習合の地」となり、救いを求めるあらゆる人々を受け入れる聖地、浄土の地となった。このような我が国固有の神の信仰と仏教信仰とが複合調和したのは熊野の地のみでなく、全国各地の山岳信仰でみられている。これは神仏混コウといわれ、奈良・平安初期に始まったようだ。このような考え方は本地垂迹(ほんじすいじゃく)説もしくは神仏同体説といわれる。平安初期、熊野では本宮・新宮道場が開かれ、延喜年間にはさらに那智が加わって三社となり、11世紀末の平安後期初頭には熊野三山という呼称が一般的になった。
本地垂迹思想による仏教と渾然一体となった熊野信仰では、本宮は西方極楽浄土で来世の救済を受持ち、新宮は東方浄瑠璃浄土で過去世の罪悪の除去に当たり、那智は南方補陀落浄土で現世の利益に関わるとされ、ここに三位一体の信仰が出来上がった。熊野詣ででは10世初頭(平安中期初め)の宇多法皇の熊野御幸が最初で、それ以降皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、後には武士や庶民も熊野詣でをするようになった。その行列は途切れることなく続いたものだから、「蟻の熊野詣で」とも呼ばれた。中でも最もよく歩かれたのは、紀伊路ー中辺路であったという。
ところが明治元年に神仏分離令が発せられ、国家の神道国教化政策により、廃仏毀釈・排仏棄釈、即ち仏性を廃して釈尊の教えを棄却することが行なわれ、寺院、仏像、経文などの破壊活動が起きた。そして本地垂迹思想による仏教と渾然一体となっていた熊野信仰は衰退してしまった。
[熊野三山]
熊野にある、本宮・新宮・那智の聖地の総称である。
本宮とは熊野本宮大社のことで、和歌山県田辺市本宮町にあり、主祭神は家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)、本地仏は阿弥陀如来である。
新宮とは熊野速玉大社のことで、和歌山県新宮市新宮にあり、主祭神は熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)、本地仏は薬師如来である。
那智とは熊野那智大社のことで、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山にあり、主祭神は熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)、本地仏は千手観音である。
[熊野本宮大社]
旧官幣大社。創建は伝崇神天皇65年。現在地では、本殿の上四社のみ再建されている。明治22年(1889)の大洪水で流されるまでは、熊野川・音無川・岩田川の合流点の中州にあった。旧社地は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い鳥居(高さ33.9m、横42.0m、鉄筋コンクリート造り、平成12年(2000)完成)が建っている。また以前はあった中四社と下四社は再建されず、旧社地に石祠が建てられているのみである。以下に上四社(第一殿~第四殿)の宮名、祭神、本地仏を掲げる。 第一殿:西御前:熊野牟須美大神:千手観音。 第二殿:中御前:速玉之男神:薬師如来。 第三殿:証誠殿:家都美御子大神(主):阿弥陀如来。 第四殿:若宮:天照大神:十一面観音。
[熊野速玉大社]
旧官幣大社。創建は伝景行天皇58年。元宮は近隣の神倉山の盤座に祀られていたが、いつの頃からか現在地(新宮)で祀られるようになった。昭和42年(1967)に再建されている。境内にはナギの大樹がある。元宮の地には現在神倉神社があり、標高120mの山上にあるゴトビキ岩が神体として祭られている。以下に上四社(第一殿~第四殿)の宮名、祭神、本地仏を掲げる。 第一殿:結宮:熊野牟須美大神:千手観音。 第二殿:速玉宮:熊野速玉大神(主):薬師如来。 第三殿:証誠殿:家都美御子大神:阿弥陀如来。 第四殿:若宮:天照大神:十一面観音。同:神倉宮:高倉下命:本地仏なし。 また中四社(第五~第八殿)と下四社(第九~第十二殿)は八社殿として祀られている。
[熊野那智大社]
旧官幣中社。創建は伝仁徳天皇5年。元は那智の滝に社殿があり、滝の神を祀っていたと考えられている。今は参道の長い石段を上がった那智山の右手に青岸渡寺、左手に朱の大鳥居と境内が続き、拝殿の奥には総門・瑞垣を挟んで本殿がある。以下に上五社(第一殿~第五殿)の宮名、祭神、本地仏を掲げる。 第一殿:瀧宮:大己貴命(飛瀧権現):千手観音。 第二殿:証誠殿:家都美御子大神:阿弥陀如来。 第三殿:中御前:御子速玉大神:薬師如来。 第四殿:西御前:熊野夫須美大神(主):千手観音。 第五殿:若宮:天照大神:十一面観音。 また中四社と下四社は第六殿の八社殿として祀られている。
熊野三山の本宮と新宮の二社では、明治の神仏分離令により、仏堂は悉く破壊されたが、那智では如意輪堂(観音堂)だけが残され、やがて青岸渡寺として復興した。建立は天正18年(1590)、宗派は天台宗、山号は那智山、本尊は如意輪観世音菩薩、熊野那智大社と共に神仏習合の修験道場である。また西国三十三所第一番札所でもある。
那智の滝(那智大滝)は「一の滝」で、その上流に那智四十八滝があり、熊野修験の修行地となっている。大滝は落差133m、単独では国内1位、総合では称名滝、羽衣ノ滝に次ぐ3位である。また華厳滝、袋田滝と共に日本三名瀑とされる。
那智山から下った那智浜(地名は浜の宮)には、補陀洛渡海の拠点となった補陀洛山寺がある。創建は伝仁徳天皇治世の4世紀、開基は伝・裸形上人、宗派は天台宗、山号は白華山、本尊は三ゲイ千手千眼観音である。補陀洛とは、古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。
[熊野古道]
(1)「紀伊路」(渡辺津~田辺):大阪の淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から、紀伊田辺まで、紀伊半島の西岸を歩む路である。
(2)「中辺路(なかへち)」(田辺~本宮・那智・新宮):紀伊田辺で東に転じ、山中を進み、熊野三山に至る路で、最も頻繁に使われた。紀伊路・中辺路には渡辺津から熊野三山に至るまでに100近くの熊野権現の御子神を祭祀した九十九王子があったが、現存するものは少ないものの、その遺跡が点在しているのが特徴である。
(3)「大辺路(おおへち)」(田辺~串本~那智):紀伊田辺から中辺路と分かれ、海岸線を南下し、紀伊半島を周回して那智に至る路である。国道と重複している箇所も多く、本来の姿が良好に保たれている範囲は少ない。
(4)「小辺路(こへち)」(高野山~本宮):紀伊半島の中央部の霊場「高野山」と熊野本宮を結ぶ路で、途中には標高1,000mを超す峠を三度も越えねばならない険しい路である。
(5)「伊勢路」(伊勢~本宮、新宮):紀伊半島の東岸を歩む路である。途中の「花の窟」から本宮へ直接行く道を「本宮道」という。またそのまま南下して新宮に至る道を「七里御浜道」という。新宮から熊野川に沿って陸路で本宮に行く道を「川端(川丈)街道」というが、国道と競合しほとんど残っていない。形跡が残っていないわけではないが、現在は通れない。逆に本宮から新宮への下りには、往時は熊野川の船便が利用された。
(付)「大峯奥駈道」(吉野・大峯~本宮):修験道の開祖、役(えん)の行者(役の小角)によって開かれた道で、霊場「吉野・大峯」と熊野本宮を結ぶ修験者の修行の道で、紀伊半島中央部にある大峰山脈を峰伝いに縦走する山岳修験道である。
[熊野参詣道]
平成14年(2002)に「熊野参詣道」は国の史跡に指定された。その後平成16年(2004)には「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡及び文化的景観」)に登録された。但し参詣道の登録対象には「紀伊路」は含まれていない。参詣道以外には、「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」が含まれる。道が世界遺産として登録されることは稀である。熊野古道の遺構の特徴として、舗装に用いられた石畳が残っていることが挙げられ、これはこの地が日本有数の降雨地帯であるからによる。でも中には生活道路として、また国道や地方道、市街地のルートとして重複したり、吸収されたものもある。であるからして、世界遺産に登録されたのは熊野古道の全てではない。また、熊野参詣自体にも盛衰があり、正確なルートが不明の区間があること、歴史的な変遷から生じた派生ルートもあることにもよる。
道が世界遺産に登録された他の例としては、「サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(文化遺産・スペイン)がある。
なお、「熊野古道・和歌山」と「十津川郷・奈良」は、日本の秘境100選に選ばれている。
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