2011年7月28日木曜日

出雲探蕎行第三日(出石の巻)

 標題の初出は「探蕎」会報第24号(平成15年11月29日発行)で、行事があったのは平成15年(2003)10月17~19日で、標題はその3日目(10月19日)の印象記である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 出雲探蕎行の2日目の宿は、湯村温泉の「さんきん」、誰だってあそこのお湯だけは貶せまい。単純泉のようだというが、湯上りの後の身体の火照りは何故か、微量成分のせいなのだろうか。不参の永坂先生なら解けたろうが。その先生差し入れの「吉田蔵」、昨晩のダイエー=阪神戦をネタに傾けたものの、未だ半分は残っている。それが気になって3時半に起きた訳ではないが、闇に乗じて内湯に出向き、ゆっくり浸かる。独占。ただ掛け湯が何時までも水なのには参った。湯上りに「吉田蔵」、窓の外の屋根に置いておいた酒は、程よく冷えていて、美味い。
 皆さんお目覚めの後は、昨晩の申し合せで、春来川の川辺にある足湯へ出向く。三々五々、「さんきん」と焼印の入った下駄でカランコロンと。着いた温泉橋の袂の「荒湯」は何と98℃とか、濛々たる湯煙、続く同じフロアに「中の湯」「上の湯」、そして一段下がった川段に「下の湯」、とても人間様が浸かれる湯温ではない。因みに、卵は順に、20分、15分、30分で茹だるとある。昨晩の小塩・砂川御両人お土産の温泉卵は「上」で完熟、恐らく察するに、「中」も完熟だろう。半熟希望なら、時間を半分に。ところで、本来の温泉卵生産用湯は「下」らしい。卵ケースが何十も入った箱を浸けるのを目撃しているからだ。察するに、この湯の温度は、黄身は固まるが、白身は固まらないように調整されているらしい。ところで、川には所々お湯が湧出しているようで、キケンと書いてある。しかし何と、丸々と太った錦鯉が悠然と泳いでいるし、目を凝らせば、ウグイも黒々と群れている。
 川沿いの散歩道の土手には、有名人の手形のリリーフがかなりの数見受けられる。何方の趣向なのか。でもあまり繁々と見ている人はいない。小生もそれに倣う。ふと、対岸を見上げると、手招きする会長と局長が目に入る。『君、此処へ来たら、あれを見なきゃ』の御託宣、流れ上手の森下橋を渡ると、そこは猫の額ながら「夢千代公園」とあり、夢千代像がお立ち、そして何と、ピカピカの吉永小百合さんの手形、川辺の手形が錆で皆黒ずんでいたのとは全く対照的である。小生も倣って触る。冷たいが、彼女の手と思うと、奇妙な感慨が湧く。ホンマモノなら、こうはゆくまいに。これだとチュッも可能である。会長の御託宣に忠実に従っただけのことはあった。
 清正公園の展望台へと気が動いたが、誰もそんな素振りはなく、やむなく諦めて帰宿。そして朝食、ここで「吉田蔵」が空いた。因みに最後の「止め」は会長様、目出度し。空の吉田蔵は、美形の女将が「お預かりします」とのことで託することになった。昨晩はついぞそのお姿を見かけなかったのに。
朝の出発は9時、目指すは出石、そば屋は2軒程度、と、久保ナビ社長からのお達し。何をせずとも事が順調に運ぶのは、この人に負うこと極めて大、感謝々々。支度をして玄関へと下りたが、面々の顔はなく、どうも小生が殿になったらしい。通りへ出ると、彼方に手招きする女性が見える。急ぐ。そこには件のマイクロバスがいて、皆さんは既に御着席、女性に礼を述べて、感謝の握手をした。他意はなかったのに、誰とはなしに、役得との声が。後で聞いたのでは、宿のお嬢さんだとか。そうか、「さんきん」は女将とお嬢で守っているようなものだと納得した。それにしてもこの宿で、木村伊兵衛ばりの写真を撮り逃がしたが、それは後の祭り。
 定刻少し前に温泉町を離れ、R9を経て、出石町へ向かう。途中、村岡町の道の駅では、特産の大粒の黒豆を求める人もいた。2時間弱で着いた。バスが停められる西の丸駐車場に入る。いよいよ出石皿そばの探訪である。駐車場には町の図とそば屋の在り処を印した大看板がある。数えて53、これまでツアーで2回、探蕎会で1回、都合3回の印象は、皿そばというスタイルが珍しいのみで、そばが美味かったという印象は全く無い。こう書くと、御当地御家老末裔の岩先生からは、お小言を喰いそうだが。ともかく、余り期待は出来ないということだ。ただ、この空前のそばブーム、良心的に美味いそばを出す店が、ひょっとしてあるかも知れないという淡い期待感も心の隅にあるにはあった。しかし、現実には、実現可能なのか。
 今日の先導は、そばには薀蓄の深いナビ社長と、感の良い局長の両御仁。曰く。一、華美な広告の店でないこと。一、団体様御入来の店でないこと。一、大駐車場から離れていること。一、本通りでなく枝道にあること。加えて、ロールでなく手打ち。目標は立派で素晴らしい。
 一行は三々五々、辰鼓楼のある町の中心部へ向かう。先頭は既に視界になく、探索の様子。殿は会長と小生の師弟コンビ、秋の陽を浴びてそぞろ歩く。至福の一時である。と、ある街角で、何方かが手を振っている様子、察するにこの角を曲がるようにとの合図らしい。前回に寄った「古都」を過ぎ、歩を進める。三つ目の角を左へ、皿そば屋が軒を連ねる。しかし先導は目もくれなかったらしく、姿はない。更に右へ、狭い路地へ入る。目指すは、「そば庄」鉄砲店であった。
 店に入る。御一行の皆さんは既に御着席済み。当初の5条件を満たしていると見た。と、玄関脇を見ると、片岡康雄著の「手打ちそばの技術」という御本を旗頭に、そば・うどんに関する柴田書店の書籍が鎮座しているではないか。相当研究熱心とみた。よくこの店を嗅ぎつけたものだと感心する。ここまでに随分と沢山のそば屋があったのに、よくぞ誘惑を断ったものだ。
 店には、女性2人、男性1人、昼時とあって、客が次から次へと入って来る。賑やかな店はそれなりの理由があろうというものだ。そばは10人前頼まれたようだ。店の中をうろつく。新そばは9月14日からとあり、北海道旭川産。今日のは旭川産と出石産とのブレンド、つなぎは山芋、いろいろ工夫しているらしい。程なく薬味皿に刻み葱と下ろし生山葵、小鉢に栽培した山芋(金沢での長芋か、これも元はといえば自然薯)のとろろ、そして極小卵(特別に調達?)、蕎麦猪口にそばつゆ。ややあって、出石そばと銘の入った出石焼きの小皿に、中打ちの田舎そばが、一人5皿、典型的出石手打ち皿そばである。
 一筋すする。まずまずの出来。出石の皿そばを見直した。開眼である。しかし、今もって市販の駄そばを小皿に盛って、出石の皿そばでございと称している店があることも事実である。蕎麦猪口につゆを入れ、そばを食する。程よい加減。あっという間に5皿は胃の腑へ。済んだ頃合いを見計らって、件の肥えた姐さんが、「お客さん、本当の皿そばの食べ方は、皿のそばにつゆをかけて、お好きな薬味を載せて食べるのですよ」ときた。ほぼ全員が食べ終わってからである。憎い。探蕎会とあっては、再度挑戦せざるを得なくなった。追加の一皿は、通ぶって食されたことは、言うまでもない。一枚130円也。
 帰り際に、姐さんに「もう一軒行きたいのだが、何処か」、すると「その所処で聞かれた方がよいですよ」、「じゃ、この辺りでは」、「甚兵衛、永楽、吉村ですかね」。
 店を出ると、すぐ近くに「永楽蕎麦」はあった。御紋は永楽通寶、全国新そば会員とある。いやにお高い感じ。好みじゃない。でも店内は満タンだ。会長の発案で、もう1軒行く前に、腹ごなしに、沢庵和尚ゆかりの宗鏡寺(すきょうじ)へ行くことに。天気は上々、汗ばむ。緩い坂を上り切った突き当りが、目指す沢庵寺。但し、寺内には入らず、事情あって、門から内を眺めるに止める。
 さて、再び永楽の前、相変わらずの混雑、10人全員は入れない。一案あり、半分は此処「永楽」、他の半分は「よしむら」へ。運命の別れ道であった。
 永楽へは、先ず社長夫妻、続いて宗匠と館長、次いで戸口にいた小生、5人は奥の小上がりの木彫りのある座机に案内される。小生小用の間に、15枚頼まれたらしい。狭苦しい感じ、やがて蕎麦猪口、箸、薬味、とろろ、卵が運ばれてきた。3人分しかない。おあ兄さんがきたので「5人なのですが」と言うと、その返事たるや「だったら、5人前頼んで下さい」と捨て台詞、二の句が出ない。唖然。ややあって、そば15皿、社長夫妻ペアと宗匠・館長ペア、小生シングルの3組、ペアには箸が1膳のみ、仲睦まじい光景が現出したが、それはここでは読者の想像にお任せしよう。実に、千載一遇の極めて貴重な体験だった。流石、出石唯一の「新そば会」の店だけのことはある。終わった頃合いにお茶がきた。「あれっ、5杯」と言ったら、持ってきた肥えた姐さん、「内緒です」と。心優しい人だ。
 帰りがけに「よしむら」を覗く。よしむら組はもう退散したようだ。誰が何枚食べたかという番付が掛かっている。こちらも混んではいるが、若いお兄さんの立ち居振る舞いは、新そば会員の例の店とは、その雰囲気が比較にならない位明るい。局長の言では、よしむら組の待遇は、永楽組とは正反対だったとか。明暗を分けたとは、正にこのことだ。
 出石を去るときが来た。もう15分で1時となる頃、出石を発った。福知山から舞鶴自動車道を小浜へ、敦賀から北陸自動車道を金沢へ、途中、尼御前で解団、丁度夕日が日本海に没した。楽しかった出雲探蕎の旅は幕を閉じた。

 帰宅して、夕食にと家内と「敬蔵」へ出掛けた。主人は家内の従兄妹の娘の旦那とあって、私の大概の週参も大目に。この日の晩は、蕎麦前の加賀鳶を信楽の片口に2杯、つまみに旬菜盛り合わせと鴨葱、秋の香りがする。時間も遅く、客はまばら。玄蕎麦は今は北海道幌加内と石狩沼田の産とのこと、秋そばは丸岡を予定しているとか。新そばは打ちやすいので楽しみとも。敬蔵は生粉打ちにこだわっている。初めに細打ちの「もり」、次いで太打ちの「田舎」を食する。当初はどうなることかと心配していたが、大将の持ち前の若さと真面目さと研究熱心さとで随分と良くなった。少し落ち着いて余裕ができたら、他店へもと、良いことだ。更に今後の精進に期待したい。
 
 閑話休題
 その一 波田野会長御持参の純米大吟醸酒のこと。名は「梵」、産は越前鯖江、蔵元は万延元年創業。先生の誕生記念に贈られたという極秘伝醸造の限定酒。バスに乗り込んで間もなく、先生からお毒味にとお預かりした。吟醸香は仄か、濃厚だが、べとつかず、スッと口に入る。飲み心地が実に良い。こんな酒は呑んだことがない。長生きはするものだ。「ふじおか」の親父も、もしこの酒と出会っていたら、蕎麦前は鄙願でなかったかも知れない。もっとも石高も小さいはずだから、供給は無理かも。皆さんにも少しずつ召し上がってもらったが、小塩さんと小生はとくと堪能させて頂いた。バスが揺れた拍子に、雫が床に落ちた。乾くと、その照りたるや、実に見事だった。
 その二 出石皿そば最古の店のこと。「そば庄」の姐さんの言では、「南枝」とかだった。

[後記]
 「新そば会」は別名「有名そば老舗店の会」ともいい、全国に100店舗あり、季刊誌「新そば」を発行している。私たちが入った「永楽蕎麦」は平成17年(2005)までは新そば会員だったが、平成20年(2008)にはその店名はなく、替わって「さらそば 甚兵衛」と「出石皿そば そば庄 鉄砲店」が名を連ねている。しかし、その加除の詳細はは不明である。

2011年7月27日水曜日

萬盛庵の「紅花きり」を食い損ねた山形蕎麦紀行

 表記標題の初出は「探蕎」会報第23号(平成15年10月16日発行)で、山形市内に蕎麦処を訪ねたのは、平成15年(2003)9月6日と8日である。

 平成15年9月6日,7日の両日、蔵王温泉(山形県)で金沢大学山岳会の総会と蔵王縦走トレッキングがあり、それを機に山形市の蕎麦処を再び訪ねた。今回は特に萬盛庵を訪れ、中でもあの「紅花きり」をと思っていたが、生憎の定休日、残念ながら望みは絶たれた。しかし、山へ登る土曜の6日には、駅に近い老舗の「庄司屋」と「三津屋」、山から下りた月曜の8日には、やはりどちらかというと駅に程近い「山長」と「梅そば」を訪ねた。それぞれ2軒ずつしか訪ねられなかったのは、その店でお勧めと思われる逸品を食したところ、小生の小腹ではとても3軒以上に挑戦するのは、生理的にも物理的にも限界で、断念せざるを得なかったからである。以下はその印象記である。

●蕎麦処庄司屋(山形市幸町 14-28)
 江戸中期にそば茶屋として現在地に創業した山形一番の老舗、今の当主は庄司家21代目とか、以前探蕎会でも寄ったことがある暖簾である。先祖伝来の手法は、そば粉十割につなぎ一割の純十一(トイチ)そば、山形特有の田舎そばである。が、新たに一番粉を使った江戸・東京風の真っ白な更科そばも採り入れている。当然のことながら欲張って両方をと、お品書トップの「相もり板」を所望した。ところで、とりわけ人気のあるのはと訊くと、「更科相もり板天そば」とか、そばはすべて手打ち、予約すれば変わりそばも味わえるという。席数は80、椅子席、囲炉裏、小上がり、蔵座敷とバラエティに富んでいる。大店である。そば好きが毎月集まってそばを味わう「そばを食う会」も10を数え、人気も凄い。さて、待つこと暫し、塗りの板箱に「相もり」が来た。板の左半分には田舎そばの中打ち、色は黒くなく浅い、野性味に欠けるが、噛みしめると仄かな香りがする。量はざる一枚分はあろうか。右半分は更科の細打ち、これがそばかという純白なそば、辛味のつゆに少しつけてすする。満足した。ただし蕎麦前は、単に山形の酒とあったこともあって割愛した。東京虎ノ門に山形一のそばとして、蕎麦処出羽香庵を出店しているとか。[板そば 1,300円、さらしな板 1,600円、相もり板 1,600円、相もり天 2,000円、もり 650円、更科ざる 800円、麦板 1,300円、麦切り 700円 ]
●そば処三津屋(山形市上町一丁目 1-75)
 庄司屋はJRの踏切の東側、それに対峙して西側にあるのが三津屋、昭和3年の開店とか、現当主は3代目、市内に3店舗を構える大店である。暖簾をくぐって中へ入ると、椅子席20、小上がりに20、訊くと60人入れる奥座敷があるとか、妙齢から老齢の美女6人が忙しそうに立ち振る舞う。男衆は1人。お品書が届く。開くと、山形名物「元祖大板そば」が目に飛び込む。いくらなんでも今し方2人前食ったのに、しかし探蕎とあっては具のあるそばを食するのは邪道じゃなかろうか、と葛藤する。と次に目を移すと、「半板そば」というのがあるじゃないか。早速お姐さんにこれを所望、そして蕎麦前は単に地酒とあったので清酒は割愛し、銘柄は不明ながらそば湯割焼酎にした。客は昼頃とあって、絶えず訪れる。やがて西山杉の板箱に、大きなそば玉が6山、2.5人前という「半板」が来た。これを一人で食おうとするのは小生のみのようだ。アベックは皆二人でつついている。でも後の祭り、どうか全部腹へ収まりますようにと神仏に祈願した。こんなことは会長と越前のおろしそばを5軒もはしごした時以来のことだ。覚悟してそろりそろりと食する。うぅん、これは二八の機械打ちに違いない。田舎とは言え、黒くなく、どちらかというと白めの中打ち、なるほど、大正時代にはそば・うどんの製麺・卸が本業だったと聞いて頷く。それで、三津屋製生そばや乾麺のお土産があるわけだ。後で分かったことだが、二八の手打ちは要予約だった。焼酎の助けもあってどうやら腹に納まったが、知らなかったとは言え本当に参った。帰りに勝手を覗いたら、大きな鈴木製粉の蕎麦粉の袋が目についた。[元祖大板そば 2,200円、半板そば 1,100円、五重割子そば 1,400円、天ざるそば 1,400円、その他に具をあしらったバラエティーに富んだ種ものの温・冷そば多品 850~1,000円、そばアイス 350円 ]

 翌9月7日(日)、蔵王のお山はガスの中、視界50m、気温15℃、お目当ての「蔵王のお釜」は拝めず仕舞い、早々に退散して蔵王温泉(900m)にまで下ると、皮肉にも晴れてきた。まだ陽は高く、次のお目当ての湯の谷を堰き止めて造った「大露天風呂」へ行き、汗を流す。夜には月が煌々、そして火星、何十年振りとかいう星の一大ショーに酔った。翌々日の8日(月)は夏の日差しがやけに強い一日、ロープウェーで鳥兜山へ登り、遠く鳥海山、朝日岳、月山を見る。お山から下りた下界の山形市は真夏日だった。

●第二公園山長(山形市十日町四丁目 3-8)
JR山形駅前の大通りを東へ約10分歩くと、市の第二公園が右手に見えてくる。古は山形城の外郭の一部とか、蒸気機関車が鎮座している。その斜め向かいの南側に山長はある。11時15分着、まだ暖簾は出ていない。見れば30分からだった。公園の緑陰で暫しまどろむ。店はというと、明治31年創業、御当主は4代目とか、老舗である。たった5分遅れての入店だったのに、もう6組も入っていた。店は椅子席20、座敷20席、ただ驚いたのはどうも麺類食堂だということだ。観察していると、お客の注文の割合は、そば1:うどん1:ラーメン5で、どうも此処の五目ラーメンが好評のようだ。さてと、見回すと、大きく「山形そば屋の隠し酒・限定特別純米酒」『五薫』と墨書した半紙が揺れている。迷わず一合を所望した。肴は青唐辛子入り蕎麦味噌、さすがそば屋?の酒、何ともさらりとした美味しい純米酒だ。750円は高くない。しかもそばとの相性は抜群だ。そばはお品書のトップにある「箱そば」にした。酒が干される頃、元気な小太りの姐さんが、先ず、赤い二段の塗り鉢にナメコとトロロ、それに青の小皿にはリンゴ二切れを入れてのお持ち。店にはこの姐さん一人のみ、てんてこ舞いである。やゝあって、深い目の朱塗りの箱の本膳が届く。蓋を取り去り「どうぞ」ときた。横長の箱の真ん中に仕切りがあり、その手前にはやゝ白めの二八の機械打ちの細打ちが3玉、真ん中の玉には太切りの海苔がたっぷり乗っかっている。向かい左の仕切りにはそばつゆの入った徳利、中と右の仕切りには、薬味の葱と大根下ろし、揚げた海老と獅子唐、鰊の含め煮と出汁卵、そして出色は、陶製の下ろし金と2寸強の生山葵、それに蕎麦猪口でなく朱塗りのそば椀、豪華である。隣のアベックはと目を移すと、件の「板そば」、杉の板箱に6玉、一昨日が思い出された。箱そばは具が多く、もう一軒がなければもう一献だった。[箱そば 1,100円、板そば 2,100円、ざる 600円、天ざる 1,600円、五薫一合 750円 ] 秋には松茸そば、冬には舞茸そば、春には山菜天ざる、すべて主人の採取か栽培、蕎麦も栽培して混ぜて使っているとか。うどん、ラーメンもあるが、目を瞑ろう。
●梅そば(山形市東原町三丁目 5-10)
 梅そばは休みかもと思い山長のカミさんに聞くと、「梅さん」は今日やってますよと。山長さんを出て、道を真っ直ぐ東へ、炎天下、流れる汗を拭きながらかれこれ15分、やっと東原町、看板も見えてきた。鉄筋2階建て、1階入口前は駐車スペース、4台は止められようか。創業は江戸末期とか、今の亭主は4代目、弟さんは神田やぶで修行し、兄と共同でやっているという。玄関は東と南の二方からという変則入口、南から入る。と、正面にガラス張りの広い打ち場、電動石臼もある。山形という地は、ほとんど鈴木製粉と聞いていたのに、さては異端か、石川では極めて当たり前のことなのにと感心する。椅子席12、座敷4卓16人、BGM にバッハの無伴奏チェロ組曲が流れている。日により替えるのかなと思う。部屋はどちらかというとモダン、でも落ち着いた雰囲気、和紙を上手に使ってあるのに感心する。程なく背のすらりとした美形がお現れになった。弟さんの奥さんとか。実に美形、来た甲斐があった。「ご注文は」に先ずビール、恵比寿のみ。次いで、やはりお品書の出色のお勧め「二色せいろ」をお願いする。汗をかいた後のビールは格別だ。つまみは山海月の胡麻和え、本来は酒の菜、酒にすりゃよかった。と、ここにもあの「五薫」があるではないか。しかも一合500円、山長は750円、何故だ。「ところでこのお酒は何処の」と聞くと、山形のそば屋10軒が出資して「そば処山形の限定純米酒のそば屋の酒」を造ったのだと、実にそばに合った素晴らしい酒だ。「二色」がきた。丸い朱塗りの曲げせいろの左半分に極細の更科、右にやはり極細の季節の青紫蘇切り、清々しい。此処でもトイチだそうだ。当然すべて手打ち、何処ぞの無くなれば閉店とは違って、追い打ちしますとか、天晴れである。芸術品である。何とも素晴らしい。ここの「板」も美味しかろうなあ。電車の時間が迫ってきた。後ろ髪を引かれる想いで、店を後にする。 [青じそ切り 1,200円、二色せいろ 1,000円、二色せいろ天 2,100円、もりせいろ 700円、大もり 1,000円、細打田舎せいろ 900円、天せいろ 1,700円、板そば 2,000円、大板そば 3,000円、甘味そばぜんざい 400円、冷しわらび餅ぜんざい 400円、そばがき 900円 ] 蕎麦前の友 [汲み上げ湯葉 300円、にしん煮 600円、てんぷら 1,100円 ] 冷酒(300ml入り) [大吟醸東北泉 1,800円、純米吟醸夢がたり 900円、吟醸酒銀嶺月山 800円 ] 季節のそばには、青紫蘇のほか、桜、蓬、茶、菊、柚子など、但し紅花はないと。 営業は午前11時30分から午後8時まで、定休日は火曜日。

[後記]
 訪ねようと思って定休日だった萬盛庵は、山形市旅籠町に大正4年(1915)に高井吉蔵氏によって創業された老舗である。2代目の高井利雄氏は昭和35年(1960)12月11日に「山形そばを食う会」を発足させ、爾来月1回、毎月第2日曜日に萬盛庵で蕎麦前と蕎麦料理と蕎麦とで会を重ね、同業者はもとより、一般の方も会員となって四十有余年にわたって続けられてきた。しかし主催者の高井利雄氏が病気になり、会は平成17年(2005)12月11日の第529回をもって突然中止となり、また氏の死去により、平成21年(2009)8月20日をもって萬盛庵は閉店となった。

2011年7月26日火曜日

新規開店のそば処「敬蔵」は縁続き、一層の精進を期待!

 表記標題の初出は「探蕎」会報第21号(平成15年5月17日発行)で、そば処「敬蔵」へ訪れたのは平成15年(2003)4月26日と27日である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 4月26日の湯涌みどりの里での「手打ちそば賞味の会」に助っ人参加の源野君(小生とは野々市小・中学校の同窓生の仲)の車の中で、彼が言うには、近所にそば屋が開店し、その当日の22日に寄ったと。そして小生に名刺大二つ折りの案内をくれた。開店の案内は一切なかったが、彼は住居の本町一丁目の縄張りの内とて、家屋が解体された後、何ができるのかと思ったらそば屋だったので、開店当日に出かけたとのことだった。主人の志鷹敬三さんは「宮川」で1年ばかり修行して後の開店とか。彼からはそばの話はなかったが、テーブルが炬燵風に足を下ろせるのが良かったという。
 みどりの里での会には、何故か療養中の「山英」の親爺、山村英昭さんがお目見えで、お開きの時に、源野君がくれた例の「敬蔵」の案内を、皆さんに「わしの孫弟子」とのふれこみで配っておいでた。こうならば、どうしても行かずばなるまい。
 案内には、営業時間は昼(午前11時30分~午後2時30分)と夕方(午後5時30分~8時)で、なくなればそれまで。ならばと5時30分に寄った。ところが未だ暖簾が出ていない。10分待ち40分過ぎに入れた。一人だったのでカウンターに座る。ところが見目麗しい優男の主人と思しき人が、「少々待って頂けますか」と、この時間、客は小生一人のみ、選挙前日とて気は急いたが、落ち着いたふりで「一向に差し支えありません」と言ってしまった。その間主人はそばを延している様子、細打ちの分とか。訊けば、初の土曜日なので、そばの量の見当がつかず、この日の昼の部は1時半にはなくなってしまった由。
 注文は、細打ちの「もり」と太打ちの「おろし」にした。勝手場には女性二人、妙齢の細い人と若い大柄な人、入口の開店祝いに、家内の従兄弟の名前があるのが気になり、それとなく尋ねる。すると大柄な若い人が「私の父です」と、「何故ここに」、「主人と一緒です」。妙齢の方は叔母さんとか、「私、木村です」、「あゝ、孝ちゃんの旦那さん」、大体様子が分かってきた。家内に話すれば、きっとびっくりするだろう。
 店のトレードマークは『石臼荒挽手打蕎麦』、表の看板には『自家製粉の蕎麦粉と水だけで打ったそば、そばの実本来の味と香りを届けます』とある。玄蕎麦は福井産を主に、季節によって、栃木、会津、北海道産の使用を予定しているとか。そして太打ちは蕎麦の実を殻ごと、細打ちは殻を剥いだ後に、石臼挽きした由。また冷と温とでは別々に茹でるとあり、また茹で加減もお好みに応ずるとも、御丁寧至極である。
 待つこと暫し、やゝあって初めに所望の細打ちの「もり」が運ばれてきた。細打ちにしては若干太め、中打ちというべきか、でも手びねりの陶製の皿に程よく盛られている。薬味の葱・おろし・山葵は細長の皿に、つゆは片口に、それにそば猪口が角盆に、いずれも既製のものではない。この趣向は「山英」「宮川」と受け継がれたものに相違ない。見た目には上等の上である。そばは甘皮の風合いを残していて、仄かな香りと色合い、でもホシは小さい。早速そばを手繰る。ムムッ、ぬめりがキチッと取れていない感じ。荒挽きと言えば、あの「多門」の透明感のある清冽なそばには及びもつかないが、みどりの里での源野君の荒挽きにもひけをとっている。大甘で総合して「中の上」か、精進を期待しよう。次いで、挽きぐるみの田舎そばの太打ち。おろし、つゆは別で感じが良い。太打ちとは言え、越前そばのような豪快さはなく、どちらかと言えば中太でなよっとした感じ、そして荒挽きの風情のホシは曇って見えず、でも、かたさ、のどごしはまずまずの出来、総合で「上の下」か。済んだ後で、とろみのあるそば湯が、そば湯製造機からそば猪口に注がれ、カウンター越しに「どうぞ」と。
 勘定を済ませて出たのは6時半過ぎ、出るときに若夫婦に、お世辞でなく、「素晴らしい器ですね」と言った。7時を過ぎてのこのこと選挙事務所へ行くのも憚り、明夜の当選時に寄ることにし、帰宅とする。帰って家内にかくかくしかじか、明日投票の足で昼の部に寄ることにしたが、家内は「まさか」と呆れ顔。でも自宅が旧宅の近くにあることは知っていて、隣にあるサークルKも経営しているとも。変なご縁となった。
 次の日、開店10分前に着いた。入口右手にガラス張りの延し場、やゝ進むと右手に電動石臼、暖簾はまだ出ていない。と、二人連れがさっさっと店に入っていく。「いらっしゃいませ」。何と不可解な。我々も入る。次いで劇的シーン、「孝ちゃん」「明ちゃん」、抱擁はなかったが、大変な騒ぎ、そこへまた生みの親のご登場、てんやわんやになった。昨日に懲りて、総動員でお手伝いとか、客が次々と入って来る。宣伝なしでこの始末、でも全員親戚とかお友達の様子、初めの二人連れは喫煙可の炬燵式テーブルに。このテーブルは、四人掛けが1つ、二人掛けが2つある。奥には炬燵式囲炉裏(10人ばかり掛けられる)があり、ここと座敷(20人ばかり入れる)は禁煙である。私達は囲炉裏を希望したが全席予約済み、座敷でと言われたが、家内の希望で喫煙席へと移った。
 蕎麦前は、家内ビール、小生黒帯熱燗、つまみはそば豆腐とにしん煮、熱燗が片口で登場した。徳利でないのが新鮮だ。そばは、とろろ(細打)と鴨汁(細打)を所望する。ところで勝手場には6人もいて、船頭多くしての感じ、慣れないせいもあって段取りがよくない。それに挨拶がこれまた長い。我々もその類なのだが。蕎麦前がなくなる頃、注文のそばが届いた。器は上出来、で細打ちはというと、今日のは正に細打ち、ホシも昨日より大きい。ところがそばが切れ切れ、何が問題なのか。これでしっかりつながっていれば申し分ないのだが、一難去ってまた一難。願わくは、むらのない、常に高いレベルのそばを提供できるよう精進してほしいものだ。贔屓目でなく、これぞ「敬蔵そば」、さすが「敬蔵そば」と言われるようになることを祈るばかりだ。取り巻き連が去った後どうなるのか、その時初めて真価が問われることになろう。諸兄姉はどう感じとられたであろうか。

 品書きは次のようである。[冷]もり(細・太),おろし(太) 各800円、とろろ(細) 1,100円、鴨汁(細) 1,300円、そばづくし(鴨ロース,にしん煮,旬菜盛合せ,そばがゆ,そば豆腐,もり・おろし,氷菓) 1,800円。[温] かけ(太),おろし(太) 各800円、とろろ(太) 1,100円、にしん(細) 1,200円、鴨南(細) 1,300円。
[つまみ] そば豆腐 300円、にしん煮 500円、鴨ロース 600円。他に飲み物、ノンアルコールもある。
 そば処「敬蔵」 住所:野々市町本町一丁目8番28号  電話 076-294-1486

[後記]上記の記述は開業当時の状況を記したものである。現在8年を経過しているが、その間の進歩は目覚しく、その進化には目を見張るものがある。ずっと十割生粉打ちのそばを信条として提供しているが、そのレベルは最高クラスであり、どの店にも引けをとらない。まだ訪れていない方があれば、ぜひ一度足を運ばれることをお勧めする。

2011年7月25日月曜日

「蔵」では昔ながらの土蔵の中で手打ちそばと地酒を出す

 表記標題の初出は「探蕎」会報第21号(平成15年5月17日発行)で、訪問したのは平成15年(2003)2月6日である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 2月初旬、宇都宮市で開催された予防医学技術研究集会に出席したのを機に、6年前に一度訪れたことがある「蔵」を再度探訪した。前には「この近くにそば屋は」と訊いて訪れたような気がするが、仔細は忘却した。ただ土蔵の中で、加賀の地酒の「菊姫」と「天狗舞」に出会い、「どうしてこんなところに加賀の酒が」と質した記憶がある。主曰く「諸国を巡って出会った美味い酒じゃから」。感動した。酒を飲んだせいか、肝心の手打ちそばの味はとんと覚えがない。「あの店はまだ健在か」と地元栃木の若衆に聞くが、「知らぬ」と言う。観光パンフにも記載がない。諦めかけた頃、「木村さん、ありました」と、電話帳には載っていたのでした。所番地は、泉町7-13。
 懇親会が終わった午後8時過ぎ、蕎麦には興味がないという連れと別れ、夜の泉町のメイン通りを西に向かって歩く。やがて夜目にもそれと分かる土蔵と「蔵」なる小さな灯が見えた。中に入る。客は居ない。「終わったのか」と聞くと、「終わったものもある」という返事。親爺の顔は見えず、声のみ。婆さまが仕切っている。以前と変わっていない雰囲気だが、入口右手のカウンターには、以前はなかった宇都宮の地酒、「四季桜」の四斗樽の薦かぶりがドンと鎮座していた。冷蔵庫はと見ると、加賀の地酒はなく、「八海山」「久保田」「〆張鶴」「王紋」の吟醸酒が並んでいた。頑丈な古びた机に向かって座る。先ずはと、樽酒を所望する。婆さまは受け皿にも溢れるばかりに注いだ杉の一合枡と摘まみの粗塩を入れた小皿を角盆に載せ、「どうぞ」ときた。今時、粗塩で枡酒を飲めるとは、長生きはするものだ。早速、枡の角に粗塩を載せ、一口、タイムスリップ、江戸時代の風情である。美味い。再所望し、次いで「そば」にする。十割は売り切れてなく、二八のみ、蕎麦は栃木の益子の某氏の生産とか、勿論、自家石臼挽き、「もり」を二枚頼んだ。
 そば湯も頂いて、大団円に近くなった頃、四人組とペアが御入来、見れば四人組は東京のご同業の元締め、「まあ、そんなに急がずとも」と言われ、座り直して、また枡酒。対手に合わせて付き合いしたところ、気付けば5回も所望していた。思うに、四人組の中の紅一点の妙齢の美女に当てられてしまったようだ。彼らも彼女も、やはり枡酒と「もり」、ピッタリなので、完全に意気投合してしまった。出て、三々五々、夜の冷気を浴び、宿へ戻った。余韻が心地よい。

 ところで、店を出るときに気付いたことだが、「蔵」は「栃木のうまい蕎麦を食べる会」の協賛店とあった。これは一体どんな会なのか。後日貰ったパンフレットには、曰く、黒枠で『栃木のうまい蕎麦を食べる会では県内の蕎麦愛好者並びに愛好会はもとより行政を含めた蕎麦のネットワークづくりによる地域振興を目指しています』とあった。大上段で、どうもスッキリしない。行政がかんだ会の協賛店など無用なのに。

山野草乃宿「二人静」と山野草リスト

 表記標題の初出は「探蕎」会報第19号(平成14年11月5日発行)で、山野草のメモをしたのは平成14年(2002)10月12日早朝である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 今回の伊那蕎麦行の宿は、松原副会長の御推奨の、西に木曽駒ケ岳千畳敷カールを見上げ、清冽な太田切川の右岸に建つ、瀟洒な5階建ての、教会もある山野草乃宿「二人静」である。この宿は山野草の宿と銘打っているだけあって、玄関右手の急崖にかなりの数の山野草が、自生・植栽を含めて、名札付きで供覧されている。この時期、花が見られたのは、イワシャジン、ヤマトリカブトとイワベンケイのみ、しかし圧巻だったのはイワヒバの群生だった。ここは標高800mばかり、崖の上部からは常に水が供給されており、かつ水はけが良いこともあって、比較的水を好む山野草の生育には適している。したがって、当然のことながら、乾燥地を好む植物はない。誰がこのような企画をしたのかは知らない。宿に目録がないかと尋ねたが、ないとのこと、そこで翌朝できるだけメモしたのが次のリストである。一応植物誌で照合したが、不詳のものが20近くあった。中で明らかに通称名である場合には、⇒を付し、その後に正式な和名を記した。
 大部分は草本であるが、木本は(木)、羊歯は(羊)と記した。草本の( )内には、花やガク、ホウなど、目に映る色を示した。また[ ]内には実の色を示した。花期は大部分が夏季で、その時期は百花繚乱、花の形や色を想像し偲んで頂ければその情景が再現できようというものです。記載の113種は五十音順とした。

●アカバナイカリソウ⇒イカリソウ(紅紫).アマドコロ(緑白).アヤメ(紫).イカリソウ⇒トキワイカリソウ(淡紫.白).イワウチワ(淡紅).イワカガミ(淡紅).イワシャジン(紫).イワタバコ(紅紫).イワヒバ(羊).イワベンケイ(黄).ウスバサイシン(暗紫).ウチョウラン(紅紫).ウラシマソウ(黒紫).エゾリンドウ(青紫).エビネ(淡紫.紫褐).エンレイソウ(緑)[褐紫].オオバギボウシ(淡紫).オオマムシグサ(濃紫).オカトラノオ(白).オキナグサ(暗赤紫).オサバグサ(白).オダマキ(青紫).
●カタクリ(紅紫).カタバミ(黄).カライトソウ(紅紫).カラスビシャク(緑・帯紫).カワラナデシコ(淡紅紫).カラマツソウ(白).カンアオイ(黒紫).キエビネ(黄.黄褐).キチジョウソウ(淡紫)[紅紫].キツリフネ(黄).キヌタソウ(白).キバナカタクリ(黄白).キョウカノコ(紅紫).キリンソウ(黄).キンコウカ(黄).ケマンソウ・アメリカコマクサ(淡紅).コケモモ(淡紅)[赤].コバギボウシ(淡紫).
●ササユリ(淡紅).ザゼンソウ(暗紫).サルナシ(木)(白).サワギキョウ(濃紫).シモツケソウ(淡紅).シャガ(白紫).ジャコウソウ(紅紫).シュウカイドウ(紅).シュウメイギク(紅紫),ショウジョウバカマ(淡紅~濃紅).シラネアオイ(淡紅紫).シラン(紅紫).シロバナホタルブクロ(白).ゼンテイカ・ニッコウキスゲ(橙黄).
●ダイコンソウ(黄).タマガワホトトギス(黄に紫褐斑).チゴユリ(白)[黒].チョウジソウ(青紫).チングルマ(白).ツバメオモト(白)[濃藍].ツユクサ(青).ツルニンジン・ジイソブ(白緑に紫褐斑).ツルマンネングサ(黄).ツルリンドウ(淡紫)[紅紫].トクサ(羊).斑入りドクダミ(淡黄.白).トチバニンジン(淡黄緑)[赤].トリアシショウマ(白).
●ナツエビネ(淡紅紫).ニリンソウ(白).
●ハンショウズル(紅紫).ヒメイズイ(緑白).ヒメカンゾウ(橙黄).ヒマラヤユキノシタ(白).ヒメシャガ(淡紫).ヒメヒオウギズイセン(橙赤).ヒロハテンナンショウ(緑に白縞)[赤].フシグロセンノウ(朱赤).フタリシズカ(白).フユノハナワラビ(羊).ベニバナイチヤクソウ(濃桃).ベニバナウツギ(木)(紅).ホウチャクソウ(白緑).ホオズキ(淡黄白)[橙].ホタルブクロ(紅紫).ホトトギス(淡紅紫).
●マツムシソウ(淡紫).マツモトセンノウ(深紅).マツヨイグサ(黄).マムシグサ(淡緑).マンリョウ(木)(白)[赤].ミズバショウ(純白).ミソハギ(紅紫).ミヤマキケマン(黄).ムラサキケマン(紅紫).ムラサキツユクサ(紫).
●ヤグルマソウ(緑白).ヤシャゼンマイ(羊).ヤナギラン(紅紫).ヤブコウジ(木)(白)[赤].ヤブレガサ(白~淡紅).ヤマオダマキ(淡黄).ヤマシャクヤク(白).ヤマトリカブト(青紫).ヤマハハコ(淡黄.白).ヤマボウシ(木)(白)[紅].ヤマホトトギス(淡黄に紫斑).ユキザサ(白)[赤].ユキノシタ(白).
●リュウキンカ(黄).リンドウ(青紫).ルイヨウボタン(緑黄).レンゲショウマ(淡紫).
●ワタナベソウ(淡黄).

2011年7月22日金曜日

信濃町柏原に「信州霧下そば庵」を訪ねる

 表記標題の初出は「探蕎」会報第19号(平成14年11月5日発行)で、訪問したのは平成14年(2002)9月23日である。 「晋亮の呟き」に転載する。

 小学館から「サライ」という半月刊誌が出ている。かなり有名なので、諸兄姉もご存知かと思う。その編集の面々が別途に「ショトルシリーズ」を編んでいるが、その近刊に「真打ち登場!霧下蕎麦」がある。これには霧下蕎麦を標榜する11軒が、各店4頁の割で紹介されている。ところが表題の『信州霧下そば庵』はトップでしかも倍の8頁、これは恐らく、女主人の若月一子さんがまだ庵を開く前、「サライ」の発刊当時から1年間にわたって、黒姫山麓の農事暦を連載してきた労に報いたものだろう。この連載もまとめて上梓されているが、これによれば、農家ではそばを打つこと自体、ごくありふれた日常茶飯事なのだということである。
 9月下旬の連休、家内と秋の志賀高原を堪能しての帰路、霧下の庵をぜひ訪ねたくて信濃町ICで高速道を下り、JR黒姫駅の近くとかで、とにかく駅へ向かった、というより、向かおうとした。ところが折からの霧雨、山は見えず、感ナビは全く機能せず、完全に方角音痴となる。道はT字路に突き当たり、ままよと右へ曲がったのが運の尽き、後で気が付けば逆だった。しかし暫らく走っていると、黒姫駅左折との小さな案内板が見えた。でもそれに安堵したのも束の間、今度は細く曲がりくねった道に、またも辿り着けるのかという不安が過ぎる。10分は走ったろうか、こんなに遠いはずがないと思いながら、なおも進む。でも看板に偽りなく、やっと木の間越しに架線が見えてきた。近かったのに、ぐるっと大きく遠回りしたようだ。どうやら無事に駅裏に着いた。
 駅前は工事中とかで、駐車もままならぬ状況、数階建ての「信濃屋」が見えるが、目指す庵は何処か。止むなく家内を目指す庵の在り処を訊きに派遣する。待つこと暫し、一枚の案内図を持って帰って来た。曰く、庵への道筋は極めて複雑なので、経路を間違えないように、また目指す場所では庵を見逃さないように、と念を押されたとか。此処まで来てこの苦労、本当に参った。細い砂利道を右折左折、ゆっくりなので、空き地に車を寄せ、後続の数台の車をやり過ごす。と、神仏の御加護か、右方向、細い路地奥に、「若月」とある。とうとう到着した。駐車場には1台の駐車スペースのみ空いていた。ラッキー。やり過ごした車達は坂を下って行ったが、やがて間違いに気付き引返して来たものの満車、間一髪であった。
 場所は住宅地の外れ、隣には狭い畑もあって、黒い実と白い花を付けた蕎麦が植わっている。葱もある。折からの霧雨、寒い。駐車場は12台分、でも15台いる。7台は長野ナンバーだが、あとは東京、埼玉、愛知、新潟、富山、石川。「サライ」の影響なのか。着時刻は午後1時、昼時なので、混んでいるのではと覚悟はしていたが案の定、玄関に1組、外に2組、小生が4組目、車に待機が3組、凄い。中は満席の様子、しかし動きは全く無い。20分しても誰も出てこない。寒さで震えているのに。
 と、隣の「手打ちそば工房若月」から、写真で見覚えのある女主人が、箱に山盛りにした「そば」を抱えて足早に庵に入るのを目にした。それにしても無神経・無造作な「そば」の扱い、全く動きが無かったのは、肝心要の「そば」が無かったせいだったのか。ふっと「売切れ次第閉店」とあったのを思い出したが、今日はドロナワ式で稼ぐ所存なのだろうか。でもやっと辿り着けて、どうやらありつけそうなのは有難い。40分ほど待った頃、3人の美女がお出ましになり、入れ代わりに玄関の3人組が招じ入れられる。ただ彼女達の会話に、「美味しかったわねぇ」の言葉がないのが何となく気になった。さらに10分、今度はぞろぞろと、やっと寒さから開放されて店内に入れた。胸が弾む。乞うご期待だ。
 店は、土間と上がり框、土間には4人掛けの机4脚、畳み敷きにはアベック(2人)用と家族(4人)用の座机がそれぞれ3卓、肩寄せ合わないと座れない狭さである。座して見回して驚いたのは、満席の誰にも「そば」が届いていない。とすると、前から居る客は、中へ入ったものの、お預け状態だったということか、これは気の毒千万としか言いようがない。3人の若いお姉ちゃんが、ご注文は、と席を回り出した。「かけそば」というのがある。寒かったからこれを一杯貰おうか。それにしても蕎麦粉十割の生粉打ちの「かけ」とはどんな味なのか。「天ざる」も所望する。そして会長を思い出し「おろしそば」も。腹が空いていることもあり、三品とした。ややあって、胡瓜の漬物1皿とてんば漬け2皿が届く。早々と手が出てしまう。これは美味い。さすが名人だ。
 お品書きを見ると、ざる800円、大ざる1200円、天ざる1500円、かけ800円、天かけ1200円、おろし1200円、ほかにお土産用凍りそば820円、酒は特吟松牡丹とある。立って釜場を覗く。女主人は天麩羅揚げに忙しい御様子。傍らには男と見紛う妙齢の細身の女人が、大きな鍋でそばを茹でている。隣にはちょろちょろと栓から水が出続けている。そしてやおら、どっさりの「そば」を隣の水受けへ、大丈夫なのかと他人事ながら心配になる。やがて次には大笊へ、かなりの量だ。一回一掴みで笊へ、大盛りもあるようだ。かれこれ10枚以上は出来たろう。ほかに「天かけ」もある。これで待ちぼうけの半数以上には行き渡りそうだ。何ともその豪快というか無造作というか、とにかく驚いた。
 やがて先客から順に「ざる」が届く。更に一巡し、注文して半時間後、先ず「かけ」が届いた。大盛りだ。刻み葱が乗っかっている。善光寺の七味をかけ、口に運ぶ。柔らかい。やはり熱い「かけ」は無理なようだ。でも早く食べないとこの「かけ」、この先どうなるか心配だ。小生が1/3を食し、残りを家内に託する。次いで「天ざる」と「おろし」が一度に来た。二品とも量は完全に大盛り、これだと「大ざる」とは如何なる量なのだろうか、想像を絶する。「天ざる」のそばを一箸たぐる。香りがない、味わいも今一。時期が悪いのは承知だが、『汁(つゆ)を浸けずに食べているうちに笊が一枚終わる』との御託宣には、とても程遠く及ばない。汁をつける。重く、甘い。家内はもう「かけ」は要らないと小生に戻す始末。ではと「天ざる」をと勧めるが、野菜天のみ食し、そばの方は半分も進まない。そして「おろし」は遠慮すると。「おろし」は大きめの丼に大盛り、汁がかかっていて、たっぷりのおろしが天盛りされ、その頂点に細切りの海苔がこれまたたっぷり。鰹節はない。天盛りの周りには玉蜀黍の粒の天揚げが所狭しと散りばめられ、かくなる「おろし」に驚嘆する。そしてそぞろ口に運ぶ。暫時置いたためか、そばは甘い汁を含んで重い。おろしに辛味は全くない。大量に辟易しながら、極めて失礼だが無理矢理に、汁はなるべく遠慮して、そばを一所懸命かき込む。汁は後で蕎麦湯を加えてと思ったが、とても飲めなかった。すごく満腹になった。通常の倍位はあったのでは。お土産に「凍りそば」をと思っていたが、その元気は消失していた。
 帰路、家内は胸焼けがひどいと消化薬を飲んでいる始末。そして「口直しに美味しいそばを食べたいね」と。正に同感。
 閑話休題
 本には、若月さんが消費する蕎麦粉は年間8トン、地元柏原で契約栽培しているとか。でも、もし挽きたてだとしたら、玄蕎麦が悪いとしか言いようがない。とすると、保管・保存に問題がありそうだ。とにかく今回は絶賛の店の紹介を鵜呑みにしてしまったが、もう一度新蕎麦にチャレンジしてみるか。信頼回復なるか。
 案内には、信越本線黒姫駅から徒歩5分、上信越自動車道信濃町ICから車で5分とある。しかし、簡単に到達するのは至難だ。車の場合、特に駅からのアプローチは複雑で、むしろ国道18号線からの方が優しいかも知れない。近くには、以前、探蕎会で訪れた、小丸山公園の一茶記念館が程近い。付近で尋ねる時は、柏原小学校の北裏のと言ったほうが分かりやすいかも知れない。
 隣にある「手打ちそば工房 若月」では、予約すれば、指導料・材料費・試食込み 2500円で、そば打ち体験ができるそうだ。

2011年7月21日木曜日

台風6号強風下の白山

 かねて念願だった美濃禅定道(南縦走路)を辿るべく、梅雨明けを待って実行することにした。ところで74歳ともなると、平生は負荷をかけたトレーニングをしていないこともあって、南竜山荘から石徹白までの24 kmの走破を単独で行なうのにはいささか不安があり、前田さんに相談していたところ、同窓の宮川さんを推薦してくれた。彼は十数年前には、私とも何回か山行を共にしたことがあるが、山好きが高じて、深田百名山までも踏破してしまった人である。昨年百名山を完登した祝賀コンパの席上、無理をお願いしたところ、随伴OKの快諾を得、更に石徹白は交通の便が極めて悪く、車がないと入るにも出るにも難儀な場所であり、この足は前田さんに協力して頂けることになり、こうして実行できることになった。
 私がこのコースにこだわる一番の理由は、白山の全登山路のうち、通っていないのはこの南縦走路の別山~石徹白のみだからである。無雪期に限れば、北縦走路のゴマ平~妙法山も未だ歩いてはいない。ところで加齢とも相まって、体力の低下は顕著で、特に下半身の衰えは年々加速していることが自覚でき、それに伴うバランス感覚の衰えもあって不測のアクシデントが起きる可能性も増してくる。このような事態にあって、宮川さんのような強力な助っ人に協力して貰えれば百人力、大船に乗った感がする。
 善は急げ、今夏の梅雨明けに挙行することにした。白山の夏山開きは7月1日、大概梅雨明けは7月中旬頃だから、それ以降にする。6月末の南竜山荘の宿泊予約を見ると、16,17日は既に満員なこともあって、出発は18日の月曜日(海の日)とした。でも今からすると、この年、石川県での梅雨は、例年より遅く入ったものの早く上がったこともあって、入山は15日(金)とすべきだった。何故かというと、梅雨明けの10日から17日はずっと晴だったからである。しかも南海上には台風6号が発生、しかも超大型に発達、その影響もかなり心配になった。でも天気予報では、北陸への影響は20日過ぎということだったので、下山してしまえば影響が出てもかなりと思っていた。
 18日は午前4時に宮川さんと共に家内運転の車で出発、市ノ瀬へ向かう。昨日までは快晴だったが今朝は曇り空、歩くには絶好と気を休める。1時間ばかりで市ノ瀬へ、折りよく別当出合へ行くバスに乗り込む。別当出合に着くと、バスが初発だったにも拘らず既に登山者が大勢、訊けばバスをチャーターした団体だとか。全員が女性である。今や山では女性が老いも若きも主流を占めている感がある。以前なら女性団体のパーティーがいると、その前に出発せねばと焦ったものだが、今ではその元気がないのは寂しいがそれが現実である。いつか女性団体に遅れをとってしまってショックを受けて以来というもの、無駄な抵抗はしないことにしている。宮川さんも薄々それを承知しているのか、私のペースでどうぞと言ってくれた。
 登りのコースは砂防新道、新しくできた甚之助小屋を見たかったせいもある。昨年暮れに出かけた時は、若干雪があったが突貫工事で仕事をしていた。私の住む野々市町の清水建築が工事を請け負っていたので、よく知っている。新しい小屋は浄化槽も完備されていて、中々コンパクトな感じ、中には毛布も置いてあり、20人は優に泊まれ、実に快適な空間、旧小屋とは雲泥の差である。小屋の前は明るい小広場、別山の全容を眺めることができる。暫時休憩後出かける。ここまで2時間弱、室堂までは4時間はかかろう。3時間を切った昔が偲ばれる。径には黄色のミヤマキンポウゲヤミヤマダイコンソウが目立つ。一ノ越、二ノ越、三ノ越を過ぎて十二曲りへ、ここでは赤系統の花も多くなる。ヨツバシオガマ、コイワカガミ、テガタチドリなど。延命水で喉を潤し、黒ボコ岩へ、更に弥陀ヶ原を横切り、五葉坂を登れば室堂、この頃から風が荒くなる。まだ視界は利くものの、時折ガスが往き来する。標高が高いと台風の影響を受けやすいようだ。
 食事後は大汝峰へ、目的はコマクサの観察である。室堂平ではクロユリが群生していて満開である。斜上する千蛇ヶ池への径にはハクサンコザクラやアオノツガザクラも、砂礫地帯にはイワツメクサやイワギキョウ、程なく千蛇ヶ池へ、しかし池は厚い雪渓の下、ここからの大汝峰はガスに見え隠れ、風も強くなって来た。所々雪田が残っている。この辺りはチングルマの群落が多い場所、アオノツガザクラとコイワカガミの群落もある
 大汝峰の基部からは、標識に従って登る。一段と風が強くなって来た。中間部では岩の部分を登る。稜線に出ると、一層風は強く当たり、時々風をやり過ごすためしゃがむことも。ガスで視界が利かなくなって来た。頂に出て、大汝神社にお参りする。そしてこれからコマクサを観に行こうとしたら、石川県自然解説員の腕章をつけた年配の女性が上がって来た。これじゃコマクサのある場所へ入り込むことは出来ない。しばらくブラついてやり過ごすが、すぐには帰らずに徘徊している。いつか径を外れていたら大声で注意されたことを思い出した。漸く彼女が去り、コマクサを観に行く。6箇所あるのだが、あまり増えていない。実生は確認できるものの、元の株も大きくなっておらず、かえって縮こまったような印象を受ける。場所は適地だと思うのに、思ったほど繁殖していないのはどうしてか。
 風は南西から吹きつけている。時々の突風には往生する。ほうぼうの体で大汝峰から下りた。下る途中で小母さんと会う。基部にはあの自然解説員がいて、今会った人は朋輩だと、彼女らは7月15日から8月15日までの間、室堂と南竜に2名ずつ、2泊3日間詰めるとのこと、勿論ボランティアである。話の中で室堂から南竜山荘へトンビ岩コースを辿りたいと話すと、残雪があり分かり辛いので展望歩道経由を勧めているとのことだった。当初は御前峰を経由して室堂へと思ったが、この風を考慮して往きの径を引き返すことに。
 室堂でもトンビ岩コースには残雪があると言われる。しかし視界は良好なので行くことにする。もしホワイトアウトになると、先ず万歳谷の雪渓の横断で苦労するだろうし、御前坂の雪渓でも手こずることだろう。両方とも横断して対岸の夏径に入らなければならないので、それが大変だ。トンビ岩手前にはハクサンシャクナゲの群落があって丁度花盛り、いつもは花期が過ぎているのに僥倖だった。御前坂の急な雪渓を注意深く下る。そして夏径が見つかり一安心、下りの径にはベニバナイチゴやハクサンコザクラ、ハクサンコザクラは他処より花の色が濃厚だった。南竜山荘横の沢にも雪渓が残っていた。
 宿泊手続きをして山荘に入る。団体が2組、今晩は70人の宿泊とか、寛いで例のごとくアサヒスーパードライ500mlを飲む。宮川さんは飲まずに即席うどん、売店横に見慣れぬ生ビールのタンクがあり、訊くとキリン生とか、料金はアサヒの缶と同じ700円、これも試す。夕食は5時、3時半には配膳のため、食堂を出る。この頃から視界も不良となり、風も着いた頃よりは強くなったようだ。休憩舎にある吹流しが音を立てる程の強さ、台風はまだ四国沖だそうだが、ここ2100mではもう影響が出ているようだ。明日はもし雨風ならば石徹白への下山は無理だろう。宿の民宿「おしたに」にもその旨連絡する。でも石徹白ではまだ影響が出ていないようだった。夕食時、夕方着のツアーの一組と会話、明日は御前峰へ登頂後お池巡り、明後日は別山経由で市ノ瀬へとか。でも天候が心配だ。昨日の予報では、明日までは曇りとかだったが、暗くなって雨も降り出した。風は荒い。
 翌朝、予定では5時の出立だったが、外は濃霧、雨は小降りだが、風は強く、時折ゴーゴーと吹く。別山ルートは尾根筋通し、強風をまともに受けての下山、5時になって別当出合へ下ることにして、石徹白にもその旨伝え、6時に南竜山荘を後にする。もう大部分の宿泊客は下山した模様だ。私の下りの遅さもあって、ほとんど下りの人に会わない。ところがこの天候のなか、十数人の人が登って来る。中飯場で漸く1組の団体さんと会う。別当出合まで2時間10分も要した。金沢へのバスは、11:30,13:30、15:30 の3本のみ、最初の便でも最低3時間待ち。ところがシャトルで下から上がってくるバスがあって、そのバスが 9:30 に市ノ瀬に下るとか、待つことにする。しかしこの強風で倒木が道路を塞ぎ、通行止めに、当初は1時間位で復旧とかだったが、作業に掛かれたのが10時近く、しかも倒木で電線も電話線も切れたものだから、連絡が悪く、状況が一向に伝わらない。じゃ 11:30 の金沢駅行きに乗ろうかと思案していたが、下山者も増え、1台で捌けるかどうかも心配になる。通行止めになる寸前、金沢駅発のバスが上がってきたが、このバスは 13:30 発とか、でも通行止めが解除にならないと動けない。時に11時を過ぎてから、復旧の目処が立たないので、皆さん市ノ瀬まで歩いて下さいと。それまでも大勢の人達が風雨のなか徒歩で下っていったが、ここにきて私達も歩くことに決心する。市ノ瀬まで6km。しかし工事関係車両は上がっても来るし、下っても行く。別ルートがあるのだろうか。この頃になると漸く雨も小降りに、雨具は上のみで歩き出す。するとS字カーブを過ぎた辺りで大型バス2台が上がって来るのと出会う。乗せて貰えますかと聞くと、下る際に乗せてあげますとのこと、期待してともかく歩く。倒木の現場を歩いたが、もうきれいに整理されていた。一抱えものブナの大木が倒れたとのことだった。湯谷林道を過ぎ、4kmばかり歩いた地点でバスが下りて来て乗り込む。大部分の人は市ノ瀬に駐車している人達、私達も一旦は降りたが、このバスはそのまま金沢へ回送するとのことで乗せてもらい、漸く帰還できた。

 再度の挑戦は旧盆前にセットしたものの、石徹白には大型バス7台もの体験ツアーが入り、全民宿とも8月3~9日と前後1日は宿泊できないとのこと、また7月下旬は南竜山荘が満員、とするとリベンジは旧盆後、今のところ8月20日~22日を予定している。

2011年7月15日金曜日

「そば」には淡麗辛口の酒が合うーそんな酒を日本酒度と酸度から知るー

 表記標題の初出は「探蕎」会報第18号(平成14年9月25日発行)である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 私は少なくとも「そば」の友としてのお酒には、これまでの経験から濃醇な甘口のお酒は向かないのではと思っている。でも真に「そば」に相応しいお酒に開眼したのは、あのつとに有名な黒姫山麓の「ふじおか」での一件があったからだと言える。あの日、「そば」に先立って所望した大吟醸酒の「鄙願」は、吟醸香がほとんどない、水にも似た飲みやすいお酒、もっと旨くて美味しい吟醸香の強い酒が他にも数多あるのにと思いながら口にした次第。ところが青天の霹靂、「ふじおか」の主人曰く、蕎麦の香りを損ねない美味い吟醸酒を求めて全国を行脚し、辿りついたのがこの酒なのですと。これを聞いたときには二の句が告げないほど大変なショックを受けました。爾来、少なくとも「そば」に相応しい蕎麦前としてのお酒は、かくあるべしと肝に銘ずるに至った次第です。
 もっとも各人各様、強要するつもりは毛頭ありません。蕎麦前といったって、熱燗もよし、焼酎もよし、好き勝手にやればよいのですが、しかし蕎麦という素材に相応しいお酒が、私なりにあってもよいのではと思っています。ではそのお酒はどんな、またそんなお酒を飲まずに見分けることが出来ないかというのが、この稿を起こした動機です。
 私は持論として、「そば」には「淡麗でやや辛口」の吟醸酒が必要な条件であるような気がしています。ところで、お酒の味の表現でで根底となるのは、「甘辛」と「濃淡」で、これはアルコール度を別にすれば、お酒に含まれる糖の分量と酸度によって決まるとされています。即ち、糖分が多く酸度が低いお酒は「甘口」であり、逆に糖分が少なく酸度が高ければ「辛口」となる。また糖分と酸度が共に高ければ「濃醇」であり、逆に共に低ければ「淡麗」ということになる。 
 お酒の味は極めて複雑で、同じ蔵でも仕込みによって味が異なるという微妙な差はあるものの、基本的には7~8割のお酒は、糖分と酸度によって、甘辛度と濃淡度によって表現できるということを、国税庁醸造試験所の佐藤・川島両氏が豊富な経験から、数式で示したとされている。しかし私はその数式にお目にかかったことはない。ただこの数式を基にして作成したと思われる図は何度か目にしたことはある。
 その概略は次のようです。
 図に示したように、横軸(X)に糖度を、縦軸(Y)に酸度をとると、1本は右上がりの線で甘辛の境界線で、線の左側が辛口、右側が甘口、もう1本は右下がりの線で濃淡の境界線で、線の上側が濃醇、下側が淡麗と表現されます。そうすると、この2本の斜線によってできる4ブロックのお酒を、右下から反時計回りに、「濃醇甘口」、「濃醇辛口」、「淡麗辛口」、「淡麗甘口」の4タイプに分けることができる。
 そこで私は2本の斜線の交点が(3.5,1.6)であることと斜度から、この2本の線の近似式を求めた。
 すると右上がりの線は     Y=0.75X-1・・・・・(1)
右下がりの線は     Y=ー0.25X+2.5 ・・・(2)
 となった。 ここで Yは酸度、Xは糖度を示す。
 ところで、お酒は糖度ではなく日本酒度で表示されている。これはお酒の比重を示す数字で、温度15℃での密度1の水の比重を(±0)とし、同温でのお酒の比重がこれより軽いものを(+)、重いものを(-)で示し、測定にはボーメ計の目盛りを10倍に拡大した比重計(日本酒度計)を用いる。即ち、糖分が増えれば比重は高くなり、糖分がアルコールに変われば比重は低くなる。つまり、日本酒度の(-)の値が大きいほど甘く、(+)の値が大きいほど辛いということになる。
 私が推測した糖度(X)と日本酒度(Z)の関係は次のようになった。
                Z=ー8.75X+28.75
 これを近似させて       Z=-8.8X+28.8・・・・(3)
 ここで得た(1)~(3)の式を基に、お酒に表示してある日本酒度と酸度から、そのお酒の甘辛と濃淡の度合いを知るチャートを作成した。このチャートは4本の目盛りの縦線から構成されていて、左から順に、日本酒度、糖度、甘辛度を示す酸度、濃淡度を示す酸度から構成される。ここでは、糖度は参考として挙げてある。このチャートを使うと、極めて簡単に、そのお酒がどういう甘辛濃淡の酒であるかを知ることが出来る。
 このチャートの使い方を例を挙げて説明する。
(1)日本酒度が6、酸度が1.2の吟醸酒の場合:日本酒度+6の位置にバーを置く。+6の位置に該当する酸度(甘辛度)は+1弱、酸度(濃淡度)は1.85弱と読み取れる。このお酒の酸度の1.2の値は、甘辛度では該当の値の上方に位置するので、甘辛度は「辛口」、濃淡度は同じように読んで「淡麗」となる。そして甘辛度はその差が0.8ごとに、「やや」「かなり」「非常に」と表現する。また濃淡度は0.5ごとの刻みとし、同様に表現する。そうすると、酸度(甘辛度)の差は 1.2-1=0.2 で、0.8未満なので「やや辛口」、また酸度の差は 1.85-1.2=0.65 で、0.5<0.65<1.0 から「かなり淡麗」となる。従ってこのお酒は「やや辛口でかなり淡麗」な「淡麗辛口」と表現できる。
(2)日本酒度0、酸度1.3の純米大吟醸酒の場合:同じように±0に該当する酸度を見ると、甘辛度は1.5弱、濃淡度は1.7弱となる。これとこのお酒の酸度1.3と比較すると、甘辛度は0.2弱下方なので「やや甘口」、濃淡度は0.4弱上方なので「やや淡麗」で、このお酒は「やや甘口でやや淡麗」な「淡麗甘口」と表現できる。
 このチャートでは、日本酒度は +28~-24(糖度 0~6%)、酸度(甘辛度)は -1~3.5、酸度(濃淡度)は
1.0~2.5 の範囲のお酒で活用することができる。
 参考書  日本の名酒事典/講談社(1990)、秋山裕一:日本酒(岩波新書)岩波書店(1994)

2011年7月14日木曜日

平成14年度越前そば第二次探訪行

 表記標題の初出は「探蕎」会報第19号(平成14年11月5日)で、行事があったのは平成14年9月27日である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 越前そば探訪第二次行は第一次行の2週後の9月27日の金曜日。当初の事務局からの案内では、「森六」と「うるし屋」だったが、当日会長からの御言葉では、一に「丸岡蕎麦道場」、二に「宿布屋」、三に「モリグチ」の予定とか、思うに、一は会長の独断、三は久保世話人の御推奨とみた。午前10時近く、当会お馴染みとなった某駐車場に集合し出発する。総勢8名、うち会長以下3名は第一次行にも参加している。6名は相川社長と前田事務局長の車に分乗、相川車を先導に、新神田経由野田専光寺線回りでゆっくり金沢西ICへ向かう。曇り後雨の予報だが、何だか持ちそうな気もする。高速道に入り、時速100kmで南下、女形谷PAで休憩、此処で私に印象記執筆の御下命、丸岡ICは程近い。高速道を下りて暫らく、前田車がポリスに誘導された。はて、でも秋の交通安全運動期間のキャンペーンと分かって一安心。霞保育園の園児と保母さんからワッペンと芳香剤を貰い、相好が崩れる。曰く「よそ見しないで運転してね」と。程なく海道電機店に、そして兄貴さんに先導されて道場に着いた。
1.丸岡蕎麦愛好会・丸岡蕎麦道場
 道場は坂井郡丸岡町長畝の海道清次さん宅の倉庫にある。立派な墨蹟の道場の看板が鎮座する。今は百俵とも思しき米袋が積み上げられ、見回すと、延し台十数組、捏ね鉢、駒板、蕎麦包丁、生舟、大きな電動石臼、電動おろし器、大鍋、強力バーナー等々、さすが道場と感心する。釜の傍にはパイプから清水が迸り出ている。冷たく美味しい。訊けば、近くを流れる竹田川の伏流水を井戸からポンプアップしているとか。勿体ない限り。羨ましい。そして左中奥には、こめぐらマルチストッカーと読める大きなプレハブの低温貯蔵庫が2機、温度11~13℃、右奥には、10人は掛けられるような大きな白木のテーブルがある賞味室、至れり尽くせりである。室の右手上方には、福井県知事認定そば匠第20号の認定額、福井県では現在36名を数えるとか。今日は愛好会の会長の海道さんの生粉打ちと、明日予選出場の佐藤さんの外一が用意されているとか、それぞれ今朝9時挽きのそば粉1.5kg、楽しみの始まりである。愛好会は現在28名、今日は会長さん以下5名の方の世話になる。
 少々時間があるとかで、蕎麦畑を見に行く。海道さんの蕎麦畑は10町歩とか、四方に白い蕎麦そば蕎麦の花が一面に広がっている。見事としか言いようがない。蕎麦自体も立派で、丈も揃っている。鳥越の三つ屋野など全く目じゃない。桁が違うという感じ。風がそよと吹いた。と、えも言われぬ匂いが、馬糞かな、鶏糞かな、愛好会の方が言われたことは本当だった。初体験。
 海道さんは専業農家、作付けは20町歩、半分の10町歩を交互に、稲は春に植えて秋に収穫、秋には麦を蒔き翌夏に収穫、麦の後にはお盆過ぎに蕎麦を蒔き晩秋に収穫、翌春には再び稲をという1.5毛作を実践される勤勉篤農の人、凄いバイタリティーを感じる。
 帰倉すると、延しも上がりの工程、角出しも終わり、畳み込まれ、切りに入る。リズミカルに駒板と包丁が動く。堂に入っている。そばの束が桐と思しき生舟にきれいに並べられて、打ちは終わった。傍らで大根のおろし汁が瞬時に作られる。
 やがて、沸騰した大鍋に、そばが捌かれて入れられる。茹では2分弱とか、上げられ、傍らの豊富な冷水で〆られる。出来上がり。四立てを見届けて、奥の部屋で待機する。
 茗荷と舞茸の天揚げが出る。この時期、山菜・木の芽がないとの断り付き、浅葱の輪切り、竹田の豆腐も出た。始めに生粉打ちの「おろし」、仄かな香りと適度な歯ごたえ、堪能し、もう一皿所望する。会長持参の松江の特別純米酒「李白蛾眉山」が実に合う。差し入れに越後の「雪中梅」本醸造も出た。至福の時が過ぎる。暫らくして蕎麦と豆乳のムースが出るという。何とも器用な面々である。汁も自家製とか。好みは各個人それぞれとか、さもあろう。
 次いで外一が出た。喉越しはこちらの方がずっと良い。伺えば、催しなどでは二八が最も人気があるとか、十割に拘ることはないのかも知れない。また二皿頂戴した。見れば局長も同病のようだ。曰く、他処は止めにして、此処で打ち止めにしては。丸岡では、そば屋が育たない訳が分かろうというものだ。でも、後の二軒を割愛するという訳にはゆくまいて。他の面々は適度に調整されている様子、涙ぐましい努力と言うべきか。
 しかし、この端境期に、この味。通常の貯蔵では、夏を越すと間違いなく味が変わってしまうのに、此処では温度のみでなく、湿度管理もされている。昔はよく乾燥して貯蔵したらしいが、今は半乾きの状態がベストとか。波田野会長が今年の収穫の段取りはと、含みを込めてやんわりと海道会長にお尋ね。お答え、始まりは11月3日、終りは20日頃、初賞味は11月6日頃、蕎麦の実がこぼれる前に刈り取るのが原則だが、近頃はもう少し早めにという要望が多いとか、その方が香りが良いそうである。何とかして、再びこの道場を訪れ、「新そば」を賞味できないものか。
 終りに近く、両会長じっ懇の内科医の福岡先生が見えられた。先生はオーバーワーク気味の海道会長の健康管理医でもある。大のそば好き、そば談義に花が咲いた。先生は午後の診察があるとかで先に帰られた。我々も感謝々々で道場を辞した。
2.一乗滝
 高速で丸岡から福井へ、下りて朝倉遺跡へと向かう。道すがら、彼岸花ともいう真っ赤な曼珠沙華が実に印象的だった。遺跡を通り過ぎ、一乗滝へ着く。縁有りげな佐々木小次郎の像、滝には注連縄、ただ滝口が放水口のようで、風情は今一。寺田・橋場・木村の3人が滝口を実状視察、すると案の定、右岸の岩に導水路が穿たれていた。自然の方がどれだけか良いのに。
3.「宿布屋」
 返して、旧知の「宿布屋」に至る。チャボが沢山いる。雄が多い。鶏の習性からして、共存しているのが不思議だ。入ると、右手に「当店はおろしそば一本」とある。500円。土間と上がり框、机が三つ、田舎丸出しの素朴さ、でもそれが此処の魅力でもある。暫しの後に「おろしそば」が運ばれる。黒い平打ちの田舎そばに辛味大根のおろしと葱、新そば入荷とあったが、北海道産なのだろうか。汁が掛かっていて香りは判じ難いが、味からはどうもそうらしい。でもこの固さと歯ごたえには、好き嫌いがありそうだ。
4.「モリグチ」
 有料の永平寺道路で山越えして、大野往還を「モリグチ」へ。クリーム色の瀟洒な洋館、しかし定休日で扉は閉まっていた。看板にはソバの字はなく、扉に小さく品書きが、憎い。またの来館をということか。
5.平泉寺・白山神社
 往還を更に東へ、勝山城を過ぎ、平泉寺に至る。往時は六千坊もあったとか、白山越前禅定道の登拝口である。禅定道は他に加賀と美濃があるが、現在石川県側から最もよく登られている登路は、越前禅定道の 越前平泉寺ー三頭山ー小原峠ー加賀市の瀬ー白山 の後半部なのである。腹ごなしと称し、大杉が林立する参道を平泉寺拝殿、更に白山神社本社へと至る。戻って、小生を除く七人衆は名物のソフトクリームに舌鼓。実に満足そう。
6.「勝山食堂」
 三軒目は前田局長の推薦で「勝山食堂」となり、往還を勝山市内まで戻る。時に午後5時、中に入る。堂内は広くない。机が4脚、さすが食堂とあって、何でも有り、「おろしそば」を所望する。そばに先立ち、福井県産の蕎麦で醸した蕎麦焼酎「越前おろしそば職人」のそば湯割を頂く。身体中に浸み渡る。程なくそばが来る。そばは二八か、そば皿に盛られ、上には葱と鰹節、別におろし汁、典型的な優等生スタイル。見た目にも実に清々しく正に最後の〆に相応しい。これにて今日の打ち止め。素晴らしい一日であった。闇の中、谷峠を越える。漸く雨がポツリと来た。

2011年7月12日火曜日

東海・伊豆蕎麦銘店探訪 初日の巻

 表記標題の初出は「探蕎」会報第15号(平成13年12月6日発行)で、行事があったのは平成13年(2001)11月9~11日で、標題はその初日(11月9日)の印象記である。  「晋亮の呟き」に転載する。

1.はじめに
 いよいよ探訪の日、車に乗り込んでいそいそとしていると間もなく、「木村君、君今回の探訪記を書き給え」と師匠波田野会長の御託宣、暫らく楽をしていたものだから、そろそろかなと思っていたらやはり、覚悟はしていたものだから、すんなり引き受けてしまった。しかしささやかな抵抗、「初日は面倒見ましょう。しかし、二日目、三日目は何方かに・・」。会長も弟子可愛さに、じゃあと、二日目は太田宮司に、三日目は頼子お嬢に決まった。
 さて、書き始めて、案内には「銘店」とあったが、「名店」ではと辞書を繰ると、名店は有名な店とある、が銘店はない。ではと類語を見ると、銘木と名木があった。前者は形・木目・材質に趣のある木材、後者は由緒があって名高い木、優れた香木とある。となるとやはり案内の「銘店」が今回の探訪に相応しいか。
2.出 立
 霜月九日、明けやらぬ薄闇のなか、とある私設ではあるが準公設ともいえる無料駐車場に、会長以下総勢十五名の面々が集まり、賃貸し自動車に乗り込んだ。狂牛病のとばっちりで涙ながら不参の塚野名人と風邪で初参加は御夫人のみとなった和泉旦那が見送るなか、正六時に西金沢を出立した。運転は言わずもがな探蕎会専属のお抱え?とも言える名運転手の砂川旦那、お陰で残り十四名の面々は大船に乗ったようなもの、加えて人間ナビの久保旦那が水先案内とあっては、何の心配も要らず、久保・今村両会員差し入れの銘酒を飲みながらのほろ酔い道中となった。
3.島田の藪蕎麦「宮本」
 高速を北陸・名神・東名と乗り継ぎ、三時間足らずで吉田に至り、此処で下りる。北へ向かうと、程なく今日のお目当ての銘店「宮本」らしき「蕎麦商」の看板が左手前方に見えた。名はない。車通り激しき道路に自動車を止め、久保旦那が尋ねに入る。と、正に「宮本」そのものであった。正にナビ、車から降り、そぞろ店に入る。入ると左に曰く有りげな巨石、時に午前十一時八分、まだ他に客はいない。
 店は、上がりの間の四客三机、奥の間に四客二机、相席ならば二十名を擁することができる。所は静岡県島田市船木二五三の七、店の名は「藪蕎麦・宮本」、営業は午前十一時半から午後四時まで、売り切れ御免、予約不可とある。「そば」はすべて自家製粉、玄蕎麦は契約栽培、限定で手挽きも、「そばがき」は前日予約、等々。
 三々五々、奥の間に八名、上がりの間に七名が陣取る。残りは一机のみ。主人ならずとも占拠が気になる。座ると間もなく、細君と娘と思しき女人が、高さは二寸はあろうか、末広のお湯割が似合いの陶器の杯を配り、中は特製の水だと、在り来たりの店ならば蕎麦茶を供するのだがと思いながら口にする。何の変哲もない?と感じたのでは、浅学非才、味盲の誹りを受けよう、銘店とはかくあるべきなのか、先制強打を浴びる。さて、ともあれ、「そば」に先立ち、先ずは冷酒の「水酒」、それに酒の妻には何をと頭を寄せていると、細君曰く、『予約で聞いているのは「そば」だけですけど』、度肝を抜かれ、ではと「水酒」と「ざるそば」を所望する。程なくすっと「水酒」が塗りの一合枡に正一合、白い角の受け皿に鎮座して出される。天然塩と蕎麦味噌が酒の友、今時塩とは実に憎い。正にこれは美味しい水そのもの、あっと言う間に一合は消えた。もう一合は頼まねばなるまい、と思案していると、その時、奥の間から頼子お嬢が、続いて和泉夫人が、我が飲兵衛連の机に、合わせて二合も差し入れてくれたではないか、感謝感激。隣の机の連にも振る舞ったのは言うまでもない。
 ややあって「ざる」が出される。出てくるのは一度に三枚三人止まり、小振りの笊に細打ちのそばが貴重品のように、まるで河豚刺しか禿頭にある残り少ない頭髪のように載っている。汁は辛い。先ず数本をそのまま食する。芳しいそばの香りがする。もう一度そのまま、後は汁を極少々漬け、ずずっと一気に飲み込む。この時発するずずっは決して無作法ではなく、むしろそばを味わうに最も適った作法とか。細打ちのそばには薬味も邪味になるとか、となると、水そばが一番か、塚野流蕎麦道である。そばの腰も喉越しも申し分なく、絶品、心酔した。そう言えば、珠洲上戸の「さか本」を思い出した。
 一度に三枚、一枚目が皆に行き渡るのに十五分はかかろうか、もう一枚所望する。わざわざこのために朝飯を抜いてきた御仁もあり、気の毒としか言いようがない。一枚ではとても腹の足しには到底なり得ない。五枚は必要か、だが、一枚八百円、追加六百円、とすると三千二百円、とてもじゃないが二の足を踏まざるを得ない。汁は別。而して「ざる」は二枚、そして欠食の人を慮って、更に石臼手挽きの田舎そばを一枚と相成った。「田舎」は幾分太め、笊中央に盛られている。星が綺麗だ。量は「ざる」と同じ、大食漢なら二口か、誰言うともなく「たかうまそば」、正に言い得て妙、しかしうっまい。
 蕎麦湯が来る。盃に少々入れてみる。透明だ。聞けば、そんなにまだ茹でてないからとか、しかしややおいて次に出てきた蕎麦湯も濁っていない。何か訳有りげだ。
 肴も賞味と、「にしん棒」千五百円と「天ぬき」千六百円を各机に一品ずつ、季節ものの「合い焼き」千七百円を一品注文する。「にしん棒」はもちろん自家製、辛めの汁でことことと一週間炊いた飴色の逸品、上等の酒の妻、「天ぬき」は古伊万里風の染付け碗にぷりぷりの小海老のかき揚げ天麩羅が薄味の汁に浮いていて、汁が何とも旨い。「合い焼き」は食べそびれたが、脂がのっていて美味しかったろうなあ。
4.店主の宮本さんに聴く
 会長が例によって主人にお話を伺えませんかと細君に持ちかけたところ、けんもほろろに『うちの主人は話し下手で、人前ではとても話せません』とのこと、諦めていたところ、急転直下、『応じましょう』ということになった。総勢十五名、奥の間に集まり、代表質問は自然の成り行きで波田野会長がする。
「池の端の藪で修行なさったとか」。
『そうなんです、十年近く。それで池の端の藪の浜松支店を出さして貰ったのですが、台風で潰れ、それで故郷の島田へ帰り、そば一筋にやって参りました。初めは大変でした。漸くという感じです。もう二十年を超えました』。
「玄蕎麦はどちらのものを」。
『福島、それに四国の祖谷です』。
「最初に出てきた水は」。
『水道水をある仕掛けを使って濾過したものです。井戸が掘れないんです』。
「あの水酒の銘柄は何ですか」。
『県内のものです。水で薄めては居ません』。
「一盛り何瓦ですか」と前田事務局長の関連質問。
『特に。適当です』 はぐらかされてしまった。
 ややあってー
『実は来週か再来週、娘と母が金沢へ行くのですが、加賀料理と蕎麦の店を推薦してくれませんか』。
 そうか、合点がいった。我が意を得たりと、異口同音に推奨の店が飛び出る。
「それなら木倉町の五郎八」、「それより大工町のよし村」、「いや、並木町の魚常」。
 ただ何故か、蕎麦は草庵しか出なかったような気がする。
 御主人は磁器が好きで、中でも古伊万里に興味を持たれているとか、そう言えば、夥しい猪口の収集、それに出てきた碗を見ると頷ける。
 この間、客二組、そろそろ占拠を解かねば、・・・。
5.柿田川公園の湧き水
 辞して、高速で沼津へ、三島に入る。「究極のそば」なる看板が目に付く。
 柿田川の散策は雨になった。小生は初めて、再来の人の言では、湧水の量の減が目立つとか。誘われて散策に、土の路と木道と、途中に赤紫の釣り花を付けた釣船草と薄赤の集合花の溝蕎麦の群落を見る。昔の田舎を想い出す。紫の東国薊も散見された。
 ふと、湧水量の減は、もう何十年もの間、毎年々々、登山者の糞尿を富士の御山へぶちまけて来たので、目詰まりを起こしたせいなのではと思ったりする。その富士の伏流水とやらを口に含んでみる。冷たいともっとキリッとして美味しかろうにと思う。
6.新井(あらゐ)旅館
 銘店探訪初日の宿は、修善寺温泉の新井旅館、文化財の宿と銘打ってある。一棟を除く十五棟が登録文化財とか、恐れ入る。宇治平等院を模したという玄関を潜り、探蕎会一行は桂川の清流を導き入れたせせらぎを大きく跨ぐように架けられた、これも文化財の「渡りの橋」を渡って、寝所の総赤松造りの霞の棟に入る。文人墨客が逗留したという由緒ある部屋々々、心が静まる。窓下には桂川の流れ、瀬を流れ下る川音は、ゴウゴウと聞こえ、雨がザアザアと降っているようにも聴こえる。川に迫り出した以呂波楓の紅黄葉が綺麗だ。別天地。よくぞこんな素敵な宿を選定して頂いたものだ。深謝する。
 先ずは、この時間殿方が入れる天平大浴堂へ、大浴場ではなく大浴堂であるところが文化財の貫禄か。巨大な自然石を利した天平風の堂、直径が四十厘米もある檜の柱が十五本、これが堂を支えている。高い天井、天頂には湯気抜き、何とも不思議な気分である。天然の岩風呂。近代の設備は何も無い。洗い水は、木製の掛け湯桶で、お湯と水とを汲んで混ぜ、程よい温度にして用いるという、文明とは隔絶した世界。
 お湯はこのほかに野天風呂の「木漏れ日の湯」と「あやめの湯」、こちらは午後一時から夜中の十二時まで姫方、殿方は午前零時からとなる。野天は明朝にしよう。
 午後六時半、御夕宴会、席には今夕の献立書、晩秋の十一品が記されてある。曰く、先附に始まり、小菜、御碗、造里、焼物、煮物、油物、留肴、留椀、香物、水菓子。一品ずつ出る。酒は「富士の山」かと問えば、「天城山」だと、本醸造の熱燗。
7.おわりに
 今日は花金、お陰で満室、二人付く筈の仲居さんが一人で転手古舞い、わけても新人なのか捗が行かない。それでも招福の一時を過ごす。七代目若女将が挨拶に、多少の不都合は帳消しだ。宴は盛りを過ぎ、中締め。明日はこの旅館の文化財の案内を特別にお願いする。
 初日も終わりに近づき、漸く開放の時を迎える。明日も明後日も伸び伸びと振る舞えるぞ。至福の時を過ごせるぞ。開放感が漲る。でも、手放しで喜ぶわけにはゆくまい。帰ってからの作文がある。気懸かりだ。

2011年7月11日月曜日

蕎麦屋情報:珠洲「さか本」と岐阜「胡蝶庵」

1.珠洲上戸に「さか本」を訪ねる
 上記標題の初出は「探蕎」会報第4号(平成12年5月8日発行)で、訪れたのは平成12年(2000)4月14-15日である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 薄曇りの4月14日の昼、かねて「草庵」庵主夫妻推奨の珠洲上戸の「さか本」を訪ねるべく、有志6名、羽咋市兵庫町の「多門」に落ち合う。絶品の30回転石臼手挽き、粗挽き十割の蕎麦切りと蕎麦掻き、萬歳楽を賞味後、久保車に波田野会長と松原副会長、木村車に太田、小塩両氏が分乗し、一路珠洲へ向かう。午後6時には少々間があり、突端の禄剛崎へ回る。珠洲岬の丘は風荒び空霞み、佐渡や立山は言うに及ばず、七ッ島も見えずも、暫し連翹と藪椿と鶯の丘を散策する。丘に「此処が日本の中心」と称する碑があり、此処からは釜山より浦潮斯徳が近いとある。海沿いに珠洲市飯田に戻り、小径を辿り上戸寺社の「さか本」に入る。一見民家風、桜が数本植栽されている。蕾膨らむ風情、週余で満開か。裏は孟宗竹林と杉林、辺りに畑と水田、野放しの地鶏、田舎の原風景そのものである。二犬の歓迎を受け、土間に靴を脱ぐ。黒塗りの板廊下を渡り、火袋のある部屋へ案内される。囲炉裏には炭火が熾り、郷愁が感じられる。暫時後、お湯に入る。聞けば、少量の鉄分を含む鉱泉とか、源泉は中庭の薬師如来を祀る祠の前にあり、滾滾と湧き出る。薄闇が迫る頃、囲炉裏を囲み、箱膳で夕食となる。酒は地元の「宗玄」に非ず越中の「立山」、先付きに手造りの寄せ豆腐が出、ややあって今回お目当ての「そば」が運ばれる。太い孟宗竹の浅い受け皿に小振りの水切り丸笊、その上に微小な星が点々とした細打ちの「そば」が鎮座、早めに食するように促される。お代わりはないと、また予約がなければ出さないとも、また此処は蕎麦屋に非ずとも、賞味するには余りにも量が少なく、逸品とありまるで貴重品扱い、物足りなさを感ずる。蕎麦は地元高屋の産とか、石高は少なく、刈取り時期も吟味し、収穫後の管理にも万全を期しているとか、亭主の拘りを感ずる。料理は次々と出される。地元の山海の珍味の数々、自家製の品も多く、堪能する。宴の後、青蛙の大合唱を聴き寝入る。牛鼾あるも、鶏鳴で朝を迎える。赤米地鶏卵での朝食後、一夜の宿を辞す。帰路、七塚白尾の「かめや」で談笑し、散会した。

2.つなぎなしの石臼挽き蕎麦の「胡蝶庵」
 上記標題の初出は「探蕎」会報第11号(平成13年2月12日発行)の蕎麦屋情報としてである。訪ねたのは平成12年(2000)11月18日である。「晋亮の呟き」に転載する。

 11月18日、岐阜市で開催された日本感染症学会中日本地方会に出席したのを機に、かねて訪れたいと願っていた胡蝶庵へ出向いた。前田局長より地図の入った案内をFAXして貰ったのを見ると、会場の未来会館の西方2km、午前11時に合わせて出掛ける。しかし貰った地図の場所には見当たらない。聞くと、踏切を渡った向こう側で、用水の際の場所に移ったとか。そして看板は出ていなくて、田舎家風の目立たない感じの店ですと。後で店で聞いたのでは、今の店は旧店の北西300mとか、3年前に移転したという。新住所は、岐阜市日光町3丁目26。近くまで来ても分からず、通りがかった人に問うと、真ん前を指差す、やっと辿り着けた。見れば小さな表札に、片や胡蝶庵、片や仙波浩と書いてある。これじゃ一見の客には分かるまい。
 外観は蕎麦殻色、平屋建て、7台駐車可。入り口に「十才以下御入店お断り」「毎週月曜休」「午前11時から売切れ次第終了」「店内禁煙」「御一組四名様迄」とある。入ると、南天、千両、万両、蛇の鬚、楓の植え込みを左に、敷石を踏み、屋に入る。中は薄暗い。一瞬未だなのかなあと思う。案内を乞うと、どうぞという声、白いブラウス?に黒のズボン、やはり仄暗い空間に美女二人。小生が今日初の客だ。「おろし」を所望する。品書きには「つなぎなしの石臼挽き蕎麦」と銘打ってある。程なく運ばれて来た。そばは殻付きのままの粗挽き、星が大きい、それで細打ち、量は少ない。長野親田の辛味大根の一撮みが鎮座、出汁をかけてお召し上がり下さいと。仄かな香り、そして何とも言えない喉越し、「多門」のそばを洗練するとこうなるのかもと。これで酒をじっくりととなれば最高なのだが、学会へ戻るとあって控えた。そば湯も粉を溶いたもので濃く、葛湯のようだ。今一つ、「そばがき」を所望、時間が掛かるかと思いきや、ややあってすぐに出てきた。これは田舎風、粗挽き粉を湯で捏ねたもので、一寸硬め、ふっくらとお餅の様なとは程遠い感じ、生山葵点付、粗塩と生醤油が付くが、塩の方が良い。祖母の味を想い出した。
 席は1卓4人座席で、14畳に3卓、6畳2間に各1卓、計5卓あり、Max20人座れる。

2011年7月8日金曜日

探蕎会有志「はざま」でワインを飲むの記

 表記標題の初出は「探蕎」会報第8号(平成12年10月14日発行)で、行事があったのは平成12年9月29日である。 「晋亮の呟き」に転載する。

 9月28日午後、探蕎会事務局の前田局長から電話。若手でのワインの会を午後7時に開くと、エエッいつですか、明日です、場所は何処ですか、「はざま」、平仮名です、何処に在るのですか、中署と北電の間を入って行くと左にあります、会費は幾らですか、料理5千円、ワイン5千円です、分かりました、じゃ行きます。日と場所は連絡済の筈とか、全く記憶にない、そう言えば、草庵での月見の宴で一寸小耳にはさんだ気もするが。
 翌29日、愚妻からは小立野行きのバスに乗車して、県庁前で下車するよう指示されたのだが、目前で乗り遅れ、次便の金沢駅行きに乗る。片町で下車、近道をと竪町へ進入、この方向とばかり歩くがここは迷路、しかも足元暗く、気は焦るが、どの辺りかも見当がつかず、苦悶する。アンテナが見え、苦闘四半刻後、漸く観光会館に達する。裏道を中署の裏から件の通りを見渡すが見当たらない。通りの左側と聞いたはず、と、通りの右奥まった処にボンヤリ明かりが見えるではないか、どうやら「はざま」に着いた。
 来店の趣旨を伝えると、どうぞと、貸切りと聞いたのに客がいる?。と、こちらへと、店を通り過ぎ、裏勝手を抜け、洋風の建物に案内された。居た、面々が居る、でも若手の会と聞いていたのに、そうは称し得ないと思しき御方も見えるではないか、でもまあいいか。会費をと促される、シンガリであった。
 主宰の永坂先生と米田お嬢、時計回りに、砂川妻君、小塩、石野、前田、太田、松田、木村、砂川夫君の順に着席、資料に基ずく講釈が始まる。本日のワインリストを見ると、シャンパン以外はボルドーで揃えましたとある、驚いたり感激したり。配布の「私とワイン」というエッセイは、御仁がカリフォルニアとボルドーには滅法煩いことを物語っている。そう言えば、先生の事務所で、飲み干された戦利品のコルク栓が、ザクザクあったのを想い出した。今夜の講釈での垂涎の的と言えば、ソムリエをやっつける?方法か、ソムリエだけがオールマイティーではないと、だが一回の受講で身につくとは思えず、数回の指導が必要か。ほかにも、親切な手頃なワインの買い方見分け方、場に合ったワインの選び方等、何とも、痒い所に手が届くとはこのことか、感じ入る。
 開宴、メニューは別記のとおり、頂いたのは邦書であったが、折角なので仏蘭西語に直した。邦書は注書きにした。ワインは別記リストのよう、始めに若手の長老小塩氏の発声、シャンパンで乾杯、白に岩の原ワインが追加され、オードブルも出てきた。そして待望の赤、若手中の若手の前田局長が、持参のソムリエナイフで格好良く、らしき振る舞いで目を惹く。4本が揃う、ここで酸化の間を見計らい、また一講釈。
 一々グラスを替え、味わう。どれも美味、中でもメドック第二級の1987年の赤は、落ち着いた枯れた味、チーズが出て、パンも出て、局長はこれだけでも充分とか、小生も同感する。料理はやや過多?、それともこの面々数では、酒量がやや不足?か、でも久し振りに堪能した。快哉。惜しむらくは、雰囲気に合ったグラスが、持参してはとも、これは今後の懸案だ。ワイワイ、ガヤガヤ、時に講釈あり、2時間はあっという間、瞬時の間に3時間が経過、料理が若干残る。お開き少し前に、局長の妻子が見えられる、あの赤は飲まれたのだろうか、奥方に残した筈なのに、それとも、うわ蛇(ばみ)がいたか、定かではない。今宵の受講で、瓶底の形状、コルク栓の長さ、と中身の質、これらに深い関係があると知ったのは、収穫であった。
 散会後、厚かましくも、局長の奥方に自宅へ届けて貰う。忝い。愚妻は麦酒を御飲みで御座った、「飲み過ぎには気を付けてね」と。
 閑話休題
 会がお開きになってから、局長から今夜の印象記をと、番外だから止めましょうと小生、ところが会長、副会長、御承認の集いですぞと、他の面々もいるのに、でも送り届けられる弱みもあって、引き受けて了った。阿々。

 以下に Vin Liste と Menu を記す。本来なら全部横文字で書きたかったが、アクサン記号が出ないので、読みをカナで記した。 [ ]内数字はビンテージのランク、20点満点。

● ヴァン・リスト
1.ランソン・ブラック・ラベル・ブリュット(シャンパーニュ)
2.シャトー・タルボ・カイロウ・ブラン 1997 [17](サン・ジュリアン・メドック・ボルドー)
3.シャトー・マイーヌーギュイヨン 1995 [19](プレミエール・コートゥ・ドゥ・ブライェ・ボルドー)
4.シャトー・ラグランジュ レ・フィエフ・ドゥ・ラグランジュ 1994 [17](サンジュリアン・メドック)
5.シャトー・ラグランジュ 1996 [19](サン・ジュリアン・メドック・ボルドー)
6.シャトー・レオヴィーユ・ポアフェレ 1987 [14](サン・ジュリアン・メドック・ボルドー)
7.イワノハラ・ワイン(イワノハラ・ナガノ)

● ムニュ
1.オルドゥーヴル
  ムース・ドゥ・ポアヴロン マリネ・ドゥ・ポアソン・カワハギ フィーグ・ブラーンシュ・フリット
2.フロマージュ・ア・クルート・フルーリ・エタ・パート・ペルスイェ・ア・ラ・メゾン
3.パストゥラミーポール
4.カナール・コンフィ
5.ポタージュ・オ・シャンピニョン・シイタケ
6.グラタン・ドゥ・コンクイーユ・サンージャック・ア・ラ・ジャポネ
7.バール・ポアレ・オ・シャンピニョン・ブローンド・オ・バズィリック
8.スィヴェ・ドゥ・ラパン
9.コンポート・ドゥ・ポアーレ・オ・ヴァン・ルージュ
10.パン・エ・ブール 

2011年7月6日水曜日

探蕎会有志「越前そば道場」で自前手打ちのそばを賞味する

 表記標題の初出は「探蕎」会報第4号(平成12年5月8日発行)で、行事があったのは平成12年(2000)4月23日(日)である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 夜来の雨も朝には上がり、総勢13名、3台の車に分乗し、福井市福町の中山重成氏が主宰する「越前そば道場」に向かう。金沢西インターから小一時間、予定の午前11時に四半時早く道場に着く。道場主の中山さん、当会会長とは7,8年のご縁とか、小生も当時福井県衛生研究所所長であった会長のお供でかれこれ2回訪れている。かの動物王国のムツゴロウ氏を彷彿とさせる人懐かしい風貌、見せられる為人、藍染の作務衣に箱帽姿でお出ましになる。庭は丹精に手入れされており、玉砂利に新緑が映える。磨き上げられた欅の式台から板張りの道場に導かれる。正面に道場主中山さんと師範数名の名が記された札が掛けられている。これは以前には無かったものだ。
 会長が中山さんの簡単な紹介をされる。中山さんは会長が福井衛研に赴任されて以降の知己、知る人ぞ知る、福井県麺業組合の大ボス、かの「めん房つるつる」の総帥でもある。初めての出会いは何か食品関係の会合だったと聞いたことがある。ややあって、中山さんが口を開かれる。過去二回とも作業に入る前に御高説を承ったが、今回も当然のことと腹を括っていたが、今回はあにはからんや、蕎麦の薬理効能ばかりでなく、「越前そば」自説無責任ルーツ、「献そば」なるパフォーマンス、質問に答えての「おろしそば」への拘り、そして「玄蕎麦」と「辛味大根」の品種選びや栽培育成の経過等々、初めて拝聴することも多く、大変興味ある講話だった。以下に掻い摘んで記そう。但し、一応メモは書き取ったものの、案の定判読困難も多く、従って極めて正確を期し難く、確認を取ることもなく、独断と偏見に満ちた記述となった。であるからして、後日もし必要ならば、何方かが誤りを正していただければ幸いである。お許しを乞う。

Ⅰ.中山さんの講話の要旨
1.越前そばのルーツ
 ルーツは400年前、正確には399年前に遡るという。関が原の合戦が終わった翌年の慶長6年(1601)に、現武生の府中に封じられた本多富正公に同行した金子権左エ門なる蕎麦師が、今日いう「おろしそば」を越前に伝えたと言う。ただ文献はない。しかし反論するデータもない。従って史実が出てくれば、潔く撤回するとも。自称無責任ルーツという所以である。当時の庶民は、稗、粟、蕎麦を食していたが、そばの食べ方としては、恐らくそばがきだったろうと思われる。しかし既に宮家では、公家がそばを延し、線状に切ったものを食したという記録があることからすれば、殿様が庶民の食するそばを、切りそばとして、大根のおろし汁に醤油で味付けした出汁をかけて食したのではということは十分あり得るのである。爾来400年、正に来年がその年に当たる。
2.そばの普及
 中山さんは昭和60年(1985)、越前名物の「おろしそば」に風格を持たせるべく、普及のための施設を建設した。当てにした建物は昭和初期に建てられた総欅造りで、頼みに頼んで譲り受け移築したもので、名称は思案の末、修行の場とも言える道場の語句を入れて、「越前そば道場」とした。今日あちこちに見られるそば打ち体験施設「そば道場」の元祖である。一方で蕎麦栽培を農家にお願いしたが、当時は田一反当たりの収入が、米では20万円なのに、蕎麦では2万円と10分の1、とても難儀されたようだ。しかし米作の減反に乗じ、蕎麦栽培をお願いし、また丸岡町長という強力な助っ人にも恵まれ、蕎麦作りが軌道に乗った。
3.そばの特徴
 そばの特徴としては、(1)短期促成型の植物で、種蒔きから収穫まで75日、盆過ぎに蒔けば十月末には収穫できる。これに対し、米は120日、麦は6ヵ月かかる。(2)タデ科の植物でヤセ地を好む。風などで倒されても、倒れたところから立ち上がる大変自生力の強い植物。昔は篭城食として、城中でも栽培された。(3)栄養面からは薬草的位置付けができ、昔はこの効能は知られていなかったと思われるが、体内浄化作用がある。ルチンの効能は知っての通り。正にそばと大根おろしの組合せは長寿食そのものである。
4.献上そばの奉納
 中山さんらしい発想である。平成12年(2000)1月15日、中山さんの肝いりで、福井そば愛好会の面々が、全員白装束に身を固め、神式に法り、いかにも古来から伝承されていたかの如く、選ばれた三人の名人蕎麦師が蕎麦を打ち、松平春嶽公ゆかりの佐佳枝廼社神楽殿に奉納した。後見役はもちろん中山さん、紋付、羽織、袴の出で立ちで、打ったそばを三宝に載せ、恭しく奉納したとのこと、目に浮かぶ。会長から「年中行事にしたら」との提案に、「当然そう考えています」とのこと、「今年よりもっと厳粛に」とも。あの説によれば、来年が正に伝来400年、盛大に行なわれることは想像に難くない。会長の参加申し入れに、中山さんは「いいとも」、ぜひ観覧したいものである。
5.越前蕎麦の栽培
 福井の土地に合った蕎麦を栽培すべく、昨年、玄そば振興協議会が約100種もの蕎麦を栽培し比較したところ、大野と美山みやじの在来種が、強くて栽培しやすく、美味しく、かつそばになりやすく、協議会としてはこの2品種を奨励しているとのことである。玄そばは原則として経済連に集荷され、品質管理、保管を行なう。蕎麦専用の乾燥機も設置されているとのことである。本格的である。売買は福井県内の製粉業者との間でのみ行い、協議会が行司役を勤める。
6.おろし大根
 これまで福井の「おろしそば」に用いる大根は、全く千差万別で、通常のものから、拘りの辛味まで、様々であった。そこでやはり福井の土地に合った辛味大根を求めるべく、昨年は園芸試験場の川崎さんが中心となって、20品種につき調査を行い、食味や風味等の試験で5種に絞ったとのこと。今年はこの5種につき、栽培地による差を検討するとか。栽培する土地の土壌が微妙に影響することが考えられるためという。因みに、砂地の栽培は大根には向かないそうである。
7.本来のおろしそばのあるべき姿
 「越前おろしそば」は、正式には、そばを水切り後、浅いそば皿に盛り、大根のおろし搾り汁に生醤油を加えて味付けしたつゆを、人数分大きな器・鉢に入れ、それに薬味として、おろした辛味大根、刻み葱、削った鰹節、一味や七味唐辛子を添えて出す。食する人は、自分の好みで、適量のつゆをかけ、好みの薬味を載せて食する。肝要なことは、そばの味を引き立てるようにすることで、無闇と辛いおろしそばでは、そばの味がしなくなるとも。これはけだし名言で、付け入る隙がない。辛ければ良いというものではないとのことである。とすれば、これはそばと酒との関係もかくあるべきで、どんなに上等な酒であっても、そばの味を殺す酒は、そばとの相性は良くないと言わざるを得ない。
8.「越前おろしそば」の頒布
 越前おろしそばは、福井へ来なければ食べられない。しかし福井県の名物ブランド30品目に加えてもらうべく運動し、念願が叶った。ところで頒布する越前おろしそばは、福井へ来ないと食べられないそばとは少し異なっていて、当然のことながら日持ちする工夫が施されている。そしてゆうパックグルメの会で頒布したところ、福井県一の大変な人気商品となった。

Ⅱ.そば道場でのそば打ちと自前そばの賞味
 道場で食するそばは、挽き立て、打ち立て、茹で立ての三立てのほかに、身贔屓からか大変愛おしい味がすると言います。そばは不思議な生き物で、その時その場の状態で、味に変化が出、同じ味はあり得ません。ここでは、蕎麦そのものの味を味わって下さい。営業は営業、道場は道場、目的がハッキリと異なります。かくして中山さんの薀蓄ある講話は終り、いよいよそば打ちに入る。
 道場の名の入った腹掛けを着け、打ち場に入る。女性軍は高見の見物、塚野師範代は数日前にこの場で打ったとかで、指南役よろしく打ち場に入らず兼カメラ役。この日用いる蕎麦は、昨年11月に収穫した大野産、昨年は大変豊作であったとか。2日前に製粉したもので、中心部の更科粉と甘皮がついた部分を二度挽きした粉、いずれも60メッシュ(以前は80だったとか)で篩ったものを、適宜ブレンドして用い、今日は二八、13人分で1.4kg、2組に分かれて打ちにかかる。
 冒頭、中山さんから「今日は波田野師範の先導で」という冗談ともつかぬお言葉、漆塗りの大きな木鉢にブレンドされた蕎麦粉と強力粉が入り、先ず十分に攪拌混和、しかる後に水を3回に分けて回し入れ、フレーク状にする。木鉢三年、どうもこの辺りが最初の難関である。それでも面々は蕎麦まみれにもならず、不完全な分は主が纏め上げられる。要の纏めは主でないと無理である。堂に入った主の手捌き、腰の使い方はリズム感に溢れ、実に流麗、無駄がない。名人登竜門のコツを説かれるが、大方の素人には馬の耳に念仏、どだい塚野師範代以外は門外漢に等しく、理解は到底困難だ。今師範代とその他大勢とでは雲泥の差がある。一人師範代のみじっと観察し聞き入っている。分かりやすいオーバーな仕草が興を誘うが、だが面々はとても真似ができない。
 捏ねに入る。右手で押して、回して、立てて、曲げて押す、この規則正しい仕草は菊の紋様を作り出す。しかし面々の手になると、紋様は途端に瓦解、手や肩に余分な力が掛かるせいもあって、リズム感など全くない。やはり仕上げの臍出しは主がされることに。師範代は捏ねの回数は百回位だと言う。主の手になった肌理の細かい餅肌の玉、感嘆する。
 次いで延しに入る。始めは掌で、ある程度の大きさになるまで延し、次いで短い麺棒で延す。肩幅で麺棒を握り、力を入れて延す。天地を持ち、右に半回転させ、更に延し、これを繰り返す。次第に大きくなり、形も円形から菱形に、更に正方形へと変形してくる。次いで長い麺棒に巻き付け、手を中心から外方向へとずらしながら、力を入れて延す。最後は厚さ2mmに仕上げるとか。段々と薄くなり、扱いが難しくなる。一寸引っ掛けても、簡単に破れる。破れると修復不可能。最後の仕上げはやはり主が、巻き付けたまま、一部を長い麺棒で厚さが均一になるように、手早く延していく。主の手にならなければ、だごだご状の数珠状のそばが誕生したことだろう。最終段階に入り、均一に延した布状のそばを畳む。とても素人には無理だ。しかし主は何事も無かったかのように仕上げてしまう。延し三月。そして切りに入る。
 まな板に、畳んだ布状のそばの生地を置き、駒板を当てて切りに入る。主が手本を示す。左足を半歩前に、左目で駒板を、右目で包丁の当たるそばの生地の部分を、そして細く、1kg位ある包丁の重みを利して一気に前へと押し切る。以前包丁で切った後、包丁を少し倒すことによって駒板をずらしてから切る、これが正統と思っていたが、主は切った瞬間左手で駒板を微妙にずらし、早いテンポでリズミカルにトントントントンと切りを繰り返す。あっという間に、均一で細いそばが出来上がった。見た目にも清々しく美しい。50回位で一旦包丁を休め、切ったそばをさっと捌き、包丁の腹に載せ、浅い木箱(生舟)にはらりと並べる。全く無駄がない。
 面々が切りに入る。どちらかというと太め、しかも幅は不揃い、斜め切りあり、先まで切れていないものあり等々、名古屋にご縁のある御仁はきしめん状、会長のは半平切れ端状のものもありであるが、でも前回よりは遥かに進歩の後が見える。腰の備えが悪いからか、とにかく悪戦苦闘、包丁の重さを利してとはいっても、どうしても包丁を手首で持って切るせいか、実に疲れる。包丁三日?、何方かは最も難しいとも。結果として、年長組の出来は年少組に比べて格段に見場が悪い。主は「会長の切ったそばは一目で分かる」と仰る。漸く切りが終わった。
 切りも終わりに近くなった頃、女性軍が辛味大根(昨年11月に収穫、美山鼠か)をおろし、葱を刻み、汁と薬味を用意する。先ず年長組のそばが釜に入る。茹でが最も難しいとか。これは主がされる。面見て加減するとか、大変である。太めあり、不整形あり、中山さんの経験でさえ、不揃いのそばを湯掻くのは至難の技だと仰る。やがて茹で上がったそばは冷水に晒され、程なく浅い皿に盛られ、出される。一人2皿当て、食すると太いが歯触りが良く、美味い。判官の身贔屓からか。他とは比べられない。番付外の上とすべきか。次いで年少組の制作品、先のに比べ多少食べやすい。都合一人4皿当て、すっかり無くなった。終わりに近く、会長土産の「一本義」の純米酒が主の中山さんから振る舞われる。これも美味。かくして今日の主眼の「そば打ち」の行事は終わった。参加者一同、中山さんを囲み記念の撮影を終え、辞したのは午後1時半であった。

Ⅲ.松平家ゆかりの地見聞の後「山英」へ
 探蕎会は、蕎麦のみならず、処々で見聞を広めるのも主旨のうち、この日は旧福井藩主松平家ゆかりの場所を、会長の案内で巡ることに。先ずは松平家菩提所の北陵三十三箇所観音霊場第十番札所臨済宗妙心寺派萬松山大安禅寺を訪ねる。開基は第四代藩主の松平光通公、本尊は十一面観音菩薩、開山は大愚宗築禅師。寺内を巡った後、松平家御廟所、橘曙覧(あけみ)之奥墓に詣でる。また車内より笠原白翁之墓を拝む。西に山一つ越えた越前海岸の此地から、再び福井市街へ戻る。佐佳枝廼社、福井城跡を経て、国の名勝で江戸時代には「御泉水屋敷」と称されていた福井藩主松平家の別邸「養浩館」を訪れ、書院建築と回遊式林泉庭園を愛でた。古文書により、平成5年(1993)に復元されたとか、以前訪れた時は未だ整備中だった。
 陽も傾く頃、最後の予定地、加賀市大聖寺へ向かう。拘りの石臼挽き自家製粉生粉打ちそば処、南郷の「山英」に着き、細長い囲炉裏のある部屋に寛ぐ。自在鉤に花入れ、マンサク、ボケ、ミツバツツジ、サルトリイバラ、壁掛けにエンレイソウ、野趣に富んでいる。程なく蕎麦味噌、酒は「緑端渓」、少々甘く、寧ろ下級の「上善如水」の方がさらりとして良い。初めに6合、冷えた片口に入って来る。ぐい呑みで流し込むと一息ついた感がじわっとする。宵越しの酒の気もこの期に及んで漸く身体から抜け、爽快、監査役は未だ抜けていないとのことで辞退されている。親父がそばの注文を取りに来る。会長のみ拘りからか「おろしそば」、他の12人は「ざる」、田舎より笊の方が旨そうだ。会長ももう一枚笊を所望、さも有りなん。誰とは言えないが、酒が少々足りない様子に、会長は酒と磯辺揚げを追加注文、これで終いと、「緑端渓」と「天狗舞」山廃吟醸が出る。満足そうな御一行の面々、親父のサービスでコシアブラの新芽の天麩羅が出た。丁度良いほろ酔い加減、今日の行事はこれで打ち止めに、そして散会した。