2009年4月11日土曜日

松原敏さんは三度目の臨死体験を語らずして逝く(3.5)

 松原敏さんは大正14年(乙丑)3月のお生まれ、私とは一回り上の丑、誕生日がくれば84歳になられる。病院には縁が深い方で、幼少の時から亡くなるまで入退院を繰り返してこられた。脳、心臓、肺と生命の存続に欠くことのできない臓器に不具合があったにも拘わらず、平均寿命を超えて死にはぐれられたのは、昔の中学時代の親友の「遺言」を煎じて飲んでいるからと嘯いておいでた。二人の親友は身体強健、成績優秀で海兵と陸士へ進み、終戦の前年には二人から、「せめてお前だけは長生きしてくれ」、「俺の分まで生きてくれよ」と、戦場へ赴く前に丁寧な字で手紙を書き送ってくれたという。この時松原さんは腸チフスに罹り九死に一生を得た後、胸部疾患でまた入退院を繰り返されていた頃だという。そして敗戦、二人とも戦死したらしいという話が伝わってきたと。そういうこともあってか、信州への探蕎行のときには鎮魂の「棺」ともいわれる無言館へよく寄られたという。私も二度ばかりご一緒させて頂いた。

・松原さんの臨死体験
 この亡くなった親友がまだ中学の同級の頃、松原さんは感染ルート不明のまま腸チフスに罹って入院、40℃を超える高熱が何日間も続き、脳症まで起こし絶望状態になり、両親は葬式を覚悟したという。まさに死に瀕していたといえる。その時の「臨死体験」を松原さんは次のように記している。
〔あたりは真っ暗、野原のような、茫漠とした闇の中に立っていた。闇は無限に続くように思われた。何の音もしない暗闇をとぼとぼと歩いて行った。真っ暗なはずなのに、ずっと向こうはぼんやり明るくて、何かが待ち受けているような気がして、引き寄せられるように足を運んで行った。遠くで手招きしている人は、前から知っている人のようでもあったが、誰とは思い出せなかった。かすかに、背後で声がしたようだった。誰かが後で私を呼んでいるようにも聞こえた。振り返ってみると、暗い闇の、誰の姿も見えない中で確かに私を呼んでいた。『こっちへ帰っておいでー』と親や妹弟が必死に呼ぶ声らしかった。しかし、向こう側には何か美しい、気分のよい場所が広がっているような、ぼんやりとした気配。目の前には、川のような、川原のような、低くて平べったい黒々としたものが横たわっている。何かけだるくて仕方がない。歩くのが厭になって、背後の声に引きずられるように、また後戻りしていた。〕
〔奇蹟的に近い形で回復した後、看護婦らから聞いたところによれば、その夜から症状が好転して死地を脱したという。当時は抗生物質もなく、絶食療法と解熱剤による手当てしかなかった。死の国へ進んで行くか、現世に戻るかは、本人の本能的な生命力に頼るほかはなかったのだ。闇の中で川を渡らずに、こっちの岸へ生還させた生命力、生への執着心を蘇らせたものは、肉親の声のお陰であろうか。必死の声とは、祈りにも似た肉親愛に違いない、と当時は信じたのだった。この時の体験からすれば、生と死の境界はやはり存在していて、闇の中に横たわる川のような何かを越えるか越えないかが生死の一線を画すると考えたくなる。〕
その後43歳の時、金沢へ単身赴任し、風邪をこじらせた上での激務で、高熱と眩暈で倒れて入院したものの、肺化膿症という仮病名で転院し、約2週間生死の間を彷徨したという。この折も臨死体験を経験している。でもこの時の体験では、身体がスーッと浮き上がって、そのまま高い所から下にいる本人自身を見下ろしていたという。
 カール・ベッカーは、臨死体験とは「死に瀕した人間、あるいは生物学上一度死んでから復活した人間が語るあの世での体験である」と定義している。そしてその体験にはいくつかの段階があり、第一は魂が身体から離れて上から見下ろすもので、体外離脱とか幽体離脱という体験、第二はトンネル体験とも呼ばれる暗闇の体験、第三はあの世といわれるような、見たこともない美しい花などが登場する場所へ出る体験、第四は先に亡くなった自分の先祖や親友に出会う体験、第五は最後の段階でバリアが出現するもので、日本では川が多く、海や絶壁のこともあり、これを越えると二度と戻ってこられないという。松原さんは第一と第二の体験に加えて、第四や第五も体験したのではと話される。

・私の臨死体験
 終戦後、父は第九師団の残務整理の後、慣れない百姓仕事をすることになった。稲の脱穀は足踏み式脱穀機で、ある時私は誰も居ない納屋で、動かした脱穀機を止めようと歯車に中指をかけたところ、左手が歯車に巻き込まれてしまった。左中指は完全に潰され、人差し指も皮だけで繋がっている状態だった。私は歯車から左手を外し、流しで水を汲み手を洗っていたという。薬剤師の叔父がまだその頃家にいて、マーキュロクロム液をかけて消毒してくれ、包帯をグルグル巻き、タクシーで大学病院へ連れて行ってくれた。手術で中指を切断し、人差し指は一応縫合した。ただ縫合部分に機械油とか稲藁が少し残っていたのか痛みがとれず、再度切開して洗浄したようだった。その後傷口は塞がって退院したものの、やはり痛みは残っていた。この頃は抗生物質はなく、もっぱら熱が出れば解熱剤、痛みがあれば鎮痛剤。医師は野々市町には2人いたうちの1人で、代々かかりきりの医師だった。専門は内科だったが、毎日往診してもらえた。 
 ある日、痛みが和んだような感触になった途端、縫合した場所から失血した。どう助けを求めたか覚えはないが、出血は多量で、その時点で死の危険にさらされた。その時私は暗いトンネルの中を歩いていた。ずっと先に微かな光が見え、それはトンネルの出口のような感じだった。私はただもくもくと歩いていた。出口の光の大きさは歩いても歩いても近づいて来るようには思えなかった。ところが急に周りが光に満たされ、トンネルから脱出できた。そこは一面の花畑、桃色や橙色、黄色の花が無数に咲き乱れていた。今思うとポピーのような可憐な花々だった。径はずっと先まで延びていて、その先は靄に霞んでいて分からない。当てもなく歩いていると、川幅は広いものの一面に浅いせせらぎとなっている川辺に着いた。するとその時向こう岸からだろうか、此処はお前が来る処ではないとのご託宣、追い返され素直に戻ることに。
 正気に返ってから聞いたところでは、とにかく輸血をということで、両親から採血したものの、手からは針が入らず、窮余の一策で足から漸く輸血できたとのこと、そして私の顔に生気が感じ取られるようになり、私はこの世に生還できた。もし輸血が成功していなければ、この世とは縁が切れていただろう。この時ほど親子の絆を強く感じたことはない。

・臨死体験の科学的裏付け
 松原さんや私の臨死体験には極めて似通った点がある。ただ松原さんは2回とも感染症による高熱によるもの、私のは失血によるもの、でも体験の現象は似ている。ところでこのような体験は、本当に死を体験した人、すなわち死んでしまった人からはその体験を聞き出すことは出来ないから、少なくともこの世に再び生き返ってきて貰わねばならないという大前提がある。言ってみれば「死に損ない体験」「死の入口体験」「擬似死体験」とでもいう類であろうか。もし科学的にこれを解明しようとすると、それに相応しい体験を試みる必要がある。私の場合は失血だったが、もしこの実験が認められるとすれば、私の場合のように、採血による血液量低減による方法が最善であると思う。しかしこの実験はあくまでも細密かつ安全、しかも確実に蘇生されるものでなくてはならない。世の中には物好きな御仁もおいでだろうから、いつかは実現されることになるかも知れない。これこそ正に正真正銘の臨死体験となる。そうすれば霊や魂の体外離脱も科学的に証明されることになるかも知れない。

・松原敏さんからの寒中見舞い
 松原さんは、この2月26日に他界された。ところで1月13日消印で、私にも寒中見舞いが届いた。亡くなる1か月前にしたためられた葉書の文面を次に掲げよう。
〔寒中お見舞い申し上げます。如何お過ごしでしょうか。さて、賀状を賜った方々に、近況報告および生存証明として、毎春「寒中見舞い」を差し上げてきましたが、かねてからの心不全、脊柱管狭窄などが進行、体調不良のため辛い闘病生活を続けており、主治医からも、そう余命も長くはないように示唆されております。潔く死にたいものですが、さて。このため、ことしの寒中見舞いをもって打ち切ることに致しました。勝手ながらご了承下さい。長い間何かとお世話になりました。寒さの続くとき、ご自愛を祈り上げます。 
                 平成二十一年 寒 松原 敏〕  

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