私の誕生日は2月11日、生年は昭和12年(己丑)である。戦前にはこの日は四大節の一つの紀元節であって、初代天皇の神武天皇が即位された日という設定だった。終戦の年に私は国民学校3年生だったが、戦時中はこの日は登校して、講堂で紀元節の歌を整列して歌ったものだ。この歌は3年生までしか歌っていないのに、今でも歌えるから不思議である。当然戦後は歌う機会が全く無かったのにである。終戦後は当然のことながら、この記念日は根拠が曖昧とかで廃止されたが、昭和41年には「建国記念の日」として復活されたが、争点のあるところである。でも制定の趣旨は「建国をしのび、国を愛するこころを養う」とのこと、でも何故この日にということはあろうが、日本国民としてはあっても差し支えのない記念日ではないかと思う。しかし誕生日が休日というのは実に愉快である。ところで長男の嫁(本来は差別語らしいが、あえて使用)の誕生日も、三男の嫁の父親の誕生日も、私と同じ2月11日であるのは奇遇である。
今年は生まれて6度目の丑年で歳は72、次の丑年まで永らえたとすると誕生日には84歳となるはずだが、どうもその自信はない。蕎麦の会である探蕎会には80歳を超えても矍鑠としておいでる御仁もおいでるが、そうでない方もおいでる。私の父は享年72、母は91、母方の伯母は昨年亡くなったが101歳の大往生だった。私の師匠の波田野先生はもう3日で86歳だった。でも年取ってからの誕生日というのは、有り難くもあり有り難くもなし、正に冥土への一里塚である。でも寿命は甘受すべきものなのだろう。
さて、私達二人は、私の誕生日と家内の誕生日、それに二人の結婚記念日には、どこかへ二人で出かけ、飲んで食べて過ごすことにしている。今年は探蕎会で前半の行事に入っている日帰り探蕎行予定の福井・三国の「小六庵」にでも行こうかと話していた。ところで会ではきっての蕎麦通である副会長の久保さんから、偵察も兼ねて小六庵へ出かけませんかとお誘いがかかった。聞くと久保さんの奥さんも行かれるとか、でも家内は咳が出ているし、緊張するともっと大変だからと尻込みしてしまった。どうもお世辞の一言も言わねばならないような雰囲気は好きでないらしい。私の大学の同窓会にも一度出たことがあるけれど、一度きりで後は御無沙汰、まあ無理はすまい。それぞれに勝手もあることだろうからということで、取りあえず家内に久保さん宅まで送ってもらい、私のみ便乗して「小六庵」へ向かうことに、家内とは昼の部は別々、夜の部は一緒にということにした。
1.昼の部 久保さん夫婦と「小六庵」へ
この日の天気予報は晴後雨、朝には西の空に17夜の月が皓々と輝いていて快晴が約束されていたのにである。まことに高速道を走っている10時半にはもうポツリポツリと雨が落ちてきた。昼まではもつと思ったのに、今日は予報が的中したようだ。加賀ICで下りて、国道305号線で吉崎、北潟を経て三国町へ入る。開店の11時30分には少し余裕があるとのことで、この辺りではつとに有名な酒饅頭の店に寄る。久保さんはこれには目がないとか、美川にも美味しい店があるとか、どうもこの方面は私には全く縁がないが、家内へとお土産まで頂いてしまった。いよいよそば処へ向かう。字が同じになった地点で電話番号をナビに入力すると、右折した住宅地の先に目指す「小六庵」があるとのこと。この辺りは高台の住宅地、海が見えている。途中案内板など標識は一切なく、ナビの力を借りなければとても行き着けないこと必至だ。右手にホームページで見たことのある建物が見えた。狭い駐車場に車を停める。時間は開店5分前、亭主が玄関に掛けてあった「準備中」の札を返して「商い中」にした。どうぞと言われて縄暖簾をくぐる。小雨が降っている。
中へ入ると、洒落た粋な空間が広がる。レトロな要素とモダンな要素が渾然一体となっている感じ。どこでもお好きな処にと、私達3人は囲炉裏を囲んで円座に座る。後で亭主が話されたことだが、6年前に三国へ来て、蕎麦屋をして5年目、三国町は小さい時に過ごした場所、丁度この場所が気に入り、あった納屋を今あるように古民家風に亭主がデザインし、古材はそういうものばかり扱っている業者から求め、内装も外装も自身で手掛けたという。空間は板の間と御上の間、板の間には囲炉裏が切ってある。囲炉裏は新しくモダンな創作だが、板の間の厚い杉?の板は、百年以上は経っておろうかという黒光りした逸物、その表の色が微妙に違っていたので、調和させるのに苦労したと。車箪笥も古いものだ。上には時節柄内裏雛が飾ってある。囲炉裏には火が熾っている。亭主がお茶を持ってきてくれて、海側の戸を開けてくれた。天気が好いと海の色が青く見えますと。また暖かい季節になれば、縁側で海を眺めながら召し上がれますとも、野趣に富んだ外席で飲み且つ食うのも一興だ。
お品書きはゲーム機のコントローラー位の大きさの木型に入っている。私は取りあえず小六酒と板わさを、お酒は福井の吉田酒造誂えの吟醸酒「小六庵」、一升瓶のまま持って来られ、大きめのぐい呑みに注いで、瓶はそのまま囲炉裏の片隅に。実に爽やかな風味、重たくはなく軽やかな口当たり、美味い。蒲鉾も吟味された一品、たっぷりの本山葵、お友はほかに焼味噌、合鴨燻製、鴨汁がある。飲み物はあとビールとそば焼酎。そばは始めに「鴨汁蕎麦」を貰うことに。蕎麦の謳い文句には「当店のお蕎麦は福井県産の早刈りみどり蕎麦粉と自然の湧き水で打った十割手打ち蕎麦です」と。蕎麦は丸岡在来の小粒種、それをわざわざ早刈りして保存してもらい、この町の製粉業者に石臼で挽きぐるみにしてもらっているという。
鴨汁蕎麦がきた。鴨汁は口広の大きめの片口の蕎麦猪口に、厚手に切った鴨肉4切れ、つくね3個、そして太い焼き葱が、幾分甘めの汁に浸っている。蕎麦は黒っぽい中打ち、浅い片口のついた鉄釉色の中皿に盛られている。量は若干多め、手繰ると中々コシがしっかり立っている。香りは判然としないが、味は十割の蕎麦の甘味がする。早刈りすることから、別名「みどりそば」というとのことだが、比較すれば分かるのかも知れないが、単品のままでは見た目には「みどり」は窺がえなかった。また亭主が言うには、此処で使っている器はすべて手びねりで私の作だと、驚いた。かなりの数になる。金津の「創作の森」で制作しているとか。この店は平日は金曜以外は休みにしているが、そのような目的があるからなのだろうか。鴨汁を友にもう一献頂く。鴨はフランスからの輸入だとか、敬蔵も山猫もそうだ。実に旨い。
ここは開業当初は「おろし蕎麦」オンリーだったという。どうしてもこれを賞味しなくては。程なく届いた「おろし蕎麦」は 福井在来のものとは感じが違う印象を受ける。器はやはり片口が付いた少々深めの皿、おろしは辛味大根の絞り汁だが、寒さも峠を越えたので、これからは大根の種類を変えるとも、巷ではこんな気遣いをしている蕎麦屋は少ないのでは。そばはほかに「ざる蕎麦」「つけとろ蕎麦」があるが、そばの打ちは一種類のみとのことだった。おろしには相性の良い探し当てた特別な淡口醤油を用い、細切り白葱と少々厚めに削った鰹節が載っている。そばの味を殺さない気配りには感心する。
丁度好い腹具合になって、辞することに。帰り際に、壁にポール・スミスのイラスト入りの直筆で、亭主の長沼さんへの色紙があるのに気付く。ポール・スミスといえば卿(サー)の称号を貰った英国の世界的デザイナー、そのファッションブランドを日本に展開するのに中心的な役割を担ったのがここの亭主、話していてヨーロッパには仕事でよく出かけましたという意味がやっと解けた。日本での最初の拠点が東京にオープンしたのは1994年だそうだ。今は楽隠居で悠々自適と仰る。亭主の出で立ちは足袋を履いての法被姿、濃紺の法被の襟元には、左に白抜きで三国町、右には長沼と、粋さが感じられる。今日は東京からお客が見えるとのこと。小六庵の奥には、隣り合ってイタリアンレストラン「サルバトーレ」がある。小六庵で蕎麦を、サルバトーレでお茶をという人もいるとか。
小六庵の場所は、福井県坂井市米ヶ脇1丁目1−32、電話は0776−82−5056、営業時間は11:30から14:00まで、ただし無くなり次第終了。席数は御上の間の座机に6席、囲炉裏の周りに8席。定休日は月曜から木曜、営業日は金・土・日曜と祝日。金曜と祝日は亭主独り、土曜と日曜は女性が応援にとは亭主の言。
小六のいわれは愛犬の名前からとか。また奥方は仕事で外国滞留とか。
2.夜の部 家内と夜の片町界隈へ
夜に家内と金沢の街へ出歩く時は、昨年の秋頃から大体コースが決まってしまっている。始めの腹ごしらえは、以前は大衆割烹「五郎八」の姉妹店でもあった「ぼんぼり」へ、食べて飲んでからは、縁あって姻戚とでもいえるようになったスタンドバーの「ゴールドスター」へ、そして締めは件のそば屋「更科藤井」へ寄ってから帰宅するというパターンである。私は「とり」なども大好きなのだが、家内は全く取り合ってくれずダメで、今のところ最も無難なのがこのコース巡りである。
このところ「五郎八」にも「ぼんぼり」にもとんと御無沙汰だった。五郎八のマスターの中田さんとは随分古くからの友達で、以前はOEKでドラムを叩いていたトムともしょっちゅう一緒だった。中田さんのユニークな発想で店は繁盛していたし、実に商売熱心だった。当初は夫婦でやっていたが、意見の相違から奥さんは別に店を持ち張り合う形に、それでも共に中々繁盛しているようだった。昨年の夏友人と「ぼんぼり」へ寄ったところ一杯、勧めで「五郎八」へ回ったがマスターは居なくて、聞けば子供が生まれてからは早帰りとか、お任せ稼業になったのだろうか。秋に家内と知人を案内して再び「ぼんぼり」へ寄った。予め予約をしておいたので、ゆっくり飲み食いできた。ここは北村さんが姉妹店の時から店を任されていたが、帰り際、この度この店を師匠でもある中田さんから譲り受け、私が経営することになりましたと挨拶されてびっくりした。あの店を建てる時にはよく話を聞かされていたし、建てている最中にもよく中へ誘われもした。それだけにあの店には愛着がある。そんなこともあって、家内とはこれからは応援してあげようということになった。店も何度か寄っていると、中田色から北村色に変わっていくのが読み取れる。東京からの客でも気取らない方ならば、この店は品数も豊富なので満足して貰える。この日も刺し身の盛合わせ(ブリ、カンパチ、マグロ、サバ、ヒラメ、アオリイカ、タコ、ガサエビ、シロエビ、越中バイ)、中でも鯖は秀逸だった。焼き物は鱈の白子の石焼とハタハタの一夜干し、酢の物は香箱と牡蛎、煮物は鰤大根、鍋物は白子鍋、お酒は手取川のあらばしり4合とビール生中2杯、程よい酔い心地になる。カウンターに磁力で浮遊している置物があって、酔っていると中々復元できないとのこと、でも私は出来たが、カミさんはとうとう出来ず終いだった。それと刺身のツマになっていた花、私は以前中田さんから食べられますとのことで食べていたが、ある時叔父があれは毒があるからと言われたこともあり北村さんに確かめたところ、花を詰めた容器を見せてくれた。それには食用可とあった。
出てゴールドスターに寄る。ここは日曜が定休、この日は祝日だからか、客は私達が初だった。マスターは高本さんといって店は1956年からというから大変古い。私は家内から誘われるまでは全く知らなかった。実は高本さんの長男と家内の姪の長女とが結婚し、縁続きになったこと、また親と子は別居しているものの、どちらも野々市町の住人なので、何となく親しみを感じて寄るようになったという次第。店はそんなに大きくはなく、15人は入れないだろう。落着いた感じ、レコードはLPのみ、ジャンルはジャズ系が多いようだ。家内は甘味系のカクテルかハイネケン、私は大概はシングルモルト、ニッカやアイリッシュのことが多い。つまみは乾きものが少々出るのみである。この日宮崎から金沢観光に来たという母と姉妹が店に、家内とはえらく意気投合してしまって大変なことに、私までも巻き添えに、でも楽しい一夜だった。それにしてもよくぞこんな目立たない店にと感心した次第だ。宮崎へぜひとのこと、連絡先まで教えてくれた。
ブラブラ歩いて「更科藤井」へ、混んでいたので暫く店の中で待つ。カウンターが空き、移動する。十割をお願いする。お酒は能登数馬酒造の特注酒「ふじい」、竹葉は飲みやすく淡麗な酒だ。お友には焼海苔、金沢では少ない。店は午前2時までだが、この時間帯は中々混んでいる。弟さんはと聞いたら、今は「太平寿し」にいるとか。十割も上等であった。満たされた一日だった。
2009年4月11日土曜日
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