2009年4月11日土曜日

平成21年丁丑の正月(1.21)

 旧盆と正月には、私と家内との間に生まれた3人の男の子の家族が、私達が今住んでいる野々市の実家に帰ってくる。私はさほどでもないが、家内の方はこの機会を心待ちにしているようだ。この正月も例外ではなく、暮れには3家族、正月には亡弟の次女の家族も集まってくる。何故か4家族とも構成は夫婦と子供2人の4人家族、4家族が集まると16人、平生が2人住まいだから、家の住人は一挙に9倍、やはり一大事であることに間違いはない。私はといえば、孫達と会うことよりは、むしろ息子達と飲み交わすことを楽しみにしているが、家内は孫達に会い、息子の嫁さん達と会話することを楽しみにしているようだ。通常は男親でも、孫ができると目に入れても痛くないと言ってメロメロになってしまうらしいが、どうも私は変わっているらしく、孫もある一名を一度きり抱いたことがあるだけで、あとは皆無という始末、どうも異質であるらしい。わが子でさえ、3人で川の字で寝ていた時に子供が泣き出したらうるさいと言ったと女房がいうから、子育て失格もいいところだ。私がスキーを教わった師匠は、孫ができた途端に、夏のゴルフにも冬のスキーにもほとんど出かけなくなって、孫にメロメロ、大変な孫好きに変身した。でもそれかあらぬか、彼は孫可愛がりの術を私には授けてくれなかった。
 さて、今年の正月料理は暮の30日と31日とでつくらねばならなくなった。私の母が存命中は、もっぱらこれまでのしきたりに従って、家内はお決まりにおせち料理を指示を受けながらつくっていたものだが、母が亡くなってからは家内流になって、むしろ孫達が喜びそうな料理をつくるように変わってきている。そこで中にはかなり独創的な料理も出てくることもある。孫に人気のある料理の一つに、ごぼうやセロリを幅広の薄切りの牛肉でくるくる巻いて熱い出し汁に浸した一品があるが、これなどは大きな皿に山盛りにして出しても、アッという間になくなってしまう。私といえば、野菜の煮しめや蕗の干瓢巻き、ぜんまいの薄揚げ巻き、鰊の昆布巻き、厚揚げや焼き豆腐の含め煮の方が好きだが、やはり年寄りと子供とでは趣向に大きな差があるのは歪めない。
 今年うまく出来上がったのは棒鱈と黒豆、この二つは仕上げるまでに数日を要する代物だが、黒豆は簡易法をテレビで見ていてその通りに実行したところ、日数は2日かけただけで、九割かた似かよったものが出来上がった。小生以前はこの甘い豆は全く口にしなかったが、近頃は酒のつまに美味しいと思うようになったから不思議である。棒鱈の方はとうとう最後まで手抜きができず、昔どおりの手法でつくらねばならない羽目になったが、でも素晴らしい出来になった。また野菜の煮物はこれまではすべてを個々に煮て仕上げていたが、今年は筑前煮風にして、程よく予め湯がいた人参、牛蒡、大根、こんにゃく、里芋、昆布、椎茸、鶏肉団子を大鍋に入れて八方出汁で程よく煮た。そして青みには鮮やかな緑色の絹さや豌豆をあしらった。
 お魚類は30日に浜から直接新しいのを持ってきてもらった。昆布締め用に冷凍のサワラとタラのさく、それに刺し身用のブリ、カンパチ、ヒラメ、クルマダイのほか、数の子、酢蛸、鱈の眞子と白子等を仕入れた。値は張るが新鮮で、正月三が日は冷蔵でも大丈夫とのこと。他には今年は大きなズワイガニを5杯仕入れた。そして次男からは取引の関係で鰤を買わねばならぬ破目になり、31日に送ると言ってきた。大きさは2尺強、大晦日に捌いて片身を皆さんに振舞ったが、とても食べきれずに余ってしまった。これだけ大きいのを捌いたのは久しぶりで、往生した。
 翌31日は全員集合となる。17畳相当のリビングは満員、年越し蕎麦は市販の半生のものを用意したが、近所から頂いた手挽きの十割蕎麦はなかなかの絶品だった。子供達にはこちらが良かろうと、この日はコロッケとエビフライとトンカツを用意した。これはいつも好評で、コロッケは1人5〜10個は平らげてしまうから、かなりの量を用意したとしてもすぐになくなってしまう有り様。鰤の刺し身はこの後に出したものだから、子供達は余り食べず、思ったよりははびけなかった遠因となってしまった。
 この年、近所にある白山神社では、私達の氏子の班がこの暮から正月にかけて宮番をしなければならないことになった。お宮の掃除や飾り付けが31日の午後2時から、そして大晦日の午後3時から元旦の午後3時まで、2人ずつ6時間交代で4組がお宮を預かることに、それで木村の家は元旦の午前3時から9時ということになった。この日は小雪が舞う一日、お宮の戸は開け放たれたまま、炬燵に足を突っ込んではいるものの、外気が容赦なく入り込んできて実に寒い。特に足の腿が冷たい。酒で暖をとることもはばかれ、実に寒い思いをした。相棒は2軒隣のお兄さん、テレビと世間話でどうやら6時間を乗り切ることができた。
 私自身は近所とは没交渉なため、この機会にいろんな情報を聞かせてもらい、退屈はしなかったし、随分と耳学問にもなった。この神社は白山比め神社の末社、正式な氏子は50名ばかり、宮番は正月と春秋の祭の3回あるから、2年に1回くらい巡ってくる勘定になる。お宮さんを辞して家へ帰ってから、家の神様、仏様、先祖のお墓、屋敷内にある石仏にもお参りして、漸く正月の膳となる。家内や孫達は白山さんへ初参りに出かけたそうだが、私はこの日は割愛した。お参りは二月正月にでもしようと思う。
 今年はNHKのテレビにヒントを得て、取り寄せたおせち料理は別として、料理を大盛りにして供するのではなく、一人ひとりにお重を一つあてがうことにして、料理をすべてのお重に盛り付けた。こうすると特定の料理だけがなくなることもなく、全体にはかなりの量になるのと、取り皿や取り箸を用意する必要もなく、若干残りは出るものの、テーブルの上もスッキリしていて、ほかにはお雑煮のお椀と酒盃のみ、これは大成功であった。そして会食の後は恒例の子供達へのお年玉配り、上は中学2年生から下は4歳児まで、中身は家内任せで知らないが、でも各家族からも貰うから、2万円くらいはゲットしたのではなかろうか。ほかに嫁さんのお里にも寄って頂くだろうから、これは子供達にとっては大きな魅力であるに相違ない。
 今年の里帰りでは、次男の上の男の子が風邪を引いてやってきたが、30日にはその母親に飛び火し、38℃の熱を出した。簡単に風邪薬で対処しようとしたが埒が明かず、結局病院へ行く破目に、でもインフルエンザでなかったから一安堵だったものの、暮れに2日も寝込まれてしまった。それで皆さんうがいと手洗いを励行することに。今年の正月は招かざる風邪に振り回されてしまった。しかし正月三が日も過ぎると、寄せてきた大群も潮が引くように去り、どうやらやっと元の静寂にもどった。
 その後皆が帰ってから、遅ればせながら家内が熱発した。熱が引かないのでインフルエンザでないのかと心配したが、この時はインフル陰性とのことで一安心だったが、熱がなかなか引かないのでもう一度検査したところ、インフルエンザA型とのこと、1回目陰性だったのはワクチンを接種していたので進行が遅延していたせいなのだろうか。でもタミフルを内服したところ、体温は1日後には平熱になった。家内がインフルであったという情報は、勤務している病院ではアッという間に広がり、出勤して2日ばかりは職員がそばに寄り付かなかったと話していた。私も桑原々々、防衛手段はうがいのみ、うつるのではないかと気が気でなかったが、どうやら難を免れたようだった。しかしその後家内が鼻かぜを貰ってきた。ライノによる鼻かぜくらいと、高をくくっていたところ、これが私に感染、4日間ばかりは花粉症もどきで、ちり紙を離せない始末、油断大敵、とんだ正月の風邪騒動であった。

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