ダイオキシンの石川県における挙動と発生源(岡 秀雄君の博士論文から)(1.11)
昨年暮れに届いた、私も卒業した金沢大学薬学部の同窓会(薬友会)の名簿を見ていたら、博士課程終了の欄に「岡 秀雄」という名前を見つけた。よく似た名前もあるものだと感心して見ていた。それで論文の題名を読むと、Environmental Behaviors of Dioxins and Their Sources in Ishikawa、即ち、ダイオキシンの石川県における挙動とその発生源とある。ひょっとして私の知っている岡君なのだろうか。そういえば、彼は昨年の「くろゆりスキーツアー」ではパソコンを持ち込んで、なにやら英文を書いていたのを思い出した。まさかあの時はそんな大それたことをしているとは露知らず、大変だなあ位にしか思っていなかった。今年も彼から「くろゆりスキーツアー」(私の旧任地の石川県保健環境センターでのスキー同好会が行うツアーで、毎年正月には3泊4日で志賀高原へ出かけていて、彼は大概幹事役をしている。とにかくスキーはべらぼうに巧い。)の案内があり、そのメールでの返事に、あの論文は貴君のものらしいが、特に石川県での発生源という点に大変興味があるので、差し支えなければ別刷を送ってくれるか、掲載のHPを教えてほしい旨お願いした。程なく彼から大封筒に入った郵便物が届いた。私は専門雑誌に投稿したとばかり思っていたので、簡単にその別刷をとお願いしたのだが、彼のはれっきとした単行の論文だった。さらにちょっとたまげたのは、全文が英文だったことだ。これではざっと読んで感想という訳にはゆかず、いずれこのコラムでとお茶を濁した。A4で64頁、図が1枚欠落していたので、実際には65頁ばかり、さっと読めると思ったが、環境関係の専門語が多いのと、数学的・統計的処理の理解が必要とあって、読みやすい代物ではなく、結果として、メモを取らざるを得なかった。ただセンテンスが比較的短いこともあって、まわりくどい長文よりは理解しやすかった。以下に彼の論文の要旨を若干の解説も加えて披瀝しようと思う。ただ、医学系の論文では、オリジナリティーの部分が多いのに対し、こういう膨大な資料を使ってのものでは、大部分が多数の人達の共有であり、そこに博士論文に値するオリジナリティーを見出したことに価値があるということになろうか。
ダイオキシンというのは、ベンゼン核2つが、(1)酸素2つの6員環でつながったジベンゾパラダイオキシン(DD)、(2)酸素1個を含むフラン核でつながったジベンゾフラン(DF)、(3)直接つながったビフェニル(B)、これら3つの化合物に塩素が置換体として結合したもので、(1)と(2)ではそれぞれ1〜8個の塩素が結合でき、(1)では75の異性体が、(2)では135の異性体が、(3)では1〜10の塩素が結合でき、209の異性体が存在する。このうち毒性のあるのは、通常ダイオキシンと称する(1)と(2)の全部と、(3)のうちダイオキシン様コプラナーPCBと称する12で、この3種の化合物をダイオキシン類と称している。このうち最も毒性が強いのは、(1)に塩素が4個結合した2,3,7,8-4塩化DDと、5個結合した1,2,3,7,8-5塩化DDで、この毒性を1とした毒性基準がWHOで制定されている。このうち(1)と(2)は燃焼の過程で産生されることが知られていて、人為的に作出されることはないが、これらの物質を熱分解できない温度での燃焼過程では、自然界には塩素化合物が多く存在することもあって、必ずダイオキシンが産生される。ここ数年これらの事実が判明したことから、中小の焼却炉は閉鎖され、その結果産生されるダイオキシンの量は往年の3%に減少した。また、往年使用された有機塩素系除草剤には、不純物としてダイオキシンが混入していたため、散布された土地の土壌中には現在でも分解されずに残留している。一方(3)のうちPCBといわれる物質は、変圧器や蓄電池などに安定で有用な媒体として、またノンカーボン紙への利用とも相まって、これまで日本では6万トンも製造されてきたが、日本や台湾で起きたカネミ油事件以降は発がん性が指摘されたことで、現在は製造されていない。
1999年、厚生省と環境省は、 WHO報告の4pgTEQ/kg/dayを参考に、日本での許容量を2.6pgTEQ/kg/day(食物から2.4pg、うち魚介類から1.5pg、環境から0.2pg)とした。環境中のダイオキシン類の分布は、大気中では日本全体の0.5%と少ないが、土壌中では2.2%と除草剤の多使用のせいか割りと比率が高い。
まず石川県での実態を調査するにあたり、北は田鶴浜町から南は加賀市までに12地点を設定し、各地点での大気と土壌中のダイオキシン類の種類と含有量を調べた。異性体の種類を知ることにより、その由来を推測できるからで、燃焼では総ての異性体が産生されるが、有機塩素系農薬由来のものは特定の異性体に限られる。大気はハイボリュームエアサンプラーで1分間に100L,24時間連続して吸引して採取した。土壌は学校、神社、グラウンドで、燃え滓は焼却場で採取した。詳細な分析方法はここでは述べないことにする。
大気中のダイオキシンのうち、(1)は45〜70%を占め、春〜秋は高く、冬に低い。置換塩素の数では4価が圧倒的に多く、次いで8価が多く、5、6、7価は少ない。(2)は春〜秋は全体の30%、ただ冬には55%と多くなる。結合している塩素の数は4価が最も多く、塩素数が少なくなるにつれ減り、8価が最も少ない。この冬季に(2)が高いのは、化石燃料である灯油の燃焼によるものである。土壌中の量は(1)が9割、(2)が1割で、(1)では8価が半数、次いで4価が1/4を占め、(1)の残りと(2)は2〜6%である。このことは、有機塩素系農薬中の不純物としてのダイオキシンの残留が証明されたことになる。ただ標準偏差値が大きいことから、場所によって含有量に大きなバラツキがあることが予想される。環境から検出されたダイオキシンの中で、(1)では毒性が最も強い基準1の1,2,3,7,8-5塩化DDの比率が最も多く、(2)では最も毒性が強い基準0.5の2,3,4,7,8-5塩化DFが最も多かった。そして前者ではその比率が土壌、大気、燃え滓の順、後者では燃え滓、大気、土壌の順であった。いずれにしても、大気は土壌と燃え滓の中間値を示し、これは他の異性体でも同様な傾向を示した。
次に大気中のダイオキシン量を大気そのものと大気中に浮遊する粒子状物質に分けてその季節変動をみた。ガス相では総じて夏に高く冬に低い傾向を示したが、夏でも極端に低い時期があった。ダイオキシン類の(1)(2)(3)の占める割合をみると、どのシーズンも概ね(3)が5、(1)が3、(2)が2の割合であった。粒子相では春先に高く徐々に減少し、夏の1時期に高く、秋から冬にかけては低い状態が続いた。各ダイオキシン類の占める割合は、(1)が7と高く、次いで(2)が3未満、(3)は1未満と極端に少なかった。これらサンプルを採取した2003年の気温と降水(雨・雪)量をみると、気温は夏場に高く、冬場に低い傾向があり、ガス相のダイオキシン類の挙動は気温と比例関係にあると推測された。しかし夏場に極端に低かった時期があったのは、この時期1日に110mmという豪雨があったことが気象データで示され、そのせいで大気中のダイオキシン類が洗い流された可能性が高いことが示唆された。一方降水量との関係をみると、多いと大気中の粒子状物質の量は少なく、少ないと多くなる傾向を示した。年間で降雨量がが多い梅雨時や夏場の豪雨、冬場の降雪時にはこの現象が顕著に現れ、粒子相のダイオキシン量は降水量と逆比例する関係にあるこが示唆された。ガス相と粒子相とでの毒性が高い2,3,7,8-系の(1)と(2)の分布をみると、(1)では最も毒性の高い1,2,3,7,8-5塩化DD、次いで2,3,7,8-4塩化DDが多く、ガス相での含有量が粒子相を上回った。しかし同属異性体では、塩素数が6価以上になると粒子相での含有率がガス相を上回るようになる。(2)でも毒性の高い2,3,4,7,8-5塩化DFが最も多く、同じ様に塩素数が5以下ではガス相で高く、6以上では逆転している。PCBでは塩素数に関係なく大部分はガス相に存在した。また農薬由来の1,3,6,8-4塩化DD、1,2,3,6,8-5塩化DD、2,4,6,8-4塩化DFの同属異性体に占める割合をみると、冬場に若干低い傾向はあるものの、平均して70%、30%、15%であった。この測定時期の気温は6〜27℃で、これら塩素数の少ない農薬由来のダイオキシンは、常にこの程度の量が土壌から大気中へ蒸散していることが示唆された。これらダイオキシン類の置換塩素数と実測温度6〜27℃でのガス相での含有率をみると、4価では(1)(2)が60〜90%、(3)が80〜98%、5価では11〜89%と78〜98%、6価では2〜72%と38〜95%、7価では0〜40%と13〜82%と、PCBが気化する傾向が強いことが示され、温度が低い程、塩素数が増す程この傾向は強まった。
次に金沢地区での状況を把握するために、市の中心部から南西に6km、標高100mの場所にある建物の地上15mの屋上にデポジットを置き、10日ごとにサンプルを採取した。この場所の優勢風向は南風、気温は6〜27℃、月平均降水量は190mm、観測期間は2003年4月から2004年1月にかけてである。観測地点の北西8kmには金沢地方気象台が、また北北西6kmと西北西8kmには公設のごみ焼却場がある。このような条件の場所で観測した結果、1日平均のダイオキシン量は360pg/m2(年間130000pg/m2)、WHO換算で7.7pgTEQ/m2(年間2800pgTEQ/m2)となった。この量は同規模の日本あるいはアメリカの都市と比較すると低く、汚染度は少ないと言える。今後この量は更に減少すると予想される。季節変動では春先と冬場で高く、特に冬場での(2)が高い。これは化石燃料の燃焼による影響のほか、逆転層の影響も考えられる。逆転層の下では、浮遊物質の濃度が増加しているとされる。一方で冬場の大気中のダイオキシン量が逆に低くなっているのは、降雪によって除去されたと考えられ、事実、雪の方が雨よりもダイオキシンの濃度が2桁も高いという報告もある。また雨での除去を(1)(2)の異性体別にみると、塩素数が高い異性体ほど除去率が高いことも分かった。このように降下する量や大気に残留する量は、気圧や気温のほか、降水量や降水日数、更には大気中での光化学反応にも影響されていると考えられる。
ダイオキシン類は分解に長い年月を要する。人為的に土壌に散布された有機塩素系農薬中に不純物として含まれたダイオキシンや、かつては熱にも安定で媒体としては重宝されたPCBによる土壌汚染は、大気中にも証明されることで、これらダイオキシン類が汚染土壌から空中へ絶えず蒸散していることが証明された。一方で往年よりは排出が少なくなったものの、燃焼の過程でのダイオキシンの発生は必須で、排出を0にすることは不可能である。風物詩であった落葉焚きや左義長や野焼きを禁ずることは過ぎた行為と考えられるが、これらの行為により多量のダイオキシンが大気中に放散され、一方で土壌をも汚染していることは確かである。自然界で分解され難いダイオキシン類は、放出されて大気中へ、そして大気中にあるダイオキシンは地上へ降下し、そして再び大気中へ蒸散する循環を繰り返している。現在許可になっている大規模な焼却場では、高温燃焼でダイオキシン類は完全に分解され、環境への拡散は全くないと言える。とすると、今ダイオキシンの発生源はというと、物を燃やすという、実に我々の身近なところに存在している。
吹雪・厳寒・濃霧の志賀高原くろゆりスキー行(1.16)
私の旧任地の石川県保健環境センターにはスキー同好会があって、その会が中心となって、毎年正月に、くろゆりスキーツアーと称して3泊4日の予定で志賀高原や妙高高原へ出かけている。参加者はセンターの職員ばかりでなく、前に居たことのある人、配偶者や子供、縁あっての友達等々、要はいろんな人が参加する。私が現役の時はウイルスの試験研究に携わっていて、それには数種の動物や組織培養細胞を使わねばならず、その世話で3日と空けられず、家がセンターに近かったこともあって、月月火水木金金、戦時中の謳い文句のような日々、正月も盆もなく、休みは学会開催時のみ、とても参加することは出来なかった。平成8年に退職してやがて11年、今年が10回目の参加だった。天気は時の運、3日とも好かったこともあれば、3日とも悪かったこともあるが、今年は殊のほかひどかった。歳をとると果敢さがなくなり、視界が悪いと臆病になり、かつ運動不足からの足腰の衰えがそれに拍車をかける。
今回も幹事の岡君から、師走早々に案内があった、1月5日から8日の4日間、5日は平日だが、出発は午後6時半で勤務後、土曜、日曜、休日と丁度具合がよい。初日は、真夜中にホテルに着いて就寝、2日目と3日目は終日、4日目は午後2時頃まで滑走という、十分滑り応えのある日程だ。
出発の1月5日は終日上々の天気、せめてもう1日と願わずにはいられなかったが、非情にも天気予報は下り坂で大荒れになるとか、よりによってと恨み節が出る始末。日本海に発生した二つ玉低気圧は急速に発達する気配、特に二つ玉は始末が悪い。案の定翌朝二つ玉は一つになり、三陸沿岸で台風並みに発達、15米以上の強風ならばリフト・ゴンドラは停止するから、それはそれで「飲み」という楽しみもあり、白か黒かハッキリしてほしいというのが本音だった。
翌朝起きると小雪だが不思議と風はほとんどない。出発だ。今日の昼の集合場所は焼額山の麓にあるプリンスホテル西館、コースは、丸池→蓮池→ジャイアント→西館山→高天ヶ原→タンネの森→一ノ瀬→ダイヤモンド→焼額山→西館、コースが分からない人は誰かに付いて行くことに。私が出たのは8時半、皆は9時頃だったのだろうか、丸池と蓮池とで何回か滑って蓮池で合流してジャイアントへ。小雪ながら視界もきいて快適、ここでは手間取る人も出る。下ってリフトを2つ乗り継いだ頃から雪が本降りになり、西館山頂に着いた時には視界は10米ばかり、高天ヶ原へ下ろうとすると猛烈な風の吹き上げ、ここで先頭集団とはぐれてしまった。とてもスキーを楽しめる状況になく、もうこの天気の中、山を2つ越える気力は失せ、怠惰にもバスで西館へ向かうことにする。シャトルバスは30分おき、待っている間にも、帽子、ゴーグル、ウエアに雪が積もる。早くバスが来ないかなあ。西館には11時に着いた。皆さんは11時半から12時半の間に着いた。初めての人は前の人に付いて行くのみ、大変だったろう。昼食後は帰ることに、来た時の逆コースで帰るとか、22名のうち、私と後2名がバスでホテルへ、私はせっかくだから焼額コースを1本だけ滑って帰ることに。濃霧と風で、山頂へのゴンドラは休止になっている。ホテルへは3時に着いた。この頃になって、不運にも小止みに、皆は楽しんだらしいが、小生は風呂へ、夕食後は反省会と称する飲み会、就寝は12時近くに、今日は滑っている時間より駄弁った時間の方が長かった。
翌朝、天気予報は大荒れということだったが、何故か小雪とわずかに小枝が揺れる程度の風、視界は200米ばかり、出発だ。今日は横手山へ、志賀高原スキー場の最高点である。ここばかりはスキーのみでは困難で、バスで移動することになる。バスの出発は、8時30分、40分、50分で、次は1時間ばかりない。笠岳でバスを降り、熊ノ湯へ渡り、連絡路で横手山へ、更にリフトを2基乗り継いで山頂へ。笠岳では小雪だったが、熊ノ湯では雪が強く降ってきて、加えて視界も極端に悪くなってきた。でも風は強くなく、横手山頂へのリフトも動いているとか。天気図では低気圧は更に発達していて、スキーなんてとんでもないはずなのに、どうして風が強くならないのだろう。不思議だ。山頂のリフト降り場に着くと、下よりは風が強く、渋峠スキー場は閉鎖されていた。スキーをするとすれば、急な林道を山頂へのリフト乗り場まで下りるしかない。でも何人かは滑ったようだ。どっちみち帰りにはこのルートを下るしかないのだからと、リフト降り場にあるラーメン屋さんに入った。既に会長と幹事が居た。ここはいつも溜まり場となる場所で、今日も屈強の会長は4リットルの清酒を持参だ。ここ横手ではパン屋さんがつとに有名で、冬はスキーヤーに、夏は観光客でごった返している。でも落ち着いて居られるのはこちらの方だ。パン屋にいた人もぞくぞく此方に、今日は20名だ。会長は此処は午後2時までの予定だと。外では風が段々強くなってきて、視界も極端に悪くなってきたようだ。後で入って来た人の話では、雪が横殴りに吹きつけているという。
コースに不案内な8人と子連れの5人とベテランの前会長と幹事が、午後1時に出発した。私も後を追う。しかし、30秒位後だったろうか、でも視界が2〜3米の濃霧と横殴りの雪、気温は後で聞いたのでは-20℃だったとか、たった半分の差だったが、先発隊を見失ってしまった。丁度パン屋に差しかかったとき、スキークラブの子供たちに出会った。コーチも事の重大さに声をからしていた。この集団に付いて行こう。急な林道をボーゲンでゆっくり下り出す。何回も通った道だが、どこからどこまでが道なのか全く判らない。はぐれないように数珠繋ぎになって下る。横を駆け抜けていった上手なスキーやーが道を間違えたと言って戻り返して行く。不安になるが此処は覚えている。大きく左へ曲がる。もう一度ヘアピンがあって下が急になっている個所で、人がダンゴになっている。おそらくこの中に先発隊もいたのだろうが、吹雪と濃霧、それに皆さん完全武装で誰が誰だか全く判らない。山頂へのリフトも完全に止まっている。下る自身のない人はリフトで下ろしていたが、今は駄目だ。やっとの思いで山頂へのリフト乗り場に着いた。雪と風とは相変わらずだが、視界がやや良くなってきた。ここから少し下った処で、前会長と会った。私はそのまま林道を、彼は右手のやや急な斜面を下りていった。彼ももう大丈夫と判断しての離脱だったのだろう。ひたすら下る。下のリフト乗り場に着いた。さすが上に上がる人はいない。さらに下のリフト乗り場まで、ここまで来れば安心なのだが、視界が悪くバス停が見えない。数人がたまった中で、知った人に案内してもらい、漸くバス停へ着けた。私はゴーグルは大概簡単なものか、眼鏡を愛用していたが、今回ほどゴーグルの威力を実感したことはない。グローブも破れて更新したが、お陰で-20℃でも寒くはなかった。ただウエアのファスナーの上部の部分は、鼻からの息のせいか、大きな氷の団子となって凍り付いていた。この日焼額山では6人のボーダーが遭難した。最後に独りで下りてきた大ベテランの元会長は命の危険まで感じたと述懐していた。彼にしてそう思わせる程の凄い天候だった。晩に反省会をしたことは言うまでもないが、元会長は出てこなかった。
翌日はかすかに青空も見えていたが、上部は雲の中、東韓山集合とのことで、皆出払った後、蓮池→ジャイアント→発哺→東韓山へ、頂上では名物の蕎麦を食べて寺子屋へ、しかし寺子屋は凄い濃霧、来るんじゃなかったと後悔した位、途中でエスケープして東館山からブナ平へ、何本か滑って西館山へ、再びブナ平で流してジャイアントを上り、蓮池からホテルへ、午後1時に帰館した。バスは3時発。猛者は2時50分まで滑っていた。
こうして今年のスリリングなくろゆりスキーツアーは終わった。
突然の経験しない高い血圧値に驚く、暴飲が原因か(1.16)
いつもは正月3日に来宅するのを常としていたポン友が、今年は都合があって3が日には来られなくなった。ところが突然、13日の土曜の昼少し前に電話があり、これから寄るという。先週はスキーツアーで、昨日は送別会で、しこたま飲み楽しんだが、今日はおとなしく家で正月の片付けをと思っていたのだが、丁度タイミングがよかった。料理も酒もいろいろあったが、彼は彼で若干彼が好きなものを仕入れてくるという。それもよかろう。彼は今大きな区画整理事業の責任者として実に忙しい身で、たまたまこの日は家族も出払っていて、午後半日は余裕ができての来訪である。彼と飲むとどうも過ごしやすくなるので、家内は来るなら私の居る午後3時以降にと言ったらしいが、彼は正午30分位前に現れた。大歓迎である。彼が持参した酒は貰い物という「越の寒梅」、例の「美味しい水」の元祖である。それに金沢で仕込んだ大トロも入った刺身の盛り合わせと正真正銘の焼き鶏。こちらの用意は、生帆立に紐の煮付け、馬刺し、木島平の野沢菜、いくら、かぶら寿しである。談笑しながらの酒はすすむ。ほぼ1升が空になる頃、カミさんが顔を出した。彼と小生の飲む率は、杯に注ぐ頻度から2:5位か。小生はほぼ限度量の7合位、気持ちよくなって横になる。
起きると7時、朝と思いきやまだ宵の口、もう止めておいたらと言うカミさんに、松の内最後だからと、屁理屈と無理を言って、ではビールをと、スーパードライをカミさん1L、小生1.5L飲んだ。平生ビールは余り口にしないが、これはカミさんへの付き合いのつもりだった。ところでカミさんは、小生の主治医から、12月初旬に私の勤務する予防医学協会での健康診断結果を見て、お酒の量を少し控えるようにと言われていると、うん、分かった。松の内がすんだらそうしようと。本当だね、と念を押される。健診で小生も少々気になっているのは、血糖値のHbA1cが8.5と高いのと、血圧が軽症高血圧のことで、特に前者が気掛かりだった。お酒も毎日4合(申告では3合)を常飲しているが、肝機能は極めて正常、γーGTPにしても正常か極めて若干の高値、主治医から「お前本当に飲んでいるのか」と問い質される始末、お酒に関しては、エキス分の多いお酒は常飲することを避けることでクリアできると考えていた。
その健康診断結果のお知らせの内容を記してみよう。医師からのコメントは次のようであった(抜粋)。(1)糖尿病、安静時心電図で異常を認めます。主治医に相談の上、治療を続けて下さい。〔糖尿病はよいとして、ペースメーカー装着での異常というのが解せなかったが、後で判明した〕(2)胃部内視鏡検査、血圧で軽度の異常を認めます。今後も健康診断などで経過を見て下さい。〔了解〕(3)視力・聴力が低下しています。〔歳のせいか〕(4)肝機能(γーGTP)で軽度の異常が認められますが、この程度は心配いりません。〔了解〕。これに加えてアドバイスとして、上記に関連して、食事、睡眠、運動、飲酒の心得が記されている。これで思い巡らせていることは、食事では減塩に、睡眠ではできれば6時間を、運動では今は週1回のハードな歩きか滑りを、飲酒は現在の半量程度に、ということである。
明けて14日の日曜日、家内が私の顔を見て、やけに赤いし、少し浮腫んでいるのではと言う。私も顔の火照りが気になる。昨日の酒のせいなら、夕方にでもなれば退くだろうと高を括っていた。ところでカミさんも血圧が少し高いと健診で言われたし、小生もペースメーカー外来でせめて1ヶ月位は血圧の記録をと言われたことを思い出し、暮れに買い物に出かけた時にオムロンの血圧計を買ったことを思い出した。買った時に測定したところ、正常だったので箱入りでしまったままだったのである。そこでおもむろに出して測ったところ、何と200とか、最高は220、下も98とか102、これはたまげた。150台のことはあったが、何という高値、家内も150/82と高め、少し部屋を温かくして横になっていたらとの進言で、素直に従う。でもとても七癖で長時間横になっていることは苦痛なのである。今日は日曜日とていろいろ予定を立てていたが、全部キャンセルして、ともかく静かに夕方を待つ。夕食は早めにして、私は寝ますと宣言。血圧は夕方でも170〜200/80〜100。夕食には眠れないからと駄々をこねてビール500mLを1本飲んだ。安直にアルコール気が抜けたら血圧も下がると思っていたが、今回はえらくしつこいなあと思いながら、でも顔の火照りは気になっていた。昼間少し寝たせいか、午後9時に床に入ったのに、ビールの効能もなく、寝られないのには往生した。カミさんが寝た11時以降も寝られないので、前田さんから借りた秋川雅史のCD「威風堂々」を繰り返し聴いて、明け方3時半頃に漸く寝付けた。彼女はずっと白川夜船、丸1日でも眠れると豪語している方だから、さもありなん。
翌日は月曜日、勤務があるが診察の必要性もあると考え、今日1日と明日半日休むことにする。主治医の診察日は明日の午前、血圧が160台までなら明日の午前にと、幸い朝の血圧は160台だったので、極力安静にして過ごすことに。朝は湯葉うどんを少々、昼はカレーの入ったお粥、時々家内から確認の電話が入る。午前に気をよくして午後部屋を整理したせいか、夕方電話があった時には再び190台後半に、院長では即刻来院をと、従わざるを得まい。院長からは、極めて危険な状態だと諄々と説かれる。心電図と胸部撮影後、即効性の舌下錠を渡され、もし30分後にも血圧の低下がなければ、即入院だと。下がることを祈るのみ。30分後には180台に、更に15分後には150台になった。よかった。家に帰れる。朝食後に飲む降圧薬を1週間分頂いて辞した。1週間後に再診。
翌朝一番に主治医の先生の診察を受ける。お酒飲みの先生だから、酒飲みの心理はよく理解されているので大好きだが、今度は言うことを聞かないと面倒は見切れないとの厳しい御託宣、多分に家内の進言もあってのご沙汰とは思ったが、神妙にお受けした。血圧は薬のせいか、130台。だが心電図を見て異常有りと。昨日は言われなかったが、専門家の目は誤魔化せないようだ。詳しい解説はなかったが、ペースメーカー装着でこうなるのは、過度の疲労か過度の飲酒だと、あなたの場合は後者、心筋梗塞の危険がありますよと。前に健診のデータを見て、私の家内にお酒は飲み過ぎないようにと言いなさいとの忠告を受け、その伝言は確かに聞いていたが、つい一般的忠告と聞き流していたのは迂闊だった。1週間後に再診、本命の糖尿病の方も見直すと。ひとまず窮地を脱した。先生から今月一杯は禁酒を命ずる旨の判決、控訴はしない。たまに体を労うのもよいか。節制しよう。
再開が叶ったらどうするか。先生からは1日何合という指定は一切ない。厚生労働省のお勧めは1日1合であるが、これまで4合だったから2合にしようと思う。とすると1週間に1升4合となるが、ある説に、週の総量を決め、週内で調整をという総量規制というのがある。もし前田さんと私が半升ずつ、2人で1升空けたとしよう。とすると、小生は5合飲んだわけだから、後の6日は9合で過ごす。2.2.2.2.1.0と1日休肝日を設けるもよし、2.2.2.1.1.1としてもよい。今は飲酒運転が大変厳しく、運転した場合、飲んだ人、飲ませた人、提供した人、いずれも罰則が適用される。ところでエタノールは、2つの分解酵素を持っている人だと、1時間に6g分解解毒することができる。とすると、お酒に換算して2.2勺、ビールに換算すると120mLとなる。また、もし夕方6時から飲み出して、翌朝6時には素面でいなければならないとすると、エタノール量として72gしか飲めないことになり、これはお酒に換算すると2合7勺、約3合となる。またビールでは1440mL、大瓶2本程度、500mL缶で3本、350mL缶で4本程度となる。翌朝勤務ならば、この程度内に収めるべきということになろうか。
最終的には今月一杯、2週間の禁酒で結果が出るが、これから以降、降圧剤を飲まなければいけないのか、節酒すれば問題はないのかの結論が出る。私の主治医は糖尿病も専門なので、適切な判断をされるであろう。
「千の風になって」がNHK紅白歌合戦に登場ー新井満の深慮遠謀(1.25)
新井満(あらいまん)氏訳の「千の風になって」は、2003年に発表された写真詩集が一連で初の出版で、その後CDシングル&アルバム、DVD、いわさきちひろの絵本など、矢継ぎ早に出版され、いずれも静かなブームとなり、ロングセラーとなっているようだ。しかもNHKでは「千の風になって」の特別番組までも編成され、その上昨年暮れの「紅白歌合戦」でも歌われるという破格の扱い、巷ではそれほど敷衍しているとも思えないが、とかく知る人には広く浸透しているらしい。ここに私は新井満氏の深慮遠謀を感じ取った。
新井満氏が訳出した「千の風になって」は、彼が添付した英語の原詩と比較すると、決して忠実な訳ではなく、今思うと多分に演出効果を狙っているふしがある。訳出しなかった部分がある一方で、リフレインを効果的に用いている。それは彼には作曲の才があることから、後で歌としても歌える、しかも効果的な歌い方が出来るように、言葉の配置をしたということである。これは彼が芥川賞の受賞者であるという実績、また日本ペンクラブの常任理事として活躍されていることと無縁ではない。一昨々年に、探蕎会の蕎麦花茶会が鶴来の草庵で開かれた折、「闇の演出」で砂川女史がこの新井満氏の「千の風になって」を朗読され、私にとってはこの時が初の出会いであったが、それほどの感動はなかったし、訳出が特に素晴らしいという印象もなかった。詩がシンプルであるだけに、語り手に工夫がいるなあと思った。
ところが昨年の夏だったろうか、勤務を終えての帰りに、車でFMを聴いていたら、突如朗々とした「千の風になって」が入ってきた。何か雷に打たれたような戦慄が身体を走り抜けたようで、車を止めざるを得なかった。何という衝撃。その時歌い手はFM番組のスタジオにいて歌っているような雰囲気だった。以前の朗読ではさほどの感動はなかったのに、このように曲を付け、歌い手が素晴らしいと、こんなにも心を震撼させることになるのだろうかと。その時歌った歌手の名は知らず、ただ声楽を正規に学んだテノール歌手だということだけが、知り得たすべてだった。またその時はまさかCDが出てるとも知らず、また特に求めることもせず、その時の感動は凝縮され、封印されたまま時が過ぎた。その後は2回ばかり、ラジオから流れるのを聴いたろうか。
紅白に出場する歌手と歌う曲が報道された時も、まさか紅白という舞台で歌われるなどとは思ってもいなかったことから、特に関心もなく、いつものような年の暮だった。ところが、12月30日付の朝日新聞の広告に、日本中が涙した命の詩(うた)「千の風になって」がNHK紅白歌合戦で歌われる!ときた。これは聴かねばなるまい。それで調べると、出場者54人中46番目、前に和田アキ子、後に天童よしみ、何故か好位置だ。歌手は秋川雅史(あきかわ・まさふみ)というテノール歌手、もちろん初出場である。この時初めて件の歌手の名前を知った。愛媛県出身の39歳、既にCDレビューも果たしているという。歌は詩の語尾を延ばすことで、テノールの歌い手の能力を存分に発揮させるという、この歌のために彼があるというような、そして新井満氏演出の罠にまんまと掛かってしまった彼がそこにあった。新井満氏自身が歌ったシングルもあるようだが、聴いたことはないものの、おそらくはこんな感情の高ぶりはないだろうし、紅白へのお誘いもなかったろう。
正月になって、前田さんの日めくり日記(1月9日)に、テレビで「千の風になって」を聴いていたく感動し、早速HPへアクセスしたが集中していて埒が明かず、CD店巡りをしても手に入らず、片っ端から店に電話し、漸く手に入れたとあった。CDは言わずと「千の風になって」が入っている秋川雅史の「威風堂々」、タイトルはその第1番がイギリスの第2の国歌ともされるエルガーの名曲だ。前田さんは1日中聴いていたとある。その評は、まだ粗いところもあるが、朗々と歌い上げる様は情感があり、心に響くと。また12曲中6曲が日本の曲、これがまた素晴らしいとも。ただ、ドミンゴ、カレーラス、パヴァロッティらと比べるのは酷だが、これからが楽しみだとも。
前田さんから借り受けて私も聴いた。やはり秀逸は「千の風になって」で、この歌いでは彼の良いところがすべて出し切れているように感じた。何故タイトルをこれにしなかったのかと思ったが、既にシングルが出ていてのことか。後の日本の曲はどちらかというとおとなしく、真価は今一、また英語やイタリア語やスペイン語のは、やはり声の張りや艶は前田さん指摘のように、比べるのは酷だろう。クラシックの歌曲やアリアなどはどうなのだろうか。でも、D.F.ディスカウやH.プライに伍すのは無理だろう。でも彼は音大から大学院へ、さらにイタリアへ留学した実績もあり、更なる精進と活躍を期待したい。
今、「千の風になって」というタイトルの本は、いずれも店頭から姿を消している。注文してもいつお渡しできるか分からないという。最初に刊行された写真詩集は40万部売れたとか。無いと欲しくなるのが人の常、ここでも深慮遠謀がと思ったりする。ところで後で知ったことだが、新井満氏は1994年のリレハンメル冬季オリンピック大会では、閉会式の後に行われる次期開催地のデモンストレーションの総合プロデューサーを、そして1998年の長野冬季オリンピック大会ではイメージ監督を勤めたという。凄い御仁だ。
神は彼に天賦の才を与え給うたか。
年賀状のやりとりで思ったこととある思いつきのまとめ(1.30)
はや平成19年・西暦2007年1月が終わろうとしている。暮れから正月にかけては、毎年孫達6人、その親達6人が一挙に増えるものだから、平生2人の静かな暮らしは6倍の員数増でてんやわんや、でも楽しい年中行事である。その喧騒がもう随分昔のような感がする昨今、雨でスキーにも行けず、思いついて年賀状の整理をすることにした。改めて1通1枚を手に取り、差し出された方々を思い浮かべ、とりわけ平素御無音に過ごしている方達からのには、郷愁を感じながら、特別な思いをもってしみじみ眺めた。百人百色、全く同じ賀状はない。そこがまた楽しい。私と対手との間には目に見えない糸があるように思う。
パソコンが普及してきて、その影響か、年賀状の差出数も減少しているという。しかし私に限ってみると、個人宛の年賀メールはあったもののまだ3通ばかり、また団体に加入していて会員諸氏宛のものが2通、まだまだメールを介しての年賀状といえる類のものは極めて少ない。しかし今後はどうなるのだろうか。ただ宛名をプリンターで印刷してある賀状は毎年確実に増えていて、私の家へ配達される賀状の半数はそうである。私はせめて宛名ぐらいは自筆でと思うのだが。家内はこれまで全く宛名書きをしていないが、勤務を辞めたら私の師匠の前田さんにその奥義を習って、来る平成20年からは私にオンブしませんとのこと、大変助かる。乞う、御期待である。
年賀状のやりとりについては、人によりいろいろな意見がある。朝日新聞にいつだったかある高名な方が意見を寄せられ、儀礼的な、しかも年一回だけのやりとりなど不要と、無意味かつ無駄だとおっしゃっていた。だから意味もなく一言添え書きする「御無沙汰いたしております」とか「お元気ですか、お変わりもございませんか」とか、疎遠で関係もないのにお世辞からか「本年もよろしく」とか、本来なら迷惑なのに「一度お立ち寄り下さい」とか「一度お会いしたいものです」とか、儀礼としての御多幸・御健勝・ご繁栄などなど、そういうものは不必要とおっしゃる。しかしそれも合理的で一理あるが、私とすれば出そうと出すまいとその人の勝手、当人の考えに沿って行動すればよいことであって、他人がとやかく口を挟むことではないように思う。何かそれで他人様にご迷惑をかけるのならば話は別だが。もっとも年に一人か二人、身体が不自由になって賀状を出せなくなったから出さないで下さいとか、故あって賀状による年賀の挨拶は止めにしましたとか、それはそれで尊重されるべきだと思う。ただ私の場合、去るは追わず、来るは拒まずで、出しても来なければ次には出さないし、来れば返すことにしている繰り返しである。当人が亡くなっても、遺族の方とやりとりしているのもある。母が存命中は、母が100通弱、家内が100通強、私が400通弱、今は私が460通弱、家内分が130通弱である。
暮れに年賀欠礼の案内が23通あった。配偶者、親、兄弟が亡くなられての案内である。私の石川県での勤務が35年、やめて10年、齢は70歳、県に限ってみれば、付き合った人達の年齢層は後輩の30歳台から恩師・先輩の90歳台に及ぶ。そのうち60〜90歳台の場合には大概本人かその添い、若い30〜50歳台の方では御両親のことが多い。ある東京大学名誉教授の先生は大変ユニークな方で、もう15年位前にもなろうか、ガンでしかも転移があり、余命いくばくもないことから、元気なうちにと生前葬を行われた。お世話になった方達が大勢出席され、盛大に行われ、先生ももう思い残すことはないと飄々とされていた。その後も何かの折にお目にかかってもお元気な様子で、まだ余禄を食んでいるとおっしゃっていて、その分を本当に有意義に過ごされていることを毎年の年賀状にも託されてきておいでだったが、昨年の暮れに奥様から、主人は96歳にして静かに旅立ちましたとあった。また、ある中堅の電気商会の社長さん、奥さん共々お付き合いさせて頂いてた仲だったが、暮れに急に倒れられ、奥様からは主人は前日まで元気だったのに、私と言葉を交わすことなく65歳で他界してしまいましたと。また衛生研究所時代に、仕事以外にもいろいろ御指導頂いた台湾出身の先生も86歳で亡くなられたと奥様からご連絡があった。年賀状を出す季節、このようなお世話になった人、親しかった人の消息を知るのにも、私にとって年賀状のやりとりは欠かすことができず、無くすことはできない。
年賀状を見ていると実に楽しい。淡々としたもの、すごく凝ったもの、近頃はデジカメでのショットを簡単に転写できることから、結婚した人は二人の、お子さんがいると子供さんの写真を載せてくる。題材が旅行であったり、花であったり、写真の被写体は様々である。外国でのショットも多い。絵もある、書もある、版画もある、篆刻もある。中には本職はだしのもある。見ていてゆっくり半日を費やした。
年賀状を改めて見ていて、ふと賀状の頭に書く枕詞というか頭語というか、挨拶語というか、例の「謹賀新年」とか「賀正」とかいう類だが、何となく収集したくなって書き留めてみた。ここでは松の内に届いた年賀状を対象に、いたずらしてみた。
第1位は「謹賀新年」で161通、次いで「明(あ)けましておめでとうございます」が78通で第2位、第3位が「迎春」、第4位が「賀正」で、各43通と40通、第5位は「謹んで新春のお慶(よろこ)びを申し上げます」で34通、第6位は「(A) Happy New Year, HAPPY NRW YEAR」で31通、「頌春」と「初春のお慶(よろこ)びを申し上げます」が21通で第7位、「新春のお慶(よろこ)びを申し上げます」と「謹んで新年のお慶(よろこ)びを申し上げます」がともに16通で第9位であった。
以下に、10通以下のも含めて、類語的にまとめて記してみようと思う。数が多い順に記した。〔 〕内数字は枚数である。
(1)漢字四字:謹賀新年〔161〕、恭賀新年〔6〕、恭賀新春〔3〕、謹賀新春〔2〕、笑門来福〔2〕、恭賀新禮〔1〕、瑞祥新春〔1〕、新春来福〔1〕。 以上 177通。
(2)漢字二字:迎春〔43〕、賀正〔40〕、頌春〔21〕、賀春〔9〕、初春〔6〕、新春〔3〕、慶春〔3〕、祥春〔1〕、献春〔1〕、慶賀〔1〕。以上 128通。
(3)漢字一字:亥〔2〕、賀〔1〕、慶〔1〕、春〔1〕、 以上 5通。
(4)漢字五字:鶯慶萬歳曲〔1〕。 以上 1通。
(5)「おめでとう」が入る文:明(あ)けましておめでとうございます〔78〕、新年明(あ)けましておめでとうございます〔5〕、新年おめでとうございます〔2〕、あけましておめでとう〔1〕、新年おめでとう〔1〕。 以上 87通。
(6)「新年の・・・申し上げます」の文:新年のお祝いを申し上げます〔2〕、新しい年のお祝い申し上げます〔2〕、新年のお喜びを申し上げます〔1〕。 以上 5通。
(7)「新春の・・・申し上げます」の文:新春のお慶(よろこ)びを申し上げます〔16〕、新春のお祝いを申し上げます〔1〕、新春のお祝詞を申し上げます〔1〕、新春のおことほぎを申し上げます〔1〕。 以上 19通。
(8)「初春の・・・申し上げます」の文:初春のお慶(よろこ)びを申し上げます〔21〕、初春のご祝詞を申し上げます〔2〕。 以上 23通。
(9)「謹んで新年の・・・申し上げます」の文:謹んで新年のお慶(よろこ)びを申し上げます〔16〕、謹んで新年の御(お、ご)祝辞を申し上げます〔12〕、謹んで新年のご挨拶を申し上げます〔2〕、謹んで新年のお喜びを申し上げます〔2〕。 以上 32通。
(10)「謹んで新春の・・・申し上げます」の文:謹んで新春のお慶(よろこ)びを申し上げます〔34〕、謹んで新春の御(お、ご)祝詞を申し上げます〔9〕、謹んで新春をお慶び申し上げます〔2〕、謹んで新春の御祝を申し上げます〔1〕、謹んで新春のご挨拶を申し上げます〔1〕。 以上47通。
(11)「謹んで初春の・・・申し上げます」の文:謹んで初春のお慶びを申し上げます〔3〕、輝かしい初春を迎え謹んでお慶び申し上げます〔1〕。 以上 4通。
(12)「○春を寿(ことほ)ぎ謹んで・・・申し上げます」の文:新春を寿(ことほ)ぎ謹んでお慶(よろこ)び申し上げます〔2〕、初春を寿(ことほ)ぎ謹んで御祝詞を申し上げます〔2〕、謹んで新春を寿ぎ皆々様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます〔1〕。 以上 5通。
(13)「・・・お祈り申し上げます」の文:初春を迎え皆様のご多幸をお祈り申し上げます〔3〕、幸多き年でありますよう心からお祈り申し上げます〔1〕。 以上 4通。
(14)「その他」:佳き初春をお迎えのことお存じます〔1〕。 1通。
(15)英語:A Happy New Yearもしくは全大文字〔16〕、Happy New Yearもしくは全大文字〔15〕。May your new year be filled with Peace & Happiness 〔1〕。 以上 32通。
熱から脳を守るしくみ〔マーラー的脳冷却学〕の紹介(2.8)
この度、永坂鉄夫先生と小川徳雄先生が共著で、表題の書を上梓された。脳を熱から守る仕組を「選択的脳冷却」というのだそうだが、これは日常生活やスポーツで遭遇する熱中症での脳機能失調と深い関係がある。このような機構は温血動物には広く認められることらしいが、ただヒトでは異論を唱える方もおいでるらしい。その仕組を完全に理解するには、少なくとも解剖学的、生理学的な知識がないと困難な印象を受けたが、ここでは今の私達の生活とも強いつながりをもっている部分を紹介してみたい。紹介といっても本からの抜粋でも十分に理解が深まるのではと思い、抜粋した。抜粋の部分は、『・・・・』で示した。
著者らは「はじめに」の中で、『ヒトがもつ「選択的脳冷却」の仕組と意義、価値を、医師や医療の分野で働く人たちだけでなく、先入観のない一般の読者にも分かりやすく解説することは極めて重要なので、したがって本書は、生理学者だけではなく、医師、医学生、パラメディカルの研究者や学生、体育の指導者や運動競技選手、その他一般の知識人にも読んでもらえるよう、この本の内容を学会講演会の実録風にし、題名を「熱から脳を守るしくみーマーラー的脳冷却学」とした。この本が皆様の興味を引き、選択的脳冷却の仕組が生活の場で応用されるようになれば、著者らの幸せこれに過ぐるものはありません。』と述べている。
ところで、ここでの論点である「ヒトでの選択的脳冷却」については、冒頭「選択的脳冷却についての著者らの主張」にすべて網羅されていると思えるので、以下に抜粋する。
『夏の暑い時にマラソンなどの激しい運動をすると、その人の体温は著しく上昇し、時には42℃あるいは43℃を超すこともある。ところで、もし脳温が体温と同じように上昇すると機能が保てなくなり、熱中症のような重篤な症状が出て死亡することになる。しかし幸いなことに、哺乳類や鳥類などの温血動物には、体温が上昇しても脳温を体温より低く抑える仕組が備わっていて、体温が熱中症の危険があるレベルに上がっても、脳機能は正常に保たれる。これが「選択的脳冷却」と呼ばれる仕組で、このような現象は、はじめネコやヒツジで観察され、これらの動物では、外頸動脈が頭蓋底で細い網目状の特殊な血管に別れて頸動脈網を形成し、そこを流れる動脈血が鼻粘膜からくる静脈血で冷やされ、冷たい動脈血となって脳へ流れ込むために、たとえ体温が高くても、脳温は低く保たれる。』
『しかし、ヒトの頭蓋底には頸動脈網のような血管構造はない上、暑くなってもイヌのように「パンティング」という浅い速い呼吸で上気道粘膜からの粘液の蒸発を促進して、頭蓋底の静脈に冷たい血液を供給して脳温を下げる仕組もない。これを理由にヒトには選択的脳冷却がないと主張する研究者もいる。確かにそうだが、ヒトではその代わり、頭部で大量の汗をかき、その汗の蒸発で頭部の皮膚が冷やされ、そこを流れて冷やされた静脈血が様々な経路を辿って頭蓋内に流れ込み、脳は伝導で直接に、あるいは対向流熱交換によって冷やされた脳動脈の血流で冷却される。さらに暑くなると、ヒトでも呼吸気量が増えて、上気道粘膜からの蒸発が増え、これも脳へ行く動脈血を冷やす働きをする。』
『脳温の測定といっても、健康な人の脳に温度計を挿すことはできず、私たちは代替として鼓膜温を測定している。これには異論を唱える人もいるが、正しく測れば、脳温の代替として鼓膜温は現在最も信頼のおけるものである。』
『著者らは、自分たちが行った様々な実験結果から、ヒトの「選択的脳冷却」を肯定する立場に立っている。この高体温時のヒトの「選択的脳冷却」は大変重要な生理的反応で、この仕組を、暑熱環境下でのスポーツ、労働、がんの温熱治療、救命医学などの実践の場で応用することにより、そのような場での高体温の人体への悪影響を著しく軽減できると考える。』
次いで、「選択的脳冷却」の仕組についての講演や討論は本書を参照していただくとして、以下にはこれを応用して実践に生かすスポーツ分野での提言について抜粋する。
『多くのスポーツは長い激しい筋運動を伴う。筋が収縮すると、使ったエネルギーの70%ほどは熱エネルギーとして放出されるので、体内にこの熱を放出する能力が弱いと、熱が体内に溜まり、体温が上昇する。この体温の上昇は、筋肉の活動をスムーズに行うために都合がよく、だから選手は競技前にウォーミングアップを行う。ところが、長距離を走るスポーツでは、特に夏の暑い時期での競技では、この体温上昇がパフォーマンスの制御因子として働くようになりかねず、ここがこれまでよく理解されていなかった。これが理解されるようになって、長距離の競技の前には、筋を冷却することが活動を長く高く維持するのに有効だとして、筋あるいは全身を競技直前に冷却・プレクーリングしておくことが試みられるようになった。実験でも、顔面送風した群の方が筋収縮運動を有意に長く継続でき、そうでない群は運動を継続できる時間も短く、脳温も高かったという。』
『この実験を契機として、いろんな実験がされたが、これらの実験結果をどのようにスポーツ現場に応用していったかについてお話する。スポーツ競技ではしばしば汗取りの目的でヘッドギアーが用いられ、日本人ならさしずめ鉢巻だが、高度な能力が要求されるスポーツ競技では、頭部に熱絶縁物を着用することは好ましいことではない。実験でも、ヘッドバンドや帽子を着用して運動した場合、対照に比べて明らかに鼓膜温の下がりが少なく、頭部からの熱放散を阻害し、選択的脳冷却の効果を減退させる。このようなヘッドバンドやきつい帽子などの着用は、トレーニングや愉しみで走る時はよいが、高いレベルの身体機能を長時間維持しなければならない国際的なマラソンや長距離自転車競技、冬でもクロスカントリーのスキーなどでは、これは絶対避けるべきだと思う。陸上の長距離走者で時々ヘッドバンドをしている人を見かけるが、そんな競技者にマラソンで優勝するような者はほとんどいない。』
『夏になると、時々競技中の選手の突然死が報道されることがある。夏だと大抵は熱中症で片付けられてしまうが、そのような突然死は冬でも起きる。気温がそれほど高くない時に長距離の自転車競技などの選手に突然死が起きると、大概その原因を心臓発作とかにしてしまうが、冬でもその死因はほとんど熱中症だ。ある新聞でツールドフランスに参加した選手の死亡記事があり、一人は長い下りの山道を下り終わってから、今一人はゴールしてからの死亡だった。文献によれば、かなりの数のジョガーやサイクリストが競技中に死亡しているが、運動をし終わってから死亡している人の数がかなり多い。それはなぜなのか。そんな時の体温や脳温はどうなっているのか。実験でよくトレーニングを積んだ9人のランナーをトレッドミル上で、徐々にそのスピードと傾斜を上げながら走らせ、平均の食道温が39.77±0.07℃になった時に運動を中止する。運動中は実際の競技の場における条件を真似て、風速3.75m/秒の風を顔面に吹き付けていたので、運動終了時では鼓膜温は食道温より1.5℃低くなっていた。この時点で一組は顔面送風を中断し、もう一組は運動終了後さらに15分顔面送風を続けた。その結果、前者は運動をしてないにも拘わらず鼓膜温はさらに0.5℃近く上昇し、4.5分後にピークに達した後に徐々に下降したが、15分の測定終了時でも食道温より有意に高い温度を保っていた。これに対し後者では、鼓膜温は僅かに上昇した後、急速に下降し、食道温より有意に低い値を保った。これはとても示唆に富んだ結果で、レース終了後に頭部周辺の対流が突然停止すると、それが脳温の「後上昇」を引き起こし、熱中症が起きると考えられる。脱水症状でゴールしたランナーでも、走っている間はまだ頭部に空気の対流があってゴールできたが、こんな選手には、ゴール後は顔面に送風し、頭部に水を噴霧するような応急処置が必要だ。』
『頭に風を送り、頭からの汗の蒸発を促進するだけでなく、鼻腔粘膜からの熱放散を促進するために、運動中には鼻孔から外気を吸って口から呼気を吐き出すような呼吸を意識的に行ったり、呼吸量を増やすために鼻孔を広げたりすることが自主的に行われているが、その科学的、生理学的な根拠をよく把握していないのが実態である。熱放散が期待され難い高温多湿の環境で長時間スポーツをする時は、選択的脳冷却の仕組が分かっているか否かによって、その人の競技の成績が違ってくる可能性が十分ある。最大の運動能力を発揮する上で、高い脳温は制限因子となるので、とにかく競技中は全身からの熱放散よりも頭部からの熱放散に心がけ、ヘッドギアーの着用を止め、鼻孔を開き、息を鼻から吸い口から吐き出すよう、選手ややコーチに勧告したい。元来オリンピック選手のようなトップアスリートの運動能力は極めて高いレベルにあり、かつ接近している。したがって、それ以外の因子、すなわち脳冷却を促進させるような方法を採るか採らないかが、競技の成績に決定的な差となって表れるのではないかと思う。』
以上、簡単な抜粋で「選択的脳冷却」の概要について記したが、元より十分な紹介ではなく、興味のある方は、ぜひ表題の本を参照していただきたい。
お酒解禁以後半月前半の動向(2月1-8日)(2.14)
この度は全く経験したことがないような高い血圧に出くわし、度肝を抜かれたが、あの時からは過度の飲酒は止めねばという境地に至った。やはり酒は楽しむべきもの、考えてみるまでもなく、身体を壊してまで酒を飲むとなるということははなはだ疑問で、となると、これからは「節酒」で、目安はこれまでの半量の2合としよう。振り返れば、先月15日から月末の31日までの17日間、入院時以外では最長の「禁酒」となった。これまではせいぜい1日、それも年に1回くらい、しかもそれは風邪や飲み過ぎでの体調不良時のみ、これは身体が酒を欲しくないという自然な成り行きのせいであって、禁酒とか積極的な休肝ではなかった。しかし今回は少々ニュアンスが異なり、これも一つの節目と思い、主治医の意地の悪い今月一杯の禁酒令にも文句も言わずに応ずることにした。ところで、わがパソコンの師と仰ぐ前田さんが中途から連れションならぬ連れ禁酒に賛同してくれたのには感激した。そこまで付き合わなくてもとも思ったが、そこは前田さんのこと、敢然と立ち向かわれたのには感服した。しかし、もう解禁間近というある日のブログに、せっかく今まで培ってきたアルコール分解酵素の産生が低くなっていて、お酒をあまり飲めなくなっているのではと心配されているのを見ると、悪いことをしたなあという自責の念に駆られた。とはいえ、2月1日の診察で、「飲み過ぎないよう、ほどほどに」というお墨付きを頂いて、どうやらお酒解禁となった。
この間、カミさんもほぼ付き合っての禁酒だったので、2月1日の晩は祝杯をあげた。久々に飲んだお酒は甘露の水、摘みのピンク色した鱈の白子がピッタリ、美味しかった。禁酒の間は、お酒の代わりに健康茶を飲んでいたが、どうも間が持てなかった。1週間はまずスイスイだったが、2週目に入ると、とてもお茶では生活の歯車が噛み合わないなあという違和感がついてまわった。やはり「ケ」が付かなくてはリズムが合わない。しかし、18日ぶりのお酒は2合で丁度ほろ酔い、程よい心地になった。これでよいのだ。
今、小生の宅では、飲料水は井戸水、それも簡易水道ではなく、ずっと前に共同で掘った深さ50mばかりの共同井戸、この水が実に美味しい。簡易水道法施行以前のものなので、まだ現役で頑張っている。そのもっと昔は各家に最低1本の井戸はあったものだ。水位が高くなる頃には2m位になったものだし、浜手では自噴していた。ところがこの美味しい井戸水の水源の共同井戸の使用を止めてほしいとの地権者からの無理難題、でも今の地権者の先代の了解を得て、オリンピックの開催年に掘削したものと経緯を知っている人がいて、何ら心配はないとのことで、2月2日晩の寄り合いは一段落、一転してシャンシャンの一杯飲みの会となった。当時は22世帯加入していたが今は9世帯、寄ったのは8人、今は「断酒」してしまったという御仁もいたが、初めて飲み交わす人もいて、小生の断りは通ぜず、ずるずると最後まで付き合う羽目に、しかもビールと酒が次から次へと出てくるのには参った。帰宅してカミさんには、控えて控えて少々飲んだとだけ報告しておいたが、バレないかと内心ヒヤヒヤ、さすが家では酒は控えた。会費が無料だと、平生余り飲まないのに、飲み溜めする人がいることも分かったが、あまり見よいものではない。
開けて2月3日は節分、小さい時は祖母も居て豆まきもしたが、今は家内と二人暮らし、カミさんを鬼に見立てたとしても、「鬼は外」とは当然言えず、「福は内、鬼も内」だ。テレビを見ていると、所によっては鬼は居ないとのことで、「福は内」としか言わない地方もあるとか、様々だ。スキーは明日が瀬女高原スキー場感謝デーなので、明日出かけることにして、今日は中々理解できないでいる永坂先生からの「選択的脳冷却」の御本をもう一度精読することにする。家内は勤務。節分の夜はワインを半分ずつ飲むことにして、本当はカミさんが半分飲む予定が、欲しくなくなったと仰るものだから、じゃ私がと申し出るとそれは駄目だと。これまではフルボトルを半分残すなど、思ってもみなかったが、カミさんの目と明日のスキーを考慮して、御忠告に甘んじた。
翌2月4日の日曜日は立春、快晴で放射冷却でバリバリだ。近頃のスキー場は往年の3割の人出、まさか満タンになることもなかろうと、家を7時半に出る。1時間後、瀬女の駐車場に着くと、これまで経験したことがない混みよう。とてもこれでは滑れまい、と観念して帰ることにする。訊けば5千人超の人出、平成8年のある日以来とか、この感謝デーは中学生以下が無料とかで、子供で溢れていたとのことだった。子供に託けて大人を誘う魂胆と聞いて、いろいろ考えるものだと感心した。それではと、セイモアスキー場へと回る。でもここでも車は駐車場からは溢れて、道路に延々と。これでは浮かばれないと、ここも断念して帰宅することに、明日も天気は好いというから、年休をとって瀬女へ出かけることにしよう。帰ってから小千谷の小嶋屋の「へぎそば」を食した。乾麺ながらあのフノリの感触が味わえ、極めて喉越しがよい。カミさんは今月から土・日・休日利用のトレーニング・ジム通いで不在、ようやく肥満対策。晩は昨日の残りのワインと豚肉タップリのシチューで済ます。何となく少々物足りないが、ここは踏ん張りどころか。
2月5日月曜は年休をとって瀬女高原へ、昨日と違いガラガラ、8時半から3時まで、しっかりと滑った。朝はガリガリ、昼は少し緩んだものの、快適な1日。白山は真っ白、東には荒々しい笈ヶ岳と純白の大笠山、セイモアの対面の口三方岳、続く中三方岳、更に奥三方岳、奈良岳へと続く山並み、北に中宮、南に一里野のスキー場が見える。手取湖も真下に。晴れて眺望もよく、楽しい1日だった。今日は喉も渇き、風呂上りに第3のビール500mLを3本消費した。でもこの日は運動したせいか、3本ではさすが物足りなかった。カミさんは2本消費、オコボレはなかった。血圧は朝6時と夜10時に測っているが、このところ、上は135〜150、下は70台で、若干飲み過ぎても飛び出た値にはならないのは嬉しい。ただ、糖はノーチェックだ。カミさんはというと、130台/80台だ。
続く2月6〜8日の晩は、メインが差し入れの極上霜降り牛肉のしゃぶしゃぶ、おでん、鱈ちりで、お酒は2合とビールもどきを250mL、これはカミさんが500mL 2本は多いからと私に半分を武士の情けで下げ渡してくれるからで、これ以上は望むべきもない温情だ。かくゆうパターンはこれからも続きそうだ。
お酒解禁以後半月中半の動向(2月9〜12日)
2月9日はOEK216回定期公演の日、ピアソラとヴィヴァルディの作品の演奏、マイケル・ダウスの引き振りで、前半はピアソラの小品、これはこれで良かった。しかし後半はヴィヴァルディの四季(春・夏・秋・冬)の間にブエノスアイレスの四季(夏・秋・冬・春)を織り込んでの演奏だったが、対比されるべき曲も、こうも曲想が異なっていると、鑑賞する側としては極めて異質で調和され難く、演奏は難しく出来が素晴らしかっただけに、それぞれを鑑賞した方が、より高まりも素晴らしかったろうにと少々残念であった。単なる趣味でのミックスは、商品価値を下げかねない。演奏後、アンコールでの故岩城宏之さんへ捧げられたピアソラの鎮魂歌は実に素晴らしく、ジーンとするものがあった。終わって10時近くに帰宅すると、カミさんは飲まないで待っていてくれた。今晩は水餃子とつみれに豆腐、お酒は三楽2合、それに例の後下賜のビールもどき、カミさんはビールもどきのみ1本半、定容量である。明日2月10日は探蕎会総会だ。
総会当日は生憎の雨、傘を差して雨の中を歩く元気もなく、タクシーにする。世話人は10時集合とのこと、家を9時20分に出た。出てしばらく、酒を忘れたのに気付き、一旦バックして家へ取りに帰る。会場のKKRに着いて、デジカメを忘れたのに気付いたが、後の祭り、今回は無しだ。定刻5分後に開会、会員37名に非会員の演奏者1名、今期で廃業と言われる大聖寺南郷の山英の親父と、全部で39名。招待していた丸岡蕎麦道場の面々は都合で欠席となった。司会は、以前は北陸放送においでた植松さんが取り仕切っておいでだったが、体調を崩されてからは、何故かお鉢が永坂先生と小生に回ってきて久しい。総会本体は先生、私は総会後のコンサート以降の諸々の進行、飛び回っていれば余り飲めもせず、身体には好いか。10年目を迎えた総会では、波田野会長が挨拶、前田事務局長の行事・決算報告、役員改選での寺田新世話人と野村新事務局員の選任と就任挨拶、久保世話人からの行事計画説明があり終わる。因みに昨年9回行事があったが、その全部に参加した人が3人いた。よくぞ素晴らしいの一言。さて、探蕎新春コンサートは恒例となって、今年はヴァイオリンの江原千絵さんとてチェロの福野桂子さんのデュオ、終いに近くなるにつれ段々息が合ってのってきた感じ、皆さん初めての方も堪能されたと思う。3日後の13日には他に2名が加わって、北国新聞会館1階「杜」での第80回芸文協コンサートに出演されるとのこと、またぜひ聴きたいものだ。終了後、お二人を交えての懇親会、乾杯の発声は塚野世話人、おいしいそばに出会えることを祈念してと言うあたり、本当のそば打ちを目指す方の心情の吐露が伺えた。次いで会食、乾杯のビールの後は、会長や世話人持ち寄りの清酒とワイン、しかし全部は消化できなかったようだ。この間、南極越冬も経験された小山新会員のほか、発言希望のあった大場先生、永坂先生、野村さん、山英さん、廃業されるという山英さんを偲んでの波田野先生の詞、後は勝手に指名させてもらって、岩先生、江原・福野デュオカップル、原さん・松川さん、新田さん・西田さんにスピーチをお願いした。中々内容のある楽しいお話が聞け、2時間はあっという間に終わった。最後に越浦先生の閉会挨拶の後、記念撮影をして散会した。この間、小生はビール、お酒、ワインを飲んだが、その量は定かでなく、役目もあってそんなに飲んではいないだろうと思うことにする。
この後有志は新田世話人経営の「遠野」へ出向き、9人ばかりで反省会、小生ここでは清酒、焼酎、ウィスキーなど、控えめにしてたと思うが、如何ばかりか。また更に反省が必要だったかどうか定かではないが、勢いで我が家へ前田・松田・池端の面々がおいでた。話の内容を覚えていないということは、反省になったのかどうかは疑問だ。飲み物は金箔入り純米酒、ここで漸くお開きとなった。辺りは暗くなりかけていて、カミさんも丁度トレーニングを済ませてのご帰還、前田さんの奥方にはお世話をかけた。
翌2月11日は小生の誕生日、旧紀元節、今は建国記念の日である。カミさんは用事があるとかで外出、私は3人の息子から、おそらくは誕生日祝いの品が届くのではと思い、自宅待機することに。10時から14時にかけて、祝いの品が届いた。ナショナルの血圧計、デサントのミッドウエアと孫二人が描いた私の似顔絵、そして素敵な茶器セット、おまけに家内の姉と姪から流行のストライブのネクタイまで頂戴した。バレンタインチョコも入っている。感謝々々である。有難い。夕方カミさんと今年初めて「敬蔵」へ寄る。生ビールで乾杯、「そばづくし」に黒帯の熱燗を片口に、寒さがとぶ。もう1杯、そばは細打ちの「もり」2枚と鴨南蛮を所望、お腹もふくれた。お客も少なく、久しぶりに主人とゆっくり話ができた。
2月12日は振替休日、八方へでもスキーにとカミさんの提案だったが、午前中は天気の回復が思わしくないようなので、再び蕎麦に。「山猫」にとの希望だったが、摘みが少なく「草庵」ということに。10時20分に家を出る。50分に着いた。中で聞くと今日は11時からとか、総会で久保さんからオーディオを備えられたと聞き、それも見たかった。時間前に入れてもらって見入る。これは本格的だ。奥さんでは主人は前から凝っていて、自宅にあったのを此処へ持ち込んだとか。他に誰も居なかったので、主人は1曲とサラサーテのツィゴイネルワイゼンをかけてくれた。まだCDでは調整が今一なのでとのことだったが、凄い迫力だ。土間の一番聴きが良い場所に掛けて聴かせてもらった。お客によっては聴き障りな方もおいでるやも知れず、客がいる時はBGMだけだとか、主人ではこれをお目当てにおいでる客もあるとか、この日もそんな客が一人いた。カミさんは鰊がお目当てだったがなく、天ぷらの盛り合わせ、板わさ、出汁卵を摘みに、カミさんは蕎麦茶、小生は始めに「十四代」次いで「四季桜」留めに「八海山」を貰う。いずれも風味のある酒だ。蕎麦は、カミさんは冷たい「おろしそば」、小生は鴨南蛮、そばはともかく、鴨と葱は素晴らしい。帰り際、主人が出てこられて、平日の3時過ぎだったら、お客さんも少ないので、オーディオを聴くことができますとのこと、一度訪ねたいものだ。お客が溢れてきた。奥さんにも挨拶して辞した。ほろ酔いで、久しぶりに白山市番匠にある画廊「ノア」に寄る。女主人は居なかったが、留守の女の子とひとしきり、地元の女流画家の絵画を鑑賞する。帰宅して、カミさんはジムへ直行、小生は留守居、デジカメ写真の整理、家の花や山の花の未整理が1千枚以上、せめて選別位始めておかないと。カミさんが帰って間もなく、カミさん勤務の病院の物療主任、脳溢血で危篤だったが亡くなったとの電話。倒れて1日半で他界、ピンコロも良いが何も言わずにのお別れは寂しい。この人は大の酒好き、でも血圧が高く、お酒は程々にと言われていたのに、連休とのことでしっかり飲まれた由。夜にトイレへ立っての発作だったと。小生も他山の石としなければ。カミさんは運動の後とてビールもどきを2本、小生はお酒1合、摘みが刺身じゃお茶というわけにはゆかないて。デパートの刺身も乙なもの、タイ、ヒラメ、ガンド、マグロ、ホタテ、サヨリ、甘エビ、タラの子付け、そして鱈子の煮付け。今晩も誕生祝の続きみたいだ。 (つづく)
お酒解禁以後半月後半の動向(2月13〜15日)
2月13日はOEK第2ヴァイオリン主席奏者の江原千絵とその仲間たちによるバレンタインコンサートの日である。午後6時開場、6時30分開演だが、協会を5時に出ては6時には間に合わない。予め席をゲットするようお願いすることも出来ない相談ではないが、何となく気が引ける。そこで5時前に帰ることにする。このコンサートは石川県芸術文化協会(略して芸文協)が主催で、今回が80回の節目、月に1回の頻度で開催されていて、OEKのメンバーがかんでいることが多い。ところで探蕎会の総会で、野村さんから、実は私は芸文協の設立から発足時の運営で専務理事をやっていたと話されたのにはびっくり仰天した。江原さんもアッと驚いておいでた。彼女は年に1回はこのステージに立たれる。聴くのに良い席を取ろうと思うと、自力ではやはり5時半に北国新聞会館には着きたい。とすると、協会は4時半に早引けしないと間に合わない。何となく江原さん以外では出席したくないのはその辺りに遠因がある。2,100円と安く、しかもドリンク付きとあって条件は好いのだが。
この日のお昼に用事があって家へ立ち戻った。実は2月9日の朝、書斎にしている部屋の天井から雨漏りがして、朝出勤前にバケツと大量の新聞紙を動員してその対策にやっきとなった。屋根での場所は見当付いていて、ずれた瓦を元へ戻せば直るのだが、大屋根は急勾配な上に高く、濡れていてはとても上がれない。カミさんは私に屋根に上がらないでと、知った業者に頼むからと言う。でもよいが、取りあえず応急処置をしないとと私、いつ来るとの確約もなく日が過ぎ、そのぎりぎりが13日だったわけで、14日からは雨風だとか、昼なら屋根も乾き上がれると踏んで戻った訳だ。屋根専用の地下足袋を履き、大屋根に上がると、案の定、雪止め瓦がずれていて、木羽板が濡れていた。後で業者に場所を示すのに確認をした。北面・上八・東十。これで来冬までは大丈夫、雨や風では瓦はずれない。大敵は雪だ。平瓦にすれば、抵抗はなくなり大丈夫かも。
協会を4時半に発ち、家に車を置き、バスで会場に向かう。着いたのは5時20分、既に10人ばかり、探蕎会の松田さんが先着、5時30分でもまだ20人ばかり、6時開場で江原さんが演奏される場所に近く席を取る。隣は寺田先生、最前列の中央に松田さん、他の探蕎会の人達は奥の席に、前田さんでは会員10人が来場とか、江原さんの時は何時も盛況で、椅子を追加することが多く、今回もそうだった。開演前に梅酒3杯とビール2杯に摘み、微かな酔い状態に、どこが協賛しているのだろう。前半はピアノの鶴見彩さんと江原さんとのデュオで、エルガーの愛の挨拶、ドビュッシーの月の光と美しき夕べ、フォーレの悲歌、ショーソンの詩曲、ポンセの小さな星など、詩曲を除いてはポピュラーな小品、詩曲を生で聴いたのは初めて、フランス系で締めているのはセンスが良い。休憩では再び梅酒とビールを2杯ずつ、今回はサンドにもありつけた。後半はフォーレのピアノ四重奏曲第1番、探蕎会で演奏されたチェロの福野さんとヴィオラの内山さんが加わっての演奏、30分ばかり、室内楽を堪能した。アンコールにはショーソンのピアノ四重奏曲の第3楽章、牧歌的な響きが素敵だった。こうして感動の内にバレンタインコンサートは終了した。帰りに江原さんと福野さんに挨拶して帰りを急いだ。折りよくバスに乗れ、我が家へ、家がバス停のすぐ傍なのは実に好都合だ。カミさんに少々飲んだことは内緒にして、いつもの定容量、お菜はタップリの八宝菜、我が家では久方ぶりだ。念のため血圧を測るが、アルコールという血管拡張剤を飲んでいるせいか、極めて正常、明日の朝が問題か。
開けて14日、朝の計測ではいつもの範囲内、降圧剤にはカルシウム拮抗薬のジヒドロピリジン系の第三世代を1日朝食後1回だけ服用している。これからもずっとご厄介にならなければならないのだろうか。作用持続時間が長く、長期内服による心事故予防作用が示されつつあるとある。今晩は急逝された物療主任の方のお通夜、カミさん出席で、小生は用意してあった〆鯖とおでんで三楽を2合飲む。カミさんが帰ってきて、預かっていたというバレンタインチョコをごそっと渡される。都合6個、協会の職場からも貰って、計7個になった。これまでは貰っても食べなくて、時にチュー公の餌になっていたが、昨年からは全部消化することに、ブランデーのお供である。昨年はロゴをすべて記録した。今年もそうしよう。
お酒解禁から半月、今日が15日、朝と晩の計測も、長男からのナショナルの血圧計の取説には、4〜5分おいて2回測りなさいとある。そこでオムロンでは2分間隔で3回測ることにした。メーカーにより特徴があるようで、上は大体よく似かよっているが、下はナショナルの方が10程度高くなる傾向にある。生理的にどうなのか、不勉強なので分からないが、おいおい勉強しよう。
私の協会における肩書は検査部顧問と協会評議員で、義務的な実務は全くない。ただ日常では、春と秋に実施される学童健診で行われる蟯虫検査には極力協力することにしている。何しろ県内の9割を網羅しているので、その数は相当なものだ。協会設立当初の業務は寄生虫検査だったこともあり、県に占める割合は多い。現在での主力は出張や外来の健康診断で、付随して各種検査を実施している。今日、健・検診や検査の質が問われるようになり、協会では6年前に国際的な品質管理システム(ISO9001)を導入して、健・検診や検査の一挙手一投足をマニュアル化して対応している。毎年定期的な審査があり、3年に一度は更新審査があり、維持するにはかなり金がかさむ。また健・検診が多いことから、利用するお客様のいろんな個人情報を管理しなければならないこともあって、2年前には情報セキュリティマネジメントシステム(ISMS=ISO27001)を導入した。個人情報の漏洩は絶対あってはならないことだが、昨今、時々漏洩が報道されている。これも毎年の定期審査と更新審査がある。今月末に私が所属する検査部が後者の定期審査を受けることになった。平生はどちらかというと必ずしもマニュアル通りにとはいえないだけに、対処は大変である。私も現役の時には何回か対応したが、書類の完備だけでも相当な負担になる。環境管理システム(ISO14000)も一時はブームで各自治体や事業所がこぞって取得したが、この前の新聞報道では、確かに節約にはなるが、経費がかかり過ぎて脱落する団体が多く、石川県は独自に追随できるシステムを構築中とかだった。取得のメリットは当然あるものの、その維持に法外な経費が要るとすれば考えざるを得ない。とにかく、これから月末までは大変だ。
昨日今日と発達した低気圧の北上で、春一番が吹き荒れた後は典型的な冬型、寒気の南下がなかったから良かったものの、大荒れだった。カミさん勤務の病院でも社会保険事務所の立入検査があり、今年は噂の女の辣腕担当官のお出ましで、これまでにない厳しさだったとか、その人実は近所の人で、カミさんには一見低姿勢だったが、ほかの職員には威圧的で、一切手抜きなし、くたくたにされたと言っていた。それかあらぬか、私の通常の帰宅時間の6時20分には既にご帰還、珍しいこともあるものだ。今晩は久方ぶりに卓上天ぷらとしよう。海老、細魚、烏賊、茄子、長芋、大葉、蓮根、タラの芽、独活。揚げたての暑いのを、小生は天然塩で、カミさんは大根おろしと天つゆで、酒は小生三楽2合とビールもどき1本、カミさんはビールもどき2本、どうもお酒2合の範疇が維持されなくなっている。
さて、15日間のお酒の総括をしてみよう。ビール類は5%なので、容量が500mLだと、お酒1合に該当させられる。そうすると、家での晩酌は概ね2.5合、出入りはあるが、これが平均酒量である。こんな日が9日、4合もしくはそれ以上の日が6日、トータルすると46.5合、平均すると1日3.1合となった。やはり4合から急に半量の2合というのには若干抵抗があったということか。でも家ではこれからも一晩2合+αで対処しよう。
雨の東京マラソンと再々見の「たなか」(2.21)
2月の初めに東京にいる叔父の後見の方から電話があり、一度出向いてほしいと連絡があり、急でしかも大事な話とのことで、家内と相談し、17日と18日の土日に出かけることにした。年に3回は見舞いに訪れていたが、今回は何か督促されているような印象なのが気になった。私の父が長男、東京の叔父は次男、大正5年丙辰の91歳、一時弱られたなあという感じのこともあったが、今はお元気な様子、子供は生後間もなく亡くなり、奥さんと二人住まいだったが、奥さんは5年前に他界。以後は独りで生活は出来ず、奥さんの妹の娘さんが身の回りの世話をなさっている。数字に明るく、高級志向で、口癖は教え子から何人も大臣が出ていると、会うとよく聞かされた。今はケアハウスにおいでるが、お一人きりなので、その土地・建物・財産を狙って、いろいろ画策している輩がいて、後見の方がいない時を見透かして現れて談判されているとの病院の方々のお話。身内といっても甥の私が最も年上なこともあって、たっての願いとあれば、万難を排しても行かざるを得ない。後見の方にも話せないこととは何だろう。
金沢を午後1時過ぎの電車で発つ。好物のチーズ鱈と正真正銘のビールを1本、乗ったら飲むというのは決まりみたいなもの、越後湯沢までに1本、新幹線で1本、ただそれ以上はカミさん同伴では無理というもの、普通ならこれで定量だが、今日は特別。東京で降り、お茶の水で乗り換え、飯田橋で下車。折りしもザーザー降り、初めてのホテルはつい2、3分の近さらしいが、方向を誤るとエライことになるので、タクシーにした。車はガード下で拾ったからいいようなものの、駅ではドヤされたに違いない。天の助け、助かった。何時もは宿はワシントンと決めていたが、新宿ワシントンは満タン、受験もさることながら、明日は東京マラソン、それも都庁前出発、都庁がすぐ傍のワシントンに空いてないかと聞くこと自体が野暮なことだった。しかし、雨なのに濡れもせず、部屋に納まった。ここも満タンらしいが、よくぞ良いホテルを世話してもらえた。部屋も広くて上等。しかも2千円の朝食がついて、〆て6万4千円、よいエージェントにめぐり合えたものだ。
夕食はホテル内のレストランへ、かなり混んでいたが、折りよく空いた窓に近い席へ案内された。宿泊客ばかりでなく、ラフな格好の人も多いよいうことは、外からも入って来られるようだ。5千円以上出すと、バイキング形式の席もあるようだが、こちらはフルコースまがいで好きな品を頼むことに、オードブルのチーズの盛り合わせは実に豪華で8種もあって量も満足、取りあえずは生ビールで乾杯、家内はビール、私はワイン、当然ターフェルである。当初グラスできたが、赤のフルボトルにした。頼んだ品が順に出てくる。好きなものを取るのもよいが、じっと座って飲むのもよい。かなりの酒量になったのに、カミさんからはきついお言葉はなく、極めて友好的に夕食を終えることができた。環境の変化によるのか、余の人徳によるのか、この際は野暮なことは口にせず、楽しく和すのみ。でも今晩はこれ以上飲むのはよそう。風呂も大きく別室、なかなか良い間取りだ。
翌日も雨、西武池袋線に乗って、ひばりが丘まで、取りあえず池袋まで出なくては、地図を見ると、地下鉄が最も近そうだ。ひばりが丘に11時に着くようにしよう。そして例の「たなか」でそばを食べて、病院へは午後1時頃に行こうと予定した。相手方に電話したところ、此処までとも仰ったが、でしたら雨なのでひばりが丘の駅まで迎えに行きますとのこと、有難く頂戴した。いつもは相手方の馴染みの洋食屋さんだが、今回はそばに合わせますと仰ってくれた。ホテルを9時半に出ることにする。朝食の和食は立派な構えの料理屋風情、夜は8千円以上、朝もまともなら2千3百円、料理も立派、感心した。一献欲しいところだが、我慢々々。
予報では止むはずだが、雨は止んでいない。東京マラソンの号砲は9時10分。ホテルで駅までの道を聞く。タクシーはと聞くと、2、3分ですからご勘弁をと言われ、傘を差すことに、お土産の荷物がやけに重い。ホテルを出ると、威勢のいい太鼓の音、何事かと見ると、マラソンランナーへの群れへの気合入れ、太鼓が10個ばかり、若い姐さん達がもろ肌脱いで頑張っている。ランナーはというと皆透明ビニールの雨合羽、3万8百人全員に用意したと、ボランティアの方が話す。しばし眺める。ここは飯田橋、出発して5kmの地点、簡易トイレが置いてあるが、入れず小路に入って電柱に向かっての放水、時間は9時半、まだ出発してから20分程度なのにこの有様、雨が降っているからそのまま垂れ流してもよいのではと思ったが、そうもゆかないのだろうか。大変だ。それにしても3万人、登録だけでも大変、冷たい雨の中、少なくとも1時間前には集合しなければならなかったろうに、後で新聞を見たら、出発時に用を足せなかった人が大勢いたとか、生理現象とて致し方ないか。女性はどうするのだろう。とにかく都心の目抜き通りを7時間余りも交通遮断してのこの行事、都と陸連の主催というが、沿道では東京新聞の旗が振られていた。まだ5km地点、さすが歩いている人はいなかったが、聞けばトップはもう芝増上寺辺りでしょうとのことだった。まさかマラソン集団に出くわすとは、たまげた。
地下へ潜って、とにかく標識を頼りに地下鉄有楽町線の飯田橋駅へ、乗って西武池袋線池袋駅へ、やっと見覚えのある駅に着いた。時間を遅らせて急行に乗る。これだと途中1駅しか止まらないので随分と速い。11時少し過ぎて目指すひばりが丘駅に着いた。丁度タイミングよく相手の方も着かれた。揃って「たなか」へ。案内しようとすると、一方通行があってままならず、結局初めて寄った時と同じく、ぐるぐる回ってやっと辿り着いた。時間前だったが、中へ通された。親爺さんもおいでたが、今はお孫さんに任せていると仰る。もう80は超えられたろう。連れの方は叔父に案内されて、よく似た上履きを脱いで入るそば屋に寄ったことがあると言われたが、此処ではなかったようだ。ここでは目玉の卵巻きと天ぷら、そして「もり」3枚と「かけ」を1つ頼んだ。ここには蕎麦前はおいてない。お客さんが多く、席数も多くないのでとのことだった。
ややあって卵巻きがきた。色こそ黄金色だが、巻きが緩い。此処のはきっちりしっかりした巻きがトレードマークだったのにと思う。相手の方には此処のは素晴らしいと言った手前、何となくはぐらかされたようで、申し訳なかった。前の練馬でもこれが看板だったのに。続いて出てきた天ぷらも市販の舞茸と甘藷、しかもカラッとしていない。どうしたのだろう。これでは頂けない。親爺さんは構わないのだろうか。何とも頂けない。家内もソッとどうなったんでしょうねと言う。次いで「もり」がきた。細長い蒸篭に3玉だったのに、小さい真四角の蒸篭に少し、そばは細打ち、鶯色、香りもし、喉越しもよく、こちらは前と遜色ないが、如何せん量が極めて少量、1枚ではとっても足りず、もう1枚。1枚5百円だから、こんなものか。品書きを見ると、前はあった粗挽きも細切りのうどんもなくなっていた。これでは客が離れてしまわないかと心配になる。でも客は次から次へと来る。そば湯はまだ始めとあって、薄い。客が立て込んできたので、席を立つ。レジには親爺さんが、相手の方はそばが美味しかったと、お持ち帰りのそばを買われた。そばの面目が立ったのは良かった。小生も柚子七味を貰った。ずっと以前に練馬へもお邪魔したことがありますと、遠い昔のことだ。家内と相手の奥さんも話の輪に入っての話では、親爺さんは越中滑川の出身とか。また先日、廃業した金沢の「砂場」の親爺さんが訪ねておいでたとも。何か小さくなられたようで、侘しくなった。時の移ろいを感じてしまった。帰りに遠い所からようこそと言われたが、次に来ることがあろうか。でも連れの方は、美味しかったので、また寄りますと言ってくれた。
叔父のところへ寄ると、丁度お昼時、食事中だった。箸は使えないものの、茶碗も手に持たれて自分で食事できるのには驚いた。これまではお休みの時に伺うことが多く、横になられてのお話だったが、今日は起きての会話、随分楽しそうで話も弾んだ。近くに居ればしょっちゅう訪ねて話し相手になって上げられるのにと思ったが、ままならない。未だに経済エコノミストを取って読んでおいでる。頭も明晰、耳が遠く成られたのは仕様がないが、お話は耳元で大きな声でゆっくりが原則、ご懸念はやはり財産の処理のこと、叔父の意思を尊重して上げられるよう努力しよう。抵抗はありそうだが、最善を尽くそう。長時間話されてお疲れのようだったので、4月にまた来ることを約して辞した。何度も手を握った。柔らかい温かい手だった。
ここひばりが丘は埼玉県との境近く、相手の方は神奈川県に近い世田谷の端、かなりの道のりだろうに、少なくとも週1回は来られている。勝手を言って、中央線の武蔵境駅まで送って頂いた。年寄りのお世話というのは中々大変だ。父の兄弟では東京の叔父が最長老、母方では長女の伯母が百歳で健在だ。父も生きていれば百歳、母は95歳のはずだ。
岩城宏之さんの後任に井上道義さんが就任(2.28)
オーケストラアンサンブル金沢(OEK)が岩城宏之さんの並々ならぬ熱意とそれに応えた中西石川県知事の英断で設立されてからもう20年目とか、10年一昔というが、もう二昔も経ったとは。まだついこの間のような気がする。そして昨年6月には重鎮の岩城音楽監督が他界された。4月に200回目の定期公演を車椅子に乗られて振られたのが、金沢での最後のタクトだった。偉大なマエストロの死に対しての顕彰も漸く終わり、次いでは後任の選考である。後任が誰になるのか、岩城さんが偉大だっただけに、誰がなられるのかは衆目の的だった。石川県では山岸副知事が頭になって、数人の選考委員に後任人選が委ねられたと報じられたが、その経過は霧の中、でも選考基準が、60歳以下の日本人でこれまでOEKとそこそこ深い関係がある指揮者となると、的は絞られ、井上さんを置いて他には考えられず、彼をターゲットにした選考基準だったのではと勘ぐられる。井上さんはOEK設立当初から関わりがあり、CDもリリースされていて、岩城さんのワクをはみ出した指揮ぶりが新鮮に写ったものだ。確かあの頃は京都市交響楽団の常任指揮者をされていて、年に一度、OEKとの合同演奏会を交互にやっていた。後任監督にどのような方が候補に上がったのかは知る由もないが、当初は5名位挙げて、その中から選考するとのことだった。むしろ私は井上さんが引き受けられるかどうかが焦点なのではと思っていた。彼が引き受けるに際しては、条件を提示しただろうことは充分考えられ得ることだし、でなければ岩城さんの単なる踏襲になってしまい、それは彼の望むところではないし、納得はしなかったのではという気がする。井上さんはOEKの音楽監督ばかりでなく、県立音楽堂の芸術監督として、洋楽・邦楽ばかりでなく、催し物全体にわたって意見を述べられる立場となった。この7月までの年度のOEKの定期公演については、既にスケジュールが決まっていて、彼が定期で振る機会はないが、話を聞いていると、金沢市21世紀美術館にはすこぶる興味があって、あそこで何か企画をと模索されておいでのようだ。たまたま金沢市の山出市長も食指を動かしておいでのようで、早晩何らかの形で新機軸の企画が催されることは間違いない。岩城さんはOEKの音楽監督に就任される前から、新しい創作作品の演奏になみなみならぬ情熱を注がれておいでた。就任後はOEK付きのコンポーザー・イン・レジデンスといういわゆる座付きの新進作曲家に委嘱して出来上がった曲を、多くは世界初演というかたちで演奏を披露されてきた。亡くなられた世界的にも有名な武満徹さんもある時期名前を連ねておいでだった。亡くなられた時の岩城さんの哀しみようったらなかった。また邦楽とのジョイントコンサートにも殊のほか興味を示され、この金沢からならではの発信を続けてこられた。現在日本には23の自治体経営のオーケストタがあると聞くが、いわゆる拠点としてのハコものを持っているオーケストラとなると少ないし、しかも団員がその職だけで生計を立てていくとなると、それは恐らく至難の業だろう。振り返ってOEKはどうなのだろう。詳しいことは知らないが、他のオーケストラよりはマシなのでは。設立当初は中々厳しかったらしいが、今はそこそこの固定給も支給され、県や市からのテコ入れもあり、恵まれた方なのではなかろうか。文化とは金がかかるものと心得たりという考えが根底にないと、とてもこんあ事業は続けられない。設立当時は、議員様の中には、そんなくだらんものと仰った方もおいでたとか、野暮な方もいらっしゃったが、今では議場でも演奏され、不要論をガナる方はなくなった。そう思うと、OEKの設立を英断された当時の中西前知事、県立音楽堂の建設に踏み切られた谷本現知事、そしてOEKの設立から育成・発展に心血と熱情を注がれた岩城永世名誉音楽監督があってこそ、今日のOEKがあるのだと思う。海外公演も何回行われたろうか。これから井上さんはどう牽引されて行かれるのだろうか。彼の記者会見では、OEKはまだ知名度が低いと、それを高めるのが私の使命だとも言われた。私は技術面では、オーディションでもハイレベルでないと採用しないという厳しさ、応募者は世界各地からという国際色豊かなアンサンブルであることを考えると、レベルはかなり高いと思っている。でも更に上げられる余地はあるだろう。知名度の方はどうか。岩城さんという世界的にも有名な音楽監督の手で手塩にかけて育てられただけあって、県内ばかりでなく、東京・大阪・名古屋などでも定期的に公演を行い、海外公演もこなし、CDも多く発売し、そこそこの名声は上げていることと、金沢という響きからすると、そこそこのレベルに達してはいないだろうか。
こういう文化的事業は、一朝一夕にして出来上がるものではない。それも無から有をともなれば尚更だ。岩城さんは初代指揮者に新進の天沼さんを起用したが、彼女と団員との関係は必ずしもしっくりとしたものではなかった。結局彼女が降り、岩城さんが本腰を入れるようになって、漸く軌道に乗ったと言える。ただ純粋にクラシックのみでなく、あの方の特性ともいうべきいろんなジャンルへの挑戦、その時は別名で指揮されるのだが、ポップス演奏に反発され見切って去られた人もそこそこいた。純粋にクラシックのみを希求するのも一理、いろいろ異論もあるところだが、やはりこういう地方のアンサンブルでは、そこそこ考え方に幅のある人の集団であることが必要だと思うし、現在いる方々はそんな考えで定着されたのであろうと思ったりする。でも頭が代わって、これからどうなるのか、どう変わるのか、楽しみと不安が交錯する。一地方都市のオーケストラが、そこそこの評価を受けられるようになるには、もう少し時間が必要なのだろうか。団員も今まで以上に研鑽され、名実共に日本を代表する室内オーケストラに成長することを切に望みたい。祝賀会で谷本知事は、岩城さんはロケットの1段目と2段目に点火され、ロケットは上昇しつつあると、これから井上さんは更に3段目と4段目に点火していただき、OEKなる衛星を軌道に載せてほしいと。井上さんはOEKを引き受けるに当たってのインタビューで、取り敢えず5年という目処を示された。でも就任式では、この職業は定年がないので、ゆっくり時間をかけて取り組みたいとも仰った。就任記念のモーツアルトの39番のシンフォニーはこれまで聴いたことのない勇ましいものだった。彼は同じ調のベートーベンのエロイカを意識したものだと語られたが。また雅楽や天台の声明(しょうみょう)を取り入れた石井真木さんの曲を取り入れたのも、新しいものにこよなく無類の興味を示され、生涯初演魔とさえ言われた岩城さんを多分に意識されての企画・演出だったと思えてならない。新しきことへの挑戦、その意欲は大事にしたい。井上さんの日本での知名度は高い方だと思う。これまで京都市響や新日本フィルを振ってこられたが、あのユニークさには中々魅力がある。しかし彼自身世界へ羽ばたくには、もう一回り大きくなってほしいような気がする。落ち着いた重厚さも兼ね備えてほしい。ジャンルを超えた才能も必要だと思うし、それも人の大きさの一部だろう。あの39番が彼の不動のスタイルであってこれが定着されるとなると、OEKは彼の持ち物でしかなくなる。地元の期待も背負い、なおかつ日本、いや世界に伍するチャンバーオーケストラにするには、一工夫も二工夫もしなければならないのでは。今はまだ就任されて間もないが、これからどうするか、その青写真は既に描かれていることだろうと思う。
さて、OEKのメンバーの方々は率直にどんな印象を持たれたのだろうか。何回かはご一緒されているので、改まって特別な感覚はないと仰るかもしれない。いつかベルリンフィルが次期音楽監督・常任指揮者を団員で選考したことがあったが、もし仮にOEKの40人の団員に次期音楽監督の推薦が任されたとしたら、誰が選ばれることになったかは興味のあるところである。推薦された人が必ずしも受託されるとは決まっていないから、紆余曲折もあり、決まるまでの労力は大変なものだろう。今回の選考委員に団員が入っていたかどうかは知らない。OEKのみでは経営が成り立たないという弱点がある以上、ある程度の妥協は必要だろう。OEKには毎年15億円もの税金が投入されているという。少なくともOEKはこの付託に応えなければならない。そしてOEK金沢の名声を高揚してほしい。岩城さんにはいろんな人脈があったと聞く。岩城さんだから出来たが、井上さんでは出来ないという妥協は許されない。弱音は吐けない。
NHKクローズアップ現代に「千の風になって」が登場(3.1)
2月26日のNHK総合19時30分放映の「クローズアップ現代」に「千の風になって」が登場した。巷では何かと話題になっているから取り上げられたのであろう。原詩は author unknown の「A Thousand Wind」、短い12行の詩である。2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センターがハイジャックされた旅客機2機に突っ込まれ、シンボルのセンタービルは崩壊し、多数の人たちが犠牲となった。このテロにより亡くなった方々の追悼・鎮魂の式場で、黒人の女の方により朗読されたのがこの詩である。テレビでもその光景が再び放映されていた。場面は変わり、この詩を「千の風になって」と訳した新井満氏が登場した。彼の前にもこの詩を「1000の風になって」と訳した人もいて、その本も映し出されていた。とは言っても、新井氏の訳が格段に有名だ。それは何故か。それは、あの訳詩にあの雰囲気にマッチした素敵なメロディーが付けられ、詩を容易にメロディーに載せて歌えたこと、それに尽きるのである。彼の訳は、彼が芥川賞の受賞者であったにせよ、前にも書いたが、決して原詩に忠実な訳ではなく、といって朗読するには余りにも他愛ない感じがする。ということは、絶品の訳でもなければ、万人に感動を誘うような代物でもない。ところが彼は作曲という凄い武器を隠し持っていて、あの詩をうまくあの曲に合体させた。訳出も一部カットも、緻密に計算されてのことだったに相違ない。だから、あの訳詩とあのメロディーとは、切っても切れない関係にあるということだ。端的に言うと、あの詩とメロディーは一体なのであって、そうして初めて金色の翼を得て、不死鳥のごとくよみがえった。
テレビの画面では、親を亡くした人、子供を亡くした人、かけがえのない配偶者を亡くした人たちが、この詩と曲に出会って、すごく感動し、生きる勇気を頂いたと述懐される。家内も一緒に見ていて、もらい泣きをしていた。これまで亡くなった人は、後に残った人を草葉の陰から見つめていてくれたり、星になって見守ってくれているというのが、これまでの死後観であったが、風になって吹き渡っているというふうに置き換えられると、これまでの悲しみが和らぎ、安らぎとなり、勇気付けられ、希望まで湧いてきたと話される。風だけでなく、森羅万象に変化し、残された人たちを見守る。ある日、まだ若い夫が、可愛いい可愛いい目に入れても痛くない3人の娘さんと最愛の妻を残して、交通事故で急逝された例が取り上げられていた。子供たちから明るさが消え、沈み込む毎日、お父さんの絵を生前にはことあるごとに描いていたのに、それがなくなり、父親が亡くなった傷は余りにも大き過ぎた。そんな折、親戚の方から頂いた1枚のCD、家族はそれを聴いて私たちは立ち直ったと、それが「千の風になって」だった。ずっと沈み込んでいた子供たちに明るさが戻り、お父さんは風になっていつも私たちの周りにいてくれていると知って、以前のようにお父さんの絵を描くようになったと。子供たちは特に2番が好きだと言う。
『秋は光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る』
この訳詩は原詩では中間部、8行のフレーズなのだが、彼はそれを4行に圧縮し、前後に「風」を配し、それもリフレインし、更に余韻を配した。憎いまでの配慮だ。この新井満作曲の曲を原詩に当てて歌うことは困難で、これは言ってみれば、新井満氏の訳詩であるからこそ、生き生きと輝くのだろう。今やこの歌は老人ホームでも、歌のサークルでも、保育所でも、いろんな処で歌われている情景が次々と映し出されて、正にブームとなっているという感を強くした。私が勤務している協会でも、若い娘さんたちが口ずさんでいることからも、その広がりがいかに凄いものであるかを実感している。それにしても、この歌を聴いて癒された人の如何に多いことか。この歌の功徳は、そのうち日本ばかりでなく、世界へも発信されるのではないかと。悲しみが下支えされ、悲しみが克服され、勇気を与えられ、故人と風を仲立ちに対話できるということ、それは何と素晴らしいことか。テレビではきれいな女の人が、曲をピアノのソロで演奏されていた。千の風の伴奏曲でなくとも、この曲には心を癒すやさしい力があるように感じた。この曲が世界に広がったとき、その国にふさわしい詩が付けられた唄ができても不思議ではない。
閑話休題 (歌に関連しての話題)
2月23日の朝日新聞に、長野県へ嫁いだ女性から、県内何処へ行っても、行事には必ず長野県の県歌『信濃の国』が歌われるので驚き、聞くと皆さん歌えるとか、こんなに頻繁に歌われるところは他にもあるのでしょうか、という質問が寄せられていた。調査結果では、都道府県単位の自治体で、その自治体の歌を制定しているのは43都道府県で、大阪、兵庫、広島、大分の4府県では「府・県民の歌」は制定されていないということだった。ところで、その中の白眉は、「長野県民の歌」の『信濃の国』で、この歌は老若男女を問わずというから、保育所でも幼稚園でも、小・中・高等学校でも、はたまたサークル活動や老人ホームでも、果ては飲み屋やカラオケ屋でも歌われるという。行事に歌われることは当然な帰結だが、これには振付けられた踊りやダンスもあり、運動会などでは定番になっているという。青年会議所ではどこへ出すのか、英語版まで作成したという。CDの売れ行きは、シングルでは常に上位という。原詩・原曲が誕生したのは1899年というから、百年以上も前のこと、当時の師範学校の先生の浅井きよしが小学生向けに作詞し、音楽の先生だった北村季晴が詩に曲を付け、卒業して県内の小学校に散らばった先生方が学校で教えて広まったという。もっとも県歌として制定されたのは明治百年にあたる1968年、この歌は今でも学校で教えられているという。県民すべてが知っているわけだ。何しろ通信カラオケで配信されているのは『信濃の国』だけだそうだ。
ちなみに石川県では昭和34年(1959)に「石川県民の歌」が公募され、警察官だった梅木宗一さんの詞が入選し、窪田新一さんが曲を付け、その年の文化の日に県歌として制定された。三番まであり、石川の風土を歌い上げている。1番は次のようだ。
『白山に 朝日ははえて 青雲の はれゆくところ
名にかおる 歴史をつぎて むすばれし われら県民
躍進の 旗をかざして おおわが石川 ふるいおこさん』
私はこの歌を知っていて歌えるが、どこで習ったのか、いつどんな場所で歌ったのか、全く記憶にない。この県歌は、学校なんかで教えるのだろうか。皆さんはこの歌ご存知ですか。いつか中西前知事が現職のとき、知事と懇談する機会があり、何か提案をということで、私は「石川県民の歌」をテープにして、家庭や飲み屋さんへ配布したらと言ったが、総務部長が色好い返事をしなかったものだから、一蹴されてしまった経験がある。曲はマーチ風で、歌いやすいのだが、でも巷でも聴いたことはない。
特定保健用食品(略称「トクホ」)(3.6)
特定保健用食品、略称して「トクホ」というのをご存知だろうか。この制度は平成3年(1991)に、食品の健康表示を個別に許可する制度として発足したもので、この種の制度は現在のところ日本でのみ認められている。今でも「ある食品が○○という病気に効く」という表示は、薬事法により固く禁じられている。ところが「トクホ」では、許可されれば、その食品に含まれる成分による効果を表示することが認められていて、例えば「黒烏龍茶」では「ウーロン茶重合ポリフェノールの働きにより、食後の血中中性脂肪の上昇を抑える」と記載されている。このように、「トクホ」は、有効成分は何か、そしてそれはどんな働きをするのかを明示してあり、その表示には科学的な根拠とか裏付けがなければならない。この一群の食品は厚生労働省の許可が必要で、それには専門の委員による厳密な審査で、有効性と安全性がチェックされ、それにパスして初めて許可される。今のところ日本のみの制度であるが、欧米、とりわけヨーロッパでは類似の法整備が進められているという。このように関与している成分と効果の表示が許可されていることが、いわゆる「健康食品」との大きな違いである。
日本健康・栄養食品協会の統計によると、現在「トクホ」の市場は6千億円規模といわれ、今後も増加しそうな勢いである。昨年末現在、累計で625品目が許可、2品目が承認されていて、こちらも今後増えることが予想される。医薬品はその対象が病人であるが、「トクホ」の対象は病気予備群というか病人と健康人のボーダーにいる人たちをターゲットにしているので、病気になる前に手当てをして、病気のリスクを減らそうとするわけだから、その対象とする人数は大変多く、市場としてはすこぶる魅力がある。このように、この市場は魅力に満ちていて、メーカーは「トクホ」の新たな開発には投資を惜しまない傾向にある。新薬の開発には数十億円の投資と10年以上の年月が必要と言われているが、「トクホ」の場合にも、新しい商品の開発には、数億円の投資と5年前後の開発期間が必要だとされている。それでもこの市場は魅力ある市場のようだ。
今日、生活習慣病とかメタボリックシンドロームの予防や解消に、こんな食事、こんな食品、こんな飲料がそれを救いますという広告や記事がよく目に付く。ところで、そうした何かに効くという食品とかを「トクホ」の対象としたい時は、どんな手順を踏まねばならないのだろうか。先ず初めにしなければならないことは、あることに効果があるとして、その食品の中のどんな成分が有効なのかを特定しなければならない。単味成分であれ、複合成分であれ、とにかく有効な関与成分を見つけることである。見つかったら、その成分がどういうメカニズムで、その効果を発揮するかを明らかにする必要がある。先出の「黒烏龍茶」の場合は、関与成分は「ウーロン茶重合ポリフェノール」、その効果は、「関与成分が脂肪の吸収を抑えることによって、食後の血中中性脂肪の上昇を抑えることにある」。このように関与成分とその効果が明確になった後、ヒトによる試験で、有効性と安全性を明らかにしなければならない。この有効性の試験では、通常数10人の人たちを2グループに分け、一つのグループには有効な食品を渡し、他のグループにはプラセボ(偽)の食品を渡し、食事に合わせて摂取してもらう。ものによっては1回で結果が出るものもあれば、何日間、何週間も継続して試験しなければならないものもある。「黒烏龍茶」の場合、A群には「黒烏龍茶」を渡し、B群には普通の「ウーロン茶」を渡し、脂肪分の多い食事と同時に飲んでもらい、食前と食後の血清中の脂質の濃度を測定する。その結果、「黒烏龍茶」を飲んだA群の方が、対象のB群に比べて、脂肪の吸収が約20%抑制されたことが確認された。こうした試験をすべて終えるには数ヶ月を要し、さらに「トクホ」へ申請しても、最終的に許可が下りるまでには、1年近くが必要だという。
現在「トクホ」として許可されている食品の関連分野は次のようである。(1)血中中性脂肪・体脂肪関連、(2)コレステロール関連、(3)血圧関連、(4)血糖値関連、(5)整腸関連、(6)虫歯予防・歯の健康関連、(7)骨の健康関連、(8)ミネラルの吸収関連。
このうち、(5)の乳酸菌類、オリゴ糖、食物繊維などを含む整腸関連食品は最も多く、「トクホ」のほぼ6割を占めている。これについては、プロバイオティクス及びプレバイオティクスとの関連もあり、別に記載する。ここでは、「トクホ」として許可された(5)以外の食品について、関連成分と効果についての表示例を以下に示してみる。表示は、順に、商品名〔種類〕:関与成分:「許可された効果の表示」で示す。
1.黒烏龍茶OTPP〔茶系飲料〕:ウーロン茶重合ポリフェノール:「脂肪の吸収を抑えるウーロン茶重合ポリフェノールの働きにより、食後の血中中性脂肪の上昇を抑えるので、脂肪に多い食事を摂りがちな方、血中中性脂肪が高めの方の食生活改善に役立ちます。」
2.エコナクッキングオイル〔食用調理油〕:ジアシルグリセロール:「ジアシルグリセロールを主成分にしているので、他の食用油と比較し、食後の血中中性脂肪が上昇しにくく、しかも体に脂肪が付きにくいのが特長です。」
3.キトサン明日葉青汁〔粉末清涼飲料〕:キトサン:「コレステロールの吸収を抑え、血中コレステロールを低下させる働きのあるキトサンを配合しています。コレステロール値が高めの方に適した食品です。」
4.ピュアセレクトサラリア〔調味料〕:植物ステロールエステル:「コレステロールの体内への吸収を抑える働きがある植物ステロールエステルを含んでいるので。血中コレステロール、特に悪玉(LDL)コレステロールを下げるのが特長です。コレステロールが高めの方のお食事にお勧めです。」
5.特濃調整豆乳〔調整豆乳〕:大豆たんぱく質:「豆乳を原料とし、血清コレステロールを低下させる働きがある大豆たんぱく質を摂取しやすいように工夫してあるので、コレステロールが気になる方の食生活改善に役立ちます。」
6.カゼインDPぺプティオドリンク〔清涼飲料水〕:カゼインデカペプチド:「カゼインデカペプチドを含んでおり、血圧が高めの方に適した食品です。」
7.アサヒサーデンペプチド〔錠菓〕:サーデンペプチド(バリルチロシンとして):「バリルチロシンを含むサーデンペプチドを配合しており、血圧が高めの方に適した食品です。」
8.プレティオ〔乳製品乳酸菌飲料〕:γーアミノ酪酸(GABA)::「γーアミノ酪酸(GABA)を含んでおり、血圧が高めの方に適した飲料です。」
9.蕃爽麗茶〔茶系飲料〕:グァバ葉ポリフェノール:「グァバ葉ポリフェノールの働きで、糖の吸収を穏やかにするので、血糖値が気になる方に適した飲料です。」
10.食事と一緒に十六茶〔茶系飲料〕:難消化性デキストリン(食物繊維として):「食物繊維(難消化性デキストリン)を含んでおり、糖の吸収を穏やかにするので、血糖値が気になり始めた方の食生活の改善に役立ちます。」
11.グルコデザイン〔乾燥スープ〕:小麦アルブミン:「小麦アルブミン(小麦のたんぱく質)を含んでおり、糖質(でんぷん)の消化吸収を穏やかにするので、血糖値が気になり始めた方の食生活の改善に役立ちます。」
12.キシリトールガム・ライムミント〔チューインガム〕:キシリトール、マルチトール、リン酸-水素カルシウム、フクロノリ抽出物(フラノン):「虫歯の原因にならない甘味料(キシリトールとマルチトール)を使用しています。また、歯の再石灰化を増強するキシリトール、フクロノリ抽出物(フラノン)、リン酸-水素カルシウムを配合しているので、歯を丈夫で健康に保ちます。」
13.黒豆茶〔茶系飲料〕:大豆イソフラボン:「骨のカルシウムの維持に役立つ大豆イソフラボンを含んでいるので、骨の健康が気になる方に適した飲料です。」
14.鉄骨飲料〔清涼飲料水〕:CPP(カゼインホスホペプチド):「CPPを配合し、含まれるカルシウムの吸収性が高くなるように工夫されているので、食生活で不足しがちなカルシウムを摂取するのに適した飲料です。」
プロバイオティクスとプレバイオティクス(3.9)
ヒトの腸内、といっても小腸下部から大腸下部の直腸にかけてだが、夥しい数の細菌が存在していて、腸内常在細菌叢(腸内フローラ)を形成している。そこに住んでいる細菌の種類は100〜1000ともいわれ、総菌数は100兆個にも達する。ヒトの体細胞の数が60兆個といわれているから、それを遥かに凌駕する。ヒトの腸内フローラを知るための研究はかなり昔から行われてきたが、人による多様性もさることながら、これまでの純粋培養に頼る究明ではとても不可能である。というのも、常在する総ての細菌を培養することは現在でも不可能であるからに他ならない。もっとも今後は遺伝学的、分子生物学的手法による解析がなされて、その解明も可能となるだろう。ところで、これまでの知見では大部分が偏性嫌気性菌で、通性嫌気性菌は前者の100〜1000分の1にしか過ぎない。前者にはバクテロイデスやビフィズス菌が、後者には大腸菌群や腸球菌が含まれる。ヒトでは出生直後から先ず通性嫌気性菌が腸に定着し、母乳栄養児では生後48時間以内にビフィズス菌が最優勢菌として定着することが知られている。一方、人工栄養児では、ビフィズス菌ばかりでなく、大腸菌、腸球菌、バクテロイデスなどの菌群が同レベルで定着し、母乳栄養児とは大きな違いがある。これは母乳中に含まれるオリゴ糖(ラクト-N-テトラオースやフコシルラクトースなど)がビフィズス菌の増殖増強に関与しているからで、その結果腸内はビフィズス菌により産生される酢酸や乳酸によりpHも5以下の酸性に保たれ、かつ母乳中のIgAにより乳児の健康が保たれる。しかし人工栄養児では産生される酸も多様で、腸内のpHも中性〜弱アルカリ性で、他の有害細菌繁殖のリスクも高い。
しかし、有用菌の代表であるビフィズス菌は、加齢により減少し、代わって有害細菌ともいえるクロストリジウムや大腸菌群が増加してくる。ただ善玉菌ともいえる乳酸桿菌も加齢とともに増加し、悪玉菌のクロストリジウムと競合し、ビフィズス菌の減少を補完するとの報告もある。しかし大まかには、加齢とともに善玉菌が減少し、悪玉菌が増加してくるといえる。この状態を改良すべく、人為的にビフィズス菌や乳酸桿菌(ラクトバチルス)を投与するという発想が生まれる。もうかれこれ40年以上も前、金沢大学医学部細菌学教室では、クロストリジウムを精力的に研究していて、その頃私も所属していたが、ある時ヤクルトから老人にヤクルトを飲ますと常在細菌叢に変化が起きないかという相談があった。このヤクルト菌は現在も用いられているが、この菌は代田博士が作出したラクトバチルス・カゼイ・シロタ株である。乳酸菌飲料には1mLあたり1億個以上の乳酸菌がいなければならないことから、1本飲めば100億個程度の乳酸菌が腸管に入ることになる。長い人で1年位飲用したろうか。でも飲むのを止めると途端に元の木阿弥、結果としてヤクルト菌は腸内には定着しないという結論になった。現在「ヤクルト」という商品名の乳酸菌飲料は特定保健用食品「トクホ」であるが、その期待される効果は整腸作用となっている。
1989年にプロバイオティクスなる概念が導入された。これはアンチバイオティクスに対比されるもので、一般には「腸内細菌叢のバランスを改善することにより、宿主に有益な作用をもたらす生きた微生物」とされ、それには十分な菌量が摂取されないと宿主の健康によい効果をもたらすことはできない。近年このプロバイオティクスの機能は単に整腸作用ばかりでなく、腸管感染症や潰瘍性大腸炎、アレルギー疾患の予防や治療、免疫応答の活性化、大腸がん予防効果も期待されている。これまでのところ、プロバイオティクスの菌体の条件としては、(1)宿主に無害で、安全性が十分に証明されていること、(2)もともと宿主の腸内フローラ由来であること、(3)増殖部位である下部消化管(小腸下部や大腸)で増殖可能なこと、(4)有効な菌数が維持され、明らかな整腸作用があること、(5)耐酸性(胃酸や胆汁酸により殺菌されない)を有し、生菌状態で下部消化管に到達できること、(6)製品として安価で、かつ容易に取り扱えること、等を挙げることができる。
現在プロバイオティクスに用いられる微生物としては、いわゆる乳酸菌であるラクトバチルス(以下L.)とビフィドバクテリウム(以下B.)が圧倒的に多い。以下に、市販商品名〔種類〕:関与成分:「許可された効果の表示」の例を示す。
1.小岩井生乳100%ヨーグルト〔発酵乳〕:ビフィズス菌(B. lactis Bb-12株):「生きたビフィズス菌の働きにより腸内の環境を改善し、おなかの調子を良好に保ちます。」
2.ビヒダスヨーグルト・プレーン〔発酵乳〕:ビフィズス菌(B. longum BB 36株):「生きたビフィズス菌を含んでいますので、腸内のビフィズス菌が増え、腸内環境を良好にし、おなかの調子を整えます。」
3.ヤクルト〔乳酸菌飲料〕:ヤクルト菌(L. casei・シロタ株):「生きたまま腸内にとどくヤクルト菌の働きで、おなかの中の良い菌を増やし悪い菌を減らして、腸内の環境を改善し、おなかの健康を守ります。」
4.明治ブルガリアヨーグルトLB81プレーン〔発酵乳〕:L. delbrueckii subsp. bulgaricus2038株とStreptococcus salivarius subsp. thermophilus 1131株:「LB81乳酸菌の働きにより、腸内細菌のバランスを整えて、おなかの調子を良好に保ちます。」
そのほかにも、B. bifidus, L. gasseri, L. rhamnosusが用いられている。また薬剤としての整腸薬にも、B. bifidus(ビオフェルミンなど)、L. casei L.(ビオラクチス)、酪酸菌(Clostridium butylicum MIYARI株(ミヤBM) がある。
プロバイオティクスが微生物であるのに対し、プレバイオティクスは生体に有益な腸内細菌叢の代謝活動や増殖の促進をもたらす難消化性の食物成分で、オリゴ糖や食物繊維が該当し、これらは途中で消化されることなく下部消化管に到達する必要がある。利用部位はオリゴ糖が主としてビフィズス菌により大腸中位部で代謝されるのに対し、食物繊維は大腸中位部から遠位部で多種類の嫌気性菌により代謝される。その結果、嫌気性腸内細菌の増殖を促進し、有害細菌を抑制し、短鎖脂肪酸(酪酸、酢酸、プロピオン酸)の産生を促し、その作用により、腸管ぜん動運動、水分調節、コレステロール生合成の抑制、炎症や潰瘍の修復、がん細胞のアポトーシスの促進、などに働くことが知られている。
以下に、市販商品名〔種類〕:関与成分:「許可された効果の表示」の例を示す。
5.りんご味黒酢〔調味酢〕:ガラクトオリゴ糖:「腸内のビフィズス菌を適正に増やし、おなかの調子を良好に保つ調味酢です。」
6.UCCコーヒーミルクス〔粉末清涼飲料〕:乳果オリゴ糖:「乳果オリゴ糖を主成分とし、腸内のビフィズス菌を適正に増やして、おなかの調子を良好に保つ食品です。」
7.クルルのおいしいオリゴ糖〔テーブルシュガー〕:フラクトオリゴ糖:「フラクトオリゴ糖を原料とし、おなかの環境を良好に保つよう工夫された食品です。」
8.毎朝爽快〔清涼飲料水〕:ラクチュロース:「ラクチュロースを原料とし、腸内のビフィズス菌を適正に増やし、おなかの調子を良好に保つ飲料です。」
9.手づくりばば寒天〔粉末ゼリー〕:寒天由来の食物繊維:「寒天を使った粉末ゼリーです。寒天は海藻の食物繊維をたくさん含んでおりますので、おなかの調子を整えて便通を改善します。」
10.ドゥファイバー・グレープ味〔ゼリー飲料〕:サイリウム種皮由来の食物繊維:「天然の食物繊維が豊富なサイリウム種皮を配合したゼリー飲料。不足しがちな食物繊維を手軽に補給でき、おなかの調子を整える食品です。」
11.健康応援おいしい青汁〔粉末清涼飲料〕:難消化性デキストリン(食物繊維として):「食物繊維として難消化性デキストリンを含んでいるので、おなかの調子を整え、便通を改善します。おいしく摂っておなかすっきり。」
12.ファイバー食パン爽快健美〔パン〕:難消化性でん粉:「食生活で不足しがちな食物繊維を手軽に摂って、便秘気味の方のお通じの改善に役立ちます。おなかの調子を整えたい方に適した食パンです。」
耳順会の面々は後何年生きんとするのか(3.15)
三月某日、金沢市内、といっても外れの、元はといえば石川郡三馬村有松貴船神社の近くにある民家を改造した、畳の上に絨毯を敷き、そこをスリッパで闊歩するという、実に一風変わった趣向の遊食工房で、いつもの面々の耳順会がもたれた。メンバーは十二人だが、一名はサケを飲めない病気とかで、過去に一度出席したことがあるものの、近頃はずっと欠席である。何故か会費は七千円也と決まっているので、とても上等な料亭での開催というのは至難である。ただ年に一度位は宿泊をするので、この時は七千円ではとてももたない。大体三ヶ月に一度の開催となることから、年に四回程度会合を持つことになる。
世に村田製作所というのがある。戦後の設立だそうだが、電子関連製品の製造・販売では今や日本だけでなく世界でもムラタの製品として知られている。元は村田一族が京都で旗揚げしたのだが、拠点は日本のみでなく海外にも及んでいる。その一つにタイワンムラタがあって、十一屋小学校当時の同級生であり、泉丘高校の同級生でもある、村田一族の一員でもあるシズが社長の役目を終え、生まれ故郷の金沢へ帰ってくるのを機会に、彼の慰労をと、同窓の数人が集まったのがこの会の発端である。彼とモロなる人物とが気心の知れた連中をピックアップし、当初は十人の予定が二人増えて十二人になった。シズからは、ワシが台湾に居る間に一度訪台せよとヤイノヤイノと言われたが、とうとう約束を果たすことができないうちに彼が帰って来ることになった。五年前のことだ。
会の名前を付けようということになり、漢語に詳しい約二名から、無記名だったが、大体想像はついているが、でも良い名前なので、皆の総意で「耳順会」と決まった。由来は謂わずと知れた「論語巻第一為政第二」よりの六十歳の異名ともなっている次の出典による。「子曰、吾十有五而乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」。広辞苑によれば、「修養ますます進み、聞く所、理にかなえば何等の障害なく理解しうる」の意とある。小生が皆の後塵を拝して七十になった時に、この名称を変えようかとの話も出たが、大勢はこのままで行こうということになった。
店の名は「膳」という。座敷に分厚い天板のテーブルに古めかしい椅子の組み合わせ、やや深みのある小皿三つ、一枚はポン酢、二枚は醤油、醤油の方は生姜と山葵とか、ポン酢は河豚用。郷に入れば何とかで、主人の言う通りにしよう。大皿が二枚、一枚は〆鯖、実に綺麗な青と赤、これには生姜の薬味がたっぷり、もう一枚は河豚の一夜昆布〆、これは浅葱とポン酢で、ほかに金目鯛と平目、こちらは山葵、豪勢だ。今宵は和食のコースらしい。今日の幹事はソトオとキクオ、この店の紹介はソトオである。
面々は干支では子と丑、ソトオは典型的な丑年生まれ、昔は長男以外が家に居つくと困るので外の字を名に配したものだ。私の小中の同窓生でも、長男以外だととみにこの字が多い。ソトオとは二年の時に同級だった。体の細い物静かな男の子だった。次に彼の消息を知ったのは随分後のことだが、風の便りに星稜学園理事長の娘を娶って星稜高校の校長になっていると聞いた時だ。三年に一度の泉丘第七期の同窓会にも来たことはなかったから、近況を聞くことなど無理だった。彼の名前が頻繁に出てくるようになったのはマツイが石川の誇り・日本の誇りと言われるようになってからで、山下監督とともに校長として新聞を賑わすようになった。マツイ君は卒業してからは正月には必ずソトオ宅へ寄るという律儀さ、彼の好意でジャイアンツの時とヤンキースに移籍した時と、二枚の色紙を頂いている。来ると何時も五十枚程色紙にサインしていくと言っていた。退役してからは同窓会にも出て来るようになったが、現役の頃はお願いを受けるのが煩わしかったのかも知れない。校長には若くしてなったが、校長職に就くと、風貌・容姿とも校長らしくなるから不思議だ。高校時代の面影が全くないとは言えないが、面長・痩身はなく、丸顔・坊主頭・短躯の貫禄、さすがな変身だった。今年も正月四日にマツイ君が来宅したとかだった。私らもエールを送った。で、幹事が住まいの御所町から遥かに遠方のこの地に会合の場所を選んだ理由が、ここの主人というか、名刺には代表とあったが、要は教え子とのことだった。郵政の上級幹部をしていて退職し、この店の前身の麺を扱う「夢人蔵」を開いたが、イタリア料理を始めるに当たって改装し、昨秋開店したとかで、ソトオは好きなことを言える店として選んだとか。家族でやっているという感じ、でも中々センスが良い。料理も器も吟味してあり、コースをゆっくり楽しんだ。料理に合わせて、お酒も随分すすんだ。始めは小さい洒落た猪口だったが、すぐにぐい呑みになってしまった。その方が向いている。家内も気に入りそうな雰囲気の店だ。
談笑しきりだったが、突然モロが、出席の皆さん、後どれくらい生きたいか、生きられるかと切り出した。モロは発会時のメンバーの選定もした男だ。彼は高校在学中に生徒会長もし、応援団長もし、口八丁手八丁、実行力もあり、常にリーダー的存在だった。二年と三年で同級で、時々米屋をしていた彼の家にお邪魔したが、彼の所にはいろんな類のグループが屯する場所ともなっていた。彼は特に国文・漢文に長け、俳句も嗜む御仁。大学は地元の金大の法文、私が彼と再び見えたのは山岳部、当時はまだ山の会と称していた時だが、よく彼とも山へ出かけた。彼は交友の輪が広く、彼の友は実に清濁合わせての多士済々、感心する。飄々とした中に細やかさがあり、男は小さくとも大将の風格がある。大卒後は請われて経営者協会に長くいたが、不惑以降は非鉄金属関係の会社の専務をしていた。昨年漸くフリーになって、老春を楽しんでいるという。今は、まだ働いている人に哀れみを感ずるという。私にも早く辞めて、また一緒に山へ行こうという。毎年の山岳部のOB会では、出席できれば一緒に山へ行っているのだが。と、話の中で、近頃メニエルの症状が出ることがあると聞いてビックリした。丁度二、三日前にテレビで放映していたが、女性に多いとかだったが、男性でも起きるという。すぐに回復することもあるが、特に男性の場合は長引くことも、彼は同級の耳鼻咽喉科の医師に相談しているようだが、根治は難しいとか。発作の前には頭がモヤモヤする予兆があり分かるというが、発作時に飲む頓服薬も余り効果がないとか。彼は大事な料亭の席で突然発作を起こし、宴会席で倒れたとか、本人の自制が効かないだけに心配だ。私がペースメーカーを装着する羽目になったのも、車の運転時や山へ行っている時に立ちくらみで意識を失ったらどうしますかとのことだったが、モロにも同じことが言えるが、対処する方法があるのだろうか。
モロは後十年は生きたいと、日本の男性の平均寿命は七十九歳弱、七十歳の平均余命は十年以上あるのでは、とするともう十年というのは平均余命を少し下回っているようで弱気なのでは。九人中七人が十年ばかりと言う。私は父親が七十二歳、母親が九十歳だったので、その間をとって八十一歳とした。大勢とは何ら変わっていない。一人ニシデのみ、日野原重明、あの有名な聖路加国際病院理事長と同じだけ生きたいと、今でも矍鑠としておいでて、二年に一度はボストンを訪ねて、医学や看護学の将来の変貌について情報を得るべく努められているとか。常人には出来ないスーパーマン行為だ。御年九十四歳、昨年は文化勲章も受章された。食事も運動も実に理に適っておいでだ。又聞きだが、階段は二段ずつ上がられるとか、分刻みのスケジュールの中での気配り、テレビでも拝見したが、私には無理な相談だ。ただ階段だけは真似するように心掛けている。ニシデとは高校三年で一緒だった。理詰めで話すのが印象的で、大卒後は高校の数学の先生になった。お茶屋の息子だったが、家業は継がずに、定年後も北陸先端大学院大学で研究に携わったり、NHKの放送大学の講師をしたりしていて、いまでも非常勤で出ているとか、余程教育に熱心でないとこうはゆかない。今でも実に物静かな、お茶屋の主人でも全く遜色のない真面目金沢人だ。
今のところ、約一名を除く十一人は、病気を幾つか抱えながらも、ともかく元気だ。年に四回、取り合えず八十までは頑張ろうということになった。
終わって、つい誘われるままに近くのスナックへ、久方ぶりにカラオケをガナった。家へ帰ってシャンとしてなくて、飲み過ぎだと家内に説教を食った。早々に寝た。
酒・寺・蕎麦 (その一)(3.27)
前田秀典氏から森伊蔵なる焼酎を預かった。萌草色をした立派な由緒ある紙箱に入っている。量は四合、三年もの。長期洞窟熟成酒かめ壺焼酎とある。当年ものは何回か口にしたことはあるが、三年ものは、焼酎名鑑にも名がなく、秘蔵の逸品なのでは。前田さんのところへどうして転がり込んだのかという野暮な詮索はしまい。とにかく二人で空けようという、何とも有難い思し召しとあって、一席設けねばなるまい。聞けば、プレミア付きで四万円でも手に入りかねるという代物、見てしまったからには、ただただ早く早くと心がときめく始末。それにしても、それに相応しい席にしなければ、それにはカミさんの協力が必定、ご機嫌麗しい時を見計らってお願いすることにしよう。
前田さんからは予めこの一件については伺っていたので、すぐにカミさんには打診していて、既に快諾を得ていて、じゃ平日の方が良いわねとまで話が進んでいたのだが、三男坊のヨメさんから、予防医学協会での人間ドックでの健診で、三男坊の肺に陰影があり、しかるべき医療機関でCT検査を受けなさいと言われたという電話がカミさん宛に入ったものだから、森伊蔵の席どころではない破目になってしまった。何とか解決して軌道に乗せねば。本人の煙草好きは相当なもの、言って止めるような大将ではなく、しかも忙しくて九時前に帰宅したことがないとか、でも一大事とあって、協会でヘリカルCTを受けられるよう段取りした。カミさんはもうガン扱いをしているから始末が悪い。でも精密検査を受け、私も一緒に先生からの話を聞き、カミさんに報告、それで漸く解禁になった。
善は急げ。今週はもう木、金しかない。木曜はカミさん不都合、残るは金曜のみ、でも幸いなことに森伊蔵の所有権者はOK、時間は七時、場所は野々市町の小宅とした。当日は、協会も年度末とあって何かと気ぜわしい。早くにと思っていても流れがあり、放免になったのが六時十五分、帰宅したのが六時半、すると、前田さんも六時半にお着き、たまげる。聞けば山側環状線のせいだとか。仕方なく暫らくお待ちいただくことに。カミさんも七時少し前にご到着、これで万事整った。
森伊蔵に相応しい肴、それには「ひょうたん」の「牛すじ」をとカミさんに注文しておいた。まずはこれでいこう。森伊蔵をおもむろに箱より取り出し、封緘を外し、栓を抜く。はじめはロックで、丸氷をロックグラスに入れ、森伊蔵参年を注ぐ。香りは仄か、口に含むと何とも円やか、芋焼酎の香りは失せ、これだと原料が米なのか麦なのか蕎麦なのか判じ難い始末。前田さんは初めて森伊蔵に接した時の感動がないと仰る。アルコール度数は同じ二十五度なのだが、三年を経るとこうも丸くなるものなのか。どんな熟成をするのだろう。いつかウイスキーもブランデーも熟成期間が超長くなると、どちらがどちらか判別つきかねるようになると聞いたことがあるが、その類か。でも熟成期間は短い。もっと個性があってもよいのではと、勝手なことを言う。でも癖がなく、美味しく旨い。スイスイと入っていく。「すじ」がまた合う。特に「ひょうたん」のは逸品だ。ロックでは物足りないのか、前田さんはストレートでと仰る。これなら全く問題はないだろう。ダブルグラスに注ぐ。ウオーターグラスに冷たい井水、これもいける。刺身は鎮座したままでなかなか箸がつかない。小一時間で森伊蔵はなくなった。一人二合だから、そんなものか。次いで、貰い物の与那国にする。前に飲んだのは初溜の花酒だが、これにはそんな記載はないが、入っている瓶は細身の化粧瓶だ。度数は六十度、ロックにする。前の花酒は、氷に触れると微白色に変わったが、これはどうか。おもむろに氷の上に注ぐ。と、やはり微濁した。原料は米なのだから、蛋白はそんなに含まれていないと思うが、白濁するのは何故なのか。さすがこれは存在感があり、自己主張している。でも中々上々。空になる前に、西表島の泡盛古酒にする。これは四十三度、これも自己主張があり、これは正しく泡盛という感じ、段々酒の味が曖昧になってきた。少々酔ってきたからだろう。タイミングよく前田さんの奥さんがお出でになり、前田さんは車上の人となる。まさに夫を想う妻の鑑だ。
翌日、かねてお願いしてあった白山市安吉町の吉田酒造へ出かける。雨との予報だったが、とにかく持ちこたえている。面々は、お世話頂いた米田さん、永坂先生、寺田先生、打出先生、それに小生の五人。予定は午後二時から三時まで、社長さんが三時から外出とかで、この時間帯になったようだった。私はこれで五度目、これまでは私がお世話していたが、今回はよく吉田酒造へ寄られる米田さんにお願いした。永坂先生の運転で、申し訳なくも小宅へ寄って頂く。加賀産業道路経由で安吉町へ。人間ナビの先導は寺田先生、というのも奥さんが安吉の出とかで、この辺りは縄張りの内、詳しいわけだ。そして車中では、今日の予定は、吉田酒造-お寺さん-手取川竹やぶ、との予定表の配布、米田さんらしい気遣いに感謝する。それに安吉城と浄土寺の文献、これは寺田先生の気配りと思われ、科学者としてのお心遣いには感激する。ときに寺田先生の奥さんの実家がこの浄土寺とか。恐れ入った。寺田先生のナビで呆気なく裏手から吉田酒造に着いてしまった。雨の降りそうな天気、立派な傘をお持ちの永坂・寺田の両先生は、傘を持参される。
正面入口を過ぎ、会社の入口へ回ると、正面からと仰るので、玄関から上がる。座敷に通されると、座机には既に資料が用意されている。程なく社長の奥さんが見えられ挨拶する。社長も見えられた。お忙しいのにと恐縮する。皆さん紹介のあと、社長さんから、前会長の武雄さんが亡くなられ、ついこの間一周忌が終わったこと、前社長だった会長の実弟の外志雄さんも退かれ、長男の私が社長になったとのお話があった。また驚いたのは、寺田先生と奥さんのループだと思われるが、前会長のお姉さんの長谷川さんから三回も電話が入り、今朝もあって、決して粗相のないようにとの伝言があったとか、これには小生も穴に入りたい気持ちだったが、考え直せばそれは寺田先生の隠れ蓑にすればよいことで、とすれば気が楽になった。かくいう先生は始めての訪問なのである。
お酒のことをいろいろお話いただく。山廃は山卸し廃止もとの略で、それはどういう仕込みなのかとか、醸造アルコールは純米酒には添加しないが、大吟醸酒には添加されること、それは増量のためではなく、モロミから香りや風味を酒に引き出させるためとか、また逆浸透水を使うのは、大方の酒の仕込には井水をそのまま使用するが、生酒などには軟水がよいので、硬度を下げる時に割り込むとか、いろいろ工夫されている。また大吟醸酒は日向燗にして飲む方がより好い味と香りとコクを楽しめると、簡単には熱いお湯を器に入れ、それに酒の入った徳利をつけ温めて飲むとよいとか、温度は三十度位か、一度試してみよう。そして今は松本蔵から山本蔵へ、そして身内の吉田蔵と、杜氏が二人の珍しい体制でとか。初めての年はすごく心配だったが、その年の新酒鑑評会では、両蔵から出品の六点共に金賞という栄誉に浴しましたと。また今冬は暖冬で仕込が大変だったとも。
その後社長さんの案内で蔵へ。今の時期、順次熟成が終わって新酒が出来上がる頃、馥郁とした香りが充満している。熟成したモロミがパイプで連続して運ばれ、白濁した液は圧搾されて透明な新酒となる。利き酒する茶碗に酌まれた酒は、正にこれこそ新酒という新鮮で爽やかでフルーティーな香り、喉越しが実に好い。一杯を四人で飲んだが、もっと欲しかったなあ。まだ発酵中のタンクも見せてもらう。ブクブクと活発に発酵している。もう五日位で熟成とかのモロミを長い杓で酌んで飲ませてもらう。モロミは実に若々しくて美味しい。雑味がないすっきりとした味だ。これは初めての体験だった。これも寺田先生のご利益の一端、感謝々々である。蔵を出ると、もう一組の方々がお帰りだった。試飲までの通り道に新しい機械が、これは酒米をとぐ装置とか、何時か米をといでいるところを見せてもらったことがあるが、分単位、これも含水率を一定にするためとか、機械化することで、省力化と合理化ができたという。そしてお酒の試飲、甘口、辛口、古酒、品評会用の十五本、それぞれ味、風味が違う。中でも「万華鏡」なる小さな化粧瓶に入った酒、一本一万円は、その原酒のこれも一本一万円の「露堂々」をマイナス二十度で三年寝かしたものとか、今まで味わったことのない趣、それと品評会用の三本中一本は実によかった。帰りに「露堂々」の四合瓶を求めた。今回はお陰で実に充実した見学となった。
酒・寺・蕎麦 (その二)
吉田酒造を辞して、浄土寺へ、すぐ近くらしいが車で行くことに、米田さんの運転となる。道路からは寺の大屋根が見える。ぐるりと回るような案配で寺の境内へ、立派な鐘楼がある。境内に車を止め、案内されるまま、お座敷へ。扁額には大窪山とある。寺田先生の文献によると、創建した大窪源左衛門に因むものなのでは。実に立派で大きなお寺さんだ。野々市本町では照台寺さんが一番大きいが、浄土寺さんは堂宇も敷地もその二倍位はあるのでは。住職の十九代目の御当主と二十代目の息子さんから御説明をいただく。
ここ安吉の地も手取川の扇状地の一部、でも◯◯島でないだけ、少し高みなのだろう。その昔、およそ五百年前の富樫時代には大窪源左衛門の祖父源兵衛貞家が源兵衛島に居城を構え、この一帯四万石を領有していたというから、小大名並みである。しかし度々の手取川の水禍に懲りて、安全なこの安吉の地に移ったという。その安吉城は敷地約五千坪、周囲に濠を巡らし、城郭を築き、高楼からは石川平野を一望に収めることができたという。城の周りには武士の居宅や馬場もあり、一大城下町を形成していたとか、中々由緒ある土地である。知らなかったとは実に迂闊で、何度かこの安吉の地へ足を運んでいるのに、城があったことといい、素晴らしいお寺さんがあることといい、聞いて、見て、本当にビックリした次第だ。住職のお話では、ここ安吉では、生活に関係するすべての職種が、ついこの前まで存在していたというから、これも古い一大城下町の名残なのかも知れない。
話の中で乾漆阿弥陀如来の話が出た。木組みに粘土で型を造り、それに麻布を何回も漆で張り重ねてゆき、ある程度の厚さに達したら乾燥し、その後中の粘土を抜き去って作り上げるとか、白山市の重要文化財だそうだ。これがあるため、消火設備も万全にしなければならず、定期的な査察もあるとか。四百五十年も経つお寺さんのこと、初代の源左衛門が戦場へ出る時に兜の中に忍ばせたという守り本尊の源信僧都御作の糠仏や本願寺十代証如上人御真筆の御文もあると仰る。寺田先生が何かをと言われ、案内されたのが本堂、きれいに清められている。彼岸の法要も営まれたことだろう。本堂の柱は白木の欅、明治二十一年に改修されたとか、しっかりとした木組みである。本尊に向かって左側手前に金色の阿弥陀如来の坐像がある。大変よいお顔をなさっている。造りは鎌倉時代でなく、平安時代だろうと仰る。それはお顔の輪郭が丸みを帯びているからだとか。とにかく古いものだ。開祖の源左衛門が帰郷に際して後奈良天皇より御下賜されたものとか。前に座ると不思議と心が休まるのを覚える。寺田先生の文献によれば、宗祖親鸞聖人の御骨や中興の祖八代蓮如上人の御骨もあるという。実に由緒あるお寺だ。
庭も広い。大きな欅の木が二本、また樹齢三百年とかの五葉松は昨年急に葉が赤くなり枯れてしまったとか、虫害もなかったことから、住職は寿命だったのではと仰る。雨が少しパラついて来た。帰りに寺田先生の計らいで季刊の「浄土寺だより」の今年のを二部頂いた。いくらパソコンの時代でも、続けて刊行するということは大変なことだ。
浄土寺を辞し、安吉から辰口へ向かう。経路は不明ながら、とにかく南下する。とある場所で、松任から辰口へ至る見覚えのある県道に出た。後は道なりだ。程なく手取川竹やぶに着いた。入ると例のテーブルと椅子、先ほどの浄土寺さんのお話では、六本木の竹やぶを閉めるに当たって、阿部さんに退職金は要らないから、店の調度品を頂きたいと申し出、この椅子やテーブルを貰ったのだと、椅子一脚が十一万円とか。中の造りからは此処がそば屋とはとても思えない。ステンドグラスもあり、ワインが出て、イタリア料理でも出てきそうな雰囲気だ。入るともう既に五人分の席が設けてあった。吉田酒造では量は不明なものの、かなりのお酒を試飲したような気がするが、ここで蕎麦前を飲まないという手はなかろうとの集約された意見、でも菊姫や天狗舞の大吟醸じゃ一合二千円も、程よいものはと案じていると、主人が天狗舞の新酒で金沢の酵母と秋田の酵母とで熟成させたのが有りますがどうですかと、でそれを二合ずつ頂くことにする。摘みは、米田さんの計らいで、とうふ、そばみそなど四種を五人に分けて出して下さいと頼まれ、四種が程よく順に出される。個々に頼むのをこんな風にアレンジして頂いたことに感激。お酒がなくなった頃合をみて、そばが。これも米田さんの知恵で、田舎ともりとで一人前となるようにセットしていただいた。はじめに田舎、粗挽きの風情の細打ちがざるに、半量よりは少し多いような感じ、そのまま頂いた方が蕎麦の味と香りがする。実に素晴らしい打ちだ。次いでもり、これも粗い編みのざるに、丁寧な打ちの中細だ。香りは少ない。これは先ほどの天狗舞の酒の香が影響しているやも知れないと思ったりもする。先に食した粗挽き風情の田舎が恋しくなり、今一度半枚頂くことに、やはりこれはよい。お客は私たちのみ、ゆっくり堪能できた。浄土寺のお住職さんがマスターがまだ小さい時によく膝に載せたと言っておいでましたよと話すと、笑っておいでた。帰りに森さん夫婦と玄関で記念写真を撮って別れた。たっぷりの楽しい五時間、お世話頂いた皆さんに深謝する。
閑話休題
寺田先生から頂いた資料から、安吉城と浄土寺にまつわる部分を若干引用する。
(1)安吉城:城は織田信長による天下統一の折、柴田勝家により落城してしまった後、荒廃し、さらに水害等によってその遺った城も失われた。現在山島公民館前に「安吉城址」と銘刻した石碑が建つ。また、浄土寺の門前には「安吉の金石」といわれる美しい黒石があるが、これはもと安吉城の一隅にあったものとか。
(2)浄土寺の宝物:後奈良天皇御下賜の阿弥陀如来金色座像。恵心僧都源信御作の糠仏。乾漆阿弥陀如来像(白山市重要文化財)。弘法大師御作の栴檀香木阿弥陀如来立像。本堂修復時に発見された夢の御告の金仏阿弥陀如来立像。聖徳太子御二歳の御木像。聖徳太子の御装束烈地。宗祖親鸞聖人の御骨。中興の祖蓮如上人の御骨。蓮如上人御作の親鸞聖人九十歳の御木像。蓮如上人六字の御名号掛軸。蓮如上人語真筆の御文掛軸(白山市重要文化財)。証如上人語真筆の御文。教如上人御自画の御影、御文の御讃、御真筆の御書。宣如上人御真筆の御書。
松原敏のエッセイ「蕎麦に詩・句の薬味を」に纏わる思い出(その一)(4.23)
今年の1月20日過ぎだったろうか、富山にある綺羅短歌の会から、本会特別同人である松原 敏様のご依頼により、松原様のエッセイ掲載の同人誌「綺羅」をお送りしますとのメッセージが添えられた冊子が届いた。
小生などは短歌とはとても縁が遠い部類に属する人種だけれども、せっかくの機会なので少し勉強がてら味わわせていただくことにした。主宰の久泉あさんの巻頭言には、季節感のある歌には特に共感を覚えるとあり、この同人誌には30人ばかりが三百首ばかりの歌を寄せられている。大方が季節感溢れるもので、味わうと実に楽しい。そういう季節感のある歌を眺めると、何かその情景が横長の手札判の画面に、水彩の日本画でうっすらと浮かび上がってきて、いやが上にも心が高揚するのを覚えるから不思議だ。ただ、私の思い浮かべた情景が必ずしも作者の意図する景とは違っているかも知れないことは十分あり得ることであるが、しかし、たとえ次元が低くても、それは私なりの世界を具現させていただいたことで感謝したい。ところが、素人なるが故に、またそれを思い浮かべて楽しんだりすることもあって、1日十首程度を読みこなすのがやっとで、読み終えるのに1ヶ月を要した。でも久しぶりに松原さんのお陰で、素晴らしい夢幻の世界に浸ることができた。
さて、松原さんのスペシャルエッセイは表題にあるように、「蕎麦に詩・句を」である。これは後日「探蕎」第36号に編集子の計らいで、「探蕎十年目の思い」というエッセイとともに、再録されている。これを読むと、ご一緒した折のことが思い出されてくる。ただ、小生は「蕎麦前」なるお酒と「そば」のみの無粋な輩、松原さんのように、文芸に長じた深遠な知識は持ち合わせていず、「詩・句の薬味」をと言われても、その方面の知識は全く欠落していて、無力である。しかし同行していると、折に触れ随分といろいろご教示いただき、勉強もさせていただいた。松原さんは常々、探蕎会のあるべき姿というのは、「単に蕎麦が好き」だというだけでなく、「蕎麦を中心とした食文化研究」であるべきだと説かれていることを思うと、本来ならば襟を正して、これと正面きって立ち向かわねばならないのだが、あの松原さんのエッセイのレベルにはとてもこれからも達することは至難である。というより不可能というべきだろう。
ここでは、私が松原さんとご一緒した思い出を中心に、思いついたことを述べてみようと思うが、それはかなり次元の低い、単に蕎麦前と「そば」が好きな男の繰り言にしかならないのは必定である。以下に、松原さんのエッセイに出てくるそば屋の順に、ご一緒した店でのエピソードなどを記してみたい。
「あらき」いう荒木又右衛門に因んだこの店には、都合二度お邪魔した。初めて訪ねた時は、幹事の北島さんの計らいで、店に入る時間を開店寸前にセットしていただいたものだから、一等先に入られた。NTTにおいでてそんな情報をいち早くキャッチされたものだから、すごく助かった。店は見過ごすような田舎の農家造り、ござを敷いただけの広間に長机、何の変哲もない。そばは黒くて太くごつい典型的な田舎そば、それが美しい杉の柾目の長方形の箱に盛られていて、というより薄くはらりと無造作にばら撒かれている感じ、これが「うす毛利」である。松原さんは食べ切るのに悪戦苦闘されたと言われていたが、小生もまた一服であった。初めて訪ねた時は親爺さんはまだ現役で、食べた後の一刻、囲炉裏端で野武士の如き風貌の親爺さんと話し合えたが、松原さんの絶妙な掛け合いは、聞いてて実に清々しかったことを覚えている。昔は「むかし毛利」しかなく当たり前だったのに、今ではこれを一人で注文する方はほとんどないとか。でも、アベックや子供連れで、「むかし」を注文される方はいるとか、これは合理的な進歩か。因みに「むかし毛利」は「うす毛利」の倍量、従って「むかし」の大盛りはない由。さもあろう。連れの方々も食べ終わって外へ出ると。驚くことに長蛇の列、高級車族もいる。有名店なのだ。その後数年して再訪したときは、もう息子さんにバトンタッチされていた。三度目の訪問では、タイミング悪く満タンでパスした。
「なかじま」のある山都町宮古は山奥だ。そば屋は十数軒あるが、「そば」はどの家でも同じになるように作られていると聞いたことがある。そういえば、テレビで講習の風景が放映されたのを観たことがある。会津若松市の桐屋の当主も此処の出とか。ここでの目玉は何と言っても「水そば」にある。とは言い過ぎか。本来ならばそば本膳の前菜と言うべきだろうが。この辺りの水は飯豊の伏流水、此処へ来る道すがら、所々に採水できる所が何箇所か見受けられた。その名水が朱塗りの大きなお椀に入って出てくる。そして小振りなお椀の中には中打ちのそばが。ここでの食い方はこのそばを名水にさっと潜らせて食べるようで、そばを純粋に味わうことができる。お代わりは三杯までOKとか、でもそうがむしゃらに食べられるものではなく、やはりそこはあくまでも前座であろう。しかし、冷えた名水に潜らせたそばはシャキッとしていて、これぞ宮古の「水そば」だアと言える代物だ。ところが、次回に再度訪れた「なかじま」では、中打ちが細打ちになっていた。聞けば、東京のネエちゃん達の好みに合わせて、食べやすいように細打ちにしたとかだったが、なんとも素麺まがいの素朴さを失ったそばでは、もはや「水そば」には値しないと感じた。山都のそばは、美味しい水と素朴な田舎そばが織り成すのが魅力なのであって、それを守って欲しかったものだ。今はどうなのだろう。
「ふじおか」の名を初めて聞かされたのは多分松原さんからだったと思う。何かその道の達人について述べた本に載っていたとかだった。そこで有志で出かけることにした。午前11時半の開店に合わせて午前10時頃に着いたのに、もう遠来のナンバーの車がずらり、開店したら、相席ダメとかで、寸前で午前の部は満席でアウト。次は午後1時、それまでお待ち下さいと。近くで時間を潰し、午後の部は一番で入られた。この間も予約はダメで、誰かが残っていないといけないという厳しさ。しかも十歳以下おことわり、席は二十席のみ、ただし相席ダメとあって、定員の20名が入られるとは限らない。午後の部に入れないと、例え東京からのお客さんであっても、出直して下さいだから、何ともやり切れない。でも入ってしまえば、勝ち組の満足感は相当なものだ。入って先ずお酒を頂戴する。銘柄は「雛願」大吟醸のみ。「くせ」がなく、これが大吟醸なのかといぶかる。突き出しには地元の野菜の和え物、これでゆっくり酒を味わう。そして「せいろそば」、絵で見たとおりの淡い緑色をした十割の細打ち、絶品である。私はその色をブナの新緑の色と表現した。そして程なくして次に出てきた「そばがき」は正に鶯色、柔肌を思い出させる逸品、本当に素晴らしい。これは芸術であると思う。この技は凄いとしか言いようがない。後で主人に聞くと、蕎麦は地元産、玄蕎麦の管理にはことのほか気を使っているとか、丸抜きを見せてもらったが、綺麗な薄緑色をしている。毎日、その日の分だけ石臼挽きするとか、それで限定八十食とか、正に名人芸である。お酒について聞いた。大吟醸酒とあれば、フルーティーな香りが信条なのにとお伺いしたところ、そのような吟醸香が強いお酒は微かな蕎麦の香りを消してしまうので、蕎麦前としては適しませんとのこと、目から鱗だった。ご主人はこの蕎麦前を求めて諸国を巡り、そしてこの酒に出会ったと。これには頭が下がる思いがした。このお酒、今は探蕎会事務局長の前田さんの伝で、取り寄せることができるものの、中々通常では入手は容易ではない。
ところで、松原さんとご一緒したのは、私の二回目の訪問の時だったと思う。先の失敗に懲りて、「ふじおか」には9時過ぎに着いたろうか。ふわふわの軽い雪が積もっている山道をゆるゆると下って着いた。私達がトップで、この後、東京、静岡、埼玉からお越しの面々が着く。静岡の方は三度目の正直とか、今度はありつけそうだと。こうなると、もう執念そのものである。この雪の中、待つこと覚悟で、お酒を持参した。酒は福正の純米酒、紙コップに綿雪を詰め、酒を注いで松原さんに進呈する。松原さん、これぞ正真正銘の雪見酒と仰る。後続の三人にも少しお裾分けする。何と美味なと仰る。話が弾んで、待ちが気にならなかった。この日は団体が少なく、ご主人が相席でお願いできませんかと言われたような気がする。私達のテーブルにも一人。前回と同じく「雛願」で潤し、「せいろ」二枚と「そばがき」、その名人芸ともいえる逸品を味わった。正に至福の一時を過ごした。
ところで、この年の秋の黒姫の蕎麦は不作で、玄蕎麦の出来が悪く、名人をしてもあの優雅な色合いと風合いのそばは提供できなかったと人づてに聞いた。あの時以来、「ふじおか」へは行っていないが、松原さんとご一緒した頃が最高だったようで、どんな問題が生じたのかは不明だが、あれから後に行かれた方の言を聞くと、私達ほどの感動を味わわれた方がないという。ということは、やはり何か異変があったのだろうか。ミステリー感さえただよう。今はどうなのだろうか。
松原敏のエッセイ「蕎麦に詩・句の薬味を」に纏わる思い出(その二)
「つる忠」は女ばかりの店。松原さんは「おろしそば」や「おしぼりそば」がことの外お好きである。この店の創業は二百年以上も前の文政年間というから驚く。女主人の市川富子さんは数えて六代目、信濃のそば界隈では言わずと知れた女傑ナンバー1である。入って初めに「そばやき味噌」と地酒を頼んだ後に、「おしぼりそば」を所望する。大根のしぼり汁に味噌と葱を加えたつけ汁で食べるもの、二八だったが実に素朴な味わい、これは十割だともっと素朴だという。食べた後に女主人がそばを打っているところを見せてもらった。どっしりとした体躯、懸命に打たれている後姿を見て感動した。今もあのボリュームのあるオイドが目に浮かぶ。
「宮本」へは五年前に寄った。道路からは「蕎麦商」の小さな看板のみ、宮本の名はなく、初めてだと通り過ぎてしまうこと必定だ。玄関の暖簾にさえ店の名が抜いてないのだから驚きである。松原さんとは初めての訪問の時にご一緒した。店に入ると土間に大きな川石が鎮座している。土台の一部にもなっているのだろうか。洒落た数寄屋造り、落ち着いた雰囲気だ。松原さんは落ち着いた大人の雰囲気と表現されている。蕎麦前の酒には幽玄の世界を感じる。こんな店はない。白地の角皿に漆塗りの一合枡、それになみなみに銘のない「水酒」、摘みは何と「天然塩」とほんの少しの紫蘇色をした蕎麦味噌、そこには実に極められた美が存在する。そばは、「ざる」と「手挽き田舎」、「ざる」は平ざるにはらりと薄髪のごとく、「手挽き田舎」はややこぶりなざるにこんもりと、こちらは粗挽きだ。どちらも蕎麦の香りがよい。特に後者はそば本来の香りと風味が素晴らしい。しかし、ここで腹いっぱい食べようとすると、懐とさんにょしなければならなくなる心配がある。美味しいものはほんの少し頂くのが「通」か。
二度目は昨年、庭には紫陽花の花が咲き乱れていた。この時の探蕎行一行は十五名、開店は通常十一時半なのだが、「宮本」のご主人は気を効かして、紫陽花の花の袂に、「本日は十二時開店とさせて頂きます 店主」と墨書されていただけた。何ともそのお心遣いが嬉しかった。例のごとく水酒に粗塩と蕎麦味噌、肴には、にしん棒、板わさ、そしてキスのてんぷらを二人で一皿、またお酒がすすむ。次いで「手挽き田舎」そして「ざる」、十分に堪能した。店を出る頃にはお客さんが詰めかけていた。
山梨の「翁」は言わずと知れた高橋邦弘さんが東京から良質の水を求めてこの地に開いた店である。高橋さんは一茶庵の出、以来頑なに二八を踏襲されている。この長坂の地は甲斐駒ケ岳を間近に見上げる景勝の地、銘水の地白州も近い。有名店とあって寄った時は随分と待たされた。お弟子さんもたくさん居て、ひょっとして高橋さんは打たれていないのではと思ったら、客に出す分はご本人が打たれているとのこと。後日石川へ来られた折の塚野さんの印象では、動作はゆっくりとして見えるが、時間的には速く、しかも丁寧で、技術的に難しいこともいとも簡単にこなし、無駄がなく、切りが非常に速くて細いのに、屑が全く出ないという。さすが「名人」と唸っておいでたことから、あらぬ気遣いは下種の勘ぐりだった。しかし、漸く入って頂いたそばは、喉越しこそ素晴らしかったものの、これぞ流石「翁」の「そば」というインパクトは感じられなかった。この後、高橋さんはさらに良水を求めて広島県豊平町へ移られた。後は現在お弟子さんが継がれている。この後、松原さんの案内で、近くにある清春白樺美術館を訪れた
高橋さんの一番弟子だった若月さんが信州で開かれているのが「安曇野翁」である。開店五年目というある日、午前十一時半の開店に先立つ一時間前位に訪れた。店は開けた山の高台の風光明媚な景勝の地に建つ、実に小奇麗な瀟洒な作りの店である。眼下には安曇野が眺められ、何となく長坂の「翁」の立地条件によく似ている。近くをぶらぶら徘徊していると、三十分も前に暖簾を出して頂けた。主人はまだ若い。店は明るく、実に清々しい。お酒は「四季桜」と「大雪渓」、そば味噌でゆっくり蕎麦前を楽しんだ。そばは二八の「ざる」、酔った身に細打ちの「ざる」は、一服の清涼剤だった。
「ろあん松田」は西国の雄である。此処へも二度訪れた。以前は氷上町にあったのを閉めて、西よりの丹波篠山の山奥に八年前に引っ越して来られた。此処へは迷わずに辿り着けるのは正に至難の業である。しかし着いてみると、松田さんが惹かれただけあって、本当に静かな山間の空間、そこに純和風の瀟洒な平屋建て、周りは自然そのもの、実に素晴らしい環境だ。ここでは「蕎麦ひとそろえ」をお願いした。お酒も出身の秋田、福井、岐阜の銘酒を揃えてある。蕎麦前も「そば」もフルコースだ。松原さんは「その代価四千円は高いとみるか安いと思うか〕と述懐される。そばコースは切れ端の揚げ物から始まって、蕎麦味噌、そばがき、盛り、荒挽き、揚げ麩、湯そば、そして山かけ蕎麦かおろし蕎麦と、この間、地の山菜で作った酒肴も出て至れり尽くせり、酔い且つお腹も膨れ、実に満足なコースだ。またお開きの後、ご主人といろいろ話し合えたのは、なによりの収穫だった。玄蕎麦も丸岡、出雲、祖谷と、そばに合わせて出され、居ながらにして異なった三種の蕎麦を味わえるのもよい。二度目は四年後に、やはり二時間コースの「蕎麦ひとそろえ」、周りからは蛙の大合唱、自然そのものの中でのひととき、山菜も豊富、本当にゆったりとした至福の時間を過ごせた。
「わたや」の「へぎそば」。新潟県の長岡、小千谷、十日町の一帯では、へぎそばが多い。これはつなぎにフノリを用いているもので、喉越しが実にツルリとしている。本来は小千谷縮に用いる海藻由来の糊剤なのだが、いつ頃からかそばのつなぎにも用いられている。長方形の浅い箱の「へぎ」に、小さく一括りになった薄緑色のそばが端正に並べられて出てくる。独特の風味、私が寄ったのは十日町の「小嶋屋」である。つなぎでふっと思い出したのが信州中野の郷土(ごうど)食堂、飯山富倉の出で、ここでのつなぎはオヤマボクチ、括りの感じがへぎそばとよく似ている。ただ入れ物は平ざるだし、そばの色はいなかそばの風合い、でも食した感じは似たところがある。探蕎行では郷土食堂へは訪れたことはあるが、なぜか新潟へ「へぎそば」を食しに出かけたことはない。
開田高原の「すんきそば」と「とうじそば」。松本市にある波田野会長ゆかりの相澤病院の塚本事務局長の案内で、秋の週末を木曽と開田で過ごした。そこで出会ったのが当初の二つの「そば」である。松原さんも信州にはご縁のあるお方だが、さすがこの二つは初めてだったと。「すんき」は好みではないが、「投じ」はたいへん気に入ったと。私も初めての経験だった。こんな案内は地元精通の塚本さんがおいでたからで、貴重な体験だった。
出石の名物「皿そば」。出石には五十軒以上の皿そば屋がある。松原さんは特段の感想は述べられていないが、ここでの「皿そば」は、出雲の「割子そば」や盛岡の「わんこそば」と同列で、そばそのものの吟味はなく、そばと称することの出来る、すなわち農林水産規格に合致できるそば麺の一地方独特の形態にしか過ぎないと思う。もっとも出石にも玄蕎麦を吟味し、自家製粉し、手打ちする真っ当な店も無きにしも非ずだろうが、片手はあるだろうか。探蕎会で三度、バス旅行で三度、少なくとも団体さん歓迎の店での皿そばなどそばとは名ばかり、全く似て非なるものだ。二度目に出石に出かけた時に、何とかそばらしきそばにありつこうと、その折にそば屋探しの条件としたのが次の五点だった。一、華美な店でないこと。一、団体様ご入来の店でないこと。一、大駐車場から離れていること。一、本通りでなく枝道にあること。加えて、ロール打ちでなく手打ちなこと。それで見つけた「そば庄」はほぼこの条件を満たす店だった。当然三度目も訪れた。
秩父のそば処「こいけ」と「和銅鉱泉旅館」。「こいけ」は蕎麦の香りを大事にする店である。「強い香りをつけた方入店ご御遠慮下さい」とある。「せいろ」も「田舎」も、蕎麦前の「四季桜」と相まって、さすが、これが秩父のそばという風味と香りを味わえた。そしてこの日の宿が「和銅鉱泉旅館」だった。ここで、驚き。松原さんと同人だったという方が突然訪ねて来られ、また縁のある方からも銘酒の差し入れ、松原さんも大変なお喜びようだったが、こちらはこちらで美味しく旨いお酒のご相伴に預かり、望外の喜び、こういうハプニングは実に楽しい。松原さんの交友の広さに感心した。
伊那駒ケ根のそば処「丸富」と「二人静」。「丸富」の主人も「こいけ」の主人同様、一茶庵の出である。もうその名は全国に知られている名店である。建物こそ山の小学校の分教場風だが、蕎麦前にも酒肴にも「そば」にもこだわりが感じられ、超一級と言ってよい。誰かが主人の宮島さんの打つそばには言葉が宿ると言った。そばは三種、「白檜」「朝日屋」「雫」。この日の宿が「二人静」、松原さんの紹介である。娘さんと下見されたとお聞きしたが、当日は体調不良で参加されなかった。もう何度でも寄りたい位素晴らしい宿なのだが、予約がまことに超困難な旅館、それだけに斡旋していただいた松原さんに深謝する。
2007年GWの過ごし方(その1)(5.8)
一、4月29日(昭和の日、日曜日)に松下絹子画伯作品展に今庄へ出かける
松下絹子画伯から、4月20日〜30日に福井新聞社の後援で作品展を開きますとの案内を頂いた。頂いた葉書には「私たちは広大な宇宙の中にいます。そして自然の掌の上で生かされています。」という言葉が。場所は旧今庄町、平成の合併後は、福井県南条郡南越前町今庄となったが、その町にある蔵づくりギャラリー「小八郎」が会場である。今庄といえば、「今庄そば」という名があるくらいそばでも有名だし、北国街道の宿場町、また酒の蔵元も四軒もあるという古い佇まいの町である。ここでの開催はこれで二度目、前回の開催は二年前、それまでは自宅のアトリエだったり、朝倉遺跡の資料館だったり、福井市内のギャラリーだったり、時に二百号の大作もあったり、もう十五年ばかりのお付き合いだが、本当に素晴らしく女性としても大変魅力のある矍鑠としたバアさんである。
私が初めて画伯とお会いしたのは十五年前の八月の末、白山の南竜山荘でだった。当時のお年は逆算すると六十六歳、一週間ばかりの滞在とかだった。往き帰りにはお弟子さん達が同行されるようだったが、後はお一人で滞在されていた。私と画伯とは同じ部屋で二晩お付き合いし、いろいろお話をお伺いした。毎年山荘が閉鎖する間際の空いた頃に滞在されるのを常とされていた。泊まりは白山室堂でなく、つねに南竜山荘で、聞けば此処の方が過ごしよいからとのこと、私も南竜が開いていれば、室堂には泊まらない。そんなこんなで、画伯も私も南竜愛好者ということでは共通項だった。時に何故この白山にへとの問いに、それは白山の火口湖の翠ヶ池に魅せられたからと仰った。あの当時、画伯は翠ヶ池の神秘的な緑と青が融合した翠色に傾倒されていて、百号の大作も制作され、同じテーマで十数点もの作品を描き上げられている。うち何点かは現場へ毎日出向かれての制作と聞いた。私も六号の作品を頂いているが、実に神秘的な色合いで、何か池の底に引きずり込まれるような錯覚に陥ってしまう。
それから数年後の作品展には池のイメージはなくなり、ゴツゴツした岩山の作品が多くなっていた。お元気で現場まで足を運ばれての作品だと仰る。しかし作品は暗くて、凄みのあるものが多く、実写よりもさらに急峻、一見して近寄りがたい地獄の世界ともいうべき形相を呈している作品が多くなった。明神岳が雷光に浮かび上がった大作など、見ていると恐怖すら感じてしまう作品に仕上がっている。餓鬼岳、錫杖岳、穂高岳、剣岳、火ノ御子峰、等々、写真で見るよりは遥かに急峻で攀じ登ることができない山、しかもその峰々は漆黒の空間に聳え立つ針峯で構成されている。同じ頃には不動明王や阿修羅の大作も描き上げられているが、やはり近寄りがたい威圧感と畏怖の情が全身を貫き、慄然としたことを覚えている。
しかしこの度は、作風は一転して彼岸の世界を現出しているように感じた。もう八十一歳の誕生日を過ぎたと仰る。私が家内と画廊へ訪れたのは午後一時過ぎ、先生は「ふる里」へそばを食べに出かけられましたと女主人が言う。暫らく世間話をしながら、また作品を見せてもらいながら画伯を待つ。作品にはまだ少し暗さが残っているものの、明るさが取り戻されつつあるように感じた。岩山の作品もあるが、六呂師高原や取立山などの丸みを帯びた山を題材とした作品も出ていたし、立山三山を模したような四十号の「神々の山」なぞ、朱と金を基調とした極楽浄土を思わせる世界が現出されていた。そして案内状に印刷されていた六号の「北辰」という作品、画面中央に三角錐の山、これは正に仏教法典に出てくる須弥山だとみた。同じようなモチーフの絵が数点、中には明るい感じのもある。でも作品としては、「北辰」が最も秀逸だと思った。画伯が歩いて戻って来られた。歩きを見ていると、実に軽やか、とても八十一歳とは思えない。ますますお元気で何よりとの言には、でももう白山へは無理ですと仰る。代わりにあちこちの高原へお出かけになり、散策を楽しまれるとか。これが画風にも反映されているような気がする。気が付かれたでしょうけど、あの山を彼岸から眺めたらどうだろうかと想像して描くのも楽しいと仰る。私はあの北辰の山の原型は妙高山ではないかと思う。妙高山を東面から見ると、あの絵に出たくる山の輪郭と現実の山の輪郭とが実によく似ていると思った。数日後に妙高パインバレーに出かけたが、ますますその感を強くした。画伯にはこのことを聞くのを聞きそびれたが、でも、画伯の口から彼岸を意識して描かれたと聞いて、その意を強くした。因みに須弥山とは仏典では世界の中心にある山の呼び名だという。
ひとしきりの話が済んで、ところで此処から石段を百段ばかり上がった所にある御嶽神社の境内に池があって、そこには大きな蛙がいて、数珠玉を連ねたような卵を産んでいるとかで、見に行きませんかと。女主人は大層だから止めといたらと言われたが、画伯は私が案内しますとのこと。ではと出かけることにした。この神社の石段は、ここから登る藤倉岳の登山道でもあり、この山の下には北陸自動車道のトンネルが通っている。曲がりくねった間道を抜けて鳥居のある石段下に着いた。石段がずっと続いていて、これはかなりあるなと実感する。画伯は軽やかに上り始められ、後に続くが、かなり速く、しかも休まれない。全く驚いてしまう。百段あるというけれど、私には八十段位の感じとか、実際どれだけなのかと初めのうちは数えていたが、そのうち失念してしまった。このお宮はかなり古いらしい。池は拝殿に向かって右手の山側にあった。円く、径は七,八米位か、淡い赤褐色の背をしたヒキガエルが数匹いたが、近づくと一斉に水面下へ。卵が一面に産みつけられている。ガマの卵は初見である。お宮の人では、こんなに沢山でも六割位しかオタマジャクシにならないとか、そして産卵した後は、雌も雄も山の方へ行って死ぬとか、でも死骸はあまり見てないとか。蛙が鮎や鮭と同じように、産卵後は死ぬとは知らなかった。池に一匹だけ死んでいたが例外だとか。蛙は三分位潜っていると一度息継ぎに顔を出す。これから産卵するのだろうか。池はゼリー状の卵で一杯だ。帰りも画伯の足取りはシャンシャン、車も運転される由である。驚いてしまう。正にスーパーバーサンである。
[画伯はこの画廊を「ふる里」の主人の坂野さんから紹介されたと仰っていたが、その坂野さんは他界されたと話されていた。]
二、4月30日(振替休日、月曜日)は富士写ヶ岳へ本石楠花の花を見に出かける
例年富士写ヶ岳の本石楠花の花の身頃は五月一日前後である。今年は雪の量が少ないので、見頃は少し早まるかも知れないと思いつつも、とにかく出かけることに。今年初めての山行きである。五時少し前に家を出て、山中町を抜けて我谷の登山口へ、着いた時に、ランニング姿の中年の御仁が下りて来た。このコースでは時々このような山岳マラソンのトレーニングをする人に出会う。いつかも腰にペットボトルのみの夫婦と出会ったが、富士山の駆け上がり登山の予行とかで、小松からの往復とかだった。たまげる。我谷ダムの吊り橋から頂上までは標高差は八百米、通常は上り二時間、下り一時間半を要するが、彼らはどれ位で往復するのだろうか。午前六時に歩き出す。まだ後続の登山者は見えない。年に一度は登る径、山はウグイスなど小鳥の声のみ。中腹で今年初めての本石楠花に会う。色は濃いピンク色、盛りを少し過ぎた感じ、でもこの分では上では見頃なのではと思ったりする。稜線へ出ると、タムシバの白色が眩しい。径の両側にはタチツボスミレとイワウチワ(トクワカソウ)が真っ盛り、所々にショウジョウバカマ、これで本命のホンシャクナゲが満開なら申し分ないのだがと期待を膨らます。大体この時期に登る人の九割以上は石楠花の花を期待して登るはずで、それにはこの我谷コースが他の枯淵コースや大内コースより優れている。標高も八百米を過ぎて、そろそろ石楠花の出番なのだが、石楠花の木はあるものの、花が着いていない。よく見ると、花芽が着いていない。昨年は花着きが良かっただけに、裏年なのかと思ったりもする。何とも寂しい限りだ。咲いていたのは僅かに十数株。最後の急登を経て、枯淵コースと合流し、程なく頂上に達する。標高九百四十一・九米、一等三角点がある。ここまで丁度二時間、まだ午前八時なのに、もう靄っていて、残雪の大日山は指呼の間だが、白山は霞んでいて、稜線が白く光っているのみ、食事は止めにして下山することに、登った我谷コースを下る。急なコースなだけに上りより気を使う。雨だともっと気を使うが、幸い今日は天気が好い。十五分ばかり下った地点で最初の登山者に出くわす。頂上はどこですか。あの奥に見える二番目のピークです。どれ位かかりますか。もう二十分ちょっとでしょう。石楠花は。今年は花芽が着いてなくて駄目ですね。こんな会話を次々と登ってくる人達と交わしながら径を下る。一組四十人位の団体さんがいたが、あとは家族、友人、アベック、単独と、この我谷コースにはざっと百五十人ばかり、ダムに架かる登山口の吊り橋には九時半に着いたが、この時間でもまだ登る人達がいた。これからの時間の登りは暑いだろうな。
家への帰途、田中の一本道を気持ちよく走っていたら、お巡りさんに止められた。何事かと訊くと、速度違反ですと。十九キロオーバー、一万二千円の寄付を強いられた。
2007年GWの過ごし方(その2)
三、5月3日(憲法記念日、木曜日)に家内と瀬女高原へ出かけ、帰りにそば処山猫へ
前日の夕刊に、この連休には瀬女高原へのゴンドラが運行すること、そして瀬女高原ではウグイスやヒガラが啼き、湿地には水芭蕉が花を咲かせているとのこと、また連休に備えてコースの整備もしたとの記事が載っていた。片道のみゴンドラを利用すれば、標高差七百米あるから、適度な運動になると、娯楽も兼ねて出かけることにした。幸い田植えとも重ならず、ではと家内にどうかと聞くと、私も行くという。朝九時半に出ることにしていたが、こんな行き当たりばったりの計画では、とかく時間はルーズになり勝ち、なんやかやの用事、それに昼はおにぎりとお菜と飲み物の用意でと、家を出たのは十時半になってしまった。山では山靴を履くようにと、彼女には立派なローヴァの靴がある。今日は後半連休の初日とあって、沿道では○○まつりや○○フェアが開催されている。途中での会場での人出が多かっただけに、瀬女高原もかなりの人出なのではと思いつつ車を走らす。でもスキー場の駐車場に着いてみると、以外と車は少ない。それでもゴンドラは間引きながら運行している。靴を履き替えて、ゴンドラに乗る。人はまばら、乗り場も閑散、久しぶりに二人のみの空中散歩、雪は谷合に少し残るのみ、今日は暑くなるとのことだったが、さすが千百米の高原は爽やか、風に当たると涼しく感ずる。今日は三村山へは、残雪が多く立ち入り禁止とか、レストハウスもジュース・お茶等の飲み物は自販しているが、ビール等お酒の販売はない。私は多分開いていると言ったが、家内の言う通り、おにぎり・飲み物の持参は正解だった。ハウスからペアリフト終点の頂へ向かって歩き出す。歩道は雪の下、ゲレンデを歩いて登るが、かなりの労力、途中から雪も出だす。このスキー場で雪のない時に来たのはこれで二度目、前は雪が全くなかったので、三村山の頂上まで行けたが、今日はどこまでなのか、リフト終点には二十人ばかり、中には短靴の人もいる。ここから展望台へは階段の山道だが、残雪があり、短靴では無理だ。展望台には三組五人が、正面に笈ヶ岳、右に瓢箪山、左へ大笠山と奈良岳。ここではまだ石楠花は蕾のままだ。ここから先は木の根道、一組の夫婦はここから引き返した。痩せ尾根を下って鞍部に着くと、ここから三村山への径が通行止めになっていた。半ば観光目的の道ならば致し方ないか。聞けば中旬以降ならOKだとか。下って水芭蕉が生えているという湿地へ寄るが、実に貧弱、これでは目玉にならない。石川の大嵐山、砂御前山、福井の取立山、富山の縄ヶ池などは実に見応えがあるが、此処では株数を数えられる程度だ。山道を迂回して展望台に戻り、さらに東へ進み、格好の日溜りで昼食とする。二人でのんびりとゆっくりと昼食なんて、ここ二十年にはあったろうか。至福の時を過ごした。帰りはゲレンデを外して、雪もある山道をハウスまで歩く。ここから歩いての下山には反対され、已むなく再びゴンドラで下へ戻った。
帰りに、道の駅「瀬女」の一角にあるそば処山猫へ寄ることに、道の駅は結構繁盛していて、山猫も外見には外にも客待ちがありそうな雰囲気、余り混んでいるようだったら、他にしようと話し合う。駐車して家内が偵察に、でも中々帰ってこない。訝って行くと、外に居たのは、そばのシュークリームを求める客だった。中へ入ると、待っているのは家内の先には五人のみ、待つことにする。ただ、後から後から客が詰めかける。客の中にはしょっちゅう来る人もいて、いつもの休日だと店の外まで客が溢れるとのこと、今日はまだましな方だと。十五分位の待ちで席に着けた。年取った女の方と若い男の方が応援だが、てんてこ舞いである。時間は一時半、そばは、家内は「せいろ」細切り、私は「鴨南蛮」でそばは細切りを頼む。客が立て込んでいるので、蕎麦前は割愛した。家内では、細切りのせいろは上々の出来、こしがあって喉越しがよく、つゆも辛くなく中庸、申し分ないとのこと。一方の鴨南蛮、鴨の程よい柔らかさ加減と焼き葱の香り、細切りも温かいのにこしがあり、伸びていないのは流石、一級の仕上がりになっている。これだと門前市をなしても不思議ではない。箸はお持ち帰りにならないで下さいとある。割り箸の無駄を省こうと始めた運動だ。山猫では竹の箸、初めて出会った時は自作かと思ったが、実は京都の方からの仕入れとか、初めは対のはずだが、洗うと対でなくなり、どうするか思案されていたので、それなら番号を付られたらと提案したが、今日見ると漢数字が付ってあった。竹箸とはいえ、立派な職人の手になるもの、大切に使いたい。
四、5月4日(みどりの日、金曜日)に家内は名古屋での名展へ、小生は家で留守番
この日、名古屋のど真ん中にある栄の会場で、伊藤真乗という方が彫られたという大涅槃像ほか数多の仏像のご開帳が生誕百年を記念して「伊藤真乗の目と手」展として、今月四日から十日まで開催されるという。家内の姉や姪がどうしても見たいということで、私も運転手を兼ねて出かける算段になっていた。ところが情報では、高速道路もすごい混みようなのに加えて、会場も大変な人気で物凄い人出とか、そう聞かされると私は怖気づいてしまってパスすることにした。代わりに新装なった能登島の水族館にでも行こうかと家内に話したところ、明日と明後日は妙高へ出かけるのだから今日一日はおとなしく留守番していなさいとのご託宣、従うことにした。後での報道では、水族館は新装なってのトンネル水槽が超人気で、押すな押すなの大混雑だったとか、特に五日のこどもの日は子供は無料だったので、凄い人混みようだったとの報道、行かなくてよかったと実感した。家内たちは金沢を六時半に出るという。北陸・名神と継いで、一宮ICで下り、国道22号線を南下するルートを推薦したが、名古屋市栄周辺に駐車場があるのだろうか、それだけが心配だった。家内からの電話では、会場周辺には十時に着いたものの、手に入れた整理券の予想入場は午後六時半とか、しかもその間も並んでいないといけないというノルマ、家内からはあんたは来なくて正解だったとのお言葉。最後の入場者は七時入場が最後、間一髪で入れるようだったが、後の人は翌日以降とのことだった。聞けば会場は警備上の安全のために入場者の制限をしたらしいが、その結果がこの顛末、大変な催しがあったものだ。
案内によると、伊藤真乗なる人は、真言宗醍醐派総本山、京都の醍醐寺で真言宗の奥義を修めた後、釈尊の遺言ともいうべき「大般涅槃経」に出会い、仏を謹刻することを決意し、先ず大涅槃像の制作に取りかかったとか。一方、大般涅槃経を所依の経典とする一宗を興し、在家集団・真如苑の開祖ともなり、日本の仏教界のみならず、広く世界の宗教界にも知られる存在になったと。真乗が最初に制作したのが大涅槃像、幼時から手先が器用で進取の気性にも富んでいたこともあって、いろんな分野で足跡を残しているが、とりわけ仏の謹刻では「昭和の仏師」と呼ばれるほどで、その天性による創作は、釈迦如来、阿弥陀如来、十一面観音、不動明王、普賢延命菩薩、観世音菩薩ほか数多の仏像に結実している。この展覧会では、膨大な作品の中から、約二百点を精選して展示したとか。因みにこの企画は、東京美術倶楽部によるものだという。
ところでこの日の小生はというと、庭の草むしり、新聞や写真の整理、整理しながらのラジオ聞き流しで一日を過ごした。するとラジオで面白い番組に出会った。番組のテーマは何か知らないが、一つの設問は、「あなたは今死に瀕しています。今、死ぬ間際に当たって、何か口にしたいものがあるとすれば、それは何ですか。」というものだった。私ならさしずめ何だろうかと考える。美味しい水か、それともよく冷えたフルーティーな大吟醸仕立ての火当てしない生酒か。ラジオの対象者がどんな集団なのか、どこでインタビューしているのか、また一堂に会しているのかどうかも判然としないが、いろんな人が居ることだけは確かである。しかし聴いていて実にいろんな考えの人がいるものだと感心しながら聴いていた。死ぬ間際という設定なのに、極めつけは次のような最高に食い意地の張ったものだった。曰く、一流料亭で最高の会席料理を食べたい。曰く、帝国ホテルで最高クラスのフランス料理を食べたい。曰く、二十万円もするこれも最高級の中華料理を食べたい。 そんな経験は私にもないが、どうせなら死ぬ間際でなくて元気な時に経験したいものだ。しかし、本当に死ぬ間際であっても、病気にもよろうが、最後の気力を振り絞れば、それも可能なのかなと思ったりもする。凡夫人なら、液体か望んでも流動体が落ちだと思うが、大変な人種もいるものだ。食への執念というべきか。探蕎会の面々ならばどうなのだろうか。こんなアンケートも面白いと思うが、面々の中でどれだけの人が、今生の別れに際し、食したいのは「旨いソバ」であると言えるだろうか。そう言える人こそ、ホンマの蕎麦好きなのだが。でも、これは本音を言ってもらわないといけないのは、論を待たない。
カミさんがご帰館になったのは、日付が変更になる頃だった。会場の印象云々より、慣れない夜の高速を無事にやり過ごして帰って来てくれたことの方が正直嬉しかった。姪たちは若いのに運転を渋って、ずっと家内が運転だったとか。人によっては夜の運転の方がやりやすいという方もいるが、慣れないこととて緊張の連続だったろう。お疲れさんでした。
2007年GWの過ごし方(その3)
五、5月5日(こどもの日、土曜日)と6日(日曜日)は妙高高原で孫たちと遊ぶ
某銀行の東京支店に勤務する次男坊から、連休明けにある金融庁の立ち入り調査で、連休は出勤しなければならなかったのに、急に調査の立ち入りが延期となり、5,6日が休めるようになったので帰郷すると電話してきたのが3日の朝、あわただしい話だ。そこで家内と話させて、それならいっそのこととんぼ返りする段にどこかで会うことにしたらということに。次男に一切をまかせ、急遽宿は妙高パインバレーのアパリゾートホテルが空いていたのでそこに決め、あとは長男と三男に連絡を取ってもらった。三男のみ仕事で参加できないとのことだったが、私たちと子供たち二家族十人が5日11時に妙高で会うことになった。
5日は家を8時半に出た。山側環状線を通り、森本ICから北陸道へ、信越道を中郷ICで下り、国道22号を南下、カーナビに従い、妙高パインバレーのホテルに着いたのが11時少し前。ところで、チェックインは午後3時、その間はどうするのだろう。ホテルはゴルフ場の真っ只中、家内が次男に携帯で連絡すると、今からとある遊園地を出るというが、どこで待ち合わせるのか全く要領を得ない。最終的には国道まで戻って、国道沿いにあるコンビニでやっと会えた。チェックインまで時間があるので、昼食は国道筋ではなく赤倉温泉街でということに、ここは3月にスキーに来てぶらついたところだ。インターネットで目ぼしいイタリアンレストランを探り当て、そこへ寄るが満員、予約してしばらく待つことにして、車を町営の無料駐車場に止め、ぶらぶら歩いて件の店へと戻る。店では工面して、十人が同じテーブルに着けるようにしてくれた。それぞれに思い思いの品を頼むものだから、もう見た目には百花繚乱、ハイカラな名が付いているが、田舎の夫婦には無縁である。それにしても子供らが自由自在にナイフ、フォーク、スプーンをあやつるのには驚いた。さすが都会育ちと感心する。
昼食後、スカイケーブル(ゴンドラ)で妙高高原へ上ろうと提案する。雪があれば一面の真っ白なゲレンデ、三月に遊んだ場所だ。子供たちは大はしゃぎ、雪のなくなったゲレンデに一本の山桜が咲いている。誰ともなく独りで可哀そうだと、子供だとそういう発想になるのかと感心する。十数分で6百米ばかり高度をかせぐ。終点周辺は春と冬が同居している。高いブナの木にブランコが掛けてある。高さは十米もあろうか。子供ばかりか大人もユラユラと楽しんでいる。ブナ林をブラリと散策したかったが、まだ此処より上は雪が多く、短靴では無理だ。できれば下りはゆっくりで1時間というから歩きたかったが、却下された。ここは我慢。小一時間も居たろうか、再びゴンドラで下へ。東面が開け、高曇りながら、遠く志賀の山並み、中間には斑尾のトレール、近くには野尻湖、今夜の宿のパインバレーのアパリゾートホテルもはっきり見える。ゆっくり空中散歩を楽しんだ。そのあとコンビニで飲み物やつまみを仕込んでホテルへ、時間も3時を過ぎた。
部屋は3室とも7階、なかなか小ぎれいだ。窓を開けると正面に妙高山が、まさに須弥山のように聳えている。どの部屋からも見えるように配慮してある。大変気に入った宿だ。一風呂浴びた後、次男坊の部屋でビールとワインとジュースで乾杯、駄弁る。楽しいひと時。夕食はバイキングでなく、フルコースにする。私のみ和食、その名も「須弥山」、お酒がすすむ。終わってまた皆で再び酒盛り、体にアルコールが満遍なく行き渡り、居眠りしだしたらしい。促されて部屋へ、でもこの辺りからの記憶がさだかでない。翌朝家内に長男から沖縄土産の手に入り難い上等な泡盛の古酒を貰い、長男がいわれを説明してくれたのを知っているかと言われ、うん知っているとは言ったものの、正直なところ不明。朝会って礼は言ったものの、とどのつまりは飲み過ぎということだ。家内も近頃はお酒の量のことは余り口にしなくなった。総量規制もないに等しい始末、血圧チェックも随分と甘くなった。
六,5月6日(日曜日)のお昼に小布施の「せきざわ」に寄る
翌日の朝食はバイキング、でも内容が大変良いのには驚いた。ますます気に入り、また来ようということになった。長男は横浜へ、次男は千葉へ帰るとかで、9時には宿を発つという。私たちもそれに合わす。妙高高原ICから高速に、子供たちはそのまま家へ、私たちは小布施のそば処「せきざわ」へ寄ることにして、中野ICで下りる。小布施の中心街を抜けて山寄りに東進し、中松に至り、アップル街道がりんご園にさしかかる頃、道に面してその店はある。着いた時は10台止められる駐車場は満タン、でも順に空く。車は一杯でも、店の中の席には余裕がある。夫婦二人で仕切っておいでで、注文してから出されるまで若干時間を要する。私たちは「三昧そば」を頼んだ。私は二度目、家内は初めてである。蕎麦前を飲もうかとも思ったが、休日で立て込んでいるのと、家内は帰りの高速で片側一車線のトンネル内での対面通行の運転が怖いということで、「そば」だけにすることにした。関沢さんの蕎麦は自家栽培、しかも当然自家製粉、丁寧な仕上げである。三昧そばは、「生粉打ちのもり」「変わり」「あら挽き」の三種のそばが楽しめるようになっていて、全体で程よい量になっている。見ていると、奥さんは初めての人には大概これを勧めておいでだった。客が次から次へと入ってくる。床は板の間、足裏がひんやりすると家内、出る時に分かったことだが、玄関へ入ってすぐ右手に大きな箪笥があり、その下の引出しには席数の暖かそうなふんわりとした上履きが入っていて、勝手の分かった客はそこから取り出して履いていた。この次からはそうしよう。
そばは、もり、変り、粗挽きの順に出てくる。小振りな長方形の塗ったせいろにこんもり盛られて出てくる。辛みはおろし大根のみ、初めに「生粉打ちのもり」。極細の切り、生粉打ちはこしはあるが喉越しがよくないとかで細打ちにするが、ここでは更に細い。香りもよく、数本をそのまま手繰る。家内は贅沢にももう少しこしがあった方がよいと言う。あちこち食べに行くので舌が肥えてきたのか遠慮しない批評をする。私はそこまで言わないし、蕎麦前がメインなので舌の微妙な感覚が失われたのか、ピリッとした的確な表現に欠けるきらいがある。このことはこの間の吉田酒造さんで15種のお酒を飲み比べた折、最も気の利いた表現をされたのは寺田先生であって、飲兵衛どもは舌の微妙な感覚は大変な衰えを来たしているのではないかと思った程で、どうも「そば」でも私の舌の感覚はカミさんのそれより劣っていると認めざるを得ないようだ。出されてすぐに胃の腑に納まったが、隣の客は延々と話しに花が咲いていて、そばがのびてしかも乾きそうな感じ、どうでもよいことなのだが、見ていて気が気でない。貧乏性だ。どこかの蕎麦屋だったら怒鳴られるところだ。次いでややあって「変わりそば」、今日のは吉野の葛きりだとか、これも極めて細い切りだ。色は乳白色、葛が入っているせいか艶がある。滑らかで特に喉越しがよい。カミさんの評も上々だ。最後に「粗挽き」、丸ぬきの荒挽きとか、よく見ると淡いホシが見えるが、見た目には言われないと粗挽きとは分からないが、口に含むとこしがあって素朴な味がする。そば湯がきて、私はこの時初めておろしを汁に入れて味わった。そば湯は茹で汁、程よい濃さ加減、私は蕎麦粉を溶いて調整したものよりもこの方が好きだ。私たちがそば湯を飲み終わっても、隣の四人はまだ最初のもりが残っていて、奥さんは三段重ねにしていた。とんだ客がいたものだ。私たちはここで厨房にいる主人においしかったと謝して辞した。お二方からありがとうございましたと言われ、よい気分でアップル街道を中野へ、高速に乗り、新井のオアシスで晩の酒のつまみを仕入れ、家へは5時過ぎに着いた。子供たちも7時前には無事着いたと知らせが入った。楽しい連休はかくして終わった。来年は、息子たち三人はゴルフ、私は山、嫁さんたちや孫たちと家内は遊園地ということにしよう。
3つのコンサート [下野竜也、諏訪内晶子、庄司紗矢香](6.4)
その1. OEK第221回定期公演、指揮:下野竜也、ピアノ独奏:フィリップ・アントルモン
5月13日の日曜日にあったオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の定期公演はオール・ベートーベンで、指揮は読売日本交響楽団正指揮者の下野竜也、ピアノ独奏はフランスの著名なピアノ奏者であり指揮者でもあるフィリップ・アントルモン、指揮者は小柄、ピアノ奏者は大柄、二人が並ぶと指揮者はピアノ奏者の肩までもない。漫才なら正に凸凹コンビである。
ところで私は浅学にして下野さんという指揮者の名を聞いたことがない。そこで彼のプロフィールをパンフレットから引用してみよう。彼は鹿児島県出身、鹿児島大学教育学部音楽科を卒業、桐朋学園大学音楽学部附属指揮教室、イタリア・シエナのキジアーナ音楽院で学び、1997〜1999年には大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮研究員として、故朝比奈隆氏の薫陶を受けた。1999年の大阪フィルの定期演奏会でデビューし、同年の文化庁派遣芸術家在外研修員に選ばれ、9月から1年間ウィーン国立音楽大学に留学、更に2001年6月まで滞在。この間、2000年の第12回東京国際音楽コンクール指揮部門で優勝し、斉藤秀雄賞も受賞、翌2001年に行われた第47回ブザンソン国際指揮者コンクールでも優勝し、一躍脚光を浴びる。以後国内の主要オーケストラの客演指揮もし、著名独奏者との共演も多い。2006年11月に読売日本交響楽団の正指揮者に就任した。
この日のプログラムは、冒頭、劇音楽「エグモント」序曲、勇壮で若々しさが漲る演奏に期待感があったが、曲は10分ばかり、満足感は今一だった。次にピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」、主役はピアノであり、アントルモンの重厚さと技巧が光った。力強いタッチはオーケストラと対峙して高揚し、豪壮で華麗というべきか。今は亡きロシアの巨匠、ピアニストのラーザリ・ベルマンを彷彿とさせる緻密で豪快な演奏に満足した。休憩後、待望の交響曲第3番変ホ長調「英雄・エロイカ」、前曲と同じ調、しかし今度はバックでなくメインだ。彼は背が高くないので、指揮台は1尺もの嵩上げ、でないと指揮者が演奏者の中に埋没してしまう。鹿児島生まれの彼は、風貌も体躯も西郷隆盛とそっくりだ。高い台の上に立つと銅像を彷彿とさせる。曲が始まると、彼の全身からオーラを発しているような指揮振りとなり、それにOEKのメンバーが応え、実に豪壮で鮮烈な印象を聴衆に与え、私は感動で身が震えた。岩城宏之OEK音楽監督がこの曲を振られた時は、これ程の感動はなかったように思う。何が私にあれ程の感動を与えたのであろうか。エネルギッシュな迫力もさることながら、何といっても指揮者と楽員との一体感が実に素晴らしかった。実は余り期待してなかっただけに、その喜びは一入だった。
[余談1] 現OEK音楽監督の井上道義氏が就任演奏会で振ったのはモーツアルトの交響曲第39番変ホ長調であった。岩城さんはこの曲の演奏ではティンパニーの音を極力抑えて演奏されるのが常だったが、井上さんは豪快に振られた。私も違和感をもって聴いた一人なのだが、会見の時に、エロイカと同じ調なので、エロイカに真似て振ったと話されていたが、この調には豪壮さを潜在的に内に秘めている何かがあるのだろうか。さて井上さんは就任早々にモーツアルトの交響曲第39番、第40番、第41番を録音されたと第2ヴァイオリン首席奏者の江原さんから聞いた。大変素晴らしい雰囲気の中での録音だったので期待してくださいとのことだった。8月頃のリリースとか。岩城さんのと聴き比べてみたいと思っている。
[余談2] OEKの最初の録音は私が住んでいる野々市町の文化会館フォルテで行われた。録音はこれ1回きり、これが初めの終わりである。次からは富山県の小杉町でされるようになった。曲はモーツアルトの交響曲第40番ト短調とチャイコフスキーの弦楽合奏のセレナードハ長調である。2曲とも私の大好きな曲なのだが、とりわけ前曲への思い入れが激しい。モーツアルトの交響曲で短調なのは第25番と第40番の2曲のみで共にト短調、後者は岩城さんの指揮で何曲かリリースされているが、中でも最初の録音CDが特にお気に入りである。寝る前にいつも聴いていたものだから、家内のほうがよっぽど入れ込んでしまって、このCDはとうとう家内の車に拉致されてしまった。音楽堂で岩城さん指揮の生演奏を聴いたのは2回あるが、この曲ばかりは聴くと体に戦慄が走って、涙が出そうな感動を覚える。下野さんのエロイカを聞いて、岩城さんが振られた40番に想いを馳せた。
その2. ハンブルク北ドイツ放送交響楽団. 指揮:クリストフ・フォン・ドホナーニ、 ヴァイオリン独奏:諏訪内晶子 [使用楽器は日本音 楽財団より貸与された1714年製作のストラディヴァリウス「ドルフィン」]
諏訪内さんは今や余りにも有名である。1990年のチャイコフスキー国際コンクールで史上最年少の18歳で優勝し、世界の注目を浴びた。翌1991年からはニューヨークのジュリアード音楽院およびコロンビア大学に留学し、日本での演奏活動の再開は1995年である。金沢へは1997年の夏、次いで2004年の秋と2回訪れていて、いずれの時も岩城さん指揮のOEKと共演している。2回とも聴いたが、はじめの時は少女のような初々しさを、3年前では樹々が芽吹くような瑞々しさを感じたものだ。今はスイスに在住し、主にヨーロッパを中心に活躍されていて、今回の来日での公演は3回のみである。金沢公演のプログラムは、メンデルスゾーン作曲の序曲「ルイ・ブラス」とヴァイオリン協奏曲ホ短調、休憩を挟んで、チャイコフスキー作曲の交響曲第6番ロ短調「悲愴」であった。
序曲が終わってやや間を置いて、彼女と指揮者のドホナーニが登場、割れんばかりの拍手、彼女は前よりも何か妖艶さが漂う成熟した大人の雰囲気、天才少女の面影がないわけではないが、何か近寄りがたい雰囲気をも醸し出している感じがする。演奏に緊張は全くなく、余裕の演奏、もちろんオーケストラとの息もピッタリで、実に非の打ち所のない素晴らしい演奏だった。拍手が鳴り止まず、アンコールにバッハ作曲のヴァイオリンソナタが弾かれた。デビューしてもう20数年、世界ではもう押しも押されもせぬ大ヴァイオリニストに成長した。岩城先生の訃報をパリで聞いたのが6月、本来なら5月に先生とバルトークの2番をメルボルンで共演させて頂く予定でしたと。休憩後、2004年以降は主席指揮者のドホナーニによる悲愴交響曲、4管編成の大オーケストラとあって、凄い迫力だった。彼は過去18年間クリーブランド管弦楽団の音楽監督を、さらにフィルハーモニア管弦楽団の主席指揮者を7年勤めた輝かしい実績がある。十分心酔できた。この日は随分といろんな人に出会った。その中の一人:休憩の時に別嬪の方に木村さんと呼ばれて一瞬誰かと訝ったが、ややあって草庵のおカミさんだと分かった。ダンナが音楽好きなのは知っているが、カミさんまでも。この音楽会で会うとは正に奇遇だった。
その3. OEK第222回定期公演. 指揮:デイヴィッド・スターン、ヴァイオリン独奏:庄司紗矢香 [使用楽器は日本音楽財団より貸与された1715年製作のストラディヴァリウス「ヨアヒム」]
この日のプログラムは、コダーイ作曲のガランタ舞曲、チャイコフスキー作曲のヴァイオリン協奏曲ニ長調、メンデルスゾーン作曲の交響曲第3番イ短調「スコットランド」の3曲である。この日のお目当ては、アメリカの名ヴァイオリニストだったアイザック・スターンの息子さんで指揮者のデイヴィッド・スターンとOEKとの共演もさることながら、私も初めてお目にかかる天才少女の庄司紗矢香との出会いに胸をときめかせていた。彼女は子供ながら多くのコンクールに優勝し、海外の名門コンクールでは、1997年にヴィエニアフスキ国際コンクール(17歳までの部門)に日本人として初めて優勝、1999年6月にはヴィオッティ・ヴァルセシア国際コンクールで優勝、さらに同年10月には第46回パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールに15歳という史上最年少、しかも日本人として初めて優勝し、一躍世界中から注目を集めてしまった。
華やかなコダーイのガランタ舞曲の後に、小柄でまだ初々しさが残る彼女と指揮者のスターンさんが登場した。初共演の二人には万雷の拍手、彼女は立ってしばらく天井を見つめていた。気を静めるためなのか、演奏の合間にもそのような仕草が、誰かを探しているような風にも見えた。ヴァイオリン・コンチェルトがはじまった。オーケストラが序奏を奏でる。もう後戻りはできない。この曲ははじめ当時のヴァイオリンの巨匠アウアーに献呈されたが、4年前のピアノ協奏曲第1番と同様、「演奏不可能」というレッテルを貼られた程の難曲である。しかし演奏が始まると、その技巧、オーケストラとのコントラスト、実に正確無比、そして大胆、凄い演奏、特にカデンツアは素晴らしかった。諏訪内さんの音色はスタインウエイのピアノ、彼女のはベーゼンドルファーだ。堪能した。諏訪内さんの時はサイン会はなかったので、今回もないと思っていたらあるという。買った2大コンチェルトの CDにサインしてもらった。凄い演奏でしたねと言ったら、フフフと笑った。
京都探蕎行 [じん六、もうやん、高月、なかじん](6.19)
探蕎会平成19年度前半最後の行事は京都の蕎麦屋めぐり、参加者は最終的には15人、訪れる店は、全員参加が第1日目夕方の春秋山荘・高月のみ、京都は創業240年の尾張屋のほか、河道屋、有喜屋、松葉など、名代の店なら大勢でも入られようが、会の面々が訪れようとしているのは手打ちの蕎麦屋、とすると「なかじん」のように8席しかない店もあり、とても全員が入ることは不可能、ここに京都探蕎の隘路がある。しかし、結果的には都合で欠席の事務局長の尽力により、「なかじん」には1日目4人、2日目4人、「じん六」には1日目11人、2日目4人、「町家だいどこ姉小路」には2日目7人の予約ができ、時間も設定され、どうやら京都探蕎行が実施できる運びとなった。1日目の予定は、北山の「じん六」へは11時に11人、「なかじん」には12時に4人とあって、例の西金沢の駐車場を朝6時半に出発することに、天気は上々j、今回の本命は「なかじん」と「じん六」か。小生は1日目の昼は「じん六」と「もうやん」、夜は「高月」、2日目は「なかじん」へ訪ねる予定だ。
一、じん六:北区上賀茂桜井町67
店は地下鉄烏丸線北山駅4番出口から北山通を西へ200米ばかり、北へ入り込んでいるところに建っている明るい店だ。探蕎会一行のバスは山科で渋滞に遭い遅れそうな気配から、駐車場の二条城を目前に烏丸御池で先遣の7人が降り北山へ向かった。11時きっかりに店に着けた。すぐに中へ招じられる。大きな木のテーブルが2つ、小上がりには4人が座れる机が2つ、我々7人は大きなテーブルに陣取る。丸岡の海道さんの紹介でと挨拶する。主人の杉林さんは釜場に、手伝いに若い感じのよい男女、こざっぱりした感じがよい。そばはあらかじめ「蕎麦三昧」としてある。程なくして皆がそろった。この店の開店は11時45分なのだが、11人という数と、本来は予約不可なので、店主の気遣いで11時においで下さいとのこと、因みに翌日は4人で11時半とのことだった。海道さんも待てば入れますとのことだったが、お蔭で待たずして入れた。蕎麦前の摘みは「そばがき」「にしん煮」「ごま豆腐」のみ、それぞれ好みのものを注文する。私は蕎麦がき、蕎麦前は冷えた一升瓶から片口に模した大きな盃に5勺強、銘柄は静岡の「杉錦」、初めて口にする酒、キュッと冷えた淡麗辛口の酒、若干吟醸香が強いきらいがあるが、でも美味しい酒だ。瓶ごと置いといたらと言ったら、それは困りますとのことだった。グループでテーブルと小上がりの半分を占める。客が次々と訪れ満席に、外にも客が並ぶようになる。蕎麦がきは香りよし、滋味で甘味もあり、何も添加しなくてよい。酒との相性もよい。蕎麦三昧には先ず茨城産のそばが出てきた。丸いざるにガラスの皿を置き、それにこんもりと盛ってある。そばは総て十割の細打ちで、香りがあり、こしもあり、申し分ない。次いで富山産のそばが角皿に、そして福井産のそばが丸皿に、みな個性があるが、どう表現すべきか適切な言葉を持てないのはどうも歯がゆいが、とにかく旨いそばに満足する。ここでは新そばを歌い文句にしたことはないと何かで読んだことがある。足で歩いて良質の蕎麦を集め、それを厳寒の時期に丸抜きにし、無酸素の状態で真空パックし、冷蔵保存するとかだった。こうすると、新蕎麦の状態を維持できるとか。どの店でもできる技ではない。素晴らしい蕎麦屋さんだ。
二、SOBA DINING BAR MOUYAN (もうやん):北区上賀茂桜井町88
「じん六」と同じ町内、北山通を1区画戻って北へ上がると左に「もうやん」が見えてくる。マンションの1階、その名もソバ・ダイニング・バー、暖簾がなければとても蕎麦屋とは思えない。分厚いガラス戸を押して入ると一に目に付くのが巨大な大理石の馬蹄形のテーブル、奥にバーカウンター、右手に大きな天然木のテーブルが4脚、入った感じはカフェバーそのものだ。私は此処のオリジナル日本酒の「もうやん」と摘みには偶然目に止まった「ホヤのおろし和え」にする。そばアイスを頼んだ人、板わさを注文した人、再び「もり」に挑戦した人、とにかくメニューがとてつもなく多い。蕎麦創作料理もある。「そばハンバーグ」「そばコロッケ」「そば春巻き」等々。他のテーブルでは、若い女の子が「ソバパスタ」や「ソバサラダ」を頬張っている。お酒は10種近く、焼酎は30種以上、ワイン、ウィスキー、カクテル、中国酒もある。何とも不思議な空間である。「もうやん」なるオリジナル酒は癖がなく飲みやすい。それにも増してホヤの美味しいこと、以前本場で食したものとはまるで別物かと思うほど、あの潮臭さがない上、口にした感じは正に「このわた」の様、色は朱色、そして実に旨い。皆に振舞うが、口にした人は一様にビックリした様子、アッという間になくなった。酒もなくなり、今度は蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを頼む。残りのおろしを肴に飲み干す。つなぎ1割の「石臼もり」は縦割りにした孟宗竹に入っているが、170グラムは多めだ。先程の蕎麦三昧が150グラムとすると、辟易しても止むを得まい。そばは細打ち、喉越しはよいが、残ったのを頂いた時は少々パサついていた。ともかくヘンなソバ屋である。此処を出て解散、それぞれホテルへ、お寺さんへ、寺田先生と私は下鴨神社へ、しかしこの後鴨川べりを延々二条大橋を経由して堀川通まで、方角違いもあって8キロ近く炎天下を歩く羽目になるとは。
三、春秋山荘 蕎麦 高月(こうげつ):山科区安朱稲荷山町6
午後5時に京都駅中央改札口に集まり、山科駅へ、高月へはタクシーで5分とある。タクシーに乗って高月と言ったが通じなくて、春秋山荘で通じた。方角は駅の北だが、道筋が実に複雑、それに狭い。交差がママならないところも多い。山の中、知らないと行き着けない感じだ。竹林と雑木林の真っ只中に高月はある。建物は昭和54年に滋賀県木ノ本町から移築したものとか。総欅造り、葦葺きの民家、築後130年、前には大きな枯山水の庭、風格がある。上がった板の間のテーブルに5人、自在が付いた囲炉裏風の周りに男性10人が陣取る。夜はコースで要予約の蕎麦懐石のみ、順に、箸洗(そば湯)、先附、御向、そば切り、旬菜、飯物(寿司)、温麺、果物となっている。お酒は久保田千寿、四合瓶をアイスジャーに入れて冷やす。お酒がすすむ。これだけお酒が回ると、料理の記憶が余りない。しかし雰囲気は中々良い。映画、CM、写真等の舞台にもなったこともあるとか。値段は少々張るものの、それに見合う値のある場所だ。自然どっぷりの古民家でのひと時、、タイムスリップしたような一瞬、期待に反しない心が洗われる空間が此処には存在した。
山荘からは一番先に出たはずだったのに、ホテルへ着くと後続の人達が先に着いているではないか。山科駅から地下鉄で直にホテル近くまで来たとか、我々はJRとバスで、酔ってくたびれて、特にバスは混んでいたので参った。部屋へ帰ってバタンキューだったのは言うまでもない。
四、素料理 虚無蕎望 なかじん:東山区東大路三条下ル古川町546
今回の京都探蕎行の目玉は「なかじん」と「じん六」、ただ中臣は昨年秋から旧来の名前に素料理を新たに頭に付し、蕎麦のみの提供は止め、すべてコース料理のみ、その間料理と蕎麦をお酒を友に楽しんでもらうようにしたとのこと、私にはこれ以上の贅沢はないと考えた。それだけに期待もした。ホテルで朝食後、同班の寺田先生の希望で二条城を見学、出たのが10時15分、カミさん所望の水茄子の漬物を求めるべく錦小路へ、でもバスを一駅手前で降りたため、一区画余分に歩く羽目に、でもようやく錦市場に、人でごった返している。大安、西利にはお目当ての品はなく、市場中程の打田でやっと目的の品を見つけた。この後寺町通へ、そして錦天満宮へお参りして、新京極から河原町通へ、ここで姉小路へ行く3人と別れ、三条通へ、東山へはまだ先の先とてタクシーを拾う。古川町商店街の入口で降りる。商店街の間口は一間ばかりと実に狭い。その上、店は殆んどが閉まっており、私は日曜の近江町と表現したが、どうも毎日こうらしい。商店街とは名ばかりである。「なかじん」は真ん中辺り、すぐに判った。通り過ぎても不思議でないが、開いている店が少ないから間違わない。開店の正午まで20分、当然暖簾は出ていない。通り抜けて白川の辺へ、ここは明るく、東へは知恩院への参道が延びている。それに比し古川町商店街は暗くてまるでゴーストタウンだ。2分前に戻る。まだ閉まっている。1分前、暖簾が出る。木村さんですねと、きれいな娘さんだ。中へ入ると主人の中村さんが一番奥に、お世話になりますと言ったが知らぬ振り、奥から順に座る。暑かったので先ず生ビールを所望、出て来たところで乾杯した。
料理は予約の雪点心四千八百円コース、先附、粗挽きそば、前菜、そばがき、主菜、せいろ、デザート。前菜と主菜はメニューから予め選択、選択の品によっては高いもので1千円の追加、主人は二人ペアで別なものを頼んで半分ずつ食べるようにしたらと、一品は二人前位ありますと。松川さんと私、寺田先生と原さんがペア、私達は前菜にお造り三種盛りと明太子の生湯葉巻、主菜に鮎の塩焼きと鱧の天ぷら、酒は先ず高山の純米酒「久寿玉」を片口で、次いで伏見の純米酒「祝」を、酒が代わる度に片口も盃も新しくよく冷えたのに、その心遣いが嬉しい。ところで前菜のお造り、尺ものの重い厚手の真ん中に、刻み茗荷と大葉1枚を配し、その上に半寸三角厚さ二分の鮪の赤身と径六分厚さ二分の生蛸の足、それに甘海老の賽の目切り少々、確かに2切れずつと複数個あって二人で食せるが、これで800円の加算、どこの産なのか知らないが、全部を一口で食べることもできる量、あんまりだ。魯山人は料理の奥義で、盛りでは、田舎にあるありふれたものはもったいぶって極々少量を、希少なものはそこそこ量を多く出すことだと。たとえ高級品としてもこうも微量だと味がしないし、あの量では高過ぎる。鮎にしても焼く前に生きていますと見せてくれたが、鮎の塩焼きに死んだのを焼くはずがないのに、天然だと言いたかったのだろうか、それにしても稚鮎だった。蕎麦も粗挽きとせいろと2回出たが、2度とも香りが良いでしょうと念を押される始末、塩で食べて下さいと、どうも主客転倒してるのではと思う。尊大過ぎる。愉しい雰囲気を期待していただけに、何ともやりきれなかった。でも娘さんの応対は実に素晴らしかったのが救いだった。もとより代金を払った折にも挨拶はなかった。帰りに娘さんが外まで送ってくれたので、写真をと言ったら、マスターもと言うので待っていたら、中村さんが出てきて、駄目ですと一言、ピシャッと戸を閉められてしまった。どうも此処には再び訪れたくない来たくない店になりそうだ。
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