2009年4月11日土曜日

2008年後半

山みち蕎麦みち:斑尾山と信濃町「高はし」(7.19)

 「山みち蕎麦みち」というのは、とりわけ山と蕎麦に詳しい太野祺郎氏が山と渓谷社から勧められて平成14年(2002)9月に出版した本の題名である。私は迂闊にもずっと「、」を見逃していて大野さんとばかり思っていたものだから世話のない話で、ある時信州大学のあの「高嶺ルビー」を作出した氏原名誉教授と太野さんとの対談で初めて「、」が入っていることを確認した次第。でも対談の中で、本人自身私はよく大野さんと呼ばれると言っていたから、まんざら私のみの早とちりではないようだ。この方との最初の出会いは、平成11年に展望社から出版された「おいしい蕎麦を探す」に接した折で、以降展望社から3点と上記山渓の1点が出版されている。またそれ以前にも自費出版3点を著している。
 太野さんは昭和9年の京都生まれ長野育ち、大学は早稲田で卒業は昭和34年、私と卒業年次が一緒なのは何かの因縁か、でも山でも蕎麦でもレベルが随分とハイレベルなのには全くの脱帽である。大学で山岳部に所属していたかどうかは定かではないが、今と違ってワンゲルはまだ台頭し出したばかりで山岳部華やかかりし頃、特に早稲田には連綿とした伝統があった。卒業後は東京ガスに就職、ここで同僚と「TGそばの会」を結成し、全国の蕎麦店行脚をし出した。ところでその当時の蕎麦店の数は全国で500も無かったのではなかろうか。私には落語の興隆と蕎麦屋の数の推移とがどうもオーバーラップする。太野さんは昨年の対談では既に全国2千軒は優に訪れたと述べられていた。現在での店舗数の伸びは鈍化してはいるもののまだ増えていると思われ、手打ちに限っても全国では2万軒に及ぶのではと想像している。
 一方山の方はというと、会社を定年退職した平成6年には深田百名山の登頂を達成、その後日本三百名山にも登頂したという。すごいバイタリティーを感ずる。またその内容も半端ではない。卒後40年にもわたる谷川岳での合宿と谷川岳山頂からの西黒沢スキー滑降、4月の北岳登頂、前穂高岳北尾根、槍ケ岳北鎌尾根、残雪期霧の剣岳の単独行など、そのレベルも半端ではない。
 著者はこの本の副題に「名山の麓にうまい蕎麦あり」と付しているが、あとがきの中では、名山とそば店を組み合わせるには存外頭を捻らざるを得なかったと述懐している。組み合わせに当たっては、先ずそば店を選び、次にその近くの山を当てはめていく手法をとったと。当然名店でも近くに山が無ければ対象にできないし、その逆もあるわけである。ただマイカーの普及もあって、距離は多少離れていてもこじつけて組み合わせたものもあるとしている。ところで、登山とそばと、この両者を必然的に結びつけねばならぬ理由とは何なのかと自問している。そしてこう関連づけた。「風が吹けば桶屋が儲かる」の類に似ているが、私も両方が好きなだけに賛同したい。曰く、「そば好きには酒好きが多い」。曰く、「山屋も酒が大好きである」。「登山愛好家にそば好きが多いのには、酒の存在を無視できない」と。著者の心のうちでは、登山・酒・そばが強固なトライアングルを形成しているとも、全く同感である。
 話を戻そう。私達夫婦と3人の息子とその孫達が一堂に会するのは、正月と旧盆のみ、そこで昨年からは東京と金沢の中間辺りで5月に会おうということになり、昨年は次男の世話で妙高高原で、今年は長男の世話で斑尾高原で会することにした。もう今はエージェント経由で家族単位でネット申し込みする段取りなので、気は楽である。4連休の2-3日を予定していたが、都合で急遽3—4日に、当日は朝ゆっくり家を出る。山側環状道路から森本ICで高速道に入り、途中昼食をして、午後2時頃には野尻湖に近い信濃町ICで下りる。長男は野尻湖の湖畔にいると連絡が入り、合流する。時間もあり、船で野尻湖を周遊する。湖底からナウマン象の化石が見つかったのはよく知られているが、蕎麦の実も出土していて、このことは蕎麦が稲よりも前に日本に渡来していたことの大きな証拠とされている。因みに野尻湖は斑尾山の噴火に際しての噴出物により川が堰き止められてできた湖であると言われている。
 次男一家の到着が遅れるとのこと、夕食開始の時刻をずらすことにして、取りあえずは山越えをして斑尾山麓のホテルタングラム斑尾東急リゾートへ向かう。ここは斑尾高原スキー場とは斑尾山から北へ延びる尾根と接した西側にあり、冬はタングラムスキーサーカスと呼ばれていて、冬には2度ばかり訪れたことがある。山と一面の緑、ホテルと大きな駐車場とゴルフ場、でも駐車スペースはほとんどない位、ホテルは満室だという。次男が漸く着く。夕食はバイキングなら大部屋、それ以外は別部屋で和、洋、中となるが、和、洋は満室で空きは中華のみ、選択肢はなかった。でも楽しい一時、孫達とは正月以来、大きくなった印象を受ける。終って部屋で談笑、お酒も食べ物も手付かずにお土産に早変わり、明日はどこかへ遠征との案も出たが、ここで過ごすことに、先ずゴンドラで山へ上ろうとなった。
 朝食を済ませて外へ飛び出る。実に爽快。取りあえず簡易ゴンドラのスカイスニーカーで上に。冬は次から次と送り出すのに、無雪時は僅かに4台のみ、しかも客がいないと動かない仕掛け、10分で終点、展望室のある尾根、樹間からは野尻湖が、尾根には石畳が高みへ続いている。あまりのきれいな道に皆で上る。50mばかり上ると石畳は途切れ、ここが展望台になっていて、標高は1100m、これより上は登山道との標識、私の靴は通勤に履く短靴、次男とその長男が挑戦するというから、私も同道することに、頂上までは標高差300mばかり、往復1時間と踏んで登り始める。尾根は幅10mばかり、冬はパノラマコースとなる快適な斜面、夏道はジグザグに付けられている。上るにつれ眺望が開け、野尻湖を挟んで北信五岳の4山と対峙する。右から妙高(2446)、黒姫(2053)、戸隠(1911)、飯綱(1917)、戸隠を除く3山は独立峯だ。斜面には残雪が、短靴では結構苦労する。孫はどんどん登るが、疲れると腰を下ろす。兎と亀だ。万坂峠からの径と合流した辺りから上は尾根も狭くなり、東面には残雪が多い。下から見えていたピークは頂上ではなく、更に平坦な径が続く。この辺りはブナ林、従って見晴らしは全く利かない。そして最後の一登りがあって頂上へ着いた。一等三角点には1381.8とある。登山者が3組ばかり、みな完全装備、私を見て怪訝な顔をされる。さもあろう。孫も着いた。孫達はスニーカー、私よりははるかにましだ。頂上から10分ばかり、大明神岳まで行くと眺望が開けますとのことだったが、登ってくる途中でも十分見えたので割愛して下ることに。帰りは孫達が断然早い。特に短靴での雪面の下りには往生する。1時間を30分以上オーバーして皆と合流した。後は思い思いに、キャッチボールをしたり、バドミントンをしたり、家内は昔取った杵柄(県で8指に入っていた。但し既婚のダブルス)でも条件が悪いにしろ、たじたじなのを見てると気の毒、お盆には雪辱と言っていたが。その後はボブスレーに挑戦、50mばかり上り、氷の壁ならぬアルミの半筒のなかを滑り下りる。孫はカーブでも減速せずにあっという間に下へ、私はカーブで飛び出ないようにブレーキをかけるものだからどうしても遅くなる。午後1時近く、次男の細君が見つけたという蕎麦屋へ行くことに。昨晩灯りが点いていたので何かと確かめたら、蕎麦屋だったとのこと、あまり期待しない気持ちで向かった。ゴルフ場を挟んでホテルと向き合っている。
 霧下蕎麦「高はし」は米杉の丸太をふんだんに使った店、昼は11時半から2時まで、私達10人が寄ったのは1時半、残り7人分しかないので追い打ちして上げましょうと言って下さる。売り切れ終いの店が多い中で、これには感激してしまった。店の中は実に重厚な感じ、でも明るくて異国にいる雰囲気、客席からは打ち場がよく見える。十割・生粉打ちが難なく打ち上がる。「せいろ」と「とろろ」が半々、期待に反して望外の出来、特に汁は吟味してあって素晴らしく良い。野の花も生けられていて、実に清々しい感じで「高はし」を後にした。この時私は「山みち蕎麦みち」を思い、斑尾山に最も似つかわしい蕎麦屋は此処だと思った。
閑話休題
一、 北信五岳の信は信濃を示す。ところで妙高山は越後の山、それなのに何故信濃に入っているのか。また最も高い妙高山と最も低い斑尾山とは1000m以上の標高差があるのに何故一括りになっているのか。以前から疑問だったが、この疑問は志賀高原へ行って氷解した。志賀高原から西望すると、最も低いが近い斑尾山が最も右に、そして左へ妙高、黒姫、戸隠、飯綱とほぼ等間隔にしかも同じ高さに見える。しかも妙高に連なる火打、焼は妙高の陰に、戸隠の北にある高妻は黒姫に隠れて見えず、しかも信濃と越後の境なぞ分かる訳もなく、古くから北信濃の五名山と称されたとのことに納得した次第。
二、 文部省唱歌の「故郷」に出てくる山と川の一節といえば、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、夢は今も巡りて、忘れがたき故郷」。この作詞者の高野辰之は斑尾山麓の旧豊田村の出身、歌詞に出てくる「山」は正に斑尾山、「川」は斑(尾)川だと。歌は大変よく知られているが、この地であると教えられてびっくりした。高野さんは「故郷」のほかにも、「朧月夜」「春が来た」「春の小川」「紅葉」なども作詞している。感激した。


今年も白山のコマクサを観にでかける(8.5)

 白山にコマクサが自生しているという記録はない。雷鳥のように以前はいたが今は絶滅したとされているように、ずっと昔にはあったが今はないという類でもなく、適地はあるものの存在していないというのが本当だ。もっともそんな植物は沢山あるだろうけれども、コマクサというととりわけ目を引く存在だからだ。コマクサを見たことのない人でも、「高山の女王」という名前を頂戴しているといえば、あの花のことかと納得されるのではないだろうか。私が遭遇したコマクサの群生地としては、針ノ木岳と針ノ木峠を挟んで対峙している蓮華岳、それと白馬岳北方の雪倉岳を思い出す。一面、点々と青白色の細葉と馬形のピンクの花、開花時は実に壮観である。コマクサのコマは駒で、花の形が馬の顔に似ていることにより命名されたものだ。ケシ科の多年草で、株は独立している。繁殖は株でなく、種子の頒布で増えることからそうなるのだろう。自生している場所は、高山帯でしかも他の植物がほとんど生育しないガレ場であり、恐らくは根が直根で地中深く入り込んでいるため、乾燥にも十分耐えられるのであろう。
 そのコマクサが白山に植栽されていると地元新聞に紹介されたのに接したのはかれこれ8年前の7月のことである。紹介したのは加賀市の写真家の宮誠而さんである。写真を見ると、遠く能登半島を望める地とあって、写真には10株位、見たところ株は未だ若く、そしてこれらの株を擁護するように岩で囲ってある。場所は何処とは書いてないが、主峰の御前峰の北側のガレ場と推定できる。実生らしきものも写っていることからすると、少なくとも植栽されて5年は経過しているのではと推定される。今は高山植物でもかなりの種が園芸品店で売られていて、中にコマクサも入っているかも知れないが、私はこれまで見たことがない。でも下界の植物園でコマクサと表示した木札を見たことがあるから、ある可能性は高い。でもこれらは高山からの移植ではなく実生から育てたものだろう。
 山でコマクサに接した人ならば、その生育環境がどんな場所かはすぐ思い出せるに違いない。写真を見て、合成したものでなければ、容易にその場所を特定できると、その年から白山のコマクサ探しを始めた。しかし御前峰から北へお池巡りのコースを御宝庫までつぶさに見て歩いたが、場所特定は今日まで出来ず終いである。ガレ場でも急な斜面では生育が困難だから、場所的には限定されるのだが、まだ見つからない。
 国立公園法では公園内の一切の動植物・鉱物の採取は禁じられている。ところが植栽についてはしていけないという規制はないとか、その上、一旦そこに根付き植生すると、採取は禁じられてしまう。ということは、コマクサを白山に植栽した方は、法律上の隘路はもとより、生育環境にも充分熟知した人が適地を選び、周りを石で囲み、慈しみをもって育んだものと想像できる。相当な園芸愛好家であるに違いない。いつかは実は私でしたと名乗られることがあるのだろうか。
 次の年、人づてにあのコマクサは白山の何ヵ所かに植栽されたと聞いた。私がもしやと思ったのは大汝峰である。大汝峰の頂上は饅頭のようで、安山岩のザレ場が広がっていて、コマクサがあっても不思議ではない環境である。とある日、コマクサを求めて大汝峰に登った。すると、コマクサが2株ずつ3ヵ所に植栽されているのを見つけた。周りには岩を積んで砂礫に流されないように囲ってあった。株はまだ小さく若く、花数も多くはないが、しかし可愛い実生も生えていた。実に不思議な感動だった。そして人為的にでもせよ、定着してほしいと願った。植物の専門家は、生えていても目録には登載しないとのこと、でも50年もすれば植栽されたとの注付きで記載されるかも知れない。それ以降毎年ここを訪ねることにしている。年々過酷な環境にあっても株は大きくなり、花数も多くなり、実生の数も増え、定着した感がある。いつか新聞に国立公園以外で見つかった植栽されたコマクサは排除するとした記事を見たが、今白山でも問題になっているオオバコやスズメノカタビラと同一視しないでほしいと願っている。
 今年もコマクサのことが気になり、白山へ出かけた。7月20日日曜日、この日の天候は曇後晴、翌日は晴後曇で夕方雨。朝は雲が低く朝出るのが躊躇されたが、午後には回復とのこと、では午後室堂に入り、翌日朝御前峰で御来光を見て、その足で大汝峰へ回ろうという算段で午後出かけることに、しかし室堂は予約で一杯、でも来られれば不自由ですがお泊めしましょうとのこと、それでコマクサ見たさに出かけた。市ノ瀬の駐車場は満タン、今まで停めたこともない最奥に1台のスペースを見つけ、バスで別当出合へ、陽が射すと凄い暑さ、汗が滴る。別当覗から上部は雲の中、上では雨の気配。標高が高くなるにつれ、霧も濃くなり小雨も、歩く分には気持ち良く、カンカン照りよりは遥かにマシと、でも段々良くなるものと信じて歩を進める。しかし、甚之助小屋へ着いた頃からは本降りに、気温は下がり身体は快調なのだが、雨は段々強く、ドシャ降りとまでは行かないものの、ここで引き返すことに、室堂は定員超過な上、乾燥室も満タンだろうし、ケイタイで家内に室堂へ泊まらない旨伝えて貰うことにして下り出した。ところが別当覗まで下りると、雨は止んでいて、下から登ってくる人は全く雨具を付けていない。下りるにしたがってガスも切れ、再びカンカン照りの暑い径を歩く羽目に。下界は正に曇後晴だった。
 次に出かけたのは8月2日土曜日、山の天気は曇時々霧、3日の日曜は午後雨とかで、2日の朝早くに出ることに、3時半に家を出る。市ノ瀬5時のバスで別当出合に、今日も沢山の登山者、今日は半ばの甚之助小屋から上部は視界が悪い。ガスの中室堂に達する。もう往年の元気はなく、完全にマイペース、別当から砂防経由で3時間半もかかってしまった。風が強く、ガスが流れる。止まっていると寒くて震えがくる。汗はアッという間に引いてしまった。小休止の後大汝峰へと歩き出す。御前峰へ登る径から左に入り、千蛇ヶ池へと進む。径の左手にコマクサを見たとの友人の言、注意しながら登るが、ガレ場もなく、一面高山植物が繁茂していて、それらしきものは見えない。径はガレ場も通るが、斜度がありコマクサが定着できる環境ではない。またも遭遇できなかった。千蛇ヶ池は雪渓の下、雪渓はずっと下まで連なっている。一瞬ガスが切れて大汝峰が見えた。でも再びガスの中、視界は30メートルばかり、大汝峰へ急ぐ。
 大汝峰への登りもガスの中、これから中宮温泉へ下るという人と別れる。上りの中間に岩場があり、足が攣ってきて緊張する。頂上近くで下りる3人と出会う。相変わらず視界は悪い。天気が良ければ、定番の下に翠ヶ池、左に剣ヶ峰、右に御前峰の景観が展開するのに、白い霧の中、大汝神社にお参りし、待望のコマクサと御対面に。あった、でも花期が過ぎている。花の色は褪せ、一部は風に傷められて褐色に、去年は8月11日でも淡紅色の花が見られたのに、今年は9日も早いのにこの有様、残念だ。3ヵ所あったはずと付近を探すが見当たらない。3ヵ所は東西方向に近接してあったのに、何かの理由で1ヵ所になってしまったのかと、せめて囲いの痕跡でもと目を凝らすが、やはり見つからない。諦めて北の方角へ歩いた時、フッとこれまで観てきたコマクサに出会えた。ということは最初に見たのは初見の株だったことに、此処には少なくとも4ヵ所植栽されていたのだ。とすると探せばもっと他にもあるかも知れない。デジカメに記録はしたが、見て観賞に耐えられるものではなく、また来年に期待しよう。でも花の周りには登山靴の跡があり、此処を訪ねる人がいることが知れる。
 頂を去るまでの間、誰とも会わなかったが、下りで3人と出会った。彼女らもコマクサを観に来たのだろうか。下りて、翠ヶ池、血ノ池、油ヶ池、紺屋ヶ池と巡って御前峰へと回る。御前峰は一杯の人、人。上から室堂の赤い屋根は見えないが、少しずつ霧の濃さは薄らいで来ているような印象を受ける。奥ノ宮に参拝して下ることに。下りも以前のようにトントンとリズミカルには下りられず、早い人には径を譲ることに何の抵抗も感じなくなってしまった。齢を重ねたとつくづく思う。70歳台にはその年代に相応しい歩き方をしなければならないなどと、昔取った杵柄は過去のことと割り切らねばと思う。1時前に室堂を発つ。いつもなら観光新道を下りるのだが、今日は楽な砂防新道を下ることに、下りるにつれ気温も上昇、陽も射して暑くて往生する。走って下りる人もいた。昔はそんな無茶もよくやったが、今はとても出来ない。膝を労わりゆっくりと下山する。室堂から別当出合まで2時間20分を要した。この時間は年々延びるに違いなく、そして長躯はとても無理になりそうだ。石徹白道が残っているが、達成できるだろうか。

平成20年旧盆のつれづれ(8.20)

1.白山にコマクサを植栽した人は白山でトウヤクリンドウを発見した人だった
 旧盆の8月15日には、毎年私の父の弟(叔父)や私の弟や妹が、私が今当主をしている実家へ寄ることになっていて、もう40年も続いている。床の間に「釈迦」と大書した軸と左右に祖父と祖母の軸を掛け、盛り物をして、その子等に集まって貰うわけである。父が存命中は父が、亡くなってからは私がその役を引き継いでいる。とはいっても、長男だった父、それに長女、次男、三男はもう他界してしまっていて、存命なのは四男の85歳の叔父のみになってしまった。そして私の両親の写真も額入りにして並べ、私の弟妹も叔父たちと同席し故人を偲んできた。でも弟も事故で急死し、今年の旧盆に集まったのは末弟の叔父と妹夫婦、それに私達夫婦と3人の息子たちのみと、以前からすれば随分と少なくなってしまった。料理は専ら自前、叔父にしてみれば、その方が昔が思い出されてよいとかで、ハイカラさはなく、田舎料理丸出しである。飲み物は何故かビールオンリー。
 三男の叔父がいた頃は、話題は専ら終始漢方薬のことばかりで、私はともかく、妹夫婦は全くの門外漢で蚊帳の外、付き合うのは大変だったろうと思う。でも今は四方山話だから、和気藹々、楽しい一時を過ごせる。この叔父は、専門は生薬学や薬用植物学だが、植物分類学も東大の本田正次教授に師事したこともあって、実に詳しい。80歳になってからは白山へは行っていないとかだが、それまではよく出かけていた。白山の植物調査にも文化財保護の立場から参画していて、私が小学生の時に初めて白山へ行ったのも、そんな機会を捉えてのことだった。さて、一頻り話が弾んで一服した折に、件の白山のコマクサのことを持ちかけた。すると叔父は現場は見ていないと断りつつも、即座にそれをしたのは実名で彼氏だと、私はこの件で以前白山にコマクサを植栽したのは実は私だったといつか名乗りでることもあるのではと書いたが、しかしその可能性は全く無くなってしまった。というのはその彼氏は既に冥土へ旅立ってしまったからだ。叔父はどうもそのことを当人から直に聞いたらしい口ぶりで、他に何人かの山岳関係者もご存知だと。彼は高校では私の1年先輩、一浪して医学部へ入り、白山診療班にも長年携わり、白山のことは主のようによく知っていた。白山ではしょっちゅう出会ったが、私が彼と同行したことは一度もない。私は独りのことが多かったが、彼にはいつも数人の取り巻きがいた。それで私が彼に興味を抱いたのは、彼から白山にトウヤクリンドウが自生していてそれは私が初めて見つけたと聞いたからである。その後ある日、彼はこれからその自生地へ行くと言っていたが、それは誰かが訝しいと言ったとかで、その確認とかだった。この件については、叔父もその現場は特定していて、現場での確認もしているとのことだった。その場所は今は廃径となった径の先とのこと、それも1株だけだから、余程のことがない限り見つかるものではない。この草は立山へ行けばもう沢山生えているのだが、何故か白山で確認されているのはそこだけらしい。そんな彼だから、園芸専門家でないにせよ、取り巻きにその道の専門家がいても不思議ではなく、その組織構成は昔の軍隊を思わせる。彼の手記があれば経緯が書かれているかも知れない。
2.ペルセウス座流星群
 8月17日の夜3時頃だろうか、夢を見た。それは私がロケットに跨って、ペルセウス座流星群の真っ只中に突っ込み、夥しい流星のシャワーを浴びたという、考えてみれば実に突拍子もない荒唐無稽な夢である。テレビでもラジオでも今が見るに適した時期だとテロップを流していて、じゃあお目にかかりたいと思っていたせいかも知れない。      
 私は今メタボ対策の運動療法を兼ねて、毎朝ウォーキングをしている。コースは、自宅の野々市町本町二丁目から自宅前の旧北國街道・旧国道8号線の町道を南進し、県道193号線(窪ー野々市線)との本町二丁目交差点をほぼ真東に左折し、三馬三丁目、窪七丁目、窪町の交差点を過ぎ、県道22号線(山側環状線)の窪二丁目交差点まで行き、そこから環状線を南下し、旧道に入って窪七丁目まで戻り、往きの道を自宅まで戻る往復5.6kmのコースである。今の時期は田んぼの水まわりも兼ねて、4時半頃に家を出、65分前後で往復する。水まわりに5分程度を割くから、実歩行時間は60分程度だろう。
 この日は満月、夢に驚いて起きて、思い立ってこの日は3時半といつもより1時間早く家を出た。月はもう西に低く傾き、東はまだ薄暗い状態。しかし建物が多くて東の空が十分見える場所は数限られている。昔は野々市町から現三馬の旧三馬村野々市新までは一面水田で遮るものがなく、県境の医王山まですっきりと見渡せたものだが、今は見通せる場所は極めて少ない。それでも月明かりがなくなった3時40分から4時頃までに東方の山側の右上から左下にかけて2個の流星を確認できた。スーッという感じの見え方なのだが、もっとスッという短いのもあったかも知れない。この2回は歩いていて山が見える場所からのみだったので、見える場所でじっくり観察すればもっと確認できたのかも。
3.旧盆のわが家の人口はMAX10.5倍の21人に
 旧盆と正月には息子たち3家族12人と弟の娘家族4人がいつも一堂に会する。めでたいことなのだが、その喧騒さたるやサイクロン、ハリケーン襲来並である。年を経るにしたがって、理性が働いてくるのが伺い知れるが、まだ暫くは沈静化は望めそうもない。都会の狭い家ではこうもいかないだろうから、伸び伸びできる環境にくればそれも仕方ないとも思うが、度が過ぎると雷も落としたくなる。まだ就学前の時は一緒に混じって遊んでもやったが、もう手に負えない。食事がまた大変だ。買い物にも作るのにも動員がかかる。平生の十倍だから、量もさることながら器の数も半端ではない。また食べた後の始末が、特に夕食の後が凄い。個々の家には流儀があって、油ものとそうでないものと一緒にして洗剤を入れて洗う風習が多いようだが、私は別にして洗うことにしている。ところがもう一緒にされてしまってからではそうはいかない。皿を重ねられると裏にも油が付き、全体を洗剤で洗わねばならない始末に、しかもこの洗いをするのは私と長男の役目とは恐れ入る。夜遅くまで飲んでいても、これだけは始末してからでないと寝られない。翌朝ではなお荷が重くなる。話変わって、今夏ある人から網走の流氷を使った地ビールというのを頂いた。売れ筋で中々手に入らないという代物、正式にはビールの範疇には入らないのかも知れないが、ともかく淡青色の色が新鮮で、お盆前でもあったので、息子たちに飲ませようと飲まないでおいた。せっかく皆が寄ったので、背の高いグラスに注いで供した。味も爽やかで、皆さん珍しいねえと喜んでくれ、残しておいた甲斐があったと嬉しかった。ところが、次男の配偶者(嫁と書くと差別語になるらしい)が、これは地ビールとはいえないのではと、色も人工着色料を使用しているのではと。いつもの詮索が始まったと聞き流していたが、少しは提供者の意図も酌んで、何も真っ当から勝負しなくてもよいのにと思ったものだ。
 そのくせ「ウマイコトイイノ ゴッツォクイ」だから、料理にも気が張り、下手なものは出せない。だから子供たちも遠慮せずにウマイものはウマイ、マズイものはマズイと仰る。先日も晩にアカイカ、フクラギ、カツオのタタキの刺し身にサザエの壷焼きを出した。サザエは大中小12個ばかり、料理して肝は外して身のみを薄切りにして大きな殻3個に盛り付けた。次男の息子はそのうち2つをゲットして食べ出した。次男夫婦にあなた方も食べなさいというと、息子はこれが大好きだからとのご託宣、美味しいと言って戴いて光栄だが、親馬鹿もいいところだ。伸び伸びして いるというと聞こえはいいが、逆境に立ったときには対処できるだろうか。時に程度を越すと私は怒鳴るが、欲しいものは何でも手に入るという癖は、ガマンの世界を経てきた私には我慢がならない。終戦詔勅の「たえがたきをたえ しのびがたきをしのび」は今の世には通用しないのだろうか。自己中心というか、自意識過剰というか、でも少し外へ出て集団生活をするようになれば、幾分改善されてくるだろう。
 息子たち家族が野々市の実家に来ることには異議はなく、何の異論もない。ところが息子たちが帰ってしまった後に配偶者と子供が滞在するのは問題なような気がする。長男の配偶者は押水の実家に、三男の配偶者は自分の家へ帰るが、次男の配偶者は金沢に実家がありながら野々市に逗留する。こちらの方が住み心地が好いと仰る。喜ばしいことなのだが、その滞留時には足回りがないので、家内が通勤に使っている車を日中借用するという次第となる。家内は勤務する病院へ送り迎えされる栄に浴することに。何不自由のない家庭なのにどうも解せない。台風が居座っている感じだ。でももう四五日の辛抱、そうすれば再び静寂が戻る。
 網走ビール「流氷ドラフト生」:オホーツク海の流氷の色「オホーツクブルー」をイメージしたピュアな発泡酒です。網走オホーツク海の海氷を折り込み水に使用し、爽やかで軽い飲み口に仕上げました。色と香り、コクをご堪能下さい。原材料/糖化スターチ・麦芽・ナガイモ・ホップ・スピルリナ色素 アルコール分/5% 麦芽使用比率/25%未満 非加熱処理 内容量/330mL 要冷蔵/10度以下 技術指導/東京農業大学生物産業学部


ウオーキングの効能(9.12)

 県職員だった頃には年に1回春に定期健康診断があったが、50歳になった年に突然尿糖が強陽性になった。前年までは全く正常だったのにである。そういえば父も弟もその兆しがあったから、やはり遺伝的な体質は持ち合わせていたのだろう。したがって当然血糖値も高いわけである。そこでかかりつけの先生に相談し治療を受けることになった。ところで幸いだったのかどうか、その先生は見事な肥満体、しかもお酒が大好き、そういうこともあって、私の糖尿病には実に寛大で、特別生活習慣の見直しなど全く指示はなく、暴飲暴食は避けるようにという程度のものだった。ただ血糖値は気になったものだから、検査日に合わせて前日は節制し、検査値のコントロールに努めた。しかし県を辞して予防医学協会へ入った頃からは、糖尿病の検査に短日のコントロールでは影響を受けない糖化ヘモグロビンのHbA1cの検査が導入されるようになり、現状のありのままが再現されるようになった。基準値(以前の正常値)は5.1%だが、私のレベルはいつも8%台を維持していた。信頼すべき主治医の先生に相談すると、びくびくするな大丈夫だと、それに力を得て薬は飲んでいて気にはしていたものの、深刻さは全くなかった。ところが70歳になっても相変わらずの状態、十人中十人がそれはヤバイというのを聞くに及び、相談を別の先生に鞍替えすることにした。
 セカンドオピニオンというべきか、その先生ではとんでもないことだと、薬は引き続き処方するけれど、食事療法と運動療法は是非して下さいとのご託宣。先ず食事でやり玉に挙がったのは飲酒、それではこれまでの半分にしましょうということで妥協し、お酒に換算して2合とすることに。運動の方は以前は週に一度は山へ出かけていてそれでOKとしていたが、年を取り出かけることが少なくなったこともあり、それでは毎日歩いてはという助言。先生と管理栄養士では、できれば50分、30分はゆっくりでもよいが、後の20分は速歩でと、これも受けて実行することに。昨年の9月初旬のことである。お酒の方はずっと愛飲している新清酒の「三楽」を従来の半分の2合に、この酒はアルコール度数は15%と清酒とほぼ同じだがエキス分が幾分少ない代物である。しかし焼酎やブランデー・ウイスキーを飲むとなると何となくコントロールしにくく、つい飲み過ぎてしまう傾向となる。但しビールは例外でお水代わりということに。
  一方、歩きの方は、雨の日は割愛することにして、近隣の地図に家から半径2キロの円を描き、道なりに曲がり曲がって2キロの接点のところで家の方へ戻る作戦とした。始めたのが9月、お陰で家を中心とした半径2キロの道という道はすべて歩いてしまった。歩いた軌跡を白地図に記入するとすべて赤くなってしまった。時間は1時間前後である。しかし歩道といっても名ばかりの道が多いこと、原則朝の4時半に出かけることにしているが、日が短い季節ではまだ真っ暗、結構街灯の点いてない道路も多いのに気付く。また車の通りが多い幹線道路では、識別のために蛍光板のついたチョッキを着るとかしないと危険が伴ったりする。ということは道といっても必ずしもウオーキングに適した道というのはそんなに多くはないということになる。また雪のある季節では、消雪装置のついた道を雨具を付け長靴を履いて歩くことにした。ところで春になってからはこれまでの方針を改め、以降はこれまでで最も歩きやすかった錦丘高校までの往復を更に山際の山側環状道路にまで延長して歩くことにした。この道は真っ暗なところが全くなく、途中の三馬の伏見台商店街は真夜中でも煌々と街灯が点いていて、しかも歩道が広くとてもお気に入りである。距離は5.6キロ、約1時間の行程である。
 こうして約1年が経過した。今年夏の協会の健診で、ウオーキングの効果が期待されたHbA1cは2.1%減少して6.1%に、運動の効果というべきか。もう1%下がれば大成功なのだが、この程度の運動では限界なのかも知れない。余禄の腹囲も87cmから82cmになり、限度の85cmを切り、お陰で「メタボリック該当せず」となった。血圧は正常高値血圧という判定、塩分をもう少し減らした方がよさそうだ。血中脂質や肝機能で軽度の異常を認めますとあったが、基準値の変更によるもので、この程度は心配いりませんとのコメント。アドバイスには、糖尿病の食事療法・運動療法を今後もしっかり行いましょう。血中脂質については、動物性脂肪は控え、野菜・海藻・きのこ類を多くとるように心がけましょう。適度な運動も効果的です。血圧については、減塩や適度な運動に心がけ、時々血圧を測定しましょう。肝機能については、アルコールや体重増加、過労、ストレスなどに注意しましょう。アルコールの適量は、1日あたりビール500mL1本、日本酒なら1合程度です。休肝日は週2回程度をお勧めします。上手にお酒と付き合いましょう。とある。
 コメントもアドバイスも適切なものだが、これはデータを入力するとコンピューターが判断してくれるもので、特にアルコールについては他のデータが不足なこともあって、個々人にとって最適なものとはいえない。適量といっても、ある人にとって1合は危険量にもなる一方で、何ら影響を来たさない量でもある。1合は平均しての値と割り切りたい。ところでウオーキングの効能として、つい飲み過ぎてアルコールが残ったなあと思っても、1時間もの歩きの負荷をかけると汗とともに霧散してしまい実に爽やかになる。これは偉大な効能である。といって毎晩残るほど飲むということではない。もう一点の休肝日だが、適量ならば何も休む必要はさらさら無いといってよい。飲まないのも負荷、1日休んで飲むのも負荷になるような気がする。コンスタントであることが必要なのでは。ただ身体の調子が悪くて、お酒があまり欲しくない時にまで無理して飲むなどは愚の骨頂である。
 今一つ気になっていることに動脈の硬さのことがある。今年の正月に病院へ行った折、血管検査(血圧脈波検査)を勧められて計測した。検査には2種類あり、一つは下肢の動脈の狭窄の程度を測るABI検査、今一つは動脈壁硬化を判定するPWV検査である。ABIは腕の血圧と足首の血圧の比で、その値が0.9以下の場合、下肢閉塞性動脈硬化症の疑いがあるとするもので、0.9~1.3が正常範囲、私は右足1.27、左足1.18で正常範囲内だった。一方、PWVは腕から足首までの脈波の伝播速度で、この値が大きいほど血管壁が硬くなっていることを示し、この値は年齢とともに増加する一方、血圧が高くなることでも増えるという。私の測定値は右が2112cm/s、左が2120cm/sだった。70歳での平均が1450cm/sであるので、あなたの血管は健康な70歳男性と比べて硬めですとの判定、後日あなたの推定血管年齢は90歳以上に相当しますとの通知を受けた。日野原先生と同程度とは大変光栄なことだ。さて、この検査が一般的であるかどうかは別として、ウオーキングがこの測定値にどんな影響を及ぼすのか、非常に興味が持たれるところである。

ダンゴ三姉妹(10.2)

 家内の兄弟姉妹は5人、生まれ順に女男女女男で、家内は三女にあたる。旧姓は西野、旧柏野村字荒屋柏野、現在は白山市荒屋柏野町、今でも一帯は田園地帯である。西野家は分家だったが、それでも3町歩もある自作の稲作専業農家、以前は今と違い全く機械化されておらず、特に田植えと稲刈りは一仕事なために猫の手も借りたい状況、当然子供らも駆り出され、大変だったという。私の家は終戦百姓、たかが1町歩だったが、やはりこの時期大変だった。それがその3倍もあっては夫婦二人ではとてもこなしきれない。特に一番上の姉は中学を卒業した後は進学することなく親の仕事を手伝うことに、とても今の時世からは想像もつかない重労働だったという。年を経るにしたがって機械も導入されるようになり、農業は次第に省力化され、長男と次女は高校へも進学できるようになり、三女の家内は短大までも進学できた。父親は厳格だったから、その言には絶対服従、典型的な昔家庭であった。
 昭和30年頃には、何かきっかけがあったのだろうけど、西野の親父は車屋を始めた。持ち前の才覚と負けん気で、個人規模では石川県で最も規模の大きい実績のある店になっていた。その名も「石川自動車商会」、従業員も30人以上はいたろう。そしてほかにも日本のある大手タイヤメーカーの石川県代理店もしていた。親父の弟はブリジストンの石川県代理店をしていてなかなかの羽振りだった。その頃は田圃の面積も少なくなっていたと思われ、家内も小さいときには長姉に次いで田圃によく駆り出されたと話していたが、長じてはあまり手伝ったとは言っていない。私は昭和40年に家内と結婚したが、西野の親父の私への注文は、娘に田圃の手伝いだけはさせないようにとの一言、小さい時に随分と手伝わせた反動だと受け取れた。それと小生の家は気丈な母が取り仕切っていたものだから、娘を木村家へ嫁がすべきかどうかで随分悩んだと後で西野の親父が述懐していた。そういうわけではないのだが、私は家内よりもむしろ嫁の父親に魅力を感じ惚れ込んでしまった。
 このような厳しい環境を乗り越えてきたこともあって、一番上の姉の信頼度は抜群で、二番目も三番目も、今でもおねえちゃんオネエチャンで何でも相談する風潮があり、特に結婚当初はよろず相談所のようだった。当然私の一挙手一投足もすべて報告されていて、この傾向は今ではやや収まりつつあるものの、 依然として踏襲されている。ということはこの三姉妹は長姉を頂点に強固な結束関係にあって、以前はもし家内が何か私のことで口説いたりすると、たちどころに即お説教の雨霰が降り注ぐということに。私に非があるときは神妙にごせつごもっともと聞くが、中にはかなり大仰なこともあり、納得できないこともあるが、そんな時は反論はせずにじっと聞き流すことにしていた。特に車に同乗した時などは必ずといっていいほどお説教を聞かされ、その切り出しは決まって「ノブアキサン」である。そこで思案して付けたニックネームは「バアコチャン」である。あちこちでお説教法話を聞かれているらしく話題は実に豊富、事情があって高校には進学できなかったが、三姉妹の中では一番頭が良いのではと思ったりもする。
 でも古稀を迎えられてからは、昔のトーンは減じて実にソフトになってきた。代わって登場になったのが次女、私よりは歳は下だが姉御肌、また甥や姪が東京の大学に進学するようになったときには必ずお世話になるものだから、一層お世話にも熱が入り、その熱が私の方にも及んできたものと思われる節がある。特に健康のことについては、ずっと薬局をやっていたものだから尚更である。彼女は薬剤師ではないが、連れあいのY夫さんが薬剤師、私共と似ている。お酒を飲んで酔っ払うのは罪悪と思っておいでなのか、ある程度飲むと「モウヤメナサイ」というご命令が飛び出す。過去に一度三姉妹に誘われY夫さんと私が同道したことがあるが、私はこれでキレてしまって爾来お供することはなくなり、以後は三姉妹で水入らずという状態が続いている。ところでY夫さんは以前私にも一度能登へ行ってみたいと言われたことがあり、私は機会があったら是非と言ったことがある。
 9月の半ば、一番上の姉の長女の次女(家内の姪の娘)の結婚式が金沢であることになり、私達夫婦にも出席をとの案内があった。当然在京中にお世話になった次姉の夫婦も出席されることになっていた。私は結婚する当人の顔も知らず、出席を躊躇したが、それは家内も同じだったらしい。しかし問題は次の日から1泊2日の予定でこの機会に能登へ旅行したいというY夫さんの希望のことである。家内は私が金輪際一緒に旅行したくないと思っていると信じ込んでいるものだから、かなり前から打診があったらしいものの、私に伝えることは消えかかった火に油を注ぐようなものだと思ってか、一切話さなかった。Y夫さんは私が行かないのなら行かないと言われたとかで、家内にはお酒のことはタブーにするから、とにかく打診してみてとの矢の催促、結婚式の日も迫ったある日、とうとう東京から私が家に居るときに直接電話がかかってきた。家内は清水の舞台から飛び下りる覚悟で私にことの顛末を初めて話してくれた。ところが二の返事で呆気なく私がOKしたものだから、茫然自失、こんなに簡単だったら、どうしてこんなに心配したのだろうかと。以前の私の言動がこんなに大きい影響を及ぼしていたなどとは、私は思いもつかなかった。こうして三姉妹とY夫さんと私の5人と案内役の高島夫妻の7人で能登の旅へ出かけることになった。
 高島夫妻は二人とも中学校の先生、細君は一番上の姉の三女にあたる。旦那は熱血漢で正義感があり、学校紛争では現場に溶け込んで解決するという手腕を発揮できる御仁でもある。今は石川県教育委員会で指導主事をしている。以前に会った時はかなりの肥満体だったが、糖尿病を患ったとかで、奥さんの健康管理よろしく、今は実にスマートになっている。結婚式の翌日、いよいよ旅行に出発、車はアルファードの7人乗り、前に高島夫妻、真ん中にY夫さんと私、後尾に三姉妹、中々乗り心地がよい。能登海浜道路を一路北上、今浜から千里浜に出て砂浜を走る。天気もよく快適。私は持参の霙状態にした鄙願を車中でY夫さんとさしで飲む。美味しい大吟醸酒である。これにはお咎めはなかった。再び海浜道路に戻り、真言宗の古刹である来迎寺へ、実に古めかしい寺だ。私がこの寺で知っているのは「ライコウジキクザクラ」、もう親木はなく、若木が育っていた。檀家がないだけに寺の維持管理が大変だ。円山応挙の幽霊図があることでも知られていることは初めて知った。
 お昼は旧柳田村の夢一輪館で能登のそばを食する。行事があるのか、昼時なのか、お客さんがやたらと多い。ややあって中へ、この蕎麦屋は畑のチーズが売り、囲炉裏を囲んで座る。宇出津の酒「竹葉」を蕎麦前に頂く。ここは探蕎会でも来たことがある。皆さんもりそばにする。ほどほどにお腹がふくれる。お天気もよく、山越えをして今夜の宿の輪島・ねぶた温泉「能登の庄」に向かう。車の中の三姉妹の状況は、お喋りに花が咲いているか、静かな時はお眠りでお休みのどちらか、それが団子三兄弟のようだと。私は団子三兄弟のことはよく知らないが、表題では捩って「ダンゴ三姉妹」とした。車は輪島の市街を抜け、海岸線を東進する。そして国道を挟んで日本海に面した今宵の宿に着いた。水平線に七つ島が見えている。こんな所にこんな宿が、造りはまだ新しく、新鮮な感じがする。
 部屋は一部屋、でもツインベッドが別部屋に、三姉妹は好みの浴衣を選んで登場、我々男性軍は2階の展望風呂へ、1階の大浴場は外来の方も入るので、この時間混んでいるとのこと、2階でゆっくり寛いだ。夕食は囲炉裏料亭で輪島塗の器に盛られた囲炉裏料理を頂く。10品が次々と出てくるが、全部は食べ尽くせない。お酒は地酒、ビールも、そしてお喋りも実に賑やか、とにかくお説教がないのがよい。Y夫さんは熱燗で、何しろ清酒が大好きとか、堪能されたようだった。これまではどちらかというと洋風だったが、やはり日本料理とお酒が一番だ。素朴な田舎の感じは心を落着かせる。
 一夜明けて、天気も上々、朝食は昨晩の囲炉裏部屋、沢山の種類の品々、Y夫さんと私はすべて頂いたが、他の方は何かしら残された。量もさることながら、種類が多く実に豪華だ。女将が昨晩は中秋の名月でしたと、それにも気付かず飲んでいたのだろうか。今朝は海の彼方に七つ島がくっきりと見える。いい宿だった。満タンだったらしいが、スペースに余裕があるせいか、それを感じさせないところが良い。宿を出て白米の千枚田へ、丁度刈り入れが始まった時期、壮観だ。宿からは5島しか見えなかったが、此処からは7島を数えられる。反転して輪島の朝市へ、お客でごった返している。買わないでおこうと言いながらも両手に荷物を持つ羽目に、あの雰囲気がそうさせるのだろう。帰途、門前の総持寺へ、まだ地震の跡があちこちに散見されるが、復興は進んでいる。境内で抹茶のソフトクリームを、食べている三姉妹の顔を見ると実に幸せそうだ。昼過ぎ、私の提案で七尾市国分町の蕎麦処「欅庵」へ寄った。二八と十割、ここの辛味大根は本当に辛い。辛いのが大好きというY夫さんと私とでおろしを処分した。蕎麦前は吉田蔵、好きな酒だ。
 店を出て、能登海浜道へ回り、一路金沢へ戻る。三姉妹はお喋りかお休みかの2パターンのみ、心配はあったが、実に楽しい旅行となった。金沢駅で東京へ帰る石田夫妻を見送った折、来年もぜひということになったのは必然の成り行き。もし希望者が増えたらマイクロバスでと高島さんの提案、免許はお持ちだとか、これを聞けば行きたい家族も出てこよう。来年に期待したい。

初秋の京都での山の仲間の会(10.10)

 山の仲間の会とは金沢大学山岳会のことである。昨年は創部50周年の節目、金沢で会を開き、金沢大学の新しいキャンパスにクスノキを記念植樹した。暖地系の樹木なので、先ず活着するかどうかが心配されたが、どうにか第一関門は通過できた。私の家の近くの神社にも楠があるが、私が小学生の頃にはもうそこそこ大きかったから、かなり古いに違いないのだが、でもあれから半世紀経っているのにそんなに大木になったという印象はない。ここ北國ではこの木の生長は極めて遅く、大木になるには百年や二百年はみなければならないかも知れない。山岳会の会員は山岳部OBで構成され、現在180名位登録されているが、そのうち海外で4名、国内で5名を山で亡くしている。また国内でも新聞を賑わした遭難騒ぎも3件ばかり、その頃は部員もそこそこいて、これらの事件は素晴らしい活躍をしていた裏証でもある。海外遠征でも、カラコルムのハッチンダール・キッシュ初登頂の偉業も成し遂げている。しかしここ10年ばかり前からは新入部員が途絶えるようになり、名目上はずっと1名が所属していることになってはいるものの、金沢大学のHPからは山岳部の名は削除されている。山岳部衰退の現象は金沢大学のみのことではなく、全国的な風潮であり、大所帯のワンゲルとは実に対照的である。
 金沢大学山岳部は私達が学生の頃に立ち上げたもの、それまでも山岳部とか山の会とかいうのはあったが、当時の山岳部は有名無実だったし、山の会は最もハードな山行が残雪期の近山を年に1回程度の活動、あとは資金集めと称してダンスパーティーで明け暮れる軟弱な仲良し会のような存在だった。それでも私達が大学へ入学して初めて入ったのは山の会、でも翌年からは元気のよい連中が入ってきて、部員も増え、活動も盛んになり、さながら黄金時代の感があった。当然の成り行きで、皆の総意により山岳部を立ち上げた。私達が行った勧誘説明会には、教室に入りきれない程の人数が集まったものだ。しかし入部対象は男子学生のみだったため、このことは2年後に萌芽したワンダーフォーゲルに必然的に男女学生が集う下地となった。ワンゲルといっても、指導的立場に立つ人は当然登山に対する基礎的な知識・技術を必要としたために、彼らを約1年かけて指導したものだ。特にザイルワークを重視して特訓した。こうしてワンゲルにも山が好きな学生が多く入るようになり、なかんずく女子学生も多く、華やかな存在となった。私が卒業する頃は、山岳部は精鋭の集団のようになっていて、単に山を楽しむワンゲルとは一線を画するようになっていた。
 設立当初の活動の重点は夏は主として長距離縦走だったが、2年後からは岩を主体とした合宿形式になり、以後は夏は剣岳をホームとした合宿が主体となった。そして夏を除く秋から春にかけては、白山山系に重点をおいた山行を繰り返してきた。この頃には厳冬期白山山系全山縦走も成し遂げられた。しかし時代とともに、白山もさることながら他の地域にも目が向くようになり、厳冬期の剣岳北方稜線や大天井岳での遭難にも遭遇することになる。また少数精鋭で海外にも雄飛し、ヒマラヤ、カラコルム、アンデスにも足跡を残すことになる。こうなると新入部員も全くの素人では入りづらくなる一方で、山岳部の部活動はキツイという印象とも相まって、新入生の入部は極端に少なくなっていった。ここにきてワンゲルとの乖離は大きく、高校での山岳経験者もワンゲルへ入って、そこでそこそこハードな山行も行うようになっていた。この頃はワンゲルは200名を超える部員を抱える部となっていたのに対し、山岳部は多い時で十数名程度、その数の差は歴然で、部活動も年長部員が卒業しても部員の補充が追いつかないことから、自ずと活動に制限がかかるようになった。そして数はさらに減り、部活はジリ貧状態になり、そしてやがて団体としての部活は全く出来なくなってしまった。今となっては山岳部の復活は難しいだろう。
 金沢大学の母体の一つである旧制第四高等学校には、旅行部という名の山岳部があり、部誌のベルクハイルは特に白山北部山域に関してはバイブル的な存在だった。この旅行部と私達の山岳部との間に関係を持とうという話は何度となく持ちかけられた。というのも山岳部の部長は代々四高旅行部に所属していた先生にお願いしていたことに端を発している。何度もお世話している方ともお会いし親交を深めたが、山岳部が旅行部を継承することとはならなかった。今会員がどれ位おいでるかは不明であるが、最年少でも80歳近いだろうから、もう継承は無理なような気がする。これも山岳会の懸案の一つだった。
 山岳会の総会は、北陸、関東、東海、関西の4支部持ち回りで、毎年1回開催することにしている。今年は関西支部の担当で京都で開催した。出席21名中奥さん同伴が2組、微笑ましい。総会では記念植樹したクスノキの現況が、樹木医をしているY氏から報告があり、来年の新芽の用意もできているとのこと、ただもう一冬、樹を寒冷紗で覆い、樹の根元には藁を敷き詰めて寒さ対策をするとのことだった。
 また今年夏に行った大天井岳遭難追悼登山には十名ばかりの会員が参加し、昨年は天候悪化で執り行えなかったけれども、今年は無事に追悼式を執り行えたとのこと。またその後も天候に恵まれ、久しぶりに旧交を温めての山行はなかなかの好評、これからも企画したいとのことだった。山行に参加した人は皆さんリタイアされていて、日にちもゆっくりとれ、尾根歩きを満喫されたとか、羨ましい限りだ。ところで今回の総会は1泊2日、場所は嵐山にある旧松下電器、10月からはパナソニックとなった会社の保養所、場所も環境も申し分がない。一般の方も紹介があれば利用可能とか、嵯峨野散策には絶好の拠点である。
 夕方の会食は掘り炬燵形式のテーブル、料理のほかに1尺5寸はあろうかという大鍋が3人に1つ、鍋には一人1丁を6切れに切った豆腐が入っている。沸騰したらあくをすくって湯豆腐として食する。すごく甘味のあるすべすべの豆腐。当然絹ごしだと思っていたが、聞くとこれは木綿豆腐だという。その店では絹ごしは作っていないとのこと。実は京都では大変有名な「森嘉の豆腐」だという。店は近くの嵯峨にあるとか、近隣にも知れ渡っている有名店とのこと、これが木綿とはとても信じられない。なくなって一人半丁が追加になった。お酒とも大変よく合った。ひとしきりアルコールが回って、全員が自己紹介、現役?は私のみ、皆さん悠々自適のサンデー毎日、羨ましい。見ていると辞めてからは山へ行く余裕ができたと仰る。ある会員は奥さんを山へ誘ったところ、ダンナより元気、しかも山にハマってしまって、正に主客転倒、次からは私が連れて行ってあげますといったとのこと、これには大いに笑った。また還暦過ぎの連中は、再来年に会で企画している第3次アンデス遠征に向けて準備を始めたとのこと、これまで2回の遠征では天候に恵まれずコトパクシ(5896)には登頂できていないが、今度は三度目の正直、成就してほしいものだ。エクアドルの首都キトーには会員のW氏が在住していて、遠征の仲介をしてくれている。昨年の遠征では5700mまで登ったとか、でも高山病に悩まされた会員もいたそうだ。オプションではガラパゴスへ行ったり、マチュピチュなどのインカの遺跡巡りや高地トレッキングもしたとか、そしてチャクララフで遭難した2名の追悼も行ったという。なかなか多彩で盛り沢山の遠征だったらしい。皆さん思い思いに定年後を楽しんでおいでのようで、やはり会社勤務では制約もあってなかなか時間をとって行けなかった山へ、リタイア後は目を向けておいでの様子、抑圧がなくなればそうなることは当然の成り行き、なんとも感慨深いものがあった。私もそうありたいと願っている。その後の二次会でも話題は尽きることがなく、私も現役のときは随分厳しかったと後輩に述懐される一幕もあった。
 翌朝起きると霧雨、でも段々好くなるような空模様、愛宕山(924)へ登るグループは、食事して宿を後にした。次いでゴルフ組も出かけた。私は大原へ行く組に、車2台に4人ずつ分乗、中に金閣寺へ寄りたいという方がいて寄ることに。私は前日拝観したので、近くの北野天満宮へ、近くと思っていたのに片道15分を要した。青空も覗き、時折陽も射す天気、汗ばむ。集合して大原へ向かう。市街地を抜けて鄙びた里へ、畔や空き地には彼岸花の赤が翠に映える。道路脇の駐車場に車を止め、参道を三千院へ、参道の両脇には大原名物のしば漬けを扱う店が立ち並ぶ。院まで600m10分とあったが、のぼりで本当に10分かかってしまった。京都大原三千院は歌では歌ったりもするが、訪れるのは初めて。標柱には三千院門跡とあった。境内はかなり広く、庭の苔の緑が清々しい。国宝の阿弥陀三尊が実に素晴らしく有り難かった。御朱印を頂く。頂く場所は4箇所、その上1箇所に2枚もあったりする。此処が大変気に入って、今年もう一度来たいという九州在住の御仁も出た。三千院は何か気持ちを落着かせる不思議な雰囲気を醸し出している処だ。月曜日だが参詣する人は多い。山を下りて車で寂光院へ向かう。当初は徒歩でと言っていたが、車でないとかなりかかったろう。車を寂光院門前で停める。この寺は平成12年の原因不明の出火で灰燼に帰してしまい、その後再建されたものだ。焼けた由緒ある姫小松の老木が痛々しい。宝物殿には御本尊の胎内にあった6万体の地蔵様の燃え残りが展示してあったが、復元できるのか。新しい地蔵様は檜の寄木で作られていて、極彩色に彩られているが、資料に基づいて忠実に復元されたものだという。現在は胎内には6体の地蔵様のみを内蔵とかだが、6万体内蔵は皆様の善意でこれからおいおいにとのこと、成就しますように。
 昼食を門前の茶屋でとる。皆さん蕎麦、私はなめこそばにする。そばは機械打ち、他で打ったものを使っているのだろう。山を下って国道沿いにある土井のしば漬け本舗へ、大きな工場が隣接、私も家内が好きな4点を土産に買った。後は皆さん京都駅へ、地下鉄北山駅で下ろしてもらい、ここで解散とする。早い人は3時の電車、私は6時の電車なので、すぐ近くにある「じん六」と「もうやん」へ、でもじん六は閉まっていた。もうやんで聞くと月曜は定休日とのこと、ここではこの前絶品と思った「ほやのおろしあえ」と、蕎麦前に越前の黒龍と越中の立山をもらう。もうやんの「ほや」は実に色鮮やかで美味しい。この時間ほかに客はなく、主人と駄弁りながら戴く。そばは「十割のせいろ」をもらう。細打ち、新そばではないが、今は保存管理が行き届いているので、つながりにくいということは全くないとのこと。じん六さんも新そばの表示は全くされないとか、極端な言い方をすれば、いつも年中新蕎麦を扱っているようなものということになると。此処は開店して15年、じん六さんは20年になるという。辞して向かいにある府立植物園へ入って時間を過ごす。今の時期はコスモスが満開、驚くほど沢山の品種があって、初めてお目にかかる珍しい花にも出会った。下旬になると秋の草花も咲くとか、立派なカメラを持った中高年の方が目立つ。私にとっては久しぶりの植物園、好きな空間だった。

五度目の正直で漸く晴れの白山ー錦秋の平瀬道ー(10.21)

 勤務していると、自由になる日は週末に限られてしまう。しかし週末というのはいろんな行事が入っていて、 山へ行こうとしても、月1回か2回程度しかフリーな土日がない。今 年は週末を利用して白山には4度出かけたが、なんと4度とも雨の山行、余程心証が悪いとしか言いようがない。もっとも若いときは雨なら雨でそれも風情があると嘯いていたものだが、古稀を越えては山での雨には滅入ってしまう。それも週間天気予報で次の週末は天気が良いという晴れマークが続いているのに、直前になって雨となると、全く1週間先の天気予報など、当たらないとしなければなるまい。ところで10月18日の土曜日は週間天気予報では4日続きの晴れの最後の日、日曜は崩れるからと、白山に行くにはとにかくこの日をおいて他にはないという確信で朝を迎えた。前日も前々日も催し物やヤボ用で就寝は午前さまで寝不足気味、体調が心配だった。
 当日は4時起き、5時出発、山側環状道路と東海北陸高速道で平瀬の白山公園線入口まで1時間、それから白水湖畔の駐車場まで30分ばかり、着くと既に登山道入口に近い駐車場は満車の状態、下の駐車場へ、かれこれ50台はいたろうか。車は大半が岐阜ナンバー、地元の山という印象が強い。中天に十八夜の月が、山の端に白く輝いて見えている。身支度して出かける。ここからの標高差は別当出合からとほぼ同じ1500m、距離は1km長い程度。ずっと以前に家内と来た時の紅黄葉は実に素晴らしく、あれから何回か来ているが、あの時を上回る紅黄葉に出くわしたことはない。先週は大倉の避難小屋辺りから上は錦秋で、特にウラジロナナカマドやタカネナナカマドの紅葉が素晴らしかったと早川さんのブログに書かれていた。1週遅れの今日はどうだろうか。
 ジグザグの急登のあと尾根に取りつき、根曲がり竹の笹原に切り開かれたトラバース気味の径を辿るようになると視界が開け、この辺りからブナの黄葉とタカネナナカマドの紅葉が現れ出す。標高は1600mばかり、紅黄葉は上の高みの方が下より鮮やかである。大判のカメラを三脚に付けたまま担いで登る人2人、もう上から降りてくる人1人に出会う。今日は天気も良く素晴らしい被写体が得られそうだ。今紅黄葉が真っ盛りなのは標高1800m辺り、タカネナナカマドの紅葉はもっと綺麗なのに遭遇しているが、今年のブナの黄葉ほど素晴らしいのに出くわした経験はない。散在するダケカンバの黄葉は黄金色、白い幹と相まって、真っ青の空と華麗なコントラストを成している。更に登って大倉尾根に取りつき、御前峰と剣ヶ峰が見える場所に来ると、この辺りはタカネナナカマドが沢山ある一帯なのだが、既に紅葉の盛りは過ぎ、一部茶色に色褪せてきていた。しかし尾根から見下ろす北側の白山北方台地や南側の白水湖を見下ろす山の斜面は、赤と黄で織りなす絨毯のようだ。避難小屋を過ぎての鞍部からは上り一方、始めはジグザグに、その後は階段状になった径が続く。辺りは草黄葉、すると、とある迂回路の分岐のところで休憩している宮川氏のグループに出合った。久しぶりの対面、以前から見ると随分逞しくなった印象を受ける。先週は小池新道から双六岳へ、来週は四国の石槌山と剣山とか、もう百名山登頂達成も間近な様子、よくここまで漕ぎつけたものだ。彼のグループの後に付けて登る。今の私はゆっくりしたマイペースで、ただ休まず登り降りすること、そうすれば余計な負担はかからず、息が上がることもなく、膝の負担も軽く、快適な山行を楽しめる。室堂は今月15日で既に閉鎖している。前の広場には三々五々、登山者がたむろしている。50人ばかりか、もっとも御前峰にも点々と人が見えている。ここまで3時間50分、歳がいって段々タイムが標準に近づいてきた。
 食事を済ませて、御前峰へ向かう。宮川氏らはゆっくりと食事、コーヒータイムも。今日は天気も良く、まずまずの人出、時間はまだ正午前、程よい風が心地よい。ここでもマイペース、頂上まで38分を要した。今じゃとても20分台で登るなど出来ない。奥宮にお参りし賽銭を箱に入れると、鈍い音しかしない。賽銭箱には随分と硬貨が貯まっている感じ、今年は白山さん遷宮二千百年とかで、奥宮遥拝所には7月半ば以降は神主不在、そして室堂閉鎖時にもお賽銭はそのままにしておいたようだ。来春の開山祭まで放置して置くのだろうか。それでは上納した人の意を酌んでいないとしか言いようがない。こんなことは前代未聞なのでは。白山さんへ問い合わせたところ、今年は特別な年でとのことだったが、上の人に伝えておきますと恐縮されていた。お節介だったろうか。賽銭箱は大汝神社にも別山神社にもあり、私は登拝した時は、必ず上納することにしている。今年は閉山祭もなかった。この日は晴れてはいたが遠望はきかず、東は槍・穂高と乗鞍、御岳のみ、南は能郷白山まで、でも空は真っ青に澄んでいた。
 20分位滞頂して下りにかかる。登り下りの中間点辺りで宮川氏と会う。約1名が遅れている。私はゆっくりと下って室堂まで22分、靴の紐を締め直して平瀬道へ、ほぼ同時に女性2人組と男性2人組も、でも2組は早い。デジカメで写真を撮っている間に這い松の陰に消えてしまった。また展望歩道との分岐を過ぎた賽の河原では、男装の麗人と見紛う女の人に道を譲ると、お先にと蝶が舞うように軽い足取りで下って行った。こちらは足を下ろす位置を定めての下り、遅くても確実じゃないと。何組かは追い越したものの、何人もに追い越された。大倉山頂を過ぎて径が尾根の南側を通る辺りは、折しも陽を浴びて紅黄葉が眩しく光る。今年は台風に遭っていないこともあって、一段と色が冴えているようだ。実に色鮮やかで華やかだ。やはり山の東南面が最も色彩が豊かなようだ。ブナ林に入ると、繊細なイロハカエデが現れてくる。まだ最盛期ではないが、橙赤色は清楚な感じだ。ほかにもイタヤカエデやハウチハカエデの黄葉、樹林帯にはオオバクロモジの黄葉も目立つ。オオカメノキ(ムシカリ)の葉も紅く色づいてきた。もっと下ると、色づいてきたヤマウルシの赤やガマズミの暗い赤が目立つ。ブナも陽のあまり当たらない処の葉は黄色に輝くことはないようだ。いつかブナ林で真っ赤に色づいたツタを見たのが印象的だったが、今回は出くわさなかった。大白水谷の瀬音が間近に聞こえるようになると登山口も近い。下りには2時間20分を要した。いつもは大白川温泉の露天風呂で汗を流して帰るのだが、今日はスーパー林道経由で帰ろうと、入らずに帰ることに。
 朝入山するときは、平瀬から白水湖まで、対向車には全く出くわさなかったが、帰りはどうだろうか。駐車場の車が次々と帰って行く。時刻は3時過ぎ、4時までにはゲートに着かねばと思いながら、着替えて車を出したのは3時半だった。ここから平瀬までの道はかなり交差できない区間も多く、それに1車線のトンネルが2本。でも帰りに数台の対向車に出会ったものの、運良く交差できる場所、なんとか平瀬に着いた。この日は白川郷の祭りとか、車がやたらと多い。そしてスーパー林道の入口になる野谷に着いたのは4時20分ばかり、ここでスーパー林道に向かえばよかったのだが、気が変わり、ここで国道を北上して白川郷ICへ入ろうとしたものだから、大渋滞に巻き込まれてしまった。ナビで見ると間道もあるようだが、国道自体が車一杯で全く動きがとれず、後で分かったことだが、祭りで交通整理している警官が地元車を最優先して通しているためだった。警官の指示に逆らうわけにも行かず、ICに辿り着くまでに30分以上もかかってしまった。機転が働けば、同じ高速利用でも岐阜寄りの荘川ICから乗る手合いもあったのだが、気が付くのが遅過ぎて、後の祭りだった
 ところで、高速道を下りてからの山側環状線も大変混んでいて、行きは1時間だったのに、帰りには3時間もかかってしまった。しかし天気に恵まれ、楽しい白山の秋を満喫できた。


三度目の白山・手取川もみじウオーク(11.19)

 平成20年で第4回となる白山・手取川もみじウオークは11月中旬の15日と16日の土日の開催。ところでこの時期は新蕎麦が出回る時期でもあり、探蕎会の行事で丸岡の海道さんの道場へ出掛けることを毎年恒例としていて、過去3回とも日曜が重なり、もみじウオークには1日しか参加できないでいる。ウオークの方は2日で1セットになっているので、一度はぜひ2日通しで歩いて認定証を獲得したいと思っているのだが。それからもう一ついつも気になるのは当日の天気模様である。過去2回は雨と曇り。丁度紅葉の季節とあって、晴れていると名実ともに「もみじウオーク」となるのだが、生憎と時雨の時節、余程の僥倖でもない限り快晴は望めない。さて今年は1週前の天気予報では二日とも曇時々雨とのことで、初めての第2回では傘を差して歩いて往生したこともあり、今年は雨具着用での参加と覚悟を決めていた。ところがその週の火曜からは帯状の高気圧に覆われ、晴マークが4日も続き、水曜の予報では土曜は晴時々曇とかで最高のコンディション、心も浮き立つ。ところが木曜になると晴後雨の予報、そして金曜の予報では曇後雨になった。でも雨は夕方かららしいから、降られないようにと祈るばかりだ。
 初日の集合場所は白峰公民館前、受付開始は9時半、当初は自家用車で行く予定だったが、前田さんから5名参加が4名となったので一緒にと言われお願いすることに。極め付きは帰りに運転すると旨いビールが飲めないよと、気配りが嬉しい。当日の朝、これから朝食をと思っていた6時半に、突然これから寄るとの電話、いくら急ぐとはいえ極端だ。それで我が家で少々休憩してもらい、出発したのは8時少し前。それでも早く、案の定集合場所でしっかりと待たされることになった。前田組の面々はT+3Mの4人、前田さんは2回目、他の面々は初の参加である。白峰では時々薄日が射し、雨が降る心配はなさそうだ。受付開始は9時半なのだが、配布資材が届かず、10分以上も遅れる。それもあってと思うが、参加者から不手際の愚痴がこぼれる。そして聞いていると、他県からの参加者らしいが、声高にスタート地点までたった10km移動するのにバス運賃を800円も取るのはけしからんと、私もこれは足元をみた商法とみた。聞くと他の大会ではスタート地点への移動は無料とのこと、それ位のサービスはあってしかるべきかも知れない。バスに乗ろうとしたら、今からセレモニーだと。昨年は出発地点で行ったが変更になったようだ。終って問題のバスで百万貫の岩へ、白山へ行くのには常々通る道だ。
 この市ノ瀬コースは百万貫の岩(標高630m)から県道をCP(チェックポイント)がある市ノ瀬ビジターセンター(標高850m)まで5.1km行き折り返し、百万貫の岩を過ぎ白峰まで下り、街の南外れにあるCPの北陸鉄道車庫から街中を通り抜け、旧道からゴールの白峰公民館(標高465m)へ戻る下り14.7km、計19.8kmの行程である。このコースの予定参加人員は500人とのことだったが、この日の参加は6割程度ではなかったろうか。バスから降りてスタート地点に集まる。私は前の方にいたが、前田組は見えない。どうせ追いつかれるはずだからと、少し前でもいいだろうと歩き出す。昨年と同じく足に覚えのある人はどんどん先へ追い抜いて行く。これではまるで競技である。私がもしあのペースに合わせるとすると、早晩くたばってしまうのは自明の理である。ずっと緩い上り、マイペースで後を向かないで歩く。沿道の黄葉は散りかけていて、風に舞う。白山は頂上部分が雲に隠れていて見えない。参加者は縦に長い列になって進む。でも折り返し地点との中間にある市ノ瀬発電所辺りまで来ると、列に途切れができてきた。後を振り向かずに歩くものだから、後続の前田組がどの辺りにいるかは確認できていない。三ツ谷橋への下りで少々スピードを上げる。ヘアピンカーブを過ぎたところで後続を眺めると、3人ばかりを確認できた。とすると差は高々150m程度か。昨年はこの辺りでもう折り返してきた人に出会ったが、今年のトップは橋とCPの中間辺りだった。出発して間もなくすごいピッチで追い抜いていった妙齢の女性は3位で折り返してきた。とても真似はできない。程なくしてCPの市ノ瀬ビジターセンターに着いた。ここまでの所要時間は54分だった。チェックを済ませて小用をたし、折り返しにかかろうとしたらセンター前で休んでいる前田さんに会う。程なく残り3人もご到着。ということは皆さん程々よく似たペースということだ。
 前田さんにどうぞお先にと言われ出発することに。さあこれからは下り、足の運びが俄然速くなる。ぞくぞく上ってくる人を尻目に軽快に歩く。とはいっても先の視界に見えている人の数は極めてまばらだ。もうもくもくと歩くばかりだ。百万貫の岩では休憩している人もいる。昨年は市ノ瀬で昼食をしている人が多かったが、今年は昼食場所の指定から外れていた。休まずに歩く。よく通っている道なので、どの辺りを歩いているかは見当がつく。緑の村に近くなると、百万貫の岩コース(百万貫の岩から白峰へ)の人達と出会う。芝生で食事している人もいる。こんな風にのんびり黄葉を楽しんで歩くのが本来のウオーキングの姿なのではと思ったりする。でもどうしても競争意識が出てしまうのは人間が至らないせいなのか。白峰の街に入ると、白峰散策コースの人達も加わってごった返している感じ、土産の買い物をしたりする人も多い。私は無粋にもそんなものに目もくれずに、先へ歩く。お天気はまずまず、歩いていると暑くて汗が出る。そしてゴール。所要時間は3時間24分、大体予想された時間だった。歩数は26,889歩、時速5.8km、分速換算97.1m、平均歩幅73.3cmだった。
 とりあえず完歩証をもらい、振る舞いの温かいナメコ汁を飲みながら後続を待つ。十数分後に前田さんと会った。彼は足にマメをつくってしまっての完歩、大した根性だ。他の3名とははぐれた由、二人で待つが中々現れない。現れたのは約1時間後。聞くと休憩所で昼食をとり、コーヒーを沸かして40分を優雅に過ごしたとのこと、これこそ本来のもみじウオークの主旨だったかも知れない。休みを入れなければ20分の遅れ、上等だ。私は3日前から左腰に違和感があり、コルセットをしての歩き、下手して皆さんに迷惑をと心配したが、とにかく完歩できたことで良しとすべきだろう。雲は厚くなってきたが、雨は落ちてこなかった。しかし午後3時ともなると風が冷たく、体が冷え、とても冷たいビールなどの飲めるような状態ではなくなった。熱い温泉にでもつかって体を癒したいのが本音。それで今日は比較的混んでいないと思われる女原温泉へ寄ることに。
 温泉は女原の街中にある。穴場だ。大きくはないが、明るく感じがよい。浴槽は大きくはない。鉄分を含んだ湯で、茶色をしている。何に効能があるのだろうか。スタイルは銭湯様である。前田さんのマメはかなり大きく、これはつくって固めるよりは出来ないように工夫することの方が得策なような気がする。しかし中々根性の人だ。湯から上って、総括の反省会?は小生宅で簡単にということに。明日の2日目は雨の予報、当初は3名が参加する予定だったが、今日の結果からは1名が参加するかもということになった。私は探蕎会の行事で丸岡へ出向くことに、来年はぜひ調整して2日とも完歩したいものだ。
 小宅へ帰って北國新聞の夕刊を見ると、市ノ瀬コースのスタートの様子が一面中央に載っていた。そして驚いたことに前田さんと連れの2人が真ん中に、端にはもう1名の連れも写っているではないか。これにはびっくり。記念に夕刊を買い求めねばと、とんだことになったものだ。カメラマンは何人もいて写真を沢山写していたが、よりによって前田組の4人がこれ程明瞭に、これは本当に素晴らしいプレゼントになった。私は先頭に近い縦長の位置にいてやはり何枚か写されたが、これはあまり良い絵にはならない。やはりダンゴ状態の方が迫力がある。反省といっても、もっぱら夕刊の記事と写真に話題が終始する。小一時間でお開きになり別れた。


川金の「かわふぐ」と井波の瑞泉寺(11.26)

 11月24日月曜は勤労感謝の日の振替休日、思い立って鮎を食べに行こうということになった。例年ならば三、四回は出かけているのだが、今年は何故か行きそびれ、1年ぶりである。行き先はこのところ決まっていて、富山の庄川温泉郷の雄神温泉の宿「川金」が経営する「鮎の庄」である。あの辺りには鮎を食べさせる処はわんさとあって、どこを選ぶか本当に迷ってしまうが、何度となくあちこち食べ歩いた末に白羽の矢が立ったのが「川金」だった。もうここ七、八年はここにしか行っていない。ただこの店はシーズン中は大変混むので、平日ならば予約するか、日曜・祝日ならば早くに出かけて受付を済ますようにしなければならない。11月下旬というと鮎を食べるには時期的に遅い感がするが、今年は一度も出かけていないこともあって、カミさんの提案に即同意したわけである。果たして子持ちの鮎が食べられるか。カミさんは鮎が好きな病院の看護師さんを同道することにしたと。
 川金の「鮎の庄」は11時開店、この日は休日なので10時には着けるように小宅を9時に出ることに。山側環状から森本ICで高速道へ、砺波ICで下り、太郎丸交差点を右へ、五郎丸交差点を左に曲がり、農免道路を右に曲がると左手に立山酒造の大きな建物、次いで川金の建物が見えてくる。庄川の堤防の内側にある温泉旅館の一角にその店はある。ここは前の石川県知事が通われたことでも知られた店でもある。また金大医学部微生物学教室の同門会を私が幹事で開催したところ、主任教授がえらくお気に召し、続けて2回ここで開いたという経緯もある。また以前ならば、鮎を食べ、少々お酒も戴いて、ゆっくり温泉に浸り、夕方に家へ帰ったものだが、今は飲んだら運転は禁物となってしまった。
 着いたのは10時少し前、受付を済ませて、川金本館のロビーでコーヒーや紅茶を飲んで寛ぐ。11時少し前に「鮎の庄」へ行く。時期的に少し遅いこともあってか、お客の出足は鈍く、4組が待っている程度、これなら遅く来てもよかった感じである。入口の戸が開いて中へ、先ず鮎の塩焼きを一人10本あて30本注文する。そのほか、鮎の子うるか、野菜の天ぷら、漬物盛合わせ、鯉の洗いなどを注文する。お品書きを見ていると、「かわふぐ」の鍋と造りというのがある。「かわふぐ」とは何かと聞くと、ナマズだという。鯰は以前は川によくいて、大水で田が冠水した時など、田に残っていて、大きな鯰が時々採れたものだが、今では三方側溝になり、棲息できなくなったせいか、近頃はとんとお目にかかったことがない。寄生虫がいることもあって、生食したことはないが、炊くと大変美味で、ホクホクとした身の食感は堪らない。したがって造りは天然の鯰であるはずはなく、当然養殖で、きれいな水で育てているからこそ、生で食されるわけである。
 出てきた「かわふぐ」の身は白く濁っていて生気がない感じ。長さ10cmばかり、幅3cm位、右上に1cm位の血合、それが8切ればかり、何の変哲もない感じ。口にしてもこれといった食感も味もなく、柔らかくてとてもこれが鯰の造りという印象がない。カミさんも食べたが、やはりこれといった印象はなかったようだ。鍋の方が鯰らしかったかも知れない。まだ鯉の洗いの方が、香りもありシャキッとしていて食べ甲斐がある。鮎の方は小さくて眞子持ちのは実に美味しいが、産卵後の鮎は戴けない。カミさんは目で見て眞子持ちののみを食べる始末。ここはカミさんサービスということで、黙ってもぬけの鮎や白子の鮎を食べることに。養殖と聞いているが、小さくてもしっかり孕んでいるのには驚く。河川ではもう落ち鮎もお終いだろうに、養殖だとまだ大丈夫なのだろうか。お酒は立山のみ。冷酒を780ml戴く。一通り食べてから、彼女達は細打ちのうどんを食べている。手打ちなのかどうかは聞きそびれたが、コシは立っていて美味しいという。
 看護師さんとの会話の中で、お寺さんを巡るのが大好きだとのこと、それではと井波の杉谷山瑞泉寺へ寄ることに。この寺は浄土真宗大谷派の井波別院で、本願寺第5世の綽如上人によって明徳元年(1390)に創建された後小松天皇の勅願所でもある。本堂は天正9年(1590)の佐々成政による兵火、宝暦12年(1762)の類焼、明治12年(1879)の出火と三度の大火があり、今のは明治18年(1885)に再建されたもので、間口46m、奥行き43mの入母屋造りの北陸地方最大の大伽藍である。また山門は二度目の大火の後、文化6年(1806)に再建された総欅の伽藍造りである。山門から入り本堂へ、井波は彫刻の街、山門や本堂の彫り物は実に素晴らしい。次いで本堂の向かって左側にある大正7年(1918)再建の太子堂へ向かう。太子堂の向拝の彫り物の細工は殊にきめ細かく、しかも彫りが皆違っていて、見るだけで圧倒される。そして渡り廊下を渡った奥には宝物殿がある。一通り見終わって本堂で御朱印を頂き寺を辞した。山門を出ると沢山の観光客が門前町から歩いて来るのに出会った。


白神山地の「かくれいわな」(12.1)

 白神山地は青森県と秋田県にまたがる山域で、200万年前は海底だったのが隆起して現在の原型になったという。そしてここに広がる170平方kmにも及ぶブナ林は国内はもとより世界でも最大級の原生林といわれている。ブナは温帯の山地に広く分布するブナ科の落葉高木であるが、材の用途としては家具が主用途であったためか、日本では戦中戦後を通じて、主に建材としてのスギを植林するために、里に近いブナ林はほとんど伐採されてしまった。それはブナ林のある山域の大部分が国の林野庁の管理下にあったことと無関係ではなく、保水や景観を考慮せずに安易に伐採されてきた。石川県でも尾添の部落に近い山毛欅尾(ブナオ)山でも、一山全部のブナが伐採されてしまった。
 さて、白神山地を空から俯瞰すると、南から北西へ笹内川、南から北へ追良瀬川、同じく南から北へ赤石川と三本の川が併行して流れ、深い渓谷を形成していて、容易に人が入り込めない地形を形成している。ここはマタギの世界なのである。こうした地形から、ブナは伐採されることなく残ったのではないかと考えられる。ところがブナの切り出しのために、国と青森・秋田両県は昭和54年(1979)に白神山地を横断する大規模林道を計画、昭和57年(1982)に着工した。しかし予想を超える大規模な反対運動が起こり、平成元年(1989)には断念せざるを得なくなった。その後白神山地のブナ林は国から自然生態系保全地域に指定された。昭和47年(1972)、ユネスコ総会で世界遺産保護条約が採択され、日本も平成4年(1992)に漸く国会承認を経て第125番目の締結国となり、白神山地は平成5年(1993)12月に世界自然遺産に登録された。
 11月23日の勤労感謝の日に、何となくテレビのスイッチを入れたところ、NHK特集で「未踏の原生林、みちのく白神山地」という番組の再放送をやっていた。中途からだったのが大変残念だったが、何か心に打たれるものがあった。主旨は白神山地の生態調査で、昭和60年(1985)の夏と秋に半月ずつ、延べ1ヵ月にわたって実施された時の記録である。時期はちょうど白神山地を横断する大規模林道が着工された時期に相当する。
 白神山地には南北に3本の脊稜が走っているが、その最も西側、海に近い脊稜の青森・秋田の県境近くにあるのが白神岳(1235)で、この山には登山路があり、海岸を走る五能線にも「しらかみだけとざんぐち」という駅がある。しかしこの山以外には登山路は全くなく、夏は1mを超すチシマザサの藪、冬は3mを超す積雪、わずかに残雪期には登山が可能なものの、3本の深い渓谷もあって、まさにマタギの活躍する舞台である。そしてそのマタギにしても活躍できる山域は決まっていて、西の岩崎、北の赤石、東の西目屋のそれぞれが固有の縄張りを持っていて、今もそれが踏襲されているという。因みにこの山域の最高峰は向白神岳(1250)で、白神岳の北東5kmに位置しているが、登山路はない。
 このような事情もあって、調査する地域によって案内を乞うマタギは限られてくる。場所は中途から見たので定かではないが、山域は向白神岳辺りという印象を受けた。夏道はないので、原則川を遡行することになる。見たときの場面は滝を高巻きしているところから始まっていた。ブナ林は保水能力が高く、天然のダムとも言われ、森には清流が絶えない。それはブナの葉が落ち、積み重なり、それが微生物や昆虫によって分解され、その堆積がスポンジの様になり、常に一定量の水を維持していることによる。そして清流の水を飲むのに、自生しているアキタブキで作った杓を使うなど、マタギならではの知恵と思った。私が大学の山岳部の前身の山の会に入った当時、自称山師の息子も入ってきたが、彼はどんな雨降りでも火を起こす術を身に付けていて、樹種によっては濡れていても燃える木があると言っていた。でも彼は所謂登山には興味を示さず、去っていった。
 ブナの森は傘要らずとも言われる。彼も言っていたが、ブナの葉はスプーン状になっていて、受けた雨は枝へと流され、さらに幹へ流されるという。事実テレビでも雨がブナの幹を伝って流れるシーンがあったが、ブナ林では幹の周りで雨宿りすれば雨で濡れる心配はないという。ブナ林のとある狭い平地で小屋の建設が始まった。シナノキを支柱にし、その樹皮を紐代わりにして縛り、羊歯と秋田蕗の葉で屋根を葺き、15人が住める小屋が出来上がった。そしてこの度の調査には病気で参加できなかったマタギの長老から預かった、山ノ神に捧げる藁で作った人形(ひとがた)を奥に鎮座した。すべて自然にあるものでつくり、そして山への敬虔な祈り、現代の人が忘れた人と自然との対峙がここにある。ブナは一本当たり約2万個の実をつけるという。そして夏にはまだ未熟な青い実をサルが、秋には完熟した実をクマが食べる。ブナの寿命は250年から300年といわれる。朽ちた木の後にはまた若木が生え、林は輪廻する。
 秋になって二度目の調査が行われた。この時は夏には体調不良で参加できなかったマタギの長老もぜひともと参加された。豊富な知識や技術は持っておいでだが、もう独りで山へ入ることは体力がなくなって出来ないと仰っての参加だった。ぜひ見たいと言われたのは、ブナノ木平の「ブナの巨木林」と「かくれいわな」だった。夏に調査の基点となった小屋を起点にして、更に奥へ、谷は涸れ沢になり、でも更に進むと再び沢に清流が、これは伏流になっていたためだった。ここに長老は16年前に岩魚を放流したという。一つの目的はいざという時の食料補給のために、滝や伏流があるとその上流には岩魚は棲息しないので放流したという。その後を確かめたかったとのことだったが、その清流には岩魚が群れていた。しかも秋で産卵もされていた。この「かくれいわな」を見て、画面には満足そうな長老の顔が大写しになっていた。さらにそこからブナノ木平に向かう。そこは地震で大崩落が起きて、ブナ林が埋没してしまい、その上に同級生のブナの若木が一斉に育ち、高さ40mと高さがほぼ同じのブナの純林ができたと考えられている。通常のブナ林では若木と老木が混じった混生林で、高さもせいぜい20mというが、この純林は林叢が違うという印象が画面からも伝わってきた。長老の案内がなければとてもお目にかかれなかったであろう。
 次にブナの森に棲む動植物の紹介があった。クマゲラは日本に棲む啄木鳥の仲間では最も大きく、北海道では主に針葉樹林に棲むが、本州ではブナの森のみに棲むという。北海道でも白神山地でも、クマゲラはブナの幹に穴を開けて巣穴をつくる。次に登場したのがブナの森にしか棲まないというフジミドリシジミ、5月に孵化した幼虫はブナの若葉しか食べない。天敵から身を守るためにブナの葉を重ね合わせ、1ヵ月後には蛹になる。そして羽化すると瑠璃色の羽根を持った蝶が誕生する。成虫の雄の寿命は2週間、雌は2ヵ月、その間交尾をして、雌は来春芽吹くブナの冬芽のすぐ近くに直径1mmの卵を産みつける。卵は来春まで9ヵ月の眠りにつく。
 白神岳の脊稜の笹内川を挟んだ支稜の末端に崩山と大崩山がある。江戸時代の宝永年間に大地震が起き、山が大崩落し、その土砂が川や沢をせき止め、また陥没も起き、大小33の池ができた。この年富士山も噴火し、これは宝永火口として残っている。大崩山から池を見下ろすと、確認できるのは12であることから、ここは十二湖と呼ばれている。この内の一部は観光ルートとなっていて、私も訪れたことがある。画面では稀少種のトウホクサンショウウオとモリアオガエルの葛藤が写されていた。モリアオガエルは危険を避けて樹上で産卵するが、孵化して池に落ちたオタマジャクシを狙っているのはサンショウウオの幼生であるというから皮肉である。また湿原では、体長1.2cmというハッチョウトンボが見つかったり、日本では絶滅したといわれていたベンケイソウ科のツガルミセバヤも発見されたという。全域が調査されたわけではなく、まだ未知の部分が多いようだ。
 11月29日の午後、この日も何となくテレビのスイッチを入れたところ、NHKのアルカイブスで「ドロ亀先生と樹海の仲間たち」という特集をやっていた。森というのは東京大学の300haにも及ぶ富良野演習林、ドロ亀先生はそこの林長だった東大教授、62歳で定年になって東大名誉教授となられてからも林内に居を構えられ、88歳で他界されるまで森の主だったという。50年もの間森と同体となった日々を送られてきたと、後任の林長が述懐されていた。教授でありながら教授会に出たことはなく、学生に講義したこともなく、学位も取らず、論文も書かず、演習といえば森の心を学べと言われたという。森の主要樹種はエゾマツで、200年を超える老樹も、またミズナラの巨樹もある。昭和56年8月に北海道を襲った台風で、林内の数多くの樹が倒れた時も、人の手を加えずそのままにしておいたという。自然は倒れた樹が若木を育てるのを見守るという。エゾマツは森では倒れたエゾマツの養木でしか育たないという。また森には沢山の動物がいる。獣から虫まで、彼らはドロ亀先生がこの森の主であることを知っていて、怖れず、却って近寄ってくるという。エゾシカやエゾリスの仕草を見ていると、先生がいても自然体、これには恐れ入った。私はドロ亀先生とあの白神のマタギの長老との間には何か相通ずるものがあると感じた。

OEK定期公演ファンタジーシリーズ(12.10)

 OEKというのはオーケストラ・アンサンブル金沢の英語名の頭文字をとった略名である。2008年の定期公演は12月の通算第252回のファンタジーシリーズをもって終了した。OEKの石川県立音楽堂での定期公演は年に20回、内訳はクラシックを主にしたフィルハーモニーシリーズが10回、マイスターシリーズが5回、ポップスが主のファンタジーシリーズが5回である。今年は昭和63年(1988)に岩城宏之氏が音楽監督に就任してOEKが設立されて20年の節目にあたる。岩城宏之氏は平成18年(2006)6月18日に73歳で永眠され、設立者として永久名誉音楽監督の称号が与えられた。後任の音楽監督には、これまで新日本フィルハーモニー交響楽団や京都市交響楽団で音楽監督をされてきた井上道義氏が就任し現在に至っている。
 さて、OEKはクラシック音楽を演奏する室内アンサンブルオーケストラとして発足した。岩城音楽監督の人選レベルはかなりハードルが高く、門戸は日本人ばかりでなく外国人にも広く解放された。したがって当初のメンバーはかなりハイレベルだったし、地方のアンサンブルにしては珍しくメンバーに外国人が目立った。当初は2管編成で40人位を目指していたが、現在に至るまで定員が満たされたことはない。もっとも定員割れしてもレベルを下げて定員を満たすことはなく、演奏時の欠員は客演奏者で凌いでいる。ところで岩城音楽監督は古典はもとより現代音楽にもなみなみならぬ興味を持たれていて、音楽界では初演魔と称されていたし、ほかにポップスにも興味を持たれていて、その時の指揮者は岩城宏之ではなく別の名前で棒を振られていたようである。私はこれまでOEKが行うポップスには抵抗もあってか聴いたことはないが、ボストン交響楽団とボストンポップス交響楽団との関係よりももっとくだけたもののように思う。ボストンポップスのメンバーはボストンフィルのメンバーだがその一部であり、指揮者は別々であった。ところがOEKではメンバー全員がやることと、指揮者は名こそ違え岩城さん自身であった。OEKがポップス演奏をするということは大きな反響を呼び、計画の段階で退団した人、1回演奏して脱退した人と、当初のメンバーの10人前後が、そんな筈ではなかった、失望したと言って去っていった。私は門外漢で経験はないが、クラシックとポップスとでは特に弦楽器では弾き方にも差があるらしく、彼らの言からはポップスに染まるとクラシックの腕が鈍るというような印象を受けた。だから設立当初の弦楽器のメンバーで現在まで20年間在籍している人はごく少数である。管や打は出入りはあるものの、当初のメンバーが残っている。
 今年度(2008/9−2009/7)のシーズンから指定座席が変更になり、私は10列10番を所望した。以前は7列19番だったが、これは第2バイオリンの首席奏者の江原千絵さんと常に相対することができるようにとの配慮からだった。彼女の言では、演奏席から聴衆の人の顔を確認できるのはせいぜい8列目位までと聞いていたからである。ただこの位置ではピアノ演奏の場合演奏者の手元が全く見えず、華麗な技巧を垣間見るにはより左の方がベターということもあって、今回はこの位置を選んだわけである。希望すれば5年間は席を確保できるという。そしてこれまではフィルハーモニーシリーズとマイスターシリーズしか聴かなかったが、一念発起してファンタジーシリーズにも挑戦してみることにした。既にこのシリーズは10月25日に千住明の作曲と指揮で千住真理子のバイオリン演奏があったが、これは探蕎会の信州探訪があって聴けなかった。そして2回目が12月5日の宮川彬良とOEKポップスの組み合わせによる演奏で、昨年に続く第2弾だった。
 今回のテーマは「明日への伝言!」。宮川彬良の作・編曲・指揮・ピアノで、台本・構成は響敏也という献立だった。冒頭、宮川彬良が作曲した松井選手のための公式応援歌である「栄光(ひかり)の道」を主題にした曲が演奏され、以後のOEKポップスのテーマ曲にするとかだった。勇壮で、EKEKという感じ、曲名は公募とのことだったが、果たしてどんな名前が付くのだろうか。もう少し軽快な曲の方が常に演奏するテーマ曲としては相応しいような印象を受けたが、反響はどうだろうか。
 次いで400年前に活躍した作曲家ヴィヴァルディとバッハからの伝言。ヴィヴァルディの合奏協奏曲「四季」から「春」の第1楽章をフルオーケストラで、あのしっとりとした感じは完全に霧散して、「きらめく歩み」と称する「春」は全く別の印象だった。バッハからは「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽手帳」からのメヌエットを3拍子から4拍子にした曲、アレンジ前の原型は4拍子でアメリカで大ヒットした「ラヴァース・コンチェルト」だというが、でもオーケストラによる演奏にはやはり何か違和感を感じた。
 ところで前半第1部の最後に、ベートーベンの第5交響曲とペレス・プラドのマンボ第5番とをゴチャマゼにしたような大作は、編曲の妙もあって、よくぞ随所に両方を交互につないで編曲したなあと、馬鹿さを通り越して正直感心してしまった。単につなげたわけではなく、楽譜の素顔を読み取って、不自然さがないように、一体となっているように編曲してあるのが何とも憎いところである。本当か嘘か、ペレス・プラドのマンボNo.5にはベートーベンの第5交響曲のリズムが奥に隠されているとか、何とも大変な演奏だった。それはそうと、こういう編曲を演奏しているメンバーの心境はどうなのだろうか、聞いてみたいものだ。拘りがあるのか、それとも割り切っているのだろうか。
 後半の第2部は、宮川彬良の父の宮川泰作曲の歌、ザ・ピーナッツが歌った「恋のバカンス」と「東京たそがれ(ウナ・セラ・ディ東京)」を宮川彬良のドイツ製ハーモニカの独奏で、よく言えばピアソラ風と言おうか、大したアレンジはなく、嗚呼あの歌かと聴きほれた。次いでヘンリー・マンシーニの「子像の行進」、これは映画「ハタリ」の挿入曲、よく知られた曲だ。曲の演奏はノーマルなのだが、これにザ・ボトラーズなる謎の楽器名人コンビが登場した。何を聞いても返事はボトル。ボトルとはコカ・コーラの瓶のこと、このボトルにはコーラが適量入っていて、音程は不明だが6音出るように仕掛けられていて、演奏の曲の合間に、二人がボトルを手に2本ずつ持って合いの手に吹くという仕掛け、これが曲想と大変マッチしていて大喝采だった。名演技というべきか。演奏後には仮面を取って二人が挨拶をした。宮川さんから紹介されて驚いたのは、二人のうち背の高い人が何と江原千絵さんのダンナの床坊剛さんだった。床坊さんはいつもはチーフマネージャーとして表に出られることはほとんどないが、なかなかの偉太夫、いつも彼女の旦那はどんな人だろうと思っていただけに収穫だった。
 そして次に「合唱とオーケストラのための組曲・少年の時計」、合唱団は3団で編成の80人、うち4人は合唱指導、1団16人が大学生のほかは小学生のようで、色とりどりのセーターを着ての登場。見ると合唱指導の方と大学生は譜面を持っているが、小学生は持っていない。合唱曲は宮川彬良作曲の「アキラさんのソングブック」から5曲を選んで合唱とオーケストラの組曲に編曲したもので、1曲といってもそこそこの長さがある代物である。ところで年配の方のみ歌うときに譜面を見て歌っていて、小学生は全く譜面を見ないで、元気一杯に歌っているのを見るにつけ、何か変な違和感を覚えた。これはひょっとして歌う曲が長いこともあって、諳んじて歌えなかったのではと思ったからである。小学生は何のためらいもなく元気に歌っていたのは、当然のことながら、歌詞も曲も諳んじていたからだろう。小学生の頃というのは暗記力がもっとも逞しい時期、5曲などわけないだろうが、大学生ともなると暗記力が低下するのではと思った。皆が譜面を見て歌っていれば、こんな違和感は抱かなかったのだが。
 最後はディズニーのアニメ映画「白雪姫」の音楽のメドレー、そしてアンコールは松井選手の公式応援歌「栄光の道」、これは合唱団も入っての大団円、かくして中途に20分間の休憩があったものの、2時間半にわたる大サービスだった。それにしてもこの日の圧巻は、何といってもシンフォニック・マンボNo.5「運命」だった。

「タミフル脳症は薬害だ」は濡れ衣なのでは(12.17)

 インフルエンザの罹患から身を守るには、基本的にはワクチン接種が最も有効である。ところでインフルエンザワクチン接種がいろいろな経緯で任意接種になって久しいが、このところワクチンの効用が浸透して接種する人が増加している。現行ワクチンは次のシーズンでの流行を予測して、それに近縁な株をワクチン株として選ぶ方式が日本では当初から採用されてきたが、現在ではこの方式がWHOでも採択され、今では全世界でWHOが推奨した株を用いたHAコンポーネントワクチンが使用されている。ワクチンを接種すると、約2週間後には液性HI抗体が体内に産生され、約5ヵ月間持続する。したがって主流行期が12月から翌年2月とすれば、11月にワクチン接種をすれば、そのインフルエンザシーズンには有効ということになる。ただ接種すれば罹患しないという保証はなく、それでも症状の軽減は期待できる。ただ条件としては、そのシーズンの流行株がワクチン株と合致していることが必須で、抗原構造に大きな差があると効果は期待できない。ワクチン株選定に際しては、十分に検討をした抗原解析結果を根拠としているが、極端な言い方をすれば一種のバクチと言える。今ワクチンに含まれているインフルエンザウイルス株は、現在も流行しているA型ウイルスのAH1亜型(通称Aソ連型)とAH3亜型(通称A香港型)とB型ウイルスの3種である。そしてこれらのウイルスは毎年大なり小なりの変異をしながら流行を繰り返している。
 ここ数年、日本でも鳥インフルエンザ(AH5亜型)が流行し、養鶏家の恐怖となっている。発生があると、その養鶏プラントはもとより、半径数km以内のプラントの鶏も殺処分にされる。今のところ日本では、トリ→ヒトとかヒト→ヒト感染による患者の発生はないが、東南アジアではこれらのルートによる感染があり、死亡者も出ている。この高病原性鳥インフルエンザは新感染症法では第4類に区分されていて、発生があった場合には全数を直ちに報告することになっている。この鳥インフルエンザはこれまでヒトの間での流行がないことから、ヒトには全く免疫がなく、もし発生すれば大流行となる恐れが多分にある。厚生労働省はもし大流行があった場合、4人に1人が感染し、国内では最大約2500万人が罹患し、64万人が死亡すると推定している。もし流行した後にワクチンを製造するとすると、早くても数ヵ月はかかる。ということは流行後にワクチンで対応するということは正にドロナワで、全く間に合わない。そこで登場するのが抗インフルエンザ薬で、表題の「タミフル」もその一つ、A型にもB型にも有効なこと、内服できることから、現在ある抗インフルエンザ薬の中では最も使いやすく有望な薬剤で、新型インフルエンザにも有効なことから、全世界でその備蓄が叫ばれている。
 現在日本でインフルエンザの治療に用いられている抗インフルエンザ薬は3剤ある。1つは日本では1998年に承認された「塩酸アマンタジン」(商品名「シンメトレル」ほか)で、A型インフルエンザウイルスのM2蛋白に作用し、細胞内でのウイルスのアンコーティング(脱殻)を阻止して増殖を抑制する。但しB型には無効である。2つは「リレンザ」(英グラクソ・スミスクライン社)で、一般名を「ザナミビル水和物」といい、吸入薬として2000年12月に発売になった。今一つは「タミフル」(スイスのロッシュ社)で、一般名を「リン酸オセルタミビル」といい、カプセルもしくはドライシロップの剤形で経口投与する内服薬で、2001年2月に発売された。後の2つはいずれもノイラミニダーゼの働きを抑制し、細胞内で複製されたウイルスの細胞外への放出を妨げ、次の細胞への感染を防ぐ。この2つはいずれもA型にもB型にも有効であるが、利便さを考慮するとすれば、専用の吸入器が必要なリレンザよりも内服できるタミフルの方が使い勝手がよく、備蓄が奨励されているのもタミフルの方である。以上の3つに加えて、現在富山化学工業で開発中の薬剤に「T−705」がある。この薬剤は細胞内でのウイルスの増殖を直接抑制するもので、既に「フェーズ2」を終え、今冬は最終段階の「フェーズ3」に入り、ここで効果と安全が確認されれば承認申請できる手筈となっている。この薬剤はタミフルやリレンザ耐性のウイルスにも有効とのことで期待が持たれている。また既存の3剤が発病後48時間以内に投与しないと、ウイルスが大量に増えた後では効果があまり期待できないのに対して、T−705は投与すればその時点でウイルスの増殖を抑制でき、耐性ウイルスの出現も他の薬剤に比べて少なく、タミフルより効果が高いとの評価がされている。
 しかし現況ではタミフルが最も有効で、適切に用いられればその効果は劇的である。但し1歳未満、もしくは体重8kg未満の低体重児は適用外である。それと迅速診断で明らかにインフルエンザに感染したことが確認された人以外には用いてはいけないという条件もついている。しかしタミフルがインフルエンザ患者にとって大いなる福音になった一方で、特に10代の患者を中心に、因果関係は判然としないが、タミフル投与で異常行動をとったという症例報告が聞かれるようになった。異常行動とは、厚生労働省のインフルエンザ研究班の「インフルエンザ脳症ガイドライン」によると、(1)両親を正しく認識できない (2)食べ物とそうでない物とを区別できない (3)幻想・幻覚的訴えをする (4)意味不明な言葉を発する (5)おびえや恐怖感の訴えや表情がある (6)急に怒り出したり、泣き出したり、大声で歌いだしたりする (7)急に走り出したり、物を壊したりする というような行動を指す。このような異常行動はインフルエンザに罹患した場合にも時に見られる現象で、報告のある症例がインフルエンザの感染によるものなのか、発熱に伴うものなのか、あるいは投薬に起因するものなのかは、例数が少ないことと、正確な解析が加えられていないこともあって、判然としない。厚生労働省の調査では、タミフル発売の2001年2月から2007年3月までにタミフルを服用して何らかの異常な行動をした患者は128人あったと発表されているが、これとて確かな因果関係は明白でないとしている。そこで取り敢えず2007年3月20日に、タミフルの添付文書に「10代の患者には原則として使用を差し控えるように」との警告文を載せるよう要請している。これだと1〜9歳と20代以上には使用可と解釈できる。
 最近号の感染症学雑誌に「インフルエンザ罹患時に異常行動を起こした患者ではオセタミビルを内服している例は多くない」という原著が掲載された。タミフルによる異常行動というのはすべて症例報告であって、これまで対照を置いて比較検討した報告ではない。著者の友野と城は横浜労災病院小児科の医師で、この病院は横浜市北部医療圏の小児救急医療拠点病院となっていて、特にこの地域の夜間救急要請患者の多くが受診しており、患者は地域・年齢・性別などでは均等に分布していると考えられる。この調査での著者らの目的は、タミフルはインフルエンザ患者の罹病期間の短縮や肺炎などの合併症を予防するが、一方で内服治療中に異常行動を起こすと言われているが、もし異常行動がウイルス感染自体によるものであれば、タミフルの投与により異常行動の発生が減少する可能性があるはずで、それを検証しようとするものである。
 2006年12月から2007年3月の間、異常行動を主訴の受診しインフルエンザウイルス抗原迅速検査が陽性の1歳以上の患児は12人(異常行動群)、発熱を主訴に来院し異常行動がなくウイルス抗原陽性の1歳以上の患児は335人(対照群)で、平均年齢は前者で8.25±3.22歳、後者で6.09±3.74歳と、有意に前者が高かった。しかし性別、ウイルスタイプには有意差はなかった。調査ではタミフルは異常行動群では50.0%が内服していたが、対照群では76.9%が内服していた。その結果、タミフルを投与した群で異常行動を起こした患児の割合は2.2%だったのに対し、投与がなくて異常行動を起こした患児の割合は7.5%と、内服により異常行動の発生率が低くなっていることが疫学的に示された。今後はもっと大規模な集団による調査が実施されて同様な傾向が得られれば、一般の人にもタミフルの有用性がより理解されるようになるであろう。


スズメ:このヒトがいないと生きられない鳥(12.26)

 野鳥には、快適な環境を求めて移動する性質がある。冬季にに北方から越冬のために日本へ訪れる鳥は冬鳥といわれ、身近には、ツグミ、ユリカモメ、ガン・カモ類、ハクチョウがそうである。逆に春季に南方から繁殖のために日本へ訪れ、秋季に南方へ帰る鳥は夏鳥といわれ、ツバメ、オオルリ、サシバ、カッコウ、ホトトギス、コノハズクなどがいる。反面、渡りをしないでいる鳥は留鳥といい、トビ、カラス、ヒバリ、ムクドリ、キジ、ヤマドリ、カルガモ、カケス、キジバト、セグロセキレイ、シジュウカラ、ウグイス、ヒヨドリ、オナガ、モズ、スズメなどがいる。とはいっても、ヒヨドリやモズは秋には北方から南の暖かい地方へ水平移動し、ヒヨドリは秋から春にかけては私の屋敷にある雑木林や竹薮に群れるし、モズは秋には高啼きをする。またヒバリは北陸よりはもっと暖かい南へ水平移動する。それに対しウグイスは春早くには庭の藪で囀っているが、夏になると涼しい山地へ垂直移動する。その他の鳥は年中見られる。中でもオナガはひょうきんで以前はシュロの花が咲く頃のみだったような気がするが、今では年中グエーイグエイと背戸で啼いている。キジバトもよく番で見かける。
 さて前段が長くなったが、スズメはヒトにとって最も身近な鳥ではなかろうか。小林一茶の句が想い出される。でもスズメの数は以前からみると随分少なくなったような気がする。スズメというと、稲田に群がって稲の穂をついばんでいて、追うと一斉に飛び立つ様は壮観で、百姓泣かせの鳥だった。ひょうきんな表情をした案山子も、スズメ退治の策だったろうし、キラキラするテープも同じ趣向からである。しかし昨今私の稲田にスズメの姿はない。かえって道縁の稲が食べられているのは、スズメでなくカルガモだから驚く。それほどにスズメの姿を田圃で見ることは少なくなった。でも市街地では見かけるし、冬場には群れをなしているから、いないわけではなく、ほかに何か旨いものがあるからなのだろうかと訝る。でも昔からみると少なくなったのは事実なのではと思う。
 スズメは分類学上鳥類では最も進化したグループで、しかも種類数も固体数も最も多いスズメ目に属している。この目は種類数では鳥類の約6割、科数の約4割を占めている。でも属する科がハタオリドリ科というのは何とも奇異で、人によってはスズメ科としている人もいる。その下位の属はスズメ属で、世界には23種を数える。日本で野生で確認されているのは3種で、従来からいるのは、スズメとニュウナイスズメの2種、もう1種は20年ほど前に棲息が確認されたイエスズメである。この鳥は本来は欧州を中心としたユーラシア大陸に分布するのだが、何故か日本の数ヵ所で確認されている。石川県の舳倉島でも見つかっているというから渡ってきた可能性がある。そして在来のスズメとの雑種も生まれているらしいというから問題だ。しかも習性としてのおすみかは人家近くとスズメとほとんど同じというから、もし日本に定着したとすると、スズメとの間に競合が起きないとも限らない。もう1種のニュウナイスズメは、日本でも北の積雪の多い地方で繁殖し、人家営巣の記録もあるそうだが、主な棲息場所は落葉樹林帯だというから、スズメと競合することはなさそうだ。
 スズメはどんな本を見ても「習性として人家近くにすむ」と書いてある。石川県でもまだ河川にダムが建設されていなかった頃に、奥の山へ入る時はよく川を遡ったものだが、当然最奥の村(部落)までは車道や小径が必ずついているので、時に村の区長さんや学校の分教場に泊めてもらったものだ。大門山へは小矢部川上流の中ノ河内と下小屋を通って、犀川奥の高三郎山や犀滝へ行く時は見定と二又を通って、三輪山へは犀川支流の内川の奥にある後谷から、大日山へは大聖寺川最奥の真砂から入山したものだ。皆小さな10軒前後の村落だが、狭いながらも田畑があり、当然かも知れないがスズメの姿も見られた。ところがこの4つの川には、刀利、犀川、内川、我谷のダムが造られることになり、離村しなければならなくなった。当然その下流で水没する村落は立ち退かねばならない。そしてこれらの村が離村して廃村になると、不思議なことに、家は残っているのだが、あのスズメの姿はどこにも見当たらなくなっていて、当時は不思議なこともあるものだと話し合ったものだ。
 その謎が解けたのは、佐野昌男さんの「スズメと人との密接な関係」という一文を呼んだときだった。一つは、20年ほど前に、長野と新潟の県境近くに新たに山林を切り開いてスキー場を造成した時のこと、ホテルもできて営業を開始すると、スズメははじめ夏だけホテル街に棲みつき、やがて人が増えて生ごみが出るようになると、それを餌に1年を通して定着するようになったという。もう一つは、2000年に噴火した三宅島では、人々が島外へ避難したところ、その後スズメもいなくなったという。そして帰島するや再びスズメも島に戻ってきたという。この間スズメは近隣の島々に移動していたという。これは事実であることから、人とスズメの関係というのは実に密接で、スズメには人のいるいないを感知する強力なセンサーが備わっているのだろうか。実に不思議である。今日本で人が住んでいる処でスズメがいないのは小笠原諸島のみという。南海の孤島の南大東島や北大東島にもスズメはいるという。どうして渡ったのだろうか。北海道大学の泉洋江さんの調査では、沖縄本島と南大東島のスズメは本州と違う遺伝子を持っていたが、本州と北海道のスズメの間には差がなかったとのことで、海があっても本州と北海道との間くらいなら渡れるらしいという。とにかく人間生活に密着した鳥といえる。人の存在を観察するだけでなく、存在を感知する遺伝子でも持ち合わせているのだろうか。
 スズメというと稲を食う害鳥というイメージが強く、狩猟鳥となっている。しかし春先にはよく虫を捕食して害虫を減らし、雑草の種子も多く食べる益鳥で、特に5,6月の繁殖期には、甲虫類や蛾の幼虫、蝗などを大量に捕食するという。中国である時、稲を食する害鳥ということで全土でスズメを10億羽駆除したことがあったというが、結果は害虫がむやみに殖えて大凶作となり、多数の餓死者を出したという。このことはスズメが如何に大事な役割を果たしていたかを想像させるものだ。
 今日本にはどれくらいのスズメが棲んでいるのだろうか。日本学術振興会の三上修さんは、2008年の5〜6月に、住宅地、商用地、農村部などの異なる環境ごとに棲息密度を調べたという。調査単位は500m四方の調査地とし、秋田、埼玉、熊本で各環境数ヵ所ずつ、全部で40ヵ所を歩いて調べたという。この時期はスズメの繁殖期にあたり、番で主に人工物に巣をつくるので、注目したのは巣の数、巣の周辺には巣の材料となる藁とか枯れ草が落ちていることが目印になるとも。その結果、建物の周囲100m四方ごとに、住宅地では4.9羽、商用地では2.4羽、農村部では4.6羽というデータが得られたという。そして全国の土地利用が分かる地理情報システムのデータをもとに日本での環境別面積を求め、スズメの棲息数を計算したところ、約1800万羽という総数が出たという。2〜3倍の誤差はあるかも知れないとのことだが、2倍として3600万羽、3倍として5400万羽だから、概数は数千万羽というところだろうか。これはスズメという鳥が人の近くにいるという特性をうまく利用した調査結果といえる。
 自然界ではスズメはどれくらい生きられるのであろうか。唐沢孝一さんによると、長寿記録では8年という記録があるという。しかし巣立ったスズメの大半は、暴風雨にたたかれて落ちたり、タカやカラスに食べられたり、餌不足で餓死したりして死んでいくという。したがってスズメの平均寿命は約1年とさえいわれる。しかし、とにかく冬を一度越してしまえば、知恵もついて、生きながらえるようになるとのことだ。今の時節人間様が寒雀を捕って焼き鳥にするほどスズメの密度は大きくない。
 スズメの成鳥には喉元に黒い斑があるが、この班は幼鳥にはなく、加齢とともに大きく広がるという。スズメにとってこの黒班は階級(歳)を示すもので、群れでの食事には年功序列があり、見張りは若い鳥の役目という。次にスズメを見たら観察したいものだ。

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