新玉川温泉湯治行 [玉川、ふけの湯、後生掛](7.18)
毎年、私の居る旧野々市町新町(現本町2丁目)の旧若衆、現老壮衆が親睦を兼ねて、春は県内の温泉への1泊旅行、初夏は何故かみちのく秋田の新玉川温泉への湯治に出かけることにしている。春の温泉行きは1泊2日なので、20名ばかりが参加し、私もかれこれ15年くらい、よほど行事がぶつからない限り参加している。ところで湯治の方は、個人で申し込んでもまず予約が取れないこともあって、もっぱらツアー旅行になってしまう。しかも日程は湯治という名目もあって大概は平日の4日間、これでは自営か退職でもしていない限り簡単に参加することは難しい。私もつい3年ばかり前までは通常の勤務に縛られていたこともあって、参加することは叶わなかったが、ようやく責任ある職から開放され、一昨年に初めて参加した。人数は春の半分ばかり、でも中々評判は良い。一行の中の数人は物好きにも春夏秋冬、年4回も出かけている御仁も、しかも夫人同伴のようだ。昨年は都合で参加できなかったが、今年は参加することに。でも時々催行人員が少ないとボツになることもあるそうだが、そんなトラブルもなく、今年は7月9日の月曜から12日の木曜にかけて、新玉川温泉への湯治ツアーに参加できた。
◎「新玉川温泉」:秋田県仙北市田沢湖玉川渋黒沢
催行は北鉄航空によるツアー、18人の乗車。先月は17名でボツになったとか。最小催行人員は20名と聞いていたが、何故か今回はラッキーにもOKとなった。ほかには運転手が2人と女性の乗務員が1人、計21人のバス行である。出発は金沢駅西口を午前7時、金沢東ICから北陸道へ、磐越道、東北道と継いで、盛岡ICで下り、国道46号線を西へ、仙岩トンネルを抜け、秋田新幹線田沢湖駅近くで国道341号線に入り北上、玉川を上流へ約40kmつめると目的の新玉川温泉に着く。ざっと金沢から11時間の行程である。この玉川の流れは下って田沢湖にそそいでいる。ところでこの流れは強酸性のため魚類は生息できず、したがって田沢湖にも魚は住みつけなかったが、国が玉川温泉の下流に玉川毒水中和処理場を設けて若干酸性を緩和してからは、少数のウグイが住めるようになったとか。とにかくこの新玉川温泉、標高は800m、一帯はブナ林の真っ只中、今は緑に覆い尽くされているが、秋の黄葉も見事だろう。
着いて早速湯へ入る。ここの泉質は強酸性塩化物泉で塩酸酸性でpHは1.2という。源泉の温度は98℃、湧出する量は9000L、ドラム缶45本分、そこからここへ約2kmお湯を引いている。開業は平成10年と新しく、湯元の玉川温泉が自炊の長期滞留の湯治客が主なのに対し、新玉川温泉はリゾートホテルでバリアフリーが売り物、収容は570人、観光を兼ねた人も多い。大浴場はヒバ造り、一抱えもある柱が6本、浴屋を支えている。浴屋はすべて木組みで釘は使われていないとか。それは五寸釘も1週間で腐食される強酸性とガスへの対応だ。真ん中に源泉掛流し100%の湯、湯温はぬるめの38℃に設定してある。これで45℃だったら、おそらく入れまい。塩酸1Nのお湯を想像してほしい。38℃でも直ぐに入るのには抵抗があり、先ずは50%の浴槽に入る。温度は42℃ばかり、もっと熱い浴槽、ぬるい浴槽、気泡浴槽もある。身体が慣れたら100%のお湯へ、そろりと入る。徐々に身体を沈める。傷があるとすごくチクチクする。この浴槽には5分浸かり5分足浴、再び5分身体を沈めるのを1回とし、1日3〜4回までとするのが適当とか。5分の休憩で体が乾いてくるとヒリヒリしてくる。ともかくいろんな病に効能があるようだが、この強酸性は少なくとも水虫などの皮膚疾患には抜群の効果がありそうだ。ほかに蒸気を吸入する蒸気浴、発汗を促す箱蒸し浴、歩行浴、打たせ湯、頭浸浴がある。飲泉は10倍希釈のコップ1杯の源泉を15〜20分かけて飲むこととしている。濃いと歯を溶かすとか、飲用後は必ずうがいをして下さいとある。いろいろすべて試してみる。
食事は朝も夕もバイキング形式、食堂は360席あり、広くゆったりとしていて、気持ちが良い。開湯当時にに比べると料理の質が若干落ちたという人もあるが、1泊1万円でこの質ならば、上等ではないかと思う。種類も多く、和洋取り揃えの品々を好きなだけ食べられるのはとても有り難い。また和洋酒もいろいろあり、寛げる。
◎「玉川温泉」:秋田県仙北市田沢湖玉川渋黒沢
新玉川温泉から歩いて15分ばかり上流に本家本元の玉川温泉がある。ずっと以前には「鹿(スカ)の湯」と言われていたが、青森の「酸ヶ湯(スカユ)温泉」と発音が似ていることから、湯瀬温泉の開設者が昭和7年に今の名前に改称し、開発したという。ここの効能は伝説的で、単に強酸性の泉質ばかりでなく、「岩盤浴」の効能も加えると、ガンやアトピー、リウマチなど万病に効くとされ、一部学問的な裏付けもなされている。岩盤浴とは、噴気で熱くなった岩盤の上にゴザを敷いてそこに横たわり、岩盤から出ている僅かなラジウムを身体に浴びるもので、似た浴法は他所にもあるが、低レベルの放射能による相乗効果をもたらすのは、日本では此処以外にはない。此処で産出される「北投石」は放射能をもつ硫酸塩鉱物で国の重要文化財に指定されていて、普通の石の1万倍もの放射能を有すると。そんなこともあって、玉川温泉は環境省指定の国民保養温泉地に指定されている。
2日目の朝5時、ゴザを持って岩盤浴へと玉川温泉へ向かう。徒歩15分、玉川温泉の建物を過ぎ、湯川右岸の舗装された歩道を上流へ向かう。湯川から湯の花を採取する木製の樋が先ず現れ、その上にはもうもうとした噴泉の大噴(オオブキ)が現れる。直径3mはあろうかという釜から98℃のお湯が溢れ出ている。これが強酸性で毎分9千リットルという1ヵ所からの湧出量としては日本一の源泉である。凄い迫力。湯気は硫黄臭がする。古くは硫黄の採取もされていたとか。更に歩を進めると、岩盤が現れ、その上に3張りのテント、中にはギッシリの岩盤浴をしている人達、最も適した場所に張られているのだろう。5時に出てきたのにもう満タンだ。裸岩で比較的平らな場所を見つけ、ゴザを敷き寝転がる。空は青く澄んで、ウグイス、コルリが啼き、上空にはアマツバメが舞う。テント場ほど熱くはないが、程なく汗が出るくらいになる。かれこれ1時間ばかり、私の場所は我慢できないような熱さではないが、熱い場所では寝返りしないと2分も同じ体位ではいられないとか。1時間ばかりして帰ることに。ホントに場所取りが大変だ。そういえば私たちが此処へ着く頃、もう帰る人もいた。明日は4時に来ることにしよう。
3日目は朝4時に出かけた。曇っていて午後からは雨とか、風向きは昨日とはまるっきり反対、寝ていると硫黄臭い噴気がまともに顔へ、その上、昨日はまだ少なかったが、今朝は夥しい数の小さな虫、黒くなる程に群がってくる。皮膚に止まっても実害はないものの、気色が悪い。一昨年はこんな現象はなかったのに、とすれば異変か。我々一行6人のうちテントに入られたのは1名のみ、全員がテントに入るにはもっと早くに出向かねば。
◎「ふけの湯温泉」:秋田県鹿角市八幡平熊沢国有林
2日目、藤七温泉の予定だったが迎えがないということで、路線バスで八幡平へ行くことに。新玉川温泉を10時35分に発ち、玉川、大沼、後生掛、ふけの湯の各温泉に寄り道してのコース。1時間で着く。ふけの湯へは此処で1時間半ブラついて、此処発13時丁度のバスで行くことに。展望台からの見晴らしはあまり良くない。天気が好ければ、西に月山、北に岩木山、東に岩手山が見える筈だが、靄っている。此処は正に秋田県と岩手県の県境、ここから百名山の八幡平頂上(1613m)へは40分ばかり、50人ばかりが登っていった。残雪もあり、風が冷たい。岩手県八幡平市のサービスセンター・レストハウスで食事し、秋田県鹿角市八幡平のビジターセンターで土産を買う。バスが来てふけの湯へ。アスピーテラインを外れて、曲がりくねった道を標高で100mばかり下るとそこが目指す温泉。
ここは一軒宿で、源泉・秘湯の宿だそうだ。早速屋内の内風呂と露天風呂へ。湯の色は乳白色、乳頭温泉より色が薄い。次の最終バスまで2時間あるので、外湯の露天風呂へも。歩いて5分ばかり、女性用、男性用、混浴とあり、最も遠方の混浴へ行く。ここが最も大きく、かつ遮るものがなく、実に雄大で気持ちが良い。乳白色の湯が滔々と流れている。単純酸性泉、温度は88℃、子宝の湯だそうだ。湯から上がってふけの湯本館へ戻り、玄関へ入ると、正面にふけの湯神社、左右に身の丈三尺三寸の金勢さまが左右に一対、圧倒される。沢山のお酒は売り物かと思っていたら、子宝を授かった方々からの御礼だった。三寸の金勢さまに願掛けしたものが沢山並んでいる。信仰の厚さを物語る。眺めながら「秘湯のビール」という地ビールを飲む。明るい宿だ。2時間はアッという間に、バスでホテルへ戻る。
◎「後生掛温泉」:秋田県鹿角市八幡平熊沢国有林
3日目、私のたっての願いで後生掛温泉へ、雨がきつければ中止という条件だったが、まだ雨は落ちてきていない。バスは昨日と同じ時間、ふけの湯の一つ手前、40分ばかりで着いた。玉川温泉からは焼山越えで5時間ばかりで着ける位置にある。曇り空、雨を考慮して、先に火山地獄を観察できる自然研究路へ、歩道はしっかりと舗装されており、ロープも張ってあり、きれいに整備されている。後生掛の由来となったオナメ(妾)モトメ(本妻)の噴湯、紺屋地獄、泥湯が沸騰し噴煙がすさまじい広くて大きい大湯沼、間歇的に真っ黒い泥を噴出している日本一といわれる大泥火山など、地球が生きていることを実感できる火山現象を目の当たりに見て、温泉へ戻る。2時間の予定のうち、半分が過ぎた。早速温泉へ。此処も湯治が多く、「馬で来て足駄で帰る後生掛」と、ここの湯は万病に効果があるとか。確かに旅館部は1棟100名だが、湯治部は5棟200名の収容だ。お湯は灰白色、あの黒ッポイ泥が混じった湯、あのオナメ・モトメの地獄から引湯している。お湯に入っても刺激はなく、むしろ肌には優しい感じで、ツルツルする。名物の泥湯に入る。底に1寸ばかり、粘土のような目の細かい泥が溜まっている。大事な泥なのか、外へ持ち出さないで下さいとある。身体に塗りたくった後は、お湯で流して上がる。でも尻にベットリと泥を付けたまま上がる御仁も。色は悪いが、中々いいお湯だ。湯上りのビールが旨い。小半時を過ごし、急いでバス停にまで戻る。歩いて5分ばかりだが、ずっと上りなこともあり、バスの時間を気にするとかなりきつい。ポツポツと雨が降ってきた。素晴らしい充実した1日だった。
古稀の白山、更なる足の萎えを知ることに(8.16)
今年は猛暑という長期予報だったが、梅雨前線の北上がままならず、沖縄も九州も1日の降雨量が半月分にも達するという大変な豪雨禍のある日があった一方で、水が欲しい四国には降らず、でも梅雨明け前にはたんまりのご褒美があって一安堵。北陸でも入梅が遅れた分、明けるのも例年よりは遅く、8月にずれ込んだこともあって、今年は未だ一度も白山へは出かけていない。前田さんはせめて3度とのことのようだが、聞けばもう2回も訪問とか。翻って私はどうなるのだろうか。ともかく今年最初の山行きを4日の土曜日と決めた。週初めの月曜日に彼に会った折、オオサクラソウとコマクサをどうしても見たいので、釈迦新道、大汝峰経由で南竜山荘泊まり、5日は午後に小・中学校の同窓生の会「子うし会」の最後の物故者法要を照台寺で執り行う予定があるので、お昼までには帰る予定にしている旨を告げた。ところが台風5号が丁度この日に最も石川県に接近するとか、仕方なく2日前に断念したことを前田さんに告げた。彼は先週の日曜日に、砂防新道から南竜、別山、チブリの周回で、下山時に足を痛めたのがまだ本復してないとか、でも収穫はいろいろあったようで、ノンストップ歩行もさることながら、油坂の登りも全く気にならなかった由、長足の進歩である。それに輪をかけた元気印が浅岡さん、もうワシの出る幕ではナイと思った次第。ところで前田さんにはどんなハプニングがあったかは知らないが、最後は山本勘助ばりの姿で凱旋したとか、察するに壮絶な山行だったらしい。
本来この山行、土曜の企画だったようだが、日曜夕方に予定されていた探蕎会の世話人会、会長も欠席、小生は高校第7期の古稀祝いの同窓会で無理ということで、事務局長の前田さんに無理にお願いして土曜にしてもらった経緯がある。ということで、白山行きは私も誘いを受けたが、そんな事情で行けなかった。探蕎会の席では前田さんは当初飲まない予定だったそうだが、そこそこ飲み、明日は山行きなのにと心配もした。天気の方は土曜は風はそこそこ荒かったが、雨はほとんどナシ、でも山へ行ったとしても、風で花の撮影は無理だったのではと。でも日曜日はピカピカの1日。この所天気のよい土日に何か行事があり、山へ出かけられないことが多いのが今年、これからも気懸かりだ。
家の屋敷の一画に50坪ばかりの竹薮があって、昔は真竹と孟宗竹の薮だったが、真竹は花が咲いて枯れ、今は孟宗竹と矢竹の密薮になっている。見かねた親戚でシルバー人材センターの世話をしている夫婦が、枯れた竹や倒れかけている竹を整理してあげようとの申し出があり、お願いすることにした。対象はざっと50本はあろうか。高いものは15米ばかり、それを軽四輪の荷台に合わせ1.9米の長さに切り揃えるのが小生の役目、炎天下、アスファルトの上での仕事とあって、初めはメッシュの帽子をしていたが、たまらず麦藁帽をかむる。竹は太いものは優に15cmはある。それにまた竹の枝をハツルのがまたしたたかの作業、でもどうやら昼過ぎには仕事の目処はついた。やれやれ、お昼のビールはつとに美味かった。これで今日の仕事は納めと思いきや、カミさんが路地のあちこちに山にしてある草や落ち葉(タブノキの葉は今落ちる)をかき集めて薮へ捨ててくれと、承諾しなければならない状況、しっかりビールで出来上がっていたので、2時間猶予してもらった。でも午後4時はまだまだ炎熱の時間帯、作業をすると途端に皮膚からビールが吹き出る感じ、1時間位で上げる予定があちこち数ヵ所に大量にあるものだから、もう終いには立っているのも苦痛になってきた。これが「熱中症」なのだろうか。ともかく脱力感があって、何もしたくない。どうやら済んだということだけが安堵だった。このような状態になると、風呂に入ってもスッキリしない。しかもビールを欲しいとも思わない。これは重症である。先の夫婦からも夕方連絡があったが、話の中で、「うちの人は今晩はお酒の類は一切要らないと言っている」と、何人かからかかってくる電話の度に、珍しいこともあるものだと吹聴する始末、でもあの時は本当にビールさえ欲しくなかったから不思議だ。日が落ちて、寝ようと思って横になった時に、いきなり両足の下腿三頭筋が痙攣、痛いのなんのってほぐそうにもほぐれない、こんな攣縮は経験がない。家内もどうすることもできず、たださするのみ。そして、あなたの足も随分細くなったワねエって。大腿二頭筋もつとに細くなった。考えてみれば、富士写ヶ岳へ入ったのが4月の末、あれ以来山へはどこへも出掛けていない。また毎日出勤しても椅子に座りっぱなし、パソコンやワープロをいじっているか、顕微鏡を覗いているか、もう足に負担がかかるようなことは一切していない始末。とすれば、こうなるのも必然の理か。今冬はスキー場へも平年の3分の1程度しか出掛けておらず、この時ほど足の萎えを現実として捉えたことはない。こりゃ山でこんなことになったらヤバいぞ、余り人がいないコースは避けねば、アレコレ考える。11日の土曜は、釈迦から入るのは止めて、砂防からにしよう。それで様子を見よう。家内にアンタどうかねと言うと、この盆前の忙しい時に何を言うとるがと一蹴された。さもありなん。南竜に泊まっていらっしとも言ってくれたが、大汝のコマクサを見て、観光を下ることにしよう。
翌11日は朝2時起きとした。先祖の命日のお参りを済ませ、食事をして3時半に家を出ることに。市ノ瀬まで約1時間、そして初発の5時のバスに乗ろう。行きには車に1台も出会わなかったので駐車場は空いていると思いきや、そこそこ混んでいたし、後から続々くる。別当へ向かうバスはほぼ満員、最終は5時ですと告げられる。出合からは三々五々山へ、見たところ観光へ向かう人はごく僅か、老若男女様々、子供連れも目立つ。私が勧めた休みなし、腰も下ろさない歩きは定着したようで、先々週の前田・浅岡の面々も実行したとか、今日は私も室堂まで頑張ろう。とすると花の写真も撮り辛くなる。甚之助小屋の少し先にあるオニシモツケの群落も撮りたかったが、前に撮っただろうと割愛した。黒ボコ岩に通ずる十二曲がりでもいろいろ咲いていたが見るだけに。またここを登る時には必ず白山霊峰延命水を飲むのだが、今年はその出が極端に少ないのが気になる。登山道はそんなに混んでいない。天気は上々、まだ朝とて暑くなく快適、ベストコンディションではないが、数日前のトラブルもあり、また今年初めての白山とあって、ペースを少し落としてゆっくり歩く。通常室堂まで3時間のところを3時間30分の予定にしたが、実際には15分延の3時間45分を要した。室堂へ寄るとあのヒゲの荒木さんが受付に、今冬はセイモアスキー場で会っていないので、久しぶりの出会いだ。室堂前広場は混んでいると思いきや、テーブルの半分は空いている。やがて9時半、食事し、1時間ばかり休む。
室堂から千蛇ヶ池への径を辿る。昨年一級下の竹代さんがこのコースでコマクサを見たとのこと、それを確かめる目的もあってこの径を選んだ。コマクサは礫地という特殊な地に生育することもあって、他の植物との混在はない。そんなこともあり、径には踏み出さないようにとロープを張ってあるが、目が届く範囲ならば分かろうというものだ。注意深く左手の礫地を注視したが、彼が指摘する場所には見当たらなかった。もう一度彼に聞くことにしよう。もう花期は過ぎただろうか。昨年はちょっと遅かったが、今年は積雪が多かったから、ひょっとしてジャストかも知れない。千蛇ヶ池への裸地にはタカネツメクサやイワギキョウの群落が見られる。やがて千蛇ヶ池、今年は雪が多く、池面は全く開いてなく、未だ厚い雪に覆われている。雪面を渡って大汝への径を辿る。後ろに付いてきた人は翠ヶ池へと向かった。見たところ大汝へ上るのは私のみ、頂上近くでテント泊の人と出会った。頂上には私一人のみ、ひょっとしてここから釈迦へ下ろうかとも思ったが、今年最初とあれば御前へも挨拶せねばなるまい。大汝神社にお参りしてから、コマクサを見に行く。健在だった。3ヶ所に石囲い、径は2尺ばかり、2株ずつ植栽されているが、毎年少しずつ株が大きくなっているし、種がこぼれて芽吹いた形跡もある。今回も少し花期が遅いきらいはあるが、まずまずだ。初めて白山にコマクサが植栽されていることが新聞報道された時はセンセーショナルな出来事として賛否がかしましかったが、今は話題とはなっていない。ただ新聞に大々的に写真報道されたのは、場所としては御前であって、撮影した宮誠而さんは遠くに能登半島を望むことができる地で出会ったと、そして「白山とコマクサと能登半島」というこれまで考えられなかった写真ができたと。1999年のことである。この地を選定した人は実にコマクサの生育環境を熟知した人で、御前でも大汝でも、植栽されたコマクサをさらに花壇を造成するように石で囲ってあり、相当な園芸愛好家だろうと推測できる。私が初めて白山でコマクサに出会った時は、実に複雑な気持ちだったが、順調に育ってただけに、できれば定着してほしいと願った。オオバコやセイヨウタンポポの進入とは訳が違う。因みに国立公園法では、高山植物の採取は禁じられてはいるものの、植栽してはいけないという条文はないそうだ。あの様子では、植栽されてもう10年は経過しているのではないだろうか。
大汝から下りようとしたら、一人の若者が上がってきた。釈迦へと聞いたら、また引き返すという。下りきった地点でまた一人に会う。彼は巻き道へ入った。荷格好から釈迦へ下るのだろう。血ノ池から翠ヶ池を望める地点まで戻り、紺屋ヶ池から御前へ上り返す。頂上への道すがら、宮さんが撮影したであろう地点で目を凝らしたが、分からなかった。御前の頂は程よい混みよう。奥の宮に参拝する。方位盤のあった場所は掘り返されていて無残だ。早々に下る。次々と上ってくる。室堂への下りには25分を要した。ということは昇り40分弱、もうこれ以上は望めまい。
小休止して発つ。後から考えると少々腹に食を入れておいた方が好かったのかも知れない。時間は午後1時半、一瞬南竜へとも思ったが、持ち合わせがなく、予定通り観光新道へ、黒ボコ岩まで20分、観光へ入るとえらく上ってくる人が多いのに驚く。後で聞いたことだが、団体さんが2百人ばかり観光新道へ回ったとか、細い径だから交差が大変である。馬の鬣でタカネマツムシソウのアルビノに出会った。初めてだ。殿ヶ池を出たのが午後2時半、ここまではまずまず、4時には着こう。この時点での下りには、ペアが5組、5人パーティーが1組、そして私の計16人、大体相前後して下る。尾根筋は実に暑い。小生楽勝と思いきや、以前林道と交差していたあと1Kの地点で初めて腰を下ろした。急に動きたくない様子に皆もビックリ、まだ40分あるからユックリと言われたが、何か物憂く、山でこんなことは生まれて初の経験だ。これも熱中症のなせるわざなのだろうか。老いた身にはこれからも起きるのではないかと、一抹の不安を感じる。気を取り直して別当出合に着いたのが午後6時、終バスに1時間の延着。実に参った。親切な工事関係の方に市ノ瀬まで送って頂いた。助かりました。只々感謝。
[閑話休題]
私の古い山友達の一人、海外へのトレッキングにも時々出かけていた彼が、昨年急にメニエル氏病になり、激しい時は空や天井がグルグル回るという。しかも何となく起きる間隔が短くなり、度合いも強くなってくるような気がすると。この間もたった1米先に椅子があるのに辿り着けなかったとのこと、彼は山は以後断念せざるを得ないと語っていた。大学時代はよく彼と山行を共にした仲だったが、これだけは付き合いたくはない。
細野申三(号燕台)のこと その一(8.22)
7月のお盆のある日、東京にいる親戚、といっても面識もなく、ただ名前だけは聞いたことがある方から電話で、細野燕台展を金沢ふるさと偉人館でやっているから見るようにとのご託宣を受けた。この人は金沢へ親の墓参りに来て、何かの折にこの展示を知り見られたのであろう。そう言えば、この展示をするについて、叔父から細野の伯父の書が家にないかと聞かれたことを思い出した。早速7月15日の日曜日に金沢の法船寺へ親戚の墓参りに出かけた折に寄って見てきた。
金沢市立ふるさと偉人館は下本多町にあって、金沢が生んだふるさとの偉人たち8人に纏わる品々を常設展示している。天文学者の木村栄、仏教学者の鈴木大拙、化学者の高峰譲吉、国文学者の藤岡東圃、思想家・評論家の三宅雪嶺、建築家の谷口吉郎、自然保護者・詩人の中西悟堂、土木技師の八田與一。これらの方々の常設展示のほかに、企画展示するスペースが2室あり、ここではいろんな企画で金沢にかかわりのある方の展示をするようだ。そしてこの度は細野燕台を取り上げたということである。この人は私たち親戚では知らないと言うともぐりになりかねないが、一般市民には縁遠い存在なのではなかろうか。書画骨董、美術品に縁がある人ならば、多少知っているかも知れない。展示の添え書きには、「酒を愛した美の探求者」とある。また陶芸家で文化功労者の大樋長左衛門氏は「燕台の思い出」と題して、「雅遊人・細野燕台の生涯」の著者の北室南苑氏は「雅遊人・細野燕台の生涯」の題目で記念講演を行った。細野燕台は金沢を代表する文人で陽明学の大家とされているが、端的には福田大観、後に北大路魯山人と号した人を世に出した人として知られている。この展示は、前期が5月26日から6月30日まで、後期が7月1日から8月26日までである。
ここでは大伯父細野燕台とのかかわりや聞き及んだエピソードなどについて書いてみる。
一、細野家と木村家のつながり
細野申三(号燕台)は父亀次郎(号当徹)と千代(せんだい)家から嫁いできたすゑとの間に明治5年7月2日に長男として生まれた。干支で申年申日申刻の生まれだったので、申三と名づけられた。家は材木町にあり、油屋をしていて、屋号は細野屋、先祖は前田の殿様に付いて尾張から来たのだろう。次男生二は明治8年の亥年生まれ、三男卯一は明治12年の卯年生まれ、長女玉は明治15年の午年生まれ、次女はるは明治19年の戌年生まれ、5人兄弟である。油の商いは灯火用が主であったから、時代とともに次第に下火になり、明治18年には高道町の造り酒屋を買い取り、酒屋に転業した。次女は移ってから生まれた子だが、幼く能登の大商家に養女に出された。
高島嘉右衛門は「高島易断」を著したことでつとに有名だが、明治をリードする大実業家でもあった。亀次郎は嘉右衛門とは面識があり、後に申三も親交を持つことになる。嘉右衛門は漢学塾を開いていたが、次男生二は易学に非常な興味を示し、金沢を出て横浜で修行し、後には「高島易断」の改定増補の仕事にも携わり、後年、北海道奈井江町に開設された高島農場の管理人として派遣された。生二は生涯奈井江町に住み、シズと結婚し、1男8女をもうけているが、私の母の好子は四女である。また私の名も祖父生二の命名である。また有名な逸話として、高島農場を訪れた伊藤博文に、満州ハルピンで凶弾に倒れることを忠告したことでも知られているが、伊藤は後にそれでも行かねばならぬと言ったという。これは生前母方の祖父から直に聞いたことである。
申三の妹の玉は、縁あって木村仁太郎の妻となった。当時細野家も木村家も多額納税者で貴族院議員の選挙権があったが、富国強兵策の煽りで、多額納税者の長男で甲種合格者は近衛兵になることが義務付けられたこともあって、それを嫌った細野申三と木村仁太郎の親は二人を禁治産者とし、共に高島嘉右衛門の手引きで北海道の小樽へ4年間身を潜めることになる。日清戦争が済んで金沢と野々市に帰ってくるが、木村家では跡取りの失踪で三男の次作に財産の3割を割譲し、漸く旧に復した。木村次作は素堂と号し、財力で野々市じょんがらを無形文化財にデッチ上げたり、奇抜なアイデアの催しをしたりして兄を困らせた。今用いられている野々市じょんがら(自安和楽)の歌詞である富樫の略史の文句は木村素堂の作である。また当時の野々市じょんがらの節は三味線にはなじまず、独特なものだったが、伝承する人がいなく、埋もれてしまった。今歌われているのは、村田秀雄の歌唱によるものを踏襲している。
当時の木村家は富奥村の粟田一村、藤平田の大部分、野々市町の半分を持ち、銀行も持つ近在では一番の素封家だったが、それでも細野家には及ばなかったという。亀次郎は玉に降家の気を起こさず、婚家に仕えるようにと「知足者富」の書を持たせたが、その扁額は今も残っている。これはどう読むのだろうか、「知足るは富む」なのか「足るを知る者は富む」なのか。仁太郎と玉は4男1女を儲けたが、その長男が私の父仁吉である。ところで、父は玉の長男、母は生二の四女で、二人は従兄妹添いである。木村の本家は吉田(屋号は木屋)といい、細野家同様、前田の殿様に付いて尾張から来たと言われる。昔から苗字を許されていたが、江戸末期に分家した木屋五右衛門が維新後になり木村を名乗った。昔の家の屋号は「きやごよむさ」である。吉田は木屋として細野屋とも関係があったらしい。
二、細野申三のこと
父亀次郎は幼少の時から字が上手で学問にも秀でていて、15歳には佩刀を許され、前田家へ伺候し、藩士子弟に字を教え、長じては正当な漢学を学び、藩政末期には卯辰山に設立された集学所で四書五経などの講師を務めた。このような漢学者の家に生まれ、父からも学問の手ほどきは受けたものの、四書五経は好きでなかったようだ。父は学問を習わすべく金沢養成学校へ行かせた。1級上に徳田秋声、同級に泉鏡花、2級下に小倉正恒(住友の総理事、大蔵大臣、貴族院議員)がいた。徳田秋声は1年落第して同級に、申三は二度落第して小倉正恒と同級になった。申三のみ平民、他の3人は士族であったが、生活は苦しく、成績が優秀だった小倉には、亀次郎は更に上級の金沢小学校、石川県専門学校中学科、更に最上級の四高補充科を卒業するまで学費の面倒をみた。申三の長男も親同様小学校卒の資格しかなかったが、申三から息子の就職の相談を受けた当時住友のトップにいた小倉正恒は恩に報いるためか、いきなり係長に据え、手下に大学卒を配したというが、結局はノイローゼになって辞めてしまった。申三は金沢小学校を中退してしまったが、その言い分は嫌いな学科を学ぶのに抵抗を感じたからだという。父から教えられる四書五経にも身が入らず、父の書籍で気に入ったのは陽明学を説く「伝習録」だったという。手に合わないと感じた父は申三を小倉共々漢学者の五香屋休哉に託する。休哉の下で伝習録を本格的に読み、支那の小説にも接する。学校では小倉正恒にはとても敵わなかったが、ここでは負けるものかと頑張ったという。休哉の指導は厳しく、読んだ文学書の要旨を漢文で書かすというノルマを課した。申三が即興で漢文を作れる素地はこの時培われたという。休哉は清貧で蔵書も少ないと知り、後に申三は上京した折には書物を買い求め送ったという。
書は初め医者の江間萬里に手ほどきを受ける。そして篆書にも興味を持ち、篆書体の研究を上海でしてきた常福寺の住職北方心泉に学ぼうと思ったが、一切取り合って貰えず、休哉の仲介でやっと寺に上げて貰えた。そこでの言は、書架の中から気に入った書体の本を出して、それを手本に手習いせよとのことだった。再度の清国視察で心泉が持ち帰った石鼓文に非常に興味を持ち練習したいと言ったところ、書いたら持って来いとまで言われるようになった。心泉は手本も書かず、一切添削もせず、申三は足繁く通ううちに、漸く心泉の持つ書に対する心裏をつかむことができたという。心泉は篆刻もやり、一角の腕だった。
明治23年、申三は吉田曽登と結婚する。申三27歳、曽登21歳だった。結婚を機に燕台と号するようになる。その3年後に父亀次郎は他界し、その後酒屋は辞め、高島嘉右衛門の勧めもあり、愛知セメントの代理店という実業家としての顔を持つ一方、清国磁器及雑貨の看板も掲げ、古美術愛好・蒐集家の顔をも見せる。そして居を殿町に移す。
細野申三(号燕台)のこと その二
三、細野燕台と福田大観との出会い
殿町の家には燕台の家族6人と下男と下女の8人が住んでいたが、移って間もなくからいろんな人が食客として逗留していたという。細野屋の好いところは、そんな居候を家族同様に扱っていたことで、燕台大伯父もそうだが細君の心掛けも素晴らしかったと思う。父亀次郎の友人だった王治本も、父が他界してたにもかかわらず、半年以上も滞在していた。また野々市の木村の家にも、戦前はしょっちゅう入れ代わり立ち代り居候の人がいた。古くは木村杏園さんが襖絵を描くのに長期滞在していた。
燕台は煎茶人で、その茶友達が沢山いた。その一人に鯖江の窪田喜三郎がいた。骨董屋として大成していて、特に瀬山陽には明るかった。かなり古い付き合いな上、顔も姿格好も良く似ていたので、人からは燕台の兄とよく間違えられたという。いつも僕の料簡やという口癖があったので燕台は「僕料簡」と渾名したが、それが気に入って「卜了軒」と号するようになったという一話もある。燕台も骨董屋としてよく京都へ出かけたが、帰りには必ず鯖江に寄った。そんな折、京都で篆刻をやっていて、京都の内貴清兵衛が才能あると後押ししている福田大観という男、長浜に長く逗留してた後、今は鯖江のワシの家に住みついているが、いずれ金沢で面倒見てくれんかと卜了軒に持ちかけられた。そろそろ嫌気がさした感じだった。大観の印譜を見せてもらうと、出来不出来が激しいが、中には素晴らしいものもあり、燕台はひょっとしてこれは掘り出し物かもとその時思ったという。気が向いたら金沢に来るようにと言ったら、本当に来てしまい、福田大観は細野燕台の下で本当の大観に花開くことになる。
大観の篆刻は有名な印譜を見ずの作だけに、評価されることはなく、大観は篆刻に対する自信を喪失していた。燕台は相変わらず忙しい日々で、大観にはかまえなかったが、篆刻よりは看板を彫らせたらと思いつき、先ず燕台の骨董屋の看板「堂々堂」を彫らせた。3日ほどで出来上がったが、思いのほか出来が良かった。山代温泉の宿には既に燕台の手になる看板があちこちの宿に掛かっていたが、取りあえず「吉野屋」で彫らせたところ、これが結構評判になり、次々と注文が入り、10月末から2ヶ月も滞在することになった。燕台も足繁く吉野屋を訪ね、夜は大観と酒を酌み交わした。燕台は食通、美食家としても知られていて、大観はこの時初めて北陸の海の珍味に接することになる。コノワタ、クチコ、コウバコ、ズワイ、アマエビなど。そして橋立の浜に揚がるキトキトな魚介類。たかが沢庵でも美味さが違っていた。大観は燕台には食通の哲学があると観たと述懐しているが、同時に後年の料理人として大成するのに必要な実践も、この時期に知らず知らず身に付いた。燕台も大観の美的感覚の鋭さを見抜き、金沢東山の料亭「山の尾」の太田多吉に頼み込み、大観を修行させた。
料理もさることながら、燕台はいつも「用の美」ということにこだわっていた。日常使う器は、絢爛豪華な九谷焼より地元の窯で焼く素朴なものに興味を示し、時には自分の手でも作った。山代温泉の須田青華の窯でもよく作った。篆書や隷書で書いたものは余技としては素晴らしく、実に風雅で、それを日常使うものだから、大観には垂涎の的だった。私の家にも何点かあるが、本職の陶芸家では出せない味があり、料理を一層引き立たせる。このことは、やがて燕台が青華に大観を紹介して実現する。はじめは全くの落書き程度だったが、2ヶ月の逗留での作品には、燕台や青華にもない大胆な構図の作品もあった。ここでの感銘が後に作陶家として大成する素地となったことは確かである。
このように福田大観は、もし細野燕台との運命の出会いがなければ、またいろんな口添えや諸々の援助がなかったならば、後に美食家、作陶家として名を轟かすことになる北大路魯山人は生まれてこなかったろうと思う。
四、星岡茶寮と魯山人と燕台
福田大観は大正6年に所帯をを持ち、北大路魯卿と名乗る。そして11年には正式に北大路家の家督を相続し、改めて魯山人と名乗った。私の父は何故か魯山人と言うことはなく、常に魯卿と言っていたが、聞けば魯山人は魯卿という名は余り好きでなかったようだ。東京で大雅堂美術店という骨董屋を開いた魯山人は、2階に会員制の美食倶楽部を設け、本人が包丁を握り、料理を売り物の古陶磁器に盛り客に供したところ、すごく客に受けた。後に青華の窯で食器を自作し、魚介類はこれも燕台の世話で、金石や橋立から直送したものを使ったものだから、いやが上にも評判になった。しかし大正12年に起きた関東大震災で店は焼失した。その後芝公園内に美食倶楽部を再開するが、さらに立派な料亭をと赤坂にあった社交会館「星岡茶寮」を建て直して使おうということになる。美食倶楽部の会員からの出資では足りず、燕台の元にも出資者を募ってほしいとの催促があり、かなり沢山の旧知の人達を紹介した。茶室の建設では、部屋での会話が盗聴されないように、廊下は鴬張りにしたという。また庭の造りも燕台頼みで、金沢で最も信頼されている庭師を紹介し、材料も金沢から送り込んだ。
大正14年に晴れて開店する。茶寮で使う食器の制作は燕台の世話で、金沢出身の京都伏見に窯を持つ宮永東山に頼んだ。また漆器は燕台旧知の金沢の遊部石斎に制作させた。そしてまた加賀の魚介類の世話も頼まれ、その手筈を整えてやった。当時東京で加賀の新鮮な海産物を出す店はなかった。そのうち魯山人は茶寮で使用する陶磁器を自ら制作することを思い立ち、鎌倉に窯を築いた。職人集めはまたも燕台に依頼され、燕台は京都の宮永東山窯からは後に人間国宝となった荒川豊蔵を、金沢の中村梅山釜からは松島小太郎を、山代の須田青華窯からは山本仙太郎を送り込んだ。こうして鎌倉に星岡窯が出来上がった。しかし引き抜きされた窯からはずいぶん恨みを買った。
星岡茶寮も星岡窯も軌道に乗り、燕台は出来上がった窯を見に鎌倉を訪れた際、魯山人から燕台さん鎌倉に来てくれませんかと誘われた。燕台はこれに簡単に乗り、昭和3年に金沢を去り、鎌倉に住むことになる。新居は北鎌倉の明月院の傍で、一帯は山ノ内という風光明媚な場所である。今は次女の方が住まわれているが、叔父からは一度は訪れるようにと言われている。金沢を去るに当たっては当然未練があったようだが、そぶりは見せなかったとか。だから金沢には月に二度は訪れていた。金沢での宿は決まって観音町の旧細野家の別宅の鮫村宅であった。ここの女主人は私の祖母の木村玉ともじっこんで、私も祖母に連れられ何度か訪れたことがある。燕台は亡くなる直前まで訪れていた。
その頃燕台は星岡窯の顧問をしており、沢山の政財界のお歴々が窯を訪れた。中でも松永安左エ門は陽明学に詳しく、燕台は雑誌「星岡」に漢文で随筆を寄稿していたことからえらくうまが合い、時々松永の柳瀬山荘で陽明学の講義をしたが、ここでも沢山の政財界の人の知遇を得ることになる。燕台の講話は聞き手を退屈させず、しかも最後は必ず艶話か猥談になったという。これも集まる人を見て、相応しい話をしたとか。休哉に学んだ折に読んだ支那小説が縁で艶本もかなり読み、それが話の源になっていたことは確かだ。それに何処でも誰とでも、対話であろうが講話であろうが、死ぬまで金沢弁で通したという。金沢弁での話は艶台の柔らかい物腰と相まって、相手を包み込むような雰囲気を醸し出していたという。この噂を聞いて更に信奉者が増え、毎月鎌倉円覚寺で行われる老師の講話が時に燕台の講話になった時は、是非聞きたいという人で埋まったという。鈴木大拙、石田光雄(日本勧業銀行総裁)、小林一三(阪急グループの創始者)、山下亀三郎(山下汽船の創始者)、長崎英造(昭和石油社長)らの顔もあったという。また伊東深水は歌舞伎役者の尾上多賀之丞の紹介で毎朝燕台の庵へ日参することになる。燕台最後の漢学の弟子だった。
星岡茶寮での魯山人の傲慢横柄さは経営者の中村竹四郎と衝突することになり、追われることになる。燕台はある故事を引き合いに出し諭すが、くだらないと言われ決別することになる。そして帰って魯山人に初めて金沢で彫らした看板「堂々堂」の落款部分を切り落としてしまう。全部を捨てなかったところに、魯山人への哀れみを感ずる。また晩年愛用していた長い杖の頭には魯山人の篆書が彫られていたが、これも手放すことはなかった。米寿の祝賀会が鎌倉円覚寺で催された時の姿を伊東深水が描いた「酔燕台翁」の画にもこの杖が描かれている。現在この画は石川県立美術館に収蔵されている。
晩年燕台は三越本店の美術顧問をしていて、ほぼ日参だったという。ところで金子は一切貰わず、その代わり昼食に銚子2本に豆腐1丁と大根おろしのみを貰っていたという。また休日には三越の職員が鎌倉へお茶を頂きに訪れたというが、その時の土産は常にお酒だったという。三越との付き合いは、宮崎友禅斎の墓を燕台が大正9年に見つけた時からである。友禅斎は長く京都に居たものの、晩年は金沢で余生を送ったらしいが、その墓蹟はようとして知れなかった。宝円寺でフッと小耳に挟んだことを頼りに、下寺の龍国寺で過去帳を丹念に調べ、この寺のどこかに墓石があると信じ、その執念が発見に繋がった。後で三越の調査でも確認され、今でも毎年5月17日に墓前で友禅祭が行われる。
細野申三(号燕台)は昭和36年9月24日に90歳の天寿を全うして他界した。自宅での永眠だった。魯山人が生きている時には、賀状には必ず百歳まであと何年と書いていたが、2年前に魯山人が亡くなってからは、転んで歩けなくなったこともあって、百歳に対する執着はなくなってしまったようだ。墓は金沢市宝町の宝円寺の脇道に面した一画にある。以前は境内の大きな椎の木の下にあったらしいが、今は道端だ。父亀次郎のは燕台筆蹟で「細野当徹之墓」と、そして本人のは生前自身の筆蹟による「燕台逸民」と墓に刻んである。
[閑話休題]
食通の逸話:料亭「山の尾」でツグミが入ったので、料理して一皿に盛りつけて出したところ、燕台はこの皿には三羽のツグミを使うたなと、一羽は本ツグミ、一羽は黒ツグミ、一羽はシナイやと。これを聞いた板前は仰天してしまったという。一口食べただけで3種のツグミを食べ当てる人は先ずおいでないと。
金冷法:燕台は80歳を過ぎても健康そのものだった。夜寝る時も紙のような薄い布団をふわっと掛けるだけで、まるで仙人のような生活だったという。そして朝4時半に起き、家の横を流れている冷たい清流で金玉を洗うのを日課としていたと。このことは生前私も聞いたことがあるが、チン冷でなく、金冷であると。
ガマの聖談:これは当時、国策パルプの会長、ヤクルト本社の会長、日本ガン予防協会の理事長をしていた石川県出身の南喜一が昭和43年に上梓した本の題名である。南喜一は同郷のよしみもあって、燕台の信奉者であった。彼は陽明学に興味を持ったのではなく、軽妙洒脱な艶話や猥談に惹かれたという。その本の中にこんな話がある。燕台が80歳を過ぎたある日、石川県人会でとある温泉へ行った折、南はある異様な光景に出くわすことになる。その一は、タオルをチン竿に掛けてご入来になったこと、何か棒を股ぐらにはさんでのことと思ったらさにあらず、ホンモノのチン竿だったと、たまげるわけだ。その二は、湯船に浸かっていると、白濁したお湯にタワシのようなものが浮いていたので取り除こうとしたところ、それが燕台の亀頭だったので二度びっくりしたと。生まれた時からかとの愚問には、人の体というものは、使ったり努力したりすれば、発達するものだと。毎日1回は金冷して、必ず使えば、それには応えてくれると。南は燕台より20歳も若かったが、実践したかどうかは定かではない。初版本には「続ガマの聖談」を2年後に出すと書いてあったが、南喜一はその本を冥土から出す羽目になってしまった。
古稀の再度ののんびり白山行き(8.29)
先々週の古稀になって初めての白山行きでは、下りで観光新道が林道と交差する別当出合まであと1キロの地点で、格好の座石に座ったところ、動くのが嫌になってしまったのには我ながら参ってしまった。殿ヶ池の避難小屋までは室堂から1時間とまずまずの歩きだったが、それ以降はペースが落ちてしまった。殿ヶ池を出たのが午後2時半、この調子なら別当出合には午後4時には着けようという算段だった。相前後している人は全部で16人、皆さんもそんな目論見だった。この日は暑く、しかも尾根筋なのに風がなく、汗が吹き出る感じ、水を余計に飲むとかえってバテルのではと、ほんの少しずつ補給しながらの歩きだった。皆さんも500ccのペットボトルを大切に抱えての下り、私はまだハイドレーションシステムに1リットル以上持っていた。皆さんのペースも落ちて、別当坂を下り終わって、どうも4時までは無理なようですねという話になった。3段ある急な沢筋の径を下りてからも、西日が容赦なく当たる草いきれのする日陰の無い径、更にペースが落ちる。そしてあの魔の1キロ地点。格好の石に私は座った。時間は4時15分、ここからは通常20分みておけば優に出合へ着ける場所、4時20分には皆さん相前後して発たれた。以前はこの場所に水が出ていたが今はなく、皆さんのペットの水ももう底をついている。私の意識は明瞭なものの脱力感があり、そのせいか動くのがとても億劫で、別に水も食料もあり、ツェルトもある上、天気もよく、ここに明朝まで居てもどおってことはないと思うと、なおさら動きたくなくなる。携帯電話を持ってこなかったので、家へ連絡してもらおうと思ったが、最後に発ったグループの方々は茨城からとのことで、それも諦めた。ゆっくり下ってもまだ40分もありますから、バスは少々待たせますとも言ってくれた。でも歩き出したのは5時20分、此処に腰掛けて1時間も居たことになる。漸く下りる気になり、やっと出合に着いた。人が1人いる。待っててくれたのだろうか。でもその60絡みの人は、自転車で来てるのだという。工事用のワゴン車が2台通ったが乗せて貰えなかった。しかし三度目の正直、乗用車の紳士が乗せてくれた。歩きも覚悟したが、本当に助かった。
あの脱力感は何だったのだろうか。全く初めてのこととて、何が起きたのか見当がつきかねた。思うに水分をもう少し余計に取るべきだったのか、室堂でも殿ヶ池でも食べ物を口にしなかったが、少し補給すべきだったのか、あるいは汗の補給に水を少量ずつしか口にせず、塩分の補給をしなかったからだろうか。もちろん5月以降、この日まで全く歩くことがなく、勤務でも座りっぱなしのツケがきたのか、私は熱中症なのかと思ったりもしたが、どうなのだろうか。生理学の大家の永坂先生にお聞きしなければなるまい。
山から帰って3日ばかり太ももが痛かったが、毎日歩けなくても月に2度ばかり歩けば何とか現状維持にならないだろうかと、2週後、今度はのんびり泊りがけで出かけることにした。病み上がりのような状態だから、行き帰りは砂防新道を使うことにした。朝も明るくなってから家を出た。市ノ瀬からのバスは5時40分、別当出合からの登り出しが6時20分、たまたま名鉄の30人弱の団体さんが出立、以前なら急いでその先に出るのだが、今はやり過ごして後に付いて行こうかと考えるようになった軟弱さ加減に衰えを感ずる。団体さんといっても何か私のペースより速い感じ、中飯場で休んでいるところで追いつくが、でも次の休憩場所と思しき甚之助小屋では追いつけなかった。私は2時間を要した。以前なら1時間半だったのにと思う。また水平道分岐までも、通常15分だったのに20分を要した。もうこうなればマイペースだ。致し方ない。水平道を歩いていると、小学校の団体に会う。引率の先生や父兄が多い感じ、聞けば地元とのこと、希望者のみかも知れないが、微笑ましい。20分で南竜山荘に着く。9時に5分過ぎ。
受付だけ済ませて、展望歩道経由で御前へ行って来る旨伝えて出る。山荘の方はまだ整理がついてなく入られないので、では窓側をと希望しておいた。明日は天気が好ければアルプス展望台で御来光を見よう。今の足でどれくらいかかろうか。以前は40分ばかりだったが、54分かかった。ここでも衰えが目につく。明日の朝は1時間みるとして、日の出は5時18分というから4時頃に山荘を出るとしよう。展望台で昼食を済ませた頃に1人上がってきた。展望経由で室堂へとは見上げた御仁だ。こんなコース取りをする人は少ない。先に発つ。雲があってアルプスの展望は全くきかない。上からも30人ばかりが下りてくるのに出会う。帰路にこのコースを取ったのだろう。平瀬道でも登ってくる人、下る人に会う。程なく室堂、昼食込みで2時間を要した。ヒゲの荒木さんは受付をしていた。今晩はと言うから、下でと言った。彼は合併前までは金沢から籍を白峰村に移し、白峰村役場職員として、開設期間中はずっと南竜山荘勤務だった。今は白山市職員として、去年は9月半ばから、今年は開山から勤務とか、真っ黒な顔をしていた。悪評のラーメンは無くなって、代わりに「たぬきうどん」がお出まし。試食してみると、ラーメンほどではないが、やはりゴムを噛んでいるような感触、8百円が高い安いより、何か下界だったら、怒鳴られるような代物、どうも感覚が怪しい。しかも10分も待たされる始末、乾麺から茹でているのだろうか。
室堂から御前峰に向かう。以前は休みなしに登れたが、今は小刻みに少し立ち止まっては歩く。そうしないと足が重く感じられる。頂上へは41分を要した。とうとう40分を超えてしまった。頂上には沢山の人、奥宮の「おみくじ」に若者のグループが、此処へ来たらこれを貰わなくてはと群がっている。珍しい光景だ。集団心理からなのだろうか。お参りを済ませ、下りることに、まだ次々と登ってくる。ガスが去来するようになり、時々視界が悪くなる。下りは25分、この前と同じだ。時刻は1時30分、この前発ったのと奇しくも同じ時間にトンビ岩コースで南竜山荘へ下る。この頃になるとガスが一段と濃くなり、前後が全く見えなくなる。トンビ岩まで20分、爺さんと小さなお孫さんが休んでいた。今晩は室堂泊まりで明日の朝は御来光を見に行くのだと。下の小屋は今日は満員で、泊まれない人はテント収容と言ってましたと、じゃ急がなくちゃ。お先にと急な坂を下る。トンビから1時間で山荘に着いた。希望の窓側は2号室の上段になったが致し方ない。聞けば20人と30人の団体さんが入ったので、いつもの3号室は駄目とか。でも満室ではなかったので一安心。新のおばさんとビールを飲みながら話し合う。大汝峰のコマクサの話をすると、一度はこの目で見たいと仰る。いつもは4時頃まで食堂を使えるのに、明朝早立ちの人が多く、弁当作りのため、3時には使用不可に、500mL最後のビールを貰い、3号室ならば2階のベランダで飲めるのだが、団体さん占拠でままならず、部屋で飲むことに。夏は今年初めてだが、冬は時々スキーで来るという方と話す。エコーを下ったことがあるというが、砂防へ下りるには渡らねばならないあの谷は雪で埋まっているのだろうか。とにかくエコーの下部は凄く急だ。早川康浩さんを知っているかと聞いたが知らないとのこと、彼が下りに砂防を使うのは雪が少ない時で、多ければ観光の別当谷へ滑り込むことが多いようだ。でも山スキーをこなせる人は羨ましい。5時に夕食。ここでも団体さん優先だ。今年は去年に比べ倍近い利用者数だとか。去年は砂防新道の地割れで一時通行禁止になり、その間は観光新道利用のみとなって、山荘の利用者が落ち込んだ。この日泊まった人は百人が百人とも室堂よりは南竜山荘が良いと、今日の団体さんも此処をベースにして御前を巡って、また此処へ戻って砂防を下るという。もう室堂の魅力と言えば、御前峰で御来光が見られること以外には無くなってしまった。不便、汚い、不味いの3拍子揃い、泊めてやる、食わせてやるはなくなったようだが、まだまだ改善されるべきことは多い。ヒゲの荒木さんには頑張ってほしいものだ。
翌朝天気は落ち着いたようなので、御来光をと思っていたら、団体さんが3時半に展望経由で室堂へ行くと。狭い展望台、行くのを諦めた。展望台より上では東側が開いているので見られるが、やはり展望台が最良だ。食事は6時半、それまで寝ることに。食事をして、早々に下る。甚之助小屋から別当出合へは1時間20分を要した。新しくなった迂回路を下るのは初めてだが、随分と歩きやすくなった。下りの時間から逆算すると、上りは丁度2時間ということに。前のように1時間で下るのは夢のまた夢となった。
処暑を過ぎても街では残暑がまだ厳しいが、山の麓には尾花が揺れ、山ではハクサントリカブトやオヤマリンドウの紫が鮮やかとなり、夏は終わり、秋の気配が漂う。
平成十九年九月二日の一日(9.6)
一、ウオーキング
勤務している協会の夏の健診で、空腹時血糖値が高くしかもHbA1cの値も8%台と、薬を飲んでいるのに改善が見られない。これまでもこのペースだったが、もう十年もかかりつけの医師ではこれ位なら心配はないとのことで、半ば悠々としていたが、中には6%台でも大変ですと言われた方もあり、別の医師に相談することにした。世にいうセカンドオピニオンという類だろうか。同じ病院の別の医師に持参した健診結果を見せると、三つの提案をされた。一つ、運動不足ですから、工夫して1日50分は歩くように、30分はゆっくりでも構いませんが、20分は汗をかく程度に。二つ、管理栄養士から配偶者と一緒に栄養指導を受けて頂きます。三つ、紹介状を書きますから、眼科を受診して下さい。その先生もお酒は好きだからか、飲酒の話は一切なかった。恐らくお酒の件は栄養指導へ回したなと感じた。栄養指導に当たる管理栄養士はよく知っている方で、その方とは以前アルコールの功罪で、アルコールにはカロリーがありますという指導に対し、エンプティーカロリーを主張したことがある。当時はお酒もカロリー計算に入れていたが、その後1合程度は別建てでOKになった経緯がある。彼女は私の栄養指導をするに当たって、また文句を言われるのではと昨晩は心配でしたと。でもおとなしく拝聴したものだから、大変嬉しそうだった。ずっと以前に受けた栄養指導では、少なくとも食事に関しては、お酒以外は極めて優良なことは知っておいでとあって、もっぱらお酒と運動に指導は集中した。お酒は4合を半分の2合で手を打った。運動は勤務していると取りにくいが、何とかしましょうと言ってしまった。先生は薬を変えるよりはとにかく2,3ヶ月様子を見てから対処しましょうということになった。しかし運動をするとすれば朝しかない。逆算して、6時10前には終えなければならないとすれば、4時半から1時間位、距離は家から直線距離で2キロばかりの地点までの往復や周回とすることに。歩きはこの日で3回目、今日は家の東方、山手にある県立錦丘高校の前辺りにある知り合いのお好み屋を目指す。行きは間道、帰りは県道を、距離は直線で約2キロ、時間は往復1時間ばかり、歩数は6千数百歩、ざっと1分間百数十歩となる。歩幅は70センチばかりだから、1分間140歩でないと1分1キロにはならない勘定になる。でもあせることはない。これでもし若干でも足腰が強くなれば、望外の一石二鳥となるのだが、乞うご期待である。
二、女子マラソン
今日は世界陸上最終日、テレビは6時から女子マラソンの中継をやるという。汗を流して、食事しながら観ることに、でもスタートは7時のようだった。カミさんも観ていたが、今朝8時から委託してある田んぼ2枚の稲刈りをするとかで、田の四隅を1間四方ずつ手刈りしなければならなくなり、家内が出てくれることに。ところが手刈りが済んだ頃ににわか雨が来て、一時中断、9時前には家で再びテレビ。日本人選手は初めは先頭集団を牽引していたが、30キロを過ぎると一人ひとりと遅れ出し、気温も32度に上昇したこともあって、ゴール3キロ前に仕掛けられたスパートでは、一人残った日本人女子も一時は5位となり、もう駄目と思ったのに、あの状態からの必死の頑張り、そして3位、銅メダルを獲得したのには感動した。よく近頃の選手は試合前に感想を聞かれると、楽しんで云々という表現がよく飛び出すが、この場面などは本当に死力を尽くしての戦いがあって勝ったのだと思う。勝負をするに当たってはそれ位の気概がなければ代表たる資格はない。それにしても男子マラソンは気温が34度だったこともあろうが、3分の1が棄権してしまったという過酷なレースになった。アフリカから来た選手は暑さに強いと思いきや、道端にしゃがんでいる光景を見た時、私が観光新道の下りで座り込んでしまったことをフッと連想した。
三、中西悟堂展
ふるさと偉人館で開催されている中西悟堂展を見たくて、10時半にカミさんに本多町まで送ってもらった。本当は家内と一緒にと思っていたが、稲刈りの手伝いにかこつけて拒否されてしまった。中西悟堂は偉人館では常設展示されているが、今回はゆかりの方から「野鳥居」の全資料5千点の寄贈があっての開催で、九月から3ヶ月間開催される。サブタイトルは「野鳥とともに九十年」である。「野鳥」というのは中西悟堂が創った語であり、「日本野鳥の会」を昭和9年に創設したことでも知られている。私の叔父の木村久吉は東大薬学部で生薬学・薬用植物学を専攻したほか、植物分類学も理学部植物学教室で学んだ。また自然に対する造詣も深く、とりわけ鳥には興味を持ち、在学中に既に野鳥の会に入会している。終戦間もない昭和22年7月に、石川県では第1回の白山の動植物や虫の調査を行った。その時のメンバーは、鳥の中西悟堂、植物の本田正次、昆虫の名和正男、蜘蛛の岸田久吉を頭とする豪華メンバー、叔父は中西、本田の両御所に師事していたこともあって同道することになり、実家の野々市の木村邸で一行は一夜を過ごされた。私はまだ小学校の4年生、あの時の記憶では、悟堂さんから夜啼いていた鳥がアオバズクだということ、夕暮れにカラスザンショウにいた緑色の蜘蛛がアオエビグモだと岸田さんに教わったのを今でも鮮明に覚えている。白山での天候はあまり良くなかったようだが、五十余種の鳥の鳴き声を確認し、その中にはライチョウも入っていた。白山の雷鳥は今は絶滅したというのが定説だが、昔は生息していたことは多くの文献で明らかである。それ以降、昭和30年、35年36年にも調査は行われているが、ライチョウの存在は確認されていない。
四、岩城宏之メモリアルコンサート
岩城宏之OEK(オーケストラ・アンサンブル・カナザワ)音楽監督が亡くなられて1年余、故岩城宏之夫人の木村かをりさんからの申し出もあって、今年から岩城宏之音楽賞が設けられることになり、第1回の表彰式が午後3時から県立音楽堂で行われた。岩城さんが就任されてからの6年間は、石川県にゆかりのある新人を対象に、以降は北陸3県にゆかりのある新人を対象に登竜門コンサートが実施され、優秀な新人の発掘に大きな力を注いでこられた。この栄えある初めての賞には、初めての弦楽器部門での新人登竜門コンサートに入賞し、現在オーストラリアで活躍されている吉本奈津子さんが選ばれた。有名な演奏家が3歳頃から手ほどきを受けているのに彼女は11歳から、もう31歳ですと話されていたが、中々どうして根性の人だ。選考もし、受賞コンサートの指揮もした井上さんは、ジュニアで優勝される方はチャイコフスキーやメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は弾けてもベートーベンのヴァイオリン協奏曲は弾けませんと。彼女のように人生経験豊かとなって初めて弾ける曲だと彼女を褒めていた。演奏は大胆な中にも叙情的な面もある難しい曲のこなしを素晴らしいテクニックで弾きこなされたのには感動した。30歳を超えられているのに初々しさも垣間見えたのは、謙虚さの故か。アンコールにはバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番のアンダンテ、あがっておいでたのかベートーベンと言われたのを、井上さんが実はバッハと訂正されたのはお愛嬌だった。
これに先立って、岩城宏之音楽監督が生前新実徳英さんに委嘱した作品で、訃報後に出来上がった作品「協奏交響曲エランヴィタール」が演奏された。初演を岩城さんにと話されていたが、それは叶わず、曲は岩城さんに献呈された。しかし、井上さんの指揮も実にダイナミックで素晴らしく、岩城さんに優るとも劣らずの演奏、演奏が終わった後の新実さんの感想も実に感慨深げであった。ああいうダイナミックな演奏には井上さんが向いているような気がした。そしてピアノパートは木村かをりさんが担当され、現代音楽に堪能な素晴らしい演奏をなされた。なおこの曲は今年度の尾高賞受賞作品となった。心に残る名曲名演奏だった。
現代音楽の後は古典、曲はモーツアルトの交響曲第35番ニ長調「ハフナー」、前曲に引き続き指揮棒なしの演奏だった。残念ながら井上さんの腕の振りしか見えず、細かな指の動きは見えなかったが、ご多分にもれず大変勇壮豪快なモーツアルトになった。指揮台は使われず、前曲でもそうだが、自由自在に空間を利用しての指揮、時には相応しいステップもあったりで中々見場のある指揮さばき、茶目っ気もあり、楽しい演奏だった。予定ではカミさんと二人で聴く予定だったが、聴かず嫌いの癖が出て、ボイコットされた。
眼の患いでの眼科への受診と顛末(10.1)
一、健診結果で内科医に相談
未だ勤務している協会の夏の健診で、血圧が少々高めなのはともかく、ここ2年は連続してHbA1cの値が8%台と高いのが気になっていて、今度8%台だったら別の先生に相談しようと心に決めていた。前の先生にはここ十年ばかりお世話になっているが、そんなの気にしなくてよいの一点張り、ついこちらも安心してお任せしていたが、十人中十人がそれはヤバイと。とうとう私もそう思うようになって、セカンドオピニオンにということになった。相談したところ、一つ、食事については改めて管理栄養士の指導を受けて下さい(食事療法)。一つ、運動として1日50分程度のウオーキングを実施して下さい(運動療法)。軽い脂肪肝がエコーで見られますが、膵臓・腎臓には異常なく、脂肪肝は運動すれば改善されるでしょうと。一つ、糖尿病性の網膜症の有無を確認するため、眼科を受診して下さい。同期の先生を紹介しますと。私からは両足の痺れを訴えたが、これと服薬の変更は結果を見てからにしましょうということになった。食事と運動については前述した。
二、眼科専門医への受診
紹介された眼科医は大変評判の先生らしく、夏休み中は学童・生徒が多いので、9月に入ってから受診したらとのアドバイス、手術のない日の午前は混むとのことで午後一番に出かけた。それでももう10人ばかりが待っていた。医師が2人に看護師が15人ばかり、中々繁盛のようだ。視力と眼底検査位なら協会でもと思っていたら、検査だけで午後4時頃になってしまった。どんな検査なのか検討もつかないが、途中での経過の説明では、糖尿病性の網膜症の心配はないが、もっと心配な症状がありますと脅かされ、何なのかと実に心配になる。医師に聞くと、もう一つの検査の結果をみてから話しますとか、たまたま見知った看護師がいたので何の検査かと聞くと、網膜の断層写真を撮るとか、左目の視野の一部が歪んで見えることと関係があるのではと思った。断層写真を見せて貰うと、網膜の一部が離れて隙間ができている。先生ではこのままだと網膜全体が剥離して失明する恐れがあると。視野の異常に気付いてすぐならば手術をしなくても薬で治療できたのだが、この段階では手術しか対処できないと。それもなるべく早い方がよいとのこと。病名は「硝子体黄斑牽引(攣縮)症候群」。黄斑部に残置されている膜は除去しなければならないとかで、最終的には金沢大学医学部附属病院で精密検査を受けて下さいとのことで、先生から大学の眼科の准教授宛の紹介状を頂いた。今日は月曜日、火曜は手術日なので、明後日の水曜日の11時までに受診して下さいとのアドバイスを頂いた。
三、大学病院へ
診察の受付は8時半と聞いていたので、8時に着くように出かけた。しかし着いてみるともう沢山の人が来ている。でも何故か一番前の長椅子は空いていて、後で分かったことだが、それは初診の人が順に座る場所だった。再診は座れない位大勢だったが、初診では一番乗りだった。8時30分の5分前に再診の方々の誘導が始まる。初診の方はそのままとのアナウンス、再診の人達は雪崩を打った様に移動する。5分経ち私を先頭に受付の窓口に誘導される。窓口でのいろいろな手続きを済ませて眼科外来へ出向く頃には再診の人達は既に診療科へ、眼科へ着くと廊下の長椅子にはびっしりの患者、百人じゃ済まない人数、後で聞いたのだが、外来の診療科で患者が最も多いのが眼科だとか、一番初めの検査のお呼びがかかるまでに1時間半かかった。初診とあって検査の数が多く、検査ごとに順番になるため、大変時間がかかる。昼過ぎには放免されるだろうと思っていたが、検査が終わって先生から話が聞けたのが午後3時、要は手術しないと現段階の不具合は解消されないとのこと、ならばと手術をすることに、リスクは5千分の1と言われた。入院するとなると更に、胸部X線写真、心電図、血液検査が追加された。全検査が終了して、先生から次週の木曜の昼に入院、金曜に手術と申し渡される。入院手続きについては、入院センターでの指示に従って下さいとのこと。ようやく先が見えてきた。という入院センターも混んでいた。提出書類の説明を受け、個室の希望を申し出、病院を出たのは午後4時近く、ほとんど1日仕事だった。家内は勤務を休んでほぼ丸1日付き合ってくれた。感謝々々。やっと病院を後にできた。
入院の前日に病院から電話があり、明日は午後1時半までに入院センターにお出で下さい、個室はBになりましたが宜しいですかとのこと、OKしておいた。さて、目ン玉の手術は生まれて初めてである。手術するのは左目だが、手術後は目の安静のため両目とも眼帯をして寝ていなくてはならないのではという不安があった。とするとテレビはあるものの見ることはできない。入院期間は10日前後だろうが、その間はせめて耳から音を入れなければと、そこで思い出したのがいつか前田さんが披露してくれた iPodである。彼に購入をお願いしたところ、今手持ちのものをお貸ししますという。聞けばアップルから新機種の「iPod touch」が今月発売とかで、いずれ購入予定だが、購入したらお譲りしましょうとも、なんとも有難い。当面は小生手持ちのCD30枚ばかりを取り込んで頂いた。従来の「iPod」は一旦パソコンにダウンロードしなければならなかったが、新機種はその必要がないらしい。とにかく前田さんの「iPod」を借りることで、万が一目が不自由でも耳が楽しめる方途がついた。
入院当日も家内付き、入院センターで手続きを済ませる。病室は西病棟9階の958号室、眼下には浅野川の鈴見橋周辺と鈴見台団地の町並み、目につくのは山側環状線の卯辰山トンネルの杜の里口、右手に医王山の黒瀑山、左手は遠く内灘の金沢医科大学、そして日本海も見える。病室の環境は中々良い。この日は明日の手術のことで、いろいろと手術のリスクのことを話されたが、それだけ聞いているととても恐ろしい手術のように思えてならないが、執刀医の先生からは既にリスクの頻度はお聞きしていたので、セカンドの先生のお話は万が一そんなことも起きる可能性もありますよということで私は受け止めていたのだが、家内は大変な手術と思ったらしく、私が簡単にサインしたのを随分と訝っていた。こうなりゃ俎板の上の鯉だ。食事は病室でなくダイニングスペースにした。大変便利になっていて、昔の面影は全くない。食事の量は多く、2000kcalとか、小生には多い。以降1700kcalにしてもらう。日が暮れると夜景がまた素晴らしい。この夜景はブランデーやワインにピッタリと思うが、だったら病院ではないでしょうと担当の看護師に言われた。さもありなん。
四、生まれて初めての眼の手術
手術当日、今日は6人いて、私は4人目、午後の最初とかで、午前10時頃から何度も瞳孔散大の目薬を滴下される。視野がボヤけて見にくい。午後1時過ぎ、声がかかり手術室がある4階へ、車椅子に乗らずに歩いて手術室へ、ここで病棟看護師から身柄を手術室の担当看護師に渡される。いよいよである。青い椅子に座らされる。椅子がグウーッと倒れ、スタンバイ。右目に大きな絆創膏が張られる。消毒薬が入らないようにとか。顔全体にも布が被せられ、初めに眼の洗浄、滲みて痛い。次いで生食?での洗浄、2度繰り返される。そして局所麻酔薬が点眼され、手術が始まった。初めに白内障の手術、水晶体にメスが入り、液が吸引され、ゼリーのような柔らかいレンズが挿入され、閉じられてお終い。ものの10分ばかりか。次いで本番、眼球の白身の部分を吸引洗浄している感じ、後どんな処置がなされたのか分からないが、例の黄斑前膜を取り去り、牽引されてブヨブヨになっている網膜を落ち着かせ、洗浄して、人工の白身の硝子体を注入して手術は終わったようだ。痛みは全くなく、手術も順調とのこと、無事に終わった。眼帯も左目のみ、有難い。所要時間は1時間少々、病室には家内と三男がいて無事を喜び合う。右目は見えているので、食事はやはりダイニングコーナーで頂くことに。後は経過が順調なことを祈るのみ。
入院中の日課は、1日1回の執刀医の診察、朝夕2回の抗菌剤の点滴、1日3回食事前の耳朶血での血糖値の測定、1日2回、朝夕の検温と血圧測定、1日4回、朝、昼、夕、就寝前の4種類の眼薬の点眼、それと3度の食事以外はフリーである。テレビも見、新聞や雑誌を読み、iPodを聴いていると全然退屈しない。興味があったのはiPodに入っていた落語全集のうち桂米朝の57番ある古典上方落語、米朝の芸の奥深さ、幅広さ、その博学多識には舌を巻いた。ただ落ちは直ぐには分からないものもあり、暫くしてからああそうかというのもあった次第。短いので15分ばかり、長いのは1時間超、大概は30分前後、かなり聞き応えがあった。眼帯は4日でとれた。白内障の手術もしたので、左目は右目より明るい。ただ、視力は当然回復してなくて、半年乃至1年の経過を見なくてはということであった。先生は日曜も祭日も診察におい出るのには頭が下がった。看護師は1日3交代で前後45分は引き継ぎとかで、入れ替わり立ち代わり、中には静脈穿刺に手こずる方も何人かいた。経過は順調とかで、8日目には退院の運びとなった。まだ左目は充血で真っ赤だが、網膜の浮きが治まれば、視力も少しは回復するとかで期待が持てる。こうして心配した目の手術は今のところ不具合もなく、順調に回復に向かっているようだ。乞うご期待。
秋の探蕎行、山形路の初日(10.11)
一、想耕庵と斎藤茂吉記念館(上山市)
今回の山形への探蕎行は12名の参加、いつも参加される常連の方数名が都合で不参加とのこと、しかし定員30名ばかりのマイクロバスでの旅行とあって余裕たっぷりである。さて初日のそば屋の想耕庵というのは私のそば屋リストには載っていない。今回の探蕎行で寄るそば処は世話人の久保さんの選定だが、バスの中での説明では、最新号の「男の隠れ家」にこのそば屋が載っていたのでとのことだった。場所は上山(かみのやま)市金瓶(かなかめ)にあり、そこは斎藤茂吉の生誕の地でもある。この選定には斎藤茂吉に心酔している久保夫人の影響が多分にあったに違いない。今回の出発集合の場所は、これまでの西金沢から、今回のバス行で運転の労をとって下さる和泉さんの白山市番匠にある会社の敷地に変更になった。出発は朝の5時半、天気は上々、一路山形へ向かう。山並みがきれいだ。バスの中では、想耕庵が紹介されている雑誌が回覧された。グラビア写真では自然がたっぷりの、でも明るい感じの瀟洒な蕎麦やとの印象を受ける。出されるそばは「板そば」のみと、でも「あらき」の板そばとは雰囲気が異なっている。
正午過ぎに想耕庵に着いた。車道から少し入ったところの一見バラック風の建物の壁に「想」「耕」「庵」の3文字が、辺りは一面秋草が茂り、離村した家宅の風情、あのグラビアでは洗練された印象を受けたのに、一寸驚く。右手を辿ると斎藤茂吉の生家へとの案内が出ているが、その径も草深い。古びた田舎風の木構えの門をくぐると、そこが想耕庵、上がって畳敷きの広間の座卓に向かい合って3人ずつ座る。蕎麦前は地元山形の男山の生酒、亭主推奨の軽い感じの飲みやすい酒だ。お供には自家栽培という新鮮な野菜の数々、揚げもあり、そして旬の芋煮も、板そばの前に満腹になるのではと要らぬ心配も。程なく板そばが来た。「あらき」のこともあり、どうなることかと心配していたが、この量なら何とかいけそうだ。田舎の太打ちではなく、見たところ二八の中打ち、食べるのにも余り抵抗がない。板そばというスタイル以外、取り立ててこれといった特徴はない。此処はまだ開いて2年半とか。奥への階段を5段ばかり上がると、突然広い空間が、後で主人に聞くと、そこは龍王温泉荘とか、想耕庵はその奥座敷なのだそうである。温泉荘の入り口は当然別にある。此処は草深さを武器に、もっと粋な工夫をすれば、この庵の魅力もうんと増すだろうに。 1時間ほど滞在して、近くにある斎藤茂吉記念館へ。小生残念なことに歌の心得がなく実に無粋、斎藤茂吉がアララギ派の歌人で精神科医、文化勲章を受賞されたという程度しか知識がなく、ましてや茂吉が詠んだ膨大な歌の一首たりとて知らない始末、せめてパンフレットに載せてある6首でも心して覚えねばと思う。いつか山岳部の同窓会で風雨の蔵王に登り、熊野岳で斎藤茂吉の歌碑に出くわしたが、どんな歌が刻んであったのだろうか、教えて頂きたいものだ。それにしてもJRに斎藤茂吉記念館前駅というのがあるとは驚いた。この後は生家には寄らず、今宵の宿の銀山温泉へ向かった。
二、銀山温泉・古山閣(尾花沢市銀山温泉)
上山から山形、天童、東根と北上し、尾花沢へ、感じでは最上川を上から下がって中へ、更に東進して銀山温泉に至る。ここはもう宮城との県境に近い。写真で見慣れた狭い川筋の両岸にせめぎあって建つ宿が並ぶ。温泉街?の入り口に近く、立派な屋根付き駐車場にバスを寄せる。泊まりの宿と案内されたのはなんと隣接する蔵だった。事務局からの案内では、今宵の泊まりは古山閣の離れとあり、別棟との予想はついていたが、まさか蔵とは。三部屋のみ、階下に一部屋、階上(入口の階)に二部屋設えてあるが、正に蔵そのもの、寝所のみ、食と湯は歩いて2〜3分の本館へ、天候が悪いと大変だ。ということもあって冬は閉鎖の由、本館への坂の登り下りも大変だ。しかしこの風情は中々良い。来る前に会の顧問の松原さんにお会いしたら、ぜひ行きたい温泉の一つだと仰っていた。別宅の蔵屋敷を出て急な坂を下り、白銀橋を右岸へ渡り少々上流へ歩くと、古山閣の本館に着く。古い構え、外の二階部分には何やら絵が、対岸には真新しい普請の宿も並ぶ。洪水に襲われたからとか。しかしこのように鄙びた中にも新しい雰囲気が多く感じ取られるようになると、おしんの時代を回顧するものはもう無いに等しい。そぞろ歩いている客の様子も正に現代だ。
温泉の湯はかけ流し、泉源は70度ばかり、泉質は含硫黄・ナトリウム・カルシウム・塩化物温泉、仄かに硫黄の匂いがする無色の湯、肌にも優しく、体が休まる感じがよい。夕食は朱塗りの御殿御膳、女将さんも挨拶に見える。今晩は尾花沢が発祥の地の花笠音頭が数ある橋の上で披露されるとか、ぜひご覧をと勧められる。また宴の合いに、毎年の菓子博覧会に金賞とか名誉大賞とか栄誉賞を受賞している銀山名物の銘菓「亀まんぢう」をぜひと仲居さんに勧められ、今晩注文の明朝渡しとかで、皆さんかなりの数を注文される。私もつられて一箱衝動買いしてしまった。聞けば、隣が製造元とか。宴が退けて表へ。見物客でごった返している。抽選会もあるようだ。窓から覗いて見ている客もいるが、大方の人は川縁や橋の上にいる。踊り手の皆さんは若い。いわゆる花笠音頭の衣装、赤が基調で裾を端折って甲斐甲斐しい。輪踊りには観客も混じって、中々の賑わいだ。そうこうするうちに、5人の踊り子が演技する橋への移動で、丁度かぶりつきの場所に陣取ることに、リーダーと思しき若い女性とは指呼の間、ハヤシの合いの手を入れると、中々よい声だと褒められた。そして済んだ後に感謝の握手、楽しい一時だった。次いで抽選、1番違いでの外れが当会から3人ばかり、でも1人が見事に当たり、天然茸をゲットした。こうして夜は更けた。
明朝は宿の人に教えられて階下から重い木戸を開けて直に外へ、川を渡り本館の風呂へ、誰も居らずのんびり浸かる。外へ出て、下駄のまま川の上手へ、ものの数分で温泉の外れに着いてしまう。奥の左手に二条の滝が、高さは10米ばかりだが、水量もあり中々見応えがある。滝の上手には散策路があるようだ。滝からの帰り、土産物屋の前で小塩さんに出会う。取材を兼ねての散策とみた。朝の銀山温泉界隈も中々絵になる場所だ。明るくなって段々と人の出も多くなってきた。近くで温泉卵を取り出しているのに出くわした。ここの源泉の温度は温泉卵を作るのに丁度適温とか、朝食にも出たが、少し灰色にくすんでいた。今日2日目は米沢市までの南下、お目当ての蕎酔庵へ11時着とかで、出発は8時の予定、かねて予定していた紅花資料館の方は時間的に無理なので割愛するとのこと、二兎は追えない。蔵屋敷を後にする際、最も重厚な蔵らしさが見られるという女性がお泊りの部屋を見せて貰う。棟も梁も太い欅、中でも梁は圧巻だ。こんな経験は中々得がたい。
秋の探蕎行、山形路の二日目と会津路(10.17)
三、蕎酔庵と酒造資料館「東光の酒蔵」(米沢市)
銀山温泉を出たのが8時半、一路米沢へひたすら南下する。一部米沢南陽高速道を利用して米沢には11時過ぎに着いた。 蕎酔庵には前に一度訪れたが、十割も外一も売り切れ寸前で、残りを頭数に等分してもらって食べた記憶がある。3年前のことである。この度東北への探蕎行で一番先に行きたい候補に挙がったのが、蕎酔庵だった。だから今度はしっかり十割と外一を頂こうと、開店の11時に入れるようにと企画した久保さんが腐心した次第。場所は米沢市の外れで、稲田の向こうに上杉家の御廟所や上杉神社の杜が遥かに見えた記憶がある。街中へ入ってからは人間ナビの久保さんも道筋を攻めあぐねている感じ、でも旧山形工専が見えてからは順調に進めた。着は11時20分だった。
店の前には乗用車が既に2台、でもまだ十分余裕がある。入ると今井さん夫妻が笑顔で迎えてくれたのには感激した。たった二度目なのに、実に嬉しい。部屋は明るく、3年前と同じ感じ、3卓に分かれて座る。蕎麦前は「米鶴雪の精」と「東光本生」、お供は鰊煮を半分ずつ、久保夫人の采配、ゆったりと時間が過ぎる。お運びの若い娘さんは、何か尋ねるとその度に聞いてきますと小走りに尋ねに行く。その仕草が可愛い。ややあって、初めに外一、丸い白い孔あきの磁器の皿に細打ちのそばが程よい量盛られて出てくる。一度に四人前ずつ、私は蕎麦前の手前、3巡目にしていただく。しっかりとした打ち、でも細打ちなので喉越しは実に好い。そのまま、つゆのみ、ねぎつゆと三度に分けて賞味すると楽しみも三倍になる。空の皿には一句が、「十一そば すする響に つばきのみ」、隣はと見ると別の違った句が、娘さんに聞いてもらったところ、句は主人の作、でも書は別の方とか、何句ぐらいあるのか、私と同じ句があるところをみると、厖大な数ではないらしい。名刺の句は、「米沢の 庵の酒と 蕎麦に酔う」だった。中休みに再び「雪の精」。次いで十割の細打ち、これはそのままと塩と葱と山葵とをこの順に賞味する。つゆは濃厚なほうだ。山葵を全部入れて、そば湯をたっぷりと、お酒の後には実に程よく爽やか。酒の酔いが拭われる感じだ。今井さんは玄蕎麦にこだわり、かつ打ちも丁寧なのは、師匠の一茶庵友蕎子の教えを忠実に守っているからか、部屋には師匠のそば打ち心得の書が飾られていた。
1時間ほど滞在したが、もう後は宿へ行くのみ、まだ午後1時前、時間を持て余し考えあぐねて主人の今井さんに相談すると、蕎酔庵で飲んだお酒の東光の古い酒蔵を復元した酒造資料館をご覧になったらとのこと、そうすることにする。次に尋ねるところが決まって安堵したのか、蕎酔庵での集合写真を撮るのを失念してしまった。ミゾソバが咲き誇っている。3年前もそうだった。
次に尋ねる東光の酒造資料館の場所は米沢の中心部の大町2丁目、蕎酔庵の東方にあたる。すぐ近くには現在の東光の醸造元の小嶋聡本店もある。資料館は昭和59年に開館、敷地1,200坪、建物600坪、中でも1棟140坪の仕込蔵は東北一だそうである。創業は慶長2年、上杉藩の御用酒屋として四百年の歴史がある。初めなぜ有料なのかと思ったが、案内のお嬢さんの説明を聞きながら見学していると、よくぞこれだけの資料を収集し保存したものだと感心した。これまでも酒蔵を沢山見せてもらったが、これほどの規模のものは少ないのでは。附属して上杉鷹山公資料室がある。鷹山とは米沢藩の十代藩主上杉治憲の晩年の号、17歳で藩主になった頃の藩は存亡危機の状態、先ず質素倹約を自ら率先して実践し、藩政改革に努め、財政改革を行い、経済再建を目標に積極的な殖産興業政策を実施し、新田の開発などの新産業の開発に力を入れ、一方で学問や武術の奨励をし、藩政を立て直した名君として誉れが高い。あの有名な「なせば成る なさねばならぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」は、鷹山公が隠退に際して実子の顕孝に贈った歌という。
四、小野川温泉・やな」川屋旅館(米沢市小野川町)
小野川温泉は米沢市中心部からは南西の郊外に位置していて、鬼面(おもの)川の上流の大樽川に沿って14軒の温泉旅館がある。この川のもっと上流には何度か訪れた白布温泉がある。小野川の小野の由来は小野小町に由来するとか、うたい文句には「小野小町が発見した美人の湯」とある。千二百年の歴史だ。そしてこの温泉宿にはそれぞれに愛称があり、今宵の宿のやな川屋旅館は「斧川(ふせん)の湯」となっていた。
宿には午後2時半に着いてしまった。まだ陽が高く、私以外は荷を解くと、温泉街へ散策に出たり、レンタサイクルで遠出したりと出払われる。私はのんびりと最上階にある露天風呂へ、既に3人の先客、年寄り仲間で茨城からとのこと、なんとなく東北のどこかの温泉へ行こうと出かけた由、とあるコンビニで聞いたらこの宿と云われて来たとか。しかしこの仲良し3人組、3人でビール中瓶1本で出来上がってしまうと仰る。なんとも楽しい面々であった。ここからは小野川の温泉街を居ながらにして眺められる。駄弁っていて半刻が過ぎてしまった。泉質は銀山温泉と同じだが、プラス含ラジウムとある。日本でも有数のラジウム泉とか、源泉の温度は80度と高い。お湯はかけ流しだが、加水してある分、銀山温泉よりは透明度が高いような感じがする。
夕食は中々豪華、立派な米沢牛の霜降り肉のしゃぶしゃぶ、名物の鯉の甘煮やラジウム玉子などなど、大概は全部平らげるのに、さすが食べきれずに残してしまった。お酒は地酒の燗酒のほか、ビールあり、冷酒あり、焼酎ありの宴会で盛り上がった。ただ仲居さん?たちの格好が着物姿でないのが気になった。また箸袋の裏に小野川音頭が書いてあったのでどんな唄と聞いても誰も応えてくれず、こればかりは木賃宿並みで残念だった。
五、喜多方「蔵の里」(喜多方市)と桐屋・夢見亭(会津若松市)
翌日は予報どおり雨になった。でも傘を出そうか出すまいかという程度の雨、屋上の露天風呂でもそう気にならない。朝の食事は7時半、朝食にしては品数が多い。出立は予定で8時、国道経由で喜多方市へ出るとか、途中で油を仕入れようと思ったが、この時間帯、道の駅はどこも9時開店とかで開いていない。そうこうする内に喜多方市の目的の場所に着いてしまった。駐車場は市の肝いりの「蔵の里」「プラザ」「美術館」に囲まれた広大な敷地、目的の「蔵の里」は平常は有料なのに今日は無料とか、仔細はともかく、小雨の中隣接する旧東海林家酒造蔵と肝煎屋敷旧手代木家住宅の区画へ。酒蔵は大正後期の造り、1階は日本の社会教育運動の先駆者蓮沼門三の資料が展示してあり、入った正面には翁が九十歳正月に墨した「愛」と「汗」の素晴らしい楷書の揮毫、伸び伸びとして惚れ惚れとする字体である。意味は蔵を出たときに目についた愛汗の碑に刻んであった。曰く、「愛なき人生は暗黒なり 汗なき社会は堕落なり」と。2階は喜多方市の自然・文化の資料館の装い。出て隣の肝煎屋敷へ、江戸後期の豪壮な曲り屋、県の重要文化財、実によく保存されている。囲炉裏には火も焚かれていて、こんな情景は他にはない。ゆっくり見ていたので、別の区画の蔵群へ移ろうとしたら、時間ですよと言われてしまって断念した。
喜多方市から南下し、この探蕎行最後の目的そば屋、白虎隊ゆかりの会津若松市にある桐屋夢見亭へ向かう。主宰する唐橋宏さんはあまりにも有名、二度も訪れたことのある山都町宮古の出、作家・村松友視の小説「夢見そば」で一躍有名になった。一度は訪れたいと願っていただけに、これは企画して頂いた久保さんに感謝しなければ。店の建物は奥会津只見から移築した旧三瓶家の曲り家、高い天井と太い梁、豪雪に耐えた家は貫禄十分である。暖簾をくぐって入ると広い板の間、贅沢な寛ぎの空間、注文は50食限定の「飯豊権現そば」、蕎麦前はこの地限定という蕎麦の酒「蕎」、お供は朝鮮髭人参の天ぷら」、自家菜園の「野菜天」と「芋煮」。会長の病気平癒に朝鮮人参をと言う人が、心優しい人だ。それにしても「蕎」は失敗だった。梅酒や杏酒の類で、甘くて参った。そして権現そばのご入来、そばは一番粉の生粉打ち、更科そば。粗挽き風なそばを期待していたのだが、余りの上品さに肩透かしを食ってしまった。これでもっと細ければもう完璧な「御殿そば」だ。わずかに自家菜園の野菜の朝漬けと生山葵が僅かな郷愁、この場所ではもっと荒々しいそばが似つかわしいのではと思う。でもそばの出来は上々、腰もあり、喉越しもよく、見た目に透明感もあり、蕎麦の花を連想する白さ、中々魅力のあるそばだ。
かくして待望していた山形と会津への探蕎の旅は終焉した。運転を司って頂いた和泉さんの尽力なくしては、この旅も成り立たなかったこと、深謝したい。
そば処敬蔵の蕎麦会席(10.23)
九月初旬に敬蔵から蕎麦会席を始めましたとの案内を頂いた。近くに居ながら、また遠くとも縁者であるのに、近頃はとんと足を向けていないとての督促だったのかも知れない。開店当初は心配なこともあって足繁く家内と通ったが、今では少なくとも「そば」に関しては自他共に認められるくらい立派なものになって、付け入る余地はない。生粉打ちに徹していて、粗挽きにしても名立たる店のものと遜色はないくらいの出来となった。太打ちのおろしと細打ちの盛りや鴨汁(鴨せいろ)は私の最もの好みだが、中々の逸品揃いである。
ところでそうなると、蕎麦前のお供の充実と蕎麦会席が欲しくなる。蕎麦前のお供は、小生の場合は旬菜盛り合わせと鴨ロース、家内は漬物盛り合わせとにしん煮と相場が決まっていて、これで蕎麦前は小生は夏なら冷酒、冬なら燗酒を2合、家内は生中を2杯。そばは小生は太おろしと細鴨汁、家内は細盛り、更に小生は鴨汁でもう1合、家内は締めにアイスクリームとなってお終いとなる。
敬蔵には開店時から「そばづくし」というコースがあって、鴨ロース、にしん煮、旬菜盛合せ、そばがゆ、そば豆腐、もり・おろし、氷菓の内容のミニチュア版がある。またそばを頼んでいても、千円出せば上記そばづくしの「ぬき」を頂くことも可能である。しかしミニ版はあくまでもミニ版であって、今一つ物足りない。私はかねがね蕎麦前をゆっくり味わうにはお任せの会席があったらと思っていたが、それが漸く実現されることになった。これまでも人数を限って特定の人を対象に年に何回か催したことはあるが、恒常的に営業するのはこれが初めてである。九月の蕎麦会席「長月の膳」の内容は、「旬菜盛合せ」「そばがき」「そばの実と地物野菜の涼風寄せ」「変りそば豆腐の蒸しもの」「カモロースたたき風季節野菜ソテー添え」「変りそば」「盛りそば」「季節のデザート」の8品で、お一人様3950円とある。ただしこれは夜のみで、昼はご相談下さいと、そして前々日までの要予約、1日2組限り(2~20名様)と案内にあった。ところで九月は眼の手術のほかにも沢山のやぼ用事があって、つい行きそびれてしまった。また独りよりは家内と一緒にと思うと、彼女の日程もかなり厳しく、行こうと思った日が第3日曜日だったりして、行けたのは十月二十日になってからだった。近くだから歩いて行って、家内もお酒をと思っていたところ、生憎の土砂降り、車で行かざるを得なくなった。店に入ると、元喫煙席だった堀炬燵式テーブルのある室のみが空けてあり、九月以降は全席禁煙にしたとの由、大変好いことだ。夜は特別でない限り、二人掛け2組、四人掛け1組の、同時8人を対象とするようだ。奥の二人掛けに落着く。この席は敬蔵の奥さんの両親が毎日曜の昼においでる時に座る指定席でもある。
十月は「神無月の膳」、大きめの信楽の茶碗にたっぷりのそば茶、飲み物は小生黒帯の燗酒、家内はノンアルコールビールの小瓶にする。黒塗りのお盆に、信楽の畳んだ箸置きと竹の丸箸、竹は外国産だろうか、色が内地の孟宗竹や真竹の色でなくくすんだ灰褐色、よかったらお持ち帰り下さいと仰る。初めに「旬菜の盛合わせ」、扇型の皿に猪口が3つと手前左端に茗荷の甘酢漬、右端にドライトマト、左の猪口には花オクラと大和芋の酢の物、中の猪口には極小の白山なめことそば米のピリ辛あえ、右の猪口には冬瓜のあんかけの五品、この盛合わせは以前は野暮くさかったが、段々良くなってきた感じがする。次いで「平打ちそばのトマトパスタ」、信楽の中鉢に温かい平打ちそばに白海老とズッキーニが混ざり、これにトマトソースを絡めてある。京都の「もうやん」を想う代物だった。これは平打ちでないと駄目でしたとは主人の弁。次は「変りそば豆腐」、何が変りなのかは不明だが、胡麻豆腐でなく蕎麦豆腐、あしらいにオクラの輪切りと黄金たもぎ茸の薄味煮、熱で茸の黄金色は失せているが、好い味、珍しい。次いで「皿盛鴨南サラダ仕立て」、長方形の平皿の左手にレタスを敷き、そこに一番粉とポテトと牛乳で練り上げた白い餅に似た一品を置き、真ん中に鴨ロース南蛮味付けの薄切りを5枚、右手にたれが付いた焼き葱、そして飾りに赤ピーマンと薬味に山葵。私としてはすっきりと鴨ロースと焼き葱のみの方が好きだし、凝った練り物は好き嫌いがありそうだ。次に「そばがきときのこの小鍋」、田舎そばのそばがきを清汁に浸し、原木なめこと天然舞茸をあしらってある。本番のそばの直前にそばの練り物とそばがき、量は少ないとはいえ立て続けだけに、小腹の人には少々負担なのではと思う。本番に入っての「変りそば」は「鮎そば」、細打ちそばの「かけ」に、主人自ら手取川で釣った小振りな鮎の甘露煮と酢橘を載せた一品、温かいうちに戴く。量は通常の半分弱、温かいと喉越しも良い。そして「盛りそば」、細打ちのそばにはきれいな星が、これだけ細くてきれいにつながっていると、見た目に実に清々しい。薄く小口切りにした葱と鮮やかな緑色の辛味大根のおろしが付いている。それぞれをそばに付けて楽しむ。汁はやや濃い方だ。濃い蕎麦湯がきて、汁に入れ飲み干す。ここまできてお腹がそこそこ膨れていることに気付く。後はデザートのみ。木村さんはいつも食べられませんがどうしますかと。今日は戴きますと答える。最後は「地物いちじくのアイスクリームと戸隠産ブルーベリーのスティックケーキ」、無花果は押水産だろうか。中々イケる代物、一口含んだところで、家内にさらわれた。あっさりしていて後口がよい。そしてケーキ、甘味が抑えられていて、ウイスキーやブランデーとは相性が良さそうだ。これもカミさんに一口食べた後、横取りされた。奥さんが戸隠へ行った折に求めたブルーベリーを散らした手作りのケーキと聞いた。
これでざっと1時間ばかり、敬蔵初の蕎麦会席でほぼ満腹となった。欲を言えば、これほど満腹にならなくてもと思ったりする。各人それぞれお腹の容量に差はあるものの、やはり腹八分目がよいし、盛りにしてもシンプルさがあってこそ深みが出るのではと想う。敬蔵も蕎麦会席を始めたばかり、今はまだ試行錯誤の段階なのでは、これからの進化を期待しよう。献立は毎月変るとのこと、月毎に楽しみたい。
高橋川を歩く(11.5)
高橋川は地元の人でないと知らないかも知れない。今でこそ二級河川で上流に市街地が広がったので、川幅もぐっと広がり大きな川という印象が強くなったが、以前は高々幅二間程度の川だった。この川は大体南から北に流れていて、今はその東側が金沢市、西側が野々市町といった風で、境界の出入りはあるものの、ほぼ金沢市と野々市町の境となっている。そして北の金沢市横川と野々市町押野から金沢市大額と野々市町新庄にかけての3キロはほぼ直線となっていて、これは人工の産物らしいことが伺われる。この高橋川は掘った川だと小さいときに聞いたことがある。昔は野々市町の東に広がる田んぼを「東田んぼ」といっていたが、この一帯と西側に広がる「西たんぼ」は、当時の地主が石川県で最初に大規模な耕地整理をしたことで知られている。この区画には富樫の遺跡もあったそうだが、ともかく平坦だったからこそ出来たと思われるが、一枚南北十間、東西二十五間、面積二百五十歩の田が規則正しく造成された。そして、用水路と排水路とを南北に交互に配置した。耕地整理前の田の形状は様々だったろうし、高橋川も真っ直ぐではなかったのではないか。思うにこの田の整理の時に合わせて造り直したのではなかろうか。直線部分の北の端から下流は、川は蛇行して川本来の姿を見せているし、上流の南の端も同様である。
この高橋川には、以前大きな堰が直線部の北の端にあり、川が堰き止められていて泳ぐには格好の場ともなっていて、旧野々市町と旧押野村の子供達の交流の場となっていた。私らは「丸木のせぎ」と云っていたが、たまたま野々市と押野の境にあったため、縄張り意識が薄らいでいたためだ。当時は縄張り内に断りなく入ることは危険だった時代である。その上流1キロの所にも中位の「御所のせぎ」があって、ここも格好の泳ぎ場だった。小さな時はここで泳ぎを覚えさせられ、あるレベルになって初めて「丸木」へ出かけることがOKになった。初めは荒っぽく橋の上から川へ突き落とされて、無理やり泳ぎを覚えさせられたものだ。ここは野々市の地内だったので、他の村の連中が来ることは一切なかった。あの頃は水もきれいで、部落のあるところ以外はすべて水田だった時代のことである。両岸の堤防はススキやヨシで茫々としていて、柳が所々に生えていた。
高橋川の野々市寄りの田んぼは乾田なのに対し、金沢よりの田んぼは湿田だった。乾田の方は掘ると砂利層があるのに対し、湿田の方は粘土層と、土質に違いがあった。したがって地価にも大きな差があり、後年金沢工業大学がキャンパスとしたのは、元は湿田の川向こうの田んぼだった。川向こうはきれいな水を求めようとすると、80米以上掘らないと駄目で、それより浅いと鉄分を含んだまっ茶色の水しか得られず、その点野々市は手取の伏流水の恩恵から浅井戸で十分だったので、井戸のない家はなかった。昔は弘法大師様のお陰と言ったものだ。ところで今は二級河川として石川県が管理していて、川幅も以前の3倍位に拡幅されたが、これはおそらく田んぼが住宅地に変貌したのに備えての洪水対策のためと思われる。拡幅当時は側壁をコンクリートで固めた河川形態で殺風景この上なかったが、ある年急に中州を造成しだした。魚が住まない川との汚名を返上するとかで、高橋川ばかりでなく、他の河川でも行われたようだ。中州の葦などはまだしも、柳となると大木になったらどうするのだろうと心配になる。改修前は魚が沢山いたが、改修で全くいなくなったが、今はどうなのだろうか。ただ釣り糸を垂れている人は見たことがない。また昔はあまり見かけた記憶はないが、とにかく今はカルガモだけは沢山居て、特に下流域では多い。冬にはカモメもさか上ってくる。また改修前には沢山いたオオヨシキリもいなくなったが、葦原が復活してきて、少数ながら飛来するようになった。
高橋川が県の管理となって、直線部分はもちろん、もっと下流の伏見川との合流点にかけても両岸には遊歩道が設けられ、ウオーキングやジョギングの格好の場所となっている。所々には園地も設けられ、小さなものからかなり広い○○公園と称するものまでが散在する。ただ街灯はほとんど設置されていないので、暗い時間帯に利用するのは適当でない。しかし明るい時間帯、とりわけ天気のよい朝などは気持ちがよい。だからかなり沢山の人達が利用している。今の時期は日の出が6時過ぎ、私は勤務があるので6時前に家に帰らねばならないこともあって、この時期は利用しにくいが、日の長い時期ならば利用可能だ。
ある日曜日に、国道157号線の高橋川に架かる橋から上流(南)に向かって歩いて、高橋川という名称がなくなる所まで歩こうと思い立った。直線部分は約3キロ、川はそこで二本に分かれ細くなったので、その日はそこから引き返した。上流へは右岸を、下流へは左岸を利用した。改修前は川幅はそんなに広くはなかったが、田んぼの中を流れていたこともあって、部落と部落をつなぐ道にのみ橋が架けられていただけで、橋の数は極めて少なかった。ところが改修の端緒が田んぼの宅地化と道路の整備だったため、橋の数は飛躍的に増えた。初めて歩いてその多さに驚くと同時に、橋の名を記録しようと思い立ち、10月21日の日曜日に、高橋川の名が消える伏見川との合流点から、川に沿う道がなくなる上流の地点まで歩いてみることにした。そして川に架かっている橋を記録し、あれば注を付けた。歩いた岸の距離は凡そ6キロである。
国道157号線の伏見橋交差点から伏見川の右岸に出、高橋川との合流点に至る。実に沢山のカルガモの群れ、餌が多いせいだろうか。シラサギやゴイサギ、カラスも混じっている。この合流点に架かっているのが(1)米泉小学校橋である。学校は左岸にあり元は此処に石川県工業試験場があった。左岸を行くと(2)道番橋、古い橋で道番の部落から米泉の部落へ通ずる道の橋で、此処でしか川を渡ることはできなかった。昔は金石から川舟で此処まで物資を運んで来ていて、道番の船着場には目印の大欅があったが、今はない。先祖は石灰の商いもしていたが、農協組織ができて急速に衰退した。左岸の階段を上ると、新しくできた県道194号宮永横川町線が跨ぐ(3)米泉大橋に出る。この道は北陸線の跨線端ができてからというもの、交通量が飛躍的に多くなった。この橋は斜めに架けられていて、そのすぐ上には旧北国街道からこの県道へ迂回して出るために付けられた(4)日吉端がある。金沢から野々市へはこの橋を通る必要はないが、伏見橋とこの橋の袂までは一方通行なので、野々市から金沢へは必ずこの橋を通らなくてはならない。その少し上には水道管が川を越していて、そのすぐ上に左岸一帯にできた住宅街へ渡る(5)米泉新橋ができた。ここで川は大きく左へ旋回する。この地点に旧押野丸木へ渡る旧北国街道時代からの古い橋である(6)宮塚橋が架かる。昔は此処から上へは堤防の道は全くなかったが、今は川幅もうんと広くなり、歩道も整備された。階段を上ると国道157号線に出る。旧国道8号線、北陸鉄道石川総線を跨いでいるため、坂になった橋となっている。橋の名は(7)高橋川橋といって、この橋は金沢市と野々市町の境となっている。左岸のこの地点で住吉川(火止川)が合流しているが、ここが昔水浴びした「丸木のせぎ」があった場所である。
この辺りから高橋川はほぼ直線的になる。右岸は金沢市横川、左岸は野々市町本町と金沢市横川で、入り組んでいる。以前は横川から久安へ抜ける道までは橋がなかったが、宅地造成で橋も多くなった。上流には正面に倉ヶ岳が見えている。遊歩道の脇にはハナゾノツクバネウツギが植え込まれ、咲き誇っている。中洲にはミゾソバが満開、上流に向かって順に(8)横川新橋、(9)こうめい橋、(10)舟橋と続く。両岸にはソメイヨシノの植樹、かなり大きくなっていて、桜の身頃には素晴らしい景観となることだろう。一部の中洲にはススキやヨシが繁茂しているし、別の箇所ではセイタカアワダチソウの黄色とコスモスの桃色が目立つ。そして古くからある(11)横川町橋、前は町の名がなくて、改修後に今の名になったのだろう。その上にある(12)御所橋は懐かしい橋だ。すぐ下流に低い高さの堰と魚道があるが、以前は堰止めれば高さ一間にはなった堰があった。ここからは両岸共に野々市町となり、桜もサトザクラに変わる。八重の桜だ。右岸は金沢工業大学と金沢工業高等専門学校の広大な敷地。左岸には親水公園が、平生でも水面と同じ高さまで切り込んだ面があって、水に親しめるようになっている。この公園の入口には野々市町の現代、過去、未来を象徴する若い3人の女性のブロンズ像「時の門」が立っている。作者は村井良樹とある。この公園は県道194号の窪野々市線に面していて、(13)荒川橋が川を跨ぐ。この道は古くから野々市と野々市新(現三馬)と窪を結ぶ道だ。橋を渡るとすぐ左手に金沢工大の正門がある。右岸の金沢工大の敷地が途切れる所に架かるのが(14)おおぎ橋で、野々市町に扇が丘が造成されたことに因む名だろう。
このおおぎ橋の上流で、下流から見て左手から城谷川が合流する。この川を上流へ辿ると、合流地点に番田(ばんでん)橋、その上に城谷川橋があり、それより上は川幅も狭くなり、橋はあるが名はない。いずれの橋も道通しで高橋川の橋に続いている。番田橋には(15)大湯(おおえ)橋、城谷川橋には(16)富樫大橋が対応し、後者は金沢市高尾と野々市を結ぶ幹線道路となっている。全線は未開通で、この部分も出来上がったばかりである。この辺りからは両岸とも金沢市、旧額村である。宅地造成が進み、住宅地が川を取り込んだ感がある。金沢市馬替地内には(17)馬替下橋、(18)馬替中橋、(19)馬替上橋と連なる。そしてその上には野々市町下林と金沢市高尾南とを結ぶ幹線道路が跨ぐ(20)額大橋が架かる。右岸には金沢市扇台小学校と広い児童公園があり、石川聡線の駅も額住宅前駅となっている。地内には下から(21)大新(だいしん)橋、(22)高橋一の橋、(23)京田(きょうでん)橋が、そしてその上は両岸とも大額地内となり、(24)大額大橋が架かっている。川はここから緩く右方向へ迂回し、この川筋では最もきらびやかな、欄干に金色の擬宝珠を取り付けた(25)大額稲荷橋が架かる。右岸の橋の袂には村社大額稲荷神社があるが、この社は旧大額の部落内にあったものを、区画整理でこの地に移したのではないかと思われ、神殿も社殿も真新しい。祭礼の幟を立てる台座も神社の対岸の左岸に設けられている。
この上手で川は二つに分かれる。上流に向かって左手が碇(いかり)川、右手が高橋川で、前者は真っ直ぐ南に延びているが、後者は緩く右方向に迂回し西に延びる。碇川を遡ると、県道を跨ぐ無名橋までに苗代橋と碇橋が、県道を過ぎると左手に先ず額中学校の敷地、次いで額小学校の敷地が現れ、二つの敷地の間の道が跨ぐ橋が河原橋で、これより上流は川幅も狭くなって用水のようになる。合流点に戻って高橋川を遡ると、(26)大額水車端、次いで県道189号額谷三浦線が跨ぐ(27)額乙丸大橋に出る。県道を越えた両岸は額乙丸地内となり、川は左へ右へと蛇行する。川幅は拡幅されていて、その工事は更に上流に向かって進行中である。地内の交流をよくするために橋が架けられていて、下流から順に(28)北浦橋、(29)もんのこし橋、(30)船止(せんと)橋と架かる。船止橋は石川聡線の額乙丸踏切に通じていて、そのすぐ北側に額乙丸駅がある。川には線路が跨いでいて、川沿いの道は線路を大きく迂回して再び続く。(31)乙丸鉄橋の上には(32)乙丸橋、(33)額中央橋、(34)三十刈橋が架かる。この辺りは右岸が金沢市三十刈地内、左岸は野々市町新庄地内で、現在川の拡幅が進められている。工事中の場所に(35)無名の橋が架かっているが、いずれ架け替えられて名称が付けられよう。左岸に新庄花の木台公園があり、その上に(36)宮之浦橋が架かっている。対岸の右岸に児童公園があり、程なく広い片側二車線で分離帯のある県道22号金沢小松線、通称加賀産業道路に出る。この道路は昨年四月に開通した金沢外環状道路山側幹線(山側環状)に接続している動脈路である。道路を通っていると橋の存在は分かりにくいが、袂には(37)殿田橋とある。橋の上は、右岸が金沢市四十万、左岸は野々市町新庄である。この辺りの高橋川は川幅は旧のままで広くはない。ただ県が管理している旨の表示が川ぶちにあり、両岸には道もある。いずれ将来拡幅されるとかである。現状では狭い堤防は開墾されて、野菜などが植えられている。右岸は初め住宅地だが、やがて家並みが切れて田となる。左岸も同様である。上に向かい、対岸に人のみ渡れる狭い橋、次いで自動車が通れる(38)無名橋、再び人一人が通れる橋、ここで川は直角に左に向きを変え東へ、そしてまた狭い橋、ここで北陸鉄道石川聡線の鉄橋を潜る。此処で川は右に向きを変え南へ、川はここから線路沿いに南へ延びているが、川沿いの道は線路の手前で途絶えてしまう。川幅も狭くなり、これから上の川を高橋川というのかどうかは不明である。線路を渡ることはできず、高橋川の遡行は此処で終了とした。この地点はほぼ野々市町の南端、石川聡線四十万駅の南方300米の地点、金沢市南四十万の南端でもある。此処は伏見川との合流点から上流へ約6キロの地点、ここで高橋川の旅を終える。
総立ちのホセ・カレーラス金沢公演(11.7)
2007年におけるホセ・カレーラスの日本公演は、東京(10.31)、金沢(11.3)、大阪(11.10)での3公演のみ、銘は「ホセ・カレーラス ベルエポック 日本ツアー」である。予約の案内が来たのが4月、S席は3万3千円、歌手一人での価格としては破格なのではと思いつつも、また著名なオーケストラを招いても、これだけの対価を支払うことは少ないのではと思いつつも、何故か無意識に予約してしまった。実は公演が済んでしまって気付いたことなのだが、彼のように、プラシド・ドミンゴやルチアーノ・パヴァロッティと共に、世界の三大テノールと言われる歌手の公演を聴く時は、B席やC席でも十分堪能できたのではなかろうかと。現に先ずスタンディング・コールをしたのは二階席や三階席の人達だったことからも、このことが裏付けられるような気がする。だから公演でプログラムをこなしている時など、曲後の聴衆の拍手に応えての手を振っての挨拶は主に二階・三階の聴衆に向けられていたような印象を受けた。ということは、石川県立音楽堂コンサートホールの音響効果は、二階・三階の方が、一階席のS席よりも優っていたのではと思ったりもする。でもコンサートが非常に素晴らしかったことに違いはなく、私にとってこれほど感動した独唱ステージはこれまで経験したことがない。本当か嘘か、ホセ・カレーラスは実は石川県立音楽堂の音響効果の素晴らしさを聞き及び、ぜひ一度試したいと言ったとか、まことしやかな嘘だろうとは思うが、しかし彼の声は音楽堂の隅々まで鳴り響いた。
彼が何故ベル・エポックの年代の作曲家の歌にこだわったのかは定かではないが、第一次世界大戦が終わった後のすさんだ時期に、フランスを中心とした「古き良き時代」を回顧する風潮が起きたとしても不思議ではなく、その波は周辺のヨーロッパ諸国にも波及したとされている。パンフレットの冒頭で、骨髄移植推進財団の正岡理事長が挨拶の中で、ホセ・カレーラス氏は音楽家としての活動をする一方で、自ら白血病を克服された経験もあって「ホセ・カレーラス国際白血病財団」を設立され、世界各地で白血病患者の支援活動を行っているとされ、この催しもこの両財団が後援している。彼がそのような下手すれば命取りともなりかねない病気を克服したとは全く知らなかったが、これは彼にとっては世界大戦に匹敵するものであったとすれば、過ぎ去りし美しき良き時代にこだわったのも、何かの因縁ではないかと想う。因みに彼の最近々リリースしたCDのタイトルも「ベル・エポック」となっている。
ベル・エポックとは辞書では18世紀末から19世紀初頭とある。アール・ヌーヴォの波もあり、自由闊達な時期でもあったようだ。彼はこの時期の作曲家の唄を150曲もレパートリーとして持っているとか、中々精力的である。彼が今回の公演で選んだ作曲家は、フランスのラヴェルとサティ、オーストリアのシュレーカーとツェムリンスキー、イタリアのトスティ、プッチーニ、レオンカヴァルロで、彼らが活躍したのはパリであり、ウイーンであり、ミラノ、ナポリだった。また彼はスペインのバルセロナ生まれなこともあって、当時のスペインの作曲家の唄も多い。作曲家としてはアルベニス以外には知らないが、二部後半の4曲の作曲家はモレーラ、リバス、ガルデル、ガスタルドンであった。ほかにはノルウエーのグリーグの曲が入っている。
11月3日の金沢公演のコンサートは、ホセ・カレーラスのテノール独唱、伴奏はピアノのロレンツォ・バヴァーイとイタリア弦楽四重奏団で、伴奏の人達は当然単独でも公演を行うほどその名はよく知られているメンバーである。このコンサートではカレーラスの独唱の合間にピアノ五重奏曲の形式で4曲披露している。
前半のプログラムでは、始めにシュレーカーの歌曲「菩提樹の咲く庭で」とツェムリンスキーの歌曲「碧き星」、詞の原語はいずれもドイツ語だが歌はスペイン語訳、そしてアルベニスの歌曲「君の声」、初めてカレーラスの声に接したが、声の質と量の凄さはこれまでと比類がないものだった。弱音はよく声が通り、強音では音楽堂を震撼させるほどの声量、これほどの歌い手は日本には居ない。当然マイクなしである。アルベニスの曲は聴いたことがあるが、他は初めて、でも歌に感動して全く退屈しなかった。正に驚嘆の一言。3曲歌った後、間奏はエルガーの「愛の挨拶」、お馴染みの曲だが、カレーラスの後では正に間奏だった。次いでフランス語のラヴェルの歌曲「花嫁の歌」とサティの歌曲の「君が欲しい」、フランス人が歌うのとは全く違った雰囲気だ。彼はカタロニア地方の出身、スペインではカタロニア語を公用語にという運動もあるとか、私には違いは分からないが、フランス語というよりは彼自身のカレーラス語で歌われているという雰囲気のように感じた。実に不思議で奇妙な印象だった。その後はピアノと弦楽合奏でトスティの歌曲の「最後の歌」、トスティの曲の中ではよく歌われる歌だ。前半の最後はトスティの歌曲の「開けておくれ」と「ひめごと」。それにグリーグの歌曲「君を愛す」、原詩はデンマーク語だが、訳はカタロニア語となっていた。よく歌われる歌だ。これで前半が終了、20分間の休憩。ホセ・カレーラスのCDを求める人、人、人で、売り場は大変な混雑、私は三大テノールのライブ版のCDを求めた。
後半は先ずプッチーニの歌曲「大地と海」と「そして小鳥は」、オペラの中のアリアならば聴いてもいようが、歌曲ともなると聴く機会は極端に少ない。それとレオンカヴァルロの歌曲の「ナポリのセレナード」、続く間奏に「ヴァルス・コケット」、そして次のスペイン歌曲の合間に演奏されたマスカーニの有名な「カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲」。この3人はミラノでのヴェルディによるグランドオペラ時代から新しいヴェリズモオペラの時代を築き上げた旗手達で、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」やレオンカヴァルロの「道化師」で先鞭がつけられ、続くプッチーニも「マノン・レスコ」や「トスカ」で成功を収めた。このような良き時代のイタリアの作曲家の歌曲を歌うときには気持ちの入れようが一入であることが伺われ、テンションが一段と高揚してくるのを感ずる。そしてスペイン歌曲、作曲家も歌う歌も聴いたことはないが、思いを詰めた歌が続いた。モレーラの「つばめ」、リバスの「君への愛ゆえに」、間奏曲を挟んでガルデルの「遥かなるわが故郷」、ガスタルトンの「禁じられた音楽」、水を得た魚のように、カレーラスは歌い上げた。突然嵐のような拍手、二階三階のサイド席の人達は立っての拍手、カレーラスはこれに応えるものだから、更に大きな拍手とヴラボーの怒号ともいえる歓声、二度三度とステージへ。これに応えての最初のアンコール曲はアディンセルの歌曲の「僕に寄り添う影」、演奏が始まると拍手も歓声もピタッと止んで聴き入る。知らない曲だが、心に染み渡ってくる感じがする。済むと再び拍手の嵐、前回より激しい。丁寧な挨拶をされるのが実に印象的だ。そして2曲目のアンコール曲はヴァレンテ作曲の「パッショーネ」、情熱的な素晴らしい歌い、またまた魅了される。スタンディングコールは一階席でも始まった。ヴラボーの声も激しさを増す。私にはこんな経験はない。とにかく歓声の坩堝と化した感がする。でも私はまだ拍手だけで席を立っていないが、前の席の年配の方と着物姿の若妻のカップルは女性が積極的に立って両手を振っているし、斜め前の娘と母親も娘に急かされての立っての拍手、まだ誰も席を離れていない。そして3曲目にはチェサリーンの歌曲の「夢見るフィレンツェ」、この曲のフィナーレがまた実に素晴らしく、とうとう私までも思わず立ってしまった。見ればもうほとんどの人が立っていて、正に総立ちの感となった。私もヴラボーと叫びたいが、今一勇気が出ない。相変わらずのヴラボーの嵐、二度三度とステージへ出て挨拶、挨拶の間合いが長くなり、もうこれでお終いかと帰り支度をする方もチラホラ出てきたところで、何とまた4度目のアンコール曲を歌われるような仕草、帰りかけた人も引き返してくる。曲はアガンポーラの歌曲の「冬」、スペインにも冬はあるのだ。情感がある。また大きな拍手、それに応えての二度三度の丁寧な丁寧な挨拶、もうこちらの方でこれ位でお終いにしてあげねばと思い、私も席を発つ。拍手はまだ鳴り響いているが、三分の一位はホールを後にしている。がその時、5曲目のアンコール曲が披露されるような様子、もう頭が下がる思いを抱いて席へ戻る。曲はレンディーネの歌曲「望郷」、初めての曲だが、聴衆の心を掴んだ憎らしいほどの選曲。5回ものアンコールの間、大きな花束、小さな花束、小物が手渡される。一つ一つ丁寧にもらわれているのを見ると、人柄が偲ばれ、この機会に巡り会えたことに感謝した。最後には楽屋への戸口のところで、ずっと立ち止まって手を振っておいでたが、こんな情景に接したことは今までにないことだ。涙が出るような思いだった。かくしてホセ・カレーラスがベル・エポックを歌い上げた金沢公演は終了した。余韻は今でもずっと心に残っている。
金沢大学山岳部、創部50年にして消滅(11.26)
私も所属していた金沢大学山岳部のOBで構成する旧山岳部OB会は、いつ頃からか金沢大学山岳会と称して毎年総会を実施している。現在会員は180名ばかり、地元の北陸のほかに関東、東海、関西に支部を持ち、順に幹事支部の主催で総会と親睦登山、それに有志によるゴルフコンペを実施している。今年は創部50周年の節目ということで、地元石川での開催となった。
ところで山岳会の役目として、最も大きなウエイトを占めていたのは遭難対策費の積立確保にあった。死者を出した遭難は昭和36年(1961)に初めて白山であったが、以後その捜索費用に資するために会費を徴収し、少しでも親族負担を軽減するよう計らうための基金とした。遭難当初は家族も何とか早く対応を、費用は惜しみませんとのことだが、長引くとその負担は莫大なものとなり、もう止めて下さいとなる。昭和36年当時だと、捜索はすべて人力、携わるのは大部分が消防関係と警察の方、消防団の方は職をなげうっての捜索活動なだけに、奉仕活動とはならない。4月の遭難だったが、その後の積雪で地上からは全く確認できず、雪解けを待っての発見となった。現在は2〜3千米の山での遭難の捜索は、当然天候には左右されるが、先ずヘリを飛ばしての捜索が先決となる。ところが当時はヘリが高い山へ飛ぶなど、乱気流のこともあり、とんでもないとの見識だったが、その常識を破って、5月に小松基地から自衛隊のヘリが、おそらく日本で初めて高い山へ飛んだ。地上からとは問題にならない位の広い視野が短時間で捜索可能になるので、実に有効な手段だ。またヘリは遭難直後に対応で きれば、救出にも大きな威力を発揮する。後日その 恩恵にも浴することになるのだが。またこの遭難を 契機に見直されることになったのが山岳保険で、掛け金も給付金も、危険度を加味したものとなり、また 一般にも普及するようになった。その点でこの遭難 はいろんな点での対応の貴重な先駆けとなった。
創部50周年ということで、今年は例年の行事である親睦登山は止めて、柱を物故者の追悼法要と金沢大学の角間キャンパスでの記念植樹ということになった。会には30名ばかりが集まった。宿泊は山中温泉ということもあって、法要は真言宗別格本山「医王寺」で行った。導師の住職は金沢大学の卒業生で、中には面識のある会員もいたほか、物故者にも知り合いがおいでるとかで、法要はしめやかな中にも和やかさをも併せもった素晴らしいものとなった。会長、部長、顧問をしていただいた先生方4人、旧部員会員13名、うち山で亡くなったのが9名、当時まだ若かった命を散らした。
翌日、金沢大学角間キャンパスで、出席者全員で記念植樹を行った。ここまでの段取りの苦労が大変だったろうし、また活着するのを見届けるまでの世話も大変だろうと思うが、会員の中にはその道の専門家もいて、とりあえず儀式は皆の手でつつがなく終了した。樹種は楠(クスノキ)だったが、私はむしろケヤキかメタセコイヤのように大きくなる樹木がよいのではと思ったが、大学から指定された植樹の場所には、これらの木はすでに植わっていて、この樹種の選定は考慮の上での判断だったことに気付いた。暖系の植物だけに北国では成長は遅いだろうが、長寿でもあり、しっかり根付いてほしいものだ。
会員の誰からともなく、金沢大学のホームページを覗いていたら、クラブ活動の紹介に山岳部の名称はないとのこと、ここ6年間は部員1人と承知していたし、去年と一昨年にはOBの有志が部員獲得に大学へ出向いて勧誘活動をしたこともあるが、規約ではクラブ組織というのは、2学部以上から3人以上の部員が在籍する必要があるとか、そうであれば公に認められた金沢大学山岳部は存在しないことになる。私が出身の薬学部では廃部になって久しいし、医学部でも消滅だとか。学部が廃止になり学群となると、それにもっと拍車がかかりそうだ。ハッチンダールキッシュ初登頂の偉業を成し遂げた伝統あるKUACも、もう遥かなる昔の語り草となった。
第3回白山・手取川もみじウオーク(11.28)
白山・手取川もみじウオークも今年で3年目、期日は11月10日土曜日と11日の日曜の両日、昨年は何の用意もなく、平道の28キロ位たやすいこととタカをくくっていきなり参加したところ、生憎の雨と慢心のツケがきて散々だった。しかも浅岡・前田というマシンで鍛えた二人を相手に調子を合わしたものだから、疲れもひどく、とても次の日の28キロに挑戦するなどもってのほかという状態だった。そういう1日でヘバる人もいることを勘案してか、ウオーキング協会の基準では、2日間とも完歩してはじめてポイントゲットになるとか、1日のみの参加は単なるカラマジリとのこと、ならば今年はコースは21キロと短めながら、2日間とも完歩してみようと挑戦することにした。案内があったのは開催に先立つ半年前の5月半ば、早々に申し込んだ。コースは両日とも3コースあり、1日目は白峰を基点とした21、10、8キロのコース、2日目は瀬女を基点とした21、17、10キロのコース、私は当然いずれの日も21キロコースに登録した。それで今年は昨年の轍を踏まないように、マイペースに徹しようと心に誓った。
大会当日の天気は、11月初めの予報では両日とも雨、それが低気圧の接近が1日遅れるとかで、初日は曇時々晴、2日目は雨時々曇ということに、両日とも雨でも、初日はとにかく参加しようと心に決めていた。それで2日目は、去年のこともあり、初日の様子を見て参加不参加を決めようということにした。折しも大会2日目は探蕎会の丸岡蕎麦道場での新そば試食の日、天気が悪ければ丸岡行きにしようかとも思ったり、結局身体の調子と天気次第ということにした。
初日の天候は起きた時点では曇り、予想通りだとほくそえむ。カンカン照りよりはマシで丁度好い塩梅、家を6時半に出た。ところが我が町を過ぎて鶴来へ入った辺りで 猛烈な雨、今日は曇時々晴ということで、迂闊にも雨具を持たなかったが、これはイカンと家へ取って返した。山に登るときは必携の雨具だが、一寸甘く見たバツか、30分のロ ス。見ると山の方は真っ暗、先が思いやられる。雨を覚悟で白峰へ急ぐ。白峰というとテッキリ白峰の村とばかり思っていたので、白山へ行く要領でスキー場の駐車場に車を入れた。時間は8時少し前、だが、車は1台止まっているのみ、係員も1人しかいない。いくら1時間前とはいえいい加減だなと思う。係員に聞くと、ここから受付の会場までは遠いと言う。どこかと聞いてもさっぱり要領を得ない。じゃ役場へ行ってみようかと、今は白山市白峰支所となっている役場へ行ったが開いてなく、幟がはためいているのみ。そこへ3台、4台と行き先が分からない車が集まる。知らない者同士とて、全く埒が開かない。前の通りには今日のウオークの道筋を示す赤い矢印が。ではとそれに従って車を走らすと、県道の白山公園線に出た。川の下流に向かって車を走らすと、 再びスキー場の駐車場に、フリダシに戻った。今度は国道157号線へ出て様子を見るが、人が集まっているような気配はない。再び県道から小・中学校かも知れないと思い立ち寄るが、ここにも人気なし、からこれ30分もうろついていたことに。万策つきて今一度役場へ、ここで念のため案内のパンフレットを広げると、白峰公民館が受付会場とある。折りよくバアさんに会い聞くと、トンネルをくぐって右手だと、八鵬ホテルのある場所だ。見当違いもいいとこだった。着くと駐車場はほぼ 満タン、ここが一杯になったら、例のスキー場の駐車場へ誘導するとのこと、参ったまいった。私は白峰の村だとばかり思って 突っ走ってしまったが、白峰トンネルに入る前に受付会場はこちらという大きな表示板か、あるいは誘導する人がいて欲しかったと思った次第。これは何も私だけの意見ではない。一寸不親切だ。
受付を済ます。ゼッケンを付けていないと出発地点へ移動するバスに乗れないとか。ザックにペタンと張ったが、バスに乗った時点で行方不明に。去年は雨に濡れてグシャグシャに、今年はシッカリした出来と思っていたら、粘着の相性が悪いのか簡単にザックから外れてしまった。バスから降りる時にバス内にないかと探したが見つからなかった。だが後でアナウンスがあり、「木村さん、ゼッケンの落し物です」と、現場の大会本部で受け取ったが、係りの女の人は丁寧にもザックに貼り付けた上に、念のためといってさらに粘着テープで抑えてくれ、これで見た目は好くないですが安心ですよと言ってくれた。でも後でまた剥がれる羽目に、何か工夫が必要だ。こんな人が3人いた。ところで何処にありましたかと聞くと、とある若い女の人のお尻にくっついていたとのこと、椅子の上に落としたらしい。どんな人か、お礼が言いたかった。
出発地点は百万貫の岩がある広場、式典は10時から、出発は10時15分の予定。ここから出発する人は何人かと聞くと、300人とか、見たところはもっといるように見える。式では主催の白山市、日本と石川県のウオーキング協会および北国新聞社の関係者の挨拶の後、優秀者に東海・北陸マスターウオーカー賞という賞の授与、この地区で開催のほぼ全部のラリーに参加完走しているとかだ。最後にV10のインストラクターの指導でストレッチ、これはよかった。お陰で出発は22分にずれ込んだ。
一斉に出発する。私は頭の方だったが、県外組は実に元気、どんどん追い抜いていく。山梨から来たというアベックの人と話しながら歩こうと思ったが、段々引き離されてしまった。去年の二の舞を避けるため、極力マイペースで、このコースはわたしにとっては熟知したコース、折り返しの市ノ瀬までは三ツ谷川を渡る地点で下りがある以外はずっと上り、距離55.1km、標高差220m、折り返しまでは50分強、手取の渓谷は紅葉・黄葉で素晴らしい眺め、心配した雨もなく、快適な歩き。三ツ谷橋と折り返し点の中間辺りで最も早い人が折り返して来るのに出会う。ざっと10分の差だ。市ノ瀬ビジターセンターの前で最初のチェックを済ます。先行した山梨の人と出会わなかったから、二人は食事かセンターの展示でもみているのだろう。
私はそのまま下りに入る。下りは快適、ざっと10人ばかりが相前後して歩く。出発地点の百万貫の岩が中間点、98分だった。百万貫の岩コースの人達の出発は私達の出発の1時間後、ということは1時間半前にここから下っていったことに、おそらく早い人はもうゴールしているだろう。快調に歩く。肘を曲げて歩くと早くなる。グループの頭になる。私に追いつこうと付いて来たという人がいて、白峰のチェックポイントでやっと追いつけたと言っていた。彼はチェックを受けずに立ち去った。チェックポイントは百万貫の岩コースの人達でごった返している。時間が無駄に過ぎる。白峰の村の中(市内というべきか)を抜け、牛首大橋で右岸に渡り、目指すゴールへ、所要時間は3時間19分43秒だった。20kmとして1キロ10分となる。振舞われたナメコの味噌汁が美味しかった。初日の参加者は3コースで1300人とのことだった。
翌日は雨模様の天気、身体の方は全く問題なく、2日目に挑戦しても可だったが、カミさんの意見を入れてソバに変更することにした。今日はスーパー林道の姥ヶ滝駐車場から瓢箪の大滝で折り返し、尾添・中宮を経由して瀬女高原スキー場ゴールの20kmである。未練はあったが丸岡行きとする。でも丸岡の蕎麦は実に素晴らしい出来だった。今夏は暑かったので結実が遅くなり、探蕎会の皆さんのために早刈りして頂いたものだが、これが正に鶯色のソバ、こんなソバにありつけたのは、2日目のウオーキングをふいにしたお陰としか言いようがない。瓢箪から駒とはこのこと、やはり万事塞翁が馬である。でも来年はどうしても二日間連続完歩に挑戦したいものである。
子うし会ー野々市小・中学校同窓会(12.3)
「子うし会」というのは、昭和24年3月に野々市町立野々市小学校を卒業した男子23名女子24名と在学中に病死した女子1名及び昭和27年3月に野々市町立野々市中学校を卒業した男子27名女子23名、計男28名、女26名の集まりで、全員昭和11年4月2日から昭和12年4月1日までの丙子の遅生まれと丁丑の早生まれである。このうち新入生として当時の野々市町立野々市国民学校に入学したのは男23名、女24名、うち男2名と女3名の5名は旧三馬村横川出の子弟だった。彼等は本来なら三馬国民学校に入学すべきなのだが、出村から本村まで半里、更に学校まで半里ということと、旧野々市町荒町と一間の橋で続いていたこと、野々市の学校までは高々9町と本村までの半分の距離だったことなどから、何時頃からかは知らないがかなり昔から野々市の学校へ来ていた。町村合併で野々市が統合小・中学校になった時点でこの寄留制度はなくなったが、私達がまだ小・中学校の間は合併前だったので、彼等は小学校も中学校も野々市で過ごし、卒業した。
当時の国民学校・高等小学校でも新制の小・中学校でも、旧町立では1学年1学級だったので、小学校も中学校も構成メンバーの顔ぶれは9割方同じであった。旧町ではほとんどが親戚まついなこともあって、大人は屋号で、友達同士は名で呼び合っていて、五つ年上の人でも名で呼び合っていた。したがって学校でもそうで、町に近い親戚がなかった私と、後で転校してきた数人だけが姓読みだったが、他は皆名読みだった。もちろんすべて呼び捨てである。こんな風習も、合併で生徒数が多くなり、また転入してくる人が多くなってからは次第になくなってしまった。その点私達の仲間内の会では、姓や名の呼び捨ての慣習は古稀になった今でも続いていて、それがまた素晴らしい財産となっている。私はこれは古き良き時代の何にも換えがたい宝物と尊んでいる。
この同窓会は「子うし」と書いてコウシと呼ぶことにした。干支ならネウシと呼ぶのだろうが、書き方も呼び方も皆の総意でこのようになった。卒業時には十年後に会いましょうということで、3回までは10年おき、次いで5年おきに、還暦を機に2年おきにした。そして有志だけだが、2年おきの総会の間に旅行をしようということに、ということは総会と旅行とに出ると毎年同窓会をしていることになる塩梅だ。総会は大概県内の温泉地で1泊2日、旅行は大体2泊3日のことが多い。子うし会ではこれまでに11人の物故者があり、私ともう一人の読経者がいた頃は旧盆に墓巡りをして墓参りをしていたが、もう一人が他界してからはお寺さんで法要を行ってきた。しかし御布施の額も馬鹿にならず、古稀を迎えたのを機に、今年を最後にし、来年からは止めようということになった。合掌。
これら子うし会の行事の取り仕切りは、野々市町とその近辺に住んでいる数人の世話人の寄り合いで決められるが、私は名目の会長で、実の取り仕切りは代行と会計が行っている。ところで昨年は総会、今年は旅行の予定だったが、取り仕切り役の代行が緑内障、会計が膀胱癌で動きが取れず、とうとう昨年は総会ができなくなった。通常は総会は春なのだが秋にでもと思ったが、二人の病気の治りがはかばかしくなく、とうとう今年に持ち越した。地元の方には了解してもらったが、遠所にいる方や恩師からはヤイノヤイノの催促、事情を納得して頂くのが私の仕事だった。ということでようやく今年の6月、地元山代温泉での総会となったが、20名の出席、会員54名(男28、女26)中、連絡先不明男2名、他界11名(男7、女4)、現員41名(男19、女22)であるので、ほぼ半数の出席だった。するとその会場で今年は旅行の年だから旅行を有志でやろうということになり、かねての要望を入れて、11月に太井川寸又峡と富士五湖へ、こちらは11名の参加だった。中型のデラックスバスでの3日間、実に楽しい童心にかえった旅だった。来年は総会、金沢近郊でと企画している。
会員は70〜71歳、身体に全くの違和感のない無病息災な人はいない。介護が必要で会には一人で出席できない人もいる。一病息災なら上等なほうで、聞くと投薬されていない御仁はまずいない。ということはなんらかの不具合が身体に生じているということになる。私自身、ペースメーカーを装着し、糖尿病、高血圧、胃潰瘍、網膜剥離と共存している。そんな中にあって、この小・中学校の同窓生の集いは、実に一服の清涼剤、出てきて会うことで、おたがいに元気を分かち合える貴重な場となっている。気の置けない場、それが何よりだ。
金沢大学医学部微生物学教室同門会(12.12)
古くは医学部細菌学教室、現在は大学院医学系研究科細菌感染症制御学講座という教室に所属していた人達の同門会が毎年11月の第4土曜日に石川、富山、福井の持ち回りで開催されてきた。でもここ数年は金沢で開催されていて、それは以前教室を主宰されていた西田先生(名誉教授)がご高齢で(今年86歳)、泊付きの会に出席されるのは難しいからとのこと、今年は12月8日の土曜日に開催された。西田先生はクロストリジアの世界的な権威、同門会の大部分の先生方は西田先生や次の中村先生の薫陶を受けられている。所で小生は西田先生が谷先生の後を受けて教授になられた折、ジフテリアの毒素も研究されていた誼で金沢へ助教授に招聘され着任された波田野先生の下でウイルスを専攻した。従って後にがん研究施設が発足して波田野先生が教授として赴任されたのに伴い移籍したこともあって、当時の微生物学教室には少ししか籍を置いていない。当時の教室は旧制医科大学の建物、天井が高く、頑丈な木造り、古めかしくて重厚で、いかにも学問の府、研究の場という感じのする雰囲気が漂っていた。当時の微生物学教室の波田野先生の下で学位を取られたのは1名のみで、波田野先生の門下生の大多数の方は後に先生ががん研究施設やがん研究所へ移られてからの方々である。私も後者である。ただ微生物学教室にいたという実績で同門会の案内を頂いているが、言ってみれば傍系のカラマジリの類で、ほかには当時助手だった森田先生がいるのみである。
当日は20名ばかりの参会、富山、福井、石川在住の方々だった。当日は西田先生、次期金沢大学学長予定の現病院担当副学長の中村先生、現教授の清水先生ほか同門の先生方が参集された。最古参は元石川県厚生部長、環境部長の石田先生である。席上西田先生から出席者全員に先生の著書「一本の道─流れゆく時と共に」が渡され、寄贈する相手の名も揮毫してあるという大変素晴らしい贈り物を頂いた。ただその読後感はぜひ書き送ってくれるよう念を押された。何とこの日は今次世界大戦で日本が真珠湾攻撃に踏み切った日でもある。この随筆集は先生が請われて北陸中日新聞(先生は北国新聞と言われたが間違いらしい)に連載されたものを纏められもので、この類の著書としては4冊目とか、先生の個性が色濃く染み出ている本だ。
次いで中村先生、学Iの時に、当時生活指導部長もされていた西田先生に相談に行かれたのが縁で学生の時から微生物学教室に出入りされていて、学部卒業の昭和43年に博士課程に、そして昭和48年に大学院修了後に助手、さらに助教授を経て西田先生の後を継いで教授になられ、平成10年には医学部長に就かれた。そして平成14年には副学長となり教室から離任され、大学が独立行政法人になった平成16年には理事・副学長に就任、そしてこの度次期金沢大学学長に選出選考された。今副学長室には岡本肇先生の「寛容」という額が掛けられてあるそうだが、これに徹したいとも。また、西田先生からは「君は人への怒り方、叱り方が下手だ」と、これも肝に銘じたいと。西田先生は四高文科の出身で、文学的素養が高くていらっしゃるが、私はその方面の素養がなく、これからも教えを乞いたいとも。次期大学の構想もいろいろ考えているとも。当会の幹事の石丸先生から三代魚住為楽作の風鈴と棟方志功の色紙が、教室からは大きな花束が贈呈された。
清水先生からは教室の現況が。今教室の大学院生やポスドクは中国とバングラデシュの方が多く、教室での会話やゼミ、ディスカッションはすべて英語だと、教室は国際色豊かな研究室だと仰る。また教室のスタッフは中国語の特訓も受けているとか。教室は医学部卒業後の病院研修の煽りで、医学生の入局はなく、今後は外国の留学生とか医学部以外の大卒に期待せざるを得ないという現状とか。現在海外の大学・研究所とも積極的に共同研究を進めているとのこと。研究棟も新築され新たになり、精力的に研究を行える環境が整ったとのことである。教室の研究の方向は以前とは異なるかも知れないが、今後ともこの同門会は大切にして行きたいとも。ともすれば講座の編成替え等で同門会が消滅した講座もあり、私も経験しているが、今後とも存続に努力したいとの言には頼もしさを感じた。今年の会には私の師の波田野先生はご欠席だった。
私から見た中村氏、学生の頃から積極的で進取の精神に富んでいた。自分の考えを巧く根回しして実現に漕ぎつけるという能力に長けていて、その分牽引力があり、構想力も豊か、しかも実践力がある。あるとき彼の子供に餅つきを実体験させたいからといって私の家で餅つきを世話したことがあるが、当時も画像で見せることは可能であったのにである。新学長としていろんな構想を持っておいでのようだが、彼の持ち前の力で是非それが具現化されることを祈りたい。あの人には「退く」という仕様はないように思える。かつて人間ブルドーザーと称された宰相にあやかって、金沢大学を「ベスト10の大学」に押し上げて貰いたいものだ。楽しみにしている。
西田先生から頂いた著書「一本の道—流れゆく時と共に」(12.17)
平成19年12月8日の土曜日に毎年恒例の金沢大学医学部微生物学教室同門会が開かれた折、教室の重鎮・名誉教授の西田尚紀先生から、出席者全員に先生著書の表記書籍が皆さんに手渡された。その本には一人ひとりの名も記名されているという実に念の入ったものだった。先生の言では北国新聞に連載された随筆が主だとのことだったが、私は記事として読んだことはなく、山岸先生に尋ねたところ、新聞は北陸中日新聞とのことだった。一通り読ましていただいたが、かなり重複している部分もあるが、読みようによっては何回も話題にされたということは、先生にとっては心の中で気にされているとか、大事なことなのだという印象を受けた。以下に一部を紹介するが、先生の著書には書いてないことも書き記したが、お許し願いたい。また先生からは必ず読後感なり人生観なりを書き送るようにとの厳命を頂いたが、これはその原稿とは別物である。
Ⅰクロストリジアの研究のこと
先生は表記のことでは世界的な権威、「クロストリジウム属の研究、特に芽胞形成と毒素原性の関係」で、第9回小島三郎記念文化賞を受賞されている。何故先生がこの道に入られたのかは私が知りたい興味ある点だったが、これを読んで氷解した。先生は十何年間ジフテリア菌の研究をなされていて、あの独特な棍棒状の形は一種の胞子様構造であって、菌の生存に関係はあるが、強毒株ではこのような形をつくり難いことに気付かれ、それを実証するにははっきり胞子を形成する菌でこれを立証しようとされた。折もよく、先生は昭和32(1957)年に英国政府留学生として渡英され、オークレイ教授の下でウェルシュ菌の研究をされ、芽胞形成と毒素産生の間には何か関係があるとの確信を持たれたようだ。そして留学中に谷先生の後を継いで細菌学教室を主宰されることになり、先生は講座の助教授に千葉大学の波田野先生を招聘された。ところで西田先生と私の師の波田野先生との接点は実はジフテリア毒素の研究にあったのではなかったろうか。その頃の渡英は船旅だったようで、招聘の打電は帰路のアデンからなされたと聞いたことがある。
前任の谷先生のご専門は梅毒だったが、先生が主宰されてからはクロストリジア一色となり、沢山の開業医の先生、なぜか耳鼻科の先生が多かったが、専修生として入局されていた。そして菌種別に有毒株と無毒株の関係の追求がなされた。いわばクロストリジアのタクソノミーをテーマに、例えば破傷風菌とテタノモルフムとの関係、今ならばDNA解析で解決できるのでしょうが、その頃は加熱温度・時間と芽胞形成・毒素産生の関係で追及されたようです。よい組み合わせをテーマとしていただいて簡単に結論が出た人もいれば、中々結論が出ない人、仮説とは逆の結論となった人など、人生の縮図を見るようでした。沢山の人で賑わい、十分に野球のチームが出来た位でした。西田先生自身も大変お好きで、雨の日などは古い教室の廊下で投球練習をされていたものです。丁度私も細菌学教室の波田野先生の下でインフルエンザウイルスの仕事を始めた頃でした。
Ⅱ 金沢大学医学部の「十全」の出展由来
十全という名称は世の中では普遍的に用いられている。金沢大学医学部で初めて十全という名が使われたのは明治28年2月、当時第四高等学校医学部の学生、職員、教官の間を円満融和に進行させる目的で「十全会」が結成された時とか。現在同窓会は十全同窓会、医学会は十全医学会、その機関紙は金沢大学十全医学会誌だが、英文名には金沢の名は入っていない。また施設には十全講堂がある。この「十全」の出典については、西田先生が折に触れて話されたり、書かれたりされていて、著書でも5編載せられている。
出典は中国周時代(紀元前千年位)の官制を記した周礼の中にあり、「一年の終わりに年間の医療実績を調べて、その医師の俸禄を制定する。十例の全てを癒ゆるを「上」とする。一割の失敗はこれに次ぐ。二割、三割はこれに次ぐ。四割の失敗はこれを「下」とする。」とある。またその鄭氏註には「五ハ半バナリ、或ハ治セザルモ癒ユルナリ」とあって、五割は俸禄外となっている。但し治療不可能を可能とすることは出来ないことから、宋の時代(紀元後千年)には「二程全書」の中で程氏は「患者に対し、治る病気と治らぬ病気の区別をはっきり見定め治療に当たるを、十に対して十の良い治療(十全)をしたとする。」としている。ちなみに東大名誉教授の沖中先生の退官記念講演の中で、誤診率は14.2%だったと述べておいでるが、これだと天下第一等の名医でも「十に二を失する」類に入ることになる。ただこれは厳密に剖検データと対比させたもので、例えば肝癌として治療したが、死後の剖検病理診断では胃に原発した小さな癌(これを見逃す)からの肝臓転移癌、治療としては変らないが、これも誤診としたとある。
Ⅲ中国の医学留学生の学寮探し
先生が四高を卒業されたのは昭和17年、この頃は中国戦線は拡大していて、一人でも多くの軍医が必要となり、医大の卒業年限を短縮しても追いつかず、全国の官公立大学には臨時の医専がつくられ、定員も医大の倍位に膨れ上がっていた。この頃旧制の理科生は工学部の航空とか造船の部門に入り、地元の金沢医大に応募する人は僅かで、第二次募集には文科生でも無試験入学となった。こうして先生は医大生となった。1年程して、あるきっかけで中国語二週間講座を受け、その後も四高の先生につき勉強していて、ある時中国人学生と会い、中国語を直に習うことになった。彼等は医学留学生で、日本政府が招いていること、金沢には十数人いることが分かった。しかしその居住環境は実に劣悪で、友人の本間の協力を得て1ヵ月近く空家を探したが見つからず、思い余って出かけた市役所で格好な家が見つかり、十数人の中国留学生を呼び寄せることができた。しかしこの間大学を無断で休み、教授会ではその処遇が問題になっていたと。でも学生部長に仔細を述べ詫びたところ、「これからはしっかり勉学に勤めなさい」と言われただけ、出てくる涙を止めることが出来なかったと。
Ⅳ「心友」本間 誠の死
西田先生と本間先生との交遊は昭和17年の入学から卒業の20年の3年間のみである。その後本間先生は生地の酒田市に帰り病院を創立して病院長になった。二人が会うのは年に一、二回だったという。その先生が病院長を辞し、民医連のリーダーとなり、庄内農民の健康管理に命を賭したという。肺炎になっても抗生剤を打ちつつ診療したと。その本間は西田を評して、「彼は友人だが盟友ではない。親友でもない。彼は私の心友だ。」と。亡くなった後、西田先生は何回か酒田に出向き、調べ、本を著わした。題は「酒田の医者の本間様─農民の中に立つ」。世が世なら酒田の有名な本間家の嫡流嫡男であることを知ったと。
Ⅴ「心情の通う友」佐々木高伯のこと
医大の同期生だが、学生の時も、卒後40年間もほとんど知らずに過ごしてきた。昭和60年秋に彼が主宰した福島での同窓会に招かれた折の印象を記した文がある。「西田と本間は満足気に福島の会員と話に興じているが、お互い二人はチラッ、チラッと目を交わすだけだ。平常はほとんど会えぬ二人なのにと不審に思ったが、ああ本間が西田を心友だと言うのは「これか」と感じ羨ましいと思った。」と。この時以来、この福島の友は私の心の中に根ざすようになったと。生涯を通じて心情の通う友を得ることは、総じて言えば、相違う歳月の長短にはほとんどかかわり合いの無いことであると述懐される。夕方診療を終えると酒を飲み、ほろ酔うと夕方6時50分頃に必ず電話してきたと。その彼も急逝した。生前デンバーの空港から送ってくれたポストカードの題は、「生涯のこよなき宝物、それは友」だった。
Ⅵ谷 友次先生を偲ぶ
谷先生は富山県の出身、四高、東大を出られ、ローベルトコッホ研究所に留学され、31歳の若さで金沢医科大学の初代教授になられた。谷先生は学問・研究には峻厳そのもの、歴代の助教授は人知れず苦労されたと。しかし西田先生が助教授になられた昭和26年には温和な性格に変られたように思えると。それは次男の方の外地での自決の影響だとも。でも苦労された人ほど先生を慕われたと。西田先生は谷先生が3ヵ月かけてタイプされた報告書をインクで汚し、深夜に先生の部屋のタイプでどうやら朝までかけて打ち直し、インクで汚れたのをどうせ要らぬとクシャクシャにして机の上に置いて帰ったところ、何時も朝早い先生に見つかり、呼び出され、どうなるかと思いきや、以外にも微笑まれ、「西田君、いろいろの問題は君の不整頓による」と言われ、「判っているならそれで良い」と言われたと。タイプライターの「タ」の字も言われなかったのに虚をつかれたと。涙が落ちるのを止められなかったと。先生は満身の怒りを抑え、「要め」にのみ注意され、私がやがて「判る」ことを信じてそうされたのだと。「信ずる人には、愛と愚と根で行け」と。
Ⅶ岡本 肇先生を偲ぶ
いつだったか、がん研セミナー創設基金のことで、わが師波田野先生のお供で教授室か名誉教授室かへ岡本先生をお訪ねしたことがある。枯れた古武士然とした風貌がいまでも脳裏に焼きついている。先生は一番弟子の越村先生と協同で抗悪性腫瘍溶連菌製剤ピシバニール(OK432)を開発された。大変お酒が好きだったと聞く。偲ぶ会がいつあったかの記載はないが、息子の宏先生は、親父は骨となったが、魂は今もそこらに居る気がすると述懐されている。越村先生や西東先生はお酒のお相手には欠かせない先生だったようだ。越浦先生も研究に参画されていて、五年先を考えよとの言葉を賜ったと。西田先生と亀山先生は、岡本先生のフニャフニャ英語が外国で立派に通用するのに驚いたと。また先生は西田先生の樹林構想に賛同され、ポンと二百万円を出されたと。今大学は樹々に囲まれている。
西田先生の人となり─「一本の道 流れゆく時と共に」から(12.20)
先生から著書を頂き、必ず読後感をとのことでしたが、内容が極めて多岐にわたっていることもあって、総じて感想を述べるということは私の能力の限界を超えていると思え、断念しました。以下には読んでいて私が感銘を受け、あるいは同感し、先生の人となりをつとに感じた部分を拾い、それに応えることにしました。これは手抜きの誹りをを受けるかも知れませんが、お許し下さい。【 】内の語句は私が先生の胸中を勝手に推し量って入れたもので、浅学非才なことから不適当なものもあるのではと危惧しています。続くタイトルも同様で、先生の意に沿わない表現もあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
【決意】 英国留学でのClostridiaの研究の成果から
研究の結果、推論した「spore形成の失敗と毒素原性の間」には関連があるという自信を深めていて、帰国後一生のテーマとして行こうと考えるに至った。
【誇り】 「十全」は中国周時代(日本では縄文時代)の出典に由来する
縄文時代の「十全」の言葉を時代の先端を行く学術誌の名称として用いている金沢の大学は流石に百万石の城下町の風土かなと思う。
【驚愕】 岡本先生から大学に緑をと賞金二百万円を寄金として頂いて
「こんな大金オレには必要がない」と云われ、私の手にねじこむ様に押し戻された。私は何も云えず、部屋を出た。そして先生の部屋に向かいフカブカと一礼した。今、大学の周りは樹林に囲まれている。私はいつも樹林を見て岡本先生を思い出す。
【寛恕】 谷先生が苦労して打たれたタイプが汚されクチャクチャになったのを発見され
直ちに呼び出され、先生に対した。この時、意外や意外、先生はニコニコと微笑まれ、「判っているならそれで良い」と云われた。逃げ道は無いと思っていたのに、虚をつかれた。振り向きドアに手をかけようとした時、両眼から溢れ出る涙が床まで落ちるのをどうしても止めることが出来なかった。私とて人の長となり、時として怒り心頭に達することがある。私はこの時いつも谷先生のことを思った。
【追慕】 下宿先の娘さんの死 彼女はまだ十六歳の若さだった
私は彼女といくばくの差もない歳であったから少女の死に心の動転を抑え難かった。月一回花を持って彼女の家まで(ほぼ四キロ)歩き、今は佛となった彼女の父の読経の席に一年通った。名状し難い心の動転を禁じ得ず頭髪は1ヵ月で全く白くなったのに驚いた。人間の死が計るべからざる深さで青年の心に重くのしかかった事を今も忘れ得ない。
【平然】 臨東三(臨時東京第三陸軍病院)での実習・訓練で
成績の悪い者は補習勉強をしたが、私はこの中でもどんじりかと思っている。実際の実習・訓練でも私は最も多くビンタを受けた。(学生時代、結核を病み、辛うじて第三乙種合格の虚弱体質で強行軍、匍匐前進に耐えられなかった)。然しビンタを喰っていても、私が手抜きした時であって、この区隊長は何とうまく手抜きを見抜くかと感心していた。私は今この隊長に親愛の情を持っている。これがビンタに平然の評になったのかも知れない。
【遵守】 英国政府留学生(英国留学が稀な時代で船旅で1ヵ月かかり渡英)
講習で政府の役人は「諸君は英国政府が招いた留学生である。大学に行ってあまり勉強するな。広く浅く学べ。」と 云われた。私はこの忠告を忠実に守った。ロンドンに1ヵ月居る間、シェークスピア劇の劇場に通い、またフェスティバルホールで初めて音楽会なるものを体験した。アイザックスターンの何者かも知らぬ唐変木だったが、次第に高まるボレロ特有の旋律とスターンのバイオリンに涙を流した。その後リーズに移った後も英国政府は毎月音楽会やバレーの切符を世話してくれ、オーマンディ、カラヤン、アンセルメ等々の巨匠のオーケストラを聴き続けた。かくて英国二年の滞在中、一編の論文も書けなかった。
【鉄則】 School(学校)の語源はギリシャ語のScholor(ひま)から出ている
四高には「ひま」を大切にすべきであると云う鉄則があった。このヒマを、思うがままに生き抜く様育てられたという感謝が脈々と生きていた。英国に居た時「Oxbridge」(OxfordとCambridgeをまとめて云う時に使われる)という本を読んだが、その校是として「ひま」に関して学生が守るべき大切な五つ、それには「第一にスポーツ、第二にスポーツ、第三にスポーツ、第四に友情、第五に勉強」とあり、感銘を受けた。
【義侠と温情】 中国からの医学留学生の学寮探しに奔走し、大学を1ヵ月無断欠席
米国との戦局が悪化し、国民は食に困るようになったが、留学生はもっと苦しく、その生活を放置しておけぬ気がして来た。金沢には十数人の留学生が居た。しかるべき空家を探し出そうと奔走したが、これは中々至難の業だった。友人の本間と相談し市役所へ行った時に貰った台帳を元に、犀川ぞいに十数人を収容出来る中国人学寮をつくり、以後寮生の「食」の心配を無くすることが出来た。併し、私はこの為に大学を1ヵ月休んでいる事が急に思い出され、恐る恐る大学の学生部長の所に行き学校を欠席した理由を述べた。部長さんは私の話を聞きながら、笑みさえ浮かべて「これからはしっかりやり給え」と云われただけだった。立ち上がってドアの所に手をかけ外へ出た時、急に大きな涙がポタリポタリと音をたてて落ちた。必死に堪えようとしたが駄目だった。これを思う度に涙が滲む。
【架橋】 西田先生の尽力で日本中国国際会議(CJIC)が発足
1978年春、金沢に居た二人の留学生の尽力で中国から招待を受けた。そして中国微生物学会長とも会えた。やがて1983年、私が理事をしていた日本細菌学会と中国微生物学会との間に約束を交わし、1984年に第一回日本中国国際学会を行うに至った。
【杞憂】 昭和天皇と今上天皇
亡くなられた陛下(昭和天皇)はもろもろの総てを超えて私はあのお顔に魅せられていた。ことに、一瞬戸惑われたお顔が好きだった。それにあのお話しぶりも、まじめなお人柄がしのばれ、好きだった。日本語に声相という言葉は聞いたことが無い。が、とにかく声にも相がある。昔、皇太子殿下のお声に好感が持てなかった。舌がどこかにひっかかったような甘ったるいお声だった。大喪の日、久しぶりに明仁陛下のお声を耳にした。語られるお言葉は平易なのに、深く沈んだお声は気品に満ち、聞くにつれ胸があふれ、不覚にも涙ぐんでしまった。
【慕情】 「心友」本間誠の死:彼は庄内農民の健康管理に生命(いのち)を燃焼させた 享年66
本間誠は同期生で無二の親友であった。彼の死を聞いた時、私の頭髪が真っ白になったのに驚いた。心痛も度が過ぎると髪が白くなるとは聞いていたが、自分に起こり驚かされた。彼は私の親友だが、私は彼を心友として接していた。幾十年を経ても彼の顔も話ぶりもすべて私の頭の中にある。しかし、本間に会っている時は不思議にも、会話を交わすより目と目ですべて彼の意向を了解することが出来た。世間ではこれを「心友」と呼ぶと云うが、まさしく彼は私の心友であった。私は今も本間誠を胸に抱いている。
【哀惜】 友を失う:その友の名は、いわき市泉在の医師、佐々木高伯 享年77
私と共に金沢医科大学を同期生として卒業した。私は学生の時も、卒後四十年間も殆ど知らずに過ごした。しかし、生涯を通じて心情の通う友を得ることは、総じて相逢う歳月の長短には殆どかかわり合いの無いことである。福島のこの友は私の心友への追悼文で、「西田と本間は満足気に福島の会員と話に興じているが、お互い二人はチラッ、チラッと目を交わすだけだ。平常は殆ど会えぬ二人なのにと不審に思ったが、ああ本間が西田を心友だと云うのは「これか」と感じ羨ましいと思った。」と。併し、この時以来、この福島の友は私の心の中に根ざすようになった。その矢先、この友が急逝してしまった。わたしの悲嘆は今も底知れず深い。そして人生のほんの一時しか逢っていない友に、何故かくも深く惹かれるのかと思い続けている。
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