2009年4月11日土曜日

2008年前半

広辞苑に出てくる◯◯鼠の数々(1.9)

 平成20年は西暦2008年、十干十二支では「つちのえ・ね(戊子)」の年に当たる。いわゆる「ね」年なので、年賀状に「鼠」が語尾になる言葉を広辞苑から引っ張った。私は「なんとかねずみ」となれば、大部分が動物名になるだろうとタカをくくっていたが、さにあらず、色合いとか地唄の曲名とか比喩とか、新しい発見があった。賀状には○○鼠と注なしフリガナなしの漢字のみで羅列したものだから、何人かの方から説明責任があると催促を受ける羽目になった。辞書を見てくれとも言えず、泣く泣く転記した次第。ただ動物名は図鑑と照合させるとかなり合致しない部分があり、従って学名を記載するのは断念した。また和名にしても正式和名との間にズレがあり、正確を期し難かった。また、広辞苑の説明も記述に一貫性がないようだったが、概ねそのまま転記した。また鼠部の部首の漢字は「鼬」以外は打ち出せず、仮名書きとした。以下に罰を全うする。
A.大 意
1.鼠 (1)齧歯目ネズミ科に属する小獣の総称。犬歯なく、門歯は上下2枚とも物をかじるのに適する。尾には毛が少なくて、鱗がある。繁殖が盛んで、農作物・食料品を食い、家財を破損し、ペストその他の病原体を保有することが多く、人類生活上の一脅威。世界中に広く分布し、約1700種ある。ハタネズミ、ドブネズミ、ハツカネズミなど。 (2)「ねずみ色」の略。
B.動 物
2.食虫目モグラ科の動物
・エン鼠(ソ)・フン鼠(ソ):もぐら(土竜)。食虫目の獣。全身灰褐色で、体長約15cm。頭は尖り、尾は短く、目は皮下にあり、耳介はない。四肢の構造、特に前肢は掌骨が外方に向かい、土中を横行するに適する。土中の虫を捕食するが、土を隆起させるため、農作物に害を与える。  
・ 田鼠(デンソ):モグラの別称。
・ 野良鼠(ノラネズミ):ヒミズモグラ(食虫目の獣。モグラに似て小形で、口吻は細長く尖る。全身ビロード黒色の毛で覆われる。日本特産で、本州・四国・九州などの山地に分布、食虫性。)の異称。
3.食虫目トガリネズミ科の動物
・尖鼠(トガリネズミ):食虫目の小獣。口吻鋭く尖り、手肢の形状はモグラに似る。毛皮は極めて滑らか。我が国には数種を産する。
・地鼠(ジネズミ):食虫目の獣。ハツカネズミよりやや小さく、口吻突出し、毛は短く柔軟、背面は褐色、下部は幾分白色、地中に潜伏して昆虫を食う。本州・四国・九州に産する。
・川鼠(カワネズミ)・水鼠(ミズネズミ):食虫目の小獣。中型の家鼠大で、口吻突出し、耳は毛に隠れ、目が小さい。体は帯紫灰黒色、体側・尾に白色の長毛を混じ、肢指に水かきがある。山間の谷間、溝の石垣などにすみ、潜水して小魚・虫を捕食。本州・四国・九州に産する。
・麝香鼠(ジャコウネズミ):食虫目の小獣。体長約15cm、皮膚の分泌液が麝香のような香がする。昼は地中に潜み、夜出て、昆虫やイモ類を食う。インド原産、九州南部にも産する。
4.食虫目ハリネズミ科の動物
・針鼠(ハリネズミ):食虫目の小獣。体長20〜30cm、体の背面全体に強剛な太い針を密生し、ヤマアラシに似るが、針が短い。体側と腹面の毛は柔らかい。敵に襲われると、体を丸め針を立てて防御する。雑食性。ヨーロッパ・アフリカ・アジア大陸の各地に産し、種類が多い。
5.齧歯目テンジクネズミ科の動物
・天竺鼠(テンジクネズミ)・豚鼠(ブタネズミ):齧歯目の小獣。体長約25cm、尾はなく毛色は雑多で、純白、白地に黄と黒との斑、白地に淡黄を帯びるものなど、品種が多い。ペルー原産。生物学・医学用実験動物として重要。モルモット。ギニアピッグ。
6.齧歯目トビネズミ科の動物
・跳鼠(トビネズミ):齧歯目の小獣。形はカンガルーに似て、後肢と尾が長く跳躍する。アジア・北アフリカにすみ、穴居性。
7.齧歯目ネズミ科の動物
・毛長鼠(ケナガネズミ)・尾長鼠(オナガネズミ):ネズミの一種。体長約27cm、尾は太く37cmに及ぶ。日本産最大のネズミ。尾の先端は白色、背面に長い剛毛を有する。後肢が大きく、爪は前後とも鋭く強大、亜熱帯林にすみ、樹上生活をする。奄美大島・徳之島・沖縄諸島に分布、天然記念物。
・鬼鼠(オニネズミ):野鼠中本邦最大。体長28cm、尾20cm、黒い長毛を有し、背の地色は暗褐色、腹は帯白褐色、土中に棲息し、耕作物や果実を食し、時に家禽を襲う。
・二十日鼠(ハツカネズミ):ネズミの一種。普通のネズミに似て小さく、体及び尾の長さは各7cm位。野生種は背面灰褐色、腹面純白色、人家に近い所にすむ。ヨーロッパ・アジアに分布。実験用・愛玩用に飼育されたものもある。マウス。
・ケイ鼠(ソ):ハツカネズミの別称。
・甘口鼠(アマクチネズミ):ハツカネズミの古称。
・南京鼠(ナンキンネズミ):中国産ハツカネズミの飼育変種。極めて小形で、体長約6〜7cm、愛玩用または医学実験用。
・舞鼠(マイネズミ):中国産ハツカネズミの飼育変種。白色で自ら平面をくるくる回る奇性がある。
・高麗鼠(コマネズミ)・独楽鼠(コマネズミ):マイネズミの別称。
・溝鼠(ドブネズミ):ネズミの一種。世界的に分布し、人家の中や溝にすむ。体長約20cmの大型種で、尾は体より短く、耳が小さい。
・七郎鼠(シチロウネズミ):ドブネズミの異称。
・エン鼠(ソ):溝にすむ鼠。どぶねずみ。
・白鼠(シロネズミ):毛色が白く、眼の赤い鼠。褐色または黒色が混じったものもある。ドブネズミの飼養変種。実験用に使われる。ラッテ。
・大黒鼠(ダイコクネズミ):シロネズミの別称。
・熊鼠(クマネズミ)・船鼠(フネネズミ):齧歯目の獣。大型の家鼠で、尾が長く耳殻は大きい。船舶や航空機で世界各地に伝播。人家の天井裏に多い。
・田鼠(タネズミ)・エジプト鼠(エジプトネズミ):クマネズミの別称。
・萱鼠(カヤネズミ):ネズミの一種。ハツカネズミより小さくネズミの中で最小の種類。尾は物に巻きつき、叢の上を自由に走り、小鳥の巣に似た巣を叢の中に造る。本州・四国・九州に産し、欧亜大陸には別亜種がいる。
・赤鼠(アカネズミ)・地鼠(チネズミ):ネズミの一種。普通山野におり、家鼠より小形。背面は濃橙褐色、腹部は白色。北海道から九州まで分布。
・姫鼠(ヒメネズミ):齧歯目の小獣。我が国各地の山林内にすむ小形で尾の長い鼠で、背面は赤褐色、腹面は純白。日本特産種。
・砂鼠(スナネズミ)・荒地鼠(アレチネズミ):ネズミの一種。体長11〜13cm、体毛は灰色、中国・モンゴルの砂漠・草原などに群れてトンネルを掘ってすむ。動物実験に使われる。ジャービル。
・谷地鼠(ヤチネズミ):齧歯目の野獣。体長8〜10cm、尾と耳が短く、背面は赤褐色。北半球北部の草原や森林にすみ、数種ある。北海道のエゾヤチネズミは材木の害獣として有名。
・畑鼠(ハタネズミ)・野良鼠(ノラネズミ):ネズミの一種。体長約10cm、背面は褐色、腹面は灰白色。口吻は丸く、尾は短く、耳は小さい。畑に穴を掘ってすみ、農作物を害する。本州・佐渡・九州に分布。
・絹毛鼠(キヌゲネズミ)・朝鮮鼠(チョウセンネズミ):ネズミの一種。大きさは家鼠位で、尾が短く、体毛が軟らかい。朝鮮・中国の山野に野生。
・棘鼠(トゲネズミ):ネズミの一種。体長13〜16cm、発達した硬い針状毛を有し、尾は上面黒褐色、下面灰色。奄美大島と沖縄にすみ、それぞれ亜種とされる。
・旅鼠(タビネズミ):レミング。ネズミの一種。体長15cm、尾は短小。体毛は軟らかく密生し褐色で、頭頂は黒色、下面黄白色。ノルウエー、スウェーデンなどに分布、時々大増殖をして死の大行進をする。
〔鼠の総称〕
・家鼠(いえねずみ・かそ):人家に住む鼠の総称。ドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミなど。
・内鼠(うちねずみ):人家に住むねずみ。家ねずみ。
・野鼠(のねずみ・やそ):原野・森林に住む鼠の総称。ハタネズミ、ヤチネズミ、アカネズミなど。
・子鼠(こねずみ):鼠の子。
・黒鼠(くろねずみ):毛色の黒い鼠。
・白鼠(しろねずみ):毛色の白い鼠。
8.齧歯目ヤマネ科の動物
・冬眠鼠(ヤマネ):齧歯目の小獣。体長約7cm、尾長約5cm、背は淡褐色で、その上に鮮やかな黒条が縦に走る。本州・四国・九州の特産で高地にすみ、雑食性。冬眠する。
9.齧歯目リス科の動物
・栗鼠(リッソ・リス):齧歯目の獣。体長(尾を含め)約40cm、冬毛は背面灰褐色、下面白色、夏毛は暗褐色で体側は橙赤色、尾は総状、耳には長毛があり、門歯は鋭い。林にすみ、樹枝間を敏速に活動し、葉・果実を食う。巣は球形。本州・四国・九州に棲息。北海道・シベリアには大型のエゾリスがすむ。主として地上にすむシマリスは小さく、背に五本の黒条があり、北海道以北産。
・木鼠(キネズミ):リスの異称。
・ゴ鼠(ソ):ムササビ。齧歯目の獣。リスに似て大型で、肢間には、モモンガと同様皮膜があり、木から木へ滑空する。モモンガと違い皮膜はよく発達して踝(くるぶし)まで達し、尾は円柱形。昼は樹木の空洞内に潜み、夜樹上に登り、若葉を食う。本州・四国・九州・朝鮮に分布。
10.食虫目、齧葉目以外の哺乳動物
・鎧鼠(ヨロイネズミ):アルマジロ(貧歯目アルマジロ科の獣。背面は多くの骨質の小板からなる甲で覆われ、歯は不完全。穴掘りがうまく、死肉や小動物を食べる。数種あり、ミツオビアルマジロは危険に際し体を丸めて球状になる。中部及び南アメリカ産。)の別称。
・袋鼠(フクロネズミ):カンガルー(有袋目の獣。オーストラリアに産し、数種あって、大きなものは体長約2m。前脚は短いが、後脚と尾は共に長大で、跳躍に適する。牝は牡より小形。仔は非常に早く生み出され、後は牝の腹部にある育児嚢中で哺育される。草食性。皮は良質で、種々の工芸品に使用。)の別称。
・子守鼠(コモリネズミ):有袋目の小獣。形は家鼠に似ているが、遥かに下等な動物で、カンガルーのような育嚢があり、また、少し成長した仔は母の背上に乗り運ばれる。20数種あり、南アメリカに分布する。食肉性。
・袋鼠(フクロネズミ):オポッサム(有袋目の小獣。形はドブネズミに似るが大きく、小形のネコ位あり、尾は裸出してよく巻きつく。一腹20匹位も仔を産み、下腹部にある育児嚢に入れて育てる。雑食性。南北アメリカに分布。)の別称。
・天鼠(テンソ):コウモリ(翼手目の獣の総称)の別称。
11.その他の動物
・海鼠(カイソ):ナマコ。ナマコ類幅足目に属する棘皮動物のうち、マナマコ・キンコなどの総称。狭義にはマナマコの別称。浅海の岩礁下にすむ。生食して賞味されるほか、乾燥したものは海参(いりこ)と称し中国料理の材料となり、内臓からは海鼠腸(このわた)を作る。
・石鼠(セキソ)・碩鼠(セキソ):ケラ・オケラ(直翅目の昆虫)の異称。
12.想像上の動物
・火鼠(ヒネズミ・カソ):中国の想像上の動物。白鼠で南方の火山に産し、その毛で火浣布(かかんふ)、すなわち「火鼠のかわごろも」(俗に「火鼠のかわぎぬ」)を織るという。竹取物語に見える。
C.色合い
・鼠(ねずみ):青ばんだ淡い黒色。ねずいろ。
・藍鼠(あいねずみ):藍色がかった鼠色。あいけねずみ。
・葡萄鼠(ぶどうねずみ):赤みがかった鼠色。
・利休鼠(りきゅうねずみ):利休色(緑色を帯びた灰色)のねずみ色を帯びたもの。
・小豆鼠(あずきねずみ):小豆色がかった鼠色。
・濃鼠(こいねず):濃い鼠色。
・鳩羽鼠(はとばねずみ):濃い紫を帯びた鼠色。
・栗鼠(くりねずみ):(1)馬の毛色の名で、栗毛の鼠色を帯びたもの。 (2)栗鼠色(栗色がかった鼠色)の略。
・黒鼠(くろねずみ):黒みがかった鼠色。
・銀鼠(ぎんねずみ):銀色を帯びた鼠色。ぎんねず。
・白鼠(しろねずみ):染色の名。しろねず。うすねずみ。
D.地唄の曲名
・曲鼠(きょくねずみ):地唄の曲名。「曲引きする鼠の曲」の意。作物(さくもの)の「荒鼠」を手事物(てごともの)化した曲で、作曲者不明。ネズミの活躍が主題。
・荒鼠(あれねずみ):地唄・歌沢の曲名。地唄の滑稽物で、鼠の大将が家来の鼠に号令して大活躍を始めたところへ猫が現れる筋。
E.比 喩
・内鼠(うちねずみ):家にばかり籠もっていて世間知らずの人。
・昼鼠(ひるねずみ):昼間出る鼠の意で、落ち着きのない者を罵っていう語。
・白鼠(しろねずみ):主家に忠実な番頭・雇人。 〔福の神、ことに大黒の使いで、そのすむ家は繁盛するとの伝説からいう。また、鳴き声が「ちゅう」であるからともいう。〕
・黒鼠(くろねずみ):主家の物を掠め取る雇人。主家に忠実でない奉公人。
・溝鼠(どぶねずみ):比喩的に主人の目を掠めて悪事をする番頭・手代など。
・月の鼠(つきのねずみ):月日の鼠(つきひのねずみ):月日の過ぎ行くことをいう。 〔大集経によると、人が象に追われたので、木の根を伝って野中の井戸に隠れたところ、四匹の毒蛇が噛みつこうとし、また木の根を黒白二匹の鼠が、かわるがわる齧ろうとする。象は無常、黒白の鼠は日月に、毒蛇は四大(地・水・火・風)にたとえる。〕
・鼠(ねずみ):鼠色の略。 (白黒がはっきりしないところから)所属・主張・態度の曖昧なこと。
・袋の鼠(ふくろのねずみ):袋の中に入れられた鼠。逃れることのできないのにいう。
・濡鼠(ぬれねずみ):水に濡れた鼠。転じて、衣服を着たまま全身水に濡れたさまのたとえ。ずぶぬれ。
・窮鼠(きゅうそ):追い詰められて逃げ場を失った鼠。〔窮鼠猫を噛む:追い詰められた鼠が猫にも食いつくように、絶体絶命の窮地に追い詰められて必死になれば、弱者も強者を破ることがあるの意。「塩鉄論」〕
・社鼠(しゃそ)・城狐社鼠(じょうこしゃそ):〔城にすむ狐、社にすむ鼠はこれを除こうとすれば、その城や社を壊さねばならないので、容易に手を下しにくい意。〕君側にある奸臣の除きにくいたとえ。〔韓非子〕
・二鼠(にそ):白と黒との二匹の鼠。仏教で、昼夜または日月にたとえていう。〔二鼠藤を噛む:現世は無常で、刻々死地に近づくことをいう。二鼠は昼夜に、藤は命にたとえる。「大集経」〕
・首鼠(しゅそ):鼠は疑い深く、穴から首を出したり引っ込めたりするところから、どちらともつかず、ぐずぐずしていることのたとえ。一説に首鼠は進退するという意味といい、また躊躇の音の変化したものともいう。〔史記〕
F.その他
・油鼠(あぶらねずみ):油で揚げた鼠。狐を釣る餌。

志賀高原に1月なのに雨がー今年も天候不順のスキー行(1.17)

 志賀高原は中部日本では有数の広いエリアを持つスキー場である。個々のスキー場の規模はそんなに大きくはないが、全体としては南北に長い16kmに及ぶ縦断道路に沿ってスキー場が点在している。高原の標高は凡そ1,400m、最も低い場所のジャイアントスキー場の下端で1,325mとある。最も高いのはエリア南端の横手山で、標高は2,307mである。また北端には焼額山2,009mが、道路を挟んで西側には西館山1,756m、東側には東館山2,030mと、ここから岩菅山2,295m・裏岩菅山2,337mと続く尾根筋の中途の寺子屋山2,125mまでゲレンデが延びている。最も高い横手山から中心部のジャイアントゲレンデ下部までスキーを履いたまま下ることは出来ないが、出来たとしても標高差は982mで、1,000mに達しない。
 石川県保健環境センターに在籍した人を中心としてのスキー同好会「くろゆりスキークラブ」は毎年1月の連休を利用して志賀高原へスキーツアーをすることにしていて、もうかれこれ20年以上になる。今年は13日が成人の日、14日が振替休日、12日が土曜(官庁は休み)と3連休ということで、11日の夜出発、12日の0時着で就寝し、12日と13日は終日、14日は午後2時までという計画となった。今年の参加者は金沢からは17名、東京からが3名とこぢんまりしたグループとなった。ただバスだけは45人乗りの最新のデラックスバス仕立てなのには驚いた。本当か嘘か、大きなバスしか空いていなかったとの弁だったが、とにかく会費はリフト券と昼食を除いて3万円のみ、アルコール飲料も込みというなんとも贅沢なツアー、これも会長と幹事の腕なのか。
 保健環境センターと消防学校から面々が乗り込んでの出発、後のサロンに陣取ってのお水の補給、ザッと5時間の乗合い、ワイワイガヤガヤ言いながら「立山」2本と「宗玄」1本が8人の胃袋に、後はビール、何時も賑やかな面々である。新顔は3名、それにしても職場が同じとあれば、逆に私が新顔ということになるのかも。外は小雨が降ったり止んだりの空模様、でも誰も外の天気なぞ心配していないから不思議だ。お酒とお喋りに熱中しているという感じ。という私も天気なぞどうでもよくなっていた。しかし、志賀高原では異変が起きていた。
 志賀高原は標高1,400mもあるので、冬季は常に氷点下で、北陸のように積もった雪が太陽熱や気温の上昇、降雨などで融雪することはなく、それが冬季の此処の素晴らしさでもある。もっとも春スキーの時期になればそういう現象も度々見られるようになるのは自然な成り行きである。ところがこの厳寒期ともあろう時期に雨が降ったのである。この時期の平均気温は高くてもマイナス4〜5℃なのではと思うが、それが季節外れの雨で雪面が濡れてしまったのである。着いた頃には雨は湿雪に変わっていたが、それにしても北陸では往々にして見られるベシャ雪を志賀高原で味わうとは、全くたまげた。
 翌朝は雪、それもボタン雪である。食事して8時半に出かける。幹事では今日は奥志賀へ出かけ、昼はプリンスホテル西館に集合とのこと、奥志賀は不案内なので付いて行くことに。ジャイアントを下りるが、湿雪がゴーグルにくっついて視界が悪いこと夥しい。しかも濡れた急な雪面はアイスバーン化していて、未熟な技術ではセーブして下りなければならない始末、楽しいなんてものではない。下りてリフトで西館山へ、2回乗り継ぎ、終点から高天ヶ原側へ下り、道路を跨いで高天ヶ原の真ん中辺りまでリフトで上がり、タンネの森を横断して一の瀬ファミリーへ出る。これを下り、再び道路を跨いで一の瀬ダイヤモンドゲレンデをリフトで上る。雪は相変わらず降っている。それに風も出てきた。リフトを降り、一の瀬山の神ゲレンデを下る。ところが焼額山第1高速が強風で動いていない。やむなく第2高速へ連絡コースを通って回り込む。焼額山第2高速で上がり、サウスコースからプリンスホテル南館へ滑り下りる。ここから焼額山第2ゴンドラで焼額山へ上る。相変わらず視界が悪く、雪面の凹凸も分からず、前の人の後に付いて下りる。足の裏の感覚で滑れというが、素人にはそうはゆかない。一人ゴーグルを持ち合わせない御仁が居たが豪傑というしかない。漸く奥志賀に着いた。ダウンヒルコースを下る。急斜面では転倒者も出る始末、私はシンガリで滑る。奥志賀高原ゴンドラで上り返し、今一度チャレンジする。昼近くになったので、再びゴンドラで上へ、そこから焼額山まで歩き、パノラマアウトコース・唐松コースを経由してプリンス西館に着いた。気温が少し下がったせいか、雪の粒が小さくなってきた。
 昼は生ビールとビフテキカレー、皆さん思い思いの昼食、ワインの人もいる。小1時間いたろうか、再び雪の中へ、そして第2高速で上へ、帰るには南館から第2ゴンドラに乗らねばならないのに、パノラマアウトから白樺へ、そして第3高速に滑り込んでしまい、皆とはぐれてしまった。西館から一の瀬山の神第2で山の神へ戻る。見ると 焼額山第1高速が動いているのが見える。ゲレンデを下り、第1で上に上がり、ブナコースを下り、再び山の神に戻る。午後3時半、ひたすら逆コースで戻ることにする。一の瀬へと西館山へは道路を跨ぐ橋を越さねばならないが、これがまた往きはよいよい帰りはこわいで、半端でない歩きなので閉口した。ジャイアントを上り、蓮池へ下る。ところがここでトンネルを抜けるのを間違え、道路を歩く羽目に、やっと帰館できた。この日女性2人が暗くなっても帰らず心配したが、幸い6時少し過ぎて帰ってきた。暗くなって、ゴンドラ・リフトもバスも止まると大変だ。やっと揃って食事。食事にはポットに入ったお水と称するお酒、夜のミーティングも飲む会以外の何物でもない。天気が良ければビデオ撮りも出来たかも知れないが、1日中吹雪だとそれもかなわない。東京組からは佐渡のとびきり上等の旨い大吟醸酒の差し入れ、座が沸く。明日は待望の横手山行き、天気が回復するだろうか。
 翌朝は気温もぐっと下がって雪はパウダー状、だが風もうんと強くなって吹雪の様相、でも皆さんお出かけ、私もやむなく行くことに。横手山へはシャトルバスで行かねばならず、蓮池のバス停まで歩く。8時40分と50分に、私らは後のバスに、笠岳で下車、リフト乗り場まで歩き、このゲレンデで3本滑る。風は強く、雪は粉雪、でも滑りは上々、しかし寒さで指先が実に冷たい。ここから熊の湯白樺ゲレンデへ回る。横手山へ行くには熊の湯第3クワッドに乗らねばならないが、そのリフトはまだ動いておらず、その間熊の湯で滑ることにする。6本ばかり滑ったが、寒さで指先の感覚がなくなる始末、皆さんはもうレストランで休憩との無線が入り、とりあえず休憩とする。ここでもお水と称する「鬼ごろし」、持参の4リットルは瞬く間に空いてしまった。リフトは強風で動く見込みはなく、午後2時にブナ平の「いこい」で再集合することに。
 先陣は12時50分のバスで蓮池へ、会長は宿(BC)で水を補給して現地(ABC)へ、私も笠岳を経由してバスに乗ることに。ところがバス停には私一人、吹雪の中とて心細かった。漸く来たバスは満員、奥志賀行きだったが、蓮池でほとんどが下車してしまった。ジャイアントを下り、ブナ平へ、まだ時間があるので10本近く滑る。雪質が良い上、風もそれほど強くなく実に快適。時間になって「いこい」へ。半分程度集まっている。此処はおでんが美味しい。お水は5リットルの補給とか、寒いせいか実に旨い。
 食事もして、4時少し前に完売となり、宿へ戻る。今度は蓮池のトンネルを抜けたが、宿の道路を挟んだ真ん前に出たのには驚いた。風呂上りにはビール、食事にはまたまたおいしいお水、ミーティングにはビール、お酒、ワイン、焼酎、私は昨晩飲み残した佐渡の山田錦35%の大吟醸酒を頂いた。実に旨い酒だ。
 最終日、やっと雪が止んだ。とりあえず東館山の「そば」だけは食べることにしての自由行動、帰りのバスの出発は3時なので、2時半までには宿に戻るようにとの申し伝え、私は8時半に宿を出た。ジャイアントはガリガリ、粉雪の下は正にアイスバーン、下りてブナ平に向かう。まだ発哺クワッドしか動いておらず、ロングコースを5本こなしてからゴンドラで東館山へ。まだ時間は早いが、とりあえず「そば」を食う。そして寺小屋へ。ここは標高が高いせいもあって、斜面はガリガリのアイスバーン、一度っきりで再び東館山へ戻り、一の瀬へ行く。ここは快適、雲の合間から陽射しも見えてきた。去年も帰る日になってやっと晴れたが、今年も同じパターン、精進が悪いのが居るのかも。初めに天狗コース、次いでパノラマコース、最後に正面ゲレンデを滑る。初級、中級、上級だ。ここから隣の高天ヶ原へ移動してマンモスゲレンデを滑る。高天ヶ原クワッドで再び上り、東館山オリンピックコースと林間コースを取り混ぜて下る。ここも急斜面は正にガリガリ、絶対転べない。
 ブナ平へ戻って食事とビール、済ませて今度は西館山へ、大回転コース、中級コース、初級コースを2本ずつ滑って1時半、河岸を蓮池と丸池に移し、2時まで滑り、宿へ戻った。今日はよく滑った。
 こうして今年のくろゆりスキーツアーもお開きとなった。去年の横手山からの決死の脱出行も忘れ難いが、快晴で見えた富士山も感動だった。またあの感動を味わいたいものだ。

達二叔父の彼岸への往生(2.5)

 平成20年1月20日の日曜日、私と家内は「敬蔵」の蕎麦会席「初春の膳」を頂き、午後8時頃に家に帰った。湯上りにビールを飲み、さてこれから寝ようとしていた矢先、叔父の一切の世話をされている望月さんから電話があり、ただ今叔父が呼吸困難を来たしましたと病院から電話があったので、これから病院へ出かけますとのこと。そして望月さんでは叔父はいざという時には延命治療はしないようにと言われていたので、それでよいですねと念を押されて、それが本人の希望でしたらそうして下さいと、そして私も明朝一番に駆けつけますと言って電話を切った。昨晩、別の用事で望月さんに電話した際には、叔父は元気だった頃と同じ位に体調が回復し、お粥も自分で食べられ、談笑され、看護婦さんもこの調子なら6月頃まで大丈夫ですよとのこと、ですから、ノブアキさんもご心配なさらずにと言われていた矢先だっただけに、何か青天の霹靂のような感じがした。
 叔父は暮れから正月にかけて体調を崩し、口から食物を摂ることは禁じられ、点滴をしていますと聞いたのは正月の5日、瀬女高原へスキーに出かけて帰った晩だった。体調は安定しているので心配ないと思いますが、念のためお知らせしておきますとのこと、齢も91歳と10ヶ月、何が起きても不思議ではない。叔父はずっと寝ていて足腰が弱って全く歩行はできないものの、これといった病気もなく、流感のシーズンを過ごせればまだまだ健在なのではと思っていた。入れ歯を外していることもあって、言葉は少々聞きづらいが、でも頭は中々明晰、ギャグも達者で、病院にいても「エコノミスト」を愛読していた。前の院長には株の指南もしていたとか。私は家内と三ヶ月に一度は叔父の見舞いとお世話頂いている方々へのお礼とを兼ねてお寄りしてきた。
 望月さんは達二叔父の亡くなった細君の弟さんの娘さんで、十年前に叔母が他界してからは、叔父のたっての希望もあって叔父の身の回りの世話を、少なくとも週に一度はされていた。始めのうちはヘルパーさんに頼まれていたようだが、入院されてからは、治療以外のことはすべて望月さんが面倒を見られるようになった。旦那さんも定年で自宅においでたこともあって、車を運転され、アッシー君の役をされ、婦唱夫随、本当にエライ旦那さんだ。それでも月に何度かは仲睦まじく一緒にゴルフに出かけられているとのことだった。
 志賀高原へのスキーツアーが11日晩から14日まで、どうしたものかと出発の前日に望月さんに相談したところ、割と安定しているし、一時熱が出たけれどもう平熱に戻ったので多分大丈夫ですから安心してお出かけ下さいと言われ、とにかく何か事態が急変した時は志賀高原から東京へ直行できるように準備して出かけることにした。スキーツアーの間も気が気でなかったものの、容態は落着いていたようで、家からの連絡もなく、無事帰宅できた。望月さんは毎週木曜日に叔父の所へ行かれることにされているので、帰って17日の木曜の晩に電話したところ、再びお元気になられ、お粥も自分で頂かれていますとのこと、それを聞いて一安心したものだ。
 1月20日、望月さんご夫妻が病院へ駆けつけられたのは午後11時20分頃、その時叔父は酸素マスクをされていて、病院の説明では肺炎を併発されているとかで呼吸困難だとのこと、気管切開はしないとの叔父の意思を担当医に伝えたと。叔父は未だ意識があり、望月さんが手を握り声を掛けると目を開けられて微笑まれたようだったと。でもその後は眠りにつかれ、11時30分にはご臨終ですと言われたとのこと、本当に穏やかな大往生だったとのことだった。病院には遺体を安置する場所がないとかで、近くの東本願寺ひばりが丘別院に安置してもらうことにしたと。私が望月さんから亡くなったとの知らせを受けたのは、午後11時32分だった。携帯電話がなければこうは迅速にことは運ばない。
 叔父の実家というか生家は私が今住んでいる家で、何故か本籍も野々市町の地番になっている。家は代々浄土宗で、本山は京都の知恩院、檀那寺は金沢市の法船寺である。今の方丈さんは第31世、この1月からは月曜から金曜まで知恩院で役員としての執務、金沢には土・日だけとお忙しい。20日はたまたま日曜日、時間は真夜中だったが電話して、叔父の意向でもあり、是非導師をして頂きたいとお願いしたところ、21日22日と東京で宗派会議があるので、23日通夜、24日葬儀でお願いしたいと、平生は伴僧が5人も付き大変賑やかな式なのだが、お一人で勤められるとのこと、早速望月さんに連絡した。その際、供物供花のみでなく、相談して香典も頂かないことにした。金沢と東京では返しの扱いが全く違っていて、香典の額の半返しということをするらしく、とすると人数もある程度いないとこなせず、これを省略して簡単なお返しをするのみにした。記帳も本人に書いて貰うカード式にし、結果的に手間が随分省けたが、一方で、香典をお納め頂くことで随分苦労した。
 翌朝まで一睡もせず、必要なものを携えて、叔父が安置されている寺には午前10時過ぎに着いた。叔父は眠っているような端正でできれいな顔立ちだった。望月さんだと5軒もの葬儀屋さんが訪れたとか。でも人気のある斎場は1週間待ちとか。東京の斎場は総て民営だそうである。叔父はもう10年も入院していたので、親戚とも教え子とも随分疎遠になっていたこともあって、弔問・会葬の人数の見積もりを両日とも百人と見込んだ。親戚はお互いに連絡することにし、大学は木村ゼミ(経営工学)の方で時々お見舞いにお出でて望月さんとも面識のある方にお願いした。問題は写真で、私の手元には叔父の母(昭和40年)と私の父(昭和55年)が亡くなった時の写真しかなく、これは大学にお願いすることにした。喪主は故人の希望で小生が勤めることになった。荷が重い。
 通夜・葬儀の会場は百人程度ということで、四谷3丁目にあるとある会館、東京ではこのような場所はお寺さんの経営とか、葬儀屋さん経営の金沢とは様相が全く異なる。また通夜の席で私が皆さんに挨拶したいと言うと、喪主は挨拶しないものだとか、通夜では挨拶をしないとか、いろいろ抵抗があったが、ここは金沢流にしてもらった。すると通夜での挨拶は、僧侶入場の前で司会者の故人の経歴のアナウンスの後ということに、また焼香台は導師の後に設えてあり、喪主も弔問者も同じ向き、焼香で名を呼ばれるのは喪主の私と親戚代表の久吉叔父のみ、後は係りが案内するので、先に焼香しなければならない人は前の方にお座り下さいと。田舎では焼香順で大トラブルになるのをと思うと、楽といえば楽である。
 通夜は午後6時に開式、阿弥陀経が始まると焼香が始まる。焼香台は導師の後だから、導師に礼はできない。私が言われたのは、焼香の前に弔問の方々には深く、親戚の方々には浅く礼をして、それから焼香をと、これも一理あるなあと思い従う。親戚の焼香が済むと、喪主と親戚代表は式場正面左手に立ち、弔問客が焼香をしてそのまま2階の静めの間へ上がられる時に礼を述べるようにと、通夜では出席者全員が静めの間でおときに就いて頂くとか、弔問者が多いとどうなるんだろうと心配になる。この席では精進料理などではなく、れっきとした料理が出る。お酒もふんだんにある。故人を偲ぶには好い趣向なのかも知れない。東京ではこれが趨勢だとか、精進料理はなお高くつくとか。郷に入れば郷に従えか。この日の東京は寒く、初雪が舞った。それもかなり。駐車スペースも少なく、車の方も、徒歩の方も大変だったろう。しかも狭い路地の奥。でも場所はJRの駅からも、地下鉄の駅からも近かったのがせめてもの救い。この場所は旧町名のまま、町の名だけではタクシーの運ちゃんは見当がつかないという。ナビがあればこその世界である。
 次の日の葬儀は午前11時の開式、読経に続く焼香は昨日の通夜と同じ、親戚の焼香が終わると、二人は昨日と同じ場所で昨日と同じように立礼でお礼をする。ただ後で故人とお別れをするので、時間の許す方はそのままお席に残って下さいと司会者がいう。祭壇の白菊の花が参列者全員に渡され、お棺を満たす。蘭や百合はそのままで、そして最後の献花は喪主が、叔父は花に埋もれ、棺は男衆に担がれて霊柩車へ。私も位牌を持って霊柩車へ。親族以外にも木村ゼミの関係者もかなり野辺へ行かれた。
 斎場には高速に乗り20分ばかりで着いた。最後のお別れをして荼毘に、民営で競争も激しいのか、斎場はきれいで、設備も最新とか。1時間ばかりで真っ白なお骨に。東京都ではお骨は全部持ち帰らねばならないとかで、骨壷も随分と大きい。骨が随分と軽いのは骨粗ショウ症のせいだと係りの方が言われる。会館へ戻って葬儀供養と初七日法事の読経があり、終わって皆さん中陰の席に着いてもらう。ここで再び喪主が挨拶をと。私は会葬の方への御礼、お世話頂いた望月さんへの御礼、それと叔父との会話からのエピソードを少しした。まだ叔父が現役の頃には話を聞く時は正座をしなければならない位緊張したものだったが、晩年は顔立ちも柔和になられて、緊張感はそれほどでもなくなっていた。以前は私が初耳な金沢での昔の話をいろいろ聞かせて貰ったものだ。
 でも昨年夏辺りからは楽しい空想が混じるようになってきた。例えば、ノーベル賞を頂きにストックホルムへ行くことになり、服を新調したとか、行くのには飛行機でなく飛行船で行くことにしているとか。またベルリン大学から招聘されているが、今体調がはかばかしくないので、院長先生からはもう少し復調してからにしてはと言われているとか。そんなお話をされている時は、とても病人とは思えない程楽しい感じ、でも長時間のお話は無理なようで、1時間が程よい頃合いだった。こんなエピソードを交えた挨拶をした。幸い葬儀の当日は正に快晴、叔父の旅立ちには正に絶好の日和、光の速さならスウェーデンでもドイツでもアッという間に行けよう。いつか叔父の語録を書き留めたいものだ。
 こうして故達二叔父の葬儀は終った。中陰の席で叔父の夥しい蔵書のことをゼミの方に話したところ、大学で預かるとのこと、何か希少な本もあるとか、お役に立てて頂ければ幸いだ。後のことは望月さんに託した。まだいろいろな懸案はあるものの、この日はとにかくこれで金沢へ帰ることにした。ところが新潟が大雪で米原回りでないと帰れないことに。お骨やお位牌の忘れ物もあると聞くが、こればかりは粗相のないようにと、満員の電車の中で思ったものだ。夜半に家に帰り、お骨を仏壇の袖に入れようとしたが、思いのほか大きくて入らず、仕方なく床の間に台を設え安置した。満中陰まで叔父の実家でお預かりすることにし、花瓶にお花を生け、燭台に灯明をあげ、香炉には頂いた線香を焚いて供養することにした。
戒名は、「超勝院通達善趣居士」。生前に前世の方丈さんから授与されたものだ。

閑話休題
1. 叔父と叔母とは熱烈な恋愛関係にあったと私の母から聞いたことがある。叔父は四高を受けたが入学できず、滑り止めで受けた早稲田の予科から早大理工学部へ進んだ。英語と数学に堪能で、当時は実家も潤沢だったし、細野燕台という伯父について書画骨董を学んだり、星岡茶寮にも出入りして、舌の感覚も会得したようだった。伯父の一流意識はこういう環境で培われたのかも知れない。一方叔母は静岡では名門の青島家のお嬢さん、当時も静岡一のデパートを経営していたとか、経歴は知らないが、叔父と知り合った頃は何故かれっきとした共産党員として活躍していたとか、ロシア語にも堪能で凄かったという。
 結婚話が当人同士から持ち上がった時、木村家は赤はまかりならんと大反対、青島家は小さい田舎の地主のせがれに娘をくれてやるわけにはいかんということで、全く埒が明かなかったという。仲介の役が私の父に回ってきて、母がどんな策を父に授け、父がどんな労をどれ位重ねたかは知らないが、突如大団円になったと母は話していた。祖父祖母もあれ程大反対していたのに掌を返すような喜びようだったと。でもお腹の子は母親が階段でつまずいたのが原因でこの世に生を受けることなく亡くなった。以後、叔父と叔母の間には子供は授かっていないし、養子縁組もされなかった。
2. 久吉叔父の話だと、達二叔父は終戦後米英両国が第二次世界大戦で用いたオペレーションズ・リサーチという科学的・数学的作戦計画に接し、これを基に企業経営を科学的・数学的な観点から合理的に研究することを学び、今日いう経営工学の分野を立ち上げた。多くの大学や会社から講演依頼を受けたという。それで請われて定着したのが成蹊大学だったという。この分野では草分け的な存在だったようだ。
3. 家内の携帯電話には、石川県の数人から木村達二の訃報が地元紙の北国、北陸中日、読売に掲載されていたと連絡があった。これには私も驚いたが、どうも大学から共同通信に流れたようだ。通夜の日に静岡の方がグーグル検索の一覧を届けてくれたが、これで見ると、全国紙3紙、地方紙40紙ばかりに掲載されたようだ。こんなことは初めての経験だ。タイトルは異なるが、文面はすべて同一、共同通信の配信と思われる。以下はその文面である。 〔木村達二氏(きむらたつじ=成蹊大名誉教授、経営工学)20日午後11時30分、肺炎のため東京都西東京市の病院で死去、91歳。石川県出身。葬儀・告別式は24日午前11時から新宿区須賀町14の1、四谷たちばな会館で。喪主はおいの晋亮(のぶあき)氏。〕


古稀の旅、旅館「すぎもと」とそば処「浅田」(2.13)

一、古稀の祝いに旅の企画
 昨年古稀を迎えたのを期に、ゆったりした旅行をしようと言い出したのは家内である。まんざら悪い話ではないので乗ったものの、企画はあなたまかせ、しかも彼女自身昨年秋には退職の予定だったのに辞められない事情が生じてしまって、休日しか日程が取れないという。とすると、2泊3日という贅沢な旅行はどうにも予定を立てにくい。その上彼女は町の体育協会の副会長をやっていて、しかも今年度は創立50周年の行事が予定されていて、こちらはどうしても最優先しなければならないという事態、全く予定の立てようがなく家内には実現不可能という恨み節を語ることになった。それに東京の叔父への見舞いにも行かねばならず、まことにもって古稀の旅なぞ絵に描いた餅と諦めていた。
二、日と行き先が決まって
 クリスマスの日、夕方になって、古稀の旅を2月の9日の土曜日と10日、11日の連休にしようという急な提案、私の誕生日が2月11日だから「古稀の旅」と銘打ったとすればぎりぎりの選択である。しかもこの日以外は駄目とのご託宣までついた。急に何処といって名案が浮かぶわけもなく、県内は敬遠するとか、そうならば一度家内を連れていこうと思っていた美ヶ原温泉の旅館「すぎもと」はどうかというと、それで良いということに、善は急げだ。この旅館には過去2回探蕎会で訪れていて、中々好感の持てる宿だ。インターネットに登録してあり、初めてだがアクセスして申し込んだ。ところでどういう状況かと翌日電話で空き状況を聞いてみると、余り空きがないとのこと、泊まれないと困ると思い、かくかくしかじかで空いている部屋を抑えられませんかと言うと、二重申し込みになりますとのこと、インターネット一本にしないと事が面倒になるようだった。印象では旅館自体、自前でもいくらか枠を持っているようだが、大部分は「こだわりの宿どっと混む」のネットワークに乗っかっているような印象を受けた。
 私はインターネットでの申し込みは旅館自身のホームページ上で処理されるとばかり思っていたものだから電話で念を入れようとしたのだが、どうも小生の浅学非才のなせる業だったらしい。程なくして届いた予約確認書の担当は「株式会社スターツーリスト」となっていた。
 東京の叔父のことも気がかりだったが、今となっては俎板の上の鯉の心境、もしも駄目なら駄目でダメモトと割り切ることにした。12月の10日に叔父を訪問した折は大変元気で、この調子ならお正月も十分乗り切れると実感したものだ。こうして計画だけは独り歩きすることになった。
 お正月に叔父の容態が思わしくないと連絡があり、一旦持ち直したものの、1月20日深夜には叔父は帰らぬ人となった。東京での葬儀を済ませてしまうと、後は満中陰と納骨のみ、叔父のことが最優先だっただけに、一段落して、松本への旅行も心配せずに出かけられるようになったのは叔父の好意もあってのお陰と感謝して出かけることにした。
三、一路松本への途中に白馬飯店と大町山岳博物館に寄る
 出かける日の当日は着替え程度を持ったきりで、食べ物も飲み物もすべて現地調達ということにした。家を出たのが朝の9時半、この日の天気予報は晴後雨か雪、午後は天気が悪くなりそうな予報だった。高速道を糸魚川で下り、国道148号線(千国街道)を南下する。八方尾根スキー場へは何度か同道しているので、この道は通い慣れた道だ。今日の昼食の場所はYASUHIRO氏推奨の中国料理「白馬飯店」と決めていて、ナビの誘導で簡単に着けた。マスターは台湾出身なのだろうか、いわゆる中華料理屋とは趣が違っていて新鮮な感じ、昼時ともあって混んでいる。団体さんも入っている。私は五目ラーメン、家内は広東風焼きそば、二人で蒸し餃子を頼む。焼き餃子はない由。量もあり、味付けも一風異なる。これが本場の味なのか。いずれにしても御推奨だけのことはある。この頃から雪が舞ってきた。
 雪のなかを大町へと南下する。大町では市立大町山岳博物館をどうしても訪れたく思っていた。ここでもナビの力を借りて着くことができた。山の中腹にあり、道路は急な上凍結していたが、4輪駆動でスムースに着けた。雪が激しくなってきた。車は3台止まっていたが、どうも職員のらしく、私達以外には入館者はいなかった。入って素晴らしいと思ったのは蒐集が本格的であるということ、北アルプスの全容を俯瞰できることもさることながら、大沢小屋も移してあり、黎明期から近代までの登山の様相が実によく纏めてあるのには感心した。山で使う道具も系統的に展示してあり、特にピッケルは実に多数展示してあった。加えて山の動物は実物を豊富に展示してあり、雷鳥の換羽の様子は圧巻だ。
 また、地質も詳細にわたり、山々を構成する岩石が特徴を持っているのが実感できたのには感激した。「氷壁」のモデルになった切れたナイロンザイルも展示してあった。実にリアルで、また訪れたいと思った。天気が好ければ3階展望室からは裏銀座の七倉岳から蓮華岳、赤沢岳から白馬岳までの後立山の北アルプスを一望できるという。春夏秋冬の眺めを写真で紹介してあったが、一度実感したいものだ。
 このほか大町市には塩の道、酒、温泉などの博物館や資料館、美術館が9つあるというが、いずれも一見に値するものだという。博物館巡りも目玉として啓蒙しているとか。
四、美ヶ原温泉の旅館「すぎもと」へ
 大町からは国道147号線を更に南下し松本市へ、ここで目的地をセットする。指示どおりに車を走らせると、目的地周辺で音声案内は途絶えた。最後のツメで右に曲がらねばならないところ直進したものだから、道は狭くなり山へ、ここで間違いに気付きバック、音声が終了した地点まで戻り、聞くと右折、漸く雪が降る中、見覚えのある宿に着いた。車は玄関前の料亭への通路に止める。
 案内されたのは清風庵3階の常念の間、ここからは常念岳が見えますというが、今日は生憎の雪、到底見えない。午後5時から恒例のご主人のそば打ち、また今日と明日、ここ美ヶ原温泉の全旅館巡りでお酒が出ますとのこと、これは5百円とか、カミさんの希望もあって二つとも割愛して、湯上りにビールを飲んで寛ぐことに。まだ時間が早いせいか客は少ないが、でも今日はほぼ満杯とか。やっと実現したという実感、よかった。
 食事は料亭「おりがみ」で、6時半からにしてもらう。掘り炬燵式のテーブル、私は足元が暖かいことを知っていたが、カミさんの方は暖房が入ってなく、ビールを飲んでいて寒くて震えが来ている様子、世話している人はエラく恐縮していた。どうやら暖かくなり食事がすすむ。ここは料理の品数が多く、全部平らげると満腹になってしまう。料理も半ば頃に主人の打ったそばの注文を取りに、とても料理を済ませた後では別腹にも入らない。二人で食べるにしてもこなせられないのでは。たかが料理のコースに入っている釜飯でさえ食べられない始末だ。以前にやはり食事が一段落した後で出されたことがあるが、とても食べ切れずに残した経験がある。でも中には頼んでいる客もいた。一枚千円とかだった。
五、そば処「浅田」
 朝食が済んで部屋で寛いでいると、11時頃より部屋の掃除をしますが、今日のご予定はときた。今日は浅田へ寄るので、タクシーを1台お願いしますと言った。開店は11時半だが、もしものことも考えて11時過ぎに寄るようにした。「浅田」に着くと主人が雪掻きをしていて、11時25分に開けますので、それまで通りの向かいのモンクという店でコーヒーでも飲んでおいでたらと言われ、そうすることに。コーヒーとカレーが旨いという。店に入る。ものの10人程しか入れないスペースだ。片面には本が棚に、コーヒーでも飲みながら読むのかと思ったが、どうも古本屋兼業のようだった。深田久弥の日本百名山の初版本があったので値を見ると2万5千円とある。マスターに聞くと、揮毫と署名があってこの値段では安いと、垂涎の的だったが、いち早くカミさんに悟られ、クギをさされた。残念無念。いつかまた訪れることがあって残っていたらゲットしようと心に決め、口には出さなかった。代わりに小沢征爾の「ボクの音楽武者修行」新潮文庫を2百円で買った。
 20分になったので「浅田」へ向かう。もう6人もいる。車も3台。地元ナンバーではなく、東京や横浜から、いつかの「ふじおか」を想い出した。25分に店の中に、テーブルには向かい合って座ることに、30分になったら早かった順に注文を受け付けますと、主人の指名で私達に真っ先に注文がきた。お酒を先に頂いてもいいですかと聞くと、大歓迎と言われ、感激してしまった。私は先ず「鄙願」と焼味噌、カミサンはアサヒスーパードライ、ビールのつまみには揚げ蕎麦が付いてきた。「鄙願」をカミさんに少し勧めると実においしいと、頼んだビールを飲まずに「鄙願」を所望するのにはビックリした。私の分を横取りされ、3本所望する羽目に、参った。この間にもぞくぞくお客が、団体まで入ってきた。奥の部屋を占拠する。探蕎会でもそんなことがあった。
 蕎麦前が終って、初めに十割そば、端正な細打ち、薄緑色で青磁を思わせる芸術品のようなそば、カミさんの舌も肥えてきて結構一言言うのだが、これにはビックリした様子だった。案内した甲斐があったというものだ。もう一枚というからもりそばを頼んだらと言う。これは二八、やはり細打ち、これは緑はさしていない。喉越しの違いが分かろうというものだ。私は温かいきのこそばを所望した。実にいろんな茸がふんだんに入っている一品、品書きにはこの三品のみだ。この時若い女性が二人隣に、聞けば名古屋からワザワザ電車に乗って此処に、何を頼もうかと思案しているから、先ず十割にしたらと言う。お酒は飲むのですかと聞くと、飲みますと、じゃ「鄙願」をと、そうしますと、ここでカミさんがそこまで言ったのなら出して上げなさいと、推奨して上げただけなのにと思ったが、ここはカミさんのご託宣に従うことに。二人には随分と感謝された。松本城を見てのお帰りとか。
六、松本市美術館
 街中をブラついてから、時間もあったので百円の周遊バスに乗って松本市美術館へ、入口には奇妙奇天烈なオブジェが、前衛的な印象が強く感じられる。常設展示には3人の松本市出身の作家の作品が展示されているが、その作品は私達の想像を超越した世界の産物であって、到底理解できるものではない。また部屋自体が作品となっている代物も、鏡の間というのも作品だがまるで迷路に入り込んでしまったようで、よほど冷静にならないと入口も出口も分からないという奇妙なもの、学芸員の方に助言して貰いやっとの脱出、本当に驚いた。こんな作品は日本で出品するときはどこへと聞くと、出す機会はないとのこと、でも外国では高い評価をされているとか、とても理解できる代物ではない。余程斬新で狂的な発想がないと創作できまい。
七、「すぎもと」二日目
 夕食の献立がすごく気になった。同じ献立なのか、違うのか、それもアレンジなのか、全く別仕立てなのか。時間は昨晩より30分早くして午後6時にして貰った。カミさんが座った場所の敷物の暖がやはり取れてないとのこと、私と場所を交代する。確かに暖かくない。結局足マットを交換してくれた。さて献立の方はというと、全く昨晩とは異なっていた。大皿に白身の魚数種の刺身の盛合わせ、隣の客がこちらにはと聞いていたが、コースが違うのでと説明していた。その客のコースは昨日の私達の献立に似ているようだった。やはり手打ちそばの注文取りがあったが、昨晩よりもっと満腹になっていて、料理の方も最後の一品は食べずに残してしまった。
フロントに戻り、カミさんはロビーでコーヒーを飲みながら読書、私は蕎麦の蔵書に目を通しながらクラシックジャズを聴く。この音質は実に素晴らしく心地よい。真空管アンプからの音は温かで優しく心が和む。オーディオ機器はマッキントッシュ製、スピーカーはハーマン社のJBLだとか。
八、アルプス回廊を行く
 この日は野々市へ帰る日、朝から快晴である。私達の「常念の間」からは確かに真っ白な常念岳の三角錐が見えている。この朝の気温はマイナス8.6℃とか、外はガリガリである。朝の食事に岩魚の一夜干しが、初めてだった。午前9時に宿を後にする。途中町外れで今一度雪を頂いた蝶ヶ岳、常念岳、横通岳、大天井岳を飽かず眺める。懐かしい山々だ。松本の市外を抜け、梓川の堤防に立つ。豊科辺りからの常念岳は一幅の絵になる。神々しい感じがする。国道147号、148号を北上し、松本市、安曇野市、松川村、大町市、白馬村と南から北へと車を走らすと、車窓には真っ白に雪を頂いた北アルプスの山々が展開する。快晴の青い空に峰々が映える。南から北へ、蝶ヶ岳、常念岳、横通岳、大天井岳、燕岳、有明山、餓鬼岳、七倉岳、北葛岳、蓮華岳、針ノ木岳、赤沢岳、鳴沢岳、岩小屋岳、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五龍岳、白岳、唐松岳、白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳、白馬乗鞍岳と正にアルプス回廊の道の旅である。こんな大パノラマを満喫したのは未だかつてない。実に素晴らしい旅となった。
 帰って、家内がまた美ヶ原温泉の旅館「すぎもと」へ訪れたいと言う。四季それぞれに趣があろうが、今度は暖かい時期にしようか。そして標高2000メートルの美ヶ原高原から北アルプス連峰の大パノラマをぜひ見せてやりたいものだ。


東京の蕎麦屋@「かんだやぶそば」と「ほしの」(2.20)

 「探蕎」では平成19年の年頭に当たって、会員の方々の抱負を述べていただく企画があった。私は昭和30・40年代に食べ歩いた蕎麦屋のうち、日本橋、神田、上野界隈の古い蕎麦屋をもう一度訪ねてみたいと書いた。しかし東京へは大概夜行で出かけて、終発で帰るというきつい日程のせいもあって、蕎麦屋へ寄る機会はなかった。東京には昨年5回行っているが、目的は東京で入院している叔父の見舞いである。この平日に出かけなければいけないのは、叔父の世話をして頂いている方が叔父の所へ週に一度寄られる日が木曜と決まっていることによる。しかし晩秋に訪れた折は都合で土曜となったので、では日曜日に蕎麦屋巡りをしようと目論んだ。しかし、下調べもせずに出かけたものだから、大変なしっぺ返しを食ってしまった。調子の好い目論見は無残にも瓦解してしまった。

一、かんだやぶそば
 私は昭和30年大学入学、34年卒業、病気で専攻科に残り35年修了、県の衛生研究所に就職、38年に医学部微生物学教室の専攻生として波田野先生の下で研鑽することに。学生の頃も上京した時はよく蕎麦屋へ寄った。また県職員になってから、県から国立公衆衛生院、国立予防衛生研究所、東京大学医科学研究所に延べ1年間、昭和43年まで内地留学で在京したこともあって、その頃には山へもよく出かけたが、よく蕎麦屋巡りもした。蕎麦屋というと、その頃の金沢では「砂場」と「更科」の2軒しかなく、広い東京でも100軒はなかったのではなかろうかと思っている。私が山本嘉次郎の案内書を手にして東京23区内で訪ねたのは50数軒だが、少なくとも都心の蕎麦屋は全部巡った。
 この度は先ず「かんだやぶそば」を目指した。御茶ノ水駅から、晩秋のある日ブラブラと坂を下る。その日は風があって並木の黄葉が見事に風に舞って正に吹雪のよう、空は青く澄んでいる。店に近くなると「かんだやぶそば」はこちらですという赤い矢印がそこここに、小路もあるが、丁寧に案内してくれる。でも矢印がないと分かりにくいかも知れない。少し広い通りに出ると「かんだやぶそば」が見えてくる。道路には2台の駐車スペースがあり、外車が2台停まっている。初めて来た時もベンツが停まっていてビックリしたものだ。瀟洒な木の門をくぐると庭があり、きれいに剪定された黄金竹と赤い花をつけた山茶花が植わっている。表から入る石畳の通路には、案内しますから右から入られて待合で暫くお待ち下さいとある。昼に近く正に満席である。都心にありながら実に静かで落着いた雰囲気、小さな庭なのに広く見える。ガラス戸越しに店の中が伺い知れる。優に百席はあろうか。右手へ辿り待合所へ入ると、中には既に20人ばかりが待っていた。
 初めて寄った時は大きさにも圧倒されたが、「せいろ」1枚と言った時に実に怪訝な顔をされたことを思い出す。周りはと見ると、2枚、3枚と頼んでいるではないか。田舎丸出しだった。2度目からはそんな失敗はしてはいない。そんなことを家内に話しながら待つ。客が次々に訪れて来て、座れずに立つ人も、また待合所も一杯なので帰る人も、開店して間もないこともあって、店から出る人はまだない。30分位して漸く動き出す。二人掛けの机に案内される。お酒は菊正宗のみ、私は銚子1本、家内はビール、酒肴は焼き海苔が私、家内は板わさ、特に焼き海苔はここの看板のような存在、箱の底には火種が入っていて海苔は香ばしくパリパリの状態、実に逸品、家内の方が気に入ってしまったようだった。菊正をもう一本追加する。
 蕎麦前が終って「せいろうそば」2枚、一人1枚はここでは物足りないのだが、後2軒は寄りたいと思っていたものだから、我慢して1枚にした。出てきたそばは端正に切られているが、機械切りである。老舗でもかなり手打ちになってはいるが、此処では従来どおりのロール挽きである。そばは薄緑色をしている。でもこれは蕎麦の色ではなく、クロレラのなせる色、でも上品な色合いである。そばはあっという間に胃の腑へ。注文を取った後で女将さんが復唱して奥へ、歳をとられているが、声の張りに衰えはなく、浪々としている。ご主人も帳場に出ておいでての指揮である。下町情緒を十分に満喫できた一時であった。
 出てから近くの「神田まつや」へ向かう。ところが店はお休みだった。ここは戦災にあってなく古い雰囲気が味わえ、特に菊正宗でまつやならではの酒肴でゆっくりやろうと張り切って来たのに実に残念、ここでは相席は当たり前で、「かんだやぶそば」よりもっと庶民の店という感じ、老舗の蕎麦屋と一時代前の居酒屋が同居しているタイムスリップした雰囲気だ。そばは機械製麺からすべて手打ちにされた由、私の大好きな店だ。定休では致し方なく、仕方なく岩先生御推奨の「九段一茶庵」へ向かう。古い店ではないが、評判の「鴨せいろ」をと意気込んで向かったが、ここもお休み、実に残念、後半はクタビレモウケになってしまった。この次からは何曜日が定休なのかを確認してからにしなければ。犬も歩けば棒に当たる式では心もとない。調べると上野・浅草界隈は日曜日はOKだった。
二、ほしの
 東京の叔父が1月20日に亡くなって、通夜が23日、その間西東京市のひばりが丘にある東本願寺別院に叔父を安置してもらっていた。21日にはお世話頂いた方、葬儀屋さんと打ち合わせが終った後、世話した方が叔父が時々誘ってくれたという蕎麦屋へ行きましょうと言われる。その店の名は「ほしの」とか、私も一度はぜひ訪れたいと思っていたものだから、二つ返事で話に乗った。柴田書店のそば店100にも載っている有名店である。ひばりが丘には駅前近くに「たなか」があって、そこには3回ばかり寄ったが、最後に寄った時は親父さんも80歳を優に超えておられていて、そばを打つのはお孫さんにバトンタッチされていた。そのせいか、ソバには張りがなく、看板の玉子巻きも巻きが緩く、以前から見るとイキさがなくなったように感じられ、また寄ろうという気持ちが起きなくなってしまった。「たなか」と「ほしの」とは距離にすると2キロ位離れていようか、以前にも一度はと思ったことはあるものの、求めて行くのも憚られた。そこに渡りに船、しかも近くという。小躍りしたものだ。
 本には閑静な住宅地の一角とある。向かいにひばりが丘団地西口バス停がある。ほしのビルの1階に店はあった。ところが入口には「午前、午後とも予約の方のみ」とある。念のため伺うと、やはり予約してない方は駄目ですと、今日は平日、諦めざるを得なかった。
 晩遅くに金沢の叔父から電話があり、明朝9時にお寺へ寄ると、そこで私達も電車を乗り継ぎ、駅からタクシーで寺へ向かう。約束の時間の9時に丁度着けた。しかし肝心の叔父が10時になっても現れない。携帯電話も通じない。11時まで待ってお出でなければ帰ろうとした矢先にご入来、お年は85歳、兄である東京の叔父にご対面し、正午に寺を辞した。
 バス停までそぞろ歩く。「ほしの」の前に来た。今日は張り紙がない。店に入って聞くと、「もり」だけならあると、入店が許された。この店はできて20年ばかり、ただ旦那さんがガンで亡くなられ、10年前に奥さんが一念発起されて自分で始められたとか。そばは自家製粉、しかも生粉打ちの「もり」のみ。店の四人掛けのテーブルに3人で座る。見回すと奥に夫婦らしき一組、話を聞いているとどうも同業者らしい。しかも相手方が訪れるというので店を開けたらしい雰囲気、後で分かったことだが、本当は休みだったらしい。そんなこととは露知らず、見回すとショーケースにお酒が数種類入っている。お酒を貰っていいですかと聞くと、どうぞと言う。奥さんは一見「つる忠」の女主人市川さんに似ていると思った。栃木の四季桜がある。これを下さいと言うと6勺位しかなく別のをと言う。ならば新潟の八海山、つまには合鴨と紅参大根の漬物、家内はビール中瓶と蕎麦揚げ、それと野菜天ぷら。タラの芽、パプリカ、南瓜、茄子が、とにかく大振りにカットされていて、食べ甲斐がある。
 お酒も山形の出羽桜、石川の宗玄、宮城の墨廼江、高知の美丈夫と次々に銘柄を変えて飲む。その都度グラスを換えてくれる。銘柄はすべて700円、良心的だ。叔父貴も中々美味しいと、家内のビールがなくなると、気を利かしてスーッとお代わりを、実にタイミングが良い。そして今日は美味しい茸鍋があるから是非と、昨日は門前払いだったのにである。豆腐に滑子、榎茸、舞茸、椎茸、占地が入り、青みに蕎麦芽が付く。再び宮城の墨廼江、すると初めに所望した四季桜もサービスしてくれた。そして終いは「そばがき」と「もり」で締めることに。ただ、そばは十割だが、少しボソボソした感じ。どうもそばよりは手作りの料理にウエイトが移っているような印象を受けた。もうこの店に「そば」を求めて訪ねることはないだろう。ただ、酒肴はみな美味しかった。それにしても昨日の予約していた人達は「ほその」の「もり」を食べに来てたのだろうか。それとも女主人手作りの酒肴と美味しいお酒を飲みに来ていたのだろうか。何とも気がかりだ。となると、その原因究明に「ほしの」へ再度探訪するのも一興かも知れない。

信州と越前の「そば」と「そば切り」のルーツ(3.6)

 二月に美ヶ原温泉の旅館「すぎもと」へ行った折にKURAという信州の地方情報誌を目にしたところ、高遠そばの歴史という小特集があり、高遠と会津とは密接な関係にあるとあった。しかも高遠ではある時期高遠そばが衰退してなくなっていたのに、会津では綿々と高遠そばが生きていたということだった。そして結びには、出雲も出石も源を辿ると高遠に行き着くという。しかしここには越前の名は出てこない。そこで中山重成さん著の「越前おろしそば文化」をひもとくと、松本、出雲、山形のそばのルーツは越前ではなかろうかと。ここでは中山さんの著と中田敬三さんの著わした「物語信州そば事典」とから、信州と越前のそばとそば切りのルーツなどについて抜書きし、比較してみた。私自身、そばは普遍的なもの、何処にでもあったろうから、その土地その土地で独自に発展したものだとばかり思っていたものだから、とても意外な印象を受けた。少し紹介してみたい。
一、そば
 日本にソバがいつ入ってきたのか、従来は稲、大麦、小麦と同じ時期、すなわち弥生時代に大陸からもたらされたとされていたが、その後の調査では稲より早く伝来したことは確かなようで、縄文晩期には伝来していたという。ただそのルートについては必ずしも定説はないようだ。しかし野尻湖の発掘調査からは、少なくとも5世紀頃には既にソバ栽培が行われていたことは確かである。だがどうして食していたのかは不明だという。
 信州には7世紀に役行者(えんのぎょうじゃ)が現在の伊那市内の萱にソバの種子を残したという言い伝えがあると。内の萱は伊那市の西方、天竜川の支流小黒川上流の中央アルプス駒ヶ根の麓にある小集落である。約1200年前に修験道の開祖と言われる行者、役小角が東大寺造営のため全国を奔走していて、木曽御嶽山への修行の途次に木曽駒ケ岳へ訪れた際、村人の温かいもてなしに「一握のソバ」を置いていったという伝承がある。ソバは中国から伝播し、古くから行者の携行食とされていたようだ。その言い伝えに基づき、ここの駒ケ岳神社の境内には「信州行者そば発祥の地」なる石碑が建っている。
 8世紀に入って、「続日本紀」の巻九に、元正天皇(第44代の女帝)が養老6年(722)7月に詔勅を出し、「今夏は雨がなく稲が実らないので、晩生の稲やソバ、大麦、小麦を植えてこれに備えよ」とソバの栽培を国の施策として奨励している。これが現在のところ我が国ではソバに関する最古の記述とされる。越前の小浜市にある真言宗高野山派の古刹羽賀寺にある木造の十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)は「そば祖神」と称される元正天皇のお姿という。
 しかしソバはその後三百年ばかりも日本人の主食とはなり得ず、「古事記」に出てくる穀物も稲、粟、麦、大豆、小豆で、「日本書紀」にも「万葉集」にもソバは出てこない。ただ延喜18年(918)の「本草和名」にはソバを「喬(蕎)麦、和名曽波牟岐」と記してあり、「そばむぎ」と訓読されている。
二、そば切り
 今日そば・うどんと言うが、生まれた時期には数百年という相当な開きがある。日本での麺の原型は、奈良時代に遣唐使によってもたらされた「索餅」という小麦粉を加工したお菓子の一種だとされている。これが鎌倉時代になると「索麺」と言われるようになり、素麺の原形になったという。しかしこれらは小麦を粉にし、そして加工し、形成するわけで、大変手間のかかる高級な食べ物で、一般の民が食するようなものではなかった。ところでソバを同じように加工しても、   同じような加工品にならなかったことは容易に予想できる。
 麺に加工されたソバ(そば切り)として文献で確認されるのは、平成4年(1992)に長野市の郷土史家の関保男さんが「信濃史料」に収められていた「定勝寺文書」の中で見つけたものが我が国最古のものである。定勝寺は木曽郡大桑村の臨済宗妙心寺派の寺で、この寺で天正2年(1574)に仏殿修理を行った際、修理に当たった人達に「ソバキリ」を振舞ったと「番匠作事日記」の3月16日の条に記されていた。このように江戸時代以前の木曽には既にそば切りがあったことになる。
 この発見がされる前までは、そば切りが最初に登場するのは江戸初期とされていた。それは近江多賀神社の社僧の慈性が書いた「慈性日記」の中の慶長19年(1614)2月3日の条に、江戸常明寺でそば切りが振舞われたとあることによる。徳川家康が江戸に幕府を開いたのは慶長8年(1603)で、その年諸大名が普請役となって下町の建設が始まっているが、それから11年後にはもうそば切りが江戸では打たれていたことになる。
三、信濃のそばと出雲、出石のそば
 慶長16年(1611)に徳川二代将軍秀忠と大奥女中志津との間に生まれた正之は、7歳の時に信州高遠藩3万3千石保科正光の養子となり、21歳で藩主となる。そば好きの殿様として知られ、大根のおろし汁に焼き味噌を加えた「高遠そば」を藩内に奨励したという。その後異母兄の三代将軍家光の計らいで、寛永13年(1636)に出羽山形藩20万石に転封になり、7年後の寛永20年(1643)には会津藩23万石へ国替えとなり、会津松平藩(3代目からは松平姓)の祖となり、名君の誉れが高かったという。後に四代将軍家綱の補佐役として幕政に参画し、徳川三百年の礎を築いたとされる。今でも地元では「会津の高遠そばは信州高遠から保科正之の国替えに伴い入ってきた」というのが常識だという。ところで山形には正之の治世が短かったせいか、「高遠そば」の名はなく、正之と山形のそばとを関連づける文献もないという。山形にはそばどころが多いが、高遠そばを思わせる大根のしぼり汁につけて食べる類のそばはないのだろうか。
 さらに国替え伝播説は出雲や出石にも及ぶ。信州松本の藩主だった松平直政は寛永15年(1638)に出雲松江藩に国替えになり、初代藩主となり、以後230年間、明治維新まで松平家の治世であった。転封の際に松本からそばを打てる者を連れていったというのが伝播の根拠である。
 同じような例が出石にも見られる。信州上田藩主の仙石政明が宝永3年(1706)に出石藩に転封された折に侍のほかに多くの商人を連れていったという文書があり、中にそば職人あるいは賄い方にそばを打てる者が居たことは十分考えられるという。また出石の「南枝」というそば屋の屋号は、中国の「文選」の「越鳥巣南枝」(故郷を懐かしむの意)からとったもので、殿様(仙石政明)の命名という。
四、越前のそばと信州、出雲、山形のつながり
 越前にそばを定着させたのは、越前府中(武生)の領主本多富正で、越前のおろしそばの祖とも言われている。富正は徳川家康の次男である秀康(二代将軍秀忠の兄で、下総結城城主の結城家の養子)が関ヶ原の合戦の直後の慶長6年(1601)に越前68万石の国主に国替えになった折、筆頭家老として府中を拝領した。富正は京の伏見から金子権左ヱ門という人物を連れてきて、領内の農民にソバを救荒作物として栽培させ、安定した食料需給を図ったほか、城下の医者と相談して、大根のおろし汁でそば切りを食する食べ方も工夫させ、富正自身もそのおろしそばを好んで食べたという。因みに丸岡城主の本多成重と富正は従兄弟同士で、ともに越前藩の家老として松平家に仕えていたが、武生には殿様推薦のそば切りが普及していたのに対し、丸岡には以前あった豊原の坊で打たれていたとされる豊原素麺を復活させ、江戸時代にはその名は広く知られたという。
 越前藩主の結城秀康は北ノ庄にあって結城姓を名乗っていたが、長男の忠直からは本来の家名である松平姓を名乗り、以後越前松平家となった。長男の松平忠直は北ノ庄を継いだが、後に豊後へ配流になったことから、次男の忠昌が北ノ庄を福井と改めて福井藩の初代藩主となった。三男直政は越前大野藩から信州松本藩に入り、その後の国替えで出雲松江藩の初代藩主になっている。五男直基は越前勝山藩から越前大野藩に入り、次に出羽山形藩へ、そして更に播州姫路藩へ国替えとなっている。こうしてみると、現今そばどころとして有名な福井、松本、出雲、山形の各藩の藩主に越前藩主だった秀康の6人の息子のうち3人が関与していることが分かる。しかしそれぞれの人物もしくは藩とそば切りとの関係を示す証拠となる文献となると確認はされていないが、松平直政については松本から出雲への移封の際にそば職人を同道したとのことだ(前出)。
「越前そば」というと今はブランド名であるが、これはもともと昔からあった呼び方ではなく、その起源は昭和天皇のお言葉によっている。戦後昭和22年(1947)に石川県で開催された第2回国民体育大会秋季大会へのご出席の途次、武生の「うるしや」(文久元年(1861、創業)のそばを2杯もお召し上がりになり、その後そばの話が出ると「あの越前のそばは・・・」という言葉をお口にされたことが後々「越前そば」の命名につながったと。因みに「うるしや」以前に創業して現在も営業しているそば屋としては、天保年間に創業した福井の「三井屋」と敦賀の「むぎや」がある。

気が弱くなったか耳順会の面々、九十歳は無理(3.11)

 暮れの耳順会はふぐ料理を看板にした店での飲みだった。7千円の会費でよくやれるものだと幹事を誉めそやそうと思っていたのに、いざ蓋を開けてみると河豚のかけらもなく、薄暗い部屋で在り来りな料理、詐欺じゃないかと言い寄ったものだ。まあ酒飲みに料理は要らないと踏んだのだろうか。そうした雰囲気の中で次の幹事は私とヒロベに回ってきた。幹事は常に2名だが、動くのは1人、一人でもよいと思うが、何故かそのまま2名だ。
 ヒロベは見たところ泉の第七期では一番の出世頭だ。その程度かと言われればそうなのだが、今はキンシンの会長をしている。そして会長になってからは髭を伸ばし始め、風貌は乃木希典のようで、初めて接した時は驚きだった。物静かな大人である。5年前の理事長の時には、業務に精励し衆民の模範となる人に授けられる黄綬褒章を授与され、昨年は金沢市文化賞も授かっている。退職すれば叙勲されるだろう。こういう状況だから、彼とペアになると彼が世話をすることはなく、対手がその責務を果たすことになる。今回も小生一人でやる羽目に。これまで幹事になった時は行きつけの店で少々無理を言って7千円で丸めてもらっていたが、今回は飲み放題という条件にして、市中天然温泉と共済ホテルを候補とした。私は温泉でゆっくりと思い2人ばかりの賛同を得たが、肝心の相棒はメンツからかホテルでないとと仰る。殿の言うことは聞かざなるまい。
 この会の出欠は欠席する人のみ幹事に連絡するという仕組み、12人のうち休会が1人いるからメンバーは11人、1人は仕事の都合で、1人は病気で2回続けての欠席、出席は9人である。前回2人の病欠だったが、聞くと慢性的な様相のようで、もう1人には出欠を尋ねなければと思っていたが、開宴間際に現れた。安堵した。御仁はノリユキである。彼は今腎臓を患っているという。酒が入るとトコトンという豪傑、飲み放題でない時は実にハラハラものである。これまでお開きになった後もサケを持って来いと仰る。
 彼のHPは実に量も凄いし多彩である。開くと得意の謡曲が流れ、校歌が流れ、賑やかなこと夥しい。プロのインストラクターにマンツーマンで教育を受けたとのこと、パソコンも4台も持っているとかだった。歯に衣を着せないのが信条、怖いものなしである。高校での成績は上の部だったが、何故か地元の金大には入らず滋賀大学を卒業した。東レに就職し、モスクワ駐在が長かったと聞いた。とにかく多芸な男だ。その彼に今日は飲めるかと聞いたところ、腎臓は悪いが今宵は飲むと仰る。タバコも。ただし平生は摂生していると言うのだが、正に我が道を行くという感じ。透析しなければならなくなるとそうは行かないと思うが、他人事ながら心配だ。わしは九十までは生きられないというが、そうだろう。
 耳順会にはキクオが2人いる。一人はキク雄、もう一人はキク男である。2人とも性格のよい真面目人間である。キク雄は金沢市西方の大きな団地で薬局を経営している。息子さんも店舗を構え、親子とも薬剤師である。店舗販売ばかりでなく、調剤もこなすそうだから大変だろうと思う。私の従兄弟も3軒大きな薬局を構えているが、経営もさることながら、調剤をすると時間の制約が厳しく、夫婦でやるか、親子でやらないと動きがとれなくなる。キク雄は息子と連携をとって凌いでいるようだ。また漢方の勉強もしていて、それなりに実績を積んでいて、信奉者も多い。酒はほどほど、楽しい酒だ。
 片やキク男は旧鶴来と旧松任の境の、昔は近くに大きな道路がなく、周囲が全て水田の辺鄙な字で育った。彼の弟は私の近所にいたことがあり、一緒に飲んだことも度々、最後は中学校の校長で退職し、今は野々市町の嘱託をしている。弟はスポーツマンだったが、兄の方は静かで文学青年というべきか。高校教師の傍ら油絵を趣味とし、一昨年だったかある会で賞を貰ったと聞いたが、その絵はスペインの風景を描いたもの、外国には毎年出かけているとのことだった。家は自作の農家、でも近くに企業が誘致され、広い道路が敷設され、今は実に交通の便がよくなったとのことだった。その彼も県立高校の校長を最後に今は悠々自適の生活、絵にも力が入ろうというものだ。中々絵の筋は良い。どこかの会に所属しているのだろうけど、聞きそびれている。
耳順会の面々でマタノとヤマダの2人は高校の時に一度も同じクラスになったことがない。ヤマダは北交の社長をしていたことと、小中学校の同窓会の面々に彼とツーカーなのがいて、温泉での会とか旅行の時は常に彼の世話になっていたこともあっての知己だ。耳順会でも飲み会や温泉での会の時は、彼に頼むと実にことがスムースに運ぶ。北交はもう辞めてはいるものの、彼の顔は観光分野ではまだまだ効いていて、すごく重宝している。彼の幹事の時は大船に乗ったようで、実に安心して飲める。
 今一人のマタノはノリユキの影響を受けてパソコンやHPに凝っている。加えて奥さんとはよく外国旅行を楽しんでいて、そのノロケがHPに披瀝される。正に悠々自適、ただ持病があると言っていて、健康の維持にはすごく留意しているようだ。
 1年前のこの会では、面々は幾つまで生きられるかとの問いに、今回は欠のニシデだけが九十までと言ったが、残りはせめて八十まではと。しかし今回は、病持ちだと九十は無理だろうというのが一致した意見に。ところで今薬の世話になっていないのは12名中4名のみ、一病息災ということもあるが、小生などは六病もあり、うち五病は薬の世話になっている始末、どう見ても九十は負担が大きい。ということは12名の会員中8名は平均寿命をまっとうできるかどうかのボーダーにいることに、心しなければならない歳になった。
 宴の最中、ヤマダから「シンリョウ、ホウセイをしとるか」との問いに、「周りにはアンゼンパイと言ってはいるが、少々」と応えておいた。すると「適切な回数を教えてやろうか」と言うのでぜひとお願いしたところ、ご託宣は「20日に1回が適当」とのこと。どうしての問いに彼は出典は示さなかったが、こういう数式によるというメモをくれた。四捨五入で70歳の場合は、9を掛けて63、すると60日に3回が宜しいと、この論法で行くと、90歳だと81で80日に1回、40歳だと36で5日に1回ということになる。初に聞いた説だ。
 回数ならば貝原益軒の養生訓の第4章「色欲」の項に「千金方」の引用で、年二十の者は四日に一回、三十の者は八日に一回、四十の者は十六日に一回、五十の者は二十日に一回、六十の者は体力盛んであれば一ヵ月に一回とある。でも今は昔からみれば寿命は二十も延びているから、九十になって初めて古来稀なりということになろうから、二十を引いて該当させるべきか。あるいは今の歳に八掛けをして該当させるという方式もある。ただヤマダの数式に該当させる年齢は現代版のような気がする。
 養生訓では第4章の冒頭に、色欲はほしいままにしてはいけないと書く。まして、精気を費やして元気を減らすのは、寿命を短くするもとで、恐るべきことであると。また歳が四十になったら房中の術を行えと。四十以降は血気が衰えてくるので、交接はしても、精気を漏らさないようにすべきだと、そうすれば元気は減らず、血気は巡り、体を補益することができるとある。いわゆる「接して漏らさず」の術だ。このようにして若い時から精気を惜しみ、四十以降はますます精気を保って漏らさないことが、命の根源を養う道であると。しかし、精気を我慢してもらさなければ、下半身に気が滞ってよくないという説もあるが、養生訓では、そういう時は早くお湯に入って下半身を温めれば、気は滞らず、この方法はぜひ知っておくべきだとする。そして世の人は、この術が養生に益があって、害の無いことを知らず、中には医師ですら、この本意を理解しない者もあると追い打ちする。
 話は違うが、私が波田野先生の下でウイルスの仕事を始めた時、ウイルスは自己増殖しないので、生きたものでしか増殖できず、媒体として培養細胞を使うことが多かった。中でも初代培養細胞は50代位で寿命が来るが、ガラス容器の中でも実によく増殖する。こういう風に腎臓というのは増殖が旺盛な臓器であるから、人体の中では最も細胞分裂の盛んな器官だと思っていたら、ある文献で人体で最も増殖が旺盛な器官は睾丸であると知った。睾丸で造られた精子は蓄えられ、一定量になればフィードバックによって製造が抑制される。ここでもし房中の術を常に行うとなると、新しい精子の製造は行われないことになり、結果として精子の形成機能の衰退もしくは長じては廃絶を来たすのではと思ったりする。適度の放精こそ健康を維持できるような気がしてならない。丹渓という医師は房中の術を非難して、自著の「格致余論」の中で、聖賢の心と神仙の体がなければ、容易に実行できないと述べているが、私も正にそうだと思う。私は凡人、修行してもその術をマスターできないのではと思ったりする。
 私が石川県に奉職して、衛生研究所に配属になった折、所長の大島先生から「春三夏六秋四無冬」という言葉が養生訓に載っているから、若くして元気な時はこれを守りなさいと言われ、極力それに従ってことを運ぶよう努力した。何といっても養生訓に載っているとのこと、だから最良だと信じていた。大島先生はまだ存命で、95歳の今もお元気だが、先生はこれを守られて今日あるのかどうかは、聞いたことがないので不明である。ところで後年養生訓を全部通読したが、この句は見当たらなかった。何方かご存知だろうか。

金沢にもあった本格的焼き鳥(3.18)

 前田さんから「火ート」を知らずして死ぬようなことがあったら、人生で一つ忘れ物をしたような気がしますとのメールが届いた。ここまで前田さんに大上段に振りかぶられると、まんざら嘘とは思えないが、本当に死ぬまでに一度は口にしないと死に切れないような焼き鳥があるのだろうかと訝ってしまう。
 そこで早速前田さんに是非一度誘って下さいとメールした。感じでは中々気難しそうな雰囲気の店だと察したので、一見の客は警戒されるか若しくはけんもほろろに扱われる恐れがあろうと、助けを求めた訳である。前田さんからは必ず6時に入ることが必要ですとのこと、まあお酒の種類は少ないのが残念だけど、名古屋コーチンの味は絶品ですとの強烈な追い打ち。午後6時に店へ訪れるとなると、勤めの私には土・日しかなく、近々とすれば3月15日の土曜、善は急げである。
 前田さんと待ち合わせは香林坊のとある書店で午後5時40分。私は春山へ出かける格好で、ついでに野々市から香林坊まで歩いて参加することにした。5時過ぎに着いて本の立ち読み、そして半頃に前田さんと会う。様子見ということで、「火ート」なる店へ案内してもらう。場所は旧大和の裏口、旧古寺町から新天地へ入って左手3軒目、ほんの新天地の入口に位置する。時間になると提灯が出される由、時間前には店には入れない由、また開店前に店の前でうろうろするのもよくない由、また店では余計なことは言わない方がよいとも、いろいろ事前にレクチャーを受ける。アベックが1組店を覗いたが、15分後と言われたと出てゆく。
 2分前、男が1人店内へ。前田さんが続く。するとあと2人しか入れないとのこと。ということは我々だけで終わりで、既に5人予約があるということに。予約は出来ないような雰囲気を受けたが、こればかりは店主に言われるとどうしようもない。後で分かったことだが、先に入った男は連れの女を、15分後にと言われたアベックももう1人の女性を予約?したということか。何度か訪れている常連?だから可能なのか、或いは誰でもその手を使えるのか、今度挑戦したとき確かめてみよう。入口には備長炭炭火焼、エビスビールの名が見える。
 店は狭く、カウンターは鍵の手、奥へ4人、左手へ3人、私と前田さんは鍵の手に隣り合って座ることに。店主は気難しいとの印象を受けたので年寄りとばかり思っていたが、そんなに歳ではない。聞いていると未だ独身、開業して7年とか。強面の前印象だったが、歳が若い分威圧的でなく、むしろイチガイな真面目人間とみた。風貌がWBC世界フライ級チャンピオンの内藤大助と似ているところがあるからだろうか。入るとお絞りを配り、突き出しを用意し、生キャベツを配り、辛子味噌を載せた取り皿を用意し、中々甲斐甲斐しい。用意するのは7人分。細長い炉に炭が赤く熾っている。細かい炭を足している。見ると炭は決して上等な類のものではないが、それで十分だ。飲み物はと聞かれ、取り敢えずはビール、隣の男は立て続けに煙草を吸っている。二日酔いだとも。どうも常連のようだ。メニューを見ると結構いろんなものが揃っている。アベックが漸く着く。でもその連れが着いたのは20分以上も経ってから、その間何組ものお客が店を覗くが、マスターはその度に満席ですと断っている。知ってる人は知っている店なのだ。
 焼き鳥はすべて名古屋コーチン、店で生を捌くのだろうか、それとも品毎の仕入れなのだろうか、生は全て鉄砲串、材料は色艶が実にきれいで、いきいきしている。初なので前田さんに注文してもらう。正肉、せせり、砂肝、はつ、レバー、手羽先、皮。串は1本単位で、中々ボリュームがある。一度に焼くのは7、8本、ということは人数分、1回に1本ずつという按配、丁度間が持てる感じ、お客の方も前のが済むと次という感じで、実に合理的というか、配慮されていると思う。唐辛子味噌で食する。大きなやきとり屋だと、幾つか頼むと一度にゴソッと持って来るが、こればかりは熱い間に食べないと味が死んでしまうような気がする。その点でも正に理想的だ。そして味の方はというと、肉は実に柔らかくて真にジューシー、これまで経験したことがない焼き鳥の味、前田さんのブログの表現が決してオーバーではないことを実感した。まさに絶妙の味というべきか。まさに「なま」の味、冷凍ではこうはゆくまい。「きも」も皮も食べやすいように調理されていて実に旨い。手羽先も売られている貧弱なものではなく大ぶりで程よい感触、こんなのは初めてだ。
 飲み物はビールからJINROのハーフボトルへ、焼き鳥には日本酒より焼酎が似合う。「なんこつ」はないとのことで、「かんせつ」、ほかに「ささみ」と「つくね」、さらに「とさか」。捏ねは生のすり身を二本串に巻き付けて油を塗って焼き、鶏冠は網焼き、順に焼いてくれる。関節も思ったほど固くなく、程よくコリコリした感触がよい。笹身は半生で、ブロイラーのと違って味があるのが嬉しい。捏ねもボリュームはあるものの、変な臭みが全くなくて実に新鮮でジューシー、何本でも食べられそうだ。鶏冠は生を刺身で食べたことがあり、その時の感触はシャキシャキした感じだったが、焼くと軟らかくてゼリー状、味は淡白で取り立てて美味とは言いがたいが、これは初の体験だった。この間にJINROを更に1本。焼き鳥も焼酎もなくなり、次の方と交代することに。それにしても実に素晴らしい焼き鳥屋を紹介して貰ったものだ。本当に感謝感激である。ただ、ウチのカミさんはトリを極端に毛嫌いするので、同伴できないのが実に残念だ。通常のやきとり屋ではブタもあるので何とか誘えるものの、この焼き鳥屋「火ート」は絶対無理だろう。
もっと時間に余裕があるようだったら、葱肉や白玉(睾丸)、ちょうちん、大蒜や椎茸のほか全品目を食べてみたいと思ったが、それはまた次の機会でのお楽しみにしておこう。しかし焼き鳥を焼いている時の煙と香りときたら実にすさまじく、着衣にはしっかり染み込んでしまうから、着る物を考えて訪問することが正に正解だろう。
 それにしても予約した2組、連れが中々来ず、何と横着なと思った。しかも二日酔いの男は焼き鳥を焼いてもらったのに手を付けず、最後は食べたのかどうかは知らないが、少なくとも1時間ばかりはそのままという状態、巷の焼き鳥と違って冷めても美味しいのかも知れないが、実にマスターに失礼だと思う。金を払えばどうとでもというのは冒涜だ。ファミリーレストランならいざ知らず、丹精こめた品であればなおさら店主も一言言ってもよさそうな気もするが、お節介焼きということになろうか。いつか昔々、行きつけの店で鶫の照り焼きを出してくれたことがあったが、私の連れはあろうことかそれを灰皿代わりにしてしまった。店主も私もそれ以来その連れとは絶交してしまった。「火ート」で出会った彼氏はここまでひどくはないが、私は味に感激しただけに、相席の連にはもう少しマナーをと言いたい。帰りがけに味な焼き鳥と店主の意気に感謝してマスターと握手した。
 さて、日本でのいわゆる地鶏の産地として知られているのは、秋田の比内地鶏、岩手の南部地鶏、愛知の名古屋コーチン、福岡の博多地鶏、大分の九重赤鶏、宮崎の日向地鶏、鹿児島の薩摩若軍鶏などだが、最もよく知られ普及しているのは何といっても名古屋コーチンだろう。比内地鶏にしても表示に偽りありとなると、信用できなくなる。今回「火ート」で食した名古屋コーチンの焼き鳥の旨さは正に本物、こういうのを食べるともうブロイラーの品は全く食せない。今回は店主のイキとモラルをもろに感じた。この味をベースに、他の産地の本当に正真正銘の地鶏を食して比較したいものだ。
 後日談:次週の土曜日、午後3時開演のOEKの定期演奏会の帰りに再び「火ート」へ寄った。6時20分前なのにもう提灯が下がっていたので顔を出すと、6時まで待って下さいと。じゃ6時にとゆびまるをすると、はいと言ってくれた。定時になり寄ると、まだ誰もいない。鍵の手左の奥にと言われて座る。右奥は2人の予約とか。すぐにお絞りが出る。飲み物はビールにする。失礼しますと言ってコップと中瓶、それに小鉢の突き出しと生キャベツ。この「失礼します」はこの前は気付かなかっただけに実に新鮮、後から入って来た2組にも言っていたが、マスターは純朴なんだ。何を焼きますかと言われ、お品書きの右から全部焼いて下さいと言った。この前は11種、数えれば16ある。
 そのうちに奥に予約の夫婦、そして少し間を置いて女子学生、卒業式だったのか紫の袴を穿いているが、座って間もなく煙草を矢継ぎ早に、お嬢さんぶってるのだったらもう少しサマになる吸い方はないものか。焼く順序は前後してもいいですかと言われ、一向にと答えた。順不同でこの前と同じく11種、正肉は「もも」、「とさか」はこの前と違い「串」で、少しシャキッとしていた。ほかに「ねぎま」と椎茸、飲み物にJINROはなく、焼酎は芋のロック2杯、お腹が一杯になり、もうギブアップ。「なんこつ(やげん)」、白玉、提灯はなく、後は鶉の卵のみだったが、今日はここまでとした。野菜にはほかに葱、獅子唐、大蒜。一通り食したので、この次からは選択して食べよう。この間、2席が空いていたが、3人組が2度訪れたが駄目、やはりここは来て3人、それ以上は入るのが難しいのでは。また時間前であっても、全席7人の予約を取るのは至難かも知れない。

金沢市南郊久安に「しん馬」を訪ねる(4.8)

 しん馬(しんま)の名を初めて聞いたのはかれこれ3年以上も前のことになろうか、小・中学校同級の源野君からだった。彼は自身でそば打ちもし、塚野さんが主宰していた同好会にも所属し、かつ探蕎会にも入っている。その彼から、久安に開店した「しん馬」は中々の出来だから一度訪問したらとのこと、いずれはと思っていたのがつい延び延びになっていた。4月6日に亡叔父の納骨を菩提寺で営むのに、高尾から有松に通ずる道路を車で走らせていると、有松にある「藤七」の少し手前の電柱に「しん馬」の標識を見つけた。左手橋を渡って3百米とある。納骨の帰りに寄ろうと心に決める。
 帰りは逆方向になったこともあって、朝見た小さな標識が見当たらず、朝来た方向を再び辿ると、「天狗」というファミレスを過ぎた電柱に案内板を見つけた。案内板のある道を折れるが、道幅も狭く折れ曲がっている。なおも進むと川が見え、橋がある。橋の銘には有松新橋とある。上手には久安大橋、下手には久安新橋が見える。川は伏見川、堤には桜が沢山植わっていて皆満開の風情、結構沢山の人が集まっている。橋を渡りきって更に進むと再び「しん馬」の目印、やっとの到着である。時間は10時50分、まだ仕込中とある。主人と思しき人がいて開店は11時ですと。それじゃ私は桜見物でもと出かかると、奥さんが出てきて「中でお待ち下さい」と戸を開けてくれた。私達夫婦と妹夫婦4人で入る。「よくお出でになりました。分かりにくかったでしょう」と言われる。住宅街にある自宅の横にある小さなそば屋だ。
 靴を脱いで上がると、「とうへんぼくな仲間」というスタンプラリーが積んである。参加は9店、親の「唐変木」(白山・鳥越)、子の「じょうるり」(白山・尾口)、「おきな」(白山・鳥越)、「じょんがら」(白山・柏野)、「しん馬」(金沢・久安)、「ほやさけ」(金沢・東山)、「つくだ」(金沢・森本)、「くき」(七尾・中島)、「やまがら」(穴水・乙ヶ崎)の8店である。「しん馬」は平成16年の開店、店名の由来は、主人の中田さんが生まれた時に祖母が命名したかったという信馬に因むとか、親父の信人さんの反対で名は信一となったが、店の名で復活したという。ご主人は昭和23年生まれの60歳で6年前に脱サラ、唐変木で修行、奥さんでは平成15年の第8回全日本素人そば打ち名人大会では本選にまで進んだとか、中々の腕らしい。まだサラリーマンだった平成11年には突然の心筋梗塞、娘さんが居たからこその救急心カテで九死に一生を得たとも。
 11時になって注文を取りに、お品書きを見ると、つるつるの「もりそば」、もっちりとした「田舎」、究極の十割「更科生一本」とある。そばの注文を任され、「もり」と「更科」の二色盛りの「しん馬」にする。ほかに「からみ大根汁」をお願いする。蕎麦前にはお酒を所望、銘柄を聞くと菊姫吟醸とか。付き出しに糠鰊、盃は大きく飲み応えがある。ややあって二色盛りが届く。「更科」は極細、「もり」は細打ち、角皿に盛られていて、見た目には大変綺麗だ。出汁は中庸、薬味は辛味大根のおろしと刻み葱。手繰ると、「更科」は喉越しは良いが少々軟らかくもう少しコシがあったらと思った。「もり」も同じような印象を受ける。それに両方とも少々ダンゴになってくっついていて、サラッとしていなかったのが気になった。もう少し冷水でよく洗うとクッツキがなくなるのではなかろうか。あの繊細な極細の技術が素晴らしいだけに、出来上がりに難があるのは勿体ないような気がする。荒挽きの「田舎」は食していないがどうだろうか。もう一度訪れてみよう。居る間にお客が2人来た。
 済んでご膳を退きにきた主人と一頻り話をする。出身は白山市笠間の出、家内は白山市柏野の出、「じょんがら」の上野さんは家内と同級、何かと話が弾む。源野さん、塚野さんともじっ懇とか、探蕎会の松原さんという方が見えた時は緊張しましたとも。探蕎会の名は私からは口にすることは一切ないのだが、中田さんから探蕎会の名が出たのにつられたのか、家内が主人も探蕎会だと言ってしまった。でも塚野さん、源野さんも会員だと知っておいでで勘繰った心配はしなくてもよかった。地の利を得ていない感がしないでもないが、ユニークさが受ければ客は来よう。「敬蔵」のこともよく知っておいでで、私が蕎麦会席の話をすると、進取の精神に感服しますとも。住宅街とはいえ明るい感じのする環境、店の外観も爽やかだ。席数はテーブル席のみで18席、シンプルな木の空間が好ましい。
 「しん馬」は金沢市南郊の伏見川近くで、トレードマークのそば粉十割の究極の真っ白な「更科生一本」がある小さなそば屋が売り文句。住所は金沢市久安5丁目383−1、電話247−4884、商いは、平日午前11時〜午後4時、土日祝午前11時〜午後5時、休みは毎週水曜日(祝日は商い)。品書きは、そばは前記3種、つけは、「おろし」「とろろ」「鴨汁」の3種、温かいのもある。「そばがき」「ぜんざい」も。
 閑話休題
 その1 この日は、午後2時から菩提寺の法船寺で宗祖法然上人の397回目の御忌の法要が執り行われ、出席した。法要が約1時間半、お説教が30分ばかり、済んだ後、方丈さんの奥方から、国の文化財を調査している方が見えられ調べたところ、寺には元禄の頃に造られた仏像が沢山あって、纏めるのに3年はかかるようだが、平成23年を目処に指定を考慮するとのこと、興奮して話されておいでた。平成23年というと、浄土宗では宗祖法然上人の800回大遠忌、浄土真宗では宗祖親鸞上人の750回大遠忌が行われる年である。どんな指定になるのか興味津々である。
 その2 家に帰ってこれから一杯という時に来客、誰かと思ったら時折生粉打ちそばを戴くYTさんだった。殊のほか喜んだのは家内、「今日のはいつもより若干長く1分10秒位茹でて下さい」と言われる。県警刑事部長を辞した後、そば打ちを全くの独学でマスターされたとか。そして趣味の域を出て店を出されるとか、聞くとそうだと仰る。今日のはその予行演習とか、心して茹でねばと思う。退職後大病を患われ、今は酒も煙草もすっかり無縁になりましたとも、お酒大好きな方だったのに、こうも変身されるとは、びっくりもしたり、感心もしたり。小生は量を減らしても根絶は無理だ。早速大鍋にお湯を煮たぎらせ、1人前ずつ茹でた後、しっかり冷水で締める。これは私の仕事、家内は食べるのみ。そばは中細である。家内の曰くには、香り、コシ、喉越しとも申し分ないと、今日のお昼のそばと比較すると、正に月とスッポンだとも。丸ぬきを自家製粉したとか、店ではこれ一本で勝負するとも。しかし何とも美味しく旨いそばだった。明朝もう一度味わえるのが楽しみだ。


母と子(4.10)

 朝日新聞の一面の記事面最下段には古くから「天声人語」というコラムがある。私は大変気に入っていて、朝日新聞を手に取ると一番先に読むことにしている。年4回冊子に纏められて出版されているようだし、また英訳もされている。今執筆担当されている二人は昨年の秋頃に前任者と交代されたような記憶がある。それとこの4月からは11マス59行から18マス36行と、実マス数も529から624と95マスも多くなった。スタイルも横長の帯状から横長の長方形に変ったほか、活字の大きさも若干大きくなって、老眼の私にはやさしく見やすいものになった。
 天声人語のスタイルが変わって間もない4月3日、読んでいて胸がジーンとして目が潤んでしまった記事に出くわした。取り敢えず6段あるうちの初めの2段を引用する。
 《『荒城の月』の詩人、土井晩翠が生まれた仙台市は毎年、東北を中心に小学生の詩を募る。「晩翠わかば賞」である。昨秋の第48回で佳作になった作品に「おかあさん」がある。《▼〈おかあさんは/どこでもふわふわ/ほっぺは ぷにょぷにょ/ふくらはぎは ぽよぽよ/ふとももは ぽよん/うでは もちもち/おなかは 小人さんが/トランポリンをしたら/とおくへとんでいくくらい/はずんでいる/おかあさんは/とってもやわらかい/ぼくがさわったら/あたたかい 気もちいい/ベッドになってくれる〉》
 この前段2段を読んだかぎりでは、子供から見た母親のスキンシップあふれる印象がもろに伺え、微笑ましい限りである。ただこの詩が9歳の小学4年生の作としては若干幼稚さが滲んでいるように思えるが、でも小太りのやさしいお母さん像を率直に表現しているようで共感を覚える。私が生を受けて以来、わが家にはこんなタイプの女性は過去も現在もいないからか、ここに登場するようなゴム毬のように柔らかく、そして真綿のように優しく包んでくれるふかふかのお母さんを中々実感できないが、この詩に出てくる「おかあさん」は、子供にとってはかけがえのない素晴らしいたった一人のお母さんであったことは容易に想像でき、ほのぼのとした母子像が、博多人形のそれと重なり合い彷彿とさせる。しかし、次の2段を読んで、やりきれなくなってしまった。
《▼きっとふくよかであろう、優しい母の笑顔が浮かんでくる。作者の西山拓海(たくみ)君はおととい、青森県八戸市の家で9年の生を閉じた。電気コードで首を絞めたと認めた母親(30)が逮捕された。▼何度も抱きしめてくれた「もちもちのうで」が、この朝は凶器だった。パジャマ姿で息絶えた子に、「おかあさん、なぜ?」と問う間はあるまい。詩にあふれる濃密なスキンシップとの落差に、言葉を失う。》
 この詩からは、コラム子が記したように、ふくよかで優しい慈愛に満ちた母親像が伝わってくる。それなのにどうしてこんないたいけないわが子を殺めてしまったのであろうか。何故なのか。9年間の愛は偽善だったのだろうか。そうではないような気がする。そんなそぶりがあれば、感受性の強い年頃、であれば率直な感じからすれば、時に母親に畏敬の念を抱くとか、心底甘えられないこともあるとか、敏感なだけにどこかにそのような表現が出そうなものだが、あの詩にはそれが全く感じられないどころか、全面的に信頼しきって甘えている様しか伝わってこない。母親はどんな気持ちで寝ていたわが子の首に電気コードを巻きつけたのだろうか。わが子に気付かれなかったのだろうか。今となってはその方が良かったことを願う。また目を覚ましたとしたら、そこにはどんなお母さんの顔を見ただろうか、きっと驚きで声が出なかったろうと思う。その動機はぜひつまびらかにしてほしいものだ。また母親の今の心境も聞きたいものだ。コラムは更に続く。
 《▼先月の修了式の日、楽しく語らい下校する親子の姿があったという。母は何を思い、わが子に手をかけたのか、最後の最後に、幼い言葉が刻む「肌の記憶」を呼び戻せなかったものか。あれこれ考えてみても、胸が詰まるばかりだ。》
私がこのコラムの記事を読んだのは4月3日だから、この事件は1日か2日前にあった事件だと思い、購読している朝日新聞と地元紙の北國新聞の朝刊・夕刊を隈なく調べた。しかし痕跡はなかった。ところがこの記事が出たのは両紙とも3日の朝刊だった。社会面のタイトルは、朝日新聞が3段で、《小4長男殺害容疑 青森・八戸 母「首絞めた」》、北國新聞が5段で、《「おかあさんはとってもやわらかい」絞殺された9歳つづる 母の詩入賞》だった。
 司法解剖で、死因は頚部圧迫による窒息死であることが分かった。子供部屋の布団の中で死んでいるのを同居する祖母が見つけ警察へ通報したとか。それよりもやりきれないのは、平生からも親子は仲睦まじかったということだ。学校の先生も、いつも迎えに来るお母さんと、楽しそうに話しながら帰っていったと。また拓海君は、学校では明るく、自分の意見をはっきり言える子だったという。そして誰もが事件は信じられないと語っている。
 このところ親が子を殺め、子が親を殺める記事が後を絶たない。精神に異常を来たしていなく、かつ動機もないような例も見受けられるが、平生自他共に仲睦まじかったとみられる親子だっただけに、母親の心の中にどんな変化が起きたのだろうか。最後の段はこう結んでいる。
 《ふわふわの感触とは相いれぬ、むごい現実にさらされる子は拓海君だけではない。早すぎる旅立ちに携える残像が、最愛の人の恐ろしい形相では悲しすぎる。おかあさん、おとうさん、ころさないで。そう念じて、いま一度、ひらがなの連なりをたどる。》
幼くして彼岸に旅立った霊の無念が晴れることはあるのだろうか。 合掌。
閑話休題
 このコラムを読んで、私の母のことを思った。私の父と母はいとこ関係(母の父と父の母は兄妹)、母の姉弟妹は全部で9人、皆北海道に居たのに、父親から実家があった金沢に近い野々市に誰かと言われ、誰も行かないと知って、第4子の母が父親の意を酌んで嫁ぐことにしたと聞いた。行李一つでの輿入れだったとか。長男と結婚したのだが、父が支那事変に師団付きの主計で出征してからは、まるで姐やのような生活だったとか。臨月になってもその生活は変らず、やはり臨月の小姑はお嬢様扱い、出産は金沢市でも最も有名な産院での出産、かたや母は家で、小姑が女の子を出産した2日後に私が出生した。母は近くに相談する人もなく、何度か家出もしたとか、その度に連れ戻されたという。とにかくお金は持たされなかったというから、行くとしても高が知れている。母が気丈だったこともあって、私はヤンチャでキカン坊だったらしい。母にはよく叱られたし叩かれた。ところが下の弟は未熟児だったこともあり、また妹はヘルニアだったこともあり、先ず叩かれることはなかった。後年母が私に述懐していた。
 お仕置きはきつかったが、その時助け舟を出してくれ、そこまでしなくてもと仲裁に入ってくれたのが問題の姑、私にとっての祖母だったし、学校でもよく立たされ居残りをくった時に貰い下げに来てくれたのも祖母だった。もっとも学校からは予め電話で今日は暫くお灸をすえますので何時に迎えに来て下さいと示し合わせていたようだが。とにかく叩かれるのは日常茶飯事、真っ暗な土蔵に放り込まれたり、冬など外へ放り出されたり厳しかった。しかし段々知恵がついてきて、寒いときは天井裏に隠れたり、布団部屋に潜り込んだり、納屋の藁の間に入ったり、でも母は必ず後で捜しに来てくれた。また暖かい時期だと雨がかからない屋根のポケットに潜んだり、大屋根の箱棟に隠れたりした。夕方になっても帰らないと、母は外へ捜しに出かけるが、その様子は手に取るように分かるので、薄暗くなってから下りて行くとまず厳罰は免れた。しかし母の愛情はひしひしと感じていたし、母親を憎く思ったことは一度もない。
 終戦を境に地主から一町歩百姓になった。全くの素人だったし、何よりも肥料としての人糞尿が近くで手に入らず、親戚を頼って尾張町や浅野川を渡って御徒町まで、それも鉄輪の荷車で父と出かけた。父はレッドパージで公職には就けず、百姓の傍ら近くの工場で日雇いの生活、自給自足、シャツも服もズボンも母の手製、器用な母だった。下の弟や妹は小学生になってもあまり田んぼの手伝いをさせられなかったが、私はしょっちゅう駆り出された。畔塗り、苗取り、田植え、草取り、稲刈り、地干し、稲運び、脱穀、臼摺り、一切の田仕事を手伝った。だから学校の勉強は高校へ入るまでは家でしたことはなかった。しかし母が近くの大きな織物工場に勤めるようになってからは、現金収入が得られるようになり、少しは家計が楽になった。母は製反部の副になり、定年になってからも舎監になり、それが後年厚生年金を貰える基礎となった。一方、父は3ヵ月不足で恩給を貰えなかった。木村はそのうち潰れると言われ続けたにも拘わらず存続できたのは、母の気丈さと頑張りと器用さがもたらしたものだと思う。私の今日あるのも母のお陰と感謝している。
 その点父は優しかった。怒られたことも、ましてや叩かれたこともない。かといって私が母に折檻されている時に間に入って止めてくれることもなく、居辛いのか席を外した。何時も止めに入ってくれるのは祖母、私はだんだん謝り上手になった。近所で悪さをして謝りに行くのも祖母、母は祖母のことを良く言ったことはないが、近所への謝りには感謝していたようだ。
 しかし近頃の尊属殺人、畜生にも劣る行状、戦前には考えられない姿だが、何に起因するのだろうか。体罰がいけないと言うが、このような現状の大本は学校や家庭での教育に根ざすのではないかと思う。でも振り返ってみると、私が子供を叩いたのは、三男坊に一回きり、妻は無い。こういう状態も戦後教育のせいなのだろうか。


穴水に「やまがら」中島に「くき」を訪ねる(4.16)

 私が勤務する石川県予防医学協会の相談役がいつだったか私に、中島のそば屋は中々良かったと話してくれたのを思い出し、花曇りのある日曜日に家内とそのそば屋へ出かけることにした。目指す中島小牧の「くき」は、「しん馬」で貰った「とうへんぼくな仲間」9店のうちの1店、その仲間は能登にもう1店あり、それは穴水にある「やまがら」、それでそこにも寄ることに。でも2店ともそう簡単には行き着けない場所のようだ。
 山側環状道路から能登有料道路へ入り穴水へ、そこから国道249号線へ下り、七尾方面に向かう。目指すそば屋は穴水町乙ヶ崎にある真和苑内にあるという。カーナビでおおよその見当をつけ気をつけて走らすと、道端に小さな標識、そこを左折して狭い道を辿ると、突然左手に大きな緑青の仏様の坐像、見ると能登大仏とある。何時頃作られたものか、全く知らなかっただけに吃驚した。その前を通り過ぎると手打ちそばの幟、奥にこぢんまりとした何の変哲もない箱型の小屋、そこが「やまがら」だった。一帯は赤松の林内、ここは寺の境内なのか、案内板で見ると、大仏様、観音様、弘法大師、親鸞上人、蓮如上人を祀ってあるというが、どういう宗旨なのか、立派な鐘撞堂もある。
 「やまがら」へ入ると4人掛けのテーブルが5卓、5卓とも客がいる。暫くすると1卓が空いたので片付けを待って座る。えらく混んでいる。私の先客は片付け前に座ったものだから、いつまでもそのまま、しびれを切らして早く片付けてほしいとの催促、年寄り夫婦では細かいところに目が届かない感じだ。自称頑固親父が注文を取りに、そこで「ざる」と「おろし」を頼む。ややあって今度は婆さんが注文を取りに、先程親父さんに頼んだと言うと、確かめに奥へ、どうも連携がよくない。メモをしないと客が多い時は混乱しよう。こんな状態だからお酒は控えることにした。家内は「ざる」を手繰って、美味しくないと、硬いだけで、蕎麦の風味が全くないと、乾麺の方がましとも。これは厳しい。「おろし」が来た。中打ちなのだが、そばの幅は実に不揃い、二八なのだろうが、硬くてしっかり噛まないと喉を通らない。蕎麦の香りは全く無い。正に素人さんのそばだ。お客さんはと見ると、スタンプラリーを持っているから寄ったような気配、正にスタンプのお陰様々。私達もそうだが、もう此処へ来ることはないだろう。「おろし」は値が高い分、分量は「ざる」よりずっと多く、我慢の食だった。早々に立ち 去る。出ると松林にヤマガラを見た。店の名の 由来という。再び国道249号線に出て、中島の方へ南下する。またもカーナビ。のと鉄道の踏切を渡って更に進み、釣具屋「やどかり」の角のところに案内板が見え、そこを左折し坂を下ると蕎麦処「くき」に着く。店の前の駐車場には車が4台、うち1台は丁度これからのお帰り、その横に止める。駐車場はそのほかに10台は停められるスペースが少し離れた所に見える。
 着いたのは午後1時過ぎ、2組が出てくる。私より先着の5名は売り切れで断られ戻ってきた。休日で時間も時間だからひょっとして駄目かと思い、玄関で確かめると、残り2食のみでお二人なら大丈夫ですと、間一髪だった。次に訪れた2組は当然断られ、うち1組はこの前も駄目だったと仰る。分かっているならもっと早くに寄ればよいものをと思う。家は明治21年に建てられた自宅を改装して平成17年に開業したとか、重厚で落着いた雰囲気がよい。囲炉裏と薪ストーブがある御上の間、奥に大きな座机が置かれている座敷が2室、2組の客がいる。その外側には明るいコの字になった畳敷きの縁側、そこにもテーブルが置かれている。私達が案内されたのは御上の間に続く広い座敷、真ん中に車箪笥を模した箱型の台状のテーブル、そこに座る。全体ではかなりの人数を収容でき、それもゆったりしているのがよい。戸室山麓俵の「喬屋」や七尾国分町の「欅庵」を思い出す。
 娘さんが注文を取りに来て、十割は限定10食でないとかで、家内は二八の「せいろ」。お酒もどうぞとのことで、私は手取川の冷酒と天麩羅盛合わせを所望する。見回すと縁側の席に探蕎会を退会した中嶋夫妻がいる。彼は県を退職したものの再任用で再び環境部技監を拝命、忙しいようだ。「しん馬」には近いこともあってちょくちょく顔を出すとか、そばは大好きだとも。冷酒は漆塗りの捩れた直方体の形をした銚子に入ってきた。木の温もりが感じられる。盃も漆塗りの木杯、付き出しにふきのとう味噌が付く。天麩羅は海老、蓮根、茄子、豌豆、甘藷と盛り沢山、そば屋風にカリッと揚げてある。海塩付き。家内にそばの感想を聞くと、満足だと言う。先程の店のようだったらどうしようと心配してたらしいが、私も面目を施したというものだ。
 もう一杯可とのご託宣が出たので、ではと地元の竹葉と鴨ロースをお願いする。鴨ロースは正に絶品、脂の乗りもよく実に柔らかく、しかも上手に焼いてある。付けに白葱と獅子唐。終って最後に「おろし」を貰う。塗った角のお盆に小鉢二つ、小鉢には中打ちの二八そばの上に辛味大根のおろし、他に刻み葱と削り鰹、それに出汁と濃い蕎麦湯。そばにはホシが見えている。初めはおろしのみのぶっかけで、二つ目は全部入れてのぶっかけで食する。蕎麦の香りがする。コシもあり、喉越しもよい。聞けば玄蕎麦は幌加内の産、自家製粉石臼挽き、挽きたて、打ちたて、茹でたてをモットーにしているとか、それで売り切れ御免で、無くなれば閉店だという。本当に私達は幸運だった。私たちが今日の殿。思うにここで十割を食べようとすると、予約して早めに来ることだ。特に日曜祝日はそうしないと「そば」そのものにありつけなくなる心配がある。正に此処は穴場だ。やや遠いが、一食する価値は十分にある。因みに「くき」は店主の姓の「久木」に由来する。
 品書きは、そばは中太打ちの十割(10食限定、予約可)と中打ちの二八、冷たいのでは「せいろ」「天せいろ」「おろし」「えび天おろし」「つけとろろ」、温かいのには「かけ」「天麩羅」「鴨南蛮」「にしん」「山かけ」、一品には「鴨ロース」「天麩羅盛合わせ」「鰊甘露煮」「焼き味噌」、その他には「そばがき」「揚げ出しそばがき」「ぜんざい」、おまかせコースや蕎麦御膳(いずれも要予約)もある。飲み物は、お酒は石川県の地酒のみ、天狗舞、手取川、菊姫、ほまれ、竹葉、宗玄、いずれも1合750円、ビールは恵比寿の生と瓶で650円、ウーロン茶とジュースは300円。なお冬期には限定で中島特産の牡蠣を使った牡蠣料理も出る。牡蠣三昧と称して、牡蠣の酒蒸し、天麩羅、フライ、牡蠣そばが供されるという。営業時間は午前11時30分から午後6時まで、ただし売り切れの時点で閉店となる。夜は予約のみで午後6時〜8時。定休日は毎週水曜日、祝日ならば翌日休み。住所は七尾市中島町小牧ラ部69番地甲地、電話は0767-66-6690


コシアブラ(5.8)

 4月20日の日曜日には探蕎会恒例の行事で、会員総勢28人が海道さん宅にある丸岡蕎麦道場へお邪魔、いや押しかけた。この日風は荒いが天気は上々、会場の大きな作業場兼倉庫は、下水道も敷設されたとかで御手洗(トイレ)も完備され、改築された様子、粒選別機も備えられたとかで益々本格的になってきた。事実この日出された「そば」は、6段階に選別された粒のうち、小さな粒と大きな粒とを別々に製粉し、手打ちにしたという懲りよう。結果は大粒の方が色、香り、味、粘り(もちもち度)とも優れていた。それとこの日は沢山のコシアブラ、まだ硬い若芽から少し若葉になったものまで、少し大きくなった若葉は新田会員の発案で湯通しして塩や醤油で食したが、香りが強く実に美味、天ぷらとは一味違った風味だった。小見山さん差し入れのバッテラや野菜の煮付けも持参の「鄙願」の格好のお供だった。海道さんからは「黒龍」の差し入れも、そば・コシアブラ・酒・つまみで十分堪能できた。そして止めは小見山さん提供の焼酎「九頭龍」の蕎麦湯割りでお開きに。
 以下に、この日の素晴らしい脇役のコシアブラのことについて、辞書、事典、図鑑から引用してみることに。写真や図はないが、以下の説明からおおよその全貌が想像できるのでは。

1.「広辞苑」 こしあぶら(漉油・金漆)
①ウコギ科の落葉高木。山地に自生する。高さ約10メートル。葉は5個の小葉から成る掌状複葉で、長い葉柄がある。夏、緑白色で小形の五弁花を球状の花序に開き、黒色の円い実を結ぶ。材は白色で柔軟、細工用。若芽は食用。ゴンゼツノキ。②コシアブラの樹脂から精製した一種の漆。ごんぜつ。

2.「大辞泉」 こしあぶら(漉油・金漆)
ウコギ科の落葉高木。山地に自生。樹皮は灰色。葉は手のひら状の複葉で、小葉は縁にぎざぎざがある。夏、淡黄緑色の小花が集まってつき、秋に黒紫色の実を結ぶ。材は箸、経木などにする。名は、樹脂を漉して金漆(ごんぜつ・きんしつ)と呼ぶ塗料を作ったことにちなむ。
3.「百科事典ウィキペディア」 コシアブラ(漉し油)
学名 Acanthopanax sciadophylloides。ウコギ科ウコギ属の落葉高木。葉は掌状複葉で小葉は5枚、やや倒卵形、基部には短い柄がある。樹肌は白い。コシアブラは同じウコギ科のタラノキやウドと同様、山や丘、林道脇など、開削・伐採された日当たりのよい明るい斜面に多く、春先に伸びる独特の香りを持つ新芽は食用となり、山菜の一種として扱われる。食用とする場合は、まだそれほど大きく伸びていない芽を摘み取り、下のほうにあるハカマの部分を除いたものを調理する。肥沃な土地にあるものは、大きいだけでなく養分が多く美味である。強い苦味があるため、苦味を和らげる天ぷらにすると食べやすい。またおひたしや和え物などにも調理され、塩漬けにして保存食とされる。
 コシアブラの木材は、米沢市に伝わる木工工芸品の笹野一刀彫(おたかぽっぽ)を作る際の材料として用いられる。また幹を傷つけたときに得られる樹脂は、加工を施すと黄金色に輝く塗料を作成することができ、古来「金漆(ゴンゼツ)」と呼ばれ、工芸用塗料として珍重されたが、長くその加工法は忘れ去られ、断絶していた。近年その加工法の再現に成功したとの報道も聞かれる。コシアブラの和名は「漉し油」を意味し、この樹脂の利用に由来する名称である。また「刀の木」とも呼ばれる。コシアブラの枝は、皮をこするときれいに抜け、芯と皮が分離する。これを刀と鞘に見立て、かつて子供の玩具とされたことに由来する。
4.「日本大百科全書 ニッポニカ」 コシアブラ 「漉油」
ウコギ科の落葉高木。高さ15m。樹皮は灰褐色。葉は5小葉からなる掌状複葉で、質は薄く、小葉は卵状長楕円形、長さ10〜20cmで、7〜30cmの長い柄がある。花は8月、その年に伸びた枝の先に長い柄のある複数形花序に多数つき、淡黄緑色である。果実は液果で9〜10月に黒く熟す。北海道から九州にかけての山地に広く分布し、秋の黄葉は美しい。樹皮から樹脂液をとり、漉して塗料(金漆ごんぜつという)をつくったのでこの名がある。金漆の音読みをもとにゴンゼツノキともいう。材は箱、箸、杓子、扇子の骨など器具材のほか、マッチの軸としても利用する。若芽は食用になる。
5.「六甲山系の樹木図鑑」 コシアブラ(漉し油) ウコギ科ウコギ属
〔名の由来〕:樹脂から採る油を漉して塗料として使ったのでこの名がある。〔特性〕:落葉高木、樹高10〜15m、樹皮は灰白色。葉は5枚の掌状複葉で長枝に互生し、枝の先端または短枝に束生する。小葉は倒卵形または倒卵状楕円形、頂小葉が大きく9〜20cm、幅は4〜9cm、小葉の表面は緑色で光沢がある。裏面は淡緑色。葉縁は茫状の不整の鋸歯。花は黄色の円錐花序。果実は液果、扁平な球状で直径4mmほどで黒く熟す。〔分布〕:北海道、本州、四国、九州。六甲山系では照葉樹林、二次林とも多く見られる。鍋蓋山北側(標高370m)で樹高20m、胸高直径60cmの大木がある。〔花期・果期〕:花期8〜9月、果期10〜11月。
6.「牧野日本植物図鑑」 こしあぶら 一名ごんぜつのき
学名 Acanthopanax sciadophylloides(Kalopanax sciadophylloides)
山林中ノ落葉高木ニシテ高サ16m許、径60cm許ニ達シ、幹ハ直上シ樹膚ハ灰褐色、枝モ灰褐色ヲ呈ス。葉ハ互生シ基部短鞘ヲ呈セル長柄ヲ具ヘ五出掌状複葉ヲ成シ、小葉ハ短柄アリテ倒卵状楕円形、長サ10〜20cm許、先端尖リ底部鋭形或イハ楔形、棘状鋸歯縁、質薄ク、裏面ハ淡色ニシテ脈上淡褐色軟毛アリ。夏日開花シ、散形花序ハ長梗アッテ枝端ニ集合シ、複数散形ノ観アリ。花ハ小形ニシテ多数、淡緑黄色。雄蘂5、挺出、黄葯。子房ハ下位、2花柱。液果ハ小球形、少々平扁、平滑、秋ニ入リテ黒紫色ニ熟シ長サ5mm許。和名ハ漉し油ノ意ニシテ往昔此樹ヨリ樹脂液ヲ採リ、之レヲ漉シテ塗料ニ使用セシ故此名アリ、又ごんぜつハ金漆ニシテ其特別ナル塗料ヲ云ヘリ。
7.「山菜と健康」 コシアブラのはたらき
〔特徴〕:ウコギ科の落葉高木で、全国の平地から2000m程度の高地に分布します。幹は直立し23mにまでなり、樹皮は褐色より灰褐色を示し、長柄で掌状の5小葉よりなる葉を互生します。夏、幹の上部が分岐し球状の淡黄緑色の小花の小花穂が放射状に多数、散形花序に付きます。タカノツメ(3小葉)、ハリギリ・センノキ(9小葉)は同じウコギ科の植物で、コシアブラと同様若芽を食用とします。〔効用〕:①抗腫瘍作用=コシアブラの70%エタノール抽出物にはヒト前骨髄性白血病細胞のアポトーシスを強く誘導することが見出されています。②抗酸化作用=コシアブラは強い抗酸化作用がありますが、その活性成分はクロロゲン酸であることが明らかになっています。③血圧降下作用=若葉にはケンフェロール、クヴェルセチン配糖体、イソクヴェルチトリンが含まれます。若葉の生若しくは日干しを煎じて飲むと、高血圧に効果があります。
8.ウコギ科の資源植物
 ①山菜:ヤマウコギ、コシアブラ、ハリギリ〔以上ウコギ属〕、タラノキ、ウド〔以上タラノキ属〕、タカノツメ〔タカノツメ属〕  
 ②庭木・観葉植物:カクレミノ〔カクレミノ属〕、ヤツデ〔ヤツデ属〕、キヅタ、オカメヅタ、セイヨウキヅタ(ヘドラ、アイビー)〔キヅタ属〕、 ヤドリフカノキ(シェフレラ)、ブラッサイア〔以上フカノキ(シェフレラ)属〕、カミヤツデ〔カミヤツデ属〕
 ③薬用植物:エゾウコギ〔ウコギ属〕、アメリカニンジン、オタネニンジン(朝鮮人参、高麗人参)、サンシチニンジン、トチバニンジン(竹節人参)〔以上トチバニンジン属〕

蕎麦「やまぎし」が開店(6.12)

 私の家で手前料理で一席設けたことがある。急にお一人が来られなくなり、代わって私の親友の紹介でお出でたのが山岸さんという方で、その日山岸さんは打ち立てのそばを持参されて来宅された。宴がお開きになってから、山岸さんは自らそのそばを茹で、冷水で締めて供された。汁はもちろん笊や箸までも持参、皆さんとても感激していた。もう5年も前のことだ。親友と山岸さんの付き合いは、当時の所轄警察署長と地区の交通安全協会の責任者との関係、山岸さんはその後県警本部刑事部長を最後に退官され、運転免許センターに昨年度まで勤務されていた。大変器用な上に中々のアイデアマンとして知られ、いろんなグッズを考案され、実用化されたことでも知られた人だ。もう退官されて7年ばかりだが、とうとう病膏肓に入り、大胆にも蕎麦店を開業してしまった。これまでも年に何回も打ち立てのそばを頂戴し、吟味した玄蕎麦の生粉打ちを味わわせてもらっていて、ファンの家内はもとより、年暮れに子や孫達に振舞った時など、大絶賛だった。
 さて、本人に言わせると、「そば」は嫌いだが「そば打ち」の妙に惚れてしまったと。師匠は持たず全くの独学、当然当初はものにならず、随分捨てたとも。一時は蕎麦を栽培したこともあり、持ち前の凝り性には目を見張るものがある。玄蕎麦を仕入れ自家製粉、丸抜きも家で、聞くと米も籾のまま購入し、籾摺りは自分でするというほどの懲りよう、推して知るべしである。そしてとうとう開店、開店1週間前にはそばを持参され、これで勝負しますとのこと、大胆さに驚いたものだ。
 店の場所は金沢駅東口、金沢駅前第一ビル(ライブ1)の東面、別院通り側、以前はラーメン屋だったとか、中は狭く、止まり木に5人、小上がりに4人で満席である。開店は4月26日の土曜日、11時開店と聞いていたので30分前に着くように出かけた。ところが、場所が分からず実に往生した。近所で聞いても全く埒が明かず、ようやく辿り着いた時は開店間際だった。止まり木に客が1人いたが、実はその人はお祝いに駆けつけた浜松在住の弟さんだった。この日は初日とて、奥さんと娘さんが応援、正にてんてこ舞い。それに開店祝いの花や鉢が次々と届けられ、店の中にはとても入りきらず、道路まではみ出す始末、初日とあれば致し方ないか。武家の商法か、この日の店主の出で立ちは、ネクタイを締めて、その上にうこん色の真新しい作務衣を着用、いかにも素人さんらしい。
 前日の晩には親戚を呼んでリハーサルをされたようだが、初めてのこととて中々勝手通りには進行しないのが常、奥ではああだこうだとざわざわした様子が伝わってくる。座ってからも応対まで随分と時間を要する。ややあって「いらっしゃい」の声、商売は全くの初めとあればこれも致し方ないこと、やっと山岸さんが顔を出され、「よく今日が開店と分かりましたね」と、「木村さんには案内を出さなかったのに」とも。実は昨晩親戚を集めての予行演習に参加された中に私の勤務する協会の理事の方が居られ、実はその方から聞いたのだと話すと納得された。おもむろにそば茶が出される。そばは「白」と田舎の「黒」の二種類、それぞれ並もりと大もりがあるので、希望のそばを入口にある券売機で求めて下さいと。駅構内にある立ち食いそばの流儀である。白と黒の並もりの券を1枚ずつ買う。初日は40食ずつ打ったとか。店は狭くて打つ場所がなく、当然なくなれば店じまいということになる。今日初日の入りはどうだろうか。そばが出てくるのを待つ間に3人がご入来、止まり木は満席になった。何方も券売機方式には直ぐには気付かない。珍しい発想だ。山岸さんらしい。
 弟さんと私に初注文の白のもりが出た。お盆も器もすべて新調されたもの、山岸さんらしく中々凝ったものだ。そばは中細、若干不揃いが見えるが愛嬌か。そばにはコシがあり、喉越しもまずまず、汁は程よい塩梅、薬味は極薄切りの葱と山葵大根と本山葵の混合おろし、並もりと言っても180gもあり、量としては多い方だ。因みに大もりは230gだという。次いで黒のもり、こちらは十割の太打ち、香りもあり噛み応えがあるが、このまま汁をつけて食べるだけではやや物足りない感じ、これだけ黒く太いと越前そばのように大根おろしのぶっかけで食べるのが相応しいような気がする。まあこれからお客の要望もあって「やまぎし」のそばも進化しよう。
 蕎麦「やまぎし」でのそばは何れも国内産蕎麦を自家製粉し、蕎麦粉十割の生粉手打ちで提供しているとのこと。「白」の方は蕎麦の外皮を取り去り丸抜きにしたものを石臼挽きにした蕎麦粉十割の手打ちでやや細めに、田舎そばの「黒」の方はそのまま石臼挽きにした蕎麦粉十割の手打ちで太めに切ってあるという。聞けば朝早く蕎麦を挽いて篩い、当日の提供分を打つという。挽き立てのそばは香りがよい。
 翌開店二日目は日曜日、今度は家内と出かけた。やはり開店時間の午前11時に寄った。まだ客は来ておらず、家内は白の並もり、小生は白と黒の並もりを頼んだ。実はこの日この後白尾の「亀屋」へ繰り出す予定をしていたものだから、満腹になるのには抵抗があったけれど、昨日より量を落とすのは礼を失すると思い同じにした。昨日は開店祝いとあって胡麻豆腐を付けたとのことだったが、この日も出されてきた。当然自家製だろう。でも中々乙な味である。そばの方も初日よりはより吟味されているような感じ、昨日は皿盛りの白の方は水切りが若干悪かったようだったが、この日のそばは揃っていて水切りもよく、見た目も随分と端正な感じだった。黒は黒なりの風情があるが、家内は白の方が好いという。お客さんの様子を見ていると、やはり白の方に人気があるようだ。
 注文は入口にある券売機で目的の品を求めることになっていて、並もりがいずれも750円、大もりが共に900円となっている。営業時間は午前11時から午後3時までだが、売り切れ時には閉店の由。また開店時には定休日はまだ決めていないとのことだったが、その後毎週水曜日にしたとのことだった。
 店主の山岸さんは、以前は煙草もお酒も大好きだった由、しかし大病を患ったのを機に両方ともスッキリ止められたとか。店が狭いこともあって、蕎麦前の提供は困難で、今のところ蕎麦一本で勝負と仰っているが、私の希望としては、軌道に乗ったら、額谷の自宅で開業され、蕎麦前の提供もされたらとひそかな望みを抱いているのだが、果たしてこの願いはいつの日か実現するだろうか。



予防医学協会への再就職の12年をふりかえる(6.17)

 平成8年3月に石川県保健環境センターを59歳で辞して、財団法人石川県予防医学協会検査部に再就職して12年が経過した。平成18年以降は部長職を辞して顧問として残っているが、そろそろリタイアしたいと思うようになった。小・中・高・大の同窓生も9割以上はサンデー毎日、大概の方は年金生活を謳歌している。もちろん中には自営の方もおいでるし、まだ勤務されている方もいる。しかし常勤となると71歳以上では極めて少なくなる。ところでこの歳になると、何か行事を行おうとすると平日が原則、とするとこちらは休暇をとって参加することになる。そこで小生もその恩恵に浴しようと辞職を打診しているのだが、どうも捗々しい返事が返ってこないのが現状である。人に話すと、元気なうちは乞われて働いていられるのならそんな結構なことはないのではとも、また健康のためにも好いのではとも言われるが、しかし元気なうちに辞めないと、動けなくなってからでは遅いと思うのだが如何であろう。今したいと思っていることは、両親も他界して、順序としては次は私の番であるから、家の整理をしておきたいのと、白山の全登山路のうち未だ歩いていない石徹白道の一部を是非歩きたいことである。
 ところで、協会に再就職した年、小松市の中学校で食中毒が起き、規模も大きかったことから、原因は大阪府堺市で爆発的な発生をみた腸管出血性大腸菌(EHEC)類似の大腸菌のではないかと推測されたが、分離できた大腸菌は市販の抗血清とは全く反応せず、唯一の決め手はベロ毒素(VT)の確認によるしかなかった。しかしこの時点で、石川県ではまだPCR法による検査体制が確立されていなかったのである。ところが私が再就職した時、協会検査部では別の目的でこの検査を行っていることを知り、県で分離された株の分与を受け検査したところ、分離された大腸菌はベロ毒素を産生する株であること、そしてその型は1型であることを確認できた。就任早々のことである。これを契機に、県ではこの検査体制が早急に整備されたことはいうまでもない。
 さて、EHECの検査の根本は、この毒素を産生する大腸菌を簡単にスクリーニングできるかが最短最善であるが、大量に扱うルーチン検査では毒素産生を簡単にチェックすることは実務としては極めて困難で、当時の検査法としては、毒素を産生する大腸菌の血清型を特定することで対応していた。ところが市販の抗血清にない型の場合は当然見逃されることになるのは明白なのだが、それには目を瞑って、便法として発生の多い上位3位若しくは5位の型についてスクリーニングする検査が国からも推奨されていた。しかしこの方法は実に手間と金を要する検査だった。そこで私はこれに代わる簡便でしかも毒素を産生する大腸菌のみを、何か別の方法で比較的容易にスクリーニングできる方法がないかを模索することにした。私が在籍していた保健環境センターでは、当時牛の腸管にいる大腸菌の毒素産生と溶血活性の関係を調査していたが、これはもう10年位前に発表された論文に基づいたものであった。それによれば、ある条件さえ整えば、大腸菌のVT産生性と溶血性との間には高い相関性があるとのこと、早速文献を取り寄せて検討することにした。
 既知の毒素産生株、非産生株を用い、原著に忠実に作成した血液寒天培地並びに市販の通常のヒツジ血液寒天培地を用いて、ただ原著では塗抹だったのをスポット穿刺培養にしてベロ毒素産生と溶血との関係について検討した。結果からは市販の培地では相関は全くなかったが、原著に基づいた培地では相関があるようだった。そこで原著にある培地の個々の各成分について最適の条件を検討し、最もよく相関する培地を作成した。このようにして糞便から腸管出血性大腸菌をスクリーニングする方法を作り上げた。その方法は糞便をしかるべき大腸菌が生育できる培地に塗抹して1日培養後、大腸菌と思われるコロニーを数個釣菌し、私らが作成した血液寒天培地にスポットし、一晩後に溶血の有無を観察し、明瞭なΒ溶血のある株についてのみ毒素産生をチェックするという方法である。この方法を使うと、優勢な3位とか5位以外のベロ毒素産生株、すなわち市販の大腸菌抗血清と反応しない腸管出血性大腸菌もよく検出されてきた。
 この間の経緯については、約5年間にわたって、専門誌の感染症学雑誌に5編、日本臨床微生物学雑誌に2編、協会誌の予防医学ジャーナルに9編投稿し、日本臨床微生物学会と予防医学中央会から優秀論文の賞を授与された。県に在籍している時は、業績は年報に必ず投稿しなければならない義務があったことから、外部の専門誌に投稿する機会はほとんどなかったが、予防医学協会にはそのようなシステムがなかったことから、必然的に専門誌へ投稿することになった。その後このスクリーニング方法は定着し、現在も継続して実施されている。また溶血をチェックする血液寒天培地はその後メーカーから市販されることになり、検査の手間は随分と省けるようになった。とはいえ、協会で年間に検査する検便対象者数は延べ10万人にも達していて、他の検査の片手間で済ますことはとても出来ない。これまでの検査結果から、健常人からの腸管出血性大腸菌の検出率は0.01〜0.02%である。
 糞便の検査は上記のEHECの検査のほかにSS(赤痢菌とサルモネラ)の検査も実施される。両方を共に検査するケースが最も多いが、片方単独の検査もある。SSの方は年間11万人を対象、やはり0.01〜0.02%の検出率でサルモネラが検出されてくる。赤痢菌の検出はない。こちらの検査方法は従来からの方法を踏襲している。
 今一つ私が関わっている検査に学童検診のうちの蟯虫検査がある。春季(4〜6月)に9万人、秋季(10〜11月)に4万人の保育園・幼稚園児、小学校低学年の児童を対象に虫卵有無の検査を実施している。方法としては2回採取する方法と4回採取する方法とがあり、鏡検する枚数は春季12万枚、秋季6万枚に達する。そのうち私が鏡検する枚数は年間15万枚位、鏡検の結果、平均して約1%から蟯虫卵が検出されてくる。この検査は予防医学協会が設立された時からの検査であり、50年以上も続けられていて、対象者はほぼ石川県全域にわたっている。ところで陽性者には駆虫薬を投与することになるが、数年前から特効性のある駆虫薬が処方箋薬となったため、患児のみへの投与となった。しかし駆虫されても容易に施設や家庭で再感染する可能性があり、検査をして陽性者を見つけても根絶することは現段階では不可能である。成虫は成書では約1万個の卵を肛門周辺に産むと書いてあるが、以前は視野いっぱいに虫卵がいる児もいたが、今ではそんな児は滅多になく、ということは教科書でいうような典型例はないといってよい。本当に無くそうと思うのなら施設ぐるみで対応しないと根絶は出来ない。現況のままでは共存ということになる。
 協会での日勤者の勤務は午前8時30分から午後5時10分までである。私は諸々の事情もあって、通常は午前7時30分に出勤し、午後6時に退出している。いろんな資料は協会に置いてあるため、家で協会の仕事をすることは全くない。勤務に疲れたということではないけれども、朝天気がよいとブラリと山へ出かけたくなる衝動にかられる。この気が失せないうちにリタイアしたいものだ。


緑提灯の行く末を想う(6.19)

 そば処「敬蔵」では、昨年9月から蕎麦会席を始めた。住所は私と同じ野々市町本町一丁目(でも旧町名では私は新町、敬蔵さんは荒町)、かつ敬蔵の奥さんが家内のいとこの子ということもあって、とにかく蕎麦会席を毎月1回1年間戴くことにした。弥生の会席を戴きに3月下旬に寄った際、店主が緑の提灯に気付かれませんでしたかと話しかけられ、そういえば入口に下がっていましたねと返事した。店主にしてみれば意気込んで話したのに機先を削がれたようで、それ以上説明はされなかった。帰りによく見ると、緑提灯は地場産品応援の店の印だということは分かったが、深く詮索することはなかったし、特段気にも止めなかった。そして4月もである。
 ところが5月13日付けの北國新聞夕刊に「緑ちょうちん 国産食材、積極利用の店」という記事が社会面に大きく載った。曰く、「赤ちょうちん」ならぬ「緑ちょうちん」を店先に下げる飲食店が石川県内で増えていると。また、食の安心・安全に消費者の関心が高まる中、各店は国産食材の使用率の高さを訴えているとも。翌14日には、4月16日から始まった敬蔵のブログにも、また前田さんの書く「日めくり日記」にもこの記事の紹介がされていて、小生も改めてその経緯や位置づけ、更に現在の状況などを把握できた。
 発案者は当時北海道農業研究センターの所長だった丸山清明さん、現在は茨城県つくば市にある中央農業研究センターの所長である。この方の発想では、北海道に観光においでる人達は北海道の自然を満喫し、北海道の食を堪能されるために来道されるはずである。ところが、自然は確かに北海道だが、食べるものの多くは外国産だとすると問題ではないかと。また道内で生産される産物の大部分は道外で消費されているが、これにも問題があるのではないかと。そこで仲間と酒を飲みながら議論していて思いついたのが、商品の半分以上が地場産品の店を「緑提灯」でアピールしたらどうかという提案、これは小樽市の運河前屋台団地の牡蠣専門店での話し合いが発端だったという。後にこの店が緑提灯第1号店となったとのこと、2005年4月23日のことである。
 この緑提灯の店は、中国製ギョーザ中毒事件などで食に対する関心が高まったのをきっかけに急増していると新聞記事にあるが、まだ全国で1000店を超えたばかりであって、とても私には普及が急速に伸びているとは思えない。ただこの運動の広がりは今年3月時点で全国47都道府県すべてに認定店ができるまでになったというから、協賛する店は徐々にではあるが増えているように思える。因みに石川県での普及ぶりをみると、現在17店が認定されていて、自治体別では、能登町1店、七尾市1店、金沢市12店、野々市町1店、小松市1店、加賀市1店となっていて、10市9町のうち4市2町にあることになる。
 申請を受け付けるのは、つくば市に事務所があるボランティア団体の緑提灯事務局で、国産食材の提供量がカロリーベースで50%を超える店が対象になり、必要事項を記入して申し込むことになっている。そして50%を超えれば★1個、60%を超えれば★2個、70%を超えれば★3個、80%を超えれば★4個、90%を超えれば★5個と表示されることになる。ただこの申告はあくまでも自己申告であって、審査があるわけではないとのことだ。でもお客さんからすれば緑提灯に関心を示したとしても、今は星の数の評価にまでは興味が及ばないような気がする。もっと普及してくれば三ツ星とか五ツ星とかが評価の対象となるかも知れないが、そういうミシュランもどきのブック片手に店を漁るようになるのはもっとずっと先のことのような気がする。因みに現在石川県には★5つ認定店は3店あり、その中の1店がそば処「敬蔵」で、敬蔵では、鴨はフランス産、鰊はアラスカ産、打ち粉は中国産とのことだが、他の材料はすべて国産だという。ただその中に地元産がどれだけあるかは言及していないものの、その努力は買われるべきであろう。地産池消が叫ばれて久しいが、全てを地場産品で賄うことは容易ではない。身近なところでは、福井県のそば屋さんでは、福井県産の蕎麦粉を積極的に使用している店には、その証明に、やはり緑を基調とした「福井県産蕎麦使用の店」という幟を与えてアピールしていて、この幟は福井県のみではなく、東京でも越前そばを標榜している店には出しているという。
 緑提灯事務局では、国産の穀物、野菜、魚介、畜肉等を積極的に多く提供する店を増やそうとしている一方で、その活動を食を提供する側ばかりでなく、消費する側にも関心を持って貰おうとして応援をお願いしている。今や日本の食糧自給率は40%、先進国の中では最も低いという。日本で食材の自給率が6割以上を確保しているのは、米、海産物、野菜、牛乳・乳製品位で、植物油脂、大豆は1割未満、小麦は1割台、果物で4割台、肉類で5割台、何とも心細い限りである。
 緑提灯の店は地場産品応援の店であり、お客様に安全で良質な地場産・国産の素材を使って料理を提供することをモットーにしている。しかし現在自給率の極めて低い原材料を主材料として使用しなければならないような、例えば外国産大豆に依存しなければならない製品を扱う店は、どう足掻いても該当から外れることになる。味噌や醤油、豆腐製品を扱っていて、国産品を扱っていることを標榜できる店はないに等しい。植物油もそうだから、庶民が出入りできる天ぷら屋もネタは国産であっても該当は難しかろう。また小麦にしても国産は極めて少ないことから、大量に消費されるパン、またうどんに代表される小麦粉原料の麺類、同じくギョーザやラーメンを提供する飲食店もほとんどが該当しないだろう。昔からの素麺の産地では現在どこの原材料を使用しているのだろうか。戦前や戦後昭和20年代の日本のように、食糧を自給自足しなければならなかった時代には、ほとんどの食材は国産でしかなかったが、食料が自由化され、それが副食や嗜好品ばかりではなく、現在のように主食となる食物の原材料も輸入されるようになって、国産の食が圧迫されているのが現状だ。今となっては50年前に後戻りすることは戦争でも勃発しない限り起き得ないことを想うと、地道でもこの運動は推進してゆかねばならないと思う。
現在石川県には6200軒もの飲食店があるという。今は緑提灯の下がっている店は17軒しかないが、現段階でも該当する店はかなりの数になろう。郷土料理、懐石・割烹、寿し、鍋・おでん、海鮮・魚介、手打ちそば、焼き鳥・鳥料理等を標榜する和食系統の飲食店は大部分が該当するのではないか。また大豆や小麦、植物油、畜肉や魚も国産にこだわれば、うなぎ、天ぷら、かつ、串揚げ、すき焼き・しゃぶしゃぶ、丼、お好み焼き・もんじゃ、焼肉・ホルモン、ステーキ・ハンバーグを標榜する店も該当しよう。居酒屋やビアホールにも該当する店が多いかも知れない。一方、自家製でないうどん・そばやラーメン、豆腐・油揚げを扱う店は、国産品が極めて少ないこともあって、該当は困難だろう。また、ヨーロッパ諸外国の洋食料理や中国・韓国・朝鮮を含むアジア諸国の料理を提供する店も、国産の素材を用いるとしても困難なのではないか。
 緑の色は信号では安全を示す色、樹木や野菜の葉の色でもある。その色は人々に安心・安全と安らぎを与える色でもある。緑の灯が街に溢れるようになることを祈る。

唐変木な仲間を巡る(6.27

 平成20年4月6日に、かねて行きたいと思っていたそば屋「しん馬」へ寄った折、「とうへんぼくな仲間」という会に参加しているそば店を巡るスタンプラリーがあり、全店を巡ると素敵なプレゼントが貰えるという企画があることを知った。店主に勧められるまま、家内と私はラリーに挑戦することにした。参加している店の主は、皆さん竹林舎唐変木でそばの手打ちの手ほどきを受けた方ばかりである。唐変木でそば打ちを習った人はもっと沢山いるらしいが、開業しているのは9店だけとか。能登に2店、金沢に3店、白山市に3店、県外埼玉に1店とある。このうちラリーの対象になっているのは県内の9店、この類のラリーは他にもあるが、挑戦したことはない。挑戦はこれが初である。
 翌週の日曜日の13日、能登中島にある「くき」へ、此処は噂に聞いていたそば店、先に穴水にある「やまがら」へ寄ってから行くことにした。「やまがら」でもスタンプラリーに参加している人に出会ったが、ラリーがなければ、あそこのそばは求めて食べに行きたい店ではない。ただ古代米が一膳付いていたのは一工夫だ。ここを出て中島へ、それで「くき」へ付いたのは1時過ぎ、間一髪でそばを食いそびれるところだった。十食限定の十割そばはなく、二八も残り二食のみという厳しさだった。そばは中々端正な打ち、 一度は十割を食してみたい と思った。それより、蕎麦前とつまみは絶妙、環境も良く、遠いが穴場だ。それで後日十割を食しようと思って出かけたが、3人で真っ先に着いたのに、10食打つ予定が8食しか出来ず、6食は予約で2食しかないというのには参った。もちろん次に来た人に十割はない。ここで十割を食べようとするなら予め予約が必要だ。察するに果たして自家製粉なのだろうか。でなければ十割を打つのに予定数を下回ることはないはず、開店まで外で待っている間に宅急便が来たが、下ろされたのは玄蕎麦ではなく蕎麦粉だった。
 4月29日のみどりの日、家内と鳥越の「唐変木」に寄ることに。沢山の素人さんにそば打ちの楽しさを教えた草分けとして、マスメディアにも紹介されたこともあり、拝見はしているが、寄ったことはない。私の所属するそばの同好会にも教えを受けた人がいる。地図に従って道を辿ると右手に山小屋風の建物、昼近くとて2組いた。ところで1組の一人は温かいそばがないとかでパスして出て行った。家内は「せいろ」、私は蕎麦焼酎の蕎麦湯割りと十割、限定打ちだが、値段が高いので残っていたということ。二八はさほどでもなかったが、十割は中々美味しかった。家内も同感、師匠だけのことはあって、打ちは確かで端正、ただ地元鳥越の玄蕎麦は他の産地のものより劣るのではと思った次第。終って店主の橋本さんと話し込んだが、前は素人さんを対象に教えていたが、今はそれを止め、開店している人を対象に必要なら教えていると。壁にはこれまで此処で修業した人の名がずらっと載っているが、圧巻である。店主は私が想像していたよりずっと気さくな人だった。ところで今開業している人にふれ、私はそばをきちっと打てるまでは指導したが、それ以上のことは何も干渉していないと。経営も店の特色も蕎麦の仕入れも個々人の器量で采配すればよいことだとも。道理で仲間といってもそれぞれ皆独特の個性があるのだと感じ入った次第。また訪れたい落着いた店だ。
 ここまで来て、尾口の「じょうるり」に寄ることに。此処はずっと以前には白山の帰りには必ず寄っていたそば屋だが、親父さんが亡くなってそば打ちを止めてからは全く寄らなくなった。前は「浄るり茶屋」といっていたが、今は唐変木で修業した人が入ってそば打ちを再開したわけだ。再開してからは初めてである。入っていって店では昔よく来た人によく似てるねと話していたと、本当に久しぶりだった。昔は入れない位混んでいたこともあったが、祝日でもそんな混みではない。家内は「ざる」、私はお酒と野菜天をもらう。そばは量が多く、家内は途中で私にバトンタッチ、ということは量もさることながら、二八が今一、ここでも蕎麦、あるいは蕎麦粉そのものに問題がありそうだ。天ぷらも山菜ばかりの二人盛り、久しぶりだから仕様がないか。でも辟易した。
 5月3日の憲法記念日に森本にある「つくだ」に出かけた。住まいの野々市からは山側環状を利用すればものの30分程度で着いてしまう。街中の住宅地にある町屋風のそば屋である。「もり」と「相もり」を頼む。お昼だったが、常連さんにはスペシャルサービスも、地域密着型である。店の雰囲気からは他の麺や丼物が出てきても不思議ではない雰囲気だが、純粋なそば屋である。玄蕎麦は福井、北海道、長野とある。端正な打ち、汁は中々美味しく薄味で後味が良い。相もりには韃靼蕎麦の細打ちが付く。」店主に次に東山の「ほやさけ」へ行きたいのだがと言うと、ひがし茶屋街の詳しい地図を出してくれ、車ではこの時間駐車するところはないけれど、3時過ぎればこことここは無料で止められますとまで教えて頂く。そこで今日はもう1軒「草庵」にでも寄って、明日出直すことにする。
 翌4日、金沢駅前に「やまぎし」を訪ねてから東山へ行く。茶屋街は観光客でごった返していた。お目あての「ほやさけ」は直ぐ見つかったが、昼時とて満員の盛況、靴の脱ぎ場もない位、客は昼食に寄っている感じ。一瞬どうしようかと迷ったが、待つことに。席に着くのに小一時間も待たされるとは信じられないことだ。2階があり、そこには団体さんが入っている様子、下は止まり木に6人、座机は2人掛け2脚、4人掛け1脚、実に狭い。それに装飾物が所狭しと、金沢言葉も氾濫。見ていると茹でる釜は小さく、一度に2人前でも間が空く。だから座ってからそばが出てくるまで、随分と待たされた。そばは固く、美味しいとは言えないが、金箔のふりかけ、観光客が喜びそうな演出には脱帽だ。
 残るは2店、まず5月18日の日曜に鳥越の「おきな」に寄る。略図では知ったポイントもあるが、すんなりとは着けない。漸く探し当てたが、狭くて駐車できない。村外れに車を止め寄ると、本日は修了の看板、中を覗くと下足がびっしり、貸切だ。次に寄ったのは月末31日の土曜、今度はすんなり着けた。村中の駐車可という庭先に車を止め、店へ寄ると、今日はまだ誰もいない。中年の夫婦が営むそば屋、囲炉裏があり、4人掛けの座机が3脚、畳の部屋に置かれている。屏風や額、置物があり、昔風の田舎家。落着いた雰囲気、「おしぼりそば」を所望。辛くてもいいですかと念を押され、大好きですと答えた。辛味大根は畑で作っている由、確かに辛くて美味しかった。そばは中打ち、コシがあり、まずまずの出来。帰るまで他の客は来なかった。帰りにすぐ近くの一向一揆の里に寄った。ここは旧村営の道の駅、広い駐車場、「せせらぎ」という手打ちそば処があり、かなりの人が入っている。ガラス越しにそばの手打ち実演も見せている。「もり」を貰ったが、先のそばより劣る。ここで食するより先の方が良いに決まっているが、車を止める場所が極度に少ないのが難だ。味が二の次なら此処でもよいか。
 柏野の「じょんがら」はこのラリーの最後にしようと初めからそう決めていた。しかも家内と同伴で。なぜなら店主の上野さんは家内と小・中学校同期だからだ。ここは一度探蕎会で団体で押し寄せたことがある。上野さんは会の何人かとは面識があり、またそば打ち教室の講師にもよく出られている。6月8日の日曜に私が行くと家内から聞いて、弱った奴が来るなと思ったという。私も初めて訪れた時の印象では、よくぞこんなひどいそばを食わせおってと思った位だからあいこだ。お酒は私の家の親戚の松任安田町の高砂、つまみに鴨ロースを貰う。家内は「もり」、この前とは格段の進歩、実に良くなった。教えることは学ぶこと、これなら恥ずかしくない出木だ。時間は夕方、店主とはずっと世間話、わだかまりは解けて、楽しい会話ができた。同窓の話が大方、彼は秀才、高校は泉丘、私の5年後輩に当たる。お酒を3合頂いてから「おろし」、大変美味しかった。ラリー完全制覇、スタンプを渡して辞した。これならまた来てもよい。
後日、ラリー完走の認定書が「じょんがら」から届いた。事務局を兼ねているらしい。素敵なプレゼントというのは千円券だった。何かもう一工夫いるのでは。番号は100284号。三度参りした人もいるとか、もう一巡りしようか。

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