2011年8月11日木曜日

蕎麦屋情報一筆:そば切り「多門」(小矢部市)

 表記表題の初出は「探蕎」会報第40号(平成20年5月24日発行)の蕎麦屋情報一筆の欄で、訪れたのは平成20年(2008)5月11日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 平成20年の4月中旬、私が勤務する石川県予防医学協会で、同じ部署に勤務するあるそば好きな女性から、金沢市市瀬町にあった「多門」が店を閉め、新たに富山へ移って開業するという情報をもらった。その後彼女には開店案内の通知が届いたとかで、その案内の葉書を見せてもらった。新住所は富山県小矢部市金屋本江、概略の地図は載せてあるが、すごく大雑把なので、このままではとても行き着けるとは思えない。新店での打ち始めは5月8日、案内状を見せてもらったのが5月9日、早速11日の日曜日に出かけることにする。
 午前10時に家を出て、北陸自動車道を小矢部ICで下り、ここでナビに住所を入力し、それに従う。ICを出て県道42号線福光安楽寺押水線を左折、初めての平桜交差点を右折して国道359号線に入り、初めの藤森交差点を左折して県道368号藤森岡線に入る。この道を道なりに進む。県道18号線の和沢、県道16号線との野寺の各交差点を過ぎると、右手に大谷中学校のおとぎの国のような建物が見えてくる。さらに進んで県道24号線との交差点水牧を過ぎると、右手に大谷小学校が見え、過ぎたら右折、次の農道をまた右折して南下すると、程なく右手に大きな庭のある家があり、そこが新拠点の「多門」である。ICからは6km強ばかり、周りは水田、最後の右折後最初の家である。
 着いたのは11時、案内を乞うと地田さんが出てこられ11時半からだと、車の中で待つ。地田さんから案内があり、部屋へ上がる。12畳と6畳2間を通しにしてあり、見慣れた長い白木の座机が2脚とクロス張りのテーブルが1脚、6人ずつ18人が座れる。出されるそばは、十割生粉打ちの「ざる」「おろし」「とろろ」と「そばがき」のみ。家内は「ざる」、私は「おろし」を頼む。これまでの羽咋市兵庫や金沢市市瀬と同じく、店主一人での賄いだ。程なく「そば」が出る。あのホシがある手挽きの中細、久し振りにお目にかかった。感慨無量だった。店主は相変わらずの無愛想、必要最小限のことしか話さない。美味かったのでもう1枚、家内は「とろろ」、私は「ざる」にする。若干不揃いなものもあるが、これが「そば」だというい見本のようなものだ。市瀬の時には蕎麦前があったが、ここでは出ない。正午過ぎまで居て辞す。帰るまでに3組6人がご入来になった。車のナンバーは3台とも富山だった。

 品書きは、ざるそば850円、おろしそば、とろろそば、そばがきがそれぞれ950円。
 そば打ちを教えます とある。
 定休日は月・火曜日。 住所は 小矢部市金屋本江528番地。 電話 0766-68-1079 。

2011年8月10日水曜日

蕎麦屋情報一筆:「茗荷庵」(羽咋市神子原町)

 表記標題の初出は「探蕎」会報第35号(平成18年12月5日発行)の蕎麦屋情報一筆の欄で、訪ねたのは平成18年(2006)9月17日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 山へ行く予定が秋雨前線と台風13号の襲来で延期になり、それではと、かねて訪れたいと思っていた羽咋市神子原町の「茗荷庵」へ出かけた。連れは家内とその友人。名前が同じ孝子なのも何かの縁か。午前10時に家を出る。国道159号線の飯山交差点を右折して、国道415号線に入り、神子原町に到る。辺りは山間に開けた田園風景が広がる長閑な一帯で、そのそば屋はその国道沿いにある。着いたのは11時過ぎだったが、もう我々のも入れて、車が4台、石川ナンバー2台、富山ナンバーが2台、氷見に近いこともあって、富山の人も多く訪れるようだ。この「茗荷庵」については、「探蕎」会報第24号に、松原さんが「元六兵衛、いま茗荷庵 辛いおろしそば」の一文を既に寄稿されている。
 「茗荷庵」は神子原町で開店して4年目になるという。暖簾をくぐると右手に打ち場があり、ガラス越しに中が窺える。左手通路を挟んで右手はカウンターになっていて、止まり木が5つ、左は上がり框になっていて、10人は座れる大きな囲炉裏と6人座れる座卓が2つ置かれている。お品書きは、「冷」が、ざる・おろし・とろろ・天ざる、「温」が、かけ・山かけ・おろし・ニシン・鴨南蛮・天ぷら。飲み物は、そば焼酎・ビール・酒。酒には銘が入ってなく、ただ「酒」とあるだけ。女性は「天ざる」、小生は「鴨南蛮」を所望する。
 先ず冷酒が来る。藍色の瀟洒な湯飲み風の片口に、対の盃とつまの蕎麦味噌、温物は後で案内があった時にお持ちしますとの付言、中々気が利いている。次いで女性に「天ざる」が届く。天ぷらは角盆に乗り切らない6種盛り、そばは角の塗った蒸篭に盛られている。一筋摘まませてもらう。細いが中々コシがあってしっかりしている。喉越しも良く、上等だ。お酒をお代わりし、鴨南蛮を出してもらう。温かいそばは、駅の立ち食いそばを除けば、廃業した「砂場」のそば以来だ。そばを手繰ると、温かなのにしっかりコシがある。これは余程しっかり打たないとこうはゆくまい。早々にそばをすべて手繰り、残りの鴨と葱を肴に酒を干す。この鴨と葱は絶妙の火の通し加減、実に美味い。つゆの味加減も抜群、すべて飲み干した。
 備えの芳名禄を見ると、石川・富山以外の地域からも結構来店している。そんなに宣伝しているとは思えないから、恐らくは口コミなのだろう。また訪れたい店の一つだ。少し遠いが、環境も良く、素晴らしい立地条件と言えよう。今度は松原さん推奨の「おろしそば」を賞味しよう。
 営業は午前11時~午後4時、でもそばが無くなり次第終了。定休は水曜日。電話は 0767-26-2419

 [付記] この後、七尾市国分町の「欅庵」へ寄った。ここで食べた「辛味おろしそば」の辛味大根の辛さは素晴らしく、家内はその大根下ろしを除けて食べる始末。後で店主の岡崎さんに聞くと、信州伊那の「みのわ大根」とか、直径が10cmばかりの丸い大根、今まで扱った大根の中では最も辛いと仰る。また丸いもの程辛いとも。私にとってもこれまでで最高の辛味だった。

2011年8月9日火曜日

瓢箪から駒:福井のそば屋「一の谷」で出た竹田の厚揚げ

 表記表題の初出は「探蕎」会報第34号(平成18年7月20日発行)で、丸岡町上竹田へ寄ったのは、平成18年(2006)4月15日、23日、30日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

● 4月15日は坂井市長・市議の選挙事務所開き
 福井県坂井郡丸岡町も平成の大合併で、同じ郡の三国町、坂井町、春江町と合併し、3月20日に坂井市となり、御多分に漏れず、新しい市長と市議会議員の選挙が4月23日に行なわれる段取りとなった。この日は実は探蕎会で丸岡蕎麦道場へお邪魔することになっていたが、選挙当日とあれば勿論論外で、1週ずらしての30日にしたものの、その日は道場主の海道さん宅では田植え時の大変忙しい最中、1日位空けますと言っては頂けたものの、本当に申し訳ない。さて、いつもお世話になる丸岡蕎麦愛好会の世話役の1人である旧丸岡町議の小見山さんが、新市会議員に立候補されることになり、その選挙事務所開きが15日にあるという。その必勝祈願に波田野会長と前田事務局長が出掛けられることになり、2人では余りにも数不足とかで、永坂、寺田の2長老も同行することに、更に無理やり小生も割り込んだ。
 前田局長運転の車で金沢を午前10時に発った。昼食は当初は加賀尾口の「山猫」の予定だったらしいが、会長の希望で越前朝倉の「利休庵」にしたとか。車は加賀産業道路を経て国道8号線を丸岡へと向かう。もう11時に近い。事務所開きは午後1時、後3時間ばかり、逆算して朝倉への往復は無理と判断、国道沿線で済ますことにする。さて、何処にするか。会長推薦のそば屋があるらしいがそこは予約制とかで断念。とすると、8号線を福井へ向かう時にいつも左に見える平屋建てのそば屋しかないか。時々前を通るが、一度だって入りたいと思ったためしがない店である。外見もさることながら、隣に赤錆が出たトタン葺きの建物があり、そば屋にしては環境が良くないこと甚だしい。
 熊坂川を渡って程なく、その店に着く。「そば」と青地に白抜きした旗竿が濡れて立っている。意を決して、小雨の中、「一の谷」へ入る。ところが、中は思ったよりスッキリしてたのには驚く。外見や周りの環境に左右される予見は禁物か。濁り池に咲く清楚な睡蓮や蓮の花とまではゆかなくても、何かそれに近い印象を受けた。入り口に近く4人掛けの机1脚、左手通路を挟んで左右の小上がりに4人掛け座机4卓。右手の小上がりに上がる。
 品書きはと見ると、「冷」は、おろし、とろろ、とろろおろし、ざる、山菜、「温」は、鴨鍋、かけ、牛すじ、とろろ、山菜。会長は「とろろおろし」、他の4人は「おろし」を頼む。待つこと暫し、おろしは出汁と一緒に大きな鉢に入っている。そばは二八、幾分細め。越前そばと言うと、ごつごつした田舎そばを思い浮かべるが、ここのそばはそれとは異なる印象だ。そばにおろしの入った出汁をかけ、あっという間に胃の腑に納まった。まずまずの食感だ。でも、可もなく不可もなしか。時間はというと、まだ1時間半もある。
 少しアルコールを入れたらとの局長の言に甘え、富久駒1合と通しに「竹田の厚揚げ」を所望する。酒は真ん丸で透明な硝子の銚子に入っており、それに対のグラス、清々しい感じだ。厚揚げは厚さ一寸近くあり、半分の片面を焼き上げて、六つ切りにしたのを横長の皿に盛り付け、それに葱と大根下ろしと専用の醤油だれが付いている。切り口はと見ると、内は詰まってなく、パンに似たようなスカスカした風情、初めての出会いだ。なかなか旨い。一時は福井の人だった会長に尋ねると、名前は聞いていたが、食するのは初めてと仰る。永坂、寺田の両長老も所望される。これは掘り出し物だ。これがあれば酒がすすむことは必定。こうなると、他のつまも美味しそうに見えてくるから不思議だ。曰く、鴨塩焼き、牛すじ、山菜、冷や奴、等々。この厚揚げは何処かで買えるのかと尋ねると、スーパーでもと。でもややあって、20分程待って頂ければ取り寄せますとも。でも20分は待てないとお断りする。会長はこの「竹田の厚揚げ」の幟を竹田の村で見たことがあると仰る。もし時間が許せば、手に入るかも知れないと淡い期待を抱く。
 丸岡の町はこの日から3日間は桜まつり。丸岡城を経由して小見山さんの選挙事務所へ向かうが、祭りで道路封鎖もあり、ナビどおりには行かなかったが、やっと目的地に着けた。事務所は何と真宗のお寺さんの本堂、これには驚いた。初の体験だ。聞けば初回からとか。町中には立候補者用の掲示板が目立つ。市長には4人、市議会議員には48人のスペースが。市長は事実上2人の一騎打ち、議員は42人から30人とか、中々厳しい選挙だ。当の小見山さん、それに市長候補の林田さんも見えた。林田さんは会長とも親しく、丸岡を蕎麦生産量福井一にした人だ。祈必勝の檄が所狭しと並ぶ。会長持参の有名書家筆の檄も並ぶ。堂内には支援者の方々が詰めかけられ、雰囲気はいやが上にも盛り上がっている。御両名が挨拶。心から必勝あらんことを願う。投票権がないのが玉に傷。晴れて当選されんことを祈念して辞す。帰りに若月さんの案内で、林田さんの事務所にも寄った。ここの檄はもう張る所がなく、天井にも重ね張り、激戦が伺われる。暫し歓談。公示は明日だが、選挙はもう終盤だと仰る。
 事務所を辞したのが2時少し前、局長用事の6時にはまだ4時間ばかり、竹田・大内経由で帰ることに衆議一決、会長の通い慣れた人間ナビの誘導で、一路竹田へと向かう。丸岡から南下し、通称永平寺道路から山に入る。この新道の開通で、永平寺と山中温泉が緊密になったとか、観光も広域的になってきている。会長の言では、天気が好ければ、高架橋からの越前平野の眺めはは大変素晴らしいとか、でも生憎の曇り空で霞んでいる。近庄峠を貫く新道のトンネルを2つ抜けると竹田は近い。ここは竹田渓谷の上流、丸岡町上竹田、千古の家や龍ヶ鼻ダムもある景勝の地、程なく会長の言う「竹田のあげ」の幟が見えた。
 人々は名物の油揚げを求めて、ここ谷口屋に来るのだろうか、狭くもない駐車場は満車の状態。早速店に入る。店内もほぼ満席。かろうじて空いていた一画に陣取る。個々に湯豆腐ほかを頼み、自前で熱くしてその熱々を食する。丸大豆特有な旨味のある「絹ごし」、中々美味い。土産に「竹田のあげ」2枚と「竹田のとうふ」2丁を求める。締めて960円也。当然、皆さんも買い物。見てると、豆腐や揚げのみ求めに来ている人もいる。効能書きには、白山禅定の清水を使用して、昔ながらの製法に拘って作っているとも。そして竹田の揚げには、「北陸の名物」と銘打ってあった。帰って早速厚揚げと湯豆腐をつまにして一献、至福の時を過ごす。カミさんが居れば、2枚2丁は消えたものを、独りとて、翌晩もまた同じパターン。その晩遅く帰ってきたカミさんに、竹田の厚揚げと豆腐は大変美味だったと吹聴すると、今度の日曜の23日に連れて行けとの御託宣、聴いてやらねばなるまい。23日は坂井市の市長と市議の投票日でもある。
● 9月23日は坂井市長・市議の投票日、カミさんと丸岡へ
 午前10時少し前に家を出て、先ずは「一の谷」へ向かう。辿るコースは先週の土曜日と全く同じ。店には既に先客が2組、蕎麦前でかなりの出来上がり、地元の人とお見受けした。程なくまた2組、これで満席となる。親しげな語り口は、同じ村の出の感じ。そう言えば、この店昔は村で食堂をしていたとか、故あってこの8号線沿いに店を構えた由、地の人が多い訳だ。小生はこの前と同じく冷酒、それと通しに「鴨の塩焼き」を所望。カミさんは「厚揚げ」と「とろろおろし」。やヽあって、山菜の天ぷらが出来上がったので如何ですかと、揚げたてを一盛り頂く。コシアブラ、タラの芽、コゴミ、センナなど、この時期の山菜だ。酒が更にすすむ。もう一盛り頂く。大変美味い。しかし鴨の塩焼きは、幾分厚めに切った肉の塩焼きだが、焼き過ぎで硬い上に香りもなく、感心した出来ではなかった。やはり蕎麦前の鴨は鴨ロースに限るようだ。締めに「おろしそば」を頂き、次の竹田へ向かう。
 選挙はどんな具合だろうか。「一の谷」はあわら市なので、隣の市のことは分からないと。竹田へは丸岡を通らないと行けないらしい。丸岡へ寄ったので丸岡城へ案内する。遅咲きの桜が満開で見頃である。城の資料館にも寄り、ここで竹田への道を聞く。竹田渓谷沿いの道が近くてよいとのこと、親切に教えて頂いたとおりに進むと、山竹田に着いた。道を南下して上竹田に至る。幟がはためく谷口家は、日曜ともあって駐車場は満タン、道端に車を停めて店に入るが、席を取るのに長い行列。買い物をしようと思ってもこれまた列。やっとの思いで厚揚げ2枚と絹ごし大2丁にがんも2つを買い、早々に退散した。この山の中でよくぞこの混雑、良い道と車がなければ、こんな地で商売が成り立つ訳がない。
 谷口屋では何も口にすることは出来なかったので、山竹田の新道脇にある「ふるさと渓流」に寄った。店の前には立派な本石楠花が今を盛りの満開。店は広いが、客はほかに1組のみ。山の幸なら、四つ足よし魚よし山菜よしの何でもござれの品書き。そばは地元丸岡の玄蕎麦を使用とあるが、どうも期待できそうにない。しかし、福井県の地元蕎麦を使用する認定店とある。そう言えばそれを証明する幟も立っている。野菜の煮物の付き出し、山菜鍋と冷や酒を頼む。ここにはチャンとノンアルコールビールが置いてあり、カミさんはそれを飲む。仕上げに「おろしそば」を。中太の二八そばは推奨できかねる品。それかあらぬか、客は少ない。日曜の昼というのに、谷口屋とは全く対照的だ。
● 4月30日には探蕎会で丸岡蕎麦道場へ、坂井市長選・市議選は惜敗
 翌週の30日の日曜日、待望の丸岡蕎麦道場行き、参加者もこれまでになく多い。総勢28名にもなり、マイクロバス1台では納まらず、自家用車2台が追加される。天気は上々、国道8号線経由で海道さん宅の蕎麦道場に着く。既にいつもより多い愛好会の方々が満を持して待っておいでた。海道さんの娘御さんもおいでる。動員されたのだろうか。若月さんも、そして小見山さんも、小見山さんは33位で惜敗だったとか、やはり広域選挙となると中々厳しいらしい。それにしても、1年に春秋2回もの訪れ、押しかけ女房のようで、本当に申し訳なく思う。予定より1週の遅れで、待望のコシアブラは無理だろうと話し合っていたのに、着いたら真先に素晴らしい逸品を見せて頂き、只々感謝であった。その天ぷらの美味なこと、加えて美味しい手打ちの「おろしそば」を存分に頂き、お酒は持参した3升4合では足りず、焼酎そば湯割りまで頂く始末、全く申し訳ない。小見山さんお手製のおにぎりも、あっと言う間に無くなった。良い鯖が手に入らず、バッテラは出来なかった由だが、それにしても頭が下がる。終いに近く、海道さんが模範手打ち、全く隙のない流れ、切り揃えたそばは、お持ち帰りにと。おんぶにだっこだった1日だった。只々感謝々々。
 帰路は局長の発案で竹田経由となる。それならば、ぜひ大杉商店の「へしこ」を求めなさいと、小見山さんのお勧め。皆さん賛同され、早速小見山さんが電話される。何しろ樽仕込みなので、それから出して包装するのに時間を要するので、予め連絡するとのこと。薄塩仕込で殊の外美味しいと言われ、20人ばかりが予約。山竹田の三叉路を真っ直ぐ直進すれば右手ですと教わる。今回は道路標識に従って素直に辿ったところ、先週私達が通った竹田渓谷沿いの道となった。三叉路を右と思っていたが、道なりからすれば真っ直ぐが正解と言える。南下する旧道沿いに大杉商店はあった。1パックに二枚下ろしの1尾、凄く立派で大きい。見ればノルウェー産とある。一目見て、小見山さん手製の立派なバッテラを想い浮かべた。店主は帰り際、くれぐれも生でなく焼いて食べて下さいと念を入れられた。加賀の糠漬けなら生でも食べられるのにと思ったが、塩の案配の違いなのだろうか。でもここは郷に入ればの譬えで従わねばなるまい。
 次にお目当ての谷口屋、今日も相変わらずの押すな押すなの盛況、買い物の列は店の外まではみ出している始末、現物を抱え込んで並ぶ方も。いやはや。でも我々のグループには、我関せずと森林浴よろしく外で談笑される御仁もおいでた。一時の熱に浮かされないのは偉い。小生はといえば、へしこ(大杉の薄塩鯖糠漬)1パック、竹田の厚揚げ2パック、同絹ごし大2丁のゲット。今宵はこれがあれば、カミさん共々これで十分な肴。何しろ直仕込なのが良い。充実した1日だった。

[閑話休題]
 後日、カミさんが、とある大型スーパーで「竹田の厚揚げ」を見かけ、買ってきた。賞味期限が3日後ということは2日前の製造ということになるが、運が良ければ、当日製造の揚げに出会えるかも知れない。カミさん、丁寧にも店員に、これは大変有名で美味しい豆腐だと吹聴してきたとか。でも、これもイヤハヤの類である。「絹ごし」は置いてなかったそうだ。これでどうしてもという時があっても、竹田まで行かなくてもよくなった。カミさんもあちこち歩けば、竹田の厚揚げに当たる。

2011年8月8日月曜日

遠州・美濃探蕎の旅の2日目、岐阜に吉照庵を訪ねる

 表記表題の初出は「探蕎」会報第34号(平成18年7月20日発行)で、遠州・美濃探蕎の旅に出たのは、平成18年(2006)6月10日と11日、吉照庵を訪ねたのは6月11日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 「今回は長老扱いに」
 遠州・美濃探蕎の旅の2日目の朝は、浜名湖畔舘山寺温泉の宿「ニューいずみ館」で迎えた。同室は寺田先生と久保さんと私、部屋割りは前田局長によるものだが、これまでは少なくとも小生は長老と目される方々との同室はなかったと記憶しているのだが、今回は到々年寄り扱いにされてしまった。外は霧雨か、湖面が煙って見える。釣り人も傘を差している。御両名は装束を改めて、近隣へ朝の散策にお出かけになった。小生はというと、朝風呂から上がり、部屋で湖面を渡る風を満身に受け、持参の「菊の露」で身を清めていた。そこへ前田局長のお出まし、一献を勧めるが、不要とのこと、代わりに「白州の水」を所望とか。それもよしとするか。
 用件は、今日の探蕎先である「胡蝶庵」と「吉照庵」の割り振りのことである。昨日から案が二転三転、大筋としての、前田・塚野両名の胡蝶庵、木村の吉照庵は良しとして、後の面々は流動的であったが、漸く確定したと。胡蝶庵は1組4名様までとあるので、2卓8名が限度とあって、その辺りが思案のしどころだが、局長の英断で、胡蝶庵8名、吉照庵7名となった。
 「胡蝶は本隊、吉照は別働隊」
 気になったのは、胡蝶を本隊、吉照を別働隊と命名したことである。両庵は岐阜市では双璧だろうが、片や新進気鋭の洗練された蕎麦屋、片や古い街中にある昔からの大衆蕎麦屋、雰囲気が全く違う。胡蝶庵へは、現在地へ移転して2年ばかり経った頃に寄ったことがあるが、鮮烈な印象が残っている。印象記なる拙文を「探蕎」会報第11号の蕎麦屋情報一筆に寄稿したことがあるが、雰囲気としては、とにかくわいわいがやがやとは全く縁がない、静寂が漂う店なのである。本来ならば皆さんに両方の雰囲気を味わって頂ければ、この上ないことなのだが、それは時間的にも無理なことである。それに、胡蝶庵には小型車しか駐車できず、マイクロバスは吉照庵にしか停められない。両店間の距離は長良川を挟んで、直線にして2kmばかり。結論として、バスで胡蝶庵へ行き、局長のいう本隊を下ろし、残りの別働隊はバスで吉照庵に行き、ここにバスを駐車することに。そして本隊は終了後、川辺をブラブラ散歩しながら吉照庵まで帰って来るという手立てにした。
 朝食には軽くビールが付いた。身支度をして、8時過ぎに宿を後にする。東名高速道経由で岐阜市に至る。小生は程よい振動と菊の露とキリンでお休みの体、目が覚めると、車は既に岐阜市に入っていた。長良川に架かる忠節橋が目指す胡蝶庵の第一の目印。以前の記憶では、橋を渡り、電車の線路の手前を左に折れ、最初の踏切を渡り、そこをそのまま進んで掘割を渡ると右手にあったと記憶している。だが電車は廃線になった由。バスは元の駅を左に見て直進する。そこで次の交差点を左に入ってもらう。少々行き過ぎだが、とすれば戻ればよい。道はT字路になる。もう近い筈。本隊8名はここで下車し、小生が勘を頼りに先導、先ず掘割へ。ものの1分程で掘割に当たる。そして右へ掘割沿いに進むと、お目当ての胡蝶庵が見えた。既に高級車が3台ばかり駐車している。玄関のつくばいの風情が良い。初めに1組4人、次いで残り4人が庵に消えた。一抹の寂しさを禁じ得なかったが、小走りにバスへ戻る。
 「パトカーに道を尋ねる」
 古い街並みでは路が狭く、特に吉照庵辺りはそのせいで一方通行が多い。塚野さんから頂いた道路地図が頼りだ。橋は一本上の金華橋が目印。バスはとにかく東進して広い通りへ出たら右折して、取りあえず川を渡る算段。ところがかなり東へ進んで右折したのに、渡った橋は忠節橋、リングヴァンデリングだ。気を取り直し、川沿いに金華橋へ向かう。右手には金華山が聳える。バスにはナビは付いてはいるが、吉照庵のある米屋町の表示が出ない。というのも町名表示が昔のままで、町の区画が実に小さい。金沢で言えば、油車や池田町界隈のような感じだ。金華橋を渡ってから反転して南下するが、何処で左折してよいのか全く分からない。丁度とある交差点で止まったところ、隣にパトカーが止まったので、吉照庵はどこですかと尋ねると、次の交差点を左折し、広い通りを道なりに進み、広い通りの交差点を右折、二本目の一方通行の路を入ればすぐとのこと。地理不案内で先導して貰いたい位だった。でも迷わずに着けた。駐車場は広いが、バスの区画はない。鍵を預け、そぞろ店に入る。店は大正初期の数奇屋風の造り、古めかしく落ち着いた佇まい、一見して老舗という感じがする。雰囲気は中々良い。
 中はほの暗い。座敷でもなく、かといって小上がりでもなく、その中間。部屋の感じは百年以上タイムスリップしたよう。昔野々市に「にゅうりや」という仕出しもし、そこで料理を取り酒も飲める店があったが、フッとそんな印象が過ぎった。上がると、ある一画に案内され、漆塗りらしき座机二連に7名が座った。
 「蕎麦前教育不足では」
 姐さんが来たので、取り合えずお酒を5合と言うと、5合もですかとびっくりした様子に、こちらが驚いた。1人5合なら驚いて貰ってもよいのだが。此処では蕎麦前の教育はしていないのだろうか。銘柄を任され、根尾の「薄墨桜」とする。酒の菜は個々に色々と注文する。板わさ、天麩羅、山かけ納豆、そば豆腐、イクラ下ろし等々。やがて薄墨桜が片口に入ってきた。盃も大きくてよい。流行の手作り風だ。と言って、お酒を飲まれない会計担当の米田さんは何を飲まれたかさっぱり記憶にない。別働隊は共同体のような雰囲気で、あれこれ少しずつ賞味する。個々には何ら不満はなく、満更でもない。更に2合の追加を所望する。そばは皆さん「鴨せいろ」を頼んだ。
 「画竜点晴を欠いていた鴨せいろ」
 「鴨せいろ」が来た。そばは長方形の使い込んだせいろ2段に入っている。そばは十割の伝承美濃そばとの触れ込み、色は黒くなく、むしろ白っぽい。伝統の極細打ちだが、そばの太さは不揃い。一見手打ちと分かるが、素人目にも不揃いはいけない。仮にもプロならば、揃っていてほしい。一筋取ってそばの味を味わおうとすると、取れないではないか。団子状とまではゆかなくても、せいろに入っているそばが全部持ち上がってくる感じだ。これは茹でに問題があるのか、締めに問題があるのか、せいろに盛ってから時間が経ち過ぎているのか。ならば,伝統に拘らずに、極細でなく細打ちにした方が良いのではと思ったりする。この日も混んでいて、どれ位の人数が入っていたかは知らないが、しかし天下の吉照庵のそばがこれじゃお粗末過ぎる。出汁の方が上等だっただけに、画竜点晴を欠いていた。
 「小吉と大吉と」
 かれこれ1時間ばかり居たろうか、吉照庵を出る。タイミングよく本隊から連絡あり、松田さんには吉照庵までは遠すぎるので迎えを頼むと。OKせずばなるまい。帰り際フッと見ると、店の外れに道路に面して高札があり、ここが江戸時代、歴代尾張藩主が岐阜御成りの際に本陣を勤めた賀島家があった処とか。その賀島家は明治24年の濃尾大震災で焼失したとのこと、由緒ある地なのだ。
 忠節橋を渡り、件のT字路にバスを止め、胡蝶庵へ迎えに行く。本隊第2陣は外にお出ましだったが、第1陣はまだ中とか。入ると奥の間に未だ鎮座。局長の言では、蕎麦三昧が丁度我々で終いであったが、中々良かった由。ただ出てくるのに時間が掛かったので、この時間になったとか。止むを得まい。済むのを待ってバスへ戻る。これで全員集合。こうして今回の探蕎の目的は果たされ、帰路につく。小吉、大吉はあったものの、一応は大団円。当初ではもう一軒という案もあったようだが、高速利用ということで割愛となった。
 「おわりに」
 小生バスに乗っては白河夜船、どこのICから上がったかも知らず、目が開いたら蛭ヶ野PA,清算を兼ねて休憩する。大日ダイナランドスキー場が雄大に広がって見える。晴れていれば、大日岳も白山も見える景勝の地なのに、雲に隠れている。今回の会費は4万円也、それが清算で8千円も戻り、すこぶる得した感じ。参加の皆さんご苦労様でした。特に往復の運転をして頂いた和泉さん、島田の宮本で水酒を飲まれずに和泉さんの運転の代行をされた塚野さんに、深甚の謝意を表したい。

2011年8月5日金曜日

丸岡蕎麦道場で食した「そば」は最上々、これこそ究極のそばか

 表記標題の初出は「探蕎」会報第32号(平成17年12月27日発行)で、訪問したのは平成17年(2005)11月13日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 平成17年の丸岡の海道さんのところの蕎麦の生育は芳しくなく、二度蒔きもしたとか。また蕎麦の丈も低く、収量も多くなかったそうだ。ところが、蕎麦の質はこれまでになく上質で、しかも完熟前に青刈りしたことによって、玄蕎麦の質が一層高まったと仰る。
 一番初めに「おろしそば」。中細のそばは仄かな鶯色、芳しい蕎麦独特の香り。このそばを見ていると、初めて「ふじおか」へ出かけた時のときめきを感じた。二すじ三すじ口に含む。十割生粉打ちなのに硬くはなく、程よいコシ、二八にも劣らない喉越し、甘味も感ずる。正に逸品である。これ以上の「そば」があろうか。今年出会った「そば」の中で、このそばの右に出るそばはない。これは究極の「そば」だ。正に絶品。
 あまりの美味さに、「水そば」を所望する。水は竹田川の伏流水、水そのものが大変美味い。そばの真髄は、水そばでこそ発揮される。このそばに汁(つゆ)は必要ない。蕎麦自身の持つ色を愛で、芳しい香りに酔い、仄かな甘味を舌に感じ、硬くもなく、柔らかくもなく、正に中庸、啜れば何とも言えない甘美な喉越し、つるつるでもなく、勿論もさもさでもない。正にこれは究極の「そば」としか言いようがない。絶品だ。
 次いで「釜あげ」を貰う。こういう食べ方は市中のそば屋では決して味わうことができないだけに、貴重な経験だ。器に茹で上がったばかりのそばを、少し取り分けて頂く。小見山さんから、醤油はチラッとかけるように、決して余計かけないようにと、助言を頂く。一口頂く。口中に蕎麦の強烈な香りが充満する。ふと、幼いときに祖母が打ってくれた蕎麦の香りが蘇った。何とも不思議な一瞬だった。もつもつした感じ。これなら「そばがき」も最高だろう。
 締めに、再び「おろしそば」を頂く。「越前おろしそば」と言えば、あの硬くて太い黒い田舎そばがベースのおろしそばを思い出すが、とすれば、丸岡蕎麦道場で頂いた「おろしそば」は何と命名すべきか。この「そば」は、先ず絶品の玄蕎麦があって、しかも優れた三立てがないと、生まれる代物ではない。
 終りに近く、海道さんが皆さんの前で「そば」を打たれた。これまで何度かお見受けしたが、この春に打たれた時と今度は、京都の「じん六」さんから伝授された技での方法とか。通常の打ち方と違う点の一つは、最初の蕎麦粉への加水に、規定量の8割もの水を一気に加える点で、蕎麦粉が水の中に浮かんでいるような始末、それでも水回しをするにつれて、そぼろ状態になってくる。残りの水を加えて、更に動作を続けると、立派にまとまった。菊練りに入る。ここでもう一点、力任せに強く揉まずに、柔らかく、そして時間も長くかけないことが肝要とか。こうすることで、細かい空気の泡が程よく捏ねたそばの中に分散し、食べる時の口当たりを良くするとか。これが「じん六」の極意の一端とか。次いで延し、4本の麺棒を自由自在に使い分けて延ばす。打ち粉は極力少なくするとか。粉がそばに食い込むと、これまたそばの味を落とす原因になるとか。延していても、そばが縮むのがありありと分かる。粘りがあるというか、実に弾力性に富んだ蕎麦だ。厚い丸い玉が魔法のように、本延し後には薄い正方形になる。延し終わって畳む。この時は打ち粉をたっぷり、もう延しがなければ,食い込まないと。粉は切った後で払えばよいという。切りに入る。実にリズミカルに、等間隔に切り揃えられ、手際よく生舟に並べられる。速い。切った「生そば」を口に含んでみて下さいと。口にすると、口中で溶けてしまう。驚いた。やはり究極の「そば」なのだ。このような方式でのそば打ちは、福井では他にはまだやられていないとかで、他で打つ時は、従来の方式で打つことの方が多いとも。
 今年の蕎麦は質が上々なこともあって、何回かお邪魔した中でも最高の出来だった。探蕎会では丸岡蕎麦道場に春と秋に訪れるのが、半ば恒例化してしまっている。春の山菜、秋の新そば、ご迷惑なのではと思いながらも、次回が心待ちにされる。今回も、海道さん、小見山さん、若月さんのほか、沢山の方々に接待して」頂いた。実に冥加に尽きる。本当に有り難うございました。
 追記:「そば」のことのみ書いてしまったが、いつも用意して頂く酒肴の、バッテラ、笹寿司、煮物、甘酢漬け、浅漬けなどは、皆さんが丹精込めて作られた品々だけに、大変美味しく、楽しみにしている。中でも特に小見山さん手作りのバッテラは素晴らしく、何時もながら玄人はだしで圧巻だ。感謝々々。

2011年8月4日木曜日

今秋の探蕎会蕎麦花茶会の集いは戸室山麓に近い山間の喬屋にて

 表記表題の初出は「探蕎」会報第32号(平成17年12月27日発行)で、行事があったのは平成17年(2005)10月29日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 探蕎会が行なう蕎麦花茶会はこれが4回目、ひょっとして以後は毎年催されることになりそうだ。とはいっても、これは会員の中に松田宗和先生という裏千家の茶匠がおいでるからこそで、とても素人集団では取り仕切れる類のものではない。もっとも茶道に無頓着な小生でも、見てると、当日出席された会員諸氏の4割近くの方は、少なくともお茶会でお茶を頂く作法を心得ていらっしゃると見た。どうも、懐紙と黒文字は必携のようだ。お茶席の後の飲み会で、「加賀に居て、お茶を頂く作法とお能くらいは知っておかないと」と越中の女人から喝破されたのには参ってしまった。さらに重ねて、「お茶会での無作法は、失礼にあたるのですよ」とも。何とも穴に入りたい心境になってしまう羽目に。必要最小限の作法は、来年の茶会までには身に付けるよう、努力せんならんとも。そうだ、探蕎会事務局あたりで、会員用に『茶道作法』「探蕎会茶会でこれだけは守ってほしい心得」という副題を付したマニュアルを作成しては頂けないものだろうか。かくいう小生、石川県職員の時、研修で丸1日かけてお茶の心得・作法を伝授されたが、通り一遍とて、全く身に付かなかった。ただその時「お茶の作法には、全く無駄がなく、且つ合理的な所作である」と言われたことだけが、今でも脳に刻み込まれている。
 今年の会場は、当初の行事予定では10月19日の水曜日に、第2回と第3回の会場となった旧鶴来町の「草庵」とのことだった。でも、お茶会で30人も集うには幾分狭い嫌いもなくはなく、誰が最初に邂逅したのか、それで今回の会場の「喬屋」に白羽の矢が立った。7月半ば、前田局長と小生とが検分と交渉を兼ねて出かけ、日は二転三転したが、結果として10月29日の土曜日に決まった。ただ、これだけ時期が遅くなると、恐らくは会長から蕎麦花の提供を委嘱されているだろう早川先生にはご迷惑なのではなかろうかと、ふっと先生の顔が浮かんだ。
 今年はどうしたことか、週末になると天気がよくない。勤め人の小生にとっては、土・日は山へ行くかきいれ日なのに、何ともやりきれない。案の定この日も雨。和装の方々は大変だ。中でも女性の方はどうされるんだろう。道行ぐらいではどうにもならない雨、大型のマントかポンチョをスッポリ纏えば濡れずに済むのではと思ったりする。まことに恨めしい雨御である。
 お茶会は午後2時の開席、1時半の集合。会場の「喬屋」は金沢市俵町、バスの便はあるものの、2時間に1本という山間の地、自家用車という手はあるものの、お酒が出るとあっては、「飲んだら乗るな」との鉄則もあることから、事務局には山へ向かうバスの時刻を予め皆さんにお知らせしてはと提案してたのに、その返事はない。局長には何か思案があるのだろうと思っていたところ、迎えに上がるとのこと。これにはたまげた。ただし10時に。前田局長の迎えは4回に及ぶという。何と献身的な。現地参集が当たり前なのにと思うと、彼の人となりに只々感謝々々。初回は野村会員同道のお道具運び、2度目は山から下りて野々市で小生を、返して野町で寺田先生を、そして清川町で松田宗匠を迎えに上がり、再び山へ。雨の中、再度、再々度と迎えが続けられた。本当にお疲れ様でした。
 局長の言では、今日は送迎の任に当たるので、お酒は口にしないとか。何と殊勝な、事務局長の鑑とも思える言。ところが、集合時間近く、漸く4巡目が済み、安堵の顔を見せる局長に労いの言葉をかけたところ、「帰りの送りはカアちゃんにまかせて、酒を飲むことにした」と。突然の変心。原因は何と平澤会員提供の「十四代」に目が眩み、白旗の由。でも良かった。飲みたいのに飲めない彼を前にしては、小生ならずとも気が滅入る。
 筑後20年の欅造りの建物の1階は田の字型、奥の2間がお茶会の席、襖を外し、床の間には掛け軸を、床には三彩(白・紅・黄)の蕎麦花、その前にはお手前をする風炉が設えられ、上手に藍色の毛氈と下手にはコの字に緋色の毛氈が敷かれ、お茶席が完成した。手前左手の1間は控えの間、右の1間はお水屋、皆さん甲斐々々しい。用意は整った。>
 会員諸氏が席に着かれたところで、波田野会長からご挨拶。お茶会は定時を少し回って、松田宗匠の口上があり始まった。お手前は塚野会員の御愛娘、お運びは袴姿の野村会員とお美しい着物姿の米田会員、正に絵になる。正客は波田野会長、次席は越浦副会長、次いで岩先生、寺田先生、そして着物姿の永坂先生、早川先生と続く。後は会員諸氏適宜。広いのでゆったりしている。菓子が運ばれる。懐紙と黒文字は持ってない人もあろうかと、松田宗匠が受付を申し出られた寺田先生に託されたお陰で、正座した会員諸氏の前には、必携の品がチャンと揃っている。皆さんお菓子を取り分けられ、賞味される。
 やおら、時を見計らって、一服目が正客へ。間を置いて、水屋からもお二人によって順次お茶が運ばれてくる。お茶会半ばには、この後出し物を提供される予定の斉藤社中の方々が、そして終りに近く塚野会員が止めに入られた。父には娘さんがお茶をお運びされる。感激の一瞬、誰となくフラッシュが焚かれる。かくしてお茶会は賑々しく、ちょっぴり厳かにお開きとなった。それにしても、広いということは良いことだ。初回の宗匠の清遊庵での会では膝をくっつけ合って座ったし、次回の草庵では2回に分けて行なったし、次々回の草庵では出し物もあって立礼だったことを思うと、場所の不便さを差し引けば、今回の会場は文句の言いようがなかった。ただ、お道具はできるだけ簡略にされたとは仰るものの、運び込みし、セットして、本番を取り仕切り、片付けして、持ち帰らねばならず、大変な労力だ。
 次に、斉藤社中の出し物、お二方による三弦と篠笛の調べに歌澤、そして斉藤会員による書のコラボレーション、15分の時間一杯で諸氏を堪能させた。心憎い限り、プロのなせる仕業だ。書は傍らに陣取った会長の申し出に応じて、「探蕎」と筆太に揮毫され、そして落款。ここで会長からさらに「そば三彩の宴にて」の署名の希望、再び筆を取り申し出に応じられる。場所が場所なら畳大の紙に極々太の筆でとも。そう言えば、そのパフォーマンスに以前お目に掛かったことがある。
 諸氏の協力のお陰で片付けが終わり、飲みの会に移る。テーブルの配置では議論百出、船頭多くしての例えの典型、終いは喬屋の女将の言で漸く決着。お茶会の2室と控えの間が使われることに。右奥の重厚な黒塗りの台は会長以下4人の長老、永坂・早川両先生は左奥のテーブル、松原顧問は奥さん共々右中のテーブル、後は三々五々、ただ何故か右手前のテーブルは女性のみになった。酒解禁となった局長と「十四代」提供の平澤会員、塚野・宮川両会員と小生は、目論見もあって左手前のテーブルに、遅れて入って来られた松田宗匠は永坂席、野村会員は松原席、斉藤社中の人達は控えの間のテーブルに。
 会長の乾杯の挨拶で会が始まった。料理は田舎仕立てで量はたっぷり、酒は局長仕込みの「鄙願」が6升と「十四代」が4合、徳利はなく、1升瓶からの直注ぎ、2本では行き渡らず4本に、漸く行き渡ったようだった。「十四代」は当初左手前のテーブルで処理する予定だったけれども、仏心が出て、局長は長老席と野村会員へ。さすが、私欲に駆られないところが良い。塚野会員も運転を断念しての参画、お陰で小生も心置きなく飲むことができた。ありがたい。
 やおら、控えの間では、お琴が設えられ、斉藤女史はヴァイオリンを手に登場。先の歌澤の折に、歌澤の文句が書かれた紙の裏に、文部省唱歌「もみじ」と「四季の歌」の歌詞が書いてあり、皆さんこれを歌って下さいと。初めの予定に入っていたのかどうかは怪しげだが、ともかくも斉藤女史のパフォーマンスにまんまと乗っけられてしまった.勢いとは恐ろしいもので、会員の歳も考慮し、皆さんが歌えるように選曲をしたとあって、大合唱となってしまった。何ということか、アンコールをという声まで。全く驚いた。それに応えて、譜面はないけれどと1曲あったが、何だったかは記憶が定かではない。ただテキサス在住の伊藤さんの娘さんの寺田さんがケンタッキーに住んでいたことに共鳴された永坂先生が、彼女との短い英語でのやりとりの後、洲歌の「ケンタッキーのわが家」を原語(英語)で歌い出された。しかし、歌ったのは随分昔のこととあって、途中までとなってしまった。かく言う小生もできると思いきや、やはり脱落してしまった。時間を忘れての宴、楽しい一時だった。
 それにしてもメインの「そば」は、付け足しになってしまった感を拭えない。痺れを切らした会長の発声で、漸くメインであるべき「そば」が出てきた。1日25食しか打たないという主人に聞くと、1週間分を打った位疲れたとか。でも酒飲みの身に、「そば」は格好の滋養で、私は2枚も頂いてしまった。しかし、会長の最初の1枚の提供から、殿の小生の2枚目まで、随分と時間がかかった。お開きの予定は午後4時半だったが、全部片付けが終わったのが6時半、最後に私たちが辞したのは8時過ぎ、長い人は12時間のご苦労であった。
 喬屋での蕎麦花茶会は、来年に向けて、いろんな課題を提供してくれた会だったと思う。最後に、茶会を主宰された松田宗匠と会員の送迎に多大なお骨折りを頂いた前田事務局長と御奥方に深甚なる謝意を表したい。

● お料理メモ
 ・五種盛り(銀杏酒粕漬.鰊煮.丸干し烏賊.生姜佃煮.茗荷酢漬)
 ・茸三種盛り(しめじ佃煮.ならたけ佃煮.ますたけ味噌漬)
 ・煮豚.煮玉子.レタス添え  ・小芋煮.柚子添え  ・胡麻豆腐.下ろし生姜添え
 ・小松菜.しめじ.薄揚げの和え物  ・蕪.胡瓜.人参の漬物  ・奈良漬
● 斉藤社中の皆さん(敬称略)
 ・斉藤千佳子:書(斉藤千霞)と ヴァイオリン演奏
 ・伊藤美智子:歌澤(歌澤芝駒恵)と 三弦、箏演奏(伊藤美智恵)
 ・水谷美代子:篠笛演奏(藤舎秀代)
 ・寺田 淳子:箏演奏 [テキサスから]
 ・S.ルース: [ニューヨークから]

蕎麦屋情報一筆:「喬屋」(金沢市俵町)


 表記表題の初出は「探蕎」会報第31号(平成17年10月28日)の蕎麦屋情報一筆で、訪ねたのは平成17年(2005)7月16日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 「喬屋」の名を初めて聞いたのは、6月半ばにあった探蕎会の西国への小旅行の時だったろうか。以来少々気になっていた。さて、前田書店のホームページに、局長は根気よく「日めくり日記」なるものを書き記しているが、その6月17日付けの日記に、ようやく喬屋を尋ね訪ね、これが初見とあると。しかし、そこで何ともう3回目とかの石野さんに出会ったとか。あの料理教室主宰の先生が、懲りもせずに出かけているとあっては、いやが上にも行きたくなるというのが人情。そしてその後、前田局長も何度か足を向けた由。そして私に曰く、分かり難いから、行くなら、わしが案内すると。
 機は熟した7月の頭、行きたいのだがと誘ったが、あそこのは柔らかいから、今日のところは「敬蔵」でと、何故かその時は軽くいなされた。それじゃ啼くまで待とう。それから半月経ち、薮入りの16日の土曜日、今日はどうかと電話すると、即色好い返事が返ってきた。11時に前田書店へ、そして喬屋へ案内してもらう。
 田上から昔通い慣れた医王山への道を俵へ、戸室山界隈には唯一と言う有名な信号のある交差点の手前を右に折れる。そしてその道をやや進み、用水の手前を右に曲がると、小さな「喬屋」という看板があり、そこをまた右へ、これでは初見じゃ大変だ。前田局長の言が嘘偽りでないことが判明する。漸く辿り着けた。周りは水田、家はまばら、独りで初めてじゃ、確実に途方に暮れるだろう。
 玄関を入る。デッカイ家だ。30人は優に入ろう。主人が出て来られ、一番奥へと。座してお茶を頂く。早速に「ざる」を所望する。ややあって届く。ソバは先ずまずの出来。腰もあり、喉越しも良く、仄かな香りもする。小さなホシが点々。ただ量は少なめだ。つゆは中庸か。次にもう1枚「おろし」をお願いする。ソバは同じ、おろしは大根のみ、やや多め、辛くはない。局長曰く、今日のは良いと。そして、小生の風体を観て、気を入れたのではないかとも。
 訪れた時は、他に客はなく、主人の藤田喬さんの話を聴く。開店は4月15日、そば打ちは「唐変木」、究めは「多門」とか。特に宣伝することはなく、奥方の口コミのみ。蕎麦は越前大野産、石臼手挽きで、二八で1日25食のみ、追い打ちはせず、売り切れ御免の由。
 建物の総欅造りの館は建築時一億円とも、住人は年寄り婆さん独りとなり、比較的安く買い受けたとか。でも買主の当主はここではなく、金沢市南郊の額にお住まいとか。探しあぐねた物件だったとも。今秋10月末に、探蕎会の蕎麦花茶会を此処ですることになっているが、十分ゆったりのスペースだ。

 住所は金沢市俵町ヨ67。 営業日は金曜~月曜と祝祭日。 営業時間は午前11時30分から。