2016年6月15日水曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その2)

(承前)
 うっかりしていて、食事ですと呼ばれて、慌てて食事処「風土」へ行く。この名前は前と全く同じ、架かっている暖簾も前と同じだ。中へ入ると、これまた前の満山荘と見間違う位同じスタイル、驚く程似ている。指定のテーブルには料理が並べられていて、予め注文してあった地ビールと地元ワイナリーの赤ワイン、それに今夕の食事の献立表も置かれていた。前の宿でもそうだったが、料理は奥さんの創作料理、次にその献立を紹介しよう。
〔信州沓掛 夏の献立〕 平成28年6月5日 料理明子 印
「食前酒」枸杞酒
「生湯葉」クコ柚子胡椒
「信州サーモンのコンフィー」塩糀、アロエヤングリーフ、シーサラダ
「地物野菜他とピクルスなど」野菜 (アスパラ、茄子、赤蕪、豌豆、ブロッコリー、パプリカ、長芋、大根、オクラ、ベビーコーン)、ビーツとパプリカのソース、蕗味噌マヨネーズ、醤油ジュレ
「牛乳豆富」柚子味噌
「十六穀米スープ」ドライベジタブル
「夏の天麩羅」エリンギ茸、万願寺甘唐、モロッコ隠元、破竹、信州りんご、抹茶
「チーズの茶碗蒸し」トマト、葱
「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」独活、人参、クレソン
「大岩魚のジェノバ風ソース」サラダ大根生ハム巻、クリームチーズ、ミニトマト、ブルーベリーソース
「野沢菜茶漬け」
「りんごシャーベット」りんご赤ワイン煮、マンゴーヨーグルトソース
 飲み物が不足したので、清酒「八海山」を追加した。

 終わって部屋に戻り、翌日の計画を立てることに。私の当初の計画では、沓掛温泉の背後の夫神山の東側に広がる塩田平の寺院、前山寺や安楽寺や北向観音などを拝観して、その後上信越自動車道の上田菅平 IC から帰ろうと算段していた。ところが色好い返事が貰えず、ではこの青木村の道の駅で買い物をして、近くにある国宝の大法寺の三重塔を見て帰ることにした。それで沓掛温泉への車でのアクセスを見ると、上田 IC からも長野自動車道の麻績 (おみ) IC からも、距離は20km、時間は30分と同じなので、帰りは麻績からとした。

 6月6日(月) 朝5時に起きて風呂に行く。内湯はともかく、露天風呂は少々温くて、上がると寒い。それで早々に上がって外へ。宿の前から急な崖に付けられた細い径を辿って、下に見える池まで下りる。径は樹林に聳える欅の大樹を巻くようにして付けられている。ウグイスやホトトギスやヒヨドリの啼き声が聴こえる。下の池には掛け流しの湯が流れ込んでいて、池には熱帯魚のピラニアがいると書かれている。魚の群れが見えたが、果たしてそうだったのかは不明だった。帰りは車道を歩いて満山荘のさらに奥にある外湯の「小倉乃湯」まで足を延ばした。この湯は開湯が平安時代とか、また小倉の由来は裏山の山容が京都の小倉山に似ているところから名付けられたと記してあった。そして以前はここは湯治場で、宿も数軒あったというが、今は3軒のみである。宿へ戻ると入り口に、温泉に入りたい方は「小倉乃湯」へどうぞとの貼り紙がしてあった。そして中の帳場の横には、ビニール袋に入ったピラニアの餌が置いてあった。
 朝食は8時から、でも朝の NHK の連ドラを見てからだったので、食事処へ行くと、もう皆さん食事の真っ最中だった。朝はバイキング形式、肉、魚、野菜、果物、煮物、焼物、揚物、漬物、サラダ、飲物など、その数 30 種位、無くなると追加される仕組み。こういうバイキング方式で、美味しそうな物が並んでいると、つい取り過ぎになってしまい勝ちで、取ってしまった以上は残すことは憚られ、つい食べ過ぎになってしまう。ご飯とお汁が副食になってしまう感じである。食事は9時まで、時間になって部屋へ戻った。
 暫し部屋で寛いで、チェックアウトの 10 時になって宿を出た。昨晩車は6台あったが、既に出発したのは1台のみ、我々が第2陣ということに。県道 12 号線を北上して国道 143 号線に出て右折し、上田方面に向かうとやがて左手に「道の駅あおき」が見えた。青木村は山に囲まれた農村、地元の野菜を主とした農産物やその加工品が直売されていた。中に青木村限定栽培の「タチアカネ」という品種の蕎麦がお勧め品に入っていた。

2016年6月13日月曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その1)

 (株) 朝日旅行では、「日本の秘湯を歩く」という企画をしていて、3年間の間に、社団法人「日本の秘湯を守る会」に所属する温泉宿に10軒訪れると、その中の1軒に無料で招待され宿泊できるという仕組みになっている。宿の数は出入りがあるが、平成27年3月現在、1都1道30県にある178軒の宿が会員になっていて、北陸3県では、富山2軒、石川3軒、福井1軒が対象になっている。振り返って、この3年間に私たち夫婦が訪れたには、長野県の角間温泉、七味温泉、白骨温泉、小谷温泉、中の湯温泉、奥山田温泉、岐阜県の福地温泉、平瀬温泉で、このうち奥山田温泉の満山荘にはこの間に3回訪れた。ここは志賀高原に近い標高 1,550 m に建つ宿で、天気が良ければ、南は前穂高岳から北は白馬乗鞍岳までの、南北 80 km に及ぶ北アルプスが、その奥には立山・劔岳、手前には飯綱山、戸隠連峰、黒姫山の三山、眼下には善光寺平が眺められ、しかもこれらを露天風呂に浸りながら俯瞰できるのが醍醐味の宿である。もっとも天気が悪ければ、このような景色は見られない。それで無料で宿泊できる宿に、この満山荘を希望したのは必然だったとも言える。以前の招待の時もここで宿泊した。
 この無料宿泊には制限があって、正月、ゴールデンウイーク、旧盆、それに土曜日や祝祭日の前日は除外される。申込みには、宿は第1から第3希望まで、宿泊日も第1から第3希望までを指定して出すことになっている。ところで3月末に連絡があって、第1希望の満山荘は1月3日をもって閉館し、元の奥山田温泉から場所を離れて、沓掛温泉「おもとや旅館」を引き継ぐことになりましたが、それでも宜しいですかとのこと。それで場所は違うけれども手配をお願いしますと連絡した。その結果、新しい満山荘への招待は6月5日 (日) ということになった。
 6月5日 (日) の朝10時15分前に家を出た。この日はまだ百万石行列行事が金沢市内で行なわれているので、それを避けて白山 IC から北陸自動車道へ、そして時々休みながら、その後上信越自動車道に入り、上田菅平 IC で下りて沓掛温泉へ向かった。上田市内が混雑していて、通り抜けるのに少々時間がかかったが、その後国道143号線を西へ進み、青木村沓掛にある沓掛温泉満山荘に着いた。着時刻は午後3時15分で、所要時間は5時間半だった。
 沓掛温泉は国道筋にある青木村役場から鹿教湯温泉へ抜ける県道12号線の途中の山間にあり、県道から温泉への標識に従って小高い山腹を上がると着いた。ここには温泉宿が3軒と外湯 (大衆浴場) があり、すべて源泉かけ流しで、泉質はアルカリ性単純温泉とかである。この温泉は夫神岳 (おかみだけ) の西の麓の海抜 670 m に位置していて、反対側の東の麓には別所温泉 (上田市) がある。
 宿に入ってお会いしたこの宿の主人は、正しく奥山田温泉の主人だった。記帳した後に此処の温泉の特徴の説明があった。この温泉には泉源が2本あって、泉質は同じだが泉温が36℃と39℃で、ここでの内湯には前者を41℃に加温して用い、後者はそのまま露天風呂に用いていると説明があった。部屋は1階に7室、2階に4室、3階に3室あり、私たちは2階の201号室の「穂高」、2階では最も大きい部屋で、洋間風の寝室と居室、それに広縁の付いた青畳の和室までも付いていた。洋間はどちらもゆったりとしていて、窓を開けると、鬱蒼と繁った樹々の間からは青木村の田園風景が広がっているのが見えた。和室の窓を開けると、下に駐車場が見え、ここが玄関の上だということが知れた。居室には大きなソファと大型テレビとハンモック、部屋のスタイルは前の満山荘を彷彿とさせる雰囲気だ。
 風呂から上がって、高速道の SA で買ったつまみで焼酎「神の河」を飲む。今の時間帯は男性は内湯のみ、女性は内湯と露天風呂、家内はまったりのお湯三昧だった。ややあって2階にあるラウンジへ行く。前の宿でもこんなスペースがあったが、この新しい宿では2間も開放されていて、ここではコーヒー、紅茶、お茶、冷水などを自由に飲めるようになっている。また客室では禁煙だが、ラウンジの1室は喫煙可能とかだった。そして前の当主の堀江文四郎さんが、奥山田温泉の山田牧場から撮影された北アルプスの山並みの横幅4mもの写真も置かれていた。残雪期の写真で、山名はもちろん雪形なども記してあった。あの爺様は今はどうされているのだろうか、今の当主には何となく言い出すのが憚られ、聞きそびれてしまった。今夕の食事は午後6時半とか、それまでゆっくりと部屋で寛いだ。

2016年6月8日水曜日

平成28年5月のあれこれ(その5)

16.魯山人寓居跡「いろは草庵」訪問
 子うし会での傘寿の祝宴を山代温泉の「ゆのくに天祥」で行なった折に、同じ山代温泉の旧吉野屋別荘の「いろは草庵」で、「燕台ー魯山人を支えた文人」という企画展が開かれていることを知った。この企画展は「魯山人の美の原点を探る」という一連のシリーズの一つで、3ヵ月毎にテーマを換えて行なっていて、今回は第44回だという。北大路魯山人は今ではつとに有名で、誰一人として知らぬ者はいない程の有名人であるが、しかし彼が本来持っていた書家や篆刻家としての才能の上に、中でも料理人兼美食家/陶芸家として花開いたのは、細野燕台との邂逅があったからこそで、でなければ彼の才能がこれほどまでに発揮できたかどうかは疑問である。
 私がこの企画展に興味を持ったのは魯山人ではなくて、燕台の名が出ていたからで、今まで一度も「いろは草庵」には足を運んだことがなかったこともあって、尚更興味が沸いた。細野燕台については、金沢市下本多町にある金沢ふるさと偉人館にかなりの資料があり、何度か訪れたことがある。また常設展示はしていないが、伊東深水が描いた晩年の細野燕台の全身像が、金沢市出羽町にある石川県立美術館に収蔵されている。
 細野燕台は本名は申三といい、金沢の商家細野家の長男として生まれた。次男は生二といい、私の母の父親 (母方の祖父) である。そして長女は玉といい、私の父の母親、即ち私の祖母である。であるからして、私の父と母はいとこ添いということになる。こういう近い縁であるからして、燕台は野々市の家にもよく来てお出でで、私も会った記憶がある。そんなこともあって、私の家には燕台が書いた筆跡や上絵付けした器などが残っている。
 5月31日の火曜日に車で山代温泉の「いろは草庵」へ出かけた。場所は山代温泉総湯の近くにある。燕台に伴われて山代温泉に来た魯山人 (当時は福田大観といった) は、吉野屋旅館の食客になり、篆刻家としてこの吉野屋別荘で刻字看板の制作を始め、当時の山代の温泉旅館のほとんどの看板を彫ったとされる。いろは草庵の中には、当時の篆刻をしていた作業場が再現されていて、彫りかけの作品も置かれていた。その後燕台や吉野屋の紹介で初代の須田菁華の窯に入ることが叶い、上絵付けを体験することになる。
 展示室には、燕台が彫った「吉野屋」という刻字看板と、福田大観 (魯山人) が彫った「吉野屋」という刻字看板が並べて置いてあった。また二人が書いた書や扁額、それに鉢や花入れ、皿や向付け等が置かれていた。また燕台が魯山人に宛てた書簡も展示されていた。中でも一際目をひいたのは、燕台の長男の結婚式に当たって魯山人が作陶したという「乾山風梅椿手付鉢」で、魯山人の大胆な形状の器と構図には目を見張った。これは初めて目にした作品だった。この庵の展示スペースは広くはなく、それで何回にも分けて展示するのだろう。私は小一時間ばかりいて辞した。

付.庭に出た孟宗竹の筍を食す
 私の家がある地所は、旧北國街道沿いで、南北に長い矩形状をしている。そして地所のやや東寄りに、用水が南から北へ流れていて、後半は曲水になっている。用水の西側の通りに面した方は約390坪、用水の東側は約110坪ある。後者の南端は竹薮で、以前は孟宗竹と真竹の薮だったが、真竹は花が咲いて枯れて無くなった。もう50年前のことである。今は此処には孟宗竹と矢竹が繁っている。ところで真竹が無くなって以降は、孟宗竹が勢いを増して、至る所に根を張り巡らすようになり、とんでもない所に筍が出るようになった。特に築山に置かれている台石や飛び石を持ち上げたり、植木の間に出たり、もう3日も回らないとアッという間に大きく成長する。
 以前母が元気だった頃は、まだ竹薮の範囲が今ほど広がっておらず、薮以外に出た筍は丹念に掘って捨てていた。というのは、こんな庭に出てくる筍など、多分えぐみがあって食べられないと思っていたからである。母が亡くなって、筍退治の役目は私に回ってきた。今竹が生えて薮になっている面積は、往時の2倍にもなっていよう。それで薮以外に生えてきた筍は総て取って捨てていた。ところで3年前、私の妹が一度食べてみたいと言うので渡したところ、食べられるとのこと、それではと持ち帰ってもらうことにした。でも量が多い時は家でも食してみた。ところが思っていたえぐみは全くなく食べられた。ところで昨年は裏年で数はそれ程多くはなかったが、今年は表年、丹念に取った。その数50本以上、大きなものは径が15㎝ もあり、私と妹とでは処分しきれず、知人にも引き取ってもらった。それでも取り残しが大きくなり、伐って捨てたものも20本はあった。ところで食した方からは、市販の筍よりも美味しかったというお世辞もあり、これには目尻が下がった。薮の50本ばかりは今は大きく成長している。

2016年6月1日水曜日

平成28年5月のあれこれ(その4)

13.子うし会物故者法要
 物故者法要は5月24日午後1時、場所は野々市市本町三丁目にある真宗大谷派の照臺寺で行なった。このお寺は大変古く、創建は康平4年 (1061) とか、開基は道圓、当時は近くに加賀の国司だった富樫氏の館があった。しかし一向一揆が起きて富樫氏が滅亡し、その後嘉禄元年 (1225) には天台宗から一向宗 (浄土真宗) に転宗したという経緯がある。
 法要が始まる 30 分前には、男9人と女9人、それに 21 日に亡くなった U 君の妹さんもお参りに来られた。皆さん大概は昔の面影があり、昔話をして旧交を温めたが、1人名を思い出せない方がいて、失礼ですが何方ですかとお聞きしたところ、K 君と分かった。数え四十歳の厄除け以来で、40 年ぶりの再会だった。また 90 歳になられた前住職の方もお見えになり、以前毎年法要をしていた頃は、この方に導師をして頂き、またお説教もして頂いたものだ。今は娘婿の方が住職をなされておられ、今日の導師はこの方がなされた。
 物故者は男 12 人女4人の計 16 人、本堂の本尊阿弥陀如来立像の前の仏壇に、16 人の名前と亡くなった年月日と享年を墨書した名簿が掲げられてあった。一番初めに亡くなった方の年齢が当時で 40 歳、今年亡くなった U 君の享年が 80 歳、40 年経過したことになる。もう子うし会で行う物故者法要は、これを区切りにしようということに申し合わせたこともあって、意義ある会になったのではと思う。法要は1時間ばかり、唱えられたお経は観無量寿経のようだった。順に焼香して、故人の冥福を祈った。
(閑話休題)法要を行った照臺寺の前住職の照岡淳さんは、北國新聞社刊行の「日本の名僧 100 人 この一字」に名を連ねておいでで、真宗大谷派全国正副議長会の会長を歴任されたことがあるとか。そして書かれた一字は「臺 (だい, うてな)」で、これは「物事の土台となる基盤」「尊い場所」を示し、万物の生を支えてくれる大地を表するという。
14.山代温泉「ゆのくに天祥」で傘寿の祝宴
 1泊2日の傘寿の祝宴に参加するのは男性5名女性6名の 11 人、当初は宿の車を利用しようと思って交渉していたが、15 名に満たないと宿のマイクロバスは出せないとのことで、急遽自家用車3台に分乗して出かけることにした。野々市から山代温泉までは 50 km 弱、午後2時過ぎに寺を出て、3時には宿に着いた。白雲本館の 20 畳はあろうかという標準和室、隣り合わせの部屋に女性6人と男性5人が入った。
 小憩の後、浴場へ行く。この宿では4年前に自家源泉を掘削し、これまでの共同源泉からの引湯とで、加水なしで3つの大きな浴場を掛け流しにしている。この時間帯は、男性が1階の「九谷の湯処」の6湯、女性が3階の「悠幻の湯殿」の7湯と1階の「滝見の湯屋」の5湯、翌日の午前にはこれが男女入れ替えになり、すべてで 18 の湯を巡ることもできる。新しく造られた天祥の館には、温泉露天風呂付きの客室もあるとかである。ただ標準仕様の部屋の浴室の湯は温泉水ではないと断り書きがしてあった。
 食事は午後6時に食事処・四季でテーブル形式、この会ではもう十年位前から、足腰不自由な人が居るので、食事はもっぱらこのスタイルにしてもらっている。傘寿の祝いの宴と銘打ってあり、献立の品数も 15 品ばかりと多く、十分満足できるものだった。そして部屋には紫色のちゃんちゃんこと冠りものが用意されていて、これらを身につけて記念写真を撮った。そして十分に食べて飲んで駄弁った後、部屋に戻り、その後男性部屋で再び二次会、地元での会は久しぶりで、遠くだと参加できないという方々の参加もあって、随分と話が弾んだ。それで来年以降は、この「子うし会」も有志で行なうことにし、石川の私を入れた地元3人は世話人を下りることにし、以降の世話は何故か皆元気がいい関西在住の方々にお願いすることにした。
15.叔父と同道して旧薬学部薬草園へ
 5月 29 日の日曜日に、かねて叔父が世話をしていた小立野にある旧薬草園を一度見に行きたいと話されていたので、午後1時に叔父宅へ出向いた。この日は天気が良く、汗ばむ程だった。医学部構内の旧薬学部前に車を停め、旧薬草園へ行った。元は薬草園の入り口に植えられていたメタセコイアは、伐られずに高く成長していた。叔父の話では石川県に植えられた第1号だとか。私の家の庭にも叔父が植えたのがあるが、欅と孟宗竹に囲まれて樹勢は今一である。ところで旧薬草園は、小立野トンネル貫通の際と、医学部の付属施設が造られて、旧の面積の4分の1位になり、しかも残りは高いフェンスに囲まれていて、中へは全く入られず、しかも全く手入れされずで、密林状態になっていた。以前は4百種ばかりの薬用植物が植えられていたというが、今は草本は多分なく、木本が繁っている状態である。外からウツギの白い花が咲いているのが見えた。訪れた記念に大きなハクウンボクの葉を持ち帰った。

2016年5月28日土曜日

平成28年5月のあれこれ(その3)

10.子うし会同窓の U 君の他界
 5月24日に小学・中学の同窓生の会の「子うし会」で、会員全員が数え80歳になった今年、会を一旦解散するに当たって、これまでに亡くなった15名の物故者法要をすることにして、参加者を募った。現在連絡が可能な人は男14人と女21人、ただ連絡不能な人が男に3人いる。それで法要に参加すると連絡があったのは、男8人と女9人だった。参加できないという方の表向きの理由は、真偽はともかく、身体が不自由でというのが理由だった。でも意外だったのは、トラックでの事故で下半身不随になった U 君が、家でも車椅子を使って生活しているのに、ぜひ出たいという申し出があったことだ。ところが5月20日になって、奥さんから急に体調を悪くして法要に出られなくなりましたと電話で連絡が入った。私からは、永い間会っていないので会うのを楽しみにしていましたが、でも養生第一、どうぞお大事になさって下さいと話して電話を切った。
 ところが翌21日の昼下がり、U 君の妹で、平成6年に他界した N 君の奥さんが拙宅に訪ねて来られて、兄は急に心不全で亡くなりましたとのこと、驚いて声も出なかった。U 君も N 君も私と同じく泉丘7期、奥さんでは今年は主人の二十三回忌ですとのこと、随分と月日の経つのは早いものだ。それで U 君のお通夜は22日、葬儀は23日と告げられた。明朝の新聞には死亡案内が出ると思いますとのこと、それで特に私からは皆さんに案内はしないことにしたが、法要を行う野々市の昭臺寺には物故者が1人追加になりましたとお知らせした。因みに亡くなった U 君の奥さんは、先に亡くなった N 君の妹である。
11.探蕎会の会員そば打ち
 恒例の会員そば打ちには、事務局の前田さんからのメールでは、今年は24名の参加とか。連絡では私は和泉さんの車に便乗しての湯涌入り、でもそば打ちをする和泉さんは午前10時までに会場へ到着とのこと、私は朝9時の出立は困難だったので、往きは家内に送ってもらい、帰りは和泉車に便乗させてもらうことにした。朝用事を済ませて、私がみどりの里の会場に着いたのは10時半過ぎだった。  建家に入って驚いたのは、和泉さんが夫婦共々そば打ちに挑戦されていたこと、昨年は奥さんが挑戦されていたが、今年は夫婦での挑戦、聞けば和泉さん宅ではそば打ちに小屋まで建てられ、そば打ちはプロ級という道下さん夫妻の直々の指南を受けておいでとか、恐れ入った。好きこそものの上手なれというから、先ずは好きになることが先決なのであろう。
 時間になり寺田会長からの挨拶の後、塚野さんから、蕎麦は長野県産で、そばは塚野さんと道下さん夫妻の手打ちによる、十割・外一・二八の三種、付き出しは、今日は欠席の新田さん手製の「きゃらぶき」「こんにゃくのきんぴら」「蕨の煮浸し」と漬物(胡瓜の山葵醤油漬けと辛子醤油漬け)、お土産のデザートにはやはり欠席の石野さん手製の福井県産蕎麦粉入りの「シフォンケーキ」と「蕎麦羊羹」がありますと紹介があった。また早川さんからは恒例となっている先生手製の「縮緬山椒」の紹介、今年は例年より1ヵ月早かったので新しい山椒の実がまだ実ってなくて、実は去年のものを使用しましたと説明があった。この品は毎年楽しみにしている一品である。更に道下さんからはダッタン蕎麦茶を使用した蕎麦ご飯の話もあった。今年は久保さんが逝かれて、定番だった「ぜんざい」はない。
 説明が終わって「鄙願」2本の登場、私にとっては1年ぶりである。これほどクセのない酒も珍しい。正に「美味しい水」である。でも今晩は急逝した U 君のお通夜があるので酔っぱらうわけにはゆかない。お酒が出た後、待望の「そば」が届いた。一番初めに頂いた細打ちのそばは実に美味しかった。その後もう2回そばが配られたが、どれがどれと限定はできないものの、何となく感じた思いでは、最後に出たそばが一番あっさりしていたように感じた。こうして今年も楽しい一時を過ごすことができた。帰りには蕎麦羊羹とシフォンケーキ、それに縮緬山椒をお土産に頂いた。お世話された方々に心から感謝します。
12.U 君のお通夜
 お通夜の式場は金沢市泉丘にあるセレモニーホール、U 君と義兄弟の N 君の22年前の式場もこのホールだった。私位の歳になると、皆さん新聞の死亡案内には必ず目を通していると仰るが、出る出ないはその方の自由である。子うし会同窓生の住所を見ると、現在金沢市に住んでいるのが男1人女7人、野々市市在住が男5人女9人いるが、これまで通夜や葬儀に出席した人は多くて7人、しかも顔ぶれはほぼ同じ、今回は私のほか女性3人が出席した。また私は過去同窓生の葬儀で3回弔辞を述べたが、今回は過去20年以上も顔を合わせていないこともあって、申し出しなかった。U 君の細君で故 N 君の妹や、姉で石川巨樹の会の役員をされている T さんとも久しぶりにお会いできた。これもご縁であろう。合掌。

2016年5月27日金曜日

平成28年5月のあれこれ(その2)

4.5月6日に田植え
 今私の家では250歩田1枚のみ稲の作付けをしている。とはいっても全面委託、私がするのは水回りのみである。以前友人に委託していた時は、田植えの時には動員させられたものだが、今は全くのお任せである。ただ稲刈りまでの水管理は任される。大概朝と夕の2回見回る。少なくとも苗が活着するまでの1週間は特に気を遣う。程々の水深を保つのが肝要だからである。
5.故三男(西往院)の七回忌法要
 祥月命日は5月9日だが、法要は8日の日曜日の午前11時に三男の家で行なうことにした。長男家族も細君と次女が出席、それに次男家族と私たち夫婦が出席した。長男家族は8日の午後一番で帰浜するというので、前日の7日の夕方に、次男の世話で、駅西の中華料理屋で4家族が一同に会して宴を張った。そして長男の次女の大学入学と次男の長女の中学入学の祝いも兼ねて行なった。祝い宴とあって私は少々飲み過ぎて、家内から目玉をくった。
 8日の法要は午前11時から、長男家族は法要の後、新幹線で帰るので、朝に三男の墓参りを済ませた。墓前では私が読経した。七回忌法要の導師は、私の家の檀那寺の浄土宗佛海山法舩寺のお住職、法要は1時間ばかり、終えて次男と三男の家族と再び墓参りした。次の回向は十三回忌、私はそれまで元気で居られるかどうかの自信はなく、それで今回の供養などに要した諸費用は私たちが負担することにした。
6.右目が後発性白内障になり眼科受診
 1ヵ月位前から右目にうっすらと霞がかかったような具合になり、5月12日に1年半ぶりに野々市にある若林眼科へ出かけた。1年半前には左目の白内障を手術で治療して明るくなったが、10年前に黄斑変性の手術の折に同時に行なった白内障の手術をした右目が、明るさは良好だが、少し霞んだような状況になったからである。診察の結果、レーザーでのパルス照射をしましょうとのこと、半信半疑だ
ったが、アトロピンによる瞳孔散大が完全に終息した夕方には、嘘のように視界が明るくキラキラとなったのには感激した。
7.次男が新宅へ引越し
 次男がこれまで住んでいたのは借家で、私の希望では、野々市に土地があるので、新宅を建てるのであれば野々市にと思っていたが、金沢へ移ってからの近所との付き合い、スポーツ仲間との交流、子供の通学等々で、今住んでいる近くで新宅を建築することになった。建ち前をしてから3ヵ月後、50坪ばかりの土地にモダンな家が出来上がった。現在住んでいる家は5月15日が期限なので、14日と翌15日の2日間での引っ越し、今の家と新宅とは近くだが、それでも引っ越しは大仕事だ。家内は2日とも手伝いに出かけたが、かなりダンシャリが必要だったようだ。家内も捨てるのは勿体ないと、家に持ち込んだ物もある。私の家にもまだ次男の所有物がかなりの量置かれたままになっている。
8.OEK 北陸新人登竜門コンサート
 古くは石川県人もしくは石川県に在住している人を対象にしていたが、7年目からは対象が北陸3県となり、今年は20年目になる。部門は、ピアノ、弦楽器、管・打楽器と声楽の3部門が毎年順に開催され、今年は管・打楽器と声楽部門だった。今年選ばれたのは、ソプラノの中宮さん、サクソフォンの小川さん、ティンパニの伊藤さんで、5月15日の日曜日に、0EK 音楽監督の井上さんの指揮で披露があった。私が特に興味を持ったのは伊藤さんの演奏によるラバンサーのティンパニ協奏曲「OBI」で、ティンパニ奏者をソリストとする曲などこれまで聴いたことがなかったので、特別な興味を抱いたわけだ。5台のティンパニを縦横に操りながらの曲芸的ともいえる妙技、初めての経験だった。
9.第376回 OEK 定期公演 マイスターシリーズ
 5月21日午後2時に、このシリーズのテーマ「ショパンと友人たち」の4回目の公演があった。今回の友人はシューマンとメンデルスゾーン、曲は前者のピアノ協奏曲と後者は劇付随音楽「夏の夜の夢」から4曲、ほかにはサティの「3つのジムノペティ」からドビュッシーが管弦楽用に編曲した1番と3番、そしてショパンは「ポーランドの歌による幻想曲」という予定だった。ところがピアノ奏者の菊池裕介氏が公演前日に体調を崩され、急遽彼の先輩である若林顕氏が代理で演奏することになった。ところが演奏予定のショパンのピアノ曲は過去に弾いた経験がないと弾きこなせない代物、それでこの曲は割愛になってしまった。何とも残念だったが、こればかりはどうしようもない。でもシューマンのピアノ協奏曲は素晴らしかった。指揮はベルギーのフランダース交響楽団の首席指揮者を務めるジャン・レイサム=ケーニック氏、OEK の指揮は2度目、巧みな指揮ぶりとメリハリのある演奏は聴衆を魅了した。度々来日して客演指揮しているという。

2016年5月23日月曜日

平成28年5月のあれこれ(その1)

 私のブログの「晋亮の呟き」に5月は一度の書き込みもなく、それで何か書かねばという思いに急かされ、思いつくまま日記風に記すことにした。

1.長男の帰郷と周遊と帰浜
 長男は仕事の関係で横浜に住んでいるが、旧盆と正月、それに5月の連休には野々市の実家に帰ってくる。今年は自分で車を運転し、4月29日の昭和の日に長男のみが帰郷した。昼は旧友とのゴルフ、夜は友人との飲みで日程は詰まっているが、でも希望で次男や三男一家を呼んでの会を帰郷した翌日の4月30日に、また帰浜する前日の5月3日にもお別れ会を家で催した。また長男は帰郷した折には、決まって私たちと何処かへ出かけることにしていて、今年は5月1日にどこか富山方面へ行きたいと希望していた。でも特に行きたい場所の指定はないとのことで、昨年は氷見へ出かけたことでもあり、今回は能登島の水族館へ出向くことにした。
 のと里山海道を徳田大津 JCT まで行き、能越自動車道の和倉 IC から能登島大橋を渡り、のとじま水族館へ行った。天気は良く、日曜でもあり、かなりの人出だった。この水族館の目玉は近海で捕獲された2頭のジンベエザメ、前に居たのは余りにも大きくなり過ぎ、海へ放したとのことだったが、それでも今いる大きい方は体長4mもあり圧巻である。この鮫はおとなしくて、餌は訓練で呼び寄せて口の中に入れてやるそうで、そうしないと他の魚に餌を取られてしまうとか、鮫にも人にも並々ならぬ苦労があるというものだ。それにしても大水槽での悠揚とした泳ぎはやはり圧巻で目玉だ。またこの日は丁度フンボルトペンギンの行進も間近で見られ楽しかった。そして人気のイルカショウ、久しぶりに長男も童心にかえって満足そうだった。ここの水族館はクラゲの蒐集でも知られている。
 帰りには一旦七尾の能登食祭市場に立ち寄り、生で岩牡蠣と牡丹海老を食し、名物の海産物を買って宅配便で送り、その後能越自動車道と北陸自動車道を経由して野々市へ帰った。それにしても長男の車運転は上手だがかなりスピードを出すので、家族が乗車を敬遠するのも何となく分かるような気がした。長男は5月4日の午前9時過ぎに家を出て、余り渋滞にも遭遇しなかったのか、午後4時半には横浜の自宅に着いたと連絡があった。

2.ラ・フォル・ジュルネ金沢には欠席
 今年のテーマは「ナチュール 自然と音楽」で4月29日にオープン、5月3〜5日には3会場でメインの公演、例年ならば6公演前後予約をするのに、今年は気乗りせず予約しなかった。何故か。少しマンネリ化してしまって、何となく魅力が薄れてしまったと感じたことと、それでも OEK のミュージック・パートナーになっているヤマカズこと山田和樹が来て振ってくれれば別だったが、彼は本業が忙しかったのか来日はなく、なおさら足が遠のいてしまった。来年以降はどうなるのだろうか。

3.久吉叔父訪問
 叔父は今は連れ添いを亡くしてからは、一人暮らしである。実子は東フィルのホルン奏者で、年に一度戻れれば良い方だし、亡妻の子も貿易関係で海外に出ることも多くて、やはり年に一度帰沢できれば上出来らしい。それで私たちは月に二度ばかり叔父のところに顔を出すことにしている。5月5日には午後2時頃にお邪魔し、5時くらいまでいろんな話題で話をした。叔父は大正12年生まれ、金沢一中47期、四高、東大出で、専門は生薬学・薬用植物学である。
 それでいつも必ず話題になるのが、北は礼文・利尻から、南は八重山諸島の石垣や西表で採集されたさく葉(押し葉)標本十万点を、薬学部が小立野から角間へ移転した際に、白山で採集された標本以外は全て破棄されたことで、1ヵ月ばかり悔しくて寝られなかったという。門外漢にとっては全く不要の
ゴミ、どこかへ移管されれば良かったのにとも思うが、事件は叔父が辞めた後の出来事、ライフワークだっただけに無念だったろうと思う。台紙に貼ったものは備品となるので破棄は免れたようだが、でも完成品はごく一部でしかなかった。一方白山で採集されたさく葉は、現在石川県立自然史資料館で少しずつ標品化されているとか。でも作業は遅々としていて、膨大な資料が整理される目処は立っていないと聞いている。
 叔父の日常は、週2回デイケアセンターでの入浴があり、これはすごく有難いと言っている。食事は自前が多いようで、冷蔵庫には溢れる程食料が入っている。車での行き来に買い物をしたり、時には歩いて買い物に出かけたりしているようだ。賞味期限のチェックをセンターの担当職員にもお願いしている。食事以外の大部分の時間は、朝日と北陸中日新聞の切り抜きと整理、それに薬学、動植物学等の夥しい数の書籍に囲まれての生活、退屈はしないという。いつまでも元気でいてほしいものだ。