(承前)
波田野先生は東京のお生まれ、千葉大学医学部を卒業され、川喜多先生の下でジフテリア毒素の研究をされていた。一方金沢大学ではボツリヌス毒素を研究されていた西田先生が新しく細菌学教室(後の微生物学教室)の教授になられ、先生が海路で英国へ留学される折、途中のアデンから波田野先生に招請の電報を打たれ、それに応じて金沢へおいでになり助教授になられた。昭和35年 (1960) のことである。その後先生はインフルエンザの研究のためアメリカへ2年間留学された。その頃から私が所属していた衛生研究所でもインフルエンザウイルスの検査をしなければならなくなり、その教えを波田野先生に乞うべく研究生となった。その後しばらくして、大学にがん研究施設が付設されることになり、そこのウイルス部門の教授に波田野先生が就任され、私も移籍することになった。施設はその後発展して金沢大学がん研究所となる。この頃になると、大学院生や研究生が10数人在籍していて、教室は活気づいていた。その頃に何人かの女子短大出身の教務助手の方が教室に居られ、教務以外にも細胞の培養や実験の補助などをされていた。ウイルス実験に入るまでの下準備の手間は馬鹿にならず、随分と彼女らにはおんぶに抱っこの状況が続き、本当にお世話になった。その中の一人に横山さんがいた。
彼女の住まいは小立野二丁目、波田野先生とは同じ町内、何かの折に先生と会われた際に、大学へ来ないかと誘われたとのことだった。彼女の家柄は前田家の家老の横山家の分家に当たる名門である。私はがん研ウイルス部に在籍中の昭和40年 (1965) に結婚したが、その後に午年生まれの家内と申年生まれの横山さんとは、高校時代に同じ陸上競技部に所属していたことを知った。一緒に過ごせたのは1年だけだったのだが、そんなこともあってか、私自身彼女に大変親近感があった。その後私は昭和50年 (1975) には教室を離れてしまうので、横山さんがいつまでがん研ウイルス部に在籍されたかは知らないが、もし波田野先生が退官されるまでおいでたとしたら、昭和63年 (1988) までおられたことになる。
その後いつだったかは覚えていないが、彼女の妹さんが卒論か何かで松尾芭蕉の「幻住庵記」をテーマに選ばれたとかで、どうして探されたかは知る由もないが、私の家の仏間に掛かっている芭蕉直筆の書を見せてほしいと頼まれた。こちらには別に異存はなくお見せしたが、そのときは書かれた和紙は下地の和紙に貼られた状態にあり、しかるべく保存をしたほうがよいともいわれた(これについては後日アクリルで封じて永久保存できるようにした)。私はこの筆で書かれた草書体の文字は全く読めなかったが、後日彼女からは読み下し文と解説を送っていただいた。その後このことがきっかけだったかどうかは知らないが、彼女が古文書を読み下すことに精を出されているということを風の便りに聞いた。そして図書館へ行き、何か目的があって、昔の古い資料を読みあさっておいでるとも聞いた。
そうこうするうちに、彼女が加賀百万石の前田家のこととか、自分の家の横山家のこととか、金沢の町並みのこととかについて、講演されているということが、テレビや新聞で報道されているのを知ることになった。彼女は大変な努力家だったが、それだけではこれほど素晴らしい郷土史家になれるはずはなく、加えて横山家の血筋を引いた天賦の才があったからだと思う。さらに古文書に対する緻密な調査と、持って生まれた几帳面な性格とが今日の彼女の地位を不動のものにしたのだと信ずる。彼女は現在石川県郷土史学会幹事であり、金沢市の埋蔵文化財、町並み保存、伝統的構造物保存、用水保全等の委員の職にあって活躍されており、著書や論文も出されている。
こんな彼女から話を聞きたいと思ったのは単なる思いつきからではなく、これこそ巡ってきた願ってもない千載一遇のチャンスだと思った.ただ忙しくて月の半分は予定で埋まっているとのことで心配したが、幸いにも探蕎会総会の日は運よく空いていたのは正に僥倖だった。
2014年2月26日水曜日
探蕎会での講演を横山さんに依頼(その1)
探蕎会の総会は初回と第2回は年末に、次いで第3回と第4回は1月に、そして第5回以降は2月に開かれている。一時は参加者が80人を超えたこともあったが、このところはせいぜい30人止まりのことが多い。総会次第はおおよそ毎年同じで、始めに会長の挨拶があり、続いて前年の行事報告と決算報告が事務局から、それにその年前半の行事の予定の概略が副会長から話され、議事は淡々と進められる。ただ今年は会報の発行部数が減って、繰越金が多いこともあって、会費が5千円から3千円に減額されることが議決された。
以前の会報を見ると、第1回の末野倉での設立総会、第2回の金沢ニューグランドホテルでの総会では特にアトラクションはなかったが、第3回には会員になられたオーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) の指揮者の榊原栄さんのお世話で、OEK の第2バイオリンの首席奏者だった江原千絵さんのバイオリン演奏が、若杉由香さんのピアノ伴奏で「たんきょう新春コンサート」と銘打って開催された。これはこのホテルの総支配人が探蕎会に入会されていたこともあっての便宜だったようだ。とにかくこの新春コンサートはなかなか好評で、以後7年にわたって継続されることになる。以下に列記してみよう。
第3回 (2001) 江原千絵 (バイオリン) 若杉由香 (ピアノ) 金沢ニューグランドホテル
第4回 (2002) 中川ゆみ (シャンソン) 同 上
第5回 (2003) 細川 文 (チェロ) 赤尾明紀 (フルート) 同 上
第6回 (2004) 江原千絵 (バイオリン) 福野桂子 (チェロ) 同 上
第7回 (2005) 江原千絵 (バイオリン) 上島淳子 (バイオリン) ホテルイン金沢
第8回 (2006) 藤井ひろみ (フルート) 福野桂子 (チェロ) 同 上
第9回 (2007) 江原千絵 (バイオリン) 福野桂子 (チェロ) KKR ホテル金沢
その後ある転機が訪れた。当時私は石川県予防医学協会に勤務していたが、ある時に小山先生が内科医として所属されることになった。小山先生は在学時には金沢大学医学部山岳部に所属されていた山男で、当時の山岳部長だった永坂先生の推薦で昭和56年に第23次南極越冬隊に医師として参加され、帰国後病院勤務されていたが、後に協会においでたのだった。協会では先生の講演が前後二度にわたって2回行われた。その後先生が探蕎会にも興味を持たれ入会されたので、この南極での体験をぜひ会の皆さんにも共有してもらいたく、この年はコンサートは止めて、講演を聴くということになった。スライド作成には事務局の前田さんが随分と骨を折られた。この講演は大変好評で、次回からはコンサートに代えて、会員のしかるべき人が講演することになって、これが数年続くことになる。以降にその状況を記す。
第10回 (2008) 小山文誉:「南極に何を求めて」 テルメ金沢
第11回 (2009) 大滝由季生:「出会いと感謝と心」 ホテル日航金沢
第12回 (2010) 寺田喜久雄:「みず・・・三題」 エクセルホテル東急
第13回 (2011) 岩 喬:「不整脈について」 同 上
第14回 (2012) 永坂鉄夫:「趣味と健康〜趣味は心身の痛みの緩和剤」 金沢スカイホテル
第15回 (2013) 早川純一郎:「幕末金沢のそば屋を梅田日記に探る」 同 上
さて次回の第16回であるが、会報55号によると、「来年の総会での講演は木村さんにお願いすることになった」とある。確かに寺田会長からは来年はあなたの番だとは聞いたものの、公の発言とは思わずにいた。ところが会報にまで載っているとは不覚にも知らず、今回の総会でも、何人もから今回の講演は貴方ではなかったのというお小言をいただいた。とすると、ここでどうしても一言釈明をしておかねばなるまい。一時はやってやれないことはないかなあとも思ったこともある。人と微生物の関わり、インフルエンザウイルスやノロウイルスのこと、腸管出血性大腸菌のことなど、私が長年携わってきたテーマであるが、これらを皆さんに平易に話そうとすると、新たに説明の資料となる図を書かねばならないというノルマが生ずる。その負担から逃れたく、会員の皆さんに喜んでいただけるような方に、私からしかるべくお願いするとすれば、私の責務を全うすることができるのではと考えた。そのときに真っ先に私の脳裏に浮かんだのは彼女、横山方子 (まさこ) さんだったのである。私が彼女と最初に出会ったのは、探蕎会の創設者でもある波田野先生が主宰されていた金沢大学がん研究所ウイルス部であった。
以前の会報を見ると、第1回の末野倉での設立総会、第2回の金沢ニューグランドホテルでの総会では特にアトラクションはなかったが、第3回には会員になられたオーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) の指揮者の榊原栄さんのお世話で、OEK の第2バイオリンの首席奏者だった江原千絵さんのバイオリン演奏が、若杉由香さんのピアノ伴奏で「たんきょう新春コンサート」と銘打って開催された。これはこのホテルの総支配人が探蕎会に入会されていたこともあっての便宜だったようだ。とにかくこの新春コンサートはなかなか好評で、以後7年にわたって継続されることになる。以下に列記してみよう。
第3回 (2001) 江原千絵 (バイオリン) 若杉由香 (ピアノ) 金沢ニューグランドホテル
第4回 (2002) 中川ゆみ (シャンソン) 同 上
第5回 (2003) 細川 文 (チェロ) 赤尾明紀 (フルート) 同 上
第6回 (2004) 江原千絵 (バイオリン) 福野桂子 (チェロ) 同 上
第7回 (2005) 江原千絵 (バイオリン) 上島淳子 (バイオリン) ホテルイン金沢
第8回 (2006) 藤井ひろみ (フルート) 福野桂子 (チェロ) 同 上
第9回 (2007) 江原千絵 (バイオリン) 福野桂子 (チェロ) KKR ホテル金沢
その後ある転機が訪れた。当時私は石川県予防医学協会に勤務していたが、ある時に小山先生が内科医として所属されることになった。小山先生は在学時には金沢大学医学部山岳部に所属されていた山男で、当時の山岳部長だった永坂先生の推薦で昭和56年に第23次南極越冬隊に医師として参加され、帰国後病院勤務されていたが、後に協会においでたのだった。協会では先生の講演が前後二度にわたって2回行われた。その後先生が探蕎会にも興味を持たれ入会されたので、この南極での体験をぜひ会の皆さんにも共有してもらいたく、この年はコンサートは止めて、講演を聴くということになった。スライド作成には事務局の前田さんが随分と骨を折られた。この講演は大変好評で、次回からはコンサートに代えて、会員のしかるべき人が講演することになって、これが数年続くことになる。以降にその状況を記す。
第10回 (2008) 小山文誉:「南極に何を求めて」 テルメ金沢
第11回 (2009) 大滝由季生:「出会いと感謝と心」 ホテル日航金沢
第12回 (2010) 寺田喜久雄:「みず・・・三題」 エクセルホテル東急
第13回 (2011) 岩 喬:「不整脈について」 同 上
第14回 (2012) 永坂鉄夫:「趣味と健康〜趣味は心身の痛みの緩和剤」 金沢スカイホテル
第15回 (2013) 早川純一郎:「幕末金沢のそば屋を梅田日記に探る」 同 上
さて次回の第16回であるが、会報55号によると、「来年の総会での講演は木村さんにお願いすることになった」とある。確かに寺田会長からは来年はあなたの番だとは聞いたものの、公の発言とは思わずにいた。ところが会報にまで載っているとは不覚にも知らず、今回の総会でも、何人もから今回の講演は貴方ではなかったのというお小言をいただいた。とすると、ここでどうしても一言釈明をしておかねばなるまい。一時はやってやれないことはないかなあとも思ったこともある。人と微生物の関わり、インフルエンザウイルスやノロウイルスのこと、腸管出血性大腸菌のことなど、私が長年携わってきたテーマであるが、これらを皆さんに平易に話そうとすると、新たに説明の資料となる図を書かねばならないというノルマが生ずる。その負担から逃れたく、会員の皆さんに喜んでいただけるような方に、私からしかるべくお願いするとすれば、私の責務を全うすることができるのではと考えた。そのときに真っ先に私の脳裏に浮かんだのは彼女、横山方子 (まさこ) さんだったのである。私が彼女と最初に出会ったのは、探蕎会の創設者でもある波田野先生が主宰されていた金沢大学がん研究所ウイルス部であった。
2014年2月14日金曜日
ノロウイルスにまつわる失敗談
昭和40年代始めの頃だったと思うが、生ガキ喫食による下痢症が時々報道されるようになった。それによると、養殖の生ガキを食べると、時にあたって下痢をするのだという。国でもその病原体を追求するべく、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)が中心となって、全国の地方衛生研究所(地研)に、生ガキによる下痢症が起きた時には,出来るだけ多くの下痢便検体を送ってほしいとの連絡を出した。折しも和倉温泉のとある旅館から、生ガキをどうしても食べたいと仰るお客さんには、下痢のリスクを承知で生ガキを提供するのですが、気をつけてはいても,時に本当に当たって下痢をされるお客さんがいるので、何が原因なのかを調べてほしいと連絡があった。早速私が行ってその旅館の女将さんに話を聞くと、先日フランス人の許へ嫁いだ娘が帰ってきた折に、婿さんが生ガキを食べたいというので、七尾湾でも最も水がきれいと言われている所へ案内したのですが、生憎と当たってしまって大変でしたとのこと。聞くと、とにかくその婿様の食べた生ガキの量が半端でないことが先ず判明した。そのせいかどうかは分からないが、当たったのはその婿様だけだったそうだ。また一方で、養殖カキの筏を置く場所は,川の河口に近い方が栄養分が多くてカキの成長が早いこと、それで時には育成のために糞尿を撒くこともあることを教わった。現在は下水道も整備され、そうでなくとも浄化槽が備わっているからして、河川の汚れは昔から見れば格段に良くなっているが、当時はまだ一部は垂れ流しの状態だった。
そこで提案された条件は、10月から翌年3月まで、毎月生ガキを4kgずつお送りしますので、そちらでは生で食べていただいて、もし下痢が起きたら、その原因を究明して下さいというものだった。生ガキは七尾湾では比較的汚れがあるといわれる和倉温泉沖の筏のものを提供しますとのこと、当時は私もまだ若く、胸を張って受け入れた。ここで肝心なのは、生食でという条件であった。
早速に私が勤務していた石川県衛生研究所(衛研)で、生ガキを生食する有志を募り、調査が始まった。人により、多い人は10個、少ない人は1個、くれぐれも生で喫食するようお願いした。また衛研で一度に4kgは多いので、当時私が研究生として所属していた、波田野先生が主宰されていたガン研究所ウイルス部の方々にも協力を頂き、半分をお送りし、同様なお願いをした。新鮮な生ガキは教室の皆さんにも喜ばれ、時に催促まである程だった。協力していただいてから5ヵ月は特に何事もなく過ぎた。ところが最後の回となる3月に異変が起きてしまった。衛研では喫食した半数の十数人に異変があった。主症状は下痢で、生ガキを食べた個数の多寡には関係がないようだった。また男女差もなかった。かくいう私も下痢症状が起きた。一時的にパニックになり、きちんと疫学調査をしなければならないのに、サンプル採取もままならず、結果として何ら成果を出せず、うやむやのうちにこのプロジェクト?は終了した。今だったら始末書ものだったろうが、特にお咎めはなかった。
ところで衛研での一件が終息した頃、大学ではどうだったろうかと聞いてみた。するとやはり半数近くの人が下痢し、女性2人は症状がひどくて入院したとか、これまで5回は何ともなく、美味しく頂いたので、まさか生ガキのせいとは誰も疑っていなかったのに、私が糾したことで生ガキのせいと分かってしまい、波田野先生からは大目玉をくった。そんな状況だったので、とても様子を伺うことさえ憚られ、こちらも調査できる状況ではなく、やはりうやむやになってしまった。
当時の日本では、あちこちで生ガキ喫食による下痢症の報告があり、電子顕微鏡によるウイルス像観察では、小型球形ウイルス(SRSV) が見られ、これが病原体であろうと推測されていた。折しもアメリカの Norwalk で集団下痢症の発生があり、やはり SRSV が観察され、これに Norwalk agent という名が冠された。日本で観察されたウイルス粒子との相同は当時明確ではなかったが、症状は比較的軽く、死亡に至る経過がないことなどはよく似ていた。現在はウイルスの遺伝子型まで読まれているが、当時はまだ分かっていなかった。しかしいずれにせよこのウイルスはヒト由来で、日本での場合、川に放出されたウイルスが海にいるカキの体内で濃縮され、これが生ガキを食べることによって起こされる下痢症の病原体とされた。ところでその後ウイルスの命名法が確立され、Norwalk agennt を含む SRSV はノロウイルス (Norovirus) と呼称されることになった。その後、いつ頃か記憶が曖昧だが、これまで日本にあった在来のノロウイルスの系統のほかに、バルト海辺りを起源とする別系統の病原性の強いノロウイルスが日本に入ってきた。これが現在日本で猛威を振るっているノロウイルスである。現在養殖生ガキは原則として生食禁止だが、新しいノロウイルスは従来あったカキ由来のウイルスとは遺伝子型が異なるので、これによって発生を食い止めることはできない。この新しいノロウイルスは感染性が抜群に強く、経口感染はもちろん、飛沫感染もあり、実に厄介だ。
そこで提案された条件は、10月から翌年3月まで、毎月生ガキを4kgずつお送りしますので、そちらでは生で食べていただいて、もし下痢が起きたら、その原因を究明して下さいというものだった。生ガキは七尾湾では比較的汚れがあるといわれる和倉温泉沖の筏のものを提供しますとのこと、当時は私もまだ若く、胸を張って受け入れた。ここで肝心なのは、生食でという条件であった。
早速に私が勤務していた石川県衛生研究所(衛研)で、生ガキを生食する有志を募り、調査が始まった。人により、多い人は10個、少ない人は1個、くれぐれも生で喫食するようお願いした。また衛研で一度に4kgは多いので、当時私が研究生として所属していた、波田野先生が主宰されていたガン研究所ウイルス部の方々にも協力を頂き、半分をお送りし、同様なお願いをした。新鮮な生ガキは教室の皆さんにも喜ばれ、時に催促まである程だった。協力していただいてから5ヵ月は特に何事もなく過ぎた。ところが最後の回となる3月に異変が起きてしまった。衛研では喫食した半数の十数人に異変があった。主症状は下痢で、生ガキを食べた個数の多寡には関係がないようだった。また男女差もなかった。かくいう私も下痢症状が起きた。一時的にパニックになり、きちんと疫学調査をしなければならないのに、サンプル採取もままならず、結果として何ら成果を出せず、うやむやのうちにこのプロジェクト?は終了した。今だったら始末書ものだったろうが、特にお咎めはなかった。
ところで衛研での一件が終息した頃、大学ではどうだったろうかと聞いてみた。するとやはり半数近くの人が下痢し、女性2人は症状がひどくて入院したとか、これまで5回は何ともなく、美味しく頂いたので、まさか生ガキのせいとは誰も疑っていなかったのに、私が糾したことで生ガキのせいと分かってしまい、波田野先生からは大目玉をくった。そんな状況だったので、とても様子を伺うことさえ憚られ、こちらも調査できる状況ではなく、やはりうやむやになってしまった。
当時の日本では、あちこちで生ガキ喫食による下痢症の報告があり、電子顕微鏡によるウイルス像観察では、小型球形ウイルス(SRSV) が見られ、これが病原体であろうと推測されていた。折しもアメリカの Norwalk で集団下痢症の発生があり、やはり SRSV が観察され、これに Norwalk agent という名が冠された。日本で観察されたウイルス粒子との相同は当時明確ではなかったが、症状は比較的軽く、死亡に至る経過がないことなどはよく似ていた。現在はウイルスの遺伝子型まで読まれているが、当時はまだ分かっていなかった。しかしいずれにせよこのウイルスはヒト由来で、日本での場合、川に放出されたウイルスが海にいるカキの体内で濃縮され、これが生ガキを食べることによって起こされる下痢症の病原体とされた。ところでその後ウイルスの命名法が確立され、Norwalk agennt を含む SRSV はノロウイルス (Norovirus) と呼称されることになった。その後、いつ頃か記憶が曖昧だが、これまで日本にあった在来のノロウイルスの系統のほかに、バルト海辺りを起源とする別系統の病原性の強いノロウイルスが日本に入ってきた。これが現在日本で猛威を振るっているノロウイルスである。現在養殖生ガキは原則として生食禁止だが、新しいノロウイルスは従来あったカキ由来のウイルスとは遺伝子型が異なるので、これによって発生を食い止めることはできない。この新しいノロウイルスは感染性が抜群に強く、経口感染はもちろん、飛沫感染もあり、実に厄介だ。
2014年2月11日火曜日
突然カアチャンが急性の下痢症に
全国でノロウイルスが大暴れしている。静岡県浜松市では、広域にわたり、十数校の学校で食中毒が発生した。どうしてこんなに広域でしかも同時に発生したのか、これは通常の食中毒とは明らかに様相が異なっていた。疫学調査の結果、同時に起きたということ、学校給食に出された給食パンが唯一共通食だということが大きなキーだった。その後の調査で、給食パンを製造していた会社の従業員の中に、下痢をしている人がいることが分かり、この人が汚染源となって起きた大規模なノロウイルスによる食中毒であったことが判明した。それにしても十数校もの学校で、患者がほぼ同時に多発したのには驚いた。ノロウイルスは 80 数℃の温度で不活化するのに、何時どんな風に付着して運ばれたのだろうか。
ところで介護施設などでノロウイルスによる下痢症患者が発生した時には、下痢便や吐物の中には夥しい数のノロウイルスがいるので、不完全な処理をすると、途端に施設全体にウイルス汚染が拡大し、大発生となることが往々にして起きている。今は保健所などが躍起となって注意を喚起しているので、前程大きな発生は少なくなってはいるものの、それでも冬季には大なり小なり、毎年発生が繰り返されている。今のところ、ノロウイルスに対する特効薬はまだなく、予防が第一であり、とどのつまり、先ずは口からノロウイルスを入れないことが肝要で、一つには手洗いの勤行、そして食べ物はなるべく熱を通すこと、また生食の場合には特に気を配ることが必要となってくる。
とは言っても、我が家では、私も家内も、食に特別気を配っているかというと、無関心ではないにしろ、決して傍から見て決して徳に注意しているとは思えない。時に、私の家内は市内のとある病院に勤務している。病院なので、この時期、インフルエンザの患者や冬季急性下痢症の患者が多数治療に訪れる。それで中には勤務している看護職員が、注意はされているのだろうが、時に感染して発症することがあるという。私も家内からそのことを聞き及んでいた。しかし、家内は病院事務を主務としているので、患者と直接接することは極めて少なく、そのような心配はほとんどないと思っていた。
ところがある日、家内が突然病院から早退してきた。どうしたのかと訊くと、下痢が頻繁に起きるので帰ってきたという。家へ帰ってきて10分に一度はトイレへ行く始末。私はこれまでこんなにひっきりなしに、ずっとトイレに居た方がいいというような状態の下痢には遭遇したことはなく、暗にこれが今流行の冬季急性下痢症の症状なのかと納得した。痛みはないようだが、とにかく排便の回数がすごく多い。横になって寝てもすぐに起きねばならない始末、半日ばかりは大変なようだった。脱水症状を起こしかねないこともあって、当然体液組成成分の入った緩衝液を補充しないといけない。
さて、家内は後日の検査でノロウイルス感染症は否定されたが、この時期、あの下痢の頻繁さからは当然ノロウイルス感染症が疑われた。咄嗟に困ったのは、着衣や使用したタオル等をどう処理するかということで、単純には熱湯消毒するとか、次亜塩素酸ナトリウム液で消毒するとかだが、これは言うに易く、行なうに難しで、これには往生した。それで思案の末、自動洗濯機に希釈したハイターと洗剤を加えて洗濯することにした。この程度の次亜塩素酸の濃度では気休めとも思えたが、洗濯ではかなりの水での濯ぎがあるので、洗濯物にウイルスが残ることは先ずなかろうと判断した。ただほかには特にドアのノブとか便器などの消毒はしなかった。家内は初日こそ 38℃を超える発熱もあったものの、3日後には下痢も発熱も治まった。発症して2日間ばかりはうどんを食べても吐いてしまい心配したが、それも本復した。ノロウイルスによる感染性下痢症の場合には、高齢者では往々にして死に至ることもあるやに聞いている。
ところで介護施設などでノロウイルスによる下痢症患者が発生した時には、下痢便や吐物の中には夥しい数のノロウイルスがいるので、不完全な処理をすると、途端に施設全体にウイルス汚染が拡大し、大発生となることが往々にして起きている。今は保健所などが躍起となって注意を喚起しているので、前程大きな発生は少なくなってはいるものの、それでも冬季には大なり小なり、毎年発生が繰り返されている。今のところ、ノロウイルスに対する特効薬はまだなく、予防が第一であり、とどのつまり、先ずは口からノロウイルスを入れないことが肝要で、一つには手洗いの勤行、そして食べ物はなるべく熱を通すこと、また生食の場合には特に気を配ることが必要となってくる。
とは言っても、我が家では、私も家内も、食に特別気を配っているかというと、無関心ではないにしろ、決して傍から見て決して徳に注意しているとは思えない。時に、私の家内は市内のとある病院に勤務している。病院なので、この時期、インフルエンザの患者や冬季急性下痢症の患者が多数治療に訪れる。それで中には勤務している看護職員が、注意はされているのだろうが、時に感染して発症することがあるという。私も家内からそのことを聞き及んでいた。しかし、家内は病院事務を主務としているので、患者と直接接することは極めて少なく、そのような心配はほとんどないと思っていた。
ところがある日、家内が突然病院から早退してきた。どうしたのかと訊くと、下痢が頻繁に起きるので帰ってきたという。家へ帰ってきて10分に一度はトイレへ行く始末。私はこれまでこんなにひっきりなしに、ずっとトイレに居た方がいいというような状態の下痢には遭遇したことはなく、暗にこれが今流行の冬季急性下痢症の症状なのかと納得した。痛みはないようだが、とにかく排便の回数がすごく多い。横になって寝てもすぐに起きねばならない始末、半日ばかりは大変なようだった。脱水症状を起こしかねないこともあって、当然体液組成成分の入った緩衝液を補充しないといけない。
さて、家内は後日の検査でノロウイルス感染症は否定されたが、この時期、あの下痢の頻繁さからは当然ノロウイルス感染症が疑われた。咄嗟に困ったのは、着衣や使用したタオル等をどう処理するかということで、単純には熱湯消毒するとか、次亜塩素酸ナトリウム液で消毒するとかだが、これは言うに易く、行なうに難しで、これには往生した。それで思案の末、自動洗濯機に希釈したハイターと洗剤を加えて洗濯することにした。この程度の次亜塩素酸の濃度では気休めとも思えたが、洗濯ではかなりの水での濯ぎがあるので、洗濯物にウイルスが残ることは先ずなかろうと判断した。ただほかには特にドアのノブとか便器などの消毒はしなかった。家内は初日こそ 38℃を超える発熱もあったものの、3日後には下痢も発熱も治まった。発症して2日間ばかりはうどんを食べても吐いてしまい心配したが、それも本復した。ノロウイルスによる感染性下痢症の場合には、高齢者では往々にして死に至ることもあるやに聞いている。
2014年1月23日木曜日
湧泉会での駄弁りのことども(2)
(承前)
1. 台湾のことば
台湾村田製作所での重要な会議はすべて日本語、したがって社員、とりわけ幹部社員は日本語を習得することが必須だった。このような状態だったので、社長である彼は台湾語(広義)をマスターする必要は全くなく、したがって彼は日常会話程度なら台湾語(広義)を話せるものの、長時間にわたる台湾語(広義)での講演などは全く無理だと言っていた。台湾が日本統治の頃は日本語での教育だったので,その頃に教育を受けた年配の人達は日本語を話せたようだが、今は特別な人でない限り話せないという。ところで台湾語(広義)の標記は漢字であるが、漢字の簡略化は全くされてなくて、日本でも古くは用いられていた旧漢字体がそのまま用いられているという。現在の日本では、常用漢字が2千字ばかり、JIS 漢字でも1万2千字ばかり、これに仮名を交えれば読み書きに全く支障を来さないが、台湾では仮名も漢字の簡略化も全くないことから、新聞を読むにしても少なくとも4万6千字位を覚えなければならず、学校での学童の識字の負担はとても日本の比ではないとか。これには恐れ入った。
〔注1〕上記の台湾語(広義)というのは台湾で話されている語という意味で、1949年に中国本土から蒋介石率いる北方方言を話す軍隊が入ってきて、それまでは台湾語(狭義)が主だったが、現在では北方方言(主に北京語)と台湾語(狭義)の話者の割合は3:1だそうである。
〔注2〕言語学的には台湾語(狭義)はミン語(ビン語とも)と言われ、古い中国語から2千年以前に分岐したとされ、現在は台湾のほか、中国では福建省沿岸、広東北東沿岸、海南島東部で使われている。また東南アジアに移住した上記地域の出身者も使用している。この言語は古い中国語の面影を残していると言われる。中国(中華人民共和国)には現在2百を超える言語があるなかで、中国語の北方方言であった北京語が現在の標準語であり、約7割の人々が使用している。一方揚子江以南には多数の方言が存在していて、中で代表的なのが広東語である。数詞の読み方を比較すると、広東語と北京語とでは全く共通点がないが、かえってミン語(狭義の台湾語)と似ているのには興味がある。
2. 中国での漢字の簡略化
中国では、中華人民共和国の成立と文化大革命を機にして、漢字の簡略化が進んだ。その方法は日本のそれとは全く異なる方式であって、簡略化された後の文字は、我々日本人が推測できる文字もあるが、大部分の略字は元の字が何か全く分からないものが多い。でもこの簡略化は中国本土以外には及んでいないという。ところで現在の中国での教育は、これら新しい文字を使っての教育であるため、新しい教育を受けた若者は古い旧字体を読めない。一方で、古い悠久の歴史を持つ中国についての知識は持っていなくて、歴史といえば、共産党一党独裁になって以降のことしか教育を受けていないと言ってよく、したがって極めて視野が狭い。日本に対する考え方も、中国侵攻をしたという悪者といった認識しか持っていないのも、中国の現行の教育の賜物としか言いようがない。
〔漢字表記に対する疑問〕中国語の表記は一部数字を除けば全て漢字表記である。ところで、夥しい数の地名や人名のほか、外国語の横文字表記を漢字表記に直すには何かルールがあるのだろうか。日本語には便利なカナ表記があるので、真に正確ではないにしろ表記することが可能な訳だが、漢字にも表音文字なるものがあれば問題はないが、どうなのだろう。中国語に翻訳する部署のようなものが存在するのだろうか。
3. 韓国でのハングル文字の功罪
韓国(大韓民国)や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で使われている言葉は、言語学的には朝鮮語であって、少なくとも 1446 年までは朝鮮語は漢字で書かれていた。ところがその後国王であった世宗がハングルを考案した。この文字は便利であって、中国からの借用語である漢字もハングル文字で表記することが可能である。日韓併合の 1910〜1945 年には用いられていなかったようだが、独立後は漢字表記はなくなり、ハングル文字表記になった。当然のことながら教育の現場での教科書はハングル文字表記であり、爾来 70 年余り経過した今日、この教育の成果として、今の韓国の大部分の人は漢字で書かれた文章を読めなくなってしまった。また学校の現場では、日韓併合時の弊害と独立後の躍進を重点的に教育していて、古い朝鮮半島の国の盛衰などには言及しないという。韓国もまた中国と同じく、現政権に都合のよい歴史観を教えているという。だから韓国で本当に自分の国の歴史を学びたいとすると、その時は日本へ来てしか叶えられないという。
現在日本の新聞には、韓国や北朝鮮の地名や人名を表記するには、漢字もしくはカナ表記か、漢字にカナをふる場合には朝鮮語発音のカナ表記が義務付けられている。ところで中国語での漢字表記の地名や人名の呼称は日本語読みでも OK なのだが、朝鮮語の場合はそうは行かない。以前は中国語(漢字のことを朝鮮語ではハンチャと呼ぶ)からの借用語をそのまま使用することが多かったが、今はすべて朝鮮語読みのハングル文字表記である。そして現在は英語からの借用語のハングル文字表記が氾濫しているという。いつか韓国の研究者から聞いたことであるが、韓国の官庁で役付きの人達は皆さん英語が堪能だという。日本では英語の有用性が叫ばれてはいるものの、こと英語で話すことに関しては、韓国に脱帽である。
会でのほんの一部の会話を紹介したが、よくぞ毎回延々とという感じである。テレビで大相撲の地元出身力士遠藤の取組みを見たいという人がいて、ようやく幕になった。
1. 台湾のことば
台湾村田製作所での重要な会議はすべて日本語、したがって社員、とりわけ幹部社員は日本語を習得することが必須だった。このような状態だったので、社長である彼は台湾語(広義)をマスターする必要は全くなく、したがって彼は日常会話程度なら台湾語(広義)を話せるものの、長時間にわたる台湾語(広義)での講演などは全く無理だと言っていた。台湾が日本統治の頃は日本語での教育だったので,その頃に教育を受けた年配の人達は日本語を話せたようだが、今は特別な人でない限り話せないという。ところで台湾語(広義)の標記は漢字であるが、漢字の簡略化は全くされてなくて、日本でも古くは用いられていた旧漢字体がそのまま用いられているという。現在の日本では、常用漢字が2千字ばかり、JIS 漢字でも1万2千字ばかり、これに仮名を交えれば読み書きに全く支障を来さないが、台湾では仮名も漢字の簡略化も全くないことから、新聞を読むにしても少なくとも4万6千字位を覚えなければならず、学校での学童の識字の負担はとても日本の比ではないとか。これには恐れ入った。
〔注1〕上記の台湾語(広義)というのは台湾で話されている語という意味で、1949年に中国本土から蒋介石率いる北方方言を話す軍隊が入ってきて、それまでは台湾語(狭義)が主だったが、現在では北方方言(主に北京語)と台湾語(狭義)の話者の割合は3:1だそうである。
〔注2〕言語学的には台湾語(狭義)はミン語(ビン語とも)と言われ、古い中国語から2千年以前に分岐したとされ、現在は台湾のほか、中国では福建省沿岸、広東北東沿岸、海南島東部で使われている。また東南アジアに移住した上記地域の出身者も使用している。この言語は古い中国語の面影を残していると言われる。中国(中華人民共和国)には現在2百を超える言語があるなかで、中国語の北方方言であった北京語が現在の標準語であり、約7割の人々が使用している。一方揚子江以南には多数の方言が存在していて、中で代表的なのが広東語である。数詞の読み方を比較すると、広東語と北京語とでは全く共通点がないが、かえってミン語(狭義の台湾語)と似ているのには興味がある。
2. 中国での漢字の簡略化
中国では、中華人民共和国の成立と文化大革命を機にして、漢字の簡略化が進んだ。その方法は日本のそれとは全く異なる方式であって、簡略化された後の文字は、我々日本人が推測できる文字もあるが、大部分の略字は元の字が何か全く分からないものが多い。でもこの簡略化は中国本土以外には及んでいないという。ところで現在の中国での教育は、これら新しい文字を使っての教育であるため、新しい教育を受けた若者は古い旧字体を読めない。一方で、古い悠久の歴史を持つ中国についての知識は持っていなくて、歴史といえば、共産党一党独裁になって以降のことしか教育を受けていないと言ってよく、したがって極めて視野が狭い。日本に対する考え方も、中国侵攻をしたという悪者といった認識しか持っていないのも、中国の現行の教育の賜物としか言いようがない。
〔漢字表記に対する疑問〕中国語の表記は一部数字を除けば全て漢字表記である。ところで、夥しい数の地名や人名のほか、外国語の横文字表記を漢字表記に直すには何かルールがあるのだろうか。日本語には便利なカナ表記があるので、真に正確ではないにしろ表記することが可能な訳だが、漢字にも表音文字なるものがあれば問題はないが、どうなのだろう。中国語に翻訳する部署のようなものが存在するのだろうか。
3. 韓国でのハングル文字の功罪
韓国(大韓民国)や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で使われている言葉は、言語学的には朝鮮語であって、少なくとも 1446 年までは朝鮮語は漢字で書かれていた。ところがその後国王であった世宗がハングルを考案した。この文字は便利であって、中国からの借用語である漢字もハングル文字で表記することが可能である。日韓併合の 1910〜1945 年には用いられていなかったようだが、独立後は漢字表記はなくなり、ハングル文字表記になった。当然のことながら教育の現場での教科書はハングル文字表記であり、爾来 70 年余り経過した今日、この教育の成果として、今の韓国の大部分の人は漢字で書かれた文章を読めなくなってしまった。また学校の現場では、日韓併合時の弊害と独立後の躍進を重点的に教育していて、古い朝鮮半島の国の盛衰などには言及しないという。韓国もまた中国と同じく、現政権に都合のよい歴史観を教えているという。だから韓国で本当に自分の国の歴史を学びたいとすると、その時は日本へ来てしか叶えられないという。
現在日本の新聞には、韓国や北朝鮮の地名や人名を表記するには、漢字もしくはカナ表記か、漢字にカナをふる場合には朝鮮語発音のカナ表記が義務付けられている。ところで中国語での漢字表記の地名や人名の呼称は日本語読みでも OK なのだが、朝鮮語の場合はそうは行かない。以前は中国語(漢字のことを朝鮮語ではハンチャと呼ぶ)からの借用語をそのまま使用することが多かったが、今はすべて朝鮮語読みのハングル文字表記である。そして現在は英語からの借用語のハングル文字表記が氾濫しているという。いつか韓国の研究者から聞いたことであるが、韓国の官庁で役付きの人達は皆さん英語が堪能だという。日本では英語の有用性が叫ばれてはいるものの、こと英語で話すことに関しては、韓国に脱帽である。
会でのほんの一部の会話を紹介したが、よくぞ毎回延々とという感じである。テレビで大相撲の地元出身力士遠藤の取組みを見たいという人がいて、ようやく幕になった。
湧泉会での駄弁りのことども(1)
標記の湧泉会の母体は耳順会で、メンバーは同じである。そしてこの両会を主宰する幹事は、昨年から常時村田君がすることになった。こういう会の運営には、マメな御仁が当たることが大切で、その点彼はまことに適任である。メンバーはすべて泉丘高校7期の同期生である。
この村田君は台湾村田製作所の社長を長くしていて、台湾日本人会の会長もしていたこともある名士、平成14年 (2002) 秋に辞して金沢へ帰って来た。そこで彼を労おうと諸 (もろ) 君が音頭をとって集まったのが11名、彼を入れて12名で発足し、論語の「六十而耳順」から名を借り、「耳順会」とした。爾来昨年末まで、ほぼ3ヵ月に1回、幹事持ち回りで44回にわたって会を催してきた。現在の会員数は、その後2名の入会と3名の他界があり、11名である。
ところで村田君の提案で、昨年正月から、毎月第3木曜日の午前 11:30 にニューグランドホテルで会うことにしませんかという提案があった。月代わりに、日本・中華・イタリア料理の昼食をとりながら駄弁りませんかという。部屋は予め確保するが、特に出欠は取らずに、出席する人は 11:00 までにホテルのロビーへ集合してくれればよいとのこと。会の名称は「湧泉会」としたので、もし遅れてもホテルの案内板に部屋名が載っているとのこと。湧泉会の語源は、思うに校歌の一節の「この丘に涌き出づる泉」から採ったものだろう。
この湧泉会は月に1回開催されてきたが、私は都合もあって4回しか出席できなかったが、昼食をはさんで4時間は駄弁っているから驚きである。一方の耳順会は年に4回、これは夕方6時からの宴席で、こちらはお酒が入ることもあって、概ね3時間位。それに比して昼の湧泉会は実に延々としていて、女性の井戸端会議を優に凌いでいる。お替わり可能なコーヒーや紅茶を飲みながらの長談義、ホテルにとっては迷惑なのではと思うが、それは単に私がそう思っているだけなのかも知れない。
昨年暮れの耳順会は山代温泉であり、私は入院していて出席できなかったが、その会の席上、湧泉会は勿論、耳順会も持ち回りを止めて、村田君が全てを仕切ることになったと後で連絡を受けた。湧泉会は今年からは毎月第3土曜日に金沢ニューグランドホテルで、耳順会は3,6,9月は第1月曜日の午後6時から「魚半」で、12月は第1月曜日の午後3時から山代温泉の「ゆのくに天祥」でということになり、今後は12月の1泊の会以外は特に出欠は取らないことのしたとのことだった。
さて、今年第1回の湧泉会は1月18日、2F友禅での加賀料理、予約は和室で6名だったが参加は4名、会費は土日割引の 1,200 円ポッキリ、ここで食事を入れて2時間ばかり駄弁った後、頂いた喫茶券を持って M2F のテーブルに陣取って更に延々と2時間半、コーヒー,紅茶をお替わりしながらの駄弁り、周りを気にせず一向に動じないところが凄い。どんな話題があったのか、少し紹介してみようと思う。次にほんの一部だが、村田君の語った話題の一部を紹介してみようと思う。(続く)
この村田君は台湾村田製作所の社長を長くしていて、台湾日本人会の会長もしていたこともある名士、平成14年 (2002) 秋に辞して金沢へ帰って来た。そこで彼を労おうと諸 (もろ) 君が音頭をとって集まったのが11名、彼を入れて12名で発足し、論語の「六十而耳順」から名を借り、「耳順会」とした。爾来昨年末まで、ほぼ3ヵ月に1回、幹事持ち回りで44回にわたって会を催してきた。現在の会員数は、その後2名の入会と3名の他界があり、11名である。
ところで村田君の提案で、昨年正月から、毎月第3木曜日の午前 11:30 にニューグランドホテルで会うことにしませんかという提案があった。月代わりに、日本・中華・イタリア料理の昼食をとりながら駄弁りませんかという。部屋は予め確保するが、特に出欠は取らずに、出席する人は 11:00 までにホテルのロビーへ集合してくれればよいとのこと。会の名称は「湧泉会」としたので、もし遅れてもホテルの案内板に部屋名が載っているとのこと。湧泉会の語源は、思うに校歌の一節の「この丘に涌き出づる泉」から採ったものだろう。
この湧泉会は月に1回開催されてきたが、私は都合もあって4回しか出席できなかったが、昼食をはさんで4時間は駄弁っているから驚きである。一方の耳順会は年に4回、これは夕方6時からの宴席で、こちらはお酒が入ることもあって、概ね3時間位。それに比して昼の湧泉会は実に延々としていて、女性の井戸端会議を優に凌いでいる。お替わり可能なコーヒーや紅茶を飲みながらの長談義、ホテルにとっては迷惑なのではと思うが、それは単に私がそう思っているだけなのかも知れない。
昨年暮れの耳順会は山代温泉であり、私は入院していて出席できなかったが、その会の席上、湧泉会は勿論、耳順会も持ち回りを止めて、村田君が全てを仕切ることになったと後で連絡を受けた。湧泉会は今年からは毎月第3土曜日に金沢ニューグランドホテルで、耳順会は3,6,9月は第1月曜日の午後6時から「魚半」で、12月は第1月曜日の午後3時から山代温泉の「ゆのくに天祥」でということになり、今後は12月の1泊の会以外は特に出欠は取らないことのしたとのことだった。
さて、今年第1回の湧泉会は1月18日、2F友禅での加賀料理、予約は和室で6名だったが参加は4名、会費は土日割引の 1,200 円ポッキリ、ここで食事を入れて2時間ばかり駄弁った後、頂いた喫茶券を持って M2F のテーブルに陣取って更に延々と2時間半、コーヒー,紅茶をお替わりしながらの駄弁り、周りを気にせず一向に動じないところが凄い。どんな話題があったのか、少し紹介してみようと思う。次にほんの一部だが、村田君の語った話題の一部を紹介してみようと思う。(続く)
2013年12月23日月曜日
とある会の旅行にまつわることども(その7)
11. 翌日は松本へ、そして帰沢、私は病院へ
翌朝7時に、宿から推奨の、別棟になっている「かわらの湯」へ行く。母屋から歩いて3分ばかり、川原といっても、谷川からは少々離れている。露天風呂かと思いきや、積雪に耐える屋根がある立派な檜風呂、でも谷川のせせらぎが間近に見え、清々しい。かれこれ 30分はいたろうか。朝食は8時半、昨晩と同じ場所、出立は 10時と聞いた。本来なら朝食にお酒は付きものなのだが、運転手二人はともかく、私も夕方には病院へ戻らねばならなくて飲めず、ということもあってお酒好きのユキオさんも遠慮されてしまった。何か悪く申し訳なかった。
駐車場で、湯元長座の看板を背に写真を撮ってもらい、いざ出発。旅程は高島夫妻に一任、出たのは10時、下手から平湯バイパスに出て、安房トンネルを抜け,梓川沿いの国道 158号線 (野麦街道・飛騨街道) を松本へ、お天気は上々、松本平まで下りると、背後に真っ白な雪を纏った常念岳が見えてくる。安曇野のシンボルだ。昨晩は石田さん夫妻は高山から名古屋回りで帰京するとのことだったが、この期に及んで、松本から帰ることになった。特に何処へという当てもなく、取りあえずは松本城へと向かう。休日でしかも上天気とあって、駐車場はどこもかしこも満杯、しかし城の周囲を一巡してると、幸いにも松本市が臨時に設けた駐車場を見つけた。正に僥倖であった。小春日和の一日、ブラブラ歩きながら、松本城を大きく周回してから街へ。
時は昼時、松本は蕎麦どころ、城の周りにも沢山の蕎麦屋があるが、これまで十数回松本にそばを食べに来た経験からは,特に城の南側の蕎麦屋のそばは観光客目当てでよくない。誰かが松本らーめんをと言うが、さすがにそんな店は見当たらない。そしてやっと血眼になって見つけた店は休業していた。歩いて女鳥羽川を渡る。松本でそばのおいしい店は何軒か知っているが、それには更に南へと歩かねばならず、駐車場からはどんどん遠ざかることになる。すると本町通りに、古い漆喰の壁がある家の1階に、カレー屋が見つかった。「デリー」という。腹も減っていて、衆議一決、ゾロゾロと入る。私たちが入ると満席に、客が次から次へと、結構繁盛している店のようだ。私はビーフの辛め、ただし白飯は半分にしてもらった。久方ぶりのカレー、味も上々、満足だった。
店を出て女鳥羽川を対岸に渡り、なわて通りの繁華街を通り抜け、城の東側にある臨時駐車場に戻る。これで旅行の行事はすべて終わった。石田夫妻を松本駅まで送るが、市内は大変混雑して渋滞していた。駅へ着いて暫し語らい、また来年の再会を期して別れた。松本から東京へは1時間に1本は特急が出ているだろうから、もう帰ったも同然だ。
さて後は金沢へ帰るのみ、松本からだと安曇野を国道 147号線 (松本街道) で北上して大町へ、さらに国道 148号線 (糸魚川街道) を姫川沿いに更に北上して糸魚川に出て、北陸道でということになる。松本を出たのが午後2時、私に課せられた病院の門限は午後5時なのだが、これは無理な相談、それより何よりも安全運転が第一だ。
大町からは、左手に雪を纏った後立山連峰を見ながらの走行、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬三山などが展開する。道の駅白馬で小憩する。ここからはトンネルとスノーシェードの連続、運転には気が抜けない。しかも幹線道路とて交通量が多い。そして漸く糸魚川、ここから高速道に。有磯海 PA で休憩、早川夫妻とはここで別れた。マアちゃんはここでこちらの車に移る。
車はひたすら走る。私は本来なら上荒屋まで行き、家内の車で病院へと思っていたのだが、高島夫妻の好意で、直に金沢医科大病院へ送って貰うことに、感謝々々。病院へ着いたのは午後6時10分。車からの下りしな、高島夫妻と感謝をこめて握手、全快したら拙宅で「サーモンの会」を開くことを約束した。慌ただしかったものの、楽しかった「とある会」の旅行は終わった。
「閑話休題」
高島夫妻の娘のケイちゃんと幕内力士の遠藤とは、金沢市西南部中学での同級生だとさ。
翌朝7時に、宿から推奨の、別棟になっている「かわらの湯」へ行く。母屋から歩いて3分ばかり、川原といっても、谷川からは少々離れている。露天風呂かと思いきや、積雪に耐える屋根がある立派な檜風呂、でも谷川のせせらぎが間近に見え、清々しい。かれこれ 30分はいたろうか。朝食は8時半、昨晩と同じ場所、出立は 10時と聞いた。本来なら朝食にお酒は付きものなのだが、運転手二人はともかく、私も夕方には病院へ戻らねばならなくて飲めず、ということもあってお酒好きのユキオさんも遠慮されてしまった。何か悪く申し訳なかった。
駐車場で、湯元長座の看板を背に写真を撮ってもらい、いざ出発。旅程は高島夫妻に一任、出たのは10時、下手から平湯バイパスに出て、安房トンネルを抜け,梓川沿いの国道 158号線 (野麦街道・飛騨街道) を松本へ、お天気は上々、松本平まで下りると、背後に真っ白な雪を纏った常念岳が見えてくる。安曇野のシンボルだ。昨晩は石田さん夫妻は高山から名古屋回りで帰京するとのことだったが、この期に及んで、松本から帰ることになった。特に何処へという当てもなく、取りあえずは松本城へと向かう。休日でしかも上天気とあって、駐車場はどこもかしこも満杯、しかし城の周囲を一巡してると、幸いにも松本市が臨時に設けた駐車場を見つけた。正に僥倖であった。小春日和の一日、ブラブラ歩きながら、松本城を大きく周回してから街へ。
時は昼時、松本は蕎麦どころ、城の周りにも沢山の蕎麦屋があるが、これまで十数回松本にそばを食べに来た経験からは,特に城の南側の蕎麦屋のそばは観光客目当てでよくない。誰かが松本らーめんをと言うが、さすがにそんな店は見当たらない。そしてやっと血眼になって見つけた店は休業していた。歩いて女鳥羽川を渡る。松本でそばのおいしい店は何軒か知っているが、それには更に南へと歩かねばならず、駐車場からはどんどん遠ざかることになる。すると本町通りに、古い漆喰の壁がある家の1階に、カレー屋が見つかった。「デリー」という。腹も減っていて、衆議一決、ゾロゾロと入る。私たちが入ると満席に、客が次から次へと、結構繁盛している店のようだ。私はビーフの辛め、ただし白飯は半分にしてもらった。久方ぶりのカレー、味も上々、満足だった。
店を出て女鳥羽川を対岸に渡り、なわて通りの繁華街を通り抜け、城の東側にある臨時駐車場に戻る。これで旅行の行事はすべて終わった。石田夫妻を松本駅まで送るが、市内は大変混雑して渋滞していた。駅へ着いて暫し語らい、また来年の再会を期して別れた。松本から東京へは1時間に1本は特急が出ているだろうから、もう帰ったも同然だ。
さて後は金沢へ帰るのみ、松本からだと安曇野を国道 147号線 (松本街道) で北上して大町へ、さらに国道 148号線 (糸魚川街道) を姫川沿いに更に北上して糸魚川に出て、北陸道でということになる。松本を出たのが午後2時、私に課せられた病院の門限は午後5時なのだが、これは無理な相談、それより何よりも安全運転が第一だ。
大町からは、左手に雪を纏った後立山連峰を見ながらの走行、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬三山などが展開する。道の駅白馬で小憩する。ここからはトンネルとスノーシェードの連続、運転には気が抜けない。しかも幹線道路とて交通量が多い。そして漸く糸魚川、ここから高速道に。有磯海 PA で休憩、早川夫妻とはここで別れた。マアちゃんはここでこちらの車に移る。
車はひたすら走る。私は本来なら上荒屋まで行き、家内の車で病院へと思っていたのだが、高島夫妻の好意で、直に金沢医科大病院へ送って貰うことに、感謝々々。病院へ着いたのは午後6時10分。車からの下りしな、高島夫妻と感謝をこめて握手、全快したら拙宅で「サーモンの会」を開くことを約束した。慌ただしかったものの、楽しかった「とある会」の旅行は終わった。
「閑話休題」
高島夫妻の娘のケイちゃんと幕内力士の遠藤とは、金沢市西南部中学での同級生だとさ。
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