この『傷は絶対消毒するな』という表題の本は、形成外科医である夏井睦(まこと)が、これまでの医学的常識に科学的根拠に基づいて挑戦した書であると言える。副題は「生態系としての皮膚の科学」とあり、この部分はある程度基礎知識がないと理解できないことも多いが、何ともショッキングな表題であって、少なくとも擦り傷、切り傷、軽い火傷については、これまで消毒第一だった常識が実は間違いであると断言している。そこでこのタイトルには書名の主題の後に、従来は常識だったパラダイムがそうではないということで、私は「この非常識的常識」をくっつけた。
本書はまえ・あとがきと11章からなっているが、ここでは本書の主題に直接関係する章の内容について、これを読めば素人でも確実に治せるという手当てを紹介する。そして更にその傍証となる科学的根拠を知りたくなったら、光文社新書の本書を参照されたい。
1.はじめに
冒頭、「普段何気なくしていることの中には、よく考えると、何故それをしているのか分からないものが結構ある」と、そしてその例として、「蕎麦に七味唐辛子」を挙げた。「大概のそば屋には七味が置いてあるが、どう考えても、蕎麦の繊細な風味は七味で殺される」と、また「七味をかけることで、蕎麦の味がよくなることも風味が増すこともない」と仰る。次に「ワサビを醤油に溶かして食べるのもおかしい。山葵の辛味成分は揮発性のため、溶かすとすぐに辛味も香りも飛んでしまうからで、辛みと香りが命のワサビなのに、なぜわざわざ不味くして食べるのか、ちょっと不思議である」とも。著者は、これは「皆がしているからしている常識」のパラダイムの類いだとしている。
さて、傷の手当てだが、著者は素人にも浸透している[傷は消毒してガーゼを当てて乾かして治す]という治療法が、科学的根拠に基づいていないと指摘する。「傷が治るメカニズムが解明されているのに、なぜかその知識は研究者の間では知られているものの、実際に傷の治療が行われている医療現場には全く伝えられていない」という。そこで著者は傷が治るメカニズムに沿った治療を始めたという。その結果、『傷の湿潤治療』に行き着いたという。それは[傷を消毒しない][傷を乾かさない]という二つの原則を守るだけで、傷は驚くほど早く、しかも痛みもなく治ってしまうという、患者はもちろん、当の医師も驚いたという。
2.なぜ「消毒せず、乾かさない」と傷が治るのか
この「外傷の湿潤治療(うるおい治療)」は、創傷治癒過程(傷が治る過程)の徹底的な研究成果に基づいて作り上げられた治療で、擦りむき傷と熱傷とでは原因は異なるが、治る過程は同じであり、要はその治る過程の邪魔をせず、助けてやりすればよいのだと。傷の治り方をみると、傷が浅くて毛穴が残っている場合には、毛穴(及び汗管)から皮膚が再生してくるし、毛穴が残っていない傷が深い場合には、先ず肉芽が傷を覆い、その表面に周囲から皮膚が入り込んで再生する。そして、この修復に 重要な働きをする新生された皮膚細胞や真皮や肉芽は乾燥状態ではすぐに死滅してしまうので、乾燥しないようにする必要があると。なんのことはない、人体を構成する細胞はすべて乾燥は大敵であって、しかも一旦死んでしまった細胞は絶対に蘇らず死骸となる。傷あとのカサブタはその残骸なのだそうである。ということは、傷を乾かさないようにすれば、傷の表面は新たに増えた皮膚細胞で覆われ、確実に皮膚が再生されるということになる。
具体的には、[水を通さないもの、空気を通さないもの]で傷口を覆ってやればよいという。なぜなら傷口からは傷を治すための細胞成長因子という生理活性物質が出ていて、これが傷を治す働きをする。「膝小僧を擦りむいた時、傷口がジュクジュクしてくるが、これがその成分、つまり、人間の体は自前で傷を治すメカニズムを持っていて、この傷のジュクジュクはいわば人体細胞にとっては最適の培養液なのである」と。それで、[水を通さないもの、空気を通さないもの]で覆ってやると、「傷の表面は常に滲出液で潤った状態になって乾燥しなくなり、傷表面の様々な細胞は活発に分裂し、傷はどんどん治ってしまう」ことに。
では、傷の上を覆うものは何がいいか。「実は何だって浴よく、人体に有害な成分が含まれてさえいなければ、(1)傷にくっつかない。(2)滲出液(=細胞成長因子)を外へ逃さない。この二つの条件を満たせば十分だが、さらに、(3)ある程度水分(滲出液)吸収能力がある。という条件が満たされればベストである」。(3)が必要なのは、皮膚は排泄器官でもあるので、皮膚を密閉すると、その機能が働かず、結果として汗疹(あせも)などができる。この三つの条件を満たした治療材料を「創傷被覆材」といい、病院での傷や床擦れの治療に使われ始めている。その一つがハイドロコロイドという素材で、現在「キズパワーパッド」という商品名で販売されている。また「プラスモイスト」という治療材料もこの三つの条件を満たしており、水分吸収能力という点では後者が優れていて、素人にも安心して使える。そしてこれらが入手できない場合には、ラップ(サランラップなど)を用いてもよい。ただラップは吸水力が全くないので、汗をかく時期には一日に数回ラップを剥がし、傷周囲の皮膚をよく洗って貼りかえる方がよいという。
「湿潤治療」の特徴をまとめると、次のようになる。(1)傷の治りが早い。(2)湿りで痛みがなくなる。(3)擦りむいた傷も深い傷も熱傷も同じ方法で治療できる。(4)消毒薬も軟膏も不要。(5)最低限、水とラップと絆創膏があれば治療できる。(6)治療方法が簡単、簡便。
3.傷の正しい治し方
治療に当たって必要なものは、先ず創部を洗浄する水で、飲用できる水や糖分が入っていないペットボトルのお茶でもよい。次に、創部をきれいにするため、血液や汚れを拭うためのタオルやティッシュペーパー、ガーゼなどが要る。それと創部を覆うもの(プラスモイスト、市販のハイドロコロイド被覆材、食品包装用ラップ、白色ワセリンなど)と絆創膏や包帯などである。
[一般的な傷の治療] (1)出血があれば、先ず出血を止める。これには創部にタオルなどを当てて、その上から軽く圧迫すれば数分で止まる。(2)傷の周りの皮膚の汚れを拭き取る。もし傷の中に砂などが入っていたら、水道かシャワーで洗い落とす。(3)ハイドロコロイドの場合は、直接傷の上に貼る。絆創膏は不要。(4)プラスモイストの場合は、傷よりやや大きめのサイズに切って、薄く白色ワセリンを塗って傷を覆い、絆創膏で固定する。(5)ラップの場合は、ラップの上にタオルかガーゼを当て(漏れ出てくる滲出液を吸収するため)、その上から包帯を巻く。(6)ハイドロコロイドとプラスモイストは1日1回は貼りかえる。ラップの場合は、寒い時期なら1日1回、暑い時期なら1日2~3回交換する。いずれも交換の際は、傷周囲の皮膚をよく洗って、汗や滲出液を十分に洗い落とす。この操作は大事である。(7)傷の部分がツルツルした皮膚で覆われ、滲出液が出なくなったら、治療終了。(8)顔など露出部の場合は、再生された皮膚は紫外線に当たると色素沈着を起こしやすいので、市販のUVカットのクリームなどを塗り遮光する。期間は3ヵ月程度。
[ヤケドの治療] (1)水疱はできていないが、赤くてヒリヒリするヤケドの場合、面積が小さい場合はハイドロコロイドを貼付、面積が広ければプラスモイストやラップに白色ワセリンを塗布して貼れば、ヒリヒリした痛みはすぐに治まる。半日程して剥がし、赤みがなくなってヒリヒリ感がなくなれば治療終了。日焼けの場合も同様である。(2)小さい水疱ができている場合には、そのまま白色ワセリンを塗ったプラスモイストやラップで覆い、交換を続けて水疱が平らになったら治療終了。(3)水疱が2~3cm以上だったら、水疱を破って膜を除去する。そして白色ワセリンを塗ったプラスモイストやラップで創面を覆う。交換する際に新たな水疱ができていたら必ず除去し、同様の処置をする。水疱の部分が乾燥してツルツルした皮膚で覆われたら治療終了。
[病院を受診した方がよい外傷] 次のような場合は、必ず病院を受診してほしい。 (1)刃物を深く刺した。(2)異物(木片、金属、魚骨など)を刺し、中に破片が残っている。(3)古い釘を踏んだ。(4)動物に咬まれて血が出ている。(5)動物に咬まれて腫れている。(6)深い切り傷とか大きな切り傷。(7)皮膚がなくなっている。(8)切り傷で出血が止まらない。(9)指や手足が動かない。(10)指などが痺れている。(11)大きな水疱ができているヤケド。(12)面積が広いヤケド。(13)貼るタイプのアンカ、湯たんぽ、電気カーペットなどによる低温熱傷。(14)砂や泥が入り込んでいる切り傷や擦りむき傷。(15)赤く腫れて痛みがある傷。
4.消毒薬とは何か
消毒薬は家庭常備薬の王で、細菌も殺すが、人間の細胞膜タンパクも破壊し、細胞を死滅させる。消毒薬は傷口の破壊薬なので、消毒薬で傷口は破壊され、痛むことに。すなわち、消毒薬による傷の消毒というのは、言ってみれば「傷の熱湯消毒」と変わりない。というわけで、一生懸命に傷を消毒すればするほど、傷の治療は遅れ、場合によっては傷が深くなり、その結果として傷が化膿する危険性も高くなる。でも消毒薬は現代医療になくてはならないもの、消毒は医療活動とは切っても切れない関係になっている。正に消毒文化というべきか、喫煙文化と似ている。かくしてこのように根拠もないのに、その時代の誰もが盲信していることを「パラダイム」という。
5.「化膿する」とはどういうことか
傷の化膿とは、医学的には「細菌感染によって傷が炎症を起こしている状態」とされるが、素人的には「膿が貯まっているか、膿が出ていて、傷の周りが赤く腫れていて痛い」ということになろうか。突き詰めると、「痛い」か「痛くない」かが重要である。だから、傷口に細菌がいても化膿しているとは言わないし、細菌が入っても化膿するわけではない。例えば、切れ痔の傷は大便の無数の細菌に曝されるが、化膿することはないし、口の中の傷もいつも口内細菌に曝されているが、化膿することなく治る。しかし、「傷から細菌が入ると化膿する」と小さい時から教えられてきた。でも犬や猫は傷口を舌で舐めて治してしまう。この一見矛盾する事実の説明は、傷の化膿にとって細菌の存在は必要条件だが、十分条件ではないということだ。細菌だけで化膿するのではなく、もう一つの条件の「細菌が増殖できる場」が必要で、細菌といえども増殖できる場がなければ、傷を化膿させることはできない。
細菌といえども生物であり、水と栄養分がなければ生きて行けない。「細菌は乾燥状態では増殖できない」のは事実だが、これが傷の治療を誤った方向に導いてしまった。では細菌が傷口から入ったとして、どこで増殖するのだろうか。傷の場合で多いのは血腫(創内に出血した血液が吸収されずに残っている血の塊)で、元は自分の血液であるが、血腫内部には免疫細胞は移動できないし、抗生物質も届かない。つまり、細菌にとって血腫は栄養満点の格好の増殖環境となる。要は「溜まって澱んでいる」場所で細菌は増殖する。だから血液でなくリンパ液が溜まっても、また傷口から出た滲出液も澱めば感染源になる。ラップやプラスモイストを1日1回交換し、創傷部分を清拭するのもこのためである。
6.あとがき
私は主にこの本の前半の「傷の治療」の部分を紹介した。この本を通じて著者が言いたいことは、「医学はどこまで科学に迫れるか」という命題であり、これは「科学的思考で医学の諸問題をどこまで解決できるか」という挑戦でもある。しかし一方で「医学は芸術である」と高吟された高名な医師もおいでる。これは医学における事象が、物理実験や化学実験のように再現性がほとんどないことに起因していて、結果としてそう言わしめている可能性はある。近年EBM(根拠に基づいた医療)が医学に導入され、一見科学的根拠が取り入れられたような感があるが、正しいと判断する基準が曖昧で貧弱である以上、科学的とは言うものの、実は科学とは程遠い。著者が行っているケガやヤケドの治療は極めてクリアカットで、生物学や化学の基礎的事実に合致した現象しか起きていない。少なくともケガやヤケドの治療に関する限り、診断も治療も科学だと言える。しかしこのような論理性は、ケガやヤケドの治療にしか現れない特殊な現象であって、他の医学分野にはないと考えるのはおかしいと言わざるを得ない。今、著者は人間の体を一つの生態系として捉え、全く新たな視点から人間の病気、感染症の関係について再構築できるのではないかという可能性を探っているが、今後の進展を期待し、医学界に革命的な新風を吹き込まれんことを望む。
この書は、表題もさることながら、実に優れた医学の啓蒙の書となっている。
2009年8月27日木曜日
2009年8月24日月曜日
東北の秘湯:乳頭温泉郷(2)
新玉川温泉に逗留した1日、朝4時半に起き、玉川温泉まで朝の冷気を浴びながら、山道を20分歩いて岩盤浴に出かける。この時間にはもう8割方、場所は埋まっている。目指す場所がある人は、辛抱強くそこが空くのを待っている。岩盤浴は大体1時間位温まるのが目安で、それ以上居る人はまずいない。この日は日中は乳頭温泉郷の先達川に沿った温泉の湯巡りをすることにする。新玉川温泉から田沢湖駅へ行くバスの一番は9時30分、羽後交通の路線バスである。バスは標高800mの高原から玉川沿いに南下し、玉川ダム(宝仙湖)の縁を巡り、田沢湖へと下る。湖畔でジャンボタクシー(10人乗り)をチャーターし、先ずは乳頭温泉郷へ向かう。
田沢湖からは乳頭温泉行きのバスは出ているが、行き先の「乳頭温泉」は「乳頭温泉郷」といった方が正確かも知れない。乳頭温泉というと鶴の湯温泉と思いがちだが、鶴の湯へは路線バスなら「鶴の湯温泉旧道口」で、黒湯温泉なら「国民休暇村」で下車して、どちらも30分位歩かねばならない。路線バスで直接に行けるのは、終点の「乳頭温泉」下車の大釜温泉と、一つ手前の「妙乃湯温泉」の妙乃湯温泉のみである。
タクシーの運転手は実に親切で、いろんな話をしてくれる。それで温泉巡りの話をすると、黒湯温泉から反時計回りに、孫六温泉、大釜温泉、蟹場温泉、妙乃湯温泉と巡って、妙乃湯温泉からバスで田沢湖へ戻った方がよいと教えてくれた。タクシーは秋田駒ケ岳(1637m)の山裾を巡り、さらに山奥へ、前方に乳頭山(1477m)が見えてくる。一見して女性の乳房そっくりの山体、しかも頂上が乳首のように尖っている。別名は烏帽子岳である。乳頭スキー場を過ぎると休暇村田沢湖高原に着く。ここにも温泉が出ている。ここから県道のバス路線を外れて林道に入る。車の交差をする待避所が所々にあって、番号が付されている。湖畔から30分ほどで駐車場に着いた。車なら30台は止められる位の広さ、黒湯温泉や孫六温泉へ車で来る人はここで車を止めることになる。乗合タクシーの料金は7千円、一人千円とは安い。
3.黒湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖生保内黒湯2-1 )
駐車場から急な山道を下ると、すぐに茅葺きの屋根が下に見えてくる。黒湯はこの温泉郷では最奥に位置している。開湯は鶴の湯に次いで古いと言われ、一時は鶴の湯を凌ぐ賑わいだったとかで、「鶴の湯」に対して「亀の湯」と呼ばれた時期もあったようだ。でも開業したのは大正になってからという。宿は数棟あり、湯治客のための自炊棟もある。入湯料はこの温泉郷では妙乃湯を除いてすべて500円である。
早速混浴露天風呂がある「上の湯」へ行く。白濁した温泉水と温度調節のための先達川の渓流が樋を伝って流れ込む仕掛けになっていて、一方は熱め、もう一方は温め加減になっている。木で組んだ湯船には10人は入れようか、かなり広い。お湯はやや青みを帯びた白濁した湯だが、サラッとしているのは川の水を導いているせいだろうか。もちろん内風呂もある。ほかに、打たせ湯や内湯、女性専用の露天風呂もあって、こちらは「下の湯」と言われていて、お湯はやや重いとされている。泊り客は、朝は「上の湯」、晩の寝る前には「下の湯」という入り方をするそうだ。鄙びた素朴な開放感のあるお湯に浸っていると、正に極楽である。従業員の方の応対もよく、実に清々しい。
次に行く孫六温泉への道を聞くと、一旦元の駐車場へ戻ってから行くよりは、山道を辿れば5分位で行けますと言われる。
4.孫六温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林)
温泉脇の人一人通れる位の細い径を下ると、程なく駐車場からの広い道に出た。なおも下っていくと、先達川の向こう岸に孫六温泉が見えてきた。川に架かる木橋を渡るとそこが孫六温泉である。受付に男の人が一人、ここの親父さんなのだろうか。次に行く大釜温泉への道を聞いても、茅葺きの小屋の脇に道があるとだけ、えらくつっけんどんだ。黒湯温泉が賑々しく親切だっただけに、粗野な感じがする。内風呂は勿論、露天風呂がどこにあるかも分からない。うろうろしていると、標柱に案内があった。ここには4つの源泉があるとかで、それぞれに湯小屋があり、点在している。始めに「石の湯」に入る。
小屋の中に、石切り場の石を切り出した後の穴蔵のような雰囲気の湯船、冷たい暗い感じがする。早々に出て、外の石で囲った混浴露天風呂に移る。底も石で固めてある。お湯は無色透明、無味無臭である。ほかに内風呂が3つ、露天風呂が3つあるそうだが、2つ入ってここを出ることにする。茅葺きの小屋まで行くと、道があり、ここまで軽自動車が入ってきている。下流に向かって20分ばかり歩くと建物が見えてきた。
5.大釜温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
建物は学校の校舎そのもので、入口には「乳頭温泉小学校分校」の標識、二宮金次郎の石の像もある。何でも温泉宿は火災で全焼し、その年廃校になった分校の校舎を移築して営業を再開したとか。建物の正面には大きな丸い大時計もある。時間は丁度お昼、食事をしたいと言ったが、昼食は出していないという。もう一つ下のバス停にある妙乃湯さんだったら出すかも知れませんとかで、此処はパスすることにした。聞くと強酸性の熱泉が源泉とか。外には足湯もある。この温泉の前が、終点「乳頭温泉」のバス停である。
6.妙乃湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖生保駒ケ岳2ー1)
バス道路の県道を3分ばかり歩いて橋を渡ると、左手に妙乃湯が見えてきた。見た目には旅館という雰囲気で、ここでは湯治と言う雰囲気は全く感じられない。聞くと、今時予約が難しい温泉宿の一つだという。昼食はと聞くと、出せますとのことで、上がることにする。ここの入湯料は、他より200円高い。混浴露天風呂には「金の湯」と「銀の湯」があり、金の方は鉄分を含むのか黄土色の濁った湯、一方銀の方は無色透明、どちらも遠泉水と湧き水とを混ぜて湯温の調節をしている。渓流の豪快な流れを眺めながらの入浴、なんとも気分は最高である。金と銀とに交互に入る。また建物の2階に内風呂「喫茶去」というのがあると案内があったので、何かと興味津々、行くと木で組まれた大きな湯船の底に、黒い中位の玉石が敷き詰められた風呂で、立って入ると足裏のツボが刺激される仕掛けになっていて、気持ちが良い。珍しい趣向である。
私は内風呂を終いにして、食事をする妙見の間に戻ったが、約何人かは混浴露天風呂に残っていた。するとそこへ赤ん坊を連れた外国人の夫婦が入って来られたとかで、相棒達が部屋へ戻ってくるのは随分と遅かった。私達が食事をしていると、件の外国人夫婦も上がってこられたが、中々綺麗な方だった。帰りのバスはこの宿の玄関の真ん前に止まるという。破格の待遇である。今の繁盛になったのは、今の女将が建築会社で仕事をしていて、建物も調度もセンスの高いものにしたからとかで、特に女性に人気が高いということだった。
この後、県道の最奥にある蟹場温泉へ行く予定だったが、新玉川温泉までバスで帰るとすると、15時のバスを逃すと帰られなくなるので、割愛することにし、またの機会とする。
7.蟹場温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
行けなかったが、簡単な紹介をしたい。開湯も開業も江戸末期という古い温泉場だが、現在は建物は近代的な旅館に建て替えられている。この温泉の先代は村長をしていて、氏の尽力で乳頭温泉郷までの山道が県道に整備されたという。蟹場温泉は、その県道の最奥に建っている。この温泉の自慢は露天風呂の「唐子の湯」で、本館から雑木林の中の一本道を歩いて行くと、渓流沿いに広々とした露天風呂が現れるという。夜には湯屋には灯りが入り、幻想的な雰囲気が現出され、写真にはこの灯りが入った情景の写真が多い。
8.休暇村・田沢湖高原 (秋田県仙北市田沢湖生保駒ケ岳2-1)
乳頭スキー場の先、乳頭温泉郷の入り口にあり、近代的な設備が整っている。
以上8つが乳頭温泉郷8湯で、外来入浴できる7湯というのは、鶴の湯別館を除く温泉を指し、乳頭温泉巡りという場合にはこの7湯巡りを指す。因みに7湯の代表的な泉質と適応症を挙げる。
1.鶴の湯温泉 [泉質]含硫黄・ナトリウム・カルシウム・塩化物・炭酸水素泉。ほか3種。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症、リウマチ、皮膚病、糖尿病ほか。
3.黒湯温泉 [泉質]単純硫化水素泉。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症、抹消循環障害、糖尿病ほか。
4.孫六温泉 [泉質]ラジウム鉱泉。ほか3種。 [適応症]胃腸病、皮膚病(蕁麻疹)、創傷ほか。
5.大釜温泉 [泉質]酸性含砒素ナトリウム塩化物硫酸塩泉。 [適応症]真菌症(水虫)、慢性膿皮症、リウマチ性疾患ほか。
6.妙乃湯温泉 [泉質]カルシウム・マグネシウム硫酸塩・単純泉。 [適応症]動脈硬化症、皮膚病、消化器病など。
7.蟹場温泉 [泉質]重曹炭酸水素泉。 [適応症]糖尿病、皮膚病ほか。
8.休暇村・乳頭温泉郷 [泉質]単純硫黄泉・ナトリウム炭酸水素泉。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症など。
田沢湖からは乳頭温泉行きのバスは出ているが、行き先の「乳頭温泉」は「乳頭温泉郷」といった方が正確かも知れない。乳頭温泉というと鶴の湯温泉と思いがちだが、鶴の湯へは路線バスなら「鶴の湯温泉旧道口」で、黒湯温泉なら「国民休暇村」で下車して、どちらも30分位歩かねばならない。路線バスで直接に行けるのは、終点の「乳頭温泉」下車の大釜温泉と、一つ手前の「妙乃湯温泉」の妙乃湯温泉のみである。
タクシーの運転手は実に親切で、いろんな話をしてくれる。それで温泉巡りの話をすると、黒湯温泉から反時計回りに、孫六温泉、大釜温泉、蟹場温泉、妙乃湯温泉と巡って、妙乃湯温泉からバスで田沢湖へ戻った方がよいと教えてくれた。タクシーは秋田駒ケ岳(1637m)の山裾を巡り、さらに山奥へ、前方に乳頭山(1477m)が見えてくる。一見して女性の乳房そっくりの山体、しかも頂上が乳首のように尖っている。別名は烏帽子岳である。乳頭スキー場を過ぎると休暇村田沢湖高原に着く。ここにも温泉が出ている。ここから県道のバス路線を外れて林道に入る。車の交差をする待避所が所々にあって、番号が付されている。湖畔から30分ほどで駐車場に着いた。車なら30台は止められる位の広さ、黒湯温泉や孫六温泉へ車で来る人はここで車を止めることになる。乗合タクシーの料金は7千円、一人千円とは安い。
3.黒湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖生保内黒湯2-1 )
駐車場から急な山道を下ると、すぐに茅葺きの屋根が下に見えてくる。黒湯はこの温泉郷では最奥に位置している。開湯は鶴の湯に次いで古いと言われ、一時は鶴の湯を凌ぐ賑わいだったとかで、「鶴の湯」に対して「亀の湯」と呼ばれた時期もあったようだ。でも開業したのは大正になってからという。宿は数棟あり、湯治客のための自炊棟もある。入湯料はこの温泉郷では妙乃湯を除いてすべて500円である。
早速混浴露天風呂がある「上の湯」へ行く。白濁した温泉水と温度調節のための先達川の渓流が樋を伝って流れ込む仕掛けになっていて、一方は熱め、もう一方は温め加減になっている。木で組んだ湯船には10人は入れようか、かなり広い。お湯はやや青みを帯びた白濁した湯だが、サラッとしているのは川の水を導いているせいだろうか。もちろん内風呂もある。ほかに、打たせ湯や内湯、女性専用の露天風呂もあって、こちらは「下の湯」と言われていて、お湯はやや重いとされている。泊り客は、朝は「上の湯」、晩の寝る前には「下の湯」という入り方をするそうだ。鄙びた素朴な開放感のあるお湯に浸っていると、正に極楽である。従業員の方の応対もよく、実に清々しい。
次に行く孫六温泉への道を聞くと、一旦元の駐車場へ戻ってから行くよりは、山道を辿れば5分位で行けますと言われる。
4.孫六温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林)
温泉脇の人一人通れる位の細い径を下ると、程なく駐車場からの広い道に出た。なおも下っていくと、先達川の向こう岸に孫六温泉が見えてきた。川に架かる木橋を渡るとそこが孫六温泉である。受付に男の人が一人、ここの親父さんなのだろうか。次に行く大釜温泉への道を聞いても、茅葺きの小屋の脇に道があるとだけ、えらくつっけんどんだ。黒湯温泉が賑々しく親切だっただけに、粗野な感じがする。内風呂は勿論、露天風呂がどこにあるかも分からない。うろうろしていると、標柱に案内があった。ここには4つの源泉があるとかで、それぞれに湯小屋があり、点在している。始めに「石の湯」に入る。
小屋の中に、石切り場の石を切り出した後の穴蔵のような雰囲気の湯船、冷たい暗い感じがする。早々に出て、外の石で囲った混浴露天風呂に移る。底も石で固めてある。お湯は無色透明、無味無臭である。ほかに内風呂が3つ、露天風呂が3つあるそうだが、2つ入ってここを出ることにする。茅葺きの小屋まで行くと、道があり、ここまで軽自動車が入ってきている。下流に向かって20分ばかり歩くと建物が見えてきた。
5.大釜温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
建物は学校の校舎そのもので、入口には「乳頭温泉小学校分校」の標識、二宮金次郎の石の像もある。何でも温泉宿は火災で全焼し、その年廃校になった分校の校舎を移築して営業を再開したとか。建物の正面には大きな丸い大時計もある。時間は丁度お昼、食事をしたいと言ったが、昼食は出していないという。もう一つ下のバス停にある妙乃湯さんだったら出すかも知れませんとかで、此処はパスすることにした。聞くと強酸性の熱泉が源泉とか。外には足湯もある。この温泉の前が、終点「乳頭温泉」のバス停である。
6.妙乃湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖生保駒ケ岳2ー1)
バス道路の県道を3分ばかり歩いて橋を渡ると、左手に妙乃湯が見えてきた。見た目には旅館という雰囲気で、ここでは湯治と言う雰囲気は全く感じられない。聞くと、今時予約が難しい温泉宿の一つだという。昼食はと聞くと、出せますとのことで、上がることにする。ここの入湯料は、他より200円高い。混浴露天風呂には「金の湯」と「銀の湯」があり、金の方は鉄分を含むのか黄土色の濁った湯、一方銀の方は無色透明、どちらも遠泉水と湧き水とを混ぜて湯温の調節をしている。渓流の豪快な流れを眺めながらの入浴、なんとも気分は最高である。金と銀とに交互に入る。また建物の2階に内風呂「喫茶去」というのがあると案内があったので、何かと興味津々、行くと木で組まれた大きな湯船の底に、黒い中位の玉石が敷き詰められた風呂で、立って入ると足裏のツボが刺激される仕掛けになっていて、気持ちが良い。珍しい趣向である。
私は内風呂を終いにして、食事をする妙見の間に戻ったが、約何人かは混浴露天風呂に残っていた。するとそこへ赤ん坊を連れた外国人の夫婦が入って来られたとかで、相棒達が部屋へ戻ってくるのは随分と遅かった。私達が食事をしていると、件の外国人夫婦も上がってこられたが、中々綺麗な方だった。帰りのバスはこの宿の玄関の真ん前に止まるという。破格の待遇である。今の繁盛になったのは、今の女将が建築会社で仕事をしていて、建物も調度もセンスの高いものにしたからとかで、特に女性に人気が高いということだった。
この後、県道の最奥にある蟹場温泉へ行く予定だったが、新玉川温泉までバスで帰るとすると、15時のバスを逃すと帰られなくなるので、割愛することにし、またの機会とする。
7.蟹場温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
行けなかったが、簡単な紹介をしたい。開湯も開業も江戸末期という古い温泉場だが、現在は建物は近代的な旅館に建て替えられている。この温泉の先代は村長をしていて、氏の尽力で乳頭温泉郷までの山道が県道に整備されたという。蟹場温泉は、その県道の最奥に建っている。この温泉の自慢は露天風呂の「唐子の湯」で、本館から雑木林の中の一本道を歩いて行くと、渓流沿いに広々とした露天風呂が現れるという。夜には湯屋には灯りが入り、幻想的な雰囲気が現出され、写真にはこの灯りが入った情景の写真が多い。
8.休暇村・田沢湖高原 (秋田県仙北市田沢湖生保駒ケ岳2-1)
乳頭スキー場の先、乳頭温泉郷の入り口にあり、近代的な設備が整っている。
以上8つが乳頭温泉郷8湯で、外来入浴できる7湯というのは、鶴の湯別館を除く温泉を指し、乳頭温泉巡りという場合にはこの7湯巡りを指す。因みに7湯の代表的な泉質と適応症を挙げる。
1.鶴の湯温泉 [泉質]含硫黄・ナトリウム・カルシウム・塩化物・炭酸水素泉。ほか3種。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症、リウマチ、皮膚病、糖尿病ほか。
3.黒湯温泉 [泉質]単純硫化水素泉。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症、抹消循環障害、糖尿病ほか。
4.孫六温泉 [泉質]ラジウム鉱泉。ほか3種。 [適応症]胃腸病、皮膚病(蕁麻疹)、創傷ほか。
5.大釜温泉 [泉質]酸性含砒素ナトリウム塩化物硫酸塩泉。 [適応症]真菌症(水虫)、慢性膿皮症、リウマチ性疾患ほか。
6.妙乃湯温泉 [泉質]カルシウム・マグネシウム硫酸塩・単純泉。 [適応症]動脈硬化症、皮膚病、消化器病など。
7.蟹場温泉 [泉質]重曹炭酸水素泉。 [適応症]糖尿病、皮膚病ほか。
8.休暇村・乳頭温泉郷 [泉質]単純硫黄泉・ナトリウム炭酸水素泉。 [適応症]高血圧症、動脈硬化症など。
2009年8月18日火曜日
東北の秘湯:乳頭温泉郷(1)
私が住んでいる石川県石川郡野々市町本町二丁目西地区(旧町名は新町)では、還暦を過ぎた男衆を中心に壮年部を結成し、毎年3月初めには温泉の1泊旅行、また湯治と称して、有志が4泊5日で秋田の玉川温泉もしくは新玉川温泉へ毎年出かけている。私も都合がつけば出来るだけ参加することにしている。玉川温泉というのは、西洋医学治療で見放された病人でも、何故か此処で湯治していて本当に治ったという例もあって、人気の湯治場である。この温泉の特徴は、一つは強酸性(pH1.2)の熱泉ともう一つは北投石に代表される低レベル放射線で、これが様々に相互影響しあって良い効果をもたらすようである。この効果を科学的に解明するために、「玉川温泉研究会」なる組織が昭和18年(1943)に東北大学をコアにして設立され、今日に至っている。岩盤浴で放射能を浴び、強酸性のお湯に浸かって湯治をするのだが、どちらも長く浴びたり浸かったりすると、かえって副作用が出て、湯中りがひどい。したがって、その間は休まねばならないが、そこでこの昼間の空き時間を利用して、近郷の温泉巡りをすることにしている。先ずは2年にわたって巡った乳頭温泉郷について書いてみたい。
1.鶴の湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
傷ついた鶴が湯浴みをしているのを勘助というマタギが見付けたことから、「鶴の湯」と名付けられたといわれている。開湯は江戸時代初期といわれ、元禄時代には湯守がいて、農家の人達の湯治場として賑わったとある。ここへは秋田新幹線の田沢湖駅へ向かうバスで田沢湖畔もしくは田沢湖駅で降り、タクシーに乗り継いで行くことになる。バスで行く場合は、乳頭温泉行きのバスに乗車し、鶴の湯温泉旧道口で下車し、山道を30分ばかり歩かねばならない。バスの本数は少なく、バスも数社乗り入れのため、乗り継ぎはスムースではない。
鶴の湯温泉と他の乳頭温泉郷の温泉とは若干離れていて、鶴の湯以外の温泉相互間の距離は徒歩で5~20分程度だが、鶴の湯へは約1時間はかかる。したがって、鶴の湯も含めて全湯を一巡するには、日帰りは到底無理で、二つは別に企画するか、もしくはどこかに1泊する必要がある。林道は鶴の湯までついているが、自家用車で入ることは出来ないようで、その場合は別館の「山の宿」まで車で入り、奥の鶴の湯温泉へはブナ林の遊歩道を30分位さらに歩く必要がある。
鶴の湯温泉は、この温泉郷の中では最も人気があるお湯で、現在では春夏秋冬利用できる。以前は冬は閉鎖されていたが、今は冬でも営業している。ただ昨年には裏山で雪崩が発生して、露天風呂で入浴していた女性が亡くなったことがあった。車を降りて砂利道を進むと、江戸の町の木戸を思わせる門があって、本陣「鶴の湯」と大きく墨書してある。江戸時代を思わせる本陣と呼ばれる宿舎と湯治棟の間を通って行くと、奥に男女別の木造の湯小屋が3棟あり、なおも進むと、その先に白濁した少し青みを帯びた乳白色の大きな混浴露天風呂とその奥に女性専用の露天風呂が見えてくる。湯小屋や露天風呂は一見無造作な配置、しかも湯小屋の屋根はすべて杉皮で葺かれていて、実に風情がある。
私達が訪れたのは初夏の一日、駐車場にはマイクロバスが1台いたきりで、混んではいなかった。入湯料を払って混浴の露天風呂を目指す。乳白色のお湯が庭一杯に広がっていて、溢れている。周りは深い森、今は一面緑だが、秋の紅葉も、冬の雪景色も、また夜の満天の星も素晴らしいだろう。私達が入っていたら、奥の女性専用の露天風呂から、妙齢の女性が「お邪魔しても宜しいですか」と言って入って来られた。簾で囲った風呂よりこちらの方が開放的で素晴らしいと仰る。旦那さんも交えて暫し談笑する。ツアーでの参加で、泊まりは此処ではないとか。お湯は他にも内湯の黒湯、白湯、中の湯があるが、露天風呂とは離れていて、泊り客ならば浴衣姿で回れるが、日帰り客だと回り辛い。件のご婦人では、この湯が最高、四方板で囲われた湯小屋は、湯治の方ならともかく、日帰り観光でおいでたのなら、ここで十分ですとのご託宣、ここで終いにする。此処は人は多いというものの、正に秘湯である。聞けば鶴の湯は「日本秘湯を守る会」の会員であるとか。因みに石川県にも4湯あるという。
2.鶴の湯別館 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢湯の岱1-1)
鶴の湯の下流2kmのところに、鶴の湯本館のお湯を引いて営業する鶴の湯別館「山の宿」がある。でもこの湯は泊り客しか利用できず、乳頭温泉郷で唯一日帰り入浴ができない宿となっている。まだ開館して10年たったばかりという。
1.鶴の湯温泉 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢国有林50)
傷ついた鶴が湯浴みをしているのを勘助というマタギが見付けたことから、「鶴の湯」と名付けられたといわれている。開湯は江戸時代初期といわれ、元禄時代には湯守がいて、農家の人達の湯治場として賑わったとある。ここへは秋田新幹線の田沢湖駅へ向かうバスで田沢湖畔もしくは田沢湖駅で降り、タクシーに乗り継いで行くことになる。バスで行く場合は、乳頭温泉行きのバスに乗車し、鶴の湯温泉旧道口で下車し、山道を30分ばかり歩かねばならない。バスの本数は少なく、バスも数社乗り入れのため、乗り継ぎはスムースではない。
鶴の湯温泉と他の乳頭温泉郷の温泉とは若干離れていて、鶴の湯以外の温泉相互間の距離は徒歩で5~20分程度だが、鶴の湯へは約1時間はかかる。したがって、鶴の湯も含めて全湯を一巡するには、日帰りは到底無理で、二つは別に企画するか、もしくはどこかに1泊する必要がある。林道は鶴の湯までついているが、自家用車で入ることは出来ないようで、その場合は別館の「山の宿」まで車で入り、奥の鶴の湯温泉へはブナ林の遊歩道を30分位さらに歩く必要がある。
鶴の湯温泉は、この温泉郷の中では最も人気があるお湯で、現在では春夏秋冬利用できる。以前は冬は閉鎖されていたが、今は冬でも営業している。ただ昨年には裏山で雪崩が発生して、露天風呂で入浴していた女性が亡くなったことがあった。車を降りて砂利道を進むと、江戸の町の木戸を思わせる門があって、本陣「鶴の湯」と大きく墨書してある。江戸時代を思わせる本陣と呼ばれる宿舎と湯治棟の間を通って行くと、奥に男女別の木造の湯小屋が3棟あり、なおも進むと、その先に白濁した少し青みを帯びた乳白色の大きな混浴露天風呂とその奥に女性専用の露天風呂が見えてくる。湯小屋や露天風呂は一見無造作な配置、しかも湯小屋の屋根はすべて杉皮で葺かれていて、実に風情がある。
私達が訪れたのは初夏の一日、駐車場にはマイクロバスが1台いたきりで、混んではいなかった。入湯料を払って混浴の露天風呂を目指す。乳白色のお湯が庭一杯に広がっていて、溢れている。周りは深い森、今は一面緑だが、秋の紅葉も、冬の雪景色も、また夜の満天の星も素晴らしいだろう。私達が入っていたら、奥の女性専用の露天風呂から、妙齢の女性が「お邪魔しても宜しいですか」と言って入って来られた。簾で囲った風呂よりこちらの方が開放的で素晴らしいと仰る。旦那さんも交えて暫し談笑する。ツアーでの参加で、泊まりは此処ではないとか。お湯は他にも内湯の黒湯、白湯、中の湯があるが、露天風呂とは離れていて、泊り客ならば浴衣姿で回れるが、日帰り客だと回り辛い。件のご婦人では、この湯が最高、四方板で囲われた湯小屋は、湯治の方ならともかく、日帰り観光でおいでたのなら、ここで十分ですとのご託宣、ここで終いにする。此処は人は多いというものの、正に秘湯である。聞けば鶴の湯は「日本秘湯を守る会」の会員であるとか。因みに石川県にも4湯あるという。
2.鶴の湯別館 (秋田県仙北市田沢湖田沢先達沢湯の岱1-1)
鶴の湯の下流2kmのところに、鶴の湯本館のお湯を引いて営業する鶴の湯別館「山の宿」がある。でもこの湯は泊り客しか利用できず、乳頭温泉郷で唯一日帰り入浴ができない宿となっている。まだ開館して10年たったばかりという。
2009年8月13日木曜日
小林よしのり編「日本を貶めた10人の売国政治家」を読んで
この本の発刊は7月10日で、25日に第三刷が発行されている。前田書店のブログ「めくれない日めくり日記」に、主の秀典氏が8月2日と3日にこの本の紹介をしている。興味をもって読んだが、偶然か当の秀典氏からの勧めでこの本を読むことになった。表題の本は幻冬舎新書である。「売国」とは大げさなとは思ったが、読むにつれて正にそれに該当する御仁がいて、しかも今ものうのうと、秀典氏の言を借りれば、売国奴呼ばわりされた位では蛙の面にナントカで、屁とも思わず平然としているのを見ていると、この程度ではまだまだ手ぬるいのではと思ったりもする。この本では、20人の学者・言論人に登場してもらって、断罪すべき政治家5人を理由を付して挙げてもらい、1位に5点、2位に4点と順に点を振って集計している。持ち点は一人15点になるから、総点数は300点になる。さて、「売国」とは何か、本では広辞苑ほかを引用しているが、自国に不利益、敵国に利益は分かるが、その中に「私利のため」とか「私利をはかる」とあるが、この部分はどうもしっくりしない。
でははじめに、その集計結果(順位・点数)と『売国政治家名』、その〔検証者〕と標榜するタイトル、それと文章の小節の頭の見出しを書き出して紹介する。これを見れば罪状の凡その見当はつくというものだ。その後で私の選んだ不届きな輩を書き出してみようと思う。
第1位:単なる談話で日本を「性犯罪国家」に貶めた『河野洋平』52点.〔八木秀次〕:(1)証拠もないのに慰安婦問題を内外に謝罪した河野談話.(2)「河野談話」に先立つ「加藤談話」.(3)天皇訪中という宮澤内閣の大罪.(4)そもそもフィクションから生まれた慰安婦強制連行説.(5)一貫して軸足が日本にない政治家.(6)巨悪にすらなれない最悪の売国奴。
第2位:万死に値する「国民見殺し」「自国冒涜」の罪『村山富市』45点.〔高森明勅〕:(1)大震災でも緊急災害対策本部を設置せず.(2)政治信条のために国民を見殺し.(3)「国民見殺し」の背景にあった歴史認識.(4)理性があれば出せない「村山談話」.(5)万死に値する売国奴政治家。
第3位:「改革」で日本の富と生命を米国に差し出した『小泉純一郎』36点.〔関岡英之〕:(1)政治家小泉純一郎の本質.(2)大蔵族としての小泉純一郎.(3)保険族としての小泉純一郎.(4)どうしても総括されなければならない前回選挙の本質.(5)そして日本の医療が崩壊した.(6)小泉構造改革の本質は「朝日新聞」が喝采する日本崩壊。
第4位:「ねじれ現象」を生んだ無節操な国賊『小沢一郎』29点.〔西尾幹二〕:(1)何も変わっていない民主党,三つのグループの正体.(2)小沢が権力維持のために手離さない人事とカネ.(3)ねじれ現象をつくった張本人.(4)もはや国連中心主義にリアリティはない.(5)外国人の地方参政権を認める愚。
第5位:靖国問題をこじらせた元凶『中曽根康弘』22点.〔大原康男〕:(1)「公式参拝」を復活させるも方式に重大な問題.(2)中国に抗議され安易に中止する.(3)純然たる国内問題を外交の犠牲に供した不見識さ.(4)A級戦犯の合祀取下げを密かに画策.(5)国立戦没者追悼施設のルーツも中曽根.(6)戦犯の処遇は講和条約とは何の関係もない.(7)国家の威信を損ね,国内にも不思議な亀裂。
第6位:自虐外交の嚆矢となった「不戦決議」『野中広務』16点.〔潮 匡人〕:(1)根拠をベールに隠して攻撃する.(2)中国・朝鮮への歪んだ歴史認識.(3)最悪の「村山談話」を生んだ野中の「不戦決議」.(4)引退後もメディア露出を続けるダーティーな輩。
第7位:日本国を構造破壊し共和制に導く経済マフィア『竹中平蔵』12点.〔木村三浩〕:(1)カジノ資本主義の推進者.(2)国富,国益,社会を「献米」する代理人.(3)共和主義者として構造破壊に奔走する仕掛け人。
第8位:無為,無内容,無感情『福田康男』11点.〔潮 匡人〕:(1)総理になりたくなかった男の空虚な中身.(2)真面目ですらなかった黙殺と放棄の男.(3)軽薄な偽善と売国の所業の数々。
第9位:保守を絶滅に追い込んだ背後霊『森 喜朗』10点.〔勝谷誠彦〕:(1)国柄を貶めた売国奴ウイルス.(2)「横入り」の男が上りつめた首相の座.(3)密室での談合で決定した後継首相.(4)事欠かない「サメ並の頭脳」の証拠。
第10位:戦後レジームの滑稽なゾンビ『加藤紘一』10点.〔西村幸祐〕:(1)はずかしき「自民党リベラル」.(2)戦後レジームのゾンビ.(3)二つの大罪ーご訪中と加藤談話.(3)北朝鮮を利する発言を繰り返す。
なお、次点は『土井たか子』の9点だった。そのほかに19人(5点~1点)がいる。
次に、点数でなく、20人が選んだ人を多い順に羅列してみた。すると、1位は15人が選んだ『河野洋平』、2位は12人が選んだ『村山富市』、3位は9人の『小沢一郎』、4位は8人の『小泉純一郎』、5位は6人の『中曽根康弘』『加藤紘一』『野中広務』、8位は5人の『福田康夫』と『土井たか子』、10位は3人が選んだ『森 喜朗』と『竹中平蔵』だった。そのほか、2票が3人、1票が16人いた。
さて、私ならどうしようか。先ず挙げたいのは、小泉ー竹中ラインによる小泉改革路線の推進に功のあった『小泉純一郎』(第1位)と『竹中平蔵』(第5位)である。先ず「郵政民営化」であるが、これは小泉がまだ一匹狼の頃からの20年来の念願だった。大蔵族でもあった小泉は、日本の金融界と大蔵省の悲願でもあった郵政民営化を遂に実現した。郵便貯金と簡易保険は目の上のタンコブだったわけだ。しかし、一見国内問題にみえる民営化の根底には、米国保険業界の強力な要望と後押しがあったことは表に出てはいない。郵政民営化選挙では、民営化だけが先走りして、民営化イエスかノーかで、国民の代表として暫し塾考をと待ったをかけた良心的な議員に「抵抗勢力」「守旧派」「族議員」のレッテルを貼り、選挙では落下傘で刺客を送り、多くの有能な人材が議席を奪われた。マスメディアは小泉劇場と囃し立て、ニセ改革の旗手小泉へ忠誠をつくす小泉チルドレンに代表される操り馬鹿人形ばかりが当選した。国民は「改革」という迷い言に乗せられ、完全に騙されたわけである。衆議院で3分の2を確保し、小泉の人気最後の1年は、参議院でも過半数を占めている状態が続き、何でも好き放題にできた。こうして郵政民営化は小泉ー竹中の二人三脚で押し通された。刺客に敗れた城内実氏は郵政民営化をこう説明している。「魚を三枚に下ろして、骨の部分(郵便事業)は捨ててしまい、美味しい切り身の部分、つまり郵貯と簡保を米国金融業界に『どうぞ』と差し出す。これが小泉ー竹中のやり方だ。」と。この二人は我が国を巧妙に支配する二つの見えざる権力、すなわち米国と旧大蔵省の『忠実なポチ』にしか過ぎないと。
もう一つの大罪は後期高齢者医療制度の導入である。衆議院でも参議院でも過半数を占めた時期に、米国保険業界の強い外圧で、米国追随の医療制度改革を行った。高齢者の財政負担を重くし、国の負担を軽くし、病気は自己負担で解決しなさいと迫り、不安なら米国資本の民間保険会社の医療保険に入りなさい、出来ない人は早く死んでしまいなさいという内容だ。今の野党三党は郵政民営化の見直しと後期高齢者医療制度の廃止を訴えて選挙を戦っている。正しい国民の審判が下ることを臨む。
第2位には「村山富市」を挙げよう。社会党委員長で、本来なら万年野党で到底与党にはなれないのに、自民党のお御輿に乗せられ、総理大臣に祭り上げられてしまった。当然のことながら、党是の自衛隊違憲、日米安保反対は後退してしまい、この無節制は社会党の凋落につながることになる。そして国賊として逃れられない罪の一つは、あの阪神・淡路大震災での対応の馬鹿さ加減である。首相というのは、国民の生命・財産を守るべき最高責任者なのに、おかしな潜在意識から、自衛隊の出動要請をせず、また米軍の援助も断わり、あたら時間を浪費し、結果として多くの人命・財産が失われ、多くの国民を見殺しにした。災害対策基本法では甚大な被害が見込まれるときは、災害緊急事態を布告し、総力を挙げてこれに対応することになっていて、それには警察・自衛隊の出動も含まれる。でも意識下にはこれが戦前の戒厳令的なものと認識していたと。第一義的には当時の貝原兵庫県知事の信じがたい無為無策であるが、村山首相が官邸に入ったのは地震発生後1時間半後、自衛隊出動要請は4時間後、それも数の制限をしたという。5時間半後には非常災害対策本部ができたものの、これは国務大臣がトップで、首相がトップの緊急災害対策本部とは権限もスケールも違う。初の緊急閣議が開かれたのは28時間後、緊急災害対策本部はとうとう設置されなかった。私もテレビの画面を見ていたが、はじめは神戸市の2箇所でのみ火災が起きていただけだったのに、みるみるうちに火は広がっていった。病気でも早期発見、火事では初期消火が肝心なのに、なんとしたことか。それで3日後には緊急対策本部が設置されたが、「災害」が抜けた本部は何をしたのだろうか。この大震災の死者は6千5百人、負傷者は4万4千人、被害総額は9兆6千億円、発生後1時間以内に対応しておれば、この数字はずっと小さなものになっていたろう。村山首相の釈明では、「ナニブン初メテノ経験デスシ、早朝ノ出来事デシタカラ」と信じられない能天気、恐るべき危機管理意識欠如である。この大震災の犠牲の大部分は天災ではなく、村山首相本人の確信犯的な救助放棄による人災だったと言える。
今一つは売国奴的な「村山談話」である。閣議決定されたというこの総理談話は、後々の今日でも生きていて、誤字があるのも問題だが、それより日本にとっては大きな足かせ、中国、韓国、北朝鮮にとっては格好の大歓迎談話である。正に売国奴面目躍如というべきか。妙な文章の一部を引用する。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を進んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべきもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明します」。
第3位は「河野洋平」、第4位は加藤紘一」である。河野は衆議院議長を憲政史上最長の在任期間務めあげた。売国罪状の最たるものは、、宮澤喜一改造内閣での官房長官として発表した「慰安婦関係調査結果に関する河野官房長官談話」で、証拠もないのに日本が性犯罪国家であることを印象付けた、いわゆる「河野談話」である。この伏線となったのが、前任の官房長官である加藤紘一の「加藤談話」である。ここで加藤は、「従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できず、衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」とした。そして韓国の小説「修羅道」の中で、当時の『赤紙』と『女子挺身隊』、それに日本兵の『慰安婦』をゴッチャにして、あたかも慰安婦の強制連行があったかのごときストーリーを真に受け、「河野談話」がでっち上げされた。少なくとも政府が調べた資料の中には強制連行を示す記録は全くなく、歴史的事実はないとしているのにである。談話では、「官憲等が慰安婦の強制連行に直接加担したことを歴史の事実として認め、全面謝罪したばかりか、歴史教育を通じて永久に国民の記憶にとどめる」とした。この両談話は今日もなお外務省のHPに掲げられている。
河野はこんな思想の持ち主であるから、靖国神社への参拝には一貫して反対している。それどころか、歴代の総理大臣には電話であるいは公邸に呼んで、参拝自重をお願いしているというが、これは越権行為だろう。そして毎年の全国戦没者追悼式では、「河野談話」と同じ感覚で、日本軍の加害について述べ、謝罪とお見舞いを言っているが、戦没者の霊に向かって言うのは礼を失しているのではないか。「河野洋平」は「江(沢民)の傭兵」とも言われる所以である。
私見では、この本での10人のうち私が挙げた5人は正に売国奴と言える。そのほかには「中曽根康弘」と「野中広務」も臭い。でも、「小沢一郎」、「森 喜朗」、「福田康夫」は国賊とは言えても売国奴ではないと思う。
でははじめに、その集計結果(順位・点数)と『売国政治家名』、その〔検証者〕と標榜するタイトル、それと文章の小節の頭の見出しを書き出して紹介する。これを見れば罪状の凡その見当はつくというものだ。その後で私の選んだ不届きな輩を書き出してみようと思う。
第1位:単なる談話で日本を「性犯罪国家」に貶めた『河野洋平』52点.〔八木秀次〕:(1)証拠もないのに慰安婦問題を内外に謝罪した河野談話.(2)「河野談話」に先立つ「加藤談話」.(3)天皇訪中という宮澤内閣の大罪.(4)そもそもフィクションから生まれた慰安婦強制連行説.(5)一貫して軸足が日本にない政治家.(6)巨悪にすらなれない最悪の売国奴。
第2位:万死に値する「国民見殺し」「自国冒涜」の罪『村山富市』45点.〔高森明勅〕:(1)大震災でも緊急災害対策本部を設置せず.(2)政治信条のために国民を見殺し.(3)「国民見殺し」の背景にあった歴史認識.(4)理性があれば出せない「村山談話」.(5)万死に値する売国奴政治家。
第3位:「改革」で日本の富と生命を米国に差し出した『小泉純一郎』36点.〔関岡英之〕:(1)政治家小泉純一郎の本質.(2)大蔵族としての小泉純一郎.(3)保険族としての小泉純一郎.(4)どうしても総括されなければならない前回選挙の本質.(5)そして日本の医療が崩壊した.(6)小泉構造改革の本質は「朝日新聞」が喝采する日本崩壊。
第4位:「ねじれ現象」を生んだ無節操な国賊『小沢一郎』29点.〔西尾幹二〕:(1)何も変わっていない民主党,三つのグループの正体.(2)小沢が権力維持のために手離さない人事とカネ.(3)ねじれ現象をつくった張本人.(4)もはや国連中心主義にリアリティはない.(5)外国人の地方参政権を認める愚。
第5位:靖国問題をこじらせた元凶『中曽根康弘』22点.〔大原康男〕:(1)「公式参拝」を復活させるも方式に重大な問題.(2)中国に抗議され安易に中止する.(3)純然たる国内問題を外交の犠牲に供した不見識さ.(4)A級戦犯の合祀取下げを密かに画策.(5)国立戦没者追悼施設のルーツも中曽根.(6)戦犯の処遇は講和条約とは何の関係もない.(7)国家の威信を損ね,国内にも不思議な亀裂。
第6位:自虐外交の嚆矢となった「不戦決議」『野中広務』16点.〔潮 匡人〕:(1)根拠をベールに隠して攻撃する.(2)中国・朝鮮への歪んだ歴史認識.(3)最悪の「村山談話」を生んだ野中の「不戦決議」.(4)引退後もメディア露出を続けるダーティーな輩。
第7位:日本国を構造破壊し共和制に導く経済マフィア『竹中平蔵』12点.〔木村三浩〕:(1)カジノ資本主義の推進者.(2)国富,国益,社会を「献米」する代理人.(3)共和主義者として構造破壊に奔走する仕掛け人。
第8位:無為,無内容,無感情『福田康男』11点.〔潮 匡人〕:(1)総理になりたくなかった男の空虚な中身.(2)真面目ですらなかった黙殺と放棄の男.(3)軽薄な偽善と売国の所業の数々。
第9位:保守を絶滅に追い込んだ背後霊『森 喜朗』10点.〔勝谷誠彦〕:(1)国柄を貶めた売国奴ウイルス.(2)「横入り」の男が上りつめた首相の座.(3)密室での談合で決定した後継首相.(4)事欠かない「サメ並の頭脳」の証拠。
第10位:戦後レジームの滑稽なゾンビ『加藤紘一』10点.〔西村幸祐〕:(1)はずかしき「自民党リベラル」.(2)戦後レジームのゾンビ.(3)二つの大罪ーご訪中と加藤談話.(3)北朝鮮を利する発言を繰り返す。
なお、次点は『土井たか子』の9点だった。そのほかに19人(5点~1点)がいる。
次に、点数でなく、20人が選んだ人を多い順に羅列してみた。すると、1位は15人が選んだ『河野洋平』、2位は12人が選んだ『村山富市』、3位は9人の『小沢一郎』、4位は8人の『小泉純一郎』、5位は6人の『中曽根康弘』『加藤紘一』『野中広務』、8位は5人の『福田康夫』と『土井たか子』、10位は3人が選んだ『森 喜朗』と『竹中平蔵』だった。そのほか、2票が3人、1票が16人いた。
さて、私ならどうしようか。先ず挙げたいのは、小泉ー竹中ラインによる小泉改革路線の推進に功のあった『小泉純一郎』(第1位)と『竹中平蔵』(第5位)である。先ず「郵政民営化」であるが、これは小泉がまだ一匹狼の頃からの20年来の念願だった。大蔵族でもあった小泉は、日本の金融界と大蔵省の悲願でもあった郵政民営化を遂に実現した。郵便貯金と簡易保険は目の上のタンコブだったわけだ。しかし、一見国内問題にみえる民営化の根底には、米国保険業界の強力な要望と後押しがあったことは表に出てはいない。郵政民営化選挙では、民営化だけが先走りして、民営化イエスかノーかで、国民の代表として暫し塾考をと待ったをかけた良心的な議員に「抵抗勢力」「守旧派」「族議員」のレッテルを貼り、選挙では落下傘で刺客を送り、多くの有能な人材が議席を奪われた。マスメディアは小泉劇場と囃し立て、ニセ改革の旗手小泉へ忠誠をつくす小泉チルドレンに代表される操り馬鹿人形ばかりが当選した。国民は「改革」という迷い言に乗せられ、完全に騙されたわけである。衆議院で3分の2を確保し、小泉の人気最後の1年は、参議院でも過半数を占めている状態が続き、何でも好き放題にできた。こうして郵政民営化は小泉ー竹中の二人三脚で押し通された。刺客に敗れた城内実氏は郵政民営化をこう説明している。「魚を三枚に下ろして、骨の部分(郵便事業)は捨ててしまい、美味しい切り身の部分、つまり郵貯と簡保を米国金融業界に『どうぞ』と差し出す。これが小泉ー竹中のやり方だ。」と。この二人は我が国を巧妙に支配する二つの見えざる権力、すなわち米国と旧大蔵省の『忠実なポチ』にしか過ぎないと。
もう一つの大罪は後期高齢者医療制度の導入である。衆議院でも参議院でも過半数を占めた時期に、米国保険業界の強い外圧で、米国追随の医療制度改革を行った。高齢者の財政負担を重くし、国の負担を軽くし、病気は自己負担で解決しなさいと迫り、不安なら米国資本の民間保険会社の医療保険に入りなさい、出来ない人は早く死んでしまいなさいという内容だ。今の野党三党は郵政民営化の見直しと後期高齢者医療制度の廃止を訴えて選挙を戦っている。正しい国民の審判が下ることを臨む。
第2位には「村山富市」を挙げよう。社会党委員長で、本来なら万年野党で到底与党にはなれないのに、自民党のお御輿に乗せられ、総理大臣に祭り上げられてしまった。当然のことながら、党是の自衛隊違憲、日米安保反対は後退してしまい、この無節制は社会党の凋落につながることになる。そして国賊として逃れられない罪の一つは、あの阪神・淡路大震災での対応の馬鹿さ加減である。首相というのは、国民の生命・財産を守るべき最高責任者なのに、おかしな潜在意識から、自衛隊の出動要請をせず、また米軍の援助も断わり、あたら時間を浪費し、結果として多くの人命・財産が失われ、多くの国民を見殺しにした。災害対策基本法では甚大な被害が見込まれるときは、災害緊急事態を布告し、総力を挙げてこれに対応することになっていて、それには警察・自衛隊の出動も含まれる。でも意識下にはこれが戦前の戒厳令的なものと認識していたと。第一義的には当時の貝原兵庫県知事の信じがたい無為無策であるが、村山首相が官邸に入ったのは地震発生後1時間半後、自衛隊出動要請は4時間後、それも数の制限をしたという。5時間半後には非常災害対策本部ができたものの、これは国務大臣がトップで、首相がトップの緊急災害対策本部とは権限もスケールも違う。初の緊急閣議が開かれたのは28時間後、緊急災害対策本部はとうとう設置されなかった。私もテレビの画面を見ていたが、はじめは神戸市の2箇所でのみ火災が起きていただけだったのに、みるみるうちに火は広がっていった。病気でも早期発見、火事では初期消火が肝心なのに、なんとしたことか。それで3日後には緊急対策本部が設置されたが、「災害」が抜けた本部は何をしたのだろうか。この大震災の死者は6千5百人、負傷者は4万4千人、被害総額は9兆6千億円、発生後1時間以内に対応しておれば、この数字はずっと小さなものになっていたろう。村山首相の釈明では、「ナニブン初メテノ経験デスシ、早朝ノ出来事デシタカラ」と信じられない能天気、恐るべき危機管理意識欠如である。この大震災の犠牲の大部分は天災ではなく、村山首相本人の確信犯的な救助放棄による人災だったと言える。
今一つは売国奴的な「村山談話」である。閣議決定されたというこの総理談話は、後々の今日でも生きていて、誤字があるのも問題だが、それより日本にとっては大きな足かせ、中国、韓国、北朝鮮にとっては格好の大歓迎談話である。正に売国奴面目躍如というべきか。妙な文章の一部を引用する。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を進んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべきもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明します」。
第3位は「河野洋平」、第4位は加藤紘一」である。河野は衆議院議長を憲政史上最長の在任期間務めあげた。売国罪状の最たるものは、、宮澤喜一改造内閣での官房長官として発表した「慰安婦関係調査結果に関する河野官房長官談話」で、証拠もないのに日本が性犯罪国家であることを印象付けた、いわゆる「河野談話」である。この伏線となったのが、前任の官房長官である加藤紘一の「加藤談話」である。ここで加藤は、「従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できず、衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」とした。そして韓国の小説「修羅道」の中で、当時の『赤紙』と『女子挺身隊』、それに日本兵の『慰安婦』をゴッチャにして、あたかも慰安婦の強制連行があったかのごときストーリーを真に受け、「河野談話」がでっち上げされた。少なくとも政府が調べた資料の中には強制連行を示す記録は全くなく、歴史的事実はないとしているのにである。談話では、「官憲等が慰安婦の強制連行に直接加担したことを歴史の事実として認め、全面謝罪したばかりか、歴史教育を通じて永久に国民の記憶にとどめる」とした。この両談話は今日もなお外務省のHPに掲げられている。
河野はこんな思想の持ち主であるから、靖国神社への参拝には一貫して反対している。それどころか、歴代の総理大臣には電話であるいは公邸に呼んで、参拝自重をお願いしているというが、これは越権行為だろう。そして毎年の全国戦没者追悼式では、「河野談話」と同じ感覚で、日本軍の加害について述べ、謝罪とお見舞いを言っているが、戦没者の霊に向かって言うのは礼を失しているのではないか。「河野洋平」は「江(沢民)の傭兵」とも言われる所以である。
私見では、この本での10人のうち私が挙げた5人は正に売国奴と言える。そのほかには「中曽根康弘」と「野中広務」も臭い。でも、「小沢一郎」、「森 喜朗」、「福田康夫」は国賊とは言えても売国奴ではないと思う。
2009年7月27日月曜日
近代になっての剱岳初登と錫杖頭・鉄剣の発見
小説「剱岳 点の記」と映画「剱岳 点の記」
映画「剱岳 点の記」は新田次郎の同名の小説を映画化したものである。この小説が出版されたのは昭和52年(1977)8月で、この小説を書くにあたって、新田次郎は2年にわたって多くの取材をしているほか、前年には剱岳にも登頂している。しかし取材したことをすべて小説にそのまま反映させているわけではなく、、ノンフィクションのようで実はそうではない。主人公は陸軍参謀本部陸地測量部に所属する柴崎芳太郎測量官が前任の古田盛作の後を継いで、地図の空白地域としての剱岳に三角点を設置しようと一途に努力し、四等ではあるが造標することができた物語である。それには先ず剱岳に登頂しなければならないわけで、山の案内人には前任者からの薦めもあって、大山村の宇治長次郎を選んでいる。立山周辺の三角点設置には、これまで立山信仰の拠点である芦クラ寺の人達に山の案内や機材・資材を運ぶ人夫を頼んできたが、剱岳は信仰では死の山、決して登ってはならない山と位置付けされていたために、芦クラ寺での案内人・人夫の調達は出来ず、代わって対岸の大山村に協力を申し出た経緯がある。
ところで小説では、柴崎芳太郎測量官が主役、宇治長次郎が重要な脇役となっている。初登頂されたのは明治40年(1907)、前年には夏から秋にかけ、大山村の長次郎の家を根拠地にして、柴崎と長次郎は剱岳の登路を探るための下見をしている。そして尾根伝いでは早月尾根も別山尾根も頂上直下に岸壁があり、三角点の標石や測量機材・資材を上げることは困難と判断、残るルートは東面の沢をまだ雪渓が残っている時期を見計らって登ることにし、そしてこの沢筋のルートから登頂できた。第1回目の登頂は、明治40年(1907)7月12日、登頂者は測夫の生田信(ノブ)と人夫の宇治長次郎、岩木鶴次郎、宮本金作、第2回目の三角点測量標建設には、7月27日に柴崎芳太郎測量官、木山作吉測夫と人夫の宇治長次郎、宮本金作、山口久右衛門、南川吉次郎が登頂した。しかし正規の三角点設置は出来ず、木片をつなぎ合わせて四等三角点とした。そして初登頂の折に、頂上の凹地に錫杖の頭と鉄剣を長次郎が発見したとしている。(登頂日は事実の日より1日早くなっている)
映画では、二度ではなく一度で登頂したことになっていて、登行ルートは小説と同じ三ノ沢(長次郎谷)からで、登頂者は柴崎芳太郎測量官、測夫の木山作吉と生田信、人夫の宇治長次郎と山口久右衛門で、宮本金作と岩木鶴次郎は残留となっている。登頂して木片で四等三角点を造り、錫杖の頭と鉄剣を見つけたのは長次郎で小説と同じである。ロケでは実際の登頂日である101年目の7月13日にスタッフが登頂しているが、本隊が到着した20分後には頂上のみガスで視界がきかず、やむなく下山、7月16日に再度登頂、この日は快晴だったとか。
剱岳登頂の記録と錫杖頭の発見
さて史実では、柴崎らが下山して後、富山日報の取材を受け、柴崎芳太郎測量官の談話が明治40年(1907)8月5日と6日に『剣山攀登冒険譚』として新聞に連載された。それによると、第1回目の登頂は7月13日、ルートは現在の長次郎谷から、私が生田測夫と人夫4名(山口、宮本、南川、氏名不詳)を引率して登ったが、氏名不詳の1名は雪から岩へ移る地点で落伍し、残り5名で登頂したと。そしてその折、小さい建物跡のような平地に錫杖の頭と鉄の剣を発見したと。第2回目は三角点測量標を建設するために、木山測夫と人夫岩木其の他を率いて三角点を設けようとしたが運び上げられず、やむなく四等三角点を建設したと。それも木片4本を接いで漸く6尺になる柱1本を立てたに過ぎないと。この第2回目には日にちの記載はない。
小説では、柴崎らの陸地測量部と日本山岳会が剱岳登頂の先陣争いをしたような展開になっているが、史実ではそういう事実はない。また映画では柴崎らの登頂数日後に、小島烏水率いる山岳会のメンバー4人が登頂しているが、これは全くの作り話で、小島は生涯剱岳には登っていない。だが小島烏水は日本山岳会(当時は単に山岳会)の有力な創立メンバーで、正式な発足は明治38年(1905)10月14日で、機関紙として「山岳」を年3回発行しており、第1年第1号は明治39年(1906)4月に刊行されている。そしてその第3年第3号の雑録に、小島烏水が柴崎芳太郎の談話記事として、「越中剣山の探検」は登山史上特筆する価値があるとして、その全文を紹介している。しかしこの内容は先に示した「富山日報」の内容と同じである。
その後明治43年(1910)3月発行の「山岳」第5年第1号に、吉田孫四郎の登山記「越中剱岳」が出た。これは一般人としての剱岳初登頂の記録で、登頂は明治42年(1909)7月24日で、同行はほかに河合良成、野村義重、石崎光搖の山岳会メンバーである。案内人は宇治長次郎、佐々木浅次郎、立村常次郎ら大山村出身の者達で、当時の立山温泉では、既に長次郎は剱岳へ登った「剛の者」として知られており、その情報を基に特別待遇で雇われたという。吉田の言では、彼は一点の非難されるべきことなく、しかもこれほどの好漢はいないと高い評価をしている。そして一行が登った谷を「長次郎谷」と命名し、剱岳にその名を留めたとある。またこの記述の中で、「長次郎は柴崎測量官一行の測量登山に従事して剱岳に登った」と文章で記している。これには石崎が撮影した「剱岳頂上の南望」という小さな測量標を前にした写真が写っていて、その測量標は天然木の皮むきの支柱で、針金で固定されていた。これは柴崎が話した木片を接いで柱を立てたという話とは異なっている。時にこの天然木は長次郎が一昨年自身で担ぎ上げたものだと言っていたと。また陸地測量部の剱岳登頂については、人夫の宮本金作が語ったこととして、第1回目は生田測夫と人夫宇治長次郎、第2回目は木山測夫と生田測夫、人夫は宮本、山崎ほか2名、但し自然木の支柱は長次郎が担ぎ上げたとしている。要は引率したのは技能抜群の測夫木山、生田の両氏で、かの古器二品を発見したのは生田測夫であると。そして柴崎測量官は前後両回とも登頂に参加していないと。
これに対し柴崎芳太郎は、明治44年(1911)5月発行の「山岳」第6年第1号に、宮本金作の話には相違があるとしている。それによると、第1回目は「測夫・生田に命じて、査察させた」。第2回目は「測量上の判定を下すべく、測夫・木山を率いて自ら登山し、四等三角点の建標を建設することに決定した」と書いている。このように剱岳登頂についての疑問に対しては上のような弁明と反論を載せているが、長次郎の剱岳登頂については一言も触れておらず、肯定も否定もしていない。このように責任者としての柴崎測量官が正しい事実を述べなかったことがいろいろな憶測を生み、情報を錯綜させている。
柴崎芳太郎の長男柴崎芳博は、昭和55年(1980)12月発行の「山岳」第75年に「剱岳登頂をめぐってーある疑問点について」の一文を寄せ、その文中で、父の登頂は第2回目であるとしている。そして父のメモでは、第1回目は生田信測夫、人夫は山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、その他1名、第2回目は木山作吉測夫、人夫は岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎で、柴崎は第2回目に登頂したと。メモには宇治長次郎の名前は出てこないが、第1回目のその他1名がそうであろうと。信仰心の厚い長次郎にとっては剱岳は登ってはいけない山という伝統的心情のため、雪渓を登り詰めながら登頂を断念したというのが本当で、それが落伍したと伝えられたのではと。結論的な見解として、信心深い長次郎が、その禁忌があったために「落伍」とされ、神聖な絶頂を土足で踏むことを避けさせ、厳しい掟が足を釘付けにしたのが一般的な見方だとしている。
また山岳会メンバーとして一般人として剱岳初登頂した河合良成は、昭和38年(1963)4月にNHKの「趣味の手帳」で、「半世紀前の剱岳登山」と題して話した内容を日本山岳会の「会報」227号に寄稿している。登頂した時の様子を、「頂上には長次郎が一昨年担いで来て立てた天然木の皮を取ったような棒が一本立っていて、それが針金で支えてあるところの三角台がそこに立っていて、『これは私が担いで来て立てたんだ』と長次郎が言っていたと。多分その年に何回も剱岳へ登ったと思われ、おそらく第1回は長次郎だけで、後から柴崎測量官が登ったんだと思います」と。
また錫杖の頭と鉄剣については、その発見者は小説では長次郎となっているが、新田次郎の取材記事では、剱岳登頂の折、「ここら辺りで生田測夫が見つけたのだと思いながら岩石が積み重なった辺りに目をやった」と記している。古くは「富山日報」では、一行が発見したことになっているし、また他の文献・史料では、柴崎芳太郎が発見し持ち帰ったと記されている。現に新田次郎は柴崎家でこの錫杖の頭と鉄剣を手にとっている。その際長男の芳博氏はしかるべき時にしかるべき場所へ返すと言われていたと。現在は重要文化財として立山博物館に収蔵されている。生田測夫の孫の生田八郎は、平成19年(2007)の秋に、立山博物館に展示されている錫杖の頭と鉄剣を見た後、剱沢小屋の主人佐伯友邦の家に立ち寄って、「錫杖の頭と鉄剣は祖父が見つけたと親から聞いている」と話したと。
以上、剱岳の近代になってからの初登頂と四等三角点の造標、錫杖の頭と鉄剣の発見については、真実はただ一つであるにもかかわらず、剱岳を含む三角網を完成させるために、周辺27箇所に三等三角点を造標し、その指揮を取った責任者が真実を語らなかったばかりに無用な推測を生み、宇治長次郎なる人物は全く知らない、記憶にないと死ぬまで言い切ったのは何故なのか、実に理解に苦しむ。近代の登山界にあっての重鎮ともいうべき田部重治や冠松次郎は、「宇部長次郎は性質は温和で人と争うという風なところが微塵もなく、そして山に対しては凄い勘の持ち主だ」と褒めている。また柴崎測量官が剱岳に造標した四等三角点は木片を4本接いで造ったと発表しているが、2年後に登頂して見たのは天然木だったことからしても、柴崎測量官の言質は怪しいと思わざるを得ない。現存している写真が確かなその証拠である。
登山史家であり、また宇治長次郎の出身地でもある富山県大山村の出である五十嶋一晃は、宇治長次郎の登頂に関することが、いつまでも登山史上の疑問の対象になり、議論されることが残念でならないと言っている。彼は「剱岳測量登山の謎ー長次郎を巡る疑問」の中で、いくつかの情報から帰納的に推理を重ねてみると、次のようになると。
・測量登山は2回行われた。
・第1回目は明治40年(1907)7月13日、登頂者は生田信、山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、宇治長次郎。
・第2回目の登頂日は不明、登頂者は柴崎芳太郎、木山竹吉、岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎。
・観測用の自然木を背負い上げたのは宇治長次郎。
なお、第2回目の登頂日については、陸地測量部に保存されている「四等点標高程手簿」からは、明治40年(1907)7月28日となっている。
また、錫杖頭と鉄剣の発見者は生田信、持ち帰ったのは柴崎芳太郎であろう。
付記1:明治期の三角測量班の編成は、測量官1名、測夫2名、人夫5~6名が標準となっていた。
付記2:大正2年(1913)、近藤茂吉は佐伯平蔵、宇治長次郎、人夫1名と長次郎谷から剱岳へ登り、近藤と平蔵は別山尾根を初下降し、長次郎と人夫1名は平蔵谷を初下降している。「平蔵谷」と命名したのは近藤である。
映画「剱岳 点の記」は新田次郎の同名の小説を映画化したものである。この小説が出版されたのは昭和52年(1977)8月で、この小説を書くにあたって、新田次郎は2年にわたって多くの取材をしているほか、前年には剱岳にも登頂している。しかし取材したことをすべて小説にそのまま反映させているわけではなく、、ノンフィクションのようで実はそうではない。主人公は陸軍参謀本部陸地測量部に所属する柴崎芳太郎測量官が前任の古田盛作の後を継いで、地図の空白地域としての剱岳に三角点を設置しようと一途に努力し、四等ではあるが造標することができた物語である。それには先ず剱岳に登頂しなければならないわけで、山の案内人には前任者からの薦めもあって、大山村の宇治長次郎を選んでいる。立山周辺の三角点設置には、これまで立山信仰の拠点である芦クラ寺の人達に山の案内や機材・資材を運ぶ人夫を頼んできたが、剱岳は信仰では死の山、決して登ってはならない山と位置付けされていたために、芦クラ寺での案内人・人夫の調達は出来ず、代わって対岸の大山村に協力を申し出た経緯がある。
ところで小説では、柴崎芳太郎測量官が主役、宇治長次郎が重要な脇役となっている。初登頂されたのは明治40年(1907)、前年には夏から秋にかけ、大山村の長次郎の家を根拠地にして、柴崎と長次郎は剱岳の登路を探るための下見をしている。そして尾根伝いでは早月尾根も別山尾根も頂上直下に岸壁があり、三角点の標石や測量機材・資材を上げることは困難と判断、残るルートは東面の沢をまだ雪渓が残っている時期を見計らって登ることにし、そしてこの沢筋のルートから登頂できた。第1回目の登頂は、明治40年(1907)7月12日、登頂者は測夫の生田信(ノブ)と人夫の宇治長次郎、岩木鶴次郎、宮本金作、第2回目の三角点測量標建設には、7月27日に柴崎芳太郎測量官、木山作吉測夫と人夫の宇治長次郎、宮本金作、山口久右衛門、南川吉次郎が登頂した。しかし正規の三角点設置は出来ず、木片をつなぎ合わせて四等三角点とした。そして初登頂の折に、頂上の凹地に錫杖の頭と鉄剣を長次郎が発見したとしている。(登頂日は事実の日より1日早くなっている)
映画では、二度ではなく一度で登頂したことになっていて、登行ルートは小説と同じ三ノ沢(長次郎谷)からで、登頂者は柴崎芳太郎測量官、測夫の木山作吉と生田信、人夫の宇治長次郎と山口久右衛門で、宮本金作と岩木鶴次郎は残留となっている。登頂して木片で四等三角点を造り、錫杖の頭と鉄剣を見つけたのは長次郎で小説と同じである。ロケでは実際の登頂日である101年目の7月13日にスタッフが登頂しているが、本隊が到着した20分後には頂上のみガスで視界がきかず、やむなく下山、7月16日に再度登頂、この日は快晴だったとか。
剱岳登頂の記録と錫杖頭の発見
さて史実では、柴崎らが下山して後、富山日報の取材を受け、柴崎芳太郎測量官の談話が明治40年(1907)8月5日と6日に『剣山攀登冒険譚』として新聞に連載された。それによると、第1回目の登頂は7月13日、ルートは現在の長次郎谷から、私が生田測夫と人夫4名(山口、宮本、南川、氏名不詳)を引率して登ったが、氏名不詳の1名は雪から岩へ移る地点で落伍し、残り5名で登頂したと。そしてその折、小さい建物跡のような平地に錫杖の頭と鉄の剣を発見したと。第2回目は三角点測量標を建設するために、木山測夫と人夫岩木其の他を率いて三角点を設けようとしたが運び上げられず、やむなく四等三角点を建設したと。それも木片4本を接いで漸く6尺になる柱1本を立てたに過ぎないと。この第2回目には日にちの記載はない。
小説では、柴崎らの陸地測量部と日本山岳会が剱岳登頂の先陣争いをしたような展開になっているが、史実ではそういう事実はない。また映画では柴崎らの登頂数日後に、小島烏水率いる山岳会のメンバー4人が登頂しているが、これは全くの作り話で、小島は生涯剱岳には登っていない。だが小島烏水は日本山岳会(当時は単に山岳会)の有力な創立メンバーで、正式な発足は明治38年(1905)10月14日で、機関紙として「山岳」を年3回発行しており、第1年第1号は明治39年(1906)4月に刊行されている。そしてその第3年第3号の雑録に、小島烏水が柴崎芳太郎の談話記事として、「越中剣山の探検」は登山史上特筆する価値があるとして、その全文を紹介している。しかしこの内容は先に示した「富山日報」の内容と同じである。
その後明治43年(1910)3月発行の「山岳」第5年第1号に、吉田孫四郎の登山記「越中剱岳」が出た。これは一般人としての剱岳初登頂の記録で、登頂は明治42年(1909)7月24日で、同行はほかに河合良成、野村義重、石崎光搖の山岳会メンバーである。案内人は宇治長次郎、佐々木浅次郎、立村常次郎ら大山村出身の者達で、当時の立山温泉では、既に長次郎は剱岳へ登った「剛の者」として知られており、その情報を基に特別待遇で雇われたという。吉田の言では、彼は一点の非難されるべきことなく、しかもこれほどの好漢はいないと高い評価をしている。そして一行が登った谷を「長次郎谷」と命名し、剱岳にその名を留めたとある。またこの記述の中で、「長次郎は柴崎測量官一行の測量登山に従事して剱岳に登った」と文章で記している。これには石崎が撮影した「剱岳頂上の南望」という小さな測量標を前にした写真が写っていて、その測量標は天然木の皮むきの支柱で、針金で固定されていた。これは柴崎が話した木片を接いで柱を立てたという話とは異なっている。時にこの天然木は長次郎が一昨年自身で担ぎ上げたものだと言っていたと。また陸地測量部の剱岳登頂については、人夫の宮本金作が語ったこととして、第1回目は生田測夫と人夫宇治長次郎、第2回目は木山測夫と生田測夫、人夫は宮本、山崎ほか2名、但し自然木の支柱は長次郎が担ぎ上げたとしている。要は引率したのは技能抜群の測夫木山、生田の両氏で、かの古器二品を発見したのは生田測夫であると。そして柴崎測量官は前後両回とも登頂に参加していないと。
これに対し柴崎芳太郎は、明治44年(1911)5月発行の「山岳」第6年第1号に、宮本金作の話には相違があるとしている。それによると、第1回目は「測夫・生田に命じて、査察させた」。第2回目は「測量上の判定を下すべく、測夫・木山を率いて自ら登山し、四等三角点の建標を建設することに決定した」と書いている。このように剱岳登頂についての疑問に対しては上のような弁明と反論を載せているが、長次郎の剱岳登頂については一言も触れておらず、肯定も否定もしていない。このように責任者としての柴崎測量官が正しい事実を述べなかったことがいろいろな憶測を生み、情報を錯綜させている。
柴崎芳太郎の長男柴崎芳博は、昭和55年(1980)12月発行の「山岳」第75年に「剱岳登頂をめぐってーある疑問点について」の一文を寄せ、その文中で、父の登頂は第2回目であるとしている。そして父のメモでは、第1回目は生田信測夫、人夫は山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、その他1名、第2回目は木山作吉測夫、人夫は岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎で、柴崎は第2回目に登頂したと。メモには宇治長次郎の名前は出てこないが、第1回目のその他1名がそうであろうと。信仰心の厚い長次郎にとっては剱岳は登ってはいけない山という伝統的心情のため、雪渓を登り詰めながら登頂を断念したというのが本当で、それが落伍したと伝えられたのではと。結論的な見解として、信心深い長次郎が、その禁忌があったために「落伍」とされ、神聖な絶頂を土足で踏むことを避けさせ、厳しい掟が足を釘付けにしたのが一般的な見方だとしている。
また山岳会メンバーとして一般人として剱岳初登頂した河合良成は、昭和38年(1963)4月にNHKの「趣味の手帳」で、「半世紀前の剱岳登山」と題して話した内容を日本山岳会の「会報」227号に寄稿している。登頂した時の様子を、「頂上には長次郎が一昨年担いで来て立てた天然木の皮を取ったような棒が一本立っていて、それが針金で支えてあるところの三角台がそこに立っていて、『これは私が担いで来て立てたんだ』と長次郎が言っていたと。多分その年に何回も剱岳へ登ったと思われ、おそらく第1回は長次郎だけで、後から柴崎測量官が登ったんだと思います」と。
また錫杖の頭と鉄剣については、その発見者は小説では長次郎となっているが、新田次郎の取材記事では、剱岳登頂の折、「ここら辺りで生田測夫が見つけたのだと思いながら岩石が積み重なった辺りに目をやった」と記している。古くは「富山日報」では、一行が発見したことになっているし、また他の文献・史料では、柴崎芳太郎が発見し持ち帰ったと記されている。現に新田次郎は柴崎家でこの錫杖の頭と鉄剣を手にとっている。その際長男の芳博氏はしかるべき時にしかるべき場所へ返すと言われていたと。現在は重要文化財として立山博物館に収蔵されている。生田測夫の孫の生田八郎は、平成19年(2007)の秋に、立山博物館に展示されている錫杖の頭と鉄剣を見た後、剱沢小屋の主人佐伯友邦の家に立ち寄って、「錫杖の頭と鉄剣は祖父が見つけたと親から聞いている」と話したと。
以上、剱岳の近代になってからの初登頂と四等三角点の造標、錫杖の頭と鉄剣の発見については、真実はただ一つであるにもかかわらず、剱岳を含む三角網を完成させるために、周辺27箇所に三等三角点を造標し、その指揮を取った責任者が真実を語らなかったばかりに無用な推測を生み、宇治長次郎なる人物は全く知らない、記憶にないと死ぬまで言い切ったのは何故なのか、実に理解に苦しむ。近代の登山界にあっての重鎮ともいうべき田部重治や冠松次郎は、「宇部長次郎は性質は温和で人と争うという風なところが微塵もなく、そして山に対しては凄い勘の持ち主だ」と褒めている。また柴崎測量官が剱岳に造標した四等三角点は木片を4本接いで造ったと発表しているが、2年後に登頂して見たのは天然木だったことからしても、柴崎測量官の言質は怪しいと思わざるを得ない。現存している写真が確かなその証拠である。
登山史家であり、また宇治長次郎の出身地でもある富山県大山村の出である五十嶋一晃は、宇治長次郎の登頂に関することが、いつまでも登山史上の疑問の対象になり、議論されることが残念でならないと言っている。彼は「剱岳測量登山の謎ー長次郎を巡る疑問」の中で、いくつかの情報から帰納的に推理を重ねてみると、次のようになると。
・測量登山は2回行われた。
・第1回目は明治40年(1907)7月13日、登頂者は生田信、山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、宇治長次郎。
・第2回目の登頂日は不明、登頂者は柴崎芳太郎、木山竹吉、岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎。
・観測用の自然木を背負い上げたのは宇治長次郎。
なお、第2回目の登頂日については、陸地測量部に保存されている「四等点標高程手簿」からは、明治40年(1907)7月28日となっている。
また、錫杖頭と鉄剣の発見者は生田信、持ち帰ったのは柴崎芳太郎であろう。
付記1:明治期の三角測量班の編成は、測量官1名、測夫2名、人夫5~6名が標準となっていた。
付記2:大正2年(1913)、近藤茂吉は佐伯平蔵、宇治長次郎、人夫1名と長次郎谷から剱岳へ登り、近藤と平蔵は別山尾根を初下降し、長次郎と人夫1名は平蔵谷を初下降している。「平蔵谷」と命名したのは近藤である。
2009年7月16日木曜日
映画「剱岳 点の記」-監督木村大作の根性と拘泥ー
「点の記」
「点の記」とは、三角点設定の記録である。三角点には一等(全国に972点、約40~50km間隔)、二等(全国に5,056点、約8km間隔)、三等(全国に32,699点、約4km間隔)がある。「点の記」には三角点を置くことを決めた(選点)年月日と選点者、三角点を設置した(埋石)年月日と設置者、観測のための櫓(点標)を造り(造標)、経緯儀を使って観測した年月日と観測者のほか、その三角点へ行く道筋や所要時間等を記載することになっている。これら明治21年以降の「点の記」の記録は、今は国土地理院に永久保存資料として保管されている。剱岳の「点の記」については、当時三等三角点を設置する予定だったが、登頂すら困難だったうえ、ましてや94kgもある三等三角点の柱石や測量機材を運び上げることはとても絶望的で、埋石を断念した経緯がある。その後現実に剱岳頂上に三角点が設置されたのは平成16年(2004)8月になってからで、この時点で初めて「剱岳点の記」が生まれたことになる。これを見ると、選点年月日は明治40年7月13日、選点者は柴崎芳太郎、設置年月日は平成16年8月24日新設、設置者は伊藤純一、観測年月日は平成16年8月25日、観測者は中山雅之、方法はGPS測量となっている。測量は1970年頃までは三角測量、その後20年間は光波測距儀という機械を用いての三辺測量、以後現在はGPS測量が一般的なものとなっている。
石川県でも現在登山路がない山々にも三角点が設置されているが、三角点があれば「点の記」が存在するわけで、例えば笈ヶ岳は最も奥まっていて行きづらい山であるが、この山へいつ、誰が、どんなルートで、100kg近くもある柱石や測量機材を運び上げたのかは「点の記」を見れば判明する。また陸地測量部の人達が登頂した時には、剱岳と同じように、修験者が残したと見なされる錫杖があったという。
小説から映画へ
本年6月20日に全国で封切りされた映画「剱岳 点の記」は、新田次郎の同名小説に拠っている。これは剱岳に三角点を設け、測量の空白地域を埋めるという役割を担う、旧陸軍参謀本部陸地測量部測量官の苦闘の物語で、明治40年(1907)7月に測量官柴崎芳太郎が剱岳に四等三角点を選点したという事実を中心に物語は展開する。ところで小説の推移は事実(史実)との隔たりが大きいうえ、ドラマとして面白くするために、柴崎芳太郎測量官が宇治長次郎の協力を得て初登頂し、また陸地測量部と日本山岳会(当時は単に山岳会)とで剱岳登頂先陣争いをさせたりしているが、これは物語上のみでの展開である。映画ではこれを更に映像での迫力を高めるためにいろんなアレンジを加えている。ところで柴崎芳太郎は死ぬまで、生前の記録には勿論、友人や息子にも宇治長次郎なる男の記憶は一切なく、全く知らないと言っていたという。何故なのか、ミステリーである。でも小説も映画も協力して登頂し選点したというのは、事実はどうあれ心休まる物語となっている。
この映画の監督はカメラマンを40年近くやってきて40本近い映画を撮ってきた木村大作である。この構想が生まれたのは2006年2月、能登の海を撮りたくて出かけた帰り、内浦や氷見の海岸から富山湾を隔てて見えた立山・剱の連峰に感激し、上市町へ行き、剱岳を見ながら新装版の文庫で出版された原作を読み返したとき、ただ黙々と地図を作るためだけに献身している測量官に自分を重ね、これを映画にしたいと思ったという。新田次郎の小説は最も映画になりにくいと言われる。構想を坂上順製作責任者に相談したところ、藤原正彦の「国家の品格」を読んだらト薦められ、そこに「悠久の自然、儚い人生」という言葉を見つけ、これは正に我が人生と思ったという。この時はその著者が新田次郎のご子息とは知らなかったという。早速申し入れしたところ快諾されたうえ、以前の新田作品映画化でのカメラマンだったことを覚えておられ、原作をいかようにも変えて頂いても結構ですとまで言って頂いたという。またもう一人の亀山千広製作担当からは、2年かかるけれど、全部本物の場所で撮影しなさいとの助言をされた。この時、脚本も撮影も監督も自分でやるしかないと腹を括ったと述懐している。
監督の構想と出演者への注文
2006年の春から夏にかけて、木村監督単独もしくは菊池敦夫プロジューサーと二人で立山へ数回出かけ、天狗平、室堂、室堂乗越、別山、剣御前、剣沢へ、そして7月末には剣岳にも登頂する。帰ってからは精力的に脚本作りに没頭する。二人のほかに宮村敏正監督補佐も加わる。そして同時に一緒に闘う仲間となるキャストやスタッフを全員面接して集めた。特に主役の柴崎芳太郎役の浅野忠信には、監督がはまり役と思い込んだだけにかなり強引に引っ張り込んだようだ。またもう一人の案内役の宇治長次郎役の香川照之も、意気込みが凄くて諾しかなかったと言わしめている。後はかなりスムースに決まったようだ。そして最大の演出は、明治39年から40年にかけて、剣岳周辺の地図を作成するために黙々と献身的に測量した人達を実写すること、そしてただひたすらに懸命に生きる人々に光を当てることで、「永遠の自然と儚い人生」を対比して浮かび上がらせることだと。それには作品に出てくる人物になりきって追体験してもらうためにも、撮影は順撮りすることにしたと。監督の構想では、撮影はすべて現地で、しかも合成による撮影はしない。山の撮影にヘリコプターを使っての空撮はしない。CG(コンピューター・グラフィック)は使わない。更にロケ地現場への移動はすべて徒歩による。撮影機材は人力で担ぎ上げる。自分の荷物は自身が背負って運ぶ。泊まりは山小屋(雑魚寝)かテント泊。また、この撮影ではもっと過酷なことを強いるかも知れないが、この撮影は単なる撮影ではなく、お釈迦様の教えにある「苦行」であると。これらの条件を受け入れて、共に山へ登る覚悟をして参加してほしいと。これを全員に徹したという。
監督が狙っていたのは、もし本物の状況の中に俳優を立たせ、そこに嘘を加えない同じ状況下で撮影すれば、そこで俳優がその時感じていることは、その役の人もそう感じていただろうと。だからそのような状況のときに、もしアドリブが自然に吐露しても、それはその役の人の言としてOKにしたという。このほかにも脚本にない場面が随時挿入された。奇想天外と言わしめた着想だ。現に現場での撮影には、荷物を少しでも減らそうと、脚本を持たずに参加した人が大部分、でも現場第一の監督には、脚本は不要だったかも知れない。そして山の天候の急変に驚きもし、自然の荘厳さと恐怖とをしっかりと実写し、これまで接したことのない映像を具現化してくれた。
山での撮影行ー俳優なしでの実景ロケ
実景ロケは2007年春から夏にかけて3回行われた。第1次ロケは4月、天狗平山荘を基地に、天狗平、弥陀ヶ原、天狗山、室堂、雷鳥平、室堂乗越など。その後別山での撮影のため剱御前小舎へ移動しようとした際、前日雷鳥沢で雪崩があったこともあり、尾根筋を吹雪のなか移動する破目に。スタッフ5人・ガイド4人がホワイトアウトの中、アンザイレンして登る。最初の試練。転ぶなら右へ、左だと助かりませんと言われたと。翌日も終日猛吹雪。でも次の日は風は強いが晴れ、荘厳な日の出と朝日に輝く峰々を激写、別山からは感激の剣岳を撮影。でも次の日は暴風雨、山の天気の急変に驚く。翌日は小康状態の合間に一気に下山。その後能登半島、島尾海岸、馬場島から剱岳を、更に5月の連休には八方尾根から唐松岳に登り剱岳を撮影。
第2次ロケは6月下旬から7月上旬にかけて、前半は剱御前小舎をベースに室堂、雷鳥沢、剱御前、室堂乗越で撮影。後半は天狗平小屋をベースに五色ヶ原へ、1回目は一ノ越、浄土山、龍王岳、鬼岳、獅子山、ザラ峠で撮影しながら五色山荘へ、霧と雨の中の撮影行。翌日は更に南行しようとするが天候回復せず、沈殿せずに天狗平小屋へ雨の中を引き返す。翌々日再度五色ヶ原へ、でも霧が濃く撮影かなわず、再び天狗平小屋へ戻る。この雨の中の2往復はきつかったと。でもスタッフは一歩一歩確実に歩けば、必ず目的地に着けることを確信したとも。帰る前日は晴れ、監督は急に雄山へと。そして大汝山でも撮影、雄山に戻り、東尾根を下らせての撮影、でもこれはプロモーション用。終って雄山頂上で今後の撮影の無事を祈願してお祓いを受ける。
第3次ロケは8月上旬、長次郎谷から剱岳頂上へ、頂上で富士山実写。別山尾根から下山、途中南壁でロケハン。剣山荘と剱澤小屋をベースに剱沢付近を撮影。下山前に奥大日岳を下見。
山での撮影行ー俳優入っての測量行ロケ
〔2007年秋季ロケ〕 9月下旬~10月下旬。柴崎芳太郎と宇治長次郎が山に下見に入る。芦くら寺、弥陀ヶ原、天狗山、雄山、室堂乗越、別山、剱沢で。ある日、剱沢から池ノ平へ、片道9時間、しかし2カットのみ。更に剱御前、南壁のシーン撮影。別山で剱岳へは「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」と暗示された行者を、降雪の中、二人で山から下ろすシーンを撮るため雪待ち、それで本隊は一旦帰京。10月下旬になり雪、下山シーン撮影。その後須山の洞窟、称名滝、岩くら寺など撮影。
〔2008年春季ロケ〕 3月中旬。雪の馬場島と新潟の雪崩実験現場での雪崩シーン撮影(2月に一度失敗)。カメラ4台、木村監督のカメラのみ流されず、他はカメラマンもカメラも雪崩で流される。4月上旬~5月中旬。測量隊が出発。雄山神社、弥陀ヶ原、天狗平、天狗山、室堂乗越、馬場島で。天狗平での雪崩後の脱出シーンの撮影では、測量隊5人を雪に穴を掘り完全に埋めての脱出。その後、雄山、一ノ越、浄土山、五色ヶ原で撮影。下山後、常願寺川の河原で五色ヶ原で嵐に遭うシーンを撮影、ダンプで雪を運び、消防団の協力でホース20本、巨大扇風機2台で撮影、通常ホースは上向きにするが、この時は横向き、団員をしてこれは消火だと言わしめたほど。日暮れと同時に本番となったが、真夜中にライト切れ、翌日も続行。5月には山岳会の部分ロケ。
〔2008年夏季ロケ〕 6月中旬には雷鳥荘と剱澤小屋をベースに奥大日岳での点標設置と平蔵谷からの南壁アタック。7月中旬には剱岳頂上と長次郎谷登行のシーン撮影。7月13日、101年前の登頂日に合わせて登頂するが、本隊登頂時にはガスが濃くなり撮影断念。16日再度挑戦。天気好く、剱沢から頂上まで3時間、気合が入る。頂上シーン、長次郎コルでの長次郎登頂辞退のシーン等を撮りまくる。フイルム不足で小屋へ取りに下りる事態も。帰りに南壁シーン撮影。雷注意報発令で平蔵谷を下りる。翌々日、長次郎谷登行シーン撮影、コル手前まで登る。次の日、別山に造標、ラストシーンを撮る。日暮れギリギリに撮影終了。翌日世話になった剣山荘、剱澤小屋、剱御前小舎、雷鳥荘、室堂の山岳警備隊、天狗平山荘に挨拶して下山。山の人たちの協力がなければ、この映画はできなかったろう。下山後、河原で土砂降りのシーンを撮影して、すべての撮影終了。
「点の記」とは、三角点設定の記録である。三角点には一等(全国に972点、約40~50km間隔)、二等(全国に5,056点、約8km間隔)、三等(全国に32,699点、約4km間隔)がある。「点の記」には三角点を置くことを決めた(選点)年月日と選点者、三角点を設置した(埋石)年月日と設置者、観測のための櫓(点標)を造り(造標)、経緯儀を使って観測した年月日と観測者のほか、その三角点へ行く道筋や所要時間等を記載することになっている。これら明治21年以降の「点の記」の記録は、今は国土地理院に永久保存資料として保管されている。剱岳の「点の記」については、当時三等三角点を設置する予定だったが、登頂すら困難だったうえ、ましてや94kgもある三等三角点の柱石や測量機材を運び上げることはとても絶望的で、埋石を断念した経緯がある。その後現実に剱岳頂上に三角点が設置されたのは平成16年(2004)8月になってからで、この時点で初めて「剱岳点の記」が生まれたことになる。これを見ると、選点年月日は明治40年7月13日、選点者は柴崎芳太郎、設置年月日は平成16年8月24日新設、設置者は伊藤純一、観測年月日は平成16年8月25日、観測者は中山雅之、方法はGPS測量となっている。測量は1970年頃までは三角測量、その後20年間は光波測距儀という機械を用いての三辺測量、以後現在はGPS測量が一般的なものとなっている。
石川県でも現在登山路がない山々にも三角点が設置されているが、三角点があれば「点の記」が存在するわけで、例えば笈ヶ岳は最も奥まっていて行きづらい山であるが、この山へいつ、誰が、どんなルートで、100kg近くもある柱石や測量機材を運び上げたのかは「点の記」を見れば判明する。また陸地測量部の人達が登頂した時には、剱岳と同じように、修験者が残したと見なされる錫杖があったという。
小説から映画へ
本年6月20日に全国で封切りされた映画「剱岳 点の記」は、新田次郎の同名小説に拠っている。これは剱岳に三角点を設け、測量の空白地域を埋めるという役割を担う、旧陸軍参謀本部陸地測量部測量官の苦闘の物語で、明治40年(1907)7月に測量官柴崎芳太郎が剱岳に四等三角点を選点したという事実を中心に物語は展開する。ところで小説の推移は事実(史実)との隔たりが大きいうえ、ドラマとして面白くするために、柴崎芳太郎測量官が宇治長次郎の協力を得て初登頂し、また陸地測量部と日本山岳会(当時は単に山岳会)とで剱岳登頂先陣争いをさせたりしているが、これは物語上のみでの展開である。映画ではこれを更に映像での迫力を高めるためにいろんなアレンジを加えている。ところで柴崎芳太郎は死ぬまで、生前の記録には勿論、友人や息子にも宇治長次郎なる男の記憶は一切なく、全く知らないと言っていたという。何故なのか、ミステリーである。でも小説も映画も協力して登頂し選点したというのは、事実はどうあれ心休まる物語となっている。
この映画の監督はカメラマンを40年近くやってきて40本近い映画を撮ってきた木村大作である。この構想が生まれたのは2006年2月、能登の海を撮りたくて出かけた帰り、内浦や氷見の海岸から富山湾を隔てて見えた立山・剱の連峰に感激し、上市町へ行き、剱岳を見ながら新装版の文庫で出版された原作を読み返したとき、ただ黙々と地図を作るためだけに献身している測量官に自分を重ね、これを映画にしたいと思ったという。新田次郎の小説は最も映画になりにくいと言われる。構想を坂上順製作責任者に相談したところ、藤原正彦の「国家の品格」を読んだらト薦められ、そこに「悠久の自然、儚い人生」という言葉を見つけ、これは正に我が人生と思ったという。この時はその著者が新田次郎のご子息とは知らなかったという。早速申し入れしたところ快諾されたうえ、以前の新田作品映画化でのカメラマンだったことを覚えておられ、原作をいかようにも変えて頂いても結構ですとまで言って頂いたという。またもう一人の亀山千広製作担当からは、2年かかるけれど、全部本物の場所で撮影しなさいとの助言をされた。この時、脚本も撮影も監督も自分でやるしかないと腹を括ったと述懐している。
監督の構想と出演者への注文
2006年の春から夏にかけて、木村監督単独もしくは菊池敦夫プロジューサーと二人で立山へ数回出かけ、天狗平、室堂、室堂乗越、別山、剣御前、剣沢へ、そして7月末には剣岳にも登頂する。帰ってからは精力的に脚本作りに没頭する。二人のほかに宮村敏正監督補佐も加わる。そして同時に一緒に闘う仲間となるキャストやスタッフを全員面接して集めた。特に主役の柴崎芳太郎役の浅野忠信には、監督がはまり役と思い込んだだけにかなり強引に引っ張り込んだようだ。またもう一人の案内役の宇治長次郎役の香川照之も、意気込みが凄くて諾しかなかったと言わしめている。後はかなりスムースに決まったようだ。そして最大の演出は、明治39年から40年にかけて、剣岳周辺の地図を作成するために黙々と献身的に測量した人達を実写すること、そしてただひたすらに懸命に生きる人々に光を当てることで、「永遠の自然と儚い人生」を対比して浮かび上がらせることだと。それには作品に出てくる人物になりきって追体験してもらうためにも、撮影は順撮りすることにしたと。監督の構想では、撮影はすべて現地で、しかも合成による撮影はしない。山の撮影にヘリコプターを使っての空撮はしない。CG(コンピューター・グラフィック)は使わない。更にロケ地現場への移動はすべて徒歩による。撮影機材は人力で担ぎ上げる。自分の荷物は自身が背負って運ぶ。泊まりは山小屋(雑魚寝)かテント泊。また、この撮影ではもっと過酷なことを強いるかも知れないが、この撮影は単なる撮影ではなく、お釈迦様の教えにある「苦行」であると。これらの条件を受け入れて、共に山へ登る覚悟をして参加してほしいと。これを全員に徹したという。
監督が狙っていたのは、もし本物の状況の中に俳優を立たせ、そこに嘘を加えない同じ状況下で撮影すれば、そこで俳優がその時感じていることは、その役の人もそう感じていただろうと。だからそのような状況のときに、もしアドリブが自然に吐露しても、それはその役の人の言としてOKにしたという。このほかにも脚本にない場面が随時挿入された。奇想天外と言わしめた着想だ。現に現場での撮影には、荷物を少しでも減らそうと、脚本を持たずに参加した人が大部分、でも現場第一の監督には、脚本は不要だったかも知れない。そして山の天候の急変に驚きもし、自然の荘厳さと恐怖とをしっかりと実写し、これまで接したことのない映像を具現化してくれた。
山での撮影行ー俳優なしでの実景ロケ
実景ロケは2007年春から夏にかけて3回行われた。第1次ロケは4月、天狗平山荘を基地に、天狗平、弥陀ヶ原、天狗山、室堂、雷鳥平、室堂乗越など。その後別山での撮影のため剱御前小舎へ移動しようとした際、前日雷鳥沢で雪崩があったこともあり、尾根筋を吹雪のなか移動する破目に。スタッフ5人・ガイド4人がホワイトアウトの中、アンザイレンして登る。最初の試練。転ぶなら右へ、左だと助かりませんと言われたと。翌日も終日猛吹雪。でも次の日は風は強いが晴れ、荘厳な日の出と朝日に輝く峰々を激写、別山からは感激の剣岳を撮影。でも次の日は暴風雨、山の天気の急変に驚く。翌日は小康状態の合間に一気に下山。その後能登半島、島尾海岸、馬場島から剱岳を、更に5月の連休には八方尾根から唐松岳に登り剱岳を撮影。
第2次ロケは6月下旬から7月上旬にかけて、前半は剱御前小舎をベースに室堂、雷鳥沢、剱御前、室堂乗越で撮影。後半は天狗平小屋をベースに五色ヶ原へ、1回目は一ノ越、浄土山、龍王岳、鬼岳、獅子山、ザラ峠で撮影しながら五色山荘へ、霧と雨の中の撮影行。翌日は更に南行しようとするが天候回復せず、沈殿せずに天狗平小屋へ雨の中を引き返す。翌々日再度五色ヶ原へ、でも霧が濃く撮影かなわず、再び天狗平小屋へ戻る。この雨の中の2往復はきつかったと。でもスタッフは一歩一歩確実に歩けば、必ず目的地に着けることを確信したとも。帰る前日は晴れ、監督は急に雄山へと。そして大汝山でも撮影、雄山に戻り、東尾根を下らせての撮影、でもこれはプロモーション用。終って雄山頂上で今後の撮影の無事を祈願してお祓いを受ける。
第3次ロケは8月上旬、長次郎谷から剱岳頂上へ、頂上で富士山実写。別山尾根から下山、途中南壁でロケハン。剣山荘と剱澤小屋をベースに剱沢付近を撮影。下山前に奥大日岳を下見。
山での撮影行ー俳優入っての測量行ロケ
〔2007年秋季ロケ〕 9月下旬~10月下旬。柴崎芳太郎と宇治長次郎が山に下見に入る。芦くら寺、弥陀ヶ原、天狗山、雄山、室堂乗越、別山、剱沢で。ある日、剱沢から池ノ平へ、片道9時間、しかし2カットのみ。更に剱御前、南壁のシーン撮影。別山で剱岳へは「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」と暗示された行者を、降雪の中、二人で山から下ろすシーンを撮るため雪待ち、それで本隊は一旦帰京。10月下旬になり雪、下山シーン撮影。その後須山の洞窟、称名滝、岩くら寺など撮影。
〔2008年春季ロケ〕 3月中旬。雪の馬場島と新潟の雪崩実験現場での雪崩シーン撮影(2月に一度失敗)。カメラ4台、木村監督のカメラのみ流されず、他はカメラマンもカメラも雪崩で流される。4月上旬~5月中旬。測量隊が出発。雄山神社、弥陀ヶ原、天狗平、天狗山、室堂乗越、馬場島で。天狗平での雪崩後の脱出シーンの撮影では、測量隊5人を雪に穴を掘り完全に埋めての脱出。その後、雄山、一ノ越、浄土山、五色ヶ原で撮影。下山後、常願寺川の河原で五色ヶ原で嵐に遭うシーンを撮影、ダンプで雪を運び、消防団の協力でホース20本、巨大扇風機2台で撮影、通常ホースは上向きにするが、この時は横向き、団員をしてこれは消火だと言わしめたほど。日暮れと同時に本番となったが、真夜中にライト切れ、翌日も続行。5月には山岳会の部分ロケ。
〔2008年夏季ロケ〕 6月中旬には雷鳥荘と剱澤小屋をベースに奥大日岳での点標設置と平蔵谷からの南壁アタック。7月中旬には剱岳頂上と長次郎谷登行のシーン撮影。7月13日、101年前の登頂日に合わせて登頂するが、本隊登頂時にはガスが濃くなり撮影断念。16日再度挑戦。天気好く、剱沢から頂上まで3時間、気合が入る。頂上シーン、長次郎コルでの長次郎登頂辞退のシーン等を撮りまくる。フイルム不足で小屋へ取りに下りる事態も。帰りに南壁シーン撮影。雷注意報発令で平蔵谷を下りる。翌々日、長次郎谷登行シーン撮影、コル手前まで登る。次の日、別山に造標、ラストシーンを撮る。日暮れギリギリに撮影終了。翌日世話になった剣山荘、剱澤小屋、剱御前小舎、雷鳥荘、室堂の山岳警備隊、天狗平山荘に挨拶して下山。山の人たちの協力がなければ、この映画はできなかったろう。下山後、河原で土砂降りのシーンを撮影して、すべての撮影終了。
おわりに
木村 「みんな馬鹿だよ、馬鹿の集まりだよ、馬鹿じゃないと、こんなこと、やってられないよ! 俺は、馬鹿の親玉だ」
木村 「みんな馬鹿だよ、馬鹿の集まりだよ、馬鹿じゃないと、こんなこと、やってられないよ! 俺は、馬鹿の親玉だ」
付 木村監督の「剱岳 点の記」のBGMに対する拘り
監督はこの映画のBGMは、近年の邦画では珍しくすべてクラシックにすることにし、それも既成の音楽の二次使用ではなく、演奏会場でフイルムを流しながらの音入れをすることを希望した。このような手法は監督が敬愛する黒澤明監督の映画で経験したもので、しかも生演奏を希望した。したがって、音楽監督・編曲指揮には、黒澤映画での生演奏指揮の経験がある池辺晋一郎氏にお願いすることになった。この人は作曲家で東京音楽大学教授、演劇のための音楽も手掛け、活動の範囲は広く、映画音楽やNHK大河ドラマのテーマ音楽などもこなす、日本作曲界の重鎮である。選曲は木村監督の希望も入れて調整したようだが、音入れは画面を見ながら、池辺音楽監督が仙台フィルハーモニー管弦楽団を指揮しての生演奏による実施となった。この演奏はこの作品の大きな魅力の一つとなっていて、観ていても全く違和感がなく、実にその場面に相応しい素晴らしい雰囲気を醸し出していた。
使用された楽曲のリストと使われたシーン・場面は次のようである。
(1) J.S.バッハ作曲・池辺晋一郎編曲、前奏曲(幻想曲)とフーガ ト短調 BWV.542 「大フーガ」 から 幻想曲。 〔映画の導入シーンで〕
(2) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第4番 ヘ短調 「冬」 op.8-4 から 第1楽章/第2楽章/第3楽章。 〔柴崎と長次郎が秋に剱岳登頂の下見に山に入る一連のシーンで〕
(3) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第1番 ホ長調 「春」 op.8-1 から 第2楽章。 〔柴崎家での夫婦の語らいのシーンで〕
(4) A.マルチェルロ作曲、オーボエ協奏曲 ニ短調 から 第2楽章。 〔天狗平のテント場でのシーンで〕
(5) T.アルビノーニ作曲、アダージョ ト短調。 〔雪崩の後のシーンで〕
(6) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第3番 ヘ短調 「秋」 op.8-3 から 第2楽章。 〔三ノ沢(長次郎谷)の雪渓の登りのシーンで〕
(7) J.S.バッハ作曲、管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV.1068 から 第2曲エア(G線上のアリア)。 〔剱岳頂上手前のコル(長次郎のコル)でのシーンで〕
(8) G.F.ヘンデル作曲・池辺晋一郎編曲、ハープシコード組曲第2巻第4番 ニ短調 から サラバンド。 〔この映画に携わったすべての個人・団体を「仲間たち」として最後にテロップで流す場面で〕
以上、長調が3曲、短調が5曲。
個々の音楽と場面の一致については、映画を観ながら、メモ用紙に暗がりで手元を見ずにメモしたこともあって、後での判読が実に困難で、多分そうでなかったかと想像して当てはめたものもあり、間違いがあるかも知れないことをお断りしておく。
2009年7月6日月曜日
「そば」を楽しむ
小さい時は「そば」が嫌いだった。祖母が田圃で実った蕎麦を石臼で挽き、それを打って「そばきり」にするのだが、何せ「つなぎ」が入っていない生粉打ちだから、いくら「とれたて」「ひきたて」「うちたて」「ゆでたて」といっても、出来上がったものはきれぎれ、それに汁をぶっかけて雑炊のように啜るのだが、それが何とも子供心に大嫌いで、蕎麦を挽く手伝いは致し方ないにしても、食べる段になると本当に地獄だった。
「そば」ともう一つ祖母の料理で大嫌いなものがあった。家の前と屋敷内には用水が流れていて、昔は野菜を洗える位きれいな水だった。魚も泳いでいて、庭の川に迫り出した大きな石には、時折魚を狙うカワセミも見られた。カワセミが何を狙っていたのかは知らないが、とにかくドジョウもよくいた。祖母は夕方タモを持って用水からよくドジョウを取ってきて、晩のお汁種にした。生きたままお湯に入れると、白い眼が飛び出て睨まれているようで、とても食べる気にはなれなかったが、目を瞑って我慢して食べたものだ。特に大きめのものは苦手だった。栄養満点なのだろうけど往生した。でも今にして思えば、どちらも栄養素豊富な素材だ。時は移って、成人する頃になると、「そば」も「どぜう」も好きになってきたが、蕎麦はともかく、ドジョウは川から姿を消していた。
地元金沢の大学に入って初めて「そば屋」に入った。とは言っても金沢はうどん圏、市内で自前で「そば」を作っている店は1軒のみだった。東京へも機会あって出かけた折にはそば屋を求めて歩いたが、昔は三千軒もあったとはいうものの、昭和30年初頭では百軒ばかりになっていた。しかし日本橋で初めて「白いそば」に出会った時は正に青天の霹靂、「そば」とは黒いものだとばっかり思っていたものだから、正直驚いてしまった。今では一番粉か更科粉を使えばそうなるとは知っているが、初めての時は本当に仰天だった。
私はいつも落語と「そば」の浮き沈みは同じような流れを辿ってきたような気がする。どちらも幕末から明治にかけては大いに繁盛してたのに、昭和になると陰を潜めてしまった。もっとも連綿と百年以上も続いているそば屋の老舗もあるにはあるが、総じて今ある大部分のそば屋は昭和50年以降の開店である。落語もそうで、同じ頃から再び火がついてブームになったような気がする。今はどちらもブームの最中と言っても過言ではないだろう。50年前、石川県でそば屋といえる店は1軒のみ?だったが、今は150軒ばかりもある。しかし今とりわけ人気のそば屋はというと、平成生まれが多い。
あるそば屋の主人は、千人以上もの素人さんを対象に「そば打ち」を指南してきたという。近頃は巷でも「そば教室」があるし、福井県などでは「そば道場」も沢山あり、「そば打ち」を習おうと思えば、いくらでも機会がある。だから自称趣味「そば打ち」という方も見かけるし、なかには虜になって道具一式を揃え、打ちは玄人はだしという人もいる。そうなると、出張して打ったりもするし、高じては店を開く方も出てくる。しかしそば屋と銘打って人様に「そば」を提供するには、「たかが蕎麦」とはいうものの、「されど蕎麦」で、中々一年を通して満足ゆく「そば」を出すことは至難の業である。
さて私はというと、「そば」が好きで、家内とも時々あちこちへ出かける。私の学問の師匠は当初はそんなにそば好きでもなかったのだが、大学を退官され福井へ行かれてからは「越前そば」に憑かれてしまった。お昼は職員を誘っての「そば」、晩は蕎麦前(お酒)と〆に「そば」、私も付き合わされたことがあるが、多いときは5軒もの梯子、ギブアップだった。そのうち持ち前の科学する心で、独断と偏見と断わってはあるものの、福井のそば屋の無責任番付を作られた。するとこれが評判になり、新聞にも紹介された。その後このそば屋巡りは在福十年ばかりの間に、全国1都1道2府29県の延べ4百軒にも及んだ。先生の評は「そば」や汁はいうに及ばず、器、サービス、風格、雰囲気を総合的に評価するもので、福井ばかりか石川でも知られるようになった。金沢へ戻られてからは、そば好きの同志を誘い「探蕎会」なる会を立ち上げた。平成10年正月のことである。趣旨は蕎麦を愛し、各地の銘店を訪ね、その土地の文化に触れ、蕎麦道を探究するというもので、この会に賛同する人は多い時には百名にもなった。年に十回位行事があり、年に2回は泊付きの探蕎をする。行事等は会報に掲載され、会報は年に4回位発行され今日に至っているが、これは事務局を預かる前田書店の主に負うところが多い。会員は正に多士済々、蕎麦前を飲み、「そば」を手繰っての談論風発は実に楽しい。仲良し倶楽部にもならず、かといって同人会にもならず、それが延命効果をもたらしているようだ。
(建設国保機関紙 Our Health HOKURIKU の寄稿原稿)
「そば」ともう一つ祖母の料理で大嫌いなものがあった。家の前と屋敷内には用水が流れていて、昔は野菜を洗える位きれいな水だった。魚も泳いでいて、庭の川に迫り出した大きな石には、時折魚を狙うカワセミも見られた。カワセミが何を狙っていたのかは知らないが、とにかくドジョウもよくいた。祖母は夕方タモを持って用水からよくドジョウを取ってきて、晩のお汁種にした。生きたままお湯に入れると、白い眼が飛び出て睨まれているようで、とても食べる気にはなれなかったが、目を瞑って我慢して食べたものだ。特に大きめのものは苦手だった。栄養満点なのだろうけど往生した。でも今にして思えば、どちらも栄養素豊富な素材だ。時は移って、成人する頃になると、「そば」も「どぜう」も好きになってきたが、蕎麦はともかく、ドジョウは川から姿を消していた。
地元金沢の大学に入って初めて「そば屋」に入った。とは言っても金沢はうどん圏、市内で自前で「そば」を作っている店は1軒のみだった。東京へも機会あって出かけた折にはそば屋を求めて歩いたが、昔は三千軒もあったとはいうものの、昭和30年初頭では百軒ばかりになっていた。しかし日本橋で初めて「白いそば」に出会った時は正に青天の霹靂、「そば」とは黒いものだとばっかり思っていたものだから、正直驚いてしまった。今では一番粉か更科粉を使えばそうなるとは知っているが、初めての時は本当に仰天だった。
私はいつも落語と「そば」の浮き沈みは同じような流れを辿ってきたような気がする。どちらも幕末から明治にかけては大いに繁盛してたのに、昭和になると陰を潜めてしまった。もっとも連綿と百年以上も続いているそば屋の老舗もあるにはあるが、総じて今ある大部分のそば屋は昭和50年以降の開店である。落語もそうで、同じ頃から再び火がついてブームになったような気がする。今はどちらもブームの最中と言っても過言ではないだろう。50年前、石川県でそば屋といえる店は1軒のみ?だったが、今は150軒ばかりもある。しかし今とりわけ人気のそば屋はというと、平成生まれが多い。
あるそば屋の主人は、千人以上もの素人さんを対象に「そば打ち」を指南してきたという。近頃は巷でも「そば教室」があるし、福井県などでは「そば道場」も沢山あり、「そば打ち」を習おうと思えば、いくらでも機会がある。だから自称趣味「そば打ち」という方も見かけるし、なかには虜になって道具一式を揃え、打ちは玄人はだしという人もいる。そうなると、出張して打ったりもするし、高じては店を開く方も出てくる。しかしそば屋と銘打って人様に「そば」を提供するには、「たかが蕎麦」とはいうものの、「されど蕎麦」で、中々一年を通して満足ゆく「そば」を出すことは至難の業である。
さて私はというと、「そば」が好きで、家内とも時々あちこちへ出かける。私の学問の師匠は当初はそんなにそば好きでもなかったのだが、大学を退官され福井へ行かれてからは「越前そば」に憑かれてしまった。お昼は職員を誘っての「そば」、晩は蕎麦前(お酒)と〆に「そば」、私も付き合わされたことがあるが、多いときは5軒もの梯子、ギブアップだった。そのうち持ち前の科学する心で、独断と偏見と断わってはあるものの、福井のそば屋の無責任番付を作られた。するとこれが評判になり、新聞にも紹介された。その後このそば屋巡りは在福十年ばかりの間に、全国1都1道2府29県の延べ4百軒にも及んだ。先生の評は「そば」や汁はいうに及ばず、器、サービス、風格、雰囲気を総合的に評価するもので、福井ばかりか石川でも知られるようになった。金沢へ戻られてからは、そば好きの同志を誘い「探蕎会」なる会を立ち上げた。平成10年正月のことである。趣旨は蕎麦を愛し、各地の銘店を訪ね、その土地の文化に触れ、蕎麦道を探究するというもので、この会に賛同する人は多い時には百名にもなった。年に十回位行事があり、年に2回は泊付きの探蕎をする。行事等は会報に掲載され、会報は年に4回位発行され今日に至っているが、これは事務局を預かる前田書店の主に負うところが多い。会員は正に多士済々、蕎麦前を飲み、「そば」を手繰っての談論風発は実に楽しい。仲良し倶楽部にもならず、かといって同人会にもならず、それが延命効果をもたらしているようだ。
(建設国保機関紙 Our Health HOKURIKU の寄稿原稿)
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