2016年9月9日金曜日

石川県立音楽堂開館15周年記念コンサート(1)

1.はじめに
 世界的指揮者の岩城宏之氏が、若き一時期金沢第一中学校に在籍したことがあった縁で、当時の中西陽一石川県知事に懇願して、外国人を含む40名からなる日本初とも言える室内オーケストラのオーケストラ・アンサンブル金沢 ( OEK ) を誕生させたのは昭和63年 (1988) のことである。でも設立当時の OEK には演奏の拠点がなく、次第にコンサートホール設立の機運が高まり、現谷本正憲知事の英断によってホールが設立されることになった。一方で金沢は邦楽の盛んな土地柄、邦楽会館の設立機運も高まり、この日挨拶に立った谷本知事は、造るなら恥じないものをと、そして要望に応えて和洋合わせた音楽堂を造るに至ったと述べた。こうして石川県立音楽堂が完成したのは平成13年 (2001)のこと である。施設の特徴としては、メインのコンサートホール (1,560 席) にパイプオルガンを設置したこと、また邦楽ホール (720 席) には歌舞伎が演じられるように左右に袖を設けたことで、このような和洋折衷の施設は他にはなく、自賛してよいとも話した。そして今年は開館してから15周年にあたり、それを記念してのスペシャル・コンサートが開催された。

2.素囃子と混声合唱、オーケストラのための「勧進帳」
 この曲は、平成12年 (2004) に OEK が鈴木行一氏に委嘱して作曲された作品で、翌13年 (2005) 3月に県立音楽堂で初演された。そこでは歌舞伎「勧進帳」で奏される長唄の分かりにくい筋を、現代語訳の合唱とオーケストラで再度再現し、聴衆に内容を分かりやすくしたことと、曲全体が一体となった壮大な叙事詩というかオラトリオに仕上げられたことだった。そしてこの曲の初めと終わりに、義経の愛人の「静」の存在を思わせる「しずやしず」のフレーズを挿入し、雪の吉野で別れた静御前を思い起こさせ、勧進帳とは全く関係がないものの、この曲では義経の悲劇的英雄伝説を一層盛り上げる働きをしていた。そして今回行なわれた 2016 年版の演奏では、素囃子とオーケストラが共演する試みもされ、より新鮮味が増したように感じた。このような試みは初めてではなかろうか。ところでこの曲を作曲された鈴木行一氏は平成22年 (2010) に他界され今年は七回忌とか、このコンサートには奥さんの理恵子さんが来ておいでて、再演を大変喜んでおいでた。
 「勧進帳」は、源義経が壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした後、兄頼朝に疎まれ、追われる身となり、奥州を目指して逃れる途中に、加賀の国の安宅に設けられた関所での顛末を脚色したもので、それが歌舞伎の「勧進帳」であり、能の「安宅」である。ここでは素囃子で奏される長唄の筋を現代語の合唱とオーケストラで演奏し、その内容を字幕で流し、聴衆にその内容を知らしめた。素囃子も実に見事だったが、その内容を聴衆にことごとく伝えたのは素晴らしい試みだった。
 素囃子は金沢素囃子保存会の皆さん、金沢市無形文化財の指定を受けているとか。右手の三段になった雛壇に、上段には唄方、中段には三味線と上調子と笛、下段には大鼓 (つづみ) と小鼓 (つづみ) の計19人、中でも大鼓と小鼓のソロの掛け合いが実に素晴らしく、感銘を受けた。合唱団はオーケストラ・アンサンブル金沢合唱団の皆さん、左手奥に女性、ソプラノ10人とアルト8人、右手奥に男性、テノール6人とバリトン・バスの10人。そして左手前方と中段にはオーケストラ・アンサンブル金沢のメンバーと客演奏者の約60人、そして指揮者の井上道義氏は聴衆からは見えないように置かれた矢羽根模様をあしらった大きな衝立ての影での指揮だった。
 演奏時間はほぼ30分、こんな邦楽と合唱とオーケストラのコラボによる演奏は、滅多に見たり聴いたりすることはできず、私は二度目だが、多くの聴衆はこの初めての壮大なコラボレーションに酔いしれたのではなかろうか。そして素囃子とオーケストラとのコラボは、全く新しい試みなだけに、これからの邦楽と洋楽の新しい合奏形態を占うものとして、高く評価されるのではなかろうか。

2016年8月25日木曜日

野々市市総合防災訓練の顛末(2)

(承前)
 9時になり、これから拠点避難所の金沢工大の第2体育館へ向かいますということで、皆さんゾロゾロと出発する。この行き先となる場所は私は何処にあるのかは全く知らず、この際にぜひ確かめておきたいという気持ちもあった。天候は晴れ、工大駅前の広場には木陰もあったが、一行は暑いかんかん照りの日射しを浴びての歩き、この行動に移る前には、歩くのに自信のない方は参加しないで下さいとの注意、この一言で年寄りの班長さんも半数が抜けてしまったことが後で分かった。一行は一旦東へ、そして高梁川の橋を渡って右岸を川に沿って南へ、更に県道を東へ、それから工大の扇が丘キャンパスに入ってさらに南へ、漸く行き先の体育館が見えてきた。かれこれ 1.5 km ばかりの炎天下の行進だった。キャンパス内では工大生が誘導に当たってくれていて、頭が下がった。入った体育館は随分と広くて大きく、天井も高く、お陰で暑さはさほど感じなかった。着いたのは9時半少し前、ここには3町会4グループが避難することになっていて、既に地元扇が丘町会のグループは着いていた。貰ったフローチャートでは、集団避難後に避難者カードに記入とあったが特になく、フロアに適宜座って世間話、その後避難者にアンケート用紙が配られ記入する。訊くと昨年は体験訓練とかで簡易ベッドや簡易トイレの組み立て等があったそうだが、今年はアルファ米の試食とか、でもこれは希望者のみとか。様子を見てると、どうも体裁だけらしいと思わざるを得ない。そこへ災害防護服に身を固めた本町2丁目出身の市会議員の方がおいでて暫し懇談した。当然のことながら、1回目の案内の放送も、2回目の放送も内容がはっきりせず、あれは何とかならないかとの要望が出た。議員さんでは、あの放送はデジタル (?) なので、肉声とは異なる音声になるとのこと、予めリハーサルできなかったので、今後良くしたいとのこと、ぜひ改善してほしい。また二度目の放送は市長が自らかってでてされたようだとのこと、水に潜って話してるようで、これは実に意味不明でひどかった。正確に伝えてこそその機能が発揮できるというものだ。ところで放送の前に軽いサイレンが鳴らされたが、もっと分かりやすく出来ないのかとの声には、災害時や火事の時のようなサイレンを鳴らすと、本当に災害や火事があったと勘違いするので止めてほしいとの要望があって、軽いサイレンにしたとか、これじゃ全くのお遊びで訓練にはならない。議員さんは皆さんの要望を市に伝えておきますとのことだった。
 10 時になったが、まだ2グループしか来ていない、余りに暇なのを見かねてか、アルファ米試食したい人はこちらへと誘導された。大きな鍋にお湯が湧かされていて、工大の学生が試食の担当を任されている。担当からは、袋の中身を良く混ぜてから、そこにお湯を注ぎ、20 分おいてから食して下さいと。説明の後、これは希望する方のみですので、希望しない方は帰ってもよいですと。聞くと昨日2丁目ではバーベキュー大会があり、そこでも提供されたとか、それには半数の人達が参加されていて、その方達は参加されなかった。私も山へ行っていた頃には重宝していたこともあって、割愛することにした。見てると参加したのは女性の方達ばかりだった。
 工大のキャンパスを出る頃、近くの高橋町の町会の方々とすれ違った。この町会では8時ではなく 10 時に集合したという。何ともちぐはぐだ。また2丁目の別のグループとは、とうとう出会うことはなかった。家には 10 時半に着いた。予定では 12 時半にだったから、家内はびっくりしていた。振り返って何とも締まりのない防災訓練だった。

 閑話休題
 今年1月 24 日に防火訓練があった。想定では本町2丁目にある白山神社に落雷があり、出火したという想定。訓練は任意参加だったが、すぐ近くなのと、氏子でもあったので参加した。訓練は神社からの備品の持ち出しと消火で、これには白山市との広域消防の消防車3台も参加した。発煙筒が焚かれ、周辺道路の封鎖も行なわれ、放水による消火が行なわれた。訓練とは言え、行動は実働そのもの、実にきびきびして統制がとれていて、見ていても身が引き締まった。時間は約1時間ばかりだったが、実に内容はコンパクト、終わって我々氏子も整列して担当責任者から訓示を受けた。実に充実した訓練だった。
 プロとアマの差はあろうが、市の防災訓練も、もう少し魂の入ったものにならないものだろうか。でも市の防災訓練当日の消防団の役目は、各一時避難場所での住民の避難状況の把握のみと聞いた。

2016年8月24日水曜日

野々市市総合防災訓練の顛末(1)

 表記の訓練は、今年で三度目だという。私はこれまでこんな訓練があることは全く知らなかった。恐らく時々回ってくる回覧板に防災訓練実施の案内のチラシが挟まれていたのだろうが、内容は皆さんぜひ参加をという拘束力のあるものではなく、関係者や興味のある方は参加して下さいという極めて緩やかな呼びかけじゃなかったかと思う。したがって私はこれまで参加したことは一度もない。
 ところで東日本大震災の後にこの訓練が始まったのだろうが、それに続いて起きた九州熊本での大地震もあって、今年は全市一丸となって取り組もうということになったらしい。そんなこともあってか、今回は班長の方が一軒一軒回って参加をお願いし、しかも参加の有無まで確かめるという念の入れようだった。日時は8月21日の日曜日の午前8時から正午まで、私は一度も参加したことがないこともあって何となく興味が湧き、それじゃ参加しましょうと返事をした。私の住まいがある本町2丁目は旧一日市町と新町とからなり、世帯数は約260、古くは前者と後者は別の町会だったが、今は一本になっている。そしてその中には16の班があり、私の家は第11班に属し、この班には16軒が入っている。そしてこの防災訓練は班単位で、行動は町会単位で行なうとのことだった。
 訓練の概要は次のようだった。想定では、午前8時 00 分に、富樫断層を震源とする震度6弱の地震が発生し、これが市内32カ所に設置されている放送拠点から放送されるので、先ずは自分と家族の身の安全を確保し、火の始末をした後に、指定された一時的避難場所へ避難する。この際には近所に声をかけ、助け合いながら避難して下さいとのことだった。シナリオとしては申し分ないと言える。服装は、災害時の活動に適したものをということで、私は作業服の上下に長靴を履き、軍手をはめ、野球帽を冠った。また熱中症対策のため水痘を持参するようにとのことだった。見ていた家内は、用意ができたのなら出掛けたらと言うが、地震が起きたという放送もないのに出掛けたのではやらせも甚だしいと思い、地震発生の放送を待った。
 午前8時になって、軽いサイレンの音に続いて、地震が発生したので取り敢えず一時的避難場所に避難して下さいという女の人での放送が続いて2回あった。極度にゆっくりとした口調は丁寧なつもりなのかも知れないが、何故か口調がはっきりせず、しかも間延びしていて緊急性が全く感じられず、しかも放送は1回きり、これでは聞きそびれることだって生じよう。どうも内容がはっきりしない放送だったが、とにかく一時的避難場所に指定されている北鉄の工大前駅前の広場に向かった。そこには既に 10 人ばかりが来ていた。そのうち皆さん三々五々集まってきたが、私たちの 11 班の参加者は6家族9人のみだった。ここには8班が集結することになっているとのことだが、班長が来ない班もあるとかで、何とも締まりがない。前日には班長会議をやり打ち合わせをしたというのにである。私たちの 11 班は、班長が出席者を確認した後、今回から導入したという避難していない人の安否確認に出かけた。これは参加していない世帯を訪問して、その安否を確認するのだとか、必要だろうが実際の災害時には出来ようか。この間に消防車が確認のためか、避難場所脇の道路を通っていった。そしてこの時男の人の声で、内容は全く聞き取れないが、多分今日は市の防災訓練の日なので皆さん参加して下さいという趣旨と思われる放送があった。しかし何とも締まりのない訓練で、皆さん手持ちぶたさだった。この避難場所の責任者からは、9時にここから拠点避難所の金沢工大学園扇が丘キャンパス第2体育館へ向かうので、それまでお待ち下さいとのこと、さらに 20 分もブラブラして待つことに。

2016年7月25日月曜日

オーケストラアンサンブル金沢の今シーズン (2015ー2016) 最後の公演(2)

 このシーズン中このシリーズは10回あり、10回目の第379回定期公演は7月23日にあった。この回のテーマは「現代ヨーロッパの潮流 多才ヴィトマンの世界」。この日の立役者は、クラリネット奏者であり、作曲家であり、指揮者でもあるイェルク・ヴィトマン、現在フライブルク音楽院のクラリネット科の教授と作曲科の教授を兼任しているという。私にとっては初めて耳にする人だった。今日のプログラムはヴィトマンのクラリネット演奏が2曲、ヴィトマン作曲の小品が2曲、指揮が1曲という構成だった。
 初めに演奏されたのはウェーバーの「クラリネット小協奏曲 変ホ長調 op.26」で、この曲は初演の後、バイエルン王の委嘱で作曲された2曲のクラリネット協奏曲の端緒となった曲とか、ヴィトマンは導入部こそ手振りで指揮をしたが、後は演奏に専念、コンサートマスターのヤングが曲をリードした。演奏はさすがクラリネットの名手と言われるだけあって、感動の演奏であった。
 次いでヴィトマン作曲の「セイレーンの島 (1997)」。セイレーンとはギリシャ神話に出てくるあの上半身は女、下半身は鳥の姿をした海の魔物で、人魚伝説の原型とされている。オーケストラアンサンブル金沢のコンサートマスターのヤングの独奏ヴァイオリンと19の弦楽器による演奏、弦楽器の多様な奏法を高度に駆使した正に現代の弦楽曲で、ヤングのリードが実に素晴らしかった。この演奏にヴィトマンは指揮をせず、終わってヴィトマンがヤングに言葉をかけたのがすごく印象的だった。聴いて見て感激した演奏だった。
 前半の最後はロッシーニの「クラリネットと管弦楽のための序奏、主題と変奏曲」、ロッシーニの数少ない器楽曲の一つで、この曲はとあるクラリネット奏者から依頼を受けて作られたという小品で、この曲でのヴィトマンのクラリネット演奏は、さながらオペラやバレーでの主役のような役割をしていて、序奏から主題の提示、そして5つの変奏を順に駆け巡る華やかな構成で、ここでも曲はヤングがリードしていた。
 休憩を挟んで、初めにヴィトマン作曲の「180ビーツ・パー・ミニット (1993)」という弦楽六重奏曲、構成はヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ3で、1分間180拍という激しさ、しかも拍子が目まぐるしく変わるという難曲。演奏が終わってヴィトマンはヤングと抱き合っていたが、よくぞこなしたという印象、聴衆の拍手が凄かった。
 最後はメンデルスゾーンの「交響曲第1番ハ短調 op.11」、この曲はメンデルスゾーンが12歳から14歳にかけて作曲した12曲の「弦楽のための交響曲」に続いて15歳の時に作曲され、当初は13番とされていたが、出版時に「交響曲第1番」とされた経緯がある。ヴィトマンの指揮に初めて接したが、情熱的で的確な指揮は聴衆を魅了した。拍手が鳴り止まない素晴らしい名指揮だった。
 次の新しいシーズンは2016年9月から始まる。

オーケストラアンサンブル金沢の今シーズン (2015ー2016) 最後の公演(1)

1.マイスターシリーズ「ショパンと友人たち」
 シーズン中にこのシリーズは5回あり、第1回は昨年の10月24日、最終の第5回は今年の7月16日の第379回定期公演だった。今回のシリーズのテーマは「ショパンと友人たち」、この日はショパンのオーケストラ付ピアノ曲として ピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21 、それにメンデルスゾーンの 交響曲第3番イ短調「スコットランド」op.56 が演奏された。ほかに現代ポーランドの新進作曲家キラールの「オラヴァ (1988)」という弦楽オーケストラのための作品、そして嬉しいことに、前回の演奏会で演奏者急病でキャンセルとなったショパンの管弦楽付ピアノ曲の「ポーランドの歌による幻想曲 op.13」が追加演奏された。指揮をした井上道義 OEK 音楽監督の言によれば、再演の要望が非常に強く、この日のピアノ奏者の北村朋幹(ともき)さんの了解もあって実現したとかだった。北村さんはまだ弱冠34歳、現在ベルリン芸術大学に在学中の新進気鋭のピアニストである。
 初めにショパンの「ポーランドの歌による幻想曲」、この曲はこの後に演奏されたピアノ協奏曲第2番のワルシャワでの初演 (1930年3月) の際に初めて演奏されたという曲である。演奏に先だって、門田 宇 (たかし) さんによるナレーションがあり、それは暗くて果てしないポーランドの原野を印象づけるような語りだった。その後暫く時間をおいてから、曲はオーケストラのゆっくりとした序奏から始まった。第1部はポーランドの民謡に、第2部はポーランドのとある作曲家の旋律に修飾、第3部はポーランドの民族舞踊を主題にしたもので、華やかな独奏ピアノを管弦楽が装飾し、序奏、第1部、第2部、第3部と進むにつれ、ピアノは静から動へと華やかに躍動する様は凄く、満席の聴衆に感動を与えた1曲だった。追加の演奏だったのにこの迫力、要望が強かったのが頷ける会心の演奏だった。
 次いでキラールの「オラヴァ」、弦楽器パートのみ15人での演奏、オラヴァとは川の名だそうだが、演奏は民族音楽風な感じの簡潔なリズムの反復と、次第にだんだん強くなる力強い推進力が身体に直に感じられるような凄い音楽だった。
 そして本命のショパンのピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21、作曲も初演も第1番よりも先だったという
ことはよく知られている事実で、2曲あるピアノ協奏曲のうち出版が後だったということで第2番になっている。第1番、第2番共によく演奏されるが、この日の若い北村さんの華麗な旋律は聴衆を惹き付けた。
 最後にメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」op.56、第4番「イタリア」と共につとに有名である。井上道義の華麗な全身を駆使した指揮ぶりには圧倒された。

2016年7月9日土曜日

本家吉田家のお墓が野々市にあることを知る

 7月2日の午前10時頃、突然電話があり、「京都の吉田ですが、お昼少し前に木村さんのお宅へお寄りしたいのですが、宜しいでしょうか」とのこと。私は特にお断りする理由もないので、「お待ちしております」と返事した。京都には私が年賀状を差し出している吉田さんという家が3軒あり、お電話頂いた吉田さんはどの吉田さんなのだろうかと思案したりしていた。先の電話では、「タクシーを待たせてお寄りするので、時間は取らせませんから」とも話されていた。
 11時過ぎ、吉田さんと言われる上品な女の方と身体が大きな息子さんと思われる方とが見えられた。「タクシーを待たせておりますので、玄関先でご挨拶だけ」と言われ、それで私もそれに甘んじて応対させてもらった。そして驚いたのは、「今日は吉田の家のお墓にお参りに来たので、木村さんのお宅にも寄らせて頂きました」とのこと。吉田家の墓が野々市にあることは知っていたが、これまで私が吉田のお墓にお参りしたことは一度もない。年寄りから野々市の旧中町の墓地に吉田家の墓があるとは聞いてはいたものの、場所がどこなのか、どんなお墓なのかは知らず、それでこれまで気にしたこともなかった。だから突然来られて、お墓参りに来ましたと言われても、驚いて全く応対のしようがなかった。それで「いつか人伝に、吉田さんのお墓は京都の方に移されたとお窺いしましたが」と言うと、「いえ、私の主人からは、亡くなったら野々市のお墓に埋葬して欲しいと言われていましたので、お骨は野々市のお墓に納めました。またその際に墓碑も新しくしました」とのこと、私にとっては全く寝耳に水のこととて、赤面してしまった。「そうとは知らずに、大変失礼をいたしました」とお詫びをした。玄関先での数分の会話だったが、その時に後でぜひ吉田さんのお墓へ行って来なければと思った。吉田さんからは、手土産に京都の宇治茶のラスクを頂戴した。
 いつかまだ私の弟が存命中に、一度旧中町の墓地に案内されて、これが吉田のお墓だと紹介されたことがあるが、それは本当に小さなお墓だったので、その後吉田のお墓が京都に移されたと聞いた時は、さもありなんと合点していた。それでその日の夕方に、家内は知っているというので、案内してもらったが、吉田家のお墓は大変立派なので驚いた。現在吉田さんの御一族は皆さん京都に住んでおいでだが、これほどの大きなお墓を移すのは容易ではないと思った。
 お墓の土台は、間口 250 cm、奥行 190 cm、高さ 52 cm で、その中央に5段組の高さ 180 cm の「吉田家累代之墓」が建っており、正面には「丸に州浜」の家紋が刻まれている。そして右面には昭和九年八月建之とあり、左面には、吉田亀次郎、吉田規一、澤田 冬、南 壽美と4人の名が、おそらくこの4人の兄弟姉妹が建立したのだろう。亀次郎さんも規一さんも、木村の家に来られたのを私は子供心に覚えている。そして左側には2段積みの高さ 82 cm のお墓があり、正面には南无阿弥陀仏の文字、左面には木屋五左衛門、右面には弘化二年七月とあった。木屋というのは吉田家の屋号で、私の家の先祖の五右衛門も吉田家から分家して木屋五右衛門と名乗っていて、明治維新以後に木村姓を名乗るようになったと聞いている。また我が家の家紋も「丸に州浜」で、これも主家の家紋と同じである。
 お墓の右端には新しい墓碑 (法名板) があり、3名の法名と名前と没年齢、それに没年月日が記してあった。それには右から順に、香譽梅薫禅定尼 梅野 八十一歳 昭和三十八年二月二十二日、法譽浄規禅定門 規一 五十二歳 昭和四十三年十月十日、壽楽優道信士 壽雄 六十六歳 平成十二年三月
二十一日、と記してある。
 壽雄さんは規一さんの長男で、もし今存命ならば 82 歳、私と同年代である。身体の大きな方で、一時相撲部屋に居たことがあったが、修業が厳しくて挫折し、一時木村の家に逗留していたことがあるので覚えている。今思うに、お墓参りにおいでた方は、壽雄さんの奥さんと息子さんだったのだろう。後日出したお礼の手紙には、旧盆にはお参りさせて頂きますと書き記した。
 本家の吉田家がいつ頃からいつ頃まで野々市においでたのかは知らないが、野々市には吉田の姓を名乗る家が何軒もあり、皆親戚同士だと聞いたことがある。本家はかなり以前から吉田の姓を名乗っていたが、分家は屋号で呼んでいたろうし、明治以降に吉田姓を名乗ったのだろう。因みに私の先祖は吉田でなく木村を名乗ったが、旧野々市村で木村を名乗ったのは私の家と今は絶えた分家だけである。
 今年の旧盆にはぜひ吉田家のお墓にお参りしたいと思っているが、ほかにどんな方がお参りされるのか、興味が持たれる。もし縁者の方が近くにおいでれば、お参りされると思うのだが、どうだろうか。旧盆が待たれる。

2016年6月17日金曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その3)

(承前)
国宝 大法寺三重塔 長野県小県群青木村当郷
 道の駅で大法寺への道順を訊くと、上田に向かって1km ばかり行くとコンビニがあるので、その手前を山に向かって入って下さいと。礼を言って車を走らすと、コンビニの手前に標識があり、そこから山に入る。このお寺は子檀嶺岳 (こまゆみだけ) (1223m) の中腹にあり、ここからは塩田平を一望できるという。坂道を上がって行くと駐車場があり、ここに車を停める。寺はさらに高みにあり、径を辿り、階段を上がると本堂と思しき建物の前に出た。でも堂の正面は閉ざされていて、一見無住の感じである。塔は何処かと見回すが、此処からは見えない。すると三重塔への順路の標識があり、それに従って歩むと、上に三重塔が見えた。さらに急な石段を二つばかり上がると、三重塔の全容が見えた。右手に寺務所があり、拝観料を払い、御朱印も頂いた。案内所によると、このお寺は天台宗で、古くは大宝寺といい、奈良前期の大宝年間 (701-704) に創設されたという。この三重塔が造られたのは鎌倉時代から南北朝時代に移る過渡期とされ、この三重塔の特徴は、初重が特に大きいことで、このような形式の塔は他には奈良の興福寺の三重塔のみという。高さは 18.38 m、塔の姿があまりにも美しいので「見返りの塔〕という名で親しまれているとか。全国で国宝の三重塔は 13 基あるそうで、その内の一基は、近くの塩田平にある安楽寺の八角三重塔で、以前訪れたことがある。また寺には重要文化財の木造十一面観音立像や木造普賢菩薩立像ほか四点があるという。三重塔は素朴で静かな佇まいをして建っていた。境内には樹齢 480 年という榧 (かや) の樹があった。

麻績 (おみ) IC への道を間違えて松本へ
 寺を出て国道 143 号線沿いのコンビニまで戻り、ナビで自宅へ戻る指示を出すと、上田菅平 IC へという指示、それで一旦解除して西へ進んでからナビを入力しようと思った。国道を西進すると、途中には国道 143 号線と麻績 IC への表示が大きく出ていたので、安心して車を走らせた。沓掛温泉、そして田沢温泉への分岐を過ぎ、そろそろ県道 12 号線に入り、修那羅峠越えをしなければならなかったのに、つい快適に車を走らせ、しかもナビに入力するのも忘れ、分岐を過ごしてしまった。IC への分岐点には大きな表示があるものと思い込んでいたものだからどんどん走り、九十九折りの道になってやっと間違えたと分かった。そして青木峠を越えて松本市に入った。ここまで来たのだから腹を決めて松本へ下りようと思っていたら、暫くして道端に麻績 IC へとの表示、細い山道だが、表示を信じて山を下った。篠ノ井線を渡り、国道 403 号線に出て長野自動車道を潜り、こうしてどうやら麻績 IC に辿り着けた。
 先ずは姥捨 SA で小憩し、ここからは家内の運転で取り敢えずは小布施 PA まで、でももう少しというので新井 PA まで、これから北陸自動車道に入るとトンネルが 26 も続くので私が運転をと思っていたが、新井 PA でも停まらず、さらに名立谷浜 SA も通過、もうこうなればトンネル嫌いとかは言っておれず、観念して運転は家内に任せた。そして家内は長駆し有磯海 SA まで運転してしまった。トンネル嫌いと言っていたが、これで少々自身がついたとは彼女の言だった。後は私が運転して自宅まで。走行キロ数は 650 km、所要時間は3時間半だった。

付.蕎麦タチアカネのこと
 道の駅あおきで見たタチアカネという品種の蕎麦について紹介する。これは長野県野菜花き試験場が育成した長野県オリジナルの蕎麦の品種で、名前は茎が丈夫で倒れにくいことから「タチ」、また蕎麦の白い花が実になると茜色になることから「アカネ」、名はこの2つに由来する。今長野県では、信濃1号という中間秋型品種が最も多く栽培されているが、このタチアカネという品種 (平成 21 年登録) はより耐倒伏性に優れ、ゆで麺色の評価や千粒重や容積重がより優れているという。ただ蕎麦は他花受粉性の作物で、他の品種が近在すると交雑するので、長野県では今は青木村に限定して栽培させているという。白い花と赤い実とのコントラストが美しく、今では青木村の風物詩として定着しているという。現在村には蕎麦屋が4軒ある。

 付.山田牧場よりの日本アルプス連峰全山の山名(堀江文四郎さん撮影・制作)
 写真に表示してある山名と標高をそのまま転記した。標高にはマチガイもある。
左から右へ。前穂高岳 (3090)、奥穂高岳 (3190)、常念岳 (2857)、涸沢岳 (3110)、北穂高岳 (3106)、槍ヶ岳 (3180)、燕岳 (2763)、三俣蓮華岳 (2841)、鷲羽岳 (2924)、野口五郎岳 (2924)、烏帽子岳 (2628)、蓮華岳 (2799)、針ノ木岳 (2821)、赤沢岳 (2678)、爺ヶ岳 (2670)、立山・雄山 (3003)、鹿島槍ヶ岳 (2890)、劔岳 (2998)、五龍岳 (2814)、唐松岳 (2698)、八方尾根、天狗の大下り (2812)、白馬鑓ヶ岳 (2903)、白馬杓子岳 (2900)、白馬大雪渓、白馬岳 (2933)、白馬乗鞍岳 (2469)、戸隠連峰 (1904)、飯綱山 (1817)