1.木 本
アオダモ・コバノトネリコ・アオタゴ(モクセイ科 トネリコ属)、イチジク・トウガキ(クワ科 イチジク属)、イブキジャコウソウ・イワジャコウソウ(シソ科 イブキジャコウソウ属)、ウンリュウヤナギ(ヤナギ科 ヤナギ属)、エノキ(ニレ科 エノキ属)、オニグルミ(クルミ科 クルミ属)、カキ(カキノキ科 カキノキ属)、カラスザンショウ(ミカン科 サンショウ属)、カンツバキ・シシガシラ〔園芸品種 コジシ〕(ツバキ科 ツバキ属)、キリ(ゴマノハグサ科 キリ属)、クリ(ブナ科 クリ属)、クロモジ(クスノキ科 クロモジ属)、サツキ・サツキツツジ〔八重の古木〕(ツツジ科 ツツジ属)、サワラ(ヒノキ科 ヒノキ属)、スモモ(バラ科 スモモ属)、セイヨウミザクラ〔外〕(バラ科 サクラ属)、タラノキ(ウコギ科 タラノキ属)、テッセン〔外〕(キンポウゲ科 センニンソウ属)、ナギイカダ〔外〕(ユリ科 ナギイカダ属)、ナツグミ(グミ科 グミ属)、ニワウメ・コウメ・リンショウバイ(バラ科 サクラ属)、ニワトコ・セッコクボク(スイカズラ科 ニワトコ属)、ニワフジ(マメ科 コマツナギ属)、ハウチワカエデ・メイゲツカエデ(カエデ科 カエデ属)、ハクモクレン・ハクレン(モクレン科 モクレン属)、ハナカイドウ・カイドウ(バラ科 リンゴ属)、ハナズオウ〔外〕(マメ科 ハナズオウ属)、ハンノキ(カバノキ科 ハンノキ属)、ヒノキ(ヒノキ科 ヒノキ属)、ビワ(バラ科 ビワ属)、ブドウ(ブドウ科 ブドウ属)、ポポー・ポポーノキ・アケビガキ〔外〕(バンレイシ科 ポポー属)、マダケ・ニガタケ(イネ科 マダケ属)、ムラサキシキブ・ミムラサキ・コメゴメ(クマツヅラ科 ムラサキシキブ属)、モクレン・シモクレン・モクレンゲ(モクレン科 モクレン属)、モチツツジ(ツツジ科 ツツジ属)、モモ(バラ科 モモ属)、ヤエヤマブキ(バラ科 ヤマブキ属)、ヤマトレンギョウ(モクセイ科 レンギョウ属)、レンゲツツジ(ツツジ科 ツツジ属)
以上 41種(28科 35属)
2.草 本
アカザ(アカザ科 アカザ属)、ウシハコベ(ナデシコ科 ハコベ属)、エゴマ〔外〕(シソ科 シソ属)、エビネ(ラン科 エビネ属)、エンレイソウ(ユリ科 エンレイソウ属)、オオケタデ〔外〕(タデ科 タデ属)、オオマツヨイグサ〔外〕(アカバナ科 マツヨイグサ属)、カタクリ(ユリ科 カタクリ属)、カラスウリ(ウリ科 カラスウリ属)、キキョウ(キキョウ科 キキョウ属)、キクイモ(キク科 ヒマワリ属)、キクバオウレン(キンポウゲ科 オウレン属)、キランソウ・ジゴクノカマノフタ(シソ科 キランソウ属)、ジュウニヒトエ(シソ科 キランソウ属)、シャガ(アヤメ科 アヤメ属)、シャクチリソバ・シュッコンソバ・ヒマラヤソバ〔外〕(タデ科 ソバ属)、シュウカイドウ〔外〕(シュウカイドウ科 シュウカイドウ属)、シュンラン・ホクロ(ラン科 シュンラン属)、ショウジョウバカマ(ユリ科 ショウジョウバカマ属)、シライトソウ(ユリ科 シライトソウ属)、スベリヒユ(スベリヒユ科 スベリヒユ属)、ツルボ(ユリ科 ツルボ属)、テッポウユリ(ユリ科 ユリ属)、トキンソウ(キク科 トキンソウ属)、フジバカマ(キク科 フジバカマ属)、ホオズキ(ナス科 ホオズキ属)、ミゾソバ・ウシノヒタイ(タデ科 タデ属)、ミヤコワスレ・ノシュンギク(キク科 ミヤマヨメナ属)、ムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科 サギゴケ属)、ヤエムグラ(アカネ科 ヤエムグラ属)、ヤマゴボウ(ヤマゴボウ科 ヤマゴボウ属)、ヨウシュチョウセンアサガオ(ナス科 チョウセンアサガオ属)、ヨメナ(キク科 ヨメナ属)
以上 33種(18科 31属)
3.羊 歯
イノモトソウ(イノモトソウ科 イノモトソウ属)、イワガネゼンマイ(ホウライシダ科 イワガネソウ属)、クサソテツ(イワデンダ科 クサソテツ属)、クジャクシダ(ホウライシダ科 ホウライシダ属)、コンテリクラマゴケ(イワヒバ科 クラマゴケ属)、シシガシラ(シシガシラ科 シシガシラ属)、ヤブソテツ(オシダ科 ヤブソテツ属)
以上 7種(6科 7属)
2015年3月19日木曜日
シンリョウのツブヤキ(13)庭から消えた植物
私の家の敷地は南北に長い長方形で、母屋が真ん中にあり、その東側には南北に用水が流れている。この裏庭の南端は竹林、北端は築山になっていて、用水はここでは曲水になっている。そして他の裏庭には大木が鬱蒼と繁っていた。母屋の西側にある前庭は、一部は庭らしく造られてはいるものの、その他の部分にはいろんな木々が生えていた。終戦になって農地解放が行なわれ、400町歩あった田は1町歩になり、沢山の国債は紙切れになり、財産税を払わねばならないため、裏庭の大木を10本ばかり伐ってそれの足しにした。大木が無くなったことで、陽当たりが随分と良くなり、植生が大きく変わった。中でも築山に沢山植わっていた楓が、鉄砲虫の被害にあってほとんど枯死したし、数本あった梅の古木も枯れてなくなった。代わりに陽樹のタブノ木が元気が出て、築山全体を覆うほどになり、後年大きな枝を切り落とさねばならなくなった。また竹林は以前は真竹と孟宗竹が混在していて、程よく東南の一画に納まっていたものの、真竹に花が咲いて真竹が絶えてしまってからは、孟宗竹が勢いを増し、用水の東側一帯に広くはびこるようになり、出て来る筍を除去するのに苦慮しなければならなくなった。本当に予想もつかないとんでもない所にまで筍が顔を出すのには驚くほかない。
大木を伐った後には陽当たりが良くなっていた庭も、幼樹が大きくなるにつれ、陽当たりがまた悪くなり、それでまた植生が変わっていった。また陽当たりが良かった頃、久吉叔父が植えた木々があったが、今日では大木に成長したメタセコイアが残っているに過ぎない。一方で庭には以前は昆虫も沢山棲息していて、オハグロトンボもいたし、ウマオイやクツワムシ、スズムシといった秋の虫も沢山いたが、今はコオロギや蝉が残っているのみである。代わって今は蚊の天国、樹木の剪定にあたっては、事前に蚊の駆除をするのに殺虫剤を庭師が撒くので、なおさら生態系が悪くなっている。また用水には、ずっと以前には小魚も沢山いて、カワセミなども飛来していたが、その後はどぶ川になり、ヘドロが溜まり、臭いもするようになった。でも下水道が普及するようになって、どうやら流れも幾分きれいになってきた。今でも庭には2カ所、用水沿いに野菜などを洗う場所が設えてあるが、勿論以前のように、そこを利用するような清流は望むべきもない。こうして幾多の変遷があり、庭の様相は造られて百年を経て、環境は随分と変貌した。したがってその間に植生も変わり、以前あった木々や草々でなくなったものも多い。そこで私は終戦以降の記憶を辿り、以前にはあったが、今は無くなってしまった植物、種子植物と羊歯植物について記すことにした。
以下に記した植物は、種子植物は木本と草本に分けて、植物名は五十音順とし、種名・別名(科名 属名)の順に記した。また植物名の後に〔外〕と記した植物は、外国原産で、安土桃山時代 (1570年) 以降に日本に渡来したいわゆる帰化植物である。ただバラ科の中国原産の果実、例えば梅や桃や杏などは、もっと古い時代に渡来していることもあって、帰化植物としては扱っていない。(リスト別添)
大木を伐った後には陽当たりが良くなっていた庭も、幼樹が大きくなるにつれ、陽当たりがまた悪くなり、それでまた植生が変わっていった。また陽当たりが良かった頃、久吉叔父が植えた木々があったが、今日では大木に成長したメタセコイアが残っているに過ぎない。一方で庭には以前は昆虫も沢山棲息していて、オハグロトンボもいたし、ウマオイやクツワムシ、スズムシといった秋の虫も沢山いたが、今はコオロギや蝉が残っているのみである。代わって今は蚊の天国、樹木の剪定にあたっては、事前に蚊の駆除をするのに殺虫剤を庭師が撒くので、なおさら生態系が悪くなっている。また用水には、ずっと以前には小魚も沢山いて、カワセミなども飛来していたが、その後はどぶ川になり、ヘドロが溜まり、臭いもするようになった。でも下水道が普及するようになって、どうやら流れも幾分きれいになってきた。今でも庭には2カ所、用水沿いに野菜などを洗う場所が設えてあるが、勿論以前のように、そこを利用するような清流は望むべきもない。こうして幾多の変遷があり、庭の様相は造られて百年を経て、環境は随分と変貌した。したがってその間に植生も変わり、以前あった木々や草々でなくなったものも多い。そこで私は終戦以降の記憶を辿り、以前にはあったが、今は無くなってしまった植物、種子植物と羊歯植物について記すことにした。
以下に記した植物は、種子植物は木本と草本に分けて、植物名は五十音順とし、種名・別名(科名 属名)の順に記した。また植物名の後に〔外〕と記した植物は、外国原産で、安土桃山時代 (1570年) 以降に日本に渡来したいわゆる帰化植物である。ただバラ科の中国原産の果実、例えば梅や桃や杏などは、もっと古い時代に渡来していることもあって、帰化植物としては扱っていない。(リスト別添)
2015年2月25日水曜日
金茶寮での歳時記「早春の宴」(その2)
(承前)
食 談:「対談:世界から見た金沢」
食談では金沢21世紀美術館長の秋元さんが司会役となり、国内外で活躍している渡邊さんと大樋さんの両ゲストから、世界視点で見た金沢の魅力を語ってもらうというスタイルがとられた。司会の秋元さんは 1955 年東京生まれの60歳、東京芸術大学絵画科卒で、前任はいろんな話題を蒔いたベネッセアート直島の地中美術館の館長だった。
初めに、能楽宝生流シテ方として重要無形文化財指定の渡邊さんから話題が提供された。渡邊さんは 1949 年生まれの 66 歳、先代の次男で、宝生流第18世の宝生英雄さんに師事され、ここ数年はアメリカやブラジルで能の普及に尽力され、一昨年金沢へ戻って来られたとか。日本では新幹線の開通にあやかり、新潟、長野でも拠点を設けて活動してこられたという。海外でも日本でも、本当の能の真髄を堪能してもらうことに腐心されたとか。そして下手に迎合することなく、良さを理解して頂くことが肝心だという。しかし東京でも金沢でも、もし同じレベルのものが見られるとすると、金沢まで来なくても東京で済んでしまうことになる。そうでなくて、金沢でないと見られないものがあるとすれば、金沢へ来てもらえることに。宝生なら本場金沢という位置付けが大事である。
次いで大樋さん。大樋さんは文化勲章受章者の 10 代大樋長左衛門さんの長男、1958 年生まれの 57 歳、玉川大学卒業後、ボストン大学大学院を修了されている。大樋焼は京都の楽焼をルーツに持ち、ここ 340 年間、日本の茶の湯の文化の中で、日本を代表する焼き物として伝統を受け継いできた。しかし大樋さんが在住していたボストンでは、小さな窯で焼く茶道の陶芸ではなく、外国人にも共鳴を与えられるように、前衛的な陶芸にも取り組み、それが現地の外国の方にも共感を呼び感銘を与えられたという。そして陶板画などにも挑戦し、新しいジャンルにも意欲的に取り組んできたという。私は大樋焼を核にして、外国では、そこの居る人達に共感を与える作品を制作することが肝要と思う。温故知新。そのルーツが金沢だということで、金沢を世界に発信できると思う。
これに対し渡邊さんは、前衛的ということでは、能ではそのような要素を取り入れることは極めて困難だが、現在、例えばオーケストラアンサンブル金沢の井上監督とも時々コラボして、新しい試みに挑戦している。ただこの場合でも、能の基本を崩すことは絶対なく、そこが陶芸との違いでもあると。しかし、金沢21世紀美術館で能をやるなどというのは新機軸かも知れない。金沢へ来れば見られる魅力を、金沢まで新幹線が開通した今、また 2020 年のオリンピックも見据えて、金沢の魅力としてアピールできればと思う。
食談を終え、金沢市副市長の方の音頭で乾杯し宴会に入る。
宴会になって、今宵の酒を提供された、明治3年 (1870) 創業の吉田酒造店の現社長の隆一さん (5代目) の長男泰之さん (6代目) から酒蔵の紹介があった。彼は東京農業大学を卒業後、大手酒造会社に勤務した後にロンドンに留学したことのある 29 歳。ニューヨークでの日本酒キャンペーンの折、エリック・シライ氏から、アメリカ人から見た日本酒造り:THE BITTH OF SAKE「酒の誕生」というドキュメンタリー映画を作りたいとのことで協力を求められ、一昨年 11 月から昨年 4 月にわたって撮影に協力し、その映画は今秋に公開予定とか。会場ではその予告編が上映された。外国人の目で見た新しい視点での酒造りの情景が見られそうで、乞うご期待である。
2月14日の献立「桜ほのか」は次のようだった。
「口取り」 笹小鯛の辛子味噌あえ、烏賊の花寿し、堅豆腐と蒸し雲丹、春鱒の黄身焼き、
金時草のレモン煮、うなぎ玉子巻、かぶら寿し、鰯の胡麻まぶし、花びら百合根。
「造 り」 寒ぶり、鯛、甘海老。
「炊合せ」 鯛のうま煮、結びぜんまい、車海老、蕗色煮。
「焼き物」 のど黒南天焼、里芋うに焼、菜の花辛子和え。
「合 肴」 ぐじのかぶら蒸し、蛤・岩のりあん。
「止 肴」 早堀り若筍と蕗の薹、わかさぎ南蛮漬。
春ちらし蒸し寿し。 鴨のつみれ汁。 フルーツ。
宴会も終わりに近く、琵琶と横笛のコラボで、「今を輝いて」と銘打って、筑前琵琶の藤本旭舟さんと横笛の藤舎秀代さんとで、平家物語の平実盛の死を扱った「篠原の段」の演奏があった。琵琶の演奏を聴いたのは久しぶりだった。
午後9時過ぎ、宴が終わって席を立った折、同じ卓の方が名刺を下さった。私はリタイアして名刺を持ち合わせていないが、話をすると、私と同じ金大薬学部出身の方がいたり、北陸大学や太陽グループの方がいたり、もっと早くだったら話も弾んだろうにと思った。
帰りは私たちが殿になったが、玄関へ着くと迎えのタクシーはすべて出払ったとか。何方かが予約しないで乗られたらしい。女将さんが恐縮されて、貴賓室で暫くお待ち下さいとのこと、とんだハプニングで、茶菓の接待まで受け、お話もいろいろお伺いし、お陰で素晴らしい予期しない時間を過ごすことが出来た。このような催しは年に4回、季節ごとに開かれるとのことだったが、次回出る機会があるだろうか。ケセラセラである。
食 談:「対談:世界から見た金沢」
食談では金沢21世紀美術館長の秋元さんが司会役となり、国内外で活躍している渡邊さんと大樋さんの両ゲストから、世界視点で見た金沢の魅力を語ってもらうというスタイルがとられた。司会の秋元さんは 1955 年東京生まれの60歳、東京芸術大学絵画科卒で、前任はいろんな話題を蒔いたベネッセアート直島の地中美術館の館長だった。
初めに、能楽宝生流シテ方として重要無形文化財指定の渡邊さんから話題が提供された。渡邊さんは 1949 年生まれの 66 歳、先代の次男で、宝生流第18世の宝生英雄さんに師事され、ここ数年はアメリカやブラジルで能の普及に尽力され、一昨年金沢へ戻って来られたとか。日本では新幹線の開通にあやかり、新潟、長野でも拠点を設けて活動してこられたという。海外でも日本でも、本当の能の真髄を堪能してもらうことに腐心されたとか。そして下手に迎合することなく、良さを理解して頂くことが肝心だという。しかし東京でも金沢でも、もし同じレベルのものが見られるとすると、金沢まで来なくても東京で済んでしまうことになる。そうでなくて、金沢でないと見られないものがあるとすれば、金沢へ来てもらえることに。宝生なら本場金沢という位置付けが大事である。
次いで大樋さん。大樋さんは文化勲章受章者の 10 代大樋長左衛門さんの長男、1958 年生まれの 57 歳、玉川大学卒業後、ボストン大学大学院を修了されている。大樋焼は京都の楽焼をルーツに持ち、ここ 340 年間、日本の茶の湯の文化の中で、日本を代表する焼き物として伝統を受け継いできた。しかし大樋さんが在住していたボストンでは、小さな窯で焼く茶道の陶芸ではなく、外国人にも共鳴を与えられるように、前衛的な陶芸にも取り組み、それが現地の外国の方にも共感を呼び感銘を与えられたという。そして陶板画などにも挑戦し、新しいジャンルにも意欲的に取り組んできたという。私は大樋焼を核にして、外国では、そこの居る人達に共感を与える作品を制作することが肝要と思う。温故知新。そのルーツが金沢だということで、金沢を世界に発信できると思う。
これに対し渡邊さんは、前衛的ということでは、能ではそのような要素を取り入れることは極めて困難だが、現在、例えばオーケストラアンサンブル金沢の井上監督とも時々コラボして、新しい試みに挑戦している。ただこの場合でも、能の基本を崩すことは絶対なく、そこが陶芸との違いでもあると。しかし、金沢21世紀美術館で能をやるなどというのは新機軸かも知れない。金沢へ来れば見られる魅力を、金沢まで新幹線が開通した今、また 2020 年のオリンピックも見据えて、金沢の魅力としてアピールできればと思う。
食談を終え、金沢市副市長の方の音頭で乾杯し宴会に入る。
宴会になって、今宵の酒を提供された、明治3年 (1870) 創業の吉田酒造店の現社長の隆一さん (5代目) の長男泰之さん (6代目) から酒蔵の紹介があった。彼は東京農業大学を卒業後、大手酒造会社に勤務した後にロンドンに留学したことのある 29 歳。ニューヨークでの日本酒キャンペーンの折、エリック・シライ氏から、アメリカ人から見た日本酒造り:THE BITTH OF SAKE「酒の誕生」というドキュメンタリー映画を作りたいとのことで協力を求められ、一昨年 11 月から昨年 4 月にわたって撮影に協力し、その映画は今秋に公開予定とか。会場ではその予告編が上映された。外国人の目で見た新しい視点での酒造りの情景が見られそうで、乞うご期待である。
2月14日の献立「桜ほのか」は次のようだった。
「口取り」 笹小鯛の辛子味噌あえ、烏賊の花寿し、堅豆腐と蒸し雲丹、春鱒の黄身焼き、
金時草のレモン煮、うなぎ玉子巻、かぶら寿し、鰯の胡麻まぶし、花びら百合根。
「造 り」 寒ぶり、鯛、甘海老。
「炊合せ」 鯛のうま煮、結びぜんまい、車海老、蕗色煮。
「焼き物」 のど黒南天焼、里芋うに焼、菜の花辛子和え。
「合 肴」 ぐじのかぶら蒸し、蛤・岩のりあん。
「止 肴」 早堀り若筍と蕗の薹、わかさぎ南蛮漬。
春ちらし蒸し寿し。 鴨のつみれ汁。 フルーツ。
宴会も終わりに近く、琵琶と横笛のコラボで、「今を輝いて」と銘打って、筑前琵琶の藤本旭舟さんと横笛の藤舎秀代さんとで、平家物語の平実盛の死を扱った「篠原の段」の演奏があった。琵琶の演奏を聴いたのは久しぶりだった。
午後9時過ぎ、宴が終わって席を立った折、同じ卓の方が名刺を下さった。私はリタイアして名刺を持ち合わせていないが、話をすると、私と同じ金大薬学部出身の方がいたり、北陸大学や太陽グループの方がいたり、もっと早くだったら話も弾んだろうにと思った。
帰りは私たちが殿になったが、玄関へ着くと迎えのタクシーはすべて出払ったとか。何方かが予約しないで乗られたらしい。女将さんが恐縮されて、貴賓室で暫くお待ち下さいとのこと、とんだハプニングで、茶菓の接待まで受け、お話もいろいろお伺いし、お陰で素晴らしい予期しない時間を過ごすことが出来た。このような催しは年に4回、季節ごとに開かれるとのことだったが、次回出る機会があるだろうか。ケセラセラである。
2015年2月24日火曜日
金茶寮での歳時記「早春の宴」(その1)
私の誕生日の前日の2月10日の火曜日に、家内の姪から、2月14日の土曜日に、金茶寮で宴があり、そのチケットが2枚あるので出かけませんかと電話があった。家内は尻込みをしていたが、私は何となく興味が持てたのと、金茶寮の本店には一度も行ったことがなかったこともあって、家内を口説いて、ともかく出てみることにした。後日頂いたチケットを見ると、お一人様 15,000 円 (飲料サービス料・税込み) とあった。この時期金沢ではフードピアが開催されているので、その一環かとも思ったが、チケットに書かれた内容を見ると、どうも関係がなさそうで、金茶寮と北國新聞社が季節ごとに定期的に開催しているような雰囲気だった.
チケットには、次のような記述があった。
金茶寮歳時記「早春の宴」 平成27年2月14日 (土)
18時より開演(受付 17時30分)
食 談:「対談:世界から見た金沢」
講師:渡邊荀之助/宝生流能楽師 加賀能楽座
秋元 雄史/金沢21世紀美術館 館長
大樋 年雄/大樋焼第11代後継
お料理:寒ブリ、鯛、ワカサギなど
お飲物:手取川大吟醸生酒あらばしり、吉田蔵純米大吟醸 〔吉田酒造店/白山市〕
邦 楽:琵琶と笛 〜今を輝いて〜
奏者:筑前琵琶/藤本 旭舟(筑前琵琶日本旭会 師範)
横 笛/藤舎 秀代(綾の音の会 主宰)
主 催:金 茶 寮
特別協力:北國新聞社
当日午後5時15分に家を出て、タクシーに乗る。金沢エクセルホテル東急3階にある香林坊店には
数回行ったことがあるが、本店へはなく、寺町にあることは知ってはいたものの、どうして行けるのかは知らない。運転手さんに行き先を告げると、行けますとのことでお任せする。タクシーは寺町通りで何回か小路の入り口で停まりながら奥を確かめ、そして漸く着くことができた。門から玄関まで、雨が落ちていたので、仲居さんが差す傘に入り玄関へ。受付で何方様と言われて「木村」と言ったが、該当する名前はなく、それで高木さんから頂いたと告げた。それで取りあえずは「禄1」という席を頂いた。部屋は和室2間通しで9名1卓が5卓、計45席だった。定刻前には満席になった。
定刻になり、金茶寮の吉川さんの司会で宴が始まる。今回で76回になるという。メンバーは老若男女、多士済々だが、何となく何かの事業に携わっている方が多いような印象を受ける。私たちが知っている人は皆無、何となく場違いという感じがしないわけでもない。司会者からは、今宵のこの早春の宴は、同じ企画で2月27日 (金) に東京で開く金沢迎賓館フェア「金沢の日」の前座的な催しであること、そして世界視点から見て、何を金沢の魅力として発信すべきかを食談で語ってもらうとのこと。その後今宵の次第が述べられ、食談に登壇される3人が紹介された。また吉田酒造店の吉田泰之さんの紹介もあった。 (続く)
チケットには、次のような記述があった。
金茶寮歳時記「早春の宴」 平成27年2月14日 (土)
18時より開演(受付 17時30分)
食 談:「対談:世界から見た金沢」
講師:渡邊荀之助/宝生流能楽師 加賀能楽座
秋元 雄史/金沢21世紀美術館 館長
大樋 年雄/大樋焼第11代後継
お料理:寒ブリ、鯛、ワカサギなど
お飲物:手取川大吟醸生酒あらばしり、吉田蔵純米大吟醸 〔吉田酒造店/白山市〕
邦 楽:琵琶と笛 〜今を輝いて〜
奏者:筑前琵琶/藤本 旭舟(筑前琵琶日本旭会 師範)
横 笛/藤舎 秀代(綾の音の会 主宰)
主 催:金 茶 寮
特別協力:北國新聞社
当日午後5時15分に家を出て、タクシーに乗る。金沢エクセルホテル東急3階にある香林坊店には
数回行ったことがあるが、本店へはなく、寺町にあることは知ってはいたものの、どうして行けるのかは知らない。運転手さんに行き先を告げると、行けますとのことでお任せする。タクシーは寺町通りで何回か小路の入り口で停まりながら奥を確かめ、そして漸く着くことができた。門から玄関まで、雨が落ちていたので、仲居さんが差す傘に入り玄関へ。受付で何方様と言われて「木村」と言ったが、該当する名前はなく、それで高木さんから頂いたと告げた。それで取りあえずは「禄1」という席を頂いた。部屋は和室2間通しで9名1卓が5卓、計45席だった。定刻前には満席になった。
定刻になり、金茶寮の吉川さんの司会で宴が始まる。今回で76回になるという。メンバーは老若男女、多士済々だが、何となく何かの事業に携わっている方が多いような印象を受ける。私たちが知っている人は皆無、何となく場違いという感じがしないわけでもない。司会者からは、今宵のこの早春の宴は、同じ企画で2月27日 (金) に東京で開く金沢迎賓館フェア「金沢の日」の前座的な催しであること、そして世界視点から見て、何を金沢の魅力として発信すべきかを食談で語ってもらうとのこと。その後今宵の次第が述べられ、食談に登壇される3人が紹介された。また吉田酒造店の吉田泰之さんの紹介もあった。 (続く)
2015年2月18日水曜日
拘りのそば・うどん「あい物」を訪ねて
はじめに
1週間後に平成27年の探蕎会総会を控えたある日、事務局長の前田さんから電話があり、今年前半の行事のうち3月の予定が未定になっていて、このことについて世話人の塚野さんに相談したところ、のと里山海道の今浜インター近くにある「あい物」という蕎麦屋さんが評判なのでどうかと提案されたとかで、何人かで予め訪れてみたいがどうですかと打診があった。訪ねるのは2月17日の火曜日、私はこの日午前10時以降ならフリーなので OK した。当日は当初4人くらいで出かける予定だったらしいが、結果としては前田さんと私の二人だけで訪ねることになった。前田さんの車で行くことに。
蕎麦屋情報一筆:拘りのそば・うどん「あい物」
金沢から山側環状道路、次いで「のと里山海道」に入り、今浜インターで下りる。インターを下りてすぐの所にあり、幟が出ているからすぐに分かるとのことだったが、出てすぐの道を見逃したものだから、国道 249 号線近くの千里浜 CC まで来て間違いに気付いた。今浜インターまで戻り、「うどん・そば」と書かれた小さな標識のある狭い道に入ると、すぐに幟が見えた。今浜インターのごく近くだった。着いたのは昼時、草むらの駐車場には車が2台停まっていた。自宅の1階を改築してオープンした蕎麦店である。大きな家だ。
小綺麗な瀟酒な構えの店に入る。1組の客がいた。4人掛けの机が2脚、カウンターに椅子が5脚、都合13人が入れる。私たちが着いた後にも2組が、この店を知ってる人は知っているのだなあと感心する。厨房には3人が、前田さんはご主人を見て、以前に探蕎会で総会を開いたことのある金沢市末町にあった「末野倉」においでた方だと、訊ねたところ正にその通りだった。丸十年おいでたとか。店名の「あい物」の由来を訊くと、前田さんは苗字だと、「四十物」と書いて「あいもの」と読むとか。そう言えば聞いたことがある。
注文は、前田さんは「高遠おろし」、私も追随する。お酒の欄を見ると、久保田の千寿と百寿が、千寿を注文、摘みには「天ぷら」と「そばみそ」を注文する。程なくお酒が、久しぶりの千寿、付き出しには胡瓜と人参の浅漬け、前田さんには申しわけなかった。天ぷらは海老と蕗の薹が各2、あと南瓜、甘藷と大葉。蕗の薹は近くで摘んできたものとか、菊の花状に広げて揚げてあったのは新鮮だった。抹茶塩で頂く。そして「高遠おろし」、お盆に縁が黒っぽい中皿にやや多めに盛られた中細の二八のそば、コップには辛味大根のおろし汁、そしてそば汁とそば猪口と薬味 (刻み葱と生山葵) 。そばは丸抜き、コシもあって、喉越しも上々、ランクは上の中、これだと皆さんにも十分喜んでもらえるだろう。前田さんの言だと,器は皆珠洲焼きなのではとのこと、なかなかシックでよくマッチしている。
また客が、するとご主人、少し待って下さい、今すぐそばを打ちますからと。そしてそばを打ち出したではないか。数人分なら15分もあれば、打って、切って、茹でて、冷水で締めて供されるのではと思う。正に職人の自負が伺える姿を目のあたりにした。その後も客が、すると奥の部屋へどうぞとのこと、奥さんに訊くと、奥には10人は入れる畳敷きの部屋もあるとか。探蕎会でもし10人入ったら貸切りになるのではと危惧していたが、これだと安心だ。
帰りにもう1軒、かほく市白尾にある龜屋に寄って帰った。
メモ
店主:四十物 (あいもの) 一雄さん 創業:平成17年7月
住所:〒 929ー1344 羽咋郡宝達志水町今浜北 15 電話:0767−28−3653
営業:平日 11:00ー16:00頃 土・日・祝日 11:00ー20:00 定休日:木曜日
〔主なメニュー〕 単位は円
冷:ざる 800、高遠おろし 900、ごまだれ・つけとろろ 950、ざるにしん 1000、天ざる 1400
温:かけそば 800、とろろそば 950、にしんそば 1000、天ぷらそば 1400
他:ざるうどん 700、釜あげうどん 900、そばがき 700、そばだんご 250、くずきり 700
そば切りもよいが、そばがき・そばだんごもいい。自家製うどんもなかなかとか。
1週間後に平成27年の探蕎会総会を控えたある日、事務局長の前田さんから電話があり、今年前半の行事のうち3月の予定が未定になっていて、このことについて世話人の塚野さんに相談したところ、のと里山海道の今浜インター近くにある「あい物」という蕎麦屋さんが評判なのでどうかと提案されたとかで、何人かで予め訪れてみたいがどうですかと打診があった。訪ねるのは2月17日の火曜日、私はこの日午前10時以降ならフリーなので OK した。当日は当初4人くらいで出かける予定だったらしいが、結果としては前田さんと私の二人だけで訪ねることになった。前田さんの車で行くことに。
蕎麦屋情報一筆:拘りのそば・うどん「あい物」
金沢から山側環状道路、次いで「のと里山海道」に入り、今浜インターで下りる。インターを下りてすぐの所にあり、幟が出ているからすぐに分かるとのことだったが、出てすぐの道を見逃したものだから、国道 249 号線近くの千里浜 CC まで来て間違いに気付いた。今浜インターまで戻り、「うどん・そば」と書かれた小さな標識のある狭い道に入ると、すぐに幟が見えた。今浜インターのごく近くだった。着いたのは昼時、草むらの駐車場には車が2台停まっていた。自宅の1階を改築してオープンした蕎麦店である。大きな家だ。
小綺麗な瀟酒な構えの店に入る。1組の客がいた。4人掛けの机が2脚、カウンターに椅子が5脚、都合13人が入れる。私たちが着いた後にも2組が、この店を知ってる人は知っているのだなあと感心する。厨房には3人が、前田さんはご主人を見て、以前に探蕎会で総会を開いたことのある金沢市末町にあった「末野倉」においでた方だと、訊ねたところ正にその通りだった。丸十年おいでたとか。店名の「あい物」の由来を訊くと、前田さんは苗字だと、「四十物」と書いて「あいもの」と読むとか。そう言えば聞いたことがある。
注文は、前田さんは「高遠おろし」、私も追随する。お酒の欄を見ると、久保田の千寿と百寿が、千寿を注文、摘みには「天ぷら」と「そばみそ」を注文する。程なくお酒が、久しぶりの千寿、付き出しには胡瓜と人参の浅漬け、前田さんには申しわけなかった。天ぷらは海老と蕗の薹が各2、あと南瓜、甘藷と大葉。蕗の薹は近くで摘んできたものとか、菊の花状に広げて揚げてあったのは新鮮だった。抹茶塩で頂く。そして「高遠おろし」、お盆に縁が黒っぽい中皿にやや多めに盛られた中細の二八のそば、コップには辛味大根のおろし汁、そしてそば汁とそば猪口と薬味 (刻み葱と生山葵) 。そばは丸抜き、コシもあって、喉越しも上々、ランクは上の中、これだと皆さんにも十分喜んでもらえるだろう。前田さんの言だと,器は皆珠洲焼きなのではとのこと、なかなかシックでよくマッチしている。
また客が、するとご主人、少し待って下さい、今すぐそばを打ちますからと。そしてそばを打ち出したではないか。数人分なら15分もあれば、打って、切って、茹でて、冷水で締めて供されるのではと思う。正に職人の自負が伺える姿を目のあたりにした。その後も客が、すると奥の部屋へどうぞとのこと、奥さんに訊くと、奥には10人は入れる畳敷きの部屋もあるとか。探蕎会でもし10人入ったら貸切りになるのではと危惧していたが、これだと安心だ。
帰りにもう1軒、かほく市白尾にある龜屋に寄って帰った。
メモ
店主:四十物 (あいもの) 一雄さん 創業:平成17年7月
住所:〒 929ー1344 羽咋郡宝達志水町今浜北 15 電話:0767−28−3653
営業:平日 11:00ー16:00頃 土・日・祝日 11:00ー20:00 定休日:木曜日
〔主なメニュー〕 単位は円
冷:ざる 800、高遠おろし 900、ごまだれ・つけとろろ 950、ざるにしん 1000、天ざる 1400
温:かけそば 800、とろろそば 950、にしんそば 1000、天ぷらそば 1400
他:ざるうどん 700、釜あげうどん 900、そばがき 700、そばだんご 250、くずきり 700
そば切りもよいが、そばがき・そばだんごもいい。自家製うどんもなかなかとか。
2015年1月30日金曜日
福岡勝助さんの突然の他界(その2)
(承前)
(3)父の家出
金沢にいた伯母を頼り、手持ちの7万円で養鶏をしようと、斡旋してくれた犀川右岸の大豆田に畑地を買い、鶏小屋を建て養鶏をスタートした。トイレも水道もない、雨漏りがする鶏小屋で寝泊まりした。当時、卵は貴重品だったが、鶏の数を増やそうとしたところ、運転資金のやり繰りがつかなくなり、養鶏は1年で行き詰まった。しかし金沢に来て取得した運転免許が幸いし、運送会社に就職できた。父は平日勤務のほか、同僚の休日出勤も、当直勤務も率先して引き受け、それで模範社員として表彰されるほど頑張った。そして21歳の時、天神町に家を買った。勤務は真面目、そして遊興には目もくれず、生活は質素、だから縁談がいくつも舞い込んだ。でもすべて断った。そんな折、実家から山代に帰って来いとのこと、父親から財産を譲ると言われ、戻ることに。24歳の時だった。
(4)実家の相続と両親の扶養そして結婚
病気がちな両親をかかえての縁談は中々纏まらなかったが、山代に帰った翌年に今の母と結婚した。母は両親を幼くして亡くし、親の顔も知らないという苦労人だった。しかも父の両親の面倒も見なければならないのに承諾して、見合いしたその月に式を挙げるという超スピード婚だったというから、母も偉かった。父は養鶏をする一方で養豚を始めた。そして誰よりも品質管理に気を配った飼育をする一方で、出荷するタイミングにも細心の注意を払い、高い収益を上げた。そんな折、脳腫瘍が見つかった。腫瘍の摘出には正常な左目をくり抜かねばならないとか、医師からは命と片目のどちらが大事かと言われ、手術に踏み切った。正常な左目の角膜は全盲の少年に移植されたという。しかし腫瘍は完全に取り除けず、コバルト照射をしたが、その副作用で顔の左半分が完全に麻痺し、左耳の聴力も失われた。まだ子供は小さく、癌で死ぬのは構わないが、ただもう十年だけ命を永らえてほしいと神仏に祈ったという。そして退院後は以前にも増して養豚業に精を出した。
(5)田圃購入による資産形成
父は養豚で得た利益を田圃の購入に注ぎ込んだ。荒れた田圃や段差のある棚田は安かった。そして整地し、豚の糞尿を堆肥にして米作りに励んだ。こうして買った田圃は1万坪近く、故郷の荒谷の山林や棚田も頼まれて買い、その面積は1万4千坪にもなり、父親がいた時の百倍にもなった。この荒谷の山林や棚田の資産価値は低かったが、山代の土地は折からの「日本列島改造論」に端を発した土地ブームで高騰し、父の資産は見る見る膨れ上がった。でも田は売らず、米作に励んだ。土地は買うが売らないので、「ハブのような男」という異名まで付いた。でも全く売らなかった訳ではなく、山代温泉の土地区画事業には2千坪を提供した。父は「死に金」は使うな、「生き金」を使えが金銭哲学だと言っていた。この頃家を新築し、養豚は止め、米作と山林の世話に精を出した。
(6)仕事の鬼の晩年
米作と山林の世話に精を出していたこともあって、3人の子供の子育ては母に委ねられていた。要は仕事で手一杯でかまっている余裕が全くなかったからである。したがって子供を連れて遊びに出かけることは皆無だった。だから両親と子供が一緒に写っている家族団欒の写真も皆無だ。父は私は亭主関白ではないとは言っていたものの、田や山林の購入は母には全く相談せず独断で行なった。だから田圃がどんどん増えた時は、母の仕事も増え大変だったが、母は父に付いていた。母の唯一の楽しみは地元民謡会での日舞の踊りだった。このような父だったから、私たちが独立して事業を始めようとしても、金を出すとか、保証人になるとかは一切なく、正に鋼の意思を感じた。だから「父に負けるものか」という意思がかき立てられた。父は脳腫瘍の手術に際して左目を摘出した後、30年ばかり眼帯をしていたが、それはその跡が大きな穴になっていたからで、顔を洗う時は人に見られないようにしていた。その父が義眼を入れようと決心し、眼科医から紹介され、金沢医科大学病院で手術を受けた。簡単に出来ると思っていたが、大変な大手術で、目を切り、肋骨を切り取り、足の肉を削り、鼠蹊部の皮を剥ぎ、1年半にわたり4回もの手術をした。義眼を入れても目が見えるようになる訳ではなかったが、でも眼帯は外れた。そんな父の晩年の楽しみは、美田や山で立派に育っている杉や檜を眺めることで、最高の贅沢だと言っていた。合掌
(3)父の家出
金沢にいた伯母を頼り、手持ちの7万円で養鶏をしようと、斡旋してくれた犀川右岸の大豆田に畑地を買い、鶏小屋を建て養鶏をスタートした。トイレも水道もない、雨漏りがする鶏小屋で寝泊まりした。当時、卵は貴重品だったが、鶏の数を増やそうとしたところ、運転資金のやり繰りがつかなくなり、養鶏は1年で行き詰まった。しかし金沢に来て取得した運転免許が幸いし、運送会社に就職できた。父は平日勤務のほか、同僚の休日出勤も、当直勤務も率先して引き受け、それで模範社員として表彰されるほど頑張った。そして21歳の時、天神町に家を買った。勤務は真面目、そして遊興には目もくれず、生活は質素、だから縁談がいくつも舞い込んだ。でもすべて断った。そんな折、実家から山代に帰って来いとのこと、父親から財産を譲ると言われ、戻ることに。24歳の時だった。
(4)実家の相続と両親の扶養そして結婚
病気がちな両親をかかえての縁談は中々纏まらなかったが、山代に帰った翌年に今の母と結婚した。母は両親を幼くして亡くし、親の顔も知らないという苦労人だった。しかも父の両親の面倒も見なければならないのに承諾して、見合いしたその月に式を挙げるという超スピード婚だったというから、母も偉かった。父は養鶏をする一方で養豚を始めた。そして誰よりも品質管理に気を配った飼育をする一方で、出荷するタイミングにも細心の注意を払い、高い収益を上げた。そんな折、脳腫瘍が見つかった。腫瘍の摘出には正常な左目をくり抜かねばならないとか、医師からは命と片目のどちらが大事かと言われ、手術に踏み切った。正常な左目の角膜は全盲の少年に移植されたという。しかし腫瘍は完全に取り除けず、コバルト照射をしたが、その副作用で顔の左半分が完全に麻痺し、左耳の聴力も失われた。まだ子供は小さく、癌で死ぬのは構わないが、ただもう十年だけ命を永らえてほしいと神仏に祈ったという。そして退院後は以前にも増して養豚業に精を出した。
(5)田圃購入による資産形成
父は養豚で得た利益を田圃の購入に注ぎ込んだ。荒れた田圃や段差のある棚田は安かった。そして整地し、豚の糞尿を堆肥にして米作りに励んだ。こうして買った田圃は1万坪近く、故郷の荒谷の山林や棚田も頼まれて買い、その面積は1万4千坪にもなり、父親がいた時の百倍にもなった。この荒谷の山林や棚田の資産価値は低かったが、山代の土地は折からの「日本列島改造論」に端を発した土地ブームで高騰し、父の資産は見る見る膨れ上がった。でも田は売らず、米作に励んだ。土地は買うが売らないので、「ハブのような男」という異名まで付いた。でも全く売らなかった訳ではなく、山代温泉の土地区画事業には2千坪を提供した。父は「死に金」は使うな、「生き金」を使えが金銭哲学だと言っていた。この頃家を新築し、養豚は止め、米作と山林の世話に精を出した。
(6)仕事の鬼の晩年
米作と山林の世話に精を出していたこともあって、3人の子供の子育ては母に委ねられていた。要は仕事で手一杯でかまっている余裕が全くなかったからである。したがって子供を連れて遊びに出かけることは皆無だった。だから両親と子供が一緒に写っている家族団欒の写真も皆無だ。父は私は亭主関白ではないとは言っていたものの、田や山林の購入は母には全く相談せず独断で行なった。だから田圃がどんどん増えた時は、母の仕事も増え大変だったが、母は父に付いていた。母の唯一の楽しみは地元民謡会での日舞の踊りだった。このような父だったから、私たちが独立して事業を始めようとしても、金を出すとか、保証人になるとかは一切なく、正に鋼の意思を感じた。だから「父に負けるものか」という意思がかき立てられた。父は脳腫瘍の手術に際して左目を摘出した後、30年ばかり眼帯をしていたが、それはその跡が大きな穴になっていたからで、顔を洗う時は人に見られないようにしていた。その父が義眼を入れようと決心し、眼科医から紹介され、金沢医科大学病院で手術を受けた。簡単に出来ると思っていたが、大変な大手術で、目を切り、肋骨を切り取り、足の肉を削り、鼠蹊部の皮を剥ぎ、1年半にわたり4回もの手術をした。義眼を入れても目が見えるようになる訳ではなかったが、でも眼帯は外れた。そんな父の晩年の楽しみは、美田や山で立派に育っている杉や檜を眺めることで、最高の贅沢だと言っていた。合掌
2015年1月29日木曜日
福岡勝助さんの突然の他界(その1)
福岡勝助さんは、私の三男の故木村誠孝が当時常務取締役だった㈱フリークスコアで代表取締役社長をしていた福岡悟氏の父上である。現在この会社は㈱レガシーホールディングスといい、主にインターネット・漫画喫茶「サイバーカフェ フリークス」をコアとしていて、主に北陸3県、東北、中京を中心に30店舗程を展開している。この店舗展開に当たっては、息子は社長の右腕となって、一時は米国や中国にも店舗を展開する計画もあったやに聞いていた。そんなこともあってか、平成22年に息子が肺癌で他界した後も、息子の細君を社外重役として遇してくれていて、親としては一方ならぬ厚情に心から感謝している。
1月23日に、会社から社長のお父さんが亡くなったと息子の細君に電話があり、すぐその報は家内にも届き、私は家内から連絡を受けた。いろいろ過分な気遣いをしていただいていることもあり、お通夜と葬儀に出ることにした。24日の新聞のお悔やみ欄には案内がなかったが、25日には案内があり、通夜は25日午後7時、葬儀は26日午前10時とのことだった。25日は日曜日だったので、故三男の息子二人も参列してくれた。場所は加賀市作見町の JA やすらぎ会館、JR 加賀温泉駅に程近い所に位置している。
喪主は二男の聡 (さとし) とあったので一瞬訝ったが、それは福岡家の事情によることであり、こちらが気に病むことではない。返礼の挨拶状には、喪主の二男、母親 (故人の妻)、長男、長女の名が順に書かれていた。葬儀場で耳に挟んだ話では、2歳上の長男さんは山代温泉でブティックを経営しているとか、3歳下の長女の方は兄の二男さんの会社で取締役として仕事をサポートしているとかだった。喪主の二男さんの手広い商売の関係もあって、生花や供物も多く、また弔問に訪れた人も多く、お通夜には6百人を超える人のお参りがあった。式は檀那寺の真宗大谷派 (お西) の僧侶によって行なわれた。通夜と葬儀の式後、喪主から参列者に挨拶があった。内容は急に亡くなった経緯と、故人の生きざまを語ったもので、かなりの時間が割かれた。興味があったので、その一端を記そうと思う。
(1)父の急逝
父は昭和7年2月12日生まれの82歳、夫婦二人での生活、共に元気だった。父はことのほかお餅が大好きでよく食べていたが、1月12日に突然餅を喉に詰まらせ、おそらく誤嚥だったと思われるが、それで呼吸が困難になり、更に心臓も停止してしまったという。救急車で病院に運ばれ、蘇生の甲斐があって心臓は鼓動を回復したが、およそ30分も心停止があったこともあって、脳の機能は回復せ
ず、記憶は戻らなかった。その間付きっきりで家族皆で看病したが、10日後の1月22日に息を引き取り、永い眠りについた。看病の間、一途な信念を貫いてきた父の背に、残された家族皆で手を取り合い励んでゆくと約束した。
(2)父の生い立ち
父が生まれたのは、石川県江沼郡東谷奥村字荒谷 (その後江沼郡山中町荒谷町)、現在の加賀市山中温泉荒谷町である。(注:動橋川の上流にある集落で、現在はこの一帯の加賀東谷地区は国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている)。父が生まれた頃はまだ百世帯ほどが暮らしていて、福岡家は代々林業と炭焼きが生業で、それに少しの棚田があった。父は四男四女の6番目の三男だった。父親は厳格だったが、母親は優しかったという。父親は大勢の家族を養うために、自前で炭を焼けなくなってからは、越前 (福井県) へ炭焼きの出稼ぎに出向いたという。稲は作ってはいたが、狭い棚田で収量は少なく、炭の行商もして虎口を凌いだ。それで戦時中に祖父を荒谷に残して一家は山代へ移った。そして戦後、父は国民学校を卒業してからは、父親の炭売りや田圃の仕事を手伝いながら、子供心に「何が一番お金になるか」を必死で考え、まだ配給制だった電球や米を仕入れ、自分でも商いを始め、少しずつお金を貯めていった。15歳の頃である。その後兎や鶏を飼い、さらに豚を飼育するまでになる。こうして家に生活費を入れながら、父親に内緒でお金を貯めていった。そうして山代温泉の東口の民家から離れた土地を買い求め、養豚の畜舎を建てる計画をした。ところが未成年なので親の印鑑が必要なので父親に相談したところ、大反対され、計画はご破産になった。それで家を出ることに、父18歳の時である。
1月23日に、会社から社長のお父さんが亡くなったと息子の細君に電話があり、すぐその報は家内にも届き、私は家内から連絡を受けた。いろいろ過分な気遣いをしていただいていることもあり、お通夜と葬儀に出ることにした。24日の新聞のお悔やみ欄には案内がなかったが、25日には案内があり、通夜は25日午後7時、葬儀は26日午前10時とのことだった。25日は日曜日だったので、故三男の息子二人も参列してくれた。場所は加賀市作見町の JA やすらぎ会館、JR 加賀温泉駅に程近い所に位置している。
喪主は二男の聡 (さとし) とあったので一瞬訝ったが、それは福岡家の事情によることであり、こちらが気に病むことではない。返礼の挨拶状には、喪主の二男、母親 (故人の妻)、長男、長女の名が順に書かれていた。葬儀場で耳に挟んだ話では、2歳上の長男さんは山代温泉でブティックを経営しているとか、3歳下の長女の方は兄の二男さんの会社で取締役として仕事をサポートしているとかだった。喪主の二男さんの手広い商売の関係もあって、生花や供物も多く、また弔問に訪れた人も多く、お通夜には6百人を超える人のお参りがあった。式は檀那寺の真宗大谷派 (お西) の僧侶によって行なわれた。通夜と葬儀の式後、喪主から参列者に挨拶があった。内容は急に亡くなった経緯と、故人の生きざまを語ったもので、かなりの時間が割かれた。興味があったので、その一端を記そうと思う。
(1)父の急逝
父は昭和7年2月12日生まれの82歳、夫婦二人での生活、共に元気だった。父はことのほかお餅が大好きでよく食べていたが、1月12日に突然餅を喉に詰まらせ、おそらく誤嚥だったと思われるが、それで呼吸が困難になり、更に心臓も停止してしまったという。救急車で病院に運ばれ、蘇生の甲斐があって心臓は鼓動を回復したが、およそ30分も心停止があったこともあって、脳の機能は回復せ
ず、記憶は戻らなかった。その間付きっきりで家族皆で看病したが、10日後の1月22日に息を引き取り、永い眠りについた。看病の間、一途な信念を貫いてきた父の背に、残された家族皆で手を取り合い励んでゆくと約束した。
(2)父の生い立ち
父が生まれたのは、石川県江沼郡東谷奥村字荒谷 (その後江沼郡山中町荒谷町)、現在の加賀市山中温泉荒谷町である。(注:動橋川の上流にある集落で、現在はこの一帯の加賀東谷地区は国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている)。父が生まれた頃はまだ百世帯ほどが暮らしていて、福岡家は代々林業と炭焼きが生業で、それに少しの棚田があった。父は四男四女の6番目の三男だった。父親は厳格だったが、母親は優しかったという。父親は大勢の家族を養うために、自前で炭を焼けなくなってからは、越前 (福井県) へ炭焼きの出稼ぎに出向いたという。稲は作ってはいたが、狭い棚田で収量は少なく、炭の行商もして虎口を凌いだ。それで戦時中に祖父を荒谷に残して一家は山代へ移った。そして戦後、父は国民学校を卒業してからは、父親の炭売りや田圃の仕事を手伝いながら、子供心に「何が一番お金になるか」を必死で考え、まだ配給制だった電球や米を仕入れ、自分でも商いを始め、少しずつお金を貯めていった。15歳の頃である。その後兎や鶏を飼い、さらに豚を飼育するまでになる。こうして家に生活費を入れながら、父親に内緒でお金を貯めていった。そうして山代温泉の東口の民家から離れた土地を買い求め、養豚の畜舎を建てる計画をした。ところが未成年なので親の印鑑が必要なので父親に相談したところ、大反対され、計画はご破産になった。それで家を出ることに、父18歳の時である。
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