日本秘湯を守る会と朝日旅行がタイアップして、会に加入している秘湯の宿凡そ200軒に、3年間のうちに10軒宿泊すると、訪れた宿のうちの希望する1軒に無料で宿泊招待されるという企画がある。これまでも会員の宿に宿泊したことはあったが、このような企画があるというのを知ったのはつい3年前のこと、平成22年の秋に長野県の中の湯温泉旅館に泊まった時のことである。そして2年後、このスタンプ帳を初めて貰った旅館で10個目のスタンプを貰い、希望旅館を満山荘にして申請したところ、第1希望の3月31日に招待宿泊の返事が届いた。
第1日(3月31日)
当日午前7時半に家を出る。天候は曇り、山側環状道路を経由して森本ICから北陸自動車道に入る。朝食は有磯海SAで摂り、上信越自動車道の妙高PAで小憩し、昼は久しぶりに小布施のそば処「せきざわ」に寄ることにし、中野ICで下りる。
● 「せきざわ」 小布施市中松
ここには数回訪れているが、近頃訪れた人の評ではあまり芳しくないとか。そんなこともあって一度確かめに寄ってみようと思った。目的地に着いたのは11時少し前、開店は11時半、既に2組が待っていた。車のナンバーは八王子と富山、まだ人気があるようだ。車は8台駐車可能とか、以前開店前でも駐車スペースがなく、離れた道路隅に停めたこともあった。11時半きっかりに戸が開けられ、11人が入る。ここは原則相席である。この店の原蕎麦は北信濃栄村での自家栽培のものを手刈りで天日干しにし、自家製粉しての提供が売りだった。そばは冷たい「三昧そば」(1400円)をお願いする。ややあって、初めに生粉打ち(十割)、長方形のせいろに盛られ、色は白っぽい、打ちは中細、並の味、なぜか以前ほどの感激はない。次いで変わりそば、これは二八で、この日は紫蘇切りとか、せいろの真ん中にこんもり盛られて出てきた。微かな香りと味がする。次いで粗挽き、やはりこんもりと、九一の中太で、これが最も蕎麦らしい味、でも三枚とも水切りが悪くびしょついていたのは頂けなかった。風評は本当だった。
● 「満山荘」 高山村奥山田温泉
小布施から松川渓谷沿いに、山田温泉を経由して奥山田温泉へ向かう。微かに小雨が間断なく降っている。奥山田温泉は標高1560mの高地、山へ入るとガスが立ち込め小雪が舞っている。チェックインは午後2時、宿近くの空き地で小1時間待機した。2時になり宿へ入る。無料招待なので旧館だろうと話し合う。何時もだと新館でと言うのだが、今回はそうも言えず成り行き任せにする。案内されたのは旧館の202号室の「槍」。しかし旧館は1年前に改装されていて、随分感じが素晴らしくなっていたのには驚いた。トイレも最新の設備で完全自動、古いのは骨組みだけで、インテリアも実に素晴らしい。料金を積み増しして新館へと思っていたが、杞憂に終わった.実に満足いく空間だった。
早速に風呂へ。この時間帯、男性は館主手製の岩風呂、女性は大枚かけて改装した檜風呂、これは午後10時から朝の8時までは男女の風呂は交替する。いずれにも内風呂と露天風呂がある。お湯は硫黄泉で白濁している。源泉は96℃だが、配湯されるお湯は65℃とかである。掛け流しである。天気が良ければ、露天風呂からは北アルプスの峰々が望めるのだが、今は小雪とガスで全く視界が利かない。今日は2組だけとか。今までは満室ばかりだったので、こんな日もあるのだと変に納得する。
夕食は午後6時半とかで、部屋でテレビを見ながら、持参の「神の河」を飲み寛ぐ。時々ガスが切れると、眼下に雲海が広がっているのが見える。6時半になって食事処のFOOD風土へ行く。席にはもう食事が用意されている。旬の食材をふんだんに使った嫁はんの創作料理、「北信濃風 春の献立」の数々、見た目の色彩感覚も実に素晴らしい。飲み物は地の赤ワインにする。料理の説明がある。曰く「食前酒」「信州サーモン塩糀」「生湯葉」「手作り牛乳豆腐」「サラダ十種角皿盛り」「十六穀米スープ」「春の山菜天麩羅」「大岩魚のジェノバ風ソース」「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」「チーズの茶碗蒸し」「野沢菜茶漬け」「りんごあいす」等々、ワインはハーフを3本お願いした。私も家内も、この献立にはワインが最もお似合いと思った。ゆっくり旬の創作料理を堪能した。その後部屋で寛ぐ。外は寒いらしく、降った雪が氷化している。0℃近くまで下がったのだろう。明日は天気は良くなるという。期待しよう。
2013年4月5日金曜日
2013年3月28日木曜日
白川義員作品集『永遠の日本』の「あとがき」から
(1)作品集『永遠の日本』への道程
50年前の1962年5月から12月までの8ヵ月間、当時勤務していたフジテレビを休職し、中日新聞特派員として世界35ヵ国を巡る旅をした。海外旅行が自由化される前で、世界中どこへ行っても、日本人には全く会わなかった。帰国翌日にフジテレビに退職届を出したその足で緊急パスポートを外務省に申請し、今度は『週刊女性』の特派員としてヨーロッパに引き返し、それから6年間アルプスを撮影した。学生の頃、浦松佐美太郎氏の『たった一人の山』を読んで、ヨーロッパ・アルプスに憧れていたが、実際の風景は次元を超えて感動的であった。アルプスは北海道北端にある利尻岳よりも緯度的に北に位置し、しかも高度がほぼ4500mあるから、山は夏になっても常に真っ白い雪に埋まっている。そこに日の出や日没の長波長の太陽光を受けて、真っ赤になったり黄金色になったりする。私はそれまで、これ程までに鮮烈で荘厳な風景を見たことがなかった。
日々毎日私は感動の渦にひたりながら、4000mの稜線からこの様を眺めた。4〜5年もの間山を撮ったり眺めたりしているうちに、自分の祖国日本でこのような鮮烈荘厳で壮麗絢爛な風景写真を撮って、これが日本だと世界に誇れる写真集を作れないかと考えるようになった。アルプスの撮影は6年間で終了し、日本に帰国して作品集『アルプス』の編集は出版社にまかせて、直ちに日本の撮影を開始した。ところが山岳関係者の話によると、ヒマラヤを撮影するなら、今をおいて他にないという。中国とインドの戦争も落ち着いて、やるなら今だという。そこで日本撮影を中止し、直ちにヒマラヤ撮影を始めた。
ヒマラヤ撮影の4年間は、今度こそ死ぬと死を覚悟したことも二度や三度ではない。毎日が突撃の連続で、過労と栄養失調で20kgも痩せて肺結核になり片肺を失うが、この4年間で全くの無神論者であった私が、神の存在を心底信じるに至った。帰国後ふたたび日本の撮影にかかるが、同時に世界一周の途次記憶に焼きついているモニュメントヴァレやグランドキャニオンの大地に、ヒマラヤで信じた神の存在を立証したいという気持ちもあって渡米し、「永遠のアメリカ」の撮影に入る。折しも5年先の1976年はアメリカの建国200年で、この撮影がアメリカ政府の公式行事に決まり、日本撮影は中断となった。
帰国後4度目の日本撮影を開始した。でも次にと企画していた「聖書の世界」の撮影には、旧約聖書の創世記の舞台イラクは欠かせず、入国するにはこの時しかなく、外務省の支援を受けて飛び込み、1ヵ月かけて一気に撮って飛び出したら、直後にイラン・イラク戦争が始まり、続いて湾岸戦争、そしてアメリカのイラク侵攻と、あれから35年間誰もイラクには入れなかった。それで引き続き「聖書の世界」に没頭することになり、再び日本の撮影は中断となった。
その後「中国大陸」「神々の原風景」「仏教伝来」を上梓し、その後1991年からは2シーズンにわたってアメリカ政府の全面支援を受けて南極大陸での撮影を行い、1994年には「南極大陸」を上梓した。さらに1997年から2000年にかけては世界百名山の、2002年から2007年にかけては世界百名瀑の撮影に没頭した。そして百名山は2002年に、百名瀑は2007年に上梓できた。
こうして漸く「永遠の日本」の撮影にとりかかれたのは2008年、このテーマでの撮影を決心してから45年もの歳月が流れた。そして2012年に漸く完成し、上梓された。私が77歳の秋のことである。完成するまでに、まことに長い道のりであった。
(2)日本での航空撮影における諸問題
私はこれまでに143ヵ国を撮影してきた。そして久しぶりに日本で本格的に撮影するに及んで、日本と外国とでは省庁の考え方生き方に大きな違いがあるのを見出した。航空撮影だが、外国では離陸や着陸時間は自由である。だから外国では、朝夕の真っ赤になった絢爛豪華な感動的な山や風景は撮れるが、日本では離陸は朝9時か10時、しかも定期便の発着前にチャーター機を飛ばせないので、撮影は不可能である。またヘリコプターの場合、外国ではどこに着陸しようと自由であるが、日本では指定の空港以外に着陸はできない。また北海道では札幌にしかヘリはいない。また料金自体、日本では外国に比べてセスナ機で3倍、ヘリで4倍かかる。しかも動線が長くなり、撮影に関係ない費用も2倍かかる。航空会社の話では、国土交通省の規制が異常に厳しいという。世界では日本だけが異常である。
50年前の1962年5月から12月までの8ヵ月間、当時勤務していたフジテレビを休職し、中日新聞特派員として世界35ヵ国を巡る旅をした。海外旅行が自由化される前で、世界中どこへ行っても、日本人には全く会わなかった。帰国翌日にフジテレビに退職届を出したその足で緊急パスポートを外務省に申請し、今度は『週刊女性』の特派員としてヨーロッパに引き返し、それから6年間アルプスを撮影した。学生の頃、浦松佐美太郎氏の『たった一人の山』を読んで、ヨーロッパ・アルプスに憧れていたが、実際の風景は次元を超えて感動的であった。アルプスは北海道北端にある利尻岳よりも緯度的に北に位置し、しかも高度がほぼ4500mあるから、山は夏になっても常に真っ白い雪に埋まっている。そこに日の出や日没の長波長の太陽光を受けて、真っ赤になったり黄金色になったりする。私はそれまで、これ程までに鮮烈で荘厳な風景を見たことがなかった。
日々毎日私は感動の渦にひたりながら、4000mの稜線からこの様を眺めた。4〜5年もの間山を撮ったり眺めたりしているうちに、自分の祖国日本でこのような鮮烈荘厳で壮麗絢爛な風景写真を撮って、これが日本だと世界に誇れる写真集を作れないかと考えるようになった。アルプスの撮影は6年間で終了し、日本に帰国して作品集『アルプス』の編集は出版社にまかせて、直ちに日本の撮影を開始した。ところが山岳関係者の話によると、ヒマラヤを撮影するなら、今をおいて他にないという。中国とインドの戦争も落ち着いて、やるなら今だという。そこで日本撮影を中止し、直ちにヒマラヤ撮影を始めた。
ヒマラヤ撮影の4年間は、今度こそ死ぬと死を覚悟したことも二度や三度ではない。毎日が突撃の連続で、過労と栄養失調で20kgも痩せて肺結核になり片肺を失うが、この4年間で全くの無神論者であった私が、神の存在を心底信じるに至った。帰国後ふたたび日本の撮影にかかるが、同時に世界一周の途次記憶に焼きついているモニュメントヴァレやグランドキャニオンの大地に、ヒマラヤで信じた神の存在を立証したいという気持ちもあって渡米し、「永遠のアメリカ」の撮影に入る。折しも5年先の1976年はアメリカの建国200年で、この撮影がアメリカ政府の公式行事に決まり、日本撮影は中断となった。
帰国後4度目の日本撮影を開始した。でも次にと企画していた「聖書の世界」の撮影には、旧約聖書の創世記の舞台イラクは欠かせず、入国するにはこの時しかなく、外務省の支援を受けて飛び込み、1ヵ月かけて一気に撮って飛び出したら、直後にイラン・イラク戦争が始まり、続いて湾岸戦争、そしてアメリカのイラク侵攻と、あれから35年間誰もイラクには入れなかった。それで引き続き「聖書の世界」に没頭することになり、再び日本の撮影は中断となった。
その後「中国大陸」「神々の原風景」「仏教伝来」を上梓し、その後1991年からは2シーズンにわたってアメリカ政府の全面支援を受けて南極大陸での撮影を行い、1994年には「南極大陸」を上梓した。さらに1997年から2000年にかけては世界百名山の、2002年から2007年にかけては世界百名瀑の撮影に没頭した。そして百名山は2002年に、百名瀑は2007年に上梓できた。
こうして漸く「永遠の日本」の撮影にとりかかれたのは2008年、このテーマでの撮影を決心してから45年もの歳月が流れた。そして2012年に漸く完成し、上梓された。私が77歳の秋のことである。完成するまでに、まことに長い道のりであった。
(2)日本での航空撮影における諸問題
私はこれまでに143ヵ国を撮影してきた。そして久しぶりに日本で本格的に撮影するに及んで、日本と外国とでは省庁の考え方生き方に大きな違いがあるのを見出した。航空撮影だが、外国では離陸や着陸時間は自由である。だから外国では、朝夕の真っ赤になった絢爛豪華な感動的な山や風景は撮れるが、日本では離陸は朝9時か10時、しかも定期便の発着前にチャーター機を飛ばせないので、撮影は不可能である。またヘリコプターの場合、外国ではどこに着陸しようと自由であるが、日本では指定の空港以外に着陸はできない。また北海道では札幌にしかヘリはいない。また料金自体、日本では外国に比べてセスナ機で3倍、ヘリで4倍かかる。しかも動線が長くなり、撮影に関係ない費用も2倍かかる。航空会社の話では、国土交通省の規制が異常に厳しいという。世界では日本だけが異常である。
2013年3月27日水曜日
白川義員作品集『永遠の日本』への賛辞 その2
6.湖沼:「変化に富む湖沼が彩る列島」 辻井達一(専門:植物生態学)
日本は国土の小さい割には湖沼が多いが、それは火山国だからと言ってよい。理科年表によると、面積4平方km以上の湖が72湖あるが、そのうち半数の34湖は火山性のカルデラ湖、堰止め湖である。次いで多いのは海岸のラグーン、すなわち汽水性の潟湖で3分の1を占める。残りは高山の湖沼と泥炭地の湖沼で、これは気候とか地形が要因となっている。この写真集には、それぞれに特徴的な湖沼がちりばめられている。それぞれにまことに興味津々の「水の異界」ともいうっべき存在である。
7.森林・巨木:「森林は雨が育てる、森林は文化を育む」 只木良也(専門:生態学)
日本列島の年間平均降水量は1,700mmを超え、これは全土にわたり森林の生育に十分な降水量です。だから「あとは野となれ、山となれ」の譬えが成り立ち、日本人は「自然」には森林があって当たり前と思っています。しかし世界を見ると、森林の成立が許されるのは3分の1にしか過ぎません。それが更に現今の人間活動のためにどんどん減少し、今や4分の1に近づいています。日本は森の国です。日本人の活動でこれだけ開発が進んだのに、なお国土面積の3分の2が森林です。豊かな森林に恵まれたところには、それに育てられた文化が生まれます。森林との賢い付き合いを進めて行きたいものです。
8.渓谷・河川:「大地に刻まれた山、川、森の複合美」 小野有五(専門:景観生態学)
日本には3万の川があるといわれる。狭い国土にこれほど多くの河川があるのは、日本が世界で最も活発な変動帯の上にあって、山は常に隆起し、雨で削られ、谷ができ、そこに雨水や雪解け水が流れ込むからである。日本の渓谷は、ほとんど山頂の直下に始まり、山地と平野の境目で終わる。それ位、日本の川は短い。源流に落ちた一滴の雨粒は、川に流れ込めば、1週間か10日で、海まで流れていく。この速さと、山と海の近さに、日本の渓谷・河川の特徴がある。白川さんは23点選ばれたというので、私も事前にリストを作ってみたりもしたが、3分の2は共通していた。
9.高原:「驚きと感動に満ちた日本の高原」 小泉武栄(専門:自然地理学)
「高原」とは、高いところにある平坦な土地を指し、世界的にはチベット高原やデカン高原、コロラド高原のように、日本列島がいくつも入ってしまうような広大なものを指すのが普通ですが、日本の高原はこれとは別のものです。高原と名のつく日本の高原は、美濃三河高原などのように、数百万年前に平地だったところが、その後隆起して高くなった「隆起準平原」と呼ばれるものです。でも一般的には、火山麓扇状地(那須高原、妙高高原など)や火山群(志賀高原など、本書では大雪山、十勝岳なども)、火山性台地(立山弥陀ヶ原、八幡平、美ヶ原、霧ヶ峰など)もそう呼ばれています。
10,湿原:「湿原が語る日本列島の歴史」 辻井達一(専門:植物生態学)
太古、日本は湿原の国でした。最古の歴史書「古事記」にある「豊葦原瑞穂国」は正に「葦が一面に生えるように、稲が豊かに育つ国」を意味するものです。葦の生えている湿地は、絶好の稲作の場だということです。日本にはツンドラ湿原こそありませんが、湖沼が浅くなってできた湖成湿原、ラグーンで海が退いたり、陸地が隆起したりしてできたもの、高山の平らな場所や窪地に形成された高層湿原、暑い地方で発達するマングローブ湿地など、南北に細長く延びた国土にはいろんなタイプの湿原が揃っています。
11.海浜/島嶼:「生命に満ち溢れた海洋列島」 安田喜憲(専門:環境考古学)
奇蹟の生命の惑星地球が、ほんの一瞬だけ、サムシンググレードの存在を人間に実感させる時があります。それは多くが人生の転機に引き起こされます。白川氏がマッターホルンの朝焼けの一瞬を撮影するために6年間も通い詰めたのは、その存在に出会うためではなかったかと想像します。山国に生まれた私が東北に来て、名取市の閖上から広大な太平洋の波涛を見た時の感激も、奥松島から太平洋の大海原を望んだ時の感動も忘れられません。こんな世界があったのかと思ったものです。「アルプス」から「世界百名瀑」まで、地球の大陸を撮り続けてきた白川氏が、自らの生まれた海洋的な日本列島の風土、多神教の国の素晴らしさを表現したのが「永遠の日本」です。日本の素晴らしさを一口で言えば、「生命に満ち溢れた海洋列島」と言えましょうか。
日本は国土の小さい割には湖沼が多いが、それは火山国だからと言ってよい。理科年表によると、面積4平方km以上の湖が72湖あるが、そのうち半数の34湖は火山性のカルデラ湖、堰止め湖である。次いで多いのは海岸のラグーン、すなわち汽水性の潟湖で3分の1を占める。残りは高山の湖沼と泥炭地の湖沼で、これは気候とか地形が要因となっている。この写真集には、それぞれに特徴的な湖沼がちりばめられている。それぞれにまことに興味津々の「水の異界」ともいうっべき存在である。
7.森林・巨木:「森林は雨が育てる、森林は文化を育む」 只木良也(専門:生態学)
日本列島の年間平均降水量は1,700mmを超え、これは全土にわたり森林の生育に十分な降水量です。だから「あとは野となれ、山となれ」の譬えが成り立ち、日本人は「自然」には森林があって当たり前と思っています。しかし世界を見ると、森林の成立が許されるのは3分の1にしか過ぎません。それが更に現今の人間活動のためにどんどん減少し、今や4分の1に近づいています。日本は森の国です。日本人の活動でこれだけ開発が進んだのに、なお国土面積の3分の2が森林です。豊かな森林に恵まれたところには、それに育てられた文化が生まれます。森林との賢い付き合いを進めて行きたいものです。
8.渓谷・河川:「大地に刻まれた山、川、森の複合美」 小野有五(専門:景観生態学)
日本には3万の川があるといわれる。狭い国土にこれほど多くの河川があるのは、日本が世界で最も活発な変動帯の上にあって、山は常に隆起し、雨で削られ、谷ができ、そこに雨水や雪解け水が流れ込むからである。日本の渓谷は、ほとんど山頂の直下に始まり、山地と平野の境目で終わる。それ位、日本の川は短い。源流に落ちた一滴の雨粒は、川に流れ込めば、1週間か10日で、海まで流れていく。この速さと、山と海の近さに、日本の渓谷・河川の特徴がある。白川さんは23点選ばれたというので、私も事前にリストを作ってみたりもしたが、3分の2は共通していた。
9.高原:「驚きと感動に満ちた日本の高原」 小泉武栄(専門:自然地理学)
「高原」とは、高いところにある平坦な土地を指し、世界的にはチベット高原やデカン高原、コロラド高原のように、日本列島がいくつも入ってしまうような広大なものを指すのが普通ですが、日本の高原はこれとは別のものです。高原と名のつく日本の高原は、美濃三河高原などのように、数百万年前に平地だったところが、その後隆起して高くなった「隆起準平原」と呼ばれるものです。でも一般的には、火山麓扇状地(那須高原、妙高高原など)や火山群(志賀高原など、本書では大雪山、十勝岳なども)、火山性台地(立山弥陀ヶ原、八幡平、美ヶ原、霧ヶ峰など)もそう呼ばれています。
10,湿原:「湿原が語る日本列島の歴史」 辻井達一(専門:植物生態学)
太古、日本は湿原の国でした。最古の歴史書「古事記」にある「豊葦原瑞穂国」は正に「葦が一面に生えるように、稲が豊かに育つ国」を意味するものです。葦の生えている湿地は、絶好の稲作の場だということです。日本にはツンドラ湿原こそありませんが、湖沼が浅くなってできた湖成湿原、ラグーンで海が退いたり、陸地が隆起したりしてできたもの、高山の平らな場所や窪地に形成された高層湿原、暑い地方で発達するマングローブ湿地など、南北に細長く延びた国土にはいろんなタイプの湿原が揃っています。
11.海浜/島嶼:「生命に満ち溢れた海洋列島」 安田喜憲(専門:環境考古学)
奇蹟の生命の惑星地球が、ほんの一瞬だけ、サムシンググレードの存在を人間に実感させる時があります。それは多くが人生の転機に引き起こされます。白川氏がマッターホルンの朝焼けの一瞬を撮影するために6年間も通い詰めたのは、その存在に出会うためではなかったかと想像します。山国に生まれた私が東北に来て、名取市の閖上から広大な太平洋の波涛を見た時の感激も、奥松島から太平洋の大海原を望んだ時の感動も忘れられません。こんな世界があったのかと思ったものです。「アルプス」から「世界百名瀑」まで、地球の大陸を撮り続けてきた白川氏が、自らの生まれた海洋的な日本列島の風土、多神教の国の素晴らしさを表現したのが「永遠の日本」です。日本の素晴らしさを一口で言えば、「生命に満ち溢れた海洋列島」と言えましょうか。
2013年3月26日火曜日
白川義員作品集『永遠の日本』への賛辞 その1
以下に「永遠の日本」の解説編に載せられた全体に対する序、及び各章(名岳、名瀑、湖沼、森林・巨木、渓谷・河川、高原、湿原、海浜・島嶼)の序、及び著者による「はじめに」と「あとがき」の要約を記す。
1.序「日本列島、人間の意識の根底に迫る」 山折哲雄(宗教学者)
日本列島は正に三層構造で出来上がっている。海洋と山岳と森林をベースとする縄文的世界が基層にあり、その上に弥生的農耕社会が中層をつくり、最上層が近代社会によって構成されている。そのうち最も根源的で重要な役割を果たしているのが、縄文的無意識世界に内包される宇宙観と価値観であるが、それを日本列島の自然景観の中に探り出し、その千変万化する個性的な風土をカメラの目を通して映像化したのが白川義員氏だった。彼の目は醜悪な人工物に囲まれた自然から離脱し、自然そのものに内在する美と神秘の世界に近づこうとする志と情熱によって再現されたものである。
2.序「努力と勇気、類まれな想像力」 安藤忠雄(建築家)
私はずっと、不思議に思っていた。写真や映像でよく見知っているはずの風景、それがなぜ、白川義員の作品でのみ、全く異質なものに見えるのか、画枠を超えて、山が語りかけるように、海が襲いかかるように見えるのか。その答えは、人間世界の向こう側にあって、雄大に広がる自然が、ある季節のある一日、ある一瞬に垣間見せる、その瞬間の輝きを、身を賭して、執拗に追いかけて表現した、それは彼の稀有な才能による生命力をかけた魂の表現である。
3.「はじめに」 白川義員
私はこれまで、第1の目的は「地球再発見」、第2の目的は「人間性の回復へ」を基本理念として10作の仕事を完成させてきた。次の第3の目的には「日本再発見による日本人の魂の復興へ」を掲げ、5年がかりで「永遠の日本」に取り組んだ。私はこれまで50年にわたって世界143ヶ国と南極大陸を巡り旅をしてきたが、帰国して最も衝撃を受けたのは、親殺し子殺し、通り魔による大量殺傷の事件、これは人間が終始ビルディングの谷間を右往左往し、醜悪な人工物に囲まれて、自然の一部である人間が自然から隔絶された生活をしているからにほかならない。「永遠の日本」は日本の政治が堕落しようと社会が荒廃しようと、我が祖国日本の自然はかくも偉大で崇高で永遠なのだということを人々に見ていただきたいとの想いをこめて制作した。
4.名岳:「火山国ならではの名山風景」 鎌田浩毅(専門:火山学)
日本は四方を海に囲まれた島国で、日本列島は陸のプレート2つと海のプレート2つの計4つのプレートの相互運動によって誕生した。日本列島は世界の陸地面積の400分の1しかないのに、世界中の7%の活火山がある。本書には南北アルプスの山々が掲載されているが、このうち南アルプスは海がフィリピン海プレートによって隆起したものであり、北アルプスを隆起させたのは太平洋プレートである。また日本は世界有数の火山国であって、本書でも霧島火山・新燃岳や桜島火山の噴火写真が多数収められているが、まさに活火山の荒ぶる姿である。こうした多様な姿を見せる日本の名山を眺めつつ、「生きている大地」を感じとっていただきたい。
5.名瀑:「悠久のなかの滝と日本人の魂」 秋道智弥(専門:生態人類学)
日本列島は南北3,000kmにわたる島々からなる。日本の森林面積は国土の7割を占め、森の国と言われる。また複雑な地形ゆえに峡谷が発達していて、国土にもたらされる降水は無数の河川となって海にそそぎ「川の国」とも言える。しかし必ずしも「滝の国」とは言えない。「日本の滝百選」をみると、男性的な力強い滝、いくつも流れが絡みあう女性的な滝、岩を這うように流れるカスケードの滝がある。これらの滝の造形美は、生命のほとばしりを彷彿とさせる。また滝は見る位置によって、人の精神を高揚させ、あるいは沈静化させる不思議な存在でもある。また日本人は古来より滝に霊的な意味を見出してきた。滝は神であり、また滝壺は水神の棲む場でもあった。滝は生きている。白川さんは滝に「日本人の魂の原風景」を読み取らせてくれる。
1.序「日本列島、人間の意識の根底に迫る」 山折哲雄(宗教学者)
日本列島は正に三層構造で出来上がっている。海洋と山岳と森林をベースとする縄文的世界が基層にあり、その上に弥生的農耕社会が中層をつくり、最上層が近代社会によって構成されている。そのうち最も根源的で重要な役割を果たしているのが、縄文的無意識世界に内包される宇宙観と価値観であるが、それを日本列島の自然景観の中に探り出し、その千変万化する個性的な風土をカメラの目を通して映像化したのが白川義員氏だった。彼の目は醜悪な人工物に囲まれた自然から離脱し、自然そのものに内在する美と神秘の世界に近づこうとする志と情熱によって再現されたものである。
2.序「努力と勇気、類まれな想像力」 安藤忠雄(建築家)
私はずっと、不思議に思っていた。写真や映像でよく見知っているはずの風景、それがなぜ、白川義員の作品でのみ、全く異質なものに見えるのか、画枠を超えて、山が語りかけるように、海が襲いかかるように見えるのか。その答えは、人間世界の向こう側にあって、雄大に広がる自然が、ある季節のある一日、ある一瞬に垣間見せる、その瞬間の輝きを、身を賭して、執拗に追いかけて表現した、それは彼の稀有な才能による生命力をかけた魂の表現である。
3.「はじめに」 白川義員
私はこれまで、第1の目的は「地球再発見」、第2の目的は「人間性の回復へ」を基本理念として10作の仕事を完成させてきた。次の第3の目的には「日本再発見による日本人の魂の復興へ」を掲げ、5年がかりで「永遠の日本」に取り組んだ。私はこれまで50年にわたって世界143ヶ国と南極大陸を巡り旅をしてきたが、帰国して最も衝撃を受けたのは、親殺し子殺し、通り魔による大量殺傷の事件、これは人間が終始ビルディングの谷間を右往左往し、醜悪な人工物に囲まれて、自然の一部である人間が自然から隔絶された生活をしているからにほかならない。「永遠の日本」は日本の政治が堕落しようと社会が荒廃しようと、我が祖国日本の自然はかくも偉大で崇高で永遠なのだということを人々に見ていただきたいとの想いをこめて制作した。
4.名岳:「火山国ならではの名山風景」 鎌田浩毅(専門:火山学)
日本は四方を海に囲まれた島国で、日本列島は陸のプレート2つと海のプレート2つの計4つのプレートの相互運動によって誕生した。日本列島は世界の陸地面積の400分の1しかないのに、世界中の7%の活火山がある。本書には南北アルプスの山々が掲載されているが、このうち南アルプスは海がフィリピン海プレートによって隆起したものであり、北アルプスを隆起させたのは太平洋プレートである。また日本は世界有数の火山国であって、本書でも霧島火山・新燃岳や桜島火山の噴火写真が多数収められているが、まさに活火山の荒ぶる姿である。こうした多様な姿を見せる日本の名山を眺めつつ、「生きている大地」を感じとっていただきたい。
5.名瀑:「悠久のなかの滝と日本人の魂」 秋道智弥(専門:生態人類学)
日本列島は南北3,000kmにわたる島々からなる。日本の森林面積は国土の7割を占め、森の国と言われる。また複雑な地形ゆえに峡谷が発達していて、国土にもたらされる降水は無数の河川となって海にそそぎ「川の国」とも言える。しかし必ずしも「滝の国」とは言えない。「日本の滝百選」をみると、男性的な力強い滝、いくつも流れが絡みあう女性的な滝、岩を這うように流れるカスケードの滝がある。これらの滝の造形美は、生命のほとばしりを彷彿とさせる。また滝は見る位置によって、人の精神を高揚させ、あるいは沈静化させる不思議な存在でもある。また日本人は古来より滝に霊的な意味を見出してきた。滝は神であり、また滝壺は水神の棲む場でもあった。滝は生きている。白川さんは滝に「日本人の魂の原風景」を読み取らせてくれる。
2013年3月20日水曜日
落ち葉集め
雪が消えて春めいてくると、秋に散った枯れ葉が顔を出す。アスファルトやコンクリートの上には、例え枯れ葉が乗っかっても、風が吹けば何処かへ飛んでいってしまって、きれいになっている。ところがその行く末はどこなのか、行く先は我が家の敷地内とは限らず、多分に近所にも飛んでいっているかも知れない。とはいっても、大部分は我が家の敷地内に散り敷かれているのは間違いない。
私が小さな頃は、4百坪ばかりの庭には、直径1米ばかりのケヤキが3本、半米ばかりのが1本、同じ位のタブノキが1本、エノキが1本、アオダモが1本、ケンポナシが1本、ヒノキが1本、サワラが1本あった。しかし終戦後農地解放があって4百町歩あった農地は不在地主で1町歩になり、困って大欅3本をを含むタブを除く樹木は全部伐採して売却してしまった。木がある頃は庭は鬱蒼としていたが、その頃は落ち葉をどう処置していたのかは全く覚えていない。その後かれこれ70年ばかり、竹薮に接して生えていた細かった欅も一抱え半もの大きさになり、昔の伐採した後に生えた欅も一抱え位になった。ほかに小さかった水楢も随分と大きくなったし、庭の火守りとして植えてあった銀杏も大きくなった。
家には前と後に庭があり、後庭のうち50坪ばかりは孟宗竹の林になっている。この竹は実に旺盛で、困ったことに根をあちこちに広げ、築山の真ん中に太い竹の子を生やしたり、庭石や敷石を持ち上げたりするので往生している。昨年までは勤務があったので、毎日見回ることができず、1週間も見ていないと竹の子が大きく生長していて、始末に困ったものだ。でも今年からは毎日見回って小さいうちに処理しなければと思っている。
さて、木が植わっているので、どうしても葉が落ちる。落葉樹では秋口に、常緑樹は夏口に葉が落ちる。そこで落ち葉を集めて捨てるという作業が生じる。3月になって、この落ち葉処理に1日4〜5時間、延べ6日間を要した。家内も1日協力してくれた。
● イチョウ:近所では白山神社と布市神社の境内に大銀杏があるが、家にも火防の銀杏がある。庭師の人がまだ銀杏の葉が緑色の時に来てくれて枝を落としてくれると、黄葉して落葉することはないが、そうでないとかなり沢山の葉が落ちる。この銀杏の葉はs落ちても丸まることはなく、いやなことに地にべったりと張りつき、もしそのまま放置して冬を越すと、箒で掃いたくらいでは取れなくて往生することになる。したがって他の木の葉ならいざ知らず、この銀杏だけは散ったらできるだけ早めに、晴れた日を見計らってかき集めて捨てるようにしている。私は竹薮に捨てるが、家内はポリ袋に詰めてゴミに出している。家のは毎年刈り込んでいるので量はタカが知れているが、昨年末に氏神の白山神社の大銀杏の落ち葉を掃除したときの量は本当に半端ではなかった。
● タブノキとサンゴジュ:﨓が枝を四方に伸ばしていたときは、庭の築山の一画は﨓に覆われていて、その落ち葉は半端ではなかった。新芽が出た後、古葉は落葉するが、その時期は丁度お盆前でもあり、どうしても掃除しなければならない。またこの葉はよく植木の間にも入り込むので、除くのに手がかかる。それで大きな枝を伐採してもらったが、これには十数万円もかかった。それで以前よりは落ち葉は少なくなったものの、それでもかなり落葉するので大変だ。夏日のお盆前の一仕事になる。珊瑚樹も常緑樹で、やはり夏には落葉するが、毎年手入れするので、量はそれほど多くはない。
● ケヤキとミズナラ:欅は木枯らしが吹く頃、一斉に黄葉が落ちる。この量も半端ではなくて、庭を埋め尽くす位の量になる。でも秋に集めたのは、菊作りにと頼まれた時だけで、今は冬を越して春になってから集めている。また水楢は欅より遅れて大きな葉を落とす。これもかなり大きな木になっていて、道具蔵の屋根にも覆いかぶさっている。屋根にかかった枝は切り落とすが、この落ち葉は大きくて量も多く、地面を覆い尽くしてしまう。これも冬を越してから集めることにしている。
● スギ:家の屋敷の北の境界に沿って杉が植わっている。父が植えたものだが、10本のうち3本は高さが10数米になっていて幹も太いが、他は10米ばかりで幹もそんなに太くはない。何故か大きな杉は風で倒れるとか言われ、10米ばかりに切り揃えられたが、意味はよく理解できなかった。それはそうと、杉も葉を落とす。ところで家にある五葉松やヒマラヤ杉だと葉は散るように落ちるが、杉では小枝ごと落ちる。この量も半端ではない。しかも2年ばかり放置してあったものだから、この処理に2日もかかった。中々腐らないのでゴミに出そうと思ったものの、量は半端でなく、やはり竹薮の隅に積み上げることにした。
● モウソウチクとヤダケ:昨年、親戚の方の尽力で、枯れた孟宗竹と倒れた矢竹を処理してもらって、薮は随分明るくなった。以前は枯れた竹は燃やしていたが、今はままならず、切り揃えて搬送してもらっている。今年は切り揃えまではこちらでと思っている。
私が小さな頃は、4百坪ばかりの庭には、直径1米ばかりのケヤキが3本、半米ばかりのが1本、同じ位のタブノキが1本、エノキが1本、アオダモが1本、ケンポナシが1本、ヒノキが1本、サワラが1本あった。しかし終戦後農地解放があって4百町歩あった農地は不在地主で1町歩になり、困って大欅3本をを含むタブを除く樹木は全部伐採して売却してしまった。木がある頃は庭は鬱蒼としていたが、その頃は落ち葉をどう処置していたのかは全く覚えていない。その後かれこれ70年ばかり、竹薮に接して生えていた細かった欅も一抱え半もの大きさになり、昔の伐採した後に生えた欅も一抱え位になった。ほかに小さかった水楢も随分と大きくなったし、庭の火守りとして植えてあった銀杏も大きくなった。
家には前と後に庭があり、後庭のうち50坪ばかりは孟宗竹の林になっている。この竹は実に旺盛で、困ったことに根をあちこちに広げ、築山の真ん中に太い竹の子を生やしたり、庭石や敷石を持ち上げたりするので往生している。昨年までは勤務があったので、毎日見回ることができず、1週間も見ていないと竹の子が大きく生長していて、始末に困ったものだ。でも今年からは毎日見回って小さいうちに処理しなければと思っている。
さて、木が植わっているので、どうしても葉が落ちる。落葉樹では秋口に、常緑樹は夏口に葉が落ちる。そこで落ち葉を集めて捨てるという作業が生じる。3月になって、この落ち葉処理に1日4〜5時間、延べ6日間を要した。家内も1日協力してくれた。
● イチョウ:近所では白山神社と布市神社の境内に大銀杏があるが、家にも火防の銀杏がある。庭師の人がまだ銀杏の葉が緑色の時に来てくれて枝を落としてくれると、黄葉して落葉することはないが、そうでないとかなり沢山の葉が落ちる。この銀杏の葉はs落ちても丸まることはなく、いやなことに地にべったりと張りつき、もしそのまま放置して冬を越すと、箒で掃いたくらいでは取れなくて往生することになる。したがって他の木の葉ならいざ知らず、この銀杏だけは散ったらできるだけ早めに、晴れた日を見計らってかき集めて捨てるようにしている。私は竹薮に捨てるが、家内はポリ袋に詰めてゴミに出している。家のは毎年刈り込んでいるので量はタカが知れているが、昨年末に氏神の白山神社の大銀杏の落ち葉を掃除したときの量は本当に半端ではなかった。
● タブノキとサンゴジュ:﨓が枝を四方に伸ばしていたときは、庭の築山の一画は﨓に覆われていて、その落ち葉は半端ではなかった。新芽が出た後、古葉は落葉するが、その時期は丁度お盆前でもあり、どうしても掃除しなければならない。またこの葉はよく植木の間にも入り込むので、除くのに手がかかる。それで大きな枝を伐採してもらったが、これには十数万円もかかった。それで以前よりは落ち葉は少なくなったものの、それでもかなり落葉するので大変だ。夏日のお盆前の一仕事になる。珊瑚樹も常緑樹で、やはり夏には落葉するが、毎年手入れするので、量はそれほど多くはない。
● ケヤキとミズナラ:欅は木枯らしが吹く頃、一斉に黄葉が落ちる。この量も半端ではなくて、庭を埋め尽くす位の量になる。でも秋に集めたのは、菊作りにと頼まれた時だけで、今は冬を越して春になってから集めている。また水楢は欅より遅れて大きな葉を落とす。これもかなり大きな木になっていて、道具蔵の屋根にも覆いかぶさっている。屋根にかかった枝は切り落とすが、この落ち葉は大きくて量も多く、地面を覆い尽くしてしまう。これも冬を越してから集めることにしている。
● スギ:家の屋敷の北の境界に沿って杉が植わっている。父が植えたものだが、10本のうち3本は高さが10数米になっていて幹も太いが、他は10米ばかりで幹もそんなに太くはない。何故か大きな杉は風で倒れるとか言われ、10米ばかりに切り揃えられたが、意味はよく理解できなかった。それはそうと、杉も葉を落とす。ところで家にある五葉松やヒマラヤ杉だと葉は散るように落ちるが、杉では小枝ごと落ちる。この量も半端ではない。しかも2年ばかり放置してあったものだから、この処理に2日もかかった。中々腐らないのでゴミに出そうと思ったものの、量は半端でなく、やはり竹薮の隅に積み上げることにした。
● モウソウチクとヤダケ:昨年、親戚の方の尽力で、枯れた孟宗竹と倒れた矢竹を処理してもらって、薮は随分明るくなった。以前は枯れた竹は燃やしていたが、今はままならず、切り揃えて搬送してもらっている。今年は切り揃えまではこちらでと思っている。
2013年2月22日金曜日
白川義員作品集「永遠の日本」
小学館から創業90周年を記念して頭書の写真集が出版された。私に小学館から案内があったのは昨年11月の末である。白川氏は日本大学芸術学部写真学科を卒業後、放送関係に従事していたが、その後中日新聞社の特派員として8ヵ月間で世界35カ国を撮影取材した。その途次、スイスでマッターホルンの朝焼けに出くわして大きな衝撃を受け、その感銘は彼をして「地球再発見」に駆り立て、帰国後はフリーのカメラマンとなって地球を再認識しようと決心した。そしてその最初の写真集「アルプス」が1969年に出版された。
そして翌年にはヒマラヤに挑戦する。しかし過酷な環境での撮影取材は彼の身体を蝕み、片肺を失うことになる。しかし1971年には地球再発見シリーズ第2作の「ヒマラヤ」が上梓された。私が彼の写真集に接したのは、この時である。初めて受けた印象は、そこに描き出された写真は、迫力はさることながら、赤、紫、青、金に彩られた世界、率直なところ、フィルターを透した世界なのではと思った。もっともそれは後で大いなる錯覚であったことが明白となった。彼は昼の太陽の光を好まず、朝と夕の長波長の光を好み、その一瞬を写し撮っていたのだった。これには頭が下がり、私の浅学菲才を恥じた。私自身山へ入り、ご来光に輝く峰や朝焼けや夕焼けに染まる頂を知っているにも拘らずにである。朝金色に輝き、夕真っ赤に染まり、そして紫にさらに青暗くなる一瞬、対峙していると荘厳な畏れが自然と沸き上がってくる。彼はその一瞬々々を写し撮っていたのだった。
その後彼は4〜5年に一作上梓しており、第3作の「アメリカ大陸」は1975年に、第4作の「聖書の世界」は、1979年に「新約聖書の世界」を、翌1980年には「旧約聖書の世界」を出版している。この時以来このシリーズは「地球再発見による人間性回復」シリーズとなった。その後も1984年に「中国大陸」、1985年に「神々の原風景」、1986〜87年に「仏教伝来」、1994年には2シーズン330日の撮影行の成果である「南極大陸」を上梓した。
還暦を過ぎた1996年には次の企画「世界百名山」を立ち上げ、翌1997年から2000年にかけて撮影を行なった。この間ヒマラヤではセスナ機が乱気流に巻き込まれ、頸椎と腰椎を折るという大怪我をしたものの、手術の成功とリハビリにより、九死に一生を得て半年後には現場復帰した。この写真集は2000年から2001年にかけて、3巻に分けて発刊された。そして翌2002年からは「世界百名瀑」の撮影に取り組み、2007年に72歳でこの写真集を上梓した。これまで10作の豪華写真集のうち、第2、5、6、8、9作は購入したものの、この10作目には圧倒されながらも、手元に置くことに躊躇し、購入しなかった。
その後彼は長年心に温めてきた日本の原風景を撮り下ろそうと、「永遠の日本」というテーマに取りかかった。2008年月、73歳のことである。爾来2012年までの足掛け5年、その成果は2012年11月に同名の作品集として発刊された。彼は日本各地に日本の原風景を求めて足を運び、ある日のある一瞬の自然が見せる輝きを収めるため、季節や時間を変え、何度も同じ場所へ訪れたという。陸上からは勿論、船で海上へ出ての撮影、はたまたセスナ機やヘリコプターからの空撮など、あらゆる可能性を求めてシャッターを切り続けた。この5年間に撮影したポイントは46,600地点、取材費は4億円にも及んだという。この作品集には、その中から厳選された402作品が収録されている。これらの作品には別冊で、撮影した日時や地点が具体的に明記されており、誰でも白川氏が撮影したポイントに立って、同じ時期の同じ日時に立てば、同じ風景と感動を味わうことができるとしている。素晴らしいことだ。そして彼の写真には人工物が全く感じられない真の日本の原風景が現出している。
閑話休題
さて、この本の案内が来た時、正直言って税込み10万円もするので、前回の「世界百名瀑」同様、割愛しようと思っていた。ところが正月、たまたまNHKで石坂浩二がナレーターとなって放送された「永遠の日本〜白川義員・日本人の魂を育てた風景を撮る〜」を見た。これを見た瞬間、全身にビビッとくるものがあり、咄嗟に求めてしまった。全一巻が数日後に届いたが、その重たいこと、10kgはあろうか。初版本には、著者自筆のサインと落款が押されており、落款には「眼界 永遠之日本 白川義員」とある。眼界とは、目に見える限り、考えの及ぶ範囲。物事を考え、判断する見識の意であるという。彼は撮影に当たっては、自身を縄文の時代に置き、縄文人の目で自然を直視し、自然は崇高で偉大で荘厳であると感じ、縄文人が抱いたであろう壮絶で深遠な畏れを体験し、それを凝縮している。大事な宝となる作品集である。英語でのタイトルは「ETERNAL JAPAN」である。これまで彼の作品は、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、デンマーク語としても出版されているが、この作品集も必ずや世界へ向けて発信されることは間違いない。
そして翌年にはヒマラヤに挑戦する。しかし過酷な環境での撮影取材は彼の身体を蝕み、片肺を失うことになる。しかし1971年には地球再発見シリーズ第2作の「ヒマラヤ」が上梓された。私が彼の写真集に接したのは、この時である。初めて受けた印象は、そこに描き出された写真は、迫力はさることながら、赤、紫、青、金に彩られた世界、率直なところ、フィルターを透した世界なのではと思った。もっともそれは後で大いなる錯覚であったことが明白となった。彼は昼の太陽の光を好まず、朝と夕の長波長の光を好み、その一瞬を写し撮っていたのだった。これには頭が下がり、私の浅学菲才を恥じた。私自身山へ入り、ご来光に輝く峰や朝焼けや夕焼けに染まる頂を知っているにも拘らずにである。朝金色に輝き、夕真っ赤に染まり、そして紫にさらに青暗くなる一瞬、対峙していると荘厳な畏れが自然と沸き上がってくる。彼はその一瞬々々を写し撮っていたのだった。
その後彼は4〜5年に一作上梓しており、第3作の「アメリカ大陸」は1975年に、第4作の「聖書の世界」は、1979年に「新約聖書の世界」を、翌1980年には「旧約聖書の世界」を出版している。この時以来このシリーズは「地球再発見による人間性回復」シリーズとなった。その後も1984年に「中国大陸」、1985年に「神々の原風景」、1986〜87年に「仏教伝来」、1994年には2シーズン330日の撮影行の成果である「南極大陸」を上梓した。
還暦を過ぎた1996年には次の企画「世界百名山」を立ち上げ、翌1997年から2000年にかけて撮影を行なった。この間ヒマラヤではセスナ機が乱気流に巻き込まれ、頸椎と腰椎を折るという大怪我をしたものの、手術の成功とリハビリにより、九死に一生を得て半年後には現場復帰した。この写真集は2000年から2001年にかけて、3巻に分けて発刊された。そして翌2002年からは「世界百名瀑」の撮影に取り組み、2007年に72歳でこの写真集を上梓した。これまで10作の豪華写真集のうち、第2、5、6、8、9作は購入したものの、この10作目には圧倒されながらも、手元に置くことに躊躇し、購入しなかった。
その後彼は長年心に温めてきた日本の原風景を撮り下ろそうと、「永遠の日本」というテーマに取りかかった。2008年月、73歳のことである。爾来2012年までの足掛け5年、その成果は2012年11月に同名の作品集として発刊された。彼は日本各地に日本の原風景を求めて足を運び、ある日のある一瞬の自然が見せる輝きを収めるため、季節や時間を変え、何度も同じ場所へ訪れたという。陸上からは勿論、船で海上へ出ての撮影、はたまたセスナ機やヘリコプターからの空撮など、あらゆる可能性を求めてシャッターを切り続けた。この5年間に撮影したポイントは46,600地点、取材費は4億円にも及んだという。この作品集には、その中から厳選された402作品が収録されている。これらの作品には別冊で、撮影した日時や地点が具体的に明記されており、誰でも白川氏が撮影したポイントに立って、同じ時期の同じ日時に立てば、同じ風景と感動を味わうことができるとしている。素晴らしいことだ。そして彼の写真には人工物が全く感じられない真の日本の原風景が現出している。
閑話休題
さて、この本の案内が来た時、正直言って税込み10万円もするので、前回の「世界百名瀑」同様、割愛しようと思っていた。ところが正月、たまたまNHKで石坂浩二がナレーターとなって放送された「永遠の日本〜白川義員・日本人の魂を育てた風景を撮る〜」を見た。これを見た瞬間、全身にビビッとくるものがあり、咄嗟に求めてしまった。全一巻が数日後に届いたが、その重たいこと、10kgはあろうか。初版本には、著者自筆のサインと落款が押されており、落款には「眼界 永遠之日本 白川義員」とある。眼界とは、目に見える限り、考えの及ぶ範囲。物事を考え、判断する見識の意であるという。彼は撮影に当たっては、自身を縄文の時代に置き、縄文人の目で自然を直視し、自然は崇高で偉大で荘厳であると感じ、縄文人が抱いたであろう壮絶で深遠な畏れを体験し、それを凝縮している。大事な宝となる作品集である。英語でのタイトルは「ETERNAL JAPAN」である。これまで彼の作品は、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、デンマーク語としても出版されているが、この作品集も必ずや世界へ向けて発信されることは間違いない。
2013年2月2日土曜日
正月に巡った蕎麦屋
平成25年(2013)正月に訪れた蕎麦屋を思い出してしたためてみた。
● 龜屋 かほく市白尾
正月6日の日曜日、今年初めて家内と額菩提樹苑にある三男の墓参りに出かけ、その足で龜屋へ向かった。以前はともかく、今では家内も私もこの店には惚れ込んでいて、年に数回は出かけている。山側環状道路を通れば、自宅からでも30分ばかりで行くことができる。龜屋には11時頃に着いた。本来なら開店は11時30分である。いつも一番先に店に入ると、右手奥の小上がりの座敷テーブルに案内されるが、6人座れるテーブルに2人というのは気がひけ、その日もそば好きの女性を誘ったが、生憎と日曜勤務とかで2人で訪れた。15分位前に店主とばったり、中へ招き入れられた。そしてかの場所へ案内された。もし混んできたら一向に相席はかまわないのだが、これまで相席を頼まれたことはない。
店主の西川幸一さんはまだ60代とか、店内には山の写真が沢山飾ってあるが、全て山へ行かれて撮ったのだという。オオサクラソウは白山でもある場所にしか生育していないのだが、その場所は知っておいでだった。店は長男の克幸さんが仕切っておいでる。店主が注文をとりに、お酒は私はここではもっぱら「立山」の冷酒、大概3合は頂戴する。家内は車の運転もありノンアルコールビール。酒肴には、そば焼き味噌、だし巻きたまご、板わさ、鴨焼き、にしん煮を、そばは家内は「天せいろ」、私は後で「おろしそば」を貰う。そばは4種類、十割の「田舎」、二八の「せいろ」、更科の「白雪」、それと「変わりそば」、この日は「柚子切り」だった。この4つから3つを選べる「三色せいろ」もある。天ぷらには季節の野菜と大きな海老がつく。1時間半余り、十分堪能した。聞けば次男さんは金沢の新神田で開業されたとか、いずれ案内差し上げますと言われた。
● 香り蕎麦 亀平(きへい) 金沢市新神田二丁目
1月10日に案内を頂いたので、14日の成人の日に、女性一人を誘って出かけた。新神田の陸橋を渡って最初の交差点を右に曲がるとすぐ左手にある。昨年10月に開店したとか、探蕎会の世話人会で塚野さんから聞いた。営業は午前11時半から午後3時のみ、夜は白尾の方に帰るとか、今は店主の幸平さんと女の方と二人で切り盛りされている。お酒は日榮、酒肴はまだ数は少ない。そば焼き味噌、玉子巻き、揚げ出し、板わさを貰う。鴨南蛮や天せいろもあるので、抜きで頂こうかなと思ったが、今回は止めにした。2合ばかり頂いて、「二色せいろ」を頂く。これは「せいろ」と「粗挽き」の二色盛りで、十割は極細打ち、これは凄い。聞けば釜が小さいからとか。せいろは少し硬かった。これからの店だ。
● 草庵 白山市鶴来日吉町
1月20日の日曜に、やはり墓参りを済ませて鶴来へ向かった。最後に寄ったのは、囲炉裏端で1日10食限定の十割蕎麦を貰った時、べちゃっとしていて大変不味く、それ以来行っていなかった。この日は10時半に着いた。今年は息子の博英さんから年賀状が来ていた。この前の十割は親父さんでなく息子さんが打ったのだとあの時聞いたが、もう代替わりして任されているのだろうか。開店まで1時間ばかり、案内を乞うと奥さんが出て来られ、随分久しぶりですねと言われる。囲炉裏が無くなって2年になるとのこと、すると3年近く訪ねていないことに、随分のご無沙汰だった。今日は11時半からですので、白山さんにでもお参りされてきてはと、こんな早い時間、まだ客は誰も来ていない。
5分前になって店へ、お客さんが集まってきている。丁度11時に中へ、座敷へ上がる。ここの酒肴はハイレベルで品数も多く、中でも鰊煮は右に出る店がないほどの逸品である。ほかに、板わさ、野菜天、鴨焼きをもらう。酒は八海山を延べ3合、大きな片口に入って出た。器も中々凝っている。そばは家内は「おろしなめこ」、私は蕎麦前を終えて「おろし」、この日十割は割愛したが、もう今では立派な打ちをしているのではと思う。
● 敬蔵 野々市市本町一丁目
昨年11月に15日からは新そばを提供でき、12月には極上の猪肉を使った「猪鍋会席」を始めますとの案内を頂いた。猪は捕獲後しっかり血抜きしてあり、特有の臭みはないとか。ところが24日にお願いしたところ、猪が手に入らないとかで、その日は「そばづくし」で済ませた。1月半ばに電話があり、手に入ったとのこと、27日に出かけた。二人前が基本、家内は食べないと言うので、家内の姪を誘った。献立は、「前菜五点盛」「猪肉三種葱間串」「猪肉と黄芯白菜の蒸し鍋」「猪汁そば」「季節のデザート」、酒は菊姫と常きげん、家内は「そばづくし」。猪肉は臭みなく、特に串はバラ、ロース、赤肉とも大変旨かった。また猪汁そばは鴨汁そばの鴨を猪に置き換えた逸品。ただ蒸し鍋は今一だった。お陰でお酒がすすんで、二人で8合消費した。会席は一人3,500円、でも価値はあった。ちなみに敬蔵のそばは自家製粉ですべて十割、酒肴では鴨ロースが秀逸である。
● 蕎麦やまぎし 金沢市此花町
求めて寄ることはないが、県立音楽堂に用事がある時は大概寄ることにしている。そばはすべて自家製粉の十割そば、私が頂くのは粗挽き粒が入っている極太打ち、これに岩塩を振り、財宝という芋焼酎で頂く。蕎麦と焼酎2合で1,100円。ほかに白と田舎がある。
● 龜屋 かほく市白尾
正月6日の日曜日、今年初めて家内と額菩提樹苑にある三男の墓参りに出かけ、その足で龜屋へ向かった。以前はともかく、今では家内も私もこの店には惚れ込んでいて、年に数回は出かけている。山側環状道路を通れば、自宅からでも30分ばかりで行くことができる。龜屋には11時頃に着いた。本来なら開店は11時30分である。いつも一番先に店に入ると、右手奥の小上がりの座敷テーブルに案内されるが、6人座れるテーブルに2人というのは気がひけ、その日もそば好きの女性を誘ったが、生憎と日曜勤務とかで2人で訪れた。15分位前に店主とばったり、中へ招き入れられた。そしてかの場所へ案内された。もし混んできたら一向に相席はかまわないのだが、これまで相席を頼まれたことはない。
店主の西川幸一さんはまだ60代とか、店内には山の写真が沢山飾ってあるが、全て山へ行かれて撮ったのだという。オオサクラソウは白山でもある場所にしか生育していないのだが、その場所は知っておいでだった。店は長男の克幸さんが仕切っておいでる。店主が注文をとりに、お酒は私はここではもっぱら「立山」の冷酒、大概3合は頂戴する。家内は車の運転もありノンアルコールビール。酒肴には、そば焼き味噌、だし巻きたまご、板わさ、鴨焼き、にしん煮を、そばは家内は「天せいろ」、私は後で「おろしそば」を貰う。そばは4種類、十割の「田舎」、二八の「せいろ」、更科の「白雪」、それと「変わりそば」、この日は「柚子切り」だった。この4つから3つを選べる「三色せいろ」もある。天ぷらには季節の野菜と大きな海老がつく。1時間半余り、十分堪能した。聞けば次男さんは金沢の新神田で開業されたとか、いずれ案内差し上げますと言われた。
● 香り蕎麦 亀平(きへい) 金沢市新神田二丁目
1月10日に案内を頂いたので、14日の成人の日に、女性一人を誘って出かけた。新神田の陸橋を渡って最初の交差点を右に曲がるとすぐ左手にある。昨年10月に開店したとか、探蕎会の世話人会で塚野さんから聞いた。営業は午前11時半から午後3時のみ、夜は白尾の方に帰るとか、今は店主の幸平さんと女の方と二人で切り盛りされている。お酒は日榮、酒肴はまだ数は少ない。そば焼き味噌、玉子巻き、揚げ出し、板わさを貰う。鴨南蛮や天せいろもあるので、抜きで頂こうかなと思ったが、今回は止めにした。2合ばかり頂いて、「二色せいろ」を頂く。これは「せいろ」と「粗挽き」の二色盛りで、十割は極細打ち、これは凄い。聞けば釜が小さいからとか。せいろは少し硬かった。これからの店だ。
● 草庵 白山市鶴来日吉町
1月20日の日曜に、やはり墓参りを済ませて鶴来へ向かった。最後に寄ったのは、囲炉裏端で1日10食限定の十割蕎麦を貰った時、べちゃっとしていて大変不味く、それ以来行っていなかった。この日は10時半に着いた。今年は息子の博英さんから年賀状が来ていた。この前の十割は親父さんでなく息子さんが打ったのだとあの時聞いたが、もう代替わりして任されているのだろうか。開店まで1時間ばかり、案内を乞うと奥さんが出て来られ、随分久しぶりですねと言われる。囲炉裏が無くなって2年になるとのこと、すると3年近く訪ねていないことに、随分のご無沙汰だった。今日は11時半からですので、白山さんにでもお参りされてきてはと、こんな早い時間、まだ客は誰も来ていない。
5分前になって店へ、お客さんが集まってきている。丁度11時に中へ、座敷へ上がる。ここの酒肴はハイレベルで品数も多く、中でも鰊煮は右に出る店がないほどの逸品である。ほかに、板わさ、野菜天、鴨焼きをもらう。酒は八海山を延べ3合、大きな片口に入って出た。器も中々凝っている。そばは家内は「おろしなめこ」、私は蕎麦前を終えて「おろし」、この日十割は割愛したが、もう今では立派な打ちをしているのではと思う。
● 敬蔵 野々市市本町一丁目
昨年11月に15日からは新そばを提供でき、12月には極上の猪肉を使った「猪鍋会席」を始めますとの案内を頂いた。猪は捕獲後しっかり血抜きしてあり、特有の臭みはないとか。ところが24日にお願いしたところ、猪が手に入らないとかで、その日は「そばづくし」で済ませた。1月半ばに電話があり、手に入ったとのこと、27日に出かけた。二人前が基本、家内は食べないと言うので、家内の姪を誘った。献立は、「前菜五点盛」「猪肉三種葱間串」「猪肉と黄芯白菜の蒸し鍋」「猪汁そば」「季節のデザート」、酒は菊姫と常きげん、家内は「そばづくし」。猪肉は臭みなく、特に串はバラ、ロース、赤肉とも大変旨かった。また猪汁そばは鴨汁そばの鴨を猪に置き換えた逸品。ただ蒸し鍋は今一だった。お陰でお酒がすすんで、二人で8合消費した。会席は一人3,500円、でも価値はあった。ちなみに敬蔵のそばは自家製粉ですべて十割、酒肴では鴨ロースが秀逸である。
● 蕎麦やまぎし 金沢市此花町
求めて寄ることはないが、県立音楽堂に用事がある時は大概寄ることにしている。そばはすべて自家製粉の十割そば、私が頂くのは粗挽き粒が入っている極太打ち、これに岩塩を振り、財宝という芋焼酎で頂く。蕎麦と焼酎2合で1,100円。ほかに白と田舎がある。
登録:
投稿 (Atom)