2013年3月28日木曜日

白川義員作品集『永遠の日本』の「あとがき」から

(1)作品集『永遠の日本』への道程
 50年前の1962年5月から12月までの8ヵ月間、当時勤務していたフジテレビを休職し、中日新聞特派員として世界35ヵ国を巡る旅をした。海外旅行が自由化される前で、世界中どこへ行っても、日本人には全く会わなかった。帰国翌日にフジテレビに退職届を出したその足で緊急パスポートを外務省に申請し、今度は『週刊女性』の特派員としてヨーロッパに引き返し、それから6年間アルプスを撮影した。学生の頃、浦松佐美太郎氏の『たった一人の山』を読んで、ヨーロッパ・アルプスに憧れていたが、実際の風景は次元を超えて感動的であった。アルプスは北海道北端にある利尻岳よりも緯度的に北に位置し、しかも高度がほぼ4500mあるから、山は夏になっても常に真っ白い雪に埋まっている。そこに日の出や日没の長波長の太陽光を受けて、真っ赤になったり黄金色になったりする。私はそれまで、これ程までに鮮烈で荘厳な風景を見たことがなかった。 
 日々毎日私は感動の渦にひたりながら、4000mの稜線からこの様を眺めた。4〜5年もの間山を撮ったり眺めたりしているうちに、自分の祖国日本でこのような鮮烈荘厳で壮麗絢爛な風景写真を撮って、これが日本だと世界に誇れる写真集を作れないかと考えるようになった。アルプスの撮影は6年間で終了し、日本に帰国して作品集『アルプス』の編集は出版社にまかせて、直ちに日本の撮影を開始した。ところが山岳関係者の話によると、ヒマラヤを撮影するなら、今をおいて他にないという。中国とインドの戦争も落ち着いて、やるなら今だという。そこで日本撮影を中止し、直ちにヒマラヤ撮影を始めた。
 ヒマラヤ撮影の4年間は、今度こそ死ぬと死を覚悟したことも二度や三度ではない。毎日が突撃の連続で、過労と栄養失調で20kgも痩せて肺結核になり片肺を失うが、この4年間で全くの無神論者であった私が、神の存在を心底信じるに至った。帰国後ふたたび日本の撮影にかかるが、同時に世界一周の途次記憶に焼きついているモニュメントヴァレやグランドキャニオンの大地に、ヒマラヤで信じた神の存在を立証したいという気持ちもあって渡米し、「永遠のアメリカ」の撮影に入る。折しも5年先の1976年はアメリカの建国200年で、この撮影がアメリカ政府の公式行事に決まり、日本撮影は中断となった。
 帰国後4度目の日本撮影を開始した。でも次にと企画していた「聖書の世界」の撮影には、旧約聖書の創世記の舞台イラクは欠かせず、入国するにはこの時しかなく、外務省の支援を受けて飛び込み、1ヵ月かけて一気に撮って飛び出したら、直後にイラン・イラク戦争が始まり、続いて湾岸戦争、そしてアメリカのイラク侵攻と、あれから35年間誰もイラクには入れなかった。それで引き続き「聖書の世界」に没頭することになり、再び日本の撮影は中断となった。
 その後「中国大陸」「神々の原風景」「仏教伝来」を上梓し、その後1991年からは2シーズンにわたってアメリカ政府の全面支援を受けて南極大陸での撮影を行い、1994年には「南極大陸」を上梓した。さらに1997年から2000年にかけては世界百名山の、2002年から2007年にかけては世界百名瀑の撮影に没頭した。そして百名山は2002年に、百名瀑は2007年に上梓できた。
 こうして漸く「永遠の日本」の撮影にとりかかれたのは2008年、このテーマでの撮影を決心してから45年もの歳月が流れた。そして2012年に漸く完成し、上梓された。私が77歳の秋のことである。完成するまでに、まことに長い道のりであった。
(2)日本での航空撮影における諸問題
 私はこれまでに143ヵ国を撮影してきた。そして久しぶりに日本で本格的に撮影するに及んで、日本と外国とでは省庁の考え方生き方に大きな違いがあるのを見出した。航空撮影だが、外国では離陸や着陸時間は自由である。だから外国では、朝夕の真っ赤になった絢爛豪華な感動的な山や風景は撮れるが、日本では離陸は朝9時か10時、しかも定期便の発着前にチャーター機を飛ばせないので、撮影は不可能である。またヘリコプターの場合、外国ではどこに着陸しようと自由であるが、日本では指定の空港以外に着陸はできない。また北海道では札幌にしかヘリはいない。また料金自体、日本では外国に比べてセスナ機で3倍、ヘリで4倍かかる。しかも動線が長くなり、撮影に関係ない費用も2倍かかる。航空会社の話では、国土交通省の規制が異常に厳しいという。世界では日本だけが異常である。

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