6.湖沼:「変化に富む湖沼が彩る列島」 辻井達一(専門:植物生態学)
日本は国土の小さい割には湖沼が多いが、それは火山国だからと言ってよい。理科年表によると、面積4平方km以上の湖が72湖あるが、そのうち半数の34湖は火山性のカルデラ湖、堰止め湖である。次いで多いのは海岸のラグーン、すなわち汽水性の潟湖で3分の1を占める。残りは高山の湖沼と泥炭地の湖沼で、これは気候とか地形が要因となっている。この写真集には、それぞれに特徴的な湖沼がちりばめられている。それぞれにまことに興味津々の「水の異界」ともいうっべき存在である。
7.森林・巨木:「森林は雨が育てる、森林は文化を育む」 只木良也(専門:生態学)
日本列島の年間平均降水量は1,700mmを超え、これは全土にわたり森林の生育に十分な降水量です。だから「あとは野となれ、山となれ」の譬えが成り立ち、日本人は「自然」には森林があって当たり前と思っています。しかし世界を見ると、森林の成立が許されるのは3分の1にしか過ぎません。それが更に現今の人間活動のためにどんどん減少し、今や4分の1に近づいています。日本は森の国です。日本人の活動でこれだけ開発が進んだのに、なお国土面積の3分の2が森林です。豊かな森林に恵まれたところには、それに育てられた文化が生まれます。森林との賢い付き合いを進めて行きたいものです。
8.渓谷・河川:「大地に刻まれた山、川、森の複合美」 小野有五(専門:景観生態学)
日本には3万の川があるといわれる。狭い国土にこれほど多くの河川があるのは、日本が世界で最も活発な変動帯の上にあって、山は常に隆起し、雨で削られ、谷ができ、そこに雨水や雪解け水が流れ込むからである。日本の渓谷は、ほとんど山頂の直下に始まり、山地と平野の境目で終わる。それ位、日本の川は短い。源流に落ちた一滴の雨粒は、川に流れ込めば、1週間か10日で、海まで流れていく。この速さと、山と海の近さに、日本の渓谷・河川の特徴がある。白川さんは23点選ばれたというので、私も事前にリストを作ってみたりもしたが、3分の2は共通していた。
9.高原:「驚きと感動に満ちた日本の高原」 小泉武栄(専門:自然地理学)
「高原」とは、高いところにある平坦な土地を指し、世界的にはチベット高原やデカン高原、コロラド高原のように、日本列島がいくつも入ってしまうような広大なものを指すのが普通ですが、日本の高原はこれとは別のものです。高原と名のつく日本の高原は、美濃三河高原などのように、数百万年前に平地だったところが、その後隆起して高くなった「隆起準平原」と呼ばれるものです。でも一般的には、火山麓扇状地(那須高原、妙高高原など)や火山群(志賀高原など、本書では大雪山、十勝岳なども)、火山性台地(立山弥陀ヶ原、八幡平、美ヶ原、霧ヶ峰など)もそう呼ばれています。
10,湿原:「湿原が語る日本列島の歴史」 辻井達一(専門:植物生態学)
太古、日本は湿原の国でした。最古の歴史書「古事記」にある「豊葦原瑞穂国」は正に「葦が一面に生えるように、稲が豊かに育つ国」を意味するものです。葦の生えている湿地は、絶好の稲作の場だということです。日本にはツンドラ湿原こそありませんが、湖沼が浅くなってできた湖成湿原、ラグーンで海が退いたり、陸地が隆起したりしてできたもの、高山の平らな場所や窪地に形成された高層湿原、暑い地方で発達するマングローブ湿地など、南北に細長く延びた国土にはいろんなタイプの湿原が揃っています。
11.海浜/島嶼:「生命に満ち溢れた海洋列島」 安田喜憲(専門:環境考古学)
奇蹟の生命の惑星地球が、ほんの一瞬だけ、サムシンググレードの存在を人間に実感させる時があります。それは多くが人生の転機に引き起こされます。白川氏がマッターホルンの朝焼けの一瞬を撮影するために6年間も通い詰めたのは、その存在に出会うためではなかったかと想像します。山国に生まれた私が東北に来て、名取市の閖上から広大な太平洋の波涛を見た時の感激も、奥松島から太平洋の大海原を望んだ時の感動も忘れられません。こんな世界があったのかと思ったものです。「アルプス」から「世界百名瀑」まで、地球の大陸を撮り続けてきた白川氏が、自らの生まれた海洋的な日本列島の風土、多神教の国の素晴らしさを表現したのが「永遠の日本」です。日本の素晴らしさを一口で言えば、「生命に満ち溢れた海洋列島」と言えましょうか。
2013年3月27日水曜日
2013年3月26日火曜日
白川義員作品集『永遠の日本』への賛辞 その1
以下に「永遠の日本」の解説編に載せられた全体に対する序、及び各章(名岳、名瀑、湖沼、森林・巨木、渓谷・河川、高原、湿原、海浜・島嶼)の序、及び著者による「はじめに」と「あとがき」の要約を記す。
1.序「日本列島、人間の意識の根底に迫る」 山折哲雄(宗教学者)
日本列島は正に三層構造で出来上がっている。海洋と山岳と森林をベースとする縄文的世界が基層にあり、その上に弥生的農耕社会が中層をつくり、最上層が近代社会によって構成されている。そのうち最も根源的で重要な役割を果たしているのが、縄文的無意識世界に内包される宇宙観と価値観であるが、それを日本列島の自然景観の中に探り出し、その千変万化する個性的な風土をカメラの目を通して映像化したのが白川義員氏だった。彼の目は醜悪な人工物に囲まれた自然から離脱し、自然そのものに内在する美と神秘の世界に近づこうとする志と情熱によって再現されたものである。
2.序「努力と勇気、類まれな想像力」 安藤忠雄(建築家)
私はずっと、不思議に思っていた。写真や映像でよく見知っているはずの風景、それがなぜ、白川義員の作品でのみ、全く異質なものに見えるのか、画枠を超えて、山が語りかけるように、海が襲いかかるように見えるのか。その答えは、人間世界の向こう側にあって、雄大に広がる自然が、ある季節のある一日、ある一瞬に垣間見せる、その瞬間の輝きを、身を賭して、執拗に追いかけて表現した、それは彼の稀有な才能による生命力をかけた魂の表現である。
3.「はじめに」 白川義員
私はこれまで、第1の目的は「地球再発見」、第2の目的は「人間性の回復へ」を基本理念として10作の仕事を完成させてきた。次の第3の目的には「日本再発見による日本人の魂の復興へ」を掲げ、5年がかりで「永遠の日本」に取り組んだ。私はこれまで50年にわたって世界143ヶ国と南極大陸を巡り旅をしてきたが、帰国して最も衝撃を受けたのは、親殺し子殺し、通り魔による大量殺傷の事件、これは人間が終始ビルディングの谷間を右往左往し、醜悪な人工物に囲まれて、自然の一部である人間が自然から隔絶された生活をしているからにほかならない。「永遠の日本」は日本の政治が堕落しようと社会が荒廃しようと、我が祖国日本の自然はかくも偉大で崇高で永遠なのだということを人々に見ていただきたいとの想いをこめて制作した。
4.名岳:「火山国ならではの名山風景」 鎌田浩毅(専門:火山学)
日本は四方を海に囲まれた島国で、日本列島は陸のプレート2つと海のプレート2つの計4つのプレートの相互運動によって誕生した。日本列島は世界の陸地面積の400分の1しかないのに、世界中の7%の活火山がある。本書には南北アルプスの山々が掲載されているが、このうち南アルプスは海がフィリピン海プレートによって隆起したものであり、北アルプスを隆起させたのは太平洋プレートである。また日本は世界有数の火山国であって、本書でも霧島火山・新燃岳や桜島火山の噴火写真が多数収められているが、まさに活火山の荒ぶる姿である。こうした多様な姿を見せる日本の名山を眺めつつ、「生きている大地」を感じとっていただきたい。
5.名瀑:「悠久のなかの滝と日本人の魂」 秋道智弥(専門:生態人類学)
日本列島は南北3,000kmにわたる島々からなる。日本の森林面積は国土の7割を占め、森の国と言われる。また複雑な地形ゆえに峡谷が発達していて、国土にもたらされる降水は無数の河川となって海にそそぎ「川の国」とも言える。しかし必ずしも「滝の国」とは言えない。「日本の滝百選」をみると、男性的な力強い滝、いくつも流れが絡みあう女性的な滝、岩を這うように流れるカスケードの滝がある。これらの滝の造形美は、生命のほとばしりを彷彿とさせる。また滝は見る位置によって、人の精神を高揚させ、あるいは沈静化させる不思議な存在でもある。また日本人は古来より滝に霊的な意味を見出してきた。滝は神であり、また滝壺は水神の棲む場でもあった。滝は生きている。白川さんは滝に「日本人の魂の原風景」を読み取らせてくれる。
1.序「日本列島、人間の意識の根底に迫る」 山折哲雄(宗教学者)
日本列島は正に三層構造で出来上がっている。海洋と山岳と森林をベースとする縄文的世界が基層にあり、その上に弥生的農耕社会が中層をつくり、最上層が近代社会によって構成されている。そのうち最も根源的で重要な役割を果たしているのが、縄文的無意識世界に内包される宇宙観と価値観であるが、それを日本列島の自然景観の中に探り出し、その千変万化する個性的な風土をカメラの目を通して映像化したのが白川義員氏だった。彼の目は醜悪な人工物に囲まれた自然から離脱し、自然そのものに内在する美と神秘の世界に近づこうとする志と情熱によって再現されたものである。
2.序「努力と勇気、類まれな想像力」 安藤忠雄(建築家)
私はずっと、不思議に思っていた。写真や映像でよく見知っているはずの風景、それがなぜ、白川義員の作品でのみ、全く異質なものに見えるのか、画枠を超えて、山が語りかけるように、海が襲いかかるように見えるのか。その答えは、人間世界の向こう側にあって、雄大に広がる自然が、ある季節のある一日、ある一瞬に垣間見せる、その瞬間の輝きを、身を賭して、執拗に追いかけて表現した、それは彼の稀有な才能による生命力をかけた魂の表現である。
3.「はじめに」 白川義員
私はこれまで、第1の目的は「地球再発見」、第2の目的は「人間性の回復へ」を基本理念として10作の仕事を完成させてきた。次の第3の目的には「日本再発見による日本人の魂の復興へ」を掲げ、5年がかりで「永遠の日本」に取り組んだ。私はこれまで50年にわたって世界143ヶ国と南極大陸を巡り旅をしてきたが、帰国して最も衝撃を受けたのは、親殺し子殺し、通り魔による大量殺傷の事件、これは人間が終始ビルディングの谷間を右往左往し、醜悪な人工物に囲まれて、自然の一部である人間が自然から隔絶された生活をしているからにほかならない。「永遠の日本」は日本の政治が堕落しようと社会が荒廃しようと、我が祖国日本の自然はかくも偉大で崇高で永遠なのだということを人々に見ていただきたいとの想いをこめて制作した。
4.名岳:「火山国ならではの名山風景」 鎌田浩毅(専門:火山学)
日本は四方を海に囲まれた島国で、日本列島は陸のプレート2つと海のプレート2つの計4つのプレートの相互運動によって誕生した。日本列島は世界の陸地面積の400分の1しかないのに、世界中の7%の活火山がある。本書には南北アルプスの山々が掲載されているが、このうち南アルプスは海がフィリピン海プレートによって隆起したものであり、北アルプスを隆起させたのは太平洋プレートである。また日本は世界有数の火山国であって、本書でも霧島火山・新燃岳や桜島火山の噴火写真が多数収められているが、まさに活火山の荒ぶる姿である。こうした多様な姿を見せる日本の名山を眺めつつ、「生きている大地」を感じとっていただきたい。
5.名瀑:「悠久のなかの滝と日本人の魂」 秋道智弥(専門:生態人類学)
日本列島は南北3,000kmにわたる島々からなる。日本の森林面積は国土の7割を占め、森の国と言われる。また複雑な地形ゆえに峡谷が発達していて、国土にもたらされる降水は無数の河川となって海にそそぎ「川の国」とも言える。しかし必ずしも「滝の国」とは言えない。「日本の滝百選」をみると、男性的な力強い滝、いくつも流れが絡みあう女性的な滝、岩を這うように流れるカスケードの滝がある。これらの滝の造形美は、生命のほとばしりを彷彿とさせる。また滝は見る位置によって、人の精神を高揚させ、あるいは沈静化させる不思議な存在でもある。また日本人は古来より滝に霊的な意味を見出してきた。滝は神であり、また滝壺は水神の棲む場でもあった。滝は生きている。白川さんは滝に「日本人の魂の原風景」を読み取らせてくれる。
2013年3月20日水曜日
落ち葉集め
雪が消えて春めいてくると、秋に散った枯れ葉が顔を出す。アスファルトやコンクリートの上には、例え枯れ葉が乗っかっても、風が吹けば何処かへ飛んでいってしまって、きれいになっている。ところがその行く末はどこなのか、行く先は我が家の敷地内とは限らず、多分に近所にも飛んでいっているかも知れない。とはいっても、大部分は我が家の敷地内に散り敷かれているのは間違いない。
私が小さな頃は、4百坪ばかりの庭には、直径1米ばかりのケヤキが3本、半米ばかりのが1本、同じ位のタブノキが1本、エノキが1本、アオダモが1本、ケンポナシが1本、ヒノキが1本、サワラが1本あった。しかし終戦後農地解放があって4百町歩あった農地は不在地主で1町歩になり、困って大欅3本をを含むタブを除く樹木は全部伐採して売却してしまった。木がある頃は庭は鬱蒼としていたが、その頃は落ち葉をどう処置していたのかは全く覚えていない。その後かれこれ70年ばかり、竹薮に接して生えていた細かった欅も一抱え半もの大きさになり、昔の伐採した後に生えた欅も一抱え位になった。ほかに小さかった水楢も随分と大きくなったし、庭の火守りとして植えてあった銀杏も大きくなった。
家には前と後に庭があり、後庭のうち50坪ばかりは孟宗竹の林になっている。この竹は実に旺盛で、困ったことに根をあちこちに広げ、築山の真ん中に太い竹の子を生やしたり、庭石や敷石を持ち上げたりするので往生している。昨年までは勤務があったので、毎日見回ることができず、1週間も見ていないと竹の子が大きく生長していて、始末に困ったものだ。でも今年からは毎日見回って小さいうちに処理しなければと思っている。
さて、木が植わっているので、どうしても葉が落ちる。落葉樹では秋口に、常緑樹は夏口に葉が落ちる。そこで落ち葉を集めて捨てるという作業が生じる。3月になって、この落ち葉処理に1日4〜5時間、延べ6日間を要した。家内も1日協力してくれた。
● イチョウ:近所では白山神社と布市神社の境内に大銀杏があるが、家にも火防の銀杏がある。庭師の人がまだ銀杏の葉が緑色の時に来てくれて枝を落としてくれると、黄葉して落葉することはないが、そうでないとかなり沢山の葉が落ちる。この銀杏の葉はs落ちても丸まることはなく、いやなことに地にべったりと張りつき、もしそのまま放置して冬を越すと、箒で掃いたくらいでは取れなくて往生することになる。したがって他の木の葉ならいざ知らず、この銀杏だけは散ったらできるだけ早めに、晴れた日を見計らってかき集めて捨てるようにしている。私は竹薮に捨てるが、家内はポリ袋に詰めてゴミに出している。家のは毎年刈り込んでいるので量はタカが知れているが、昨年末に氏神の白山神社の大銀杏の落ち葉を掃除したときの量は本当に半端ではなかった。
● タブノキとサンゴジュ:﨓が枝を四方に伸ばしていたときは、庭の築山の一画は﨓に覆われていて、その落ち葉は半端ではなかった。新芽が出た後、古葉は落葉するが、その時期は丁度お盆前でもあり、どうしても掃除しなければならない。またこの葉はよく植木の間にも入り込むので、除くのに手がかかる。それで大きな枝を伐採してもらったが、これには十数万円もかかった。それで以前よりは落ち葉は少なくなったものの、それでもかなり落葉するので大変だ。夏日のお盆前の一仕事になる。珊瑚樹も常緑樹で、やはり夏には落葉するが、毎年手入れするので、量はそれほど多くはない。
● ケヤキとミズナラ:欅は木枯らしが吹く頃、一斉に黄葉が落ちる。この量も半端ではなくて、庭を埋め尽くす位の量になる。でも秋に集めたのは、菊作りにと頼まれた時だけで、今は冬を越して春になってから集めている。また水楢は欅より遅れて大きな葉を落とす。これもかなり大きな木になっていて、道具蔵の屋根にも覆いかぶさっている。屋根にかかった枝は切り落とすが、この落ち葉は大きくて量も多く、地面を覆い尽くしてしまう。これも冬を越してから集めることにしている。
● スギ:家の屋敷の北の境界に沿って杉が植わっている。父が植えたものだが、10本のうち3本は高さが10数米になっていて幹も太いが、他は10米ばかりで幹もそんなに太くはない。何故か大きな杉は風で倒れるとか言われ、10米ばかりに切り揃えられたが、意味はよく理解できなかった。それはそうと、杉も葉を落とす。ところで家にある五葉松やヒマラヤ杉だと葉は散るように落ちるが、杉では小枝ごと落ちる。この量も半端ではない。しかも2年ばかり放置してあったものだから、この処理に2日もかかった。中々腐らないのでゴミに出そうと思ったものの、量は半端でなく、やはり竹薮の隅に積み上げることにした。
● モウソウチクとヤダケ:昨年、親戚の方の尽力で、枯れた孟宗竹と倒れた矢竹を処理してもらって、薮は随分明るくなった。以前は枯れた竹は燃やしていたが、今はままならず、切り揃えて搬送してもらっている。今年は切り揃えまではこちらでと思っている。
私が小さな頃は、4百坪ばかりの庭には、直径1米ばかりのケヤキが3本、半米ばかりのが1本、同じ位のタブノキが1本、エノキが1本、アオダモが1本、ケンポナシが1本、ヒノキが1本、サワラが1本あった。しかし終戦後農地解放があって4百町歩あった農地は不在地主で1町歩になり、困って大欅3本をを含むタブを除く樹木は全部伐採して売却してしまった。木がある頃は庭は鬱蒼としていたが、その頃は落ち葉をどう処置していたのかは全く覚えていない。その後かれこれ70年ばかり、竹薮に接して生えていた細かった欅も一抱え半もの大きさになり、昔の伐採した後に生えた欅も一抱え位になった。ほかに小さかった水楢も随分と大きくなったし、庭の火守りとして植えてあった銀杏も大きくなった。
家には前と後に庭があり、後庭のうち50坪ばかりは孟宗竹の林になっている。この竹は実に旺盛で、困ったことに根をあちこちに広げ、築山の真ん中に太い竹の子を生やしたり、庭石や敷石を持ち上げたりするので往生している。昨年までは勤務があったので、毎日見回ることができず、1週間も見ていないと竹の子が大きく生長していて、始末に困ったものだ。でも今年からは毎日見回って小さいうちに処理しなければと思っている。
さて、木が植わっているので、どうしても葉が落ちる。落葉樹では秋口に、常緑樹は夏口に葉が落ちる。そこで落ち葉を集めて捨てるという作業が生じる。3月になって、この落ち葉処理に1日4〜5時間、延べ6日間を要した。家内も1日協力してくれた。
● イチョウ:近所では白山神社と布市神社の境内に大銀杏があるが、家にも火防の銀杏がある。庭師の人がまだ銀杏の葉が緑色の時に来てくれて枝を落としてくれると、黄葉して落葉することはないが、そうでないとかなり沢山の葉が落ちる。この銀杏の葉はs落ちても丸まることはなく、いやなことに地にべったりと張りつき、もしそのまま放置して冬を越すと、箒で掃いたくらいでは取れなくて往生することになる。したがって他の木の葉ならいざ知らず、この銀杏だけは散ったらできるだけ早めに、晴れた日を見計らってかき集めて捨てるようにしている。私は竹薮に捨てるが、家内はポリ袋に詰めてゴミに出している。家のは毎年刈り込んでいるので量はタカが知れているが、昨年末に氏神の白山神社の大銀杏の落ち葉を掃除したときの量は本当に半端ではなかった。
● タブノキとサンゴジュ:﨓が枝を四方に伸ばしていたときは、庭の築山の一画は﨓に覆われていて、その落ち葉は半端ではなかった。新芽が出た後、古葉は落葉するが、その時期は丁度お盆前でもあり、どうしても掃除しなければならない。またこの葉はよく植木の間にも入り込むので、除くのに手がかかる。それで大きな枝を伐採してもらったが、これには十数万円もかかった。それで以前よりは落ち葉は少なくなったものの、それでもかなり落葉するので大変だ。夏日のお盆前の一仕事になる。珊瑚樹も常緑樹で、やはり夏には落葉するが、毎年手入れするので、量はそれほど多くはない。
● ケヤキとミズナラ:欅は木枯らしが吹く頃、一斉に黄葉が落ちる。この量も半端ではなくて、庭を埋め尽くす位の量になる。でも秋に集めたのは、菊作りにと頼まれた時だけで、今は冬を越して春になってから集めている。また水楢は欅より遅れて大きな葉を落とす。これもかなり大きな木になっていて、道具蔵の屋根にも覆いかぶさっている。屋根にかかった枝は切り落とすが、この落ち葉は大きくて量も多く、地面を覆い尽くしてしまう。これも冬を越してから集めることにしている。
● スギ:家の屋敷の北の境界に沿って杉が植わっている。父が植えたものだが、10本のうち3本は高さが10数米になっていて幹も太いが、他は10米ばかりで幹もそんなに太くはない。何故か大きな杉は風で倒れるとか言われ、10米ばかりに切り揃えられたが、意味はよく理解できなかった。それはそうと、杉も葉を落とす。ところで家にある五葉松やヒマラヤ杉だと葉は散るように落ちるが、杉では小枝ごと落ちる。この量も半端ではない。しかも2年ばかり放置してあったものだから、この処理に2日もかかった。中々腐らないのでゴミに出そうと思ったものの、量は半端でなく、やはり竹薮の隅に積み上げることにした。
● モウソウチクとヤダケ:昨年、親戚の方の尽力で、枯れた孟宗竹と倒れた矢竹を処理してもらって、薮は随分明るくなった。以前は枯れた竹は燃やしていたが、今はままならず、切り揃えて搬送してもらっている。今年は切り揃えまではこちらでと思っている。
2013年2月22日金曜日
白川義員作品集「永遠の日本」
小学館から創業90周年を記念して頭書の写真集が出版された。私に小学館から案内があったのは昨年11月の末である。白川氏は日本大学芸術学部写真学科を卒業後、放送関係に従事していたが、その後中日新聞社の特派員として8ヵ月間で世界35カ国を撮影取材した。その途次、スイスでマッターホルンの朝焼けに出くわして大きな衝撃を受け、その感銘は彼をして「地球再発見」に駆り立て、帰国後はフリーのカメラマンとなって地球を再認識しようと決心した。そしてその最初の写真集「アルプス」が1969年に出版された。
そして翌年にはヒマラヤに挑戦する。しかし過酷な環境での撮影取材は彼の身体を蝕み、片肺を失うことになる。しかし1971年には地球再発見シリーズ第2作の「ヒマラヤ」が上梓された。私が彼の写真集に接したのは、この時である。初めて受けた印象は、そこに描き出された写真は、迫力はさることながら、赤、紫、青、金に彩られた世界、率直なところ、フィルターを透した世界なのではと思った。もっともそれは後で大いなる錯覚であったことが明白となった。彼は昼の太陽の光を好まず、朝と夕の長波長の光を好み、その一瞬を写し撮っていたのだった。これには頭が下がり、私の浅学菲才を恥じた。私自身山へ入り、ご来光に輝く峰や朝焼けや夕焼けに染まる頂を知っているにも拘らずにである。朝金色に輝き、夕真っ赤に染まり、そして紫にさらに青暗くなる一瞬、対峙していると荘厳な畏れが自然と沸き上がってくる。彼はその一瞬々々を写し撮っていたのだった。
その後彼は4〜5年に一作上梓しており、第3作の「アメリカ大陸」は1975年に、第4作の「聖書の世界」は、1979年に「新約聖書の世界」を、翌1980年には「旧約聖書の世界」を出版している。この時以来このシリーズは「地球再発見による人間性回復」シリーズとなった。その後も1984年に「中国大陸」、1985年に「神々の原風景」、1986〜87年に「仏教伝来」、1994年には2シーズン330日の撮影行の成果である「南極大陸」を上梓した。
還暦を過ぎた1996年には次の企画「世界百名山」を立ち上げ、翌1997年から2000年にかけて撮影を行なった。この間ヒマラヤではセスナ機が乱気流に巻き込まれ、頸椎と腰椎を折るという大怪我をしたものの、手術の成功とリハビリにより、九死に一生を得て半年後には現場復帰した。この写真集は2000年から2001年にかけて、3巻に分けて発刊された。そして翌2002年からは「世界百名瀑」の撮影に取り組み、2007年に72歳でこの写真集を上梓した。これまで10作の豪華写真集のうち、第2、5、6、8、9作は購入したものの、この10作目には圧倒されながらも、手元に置くことに躊躇し、購入しなかった。
その後彼は長年心に温めてきた日本の原風景を撮り下ろそうと、「永遠の日本」というテーマに取りかかった。2008年月、73歳のことである。爾来2012年までの足掛け5年、その成果は2012年11月に同名の作品集として発刊された。彼は日本各地に日本の原風景を求めて足を運び、ある日のある一瞬の自然が見せる輝きを収めるため、季節や時間を変え、何度も同じ場所へ訪れたという。陸上からは勿論、船で海上へ出ての撮影、はたまたセスナ機やヘリコプターからの空撮など、あらゆる可能性を求めてシャッターを切り続けた。この5年間に撮影したポイントは46,600地点、取材費は4億円にも及んだという。この作品集には、その中から厳選された402作品が収録されている。これらの作品には別冊で、撮影した日時や地点が具体的に明記されており、誰でも白川氏が撮影したポイントに立って、同じ時期の同じ日時に立てば、同じ風景と感動を味わうことができるとしている。素晴らしいことだ。そして彼の写真には人工物が全く感じられない真の日本の原風景が現出している。
閑話休題
さて、この本の案内が来た時、正直言って税込み10万円もするので、前回の「世界百名瀑」同様、割愛しようと思っていた。ところが正月、たまたまNHKで石坂浩二がナレーターとなって放送された「永遠の日本〜白川義員・日本人の魂を育てた風景を撮る〜」を見た。これを見た瞬間、全身にビビッとくるものがあり、咄嗟に求めてしまった。全一巻が数日後に届いたが、その重たいこと、10kgはあろうか。初版本には、著者自筆のサインと落款が押されており、落款には「眼界 永遠之日本 白川義員」とある。眼界とは、目に見える限り、考えの及ぶ範囲。物事を考え、判断する見識の意であるという。彼は撮影に当たっては、自身を縄文の時代に置き、縄文人の目で自然を直視し、自然は崇高で偉大で荘厳であると感じ、縄文人が抱いたであろう壮絶で深遠な畏れを体験し、それを凝縮している。大事な宝となる作品集である。英語でのタイトルは「ETERNAL JAPAN」である。これまで彼の作品は、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、デンマーク語としても出版されているが、この作品集も必ずや世界へ向けて発信されることは間違いない。
そして翌年にはヒマラヤに挑戦する。しかし過酷な環境での撮影取材は彼の身体を蝕み、片肺を失うことになる。しかし1971年には地球再発見シリーズ第2作の「ヒマラヤ」が上梓された。私が彼の写真集に接したのは、この時である。初めて受けた印象は、そこに描き出された写真は、迫力はさることながら、赤、紫、青、金に彩られた世界、率直なところ、フィルターを透した世界なのではと思った。もっともそれは後で大いなる錯覚であったことが明白となった。彼は昼の太陽の光を好まず、朝と夕の長波長の光を好み、その一瞬を写し撮っていたのだった。これには頭が下がり、私の浅学菲才を恥じた。私自身山へ入り、ご来光に輝く峰や朝焼けや夕焼けに染まる頂を知っているにも拘らずにである。朝金色に輝き、夕真っ赤に染まり、そして紫にさらに青暗くなる一瞬、対峙していると荘厳な畏れが自然と沸き上がってくる。彼はその一瞬々々を写し撮っていたのだった。
その後彼は4〜5年に一作上梓しており、第3作の「アメリカ大陸」は1975年に、第4作の「聖書の世界」は、1979年に「新約聖書の世界」を、翌1980年には「旧約聖書の世界」を出版している。この時以来このシリーズは「地球再発見による人間性回復」シリーズとなった。その後も1984年に「中国大陸」、1985年に「神々の原風景」、1986〜87年に「仏教伝来」、1994年には2シーズン330日の撮影行の成果である「南極大陸」を上梓した。
還暦を過ぎた1996年には次の企画「世界百名山」を立ち上げ、翌1997年から2000年にかけて撮影を行なった。この間ヒマラヤではセスナ機が乱気流に巻き込まれ、頸椎と腰椎を折るという大怪我をしたものの、手術の成功とリハビリにより、九死に一生を得て半年後には現場復帰した。この写真集は2000年から2001年にかけて、3巻に分けて発刊された。そして翌2002年からは「世界百名瀑」の撮影に取り組み、2007年に72歳でこの写真集を上梓した。これまで10作の豪華写真集のうち、第2、5、6、8、9作は購入したものの、この10作目には圧倒されながらも、手元に置くことに躊躇し、購入しなかった。
その後彼は長年心に温めてきた日本の原風景を撮り下ろそうと、「永遠の日本」というテーマに取りかかった。2008年月、73歳のことである。爾来2012年までの足掛け5年、その成果は2012年11月に同名の作品集として発刊された。彼は日本各地に日本の原風景を求めて足を運び、ある日のある一瞬の自然が見せる輝きを収めるため、季節や時間を変え、何度も同じ場所へ訪れたという。陸上からは勿論、船で海上へ出ての撮影、はたまたセスナ機やヘリコプターからの空撮など、あらゆる可能性を求めてシャッターを切り続けた。この5年間に撮影したポイントは46,600地点、取材費は4億円にも及んだという。この作品集には、その中から厳選された402作品が収録されている。これらの作品には別冊で、撮影した日時や地点が具体的に明記されており、誰でも白川氏が撮影したポイントに立って、同じ時期の同じ日時に立てば、同じ風景と感動を味わうことができるとしている。素晴らしいことだ。そして彼の写真には人工物が全く感じられない真の日本の原風景が現出している。
閑話休題
さて、この本の案内が来た時、正直言って税込み10万円もするので、前回の「世界百名瀑」同様、割愛しようと思っていた。ところが正月、たまたまNHKで石坂浩二がナレーターとなって放送された「永遠の日本〜白川義員・日本人の魂を育てた風景を撮る〜」を見た。これを見た瞬間、全身にビビッとくるものがあり、咄嗟に求めてしまった。全一巻が数日後に届いたが、その重たいこと、10kgはあろうか。初版本には、著者自筆のサインと落款が押されており、落款には「眼界 永遠之日本 白川義員」とある。眼界とは、目に見える限り、考えの及ぶ範囲。物事を考え、判断する見識の意であるという。彼は撮影に当たっては、自身を縄文の時代に置き、縄文人の目で自然を直視し、自然は崇高で偉大で荘厳であると感じ、縄文人が抱いたであろう壮絶で深遠な畏れを体験し、それを凝縮している。大事な宝となる作品集である。英語でのタイトルは「ETERNAL JAPAN」である。これまで彼の作品は、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、デンマーク語としても出版されているが、この作品集も必ずや世界へ向けて発信されることは間違いない。
2013年2月2日土曜日
正月に巡った蕎麦屋
平成25年(2013)正月に訪れた蕎麦屋を思い出してしたためてみた。
● 龜屋 かほく市白尾
正月6日の日曜日、今年初めて家内と額菩提樹苑にある三男の墓参りに出かけ、その足で龜屋へ向かった。以前はともかく、今では家内も私もこの店には惚れ込んでいて、年に数回は出かけている。山側環状道路を通れば、自宅からでも30分ばかりで行くことができる。龜屋には11時頃に着いた。本来なら開店は11時30分である。いつも一番先に店に入ると、右手奥の小上がりの座敷テーブルに案内されるが、6人座れるテーブルに2人というのは気がひけ、その日もそば好きの女性を誘ったが、生憎と日曜勤務とかで2人で訪れた。15分位前に店主とばったり、中へ招き入れられた。そしてかの場所へ案内された。もし混んできたら一向に相席はかまわないのだが、これまで相席を頼まれたことはない。
店主の西川幸一さんはまだ60代とか、店内には山の写真が沢山飾ってあるが、全て山へ行かれて撮ったのだという。オオサクラソウは白山でもある場所にしか生育していないのだが、その場所は知っておいでだった。店は長男の克幸さんが仕切っておいでる。店主が注文をとりに、お酒は私はここではもっぱら「立山」の冷酒、大概3合は頂戴する。家内は車の運転もありノンアルコールビール。酒肴には、そば焼き味噌、だし巻きたまご、板わさ、鴨焼き、にしん煮を、そばは家内は「天せいろ」、私は後で「おろしそば」を貰う。そばは4種類、十割の「田舎」、二八の「せいろ」、更科の「白雪」、それと「変わりそば」、この日は「柚子切り」だった。この4つから3つを選べる「三色せいろ」もある。天ぷらには季節の野菜と大きな海老がつく。1時間半余り、十分堪能した。聞けば次男さんは金沢の新神田で開業されたとか、いずれ案内差し上げますと言われた。
● 香り蕎麦 亀平(きへい) 金沢市新神田二丁目
1月10日に案内を頂いたので、14日の成人の日に、女性一人を誘って出かけた。新神田の陸橋を渡って最初の交差点を右に曲がるとすぐ左手にある。昨年10月に開店したとか、探蕎会の世話人会で塚野さんから聞いた。営業は午前11時半から午後3時のみ、夜は白尾の方に帰るとか、今は店主の幸平さんと女の方と二人で切り盛りされている。お酒は日榮、酒肴はまだ数は少ない。そば焼き味噌、玉子巻き、揚げ出し、板わさを貰う。鴨南蛮や天せいろもあるので、抜きで頂こうかなと思ったが、今回は止めにした。2合ばかり頂いて、「二色せいろ」を頂く。これは「せいろ」と「粗挽き」の二色盛りで、十割は極細打ち、これは凄い。聞けば釜が小さいからとか。せいろは少し硬かった。これからの店だ。
● 草庵 白山市鶴来日吉町
1月20日の日曜に、やはり墓参りを済ませて鶴来へ向かった。最後に寄ったのは、囲炉裏端で1日10食限定の十割蕎麦を貰った時、べちゃっとしていて大変不味く、それ以来行っていなかった。この日は10時半に着いた。今年は息子の博英さんから年賀状が来ていた。この前の十割は親父さんでなく息子さんが打ったのだとあの時聞いたが、もう代替わりして任されているのだろうか。開店まで1時間ばかり、案内を乞うと奥さんが出て来られ、随分久しぶりですねと言われる。囲炉裏が無くなって2年になるとのこと、すると3年近く訪ねていないことに、随分のご無沙汰だった。今日は11時半からですので、白山さんにでもお参りされてきてはと、こんな早い時間、まだ客は誰も来ていない。
5分前になって店へ、お客さんが集まってきている。丁度11時に中へ、座敷へ上がる。ここの酒肴はハイレベルで品数も多く、中でも鰊煮は右に出る店がないほどの逸品である。ほかに、板わさ、野菜天、鴨焼きをもらう。酒は八海山を延べ3合、大きな片口に入って出た。器も中々凝っている。そばは家内は「おろしなめこ」、私は蕎麦前を終えて「おろし」、この日十割は割愛したが、もう今では立派な打ちをしているのではと思う。
● 敬蔵 野々市市本町一丁目
昨年11月に15日からは新そばを提供でき、12月には極上の猪肉を使った「猪鍋会席」を始めますとの案内を頂いた。猪は捕獲後しっかり血抜きしてあり、特有の臭みはないとか。ところが24日にお願いしたところ、猪が手に入らないとかで、その日は「そばづくし」で済ませた。1月半ばに電話があり、手に入ったとのこと、27日に出かけた。二人前が基本、家内は食べないと言うので、家内の姪を誘った。献立は、「前菜五点盛」「猪肉三種葱間串」「猪肉と黄芯白菜の蒸し鍋」「猪汁そば」「季節のデザート」、酒は菊姫と常きげん、家内は「そばづくし」。猪肉は臭みなく、特に串はバラ、ロース、赤肉とも大変旨かった。また猪汁そばは鴨汁そばの鴨を猪に置き換えた逸品。ただ蒸し鍋は今一だった。お陰でお酒がすすんで、二人で8合消費した。会席は一人3,500円、でも価値はあった。ちなみに敬蔵のそばは自家製粉ですべて十割、酒肴では鴨ロースが秀逸である。
● 蕎麦やまぎし 金沢市此花町
求めて寄ることはないが、県立音楽堂に用事がある時は大概寄ることにしている。そばはすべて自家製粉の十割そば、私が頂くのは粗挽き粒が入っている極太打ち、これに岩塩を振り、財宝という芋焼酎で頂く。蕎麦と焼酎2合で1,100円。ほかに白と田舎がある。
● 龜屋 かほく市白尾
正月6日の日曜日、今年初めて家内と額菩提樹苑にある三男の墓参りに出かけ、その足で龜屋へ向かった。以前はともかく、今では家内も私もこの店には惚れ込んでいて、年に数回は出かけている。山側環状道路を通れば、自宅からでも30分ばかりで行くことができる。龜屋には11時頃に着いた。本来なら開店は11時30分である。いつも一番先に店に入ると、右手奥の小上がりの座敷テーブルに案内されるが、6人座れるテーブルに2人というのは気がひけ、その日もそば好きの女性を誘ったが、生憎と日曜勤務とかで2人で訪れた。15分位前に店主とばったり、中へ招き入れられた。そしてかの場所へ案内された。もし混んできたら一向に相席はかまわないのだが、これまで相席を頼まれたことはない。
店主の西川幸一さんはまだ60代とか、店内には山の写真が沢山飾ってあるが、全て山へ行かれて撮ったのだという。オオサクラソウは白山でもある場所にしか生育していないのだが、その場所は知っておいでだった。店は長男の克幸さんが仕切っておいでる。店主が注文をとりに、お酒は私はここではもっぱら「立山」の冷酒、大概3合は頂戴する。家内は車の運転もありノンアルコールビール。酒肴には、そば焼き味噌、だし巻きたまご、板わさ、鴨焼き、にしん煮を、そばは家内は「天せいろ」、私は後で「おろしそば」を貰う。そばは4種類、十割の「田舎」、二八の「せいろ」、更科の「白雪」、それと「変わりそば」、この日は「柚子切り」だった。この4つから3つを選べる「三色せいろ」もある。天ぷらには季節の野菜と大きな海老がつく。1時間半余り、十分堪能した。聞けば次男さんは金沢の新神田で開業されたとか、いずれ案内差し上げますと言われた。
● 香り蕎麦 亀平(きへい) 金沢市新神田二丁目
1月10日に案内を頂いたので、14日の成人の日に、女性一人を誘って出かけた。新神田の陸橋を渡って最初の交差点を右に曲がるとすぐ左手にある。昨年10月に開店したとか、探蕎会の世話人会で塚野さんから聞いた。営業は午前11時半から午後3時のみ、夜は白尾の方に帰るとか、今は店主の幸平さんと女の方と二人で切り盛りされている。お酒は日榮、酒肴はまだ数は少ない。そば焼き味噌、玉子巻き、揚げ出し、板わさを貰う。鴨南蛮や天せいろもあるので、抜きで頂こうかなと思ったが、今回は止めにした。2合ばかり頂いて、「二色せいろ」を頂く。これは「せいろ」と「粗挽き」の二色盛りで、十割は極細打ち、これは凄い。聞けば釜が小さいからとか。せいろは少し硬かった。これからの店だ。
● 草庵 白山市鶴来日吉町
1月20日の日曜に、やはり墓参りを済ませて鶴来へ向かった。最後に寄ったのは、囲炉裏端で1日10食限定の十割蕎麦を貰った時、べちゃっとしていて大変不味く、それ以来行っていなかった。この日は10時半に着いた。今年は息子の博英さんから年賀状が来ていた。この前の十割は親父さんでなく息子さんが打ったのだとあの時聞いたが、もう代替わりして任されているのだろうか。開店まで1時間ばかり、案内を乞うと奥さんが出て来られ、随分久しぶりですねと言われる。囲炉裏が無くなって2年になるとのこと、すると3年近く訪ねていないことに、随分のご無沙汰だった。今日は11時半からですので、白山さんにでもお参りされてきてはと、こんな早い時間、まだ客は誰も来ていない。
5分前になって店へ、お客さんが集まってきている。丁度11時に中へ、座敷へ上がる。ここの酒肴はハイレベルで品数も多く、中でも鰊煮は右に出る店がないほどの逸品である。ほかに、板わさ、野菜天、鴨焼きをもらう。酒は八海山を延べ3合、大きな片口に入って出た。器も中々凝っている。そばは家内は「おろしなめこ」、私は蕎麦前を終えて「おろし」、この日十割は割愛したが、もう今では立派な打ちをしているのではと思う。
● 敬蔵 野々市市本町一丁目
昨年11月に15日からは新そばを提供でき、12月には極上の猪肉を使った「猪鍋会席」を始めますとの案内を頂いた。猪は捕獲後しっかり血抜きしてあり、特有の臭みはないとか。ところが24日にお願いしたところ、猪が手に入らないとかで、その日は「そばづくし」で済ませた。1月半ばに電話があり、手に入ったとのこと、27日に出かけた。二人前が基本、家内は食べないと言うので、家内の姪を誘った。献立は、「前菜五点盛」「猪肉三種葱間串」「猪肉と黄芯白菜の蒸し鍋」「猪汁そば」「季節のデザート」、酒は菊姫と常きげん、家内は「そばづくし」。猪肉は臭みなく、特に串はバラ、ロース、赤肉とも大変旨かった。また猪汁そばは鴨汁そばの鴨を猪に置き換えた逸品。ただ蒸し鍋は今一だった。お陰でお酒がすすんで、二人で8合消費した。会席は一人3,500円、でも価値はあった。ちなみに敬蔵のそばは自家製粉ですべて十割、酒肴では鴨ロースが秀逸である。
● 蕎麦やまぎし 金沢市此花町
求めて寄ることはないが、県立音楽堂に用事がある時は大概寄ることにしている。そばはすべて自家製粉の十割そば、私が頂くのは粗挽き粒が入っている極太打ち、これに岩塩を振り、財宝という芋焼酎で頂く。蕎麦と焼酎2合で1,100円。ほかに白と田舎がある。
2013年1月11日金曜日
松井秀喜、ニューヨークで現役引退を表明
日米のプロ野球で素晴らしい活躍をした松井秀喜選手が、2012年12月27日(日本時間12月28日)に現役を引退すると発表した。記者会見はニューヨーク市内の思い出のホテルで行なわれた。彼が会見場所に選んだこのマンハッタンのホテルは、彼がヤンキースにいて、2009年にワールドシリーズ最終戦を終え、両親にMVPのトロフィーを手に優勝を報告した思い出の場所だという。多くの報道陣が詰めかけたが、外国人の記者やカメラマンが居ないことからすると、日本向けということだったらしい。
NHKの録画報道は約45分間、始めに松井選手が約15分間、現役引退に至った経緯を話した。言葉を選びながら、ゆっくりと反芻するような口調で話した。本人は野球が大好きでプレーの意欲はあったものの、最後のシーズンも(レイズで)チャンスをもらいながら結果は振るわなかった.これまで命懸けでプレーし、力を最大限発揮するという気持ちでやってきたけれど、結果が出なくなり、本日をもってプロ野球人生に区切りをつけたいと、引退を決意した理由を話した。そして20年を振り返って、「最高に素晴らしい日々だった」とも語った。その後、およそ30分間、一問一答があった。その一部を紹介する。
● 引退を決断した時期については、野球が好きで、プレーしたい気持ちがあったのも事実だが、でもいつかはそうなるという気持ちは常にあった。でも引退に傾いたのはつい最近だった。
● 最初に引退を報告した人は、いつも一緒にいるわけですから妻です。妻からは「お疲れさま」と言われた。僕が怪我をしてから結婚したので、心配をかける時間が多かったと思う。
● 日本球界復帰への選択肢については、おそらく日本のファンが期待しているのは、10年前の勇姿だろうけれど、正直その姿に戻れる自信は強く持てなかった。
● 20年間を振り返ると、特に巨人での10年とヤンキースでの7年には特別な想いがある。巨人はふるさとのようだし、憧れていたヤンキースでは家族の一員になれた気がする。
● 一番の思い出は、長嶋監督と二人で素振りをした時間、それが一番印象に残っている。選手としての心構え、練習の取組み方、すべてを学んだ。それがその後の私の野球人生の大きな礎となり、それがこの20年間を支えてくれた。感謝してもし尽くせない。
● 今後も野球に携わっていくのかについては、日米で10年ずつプレーした経験を、いい形で伝えていければと思うが、伝えられる土台をつくる期間が必要だと感じている。
● 悔いはないのかという問いには、これまでの決断に何一つ悔いはないと答えた。
● 日米通算507本塁打については、確かに僕の魅力の一つだとは思うが、僕が常に意識したのは、チームが勝つことで、そのために努力することしか考えていなかった。
● 今の心境はと聞かれて、寂しい気持ちと、ホッとした気持ちと、非常に複雑だと。まあ引退ということになるが、自分としては引退という言葉は使いたくない。まだ(報道陣などとの)草野球の予定もあるし、まだまだプレーしたい。
● もし自分に言葉をかけるとしたらと聞かれて、これに答えるのに随分時間がかかった。よくやったとか、頑張ったとか、という気持ちはない。努力はしてきたけれども、もう少しいい選手になれたかもと結んだ。人となりなのだろうか、本当に謙虚な人だ。
● 指導者への道はと聞かれて、現時点では考えていないと。ただ、もしかしたら将来そういう縁があるかも知れない。(恩師の山下星陵名誉監督には、以前プロより星陵の監督になりたいと話していたことがあるとかという記事が地元紙に載っていた。)
● 人生にとって野球とはという問いには、そんな哲学的な考えは持っていなくて、最も愛した、最も好きなものかなと答えた。
この松井の引退発表は、私が購読している地方紙の北國新聞では1面トップに、全国紙の朝日新聞でも1面と「天声人語」に掲載された。そして内外の大勢の球界関係者から、称賛やねぎらいの言葉が寄せられた。その賛辞は最大級の実に素晴らしいものばかりだった。次に彼が尊敬する長嶋茂雄・元巨人監督の松井の引退についてのコメントを朝日新聞から引用したい。
「大好きな野球を続けたいという本心よりも、ファンの抱く松井像を優先した決断だったように思う」。
「最後の2,3年は故障と闘う毎日で、本人も辛かっただろう。2000年の日本シリーズ、2009年のワールドシリーズで、チームを優勝に導いた大きなホームランが目に浮かぶ。個人的には、2人きりで毎日続けた素振りの音が耳に残っている。これまでは飛躍を妨げないよう、あえて称賛することを控えてきたつもりだが、ユニホームを脱いだ今は『現代で最高のホームランバッターだった』という言葉を贈りたい」。
また見事に散る桜の花をこよなく愛する長嶋元監督は、「松井の会見は、桜のような見事な散り際だった」とも語った。
今、私の手元に松井秀喜のサインの色紙が2枚ある。1枚は読売ジャイアンツに在籍していた2002年の正月に書かれたもの、もう1枚はニューヨーク・ヤンキースに移籍した後の2004年正月にしたためたもので、これは泉丘高校同期で星稜高校の校長を長年していた松田外男君から頂いたものである。松井秀喜は大変律儀で、正月には必ず山下監督と松田校長のところには年賀に訪れたという。その折には何枚かの色紙にサインをしたという。ただ渡米した後は、サインには球団名は書かずに、名前と背番号55のみを記した。
2013年1月8日火曜日
チームメートだった朝日新聞記者が語る松井秀喜の現役引退
松井秀喜(以下すべて敬称を略する)がニューヨークで引退会見をしたのは12月28日朝(現地時間12月27日夕)である。ところが同日の朝、大阪朝日新聞の朝刊1面に、「松井秀喜引退へ」という記事が載った。書いたのは福角元伸記者である。そこには松井秀喜が現役引退の意思を固めたこと、それは「結果が出せなくなった。それに尽きる」と話したこと、そしてそれは近く正式に表明する、とあった。この日の朝刊に松井秀喜引退の記事が載った新聞が、例えば関係深い読売新聞などでもあったかどうかは知らないが、少なくとも地元の北國新聞には一切掲載されていない。もっともその日の夕刊には大きく報道されていた。またNHKでは28日の午後5時から会見の全容をテレビで放映していた。
私自身は野球にそれほど興味を持ってはいない。そんな私でも長嶋や王の名は知っているし、松井のことも新聞やラジオやテレビでおおよそのことは知っている。旧能美郡根上町で生まれ、少年野球チームに所属し、野球熱心な父親によって右打ちから左打ちに変更し、高校は伝統ある星陵高校に入り、高校最後の甲子園大会では高知の明徳義塾高校との対戦で5打席連続敬遠されたこと、プロ野球には第一志望の阪神ではなく、クジによって長嶋率いる巨人に入団したこと、背番号55で大いに活躍したこと、10年後にはフリーエージェント(FA)宣言をしてニューヨークヤンキースに移籍し、ヤンキースがワールドシリーズで優勝した年には、日本選手初の最優秀選手(MVP)に輝いたことなどである。
記事を書いた朝日新聞記者の福角元伸は松井秀喜と星陵高校同期である。記事によると、彼は身長180㎝、しかも当時の石川県では数少なかった中学硬式クラブチームの出身で、自信満々で星陵高校の野球部に入ったという。ところが松井は当時の身長が185cm、体も大きく、入部当日に当時の山下監督から1年生は打撃練習をとの指示があり、彼は松井が軟式チームの出身であることもあり、得意満面で臨んだのだが、松井は打撃マシンの球を初球からバックスクリーンへたたき込んだのに度肝を抜かれたと言っている。そんなこともあって、松井は1年生で4番という破格の扱いになったという。また打撃練習でボールの下半分を叩く練習をしていたが、それは「ボールに逆スピンをかけて、遠くへ飛ばすため」だと監督に説明していたというから驚いてしまったとも述懐している。それにウエートトレイニングで下半身と背筋を鍛え、3年生の時には太ももは競輪選手のようだったとも。また松井選手の人柄を示す逸話として、3年生の時の甲子園大会での5打席連続敬遠のことも、監督は怒り心頭だったけれども、本人はこれもチームが勝つための作戦だからしようがないと達観していたとか。これにも脱帽したという。後日、「清原さんや桑田さんと違い、俺は打たなくて甲子園で有名になった」と話していたという。
巨人入団後、長嶋監督は松井に対して「4番1千日計画」を立ち上げ、東京ドームでの試合前には、田園調布の自宅に松井を呼び、直接指導したという。素振りで「バットが空を切る音で、どこが良いか悪いのかが分かるようになれ」と言われたという。松井は「プロでやっていくための、打撃の基礎を築いて頂いた」と話していたという。素振りは松井にとって、打撃の調整の原点になったとも。松井は10年間の巨人在籍中、本塁打王3回、打点王3回、首位打者1回、リーグ最優秀選手(MVP)1回を経験、この間巨人はセントラルリーグ優勝4回、日本一3回を達成している。
こうして打撃タイトルの常連となった松井にとって、アメリカ大リーグへの挑戦はむしろ自然な流れだったようだという。2003年に渡米し、自信を持って臨んだものの、1年を経て帰国して語ってくれた言葉は、「まるで、スポーツが違うようだ」という言だったという。とにかくスピードはもちろん、パワーが桁外れ、当時はまだ筋肉増強剤(ステロイド)の監視も今ほど厳しくはなく、大リーガーは化け物のような体躯、その中で松井は埋もれてしまったという。それでも持ち前の対応力で、2年目には日本選手で初めて30本を超える本塁打を記録した。しかし4年目の2006年には左手首の骨折があり、日米通算出場記録は1,768試合で途絶えた。以降も両膝の故障にも見舞われたりした。しかし7年目の2009年のワールドシリーズでは、悪いなりにも調整しながら、ワールドシリーズで日本選手初の最優秀選手に輝いた。それは相次ぐ故障にもめげず、最後までその時その時でベストを尽くそうと、常に練習を継続してきたからにほかならない。
高校時代、松井の部屋の机には1枚の色紙が飾られていて、それには「努力できることが、才能である」とあったという。父の昌男さんから贈られた言葉だそうで、松井は引退する日まで、その教えを忠実に実践した男だったと言える。
福角記者の朝日新聞記事のサブタイトルには、『ゴジラ 不屈の求道』とあった。
私自身は野球にそれほど興味を持ってはいない。そんな私でも長嶋や王の名は知っているし、松井のことも新聞やラジオやテレビでおおよそのことは知っている。旧能美郡根上町で生まれ、少年野球チームに所属し、野球熱心な父親によって右打ちから左打ちに変更し、高校は伝統ある星陵高校に入り、高校最後の甲子園大会では高知の明徳義塾高校との対戦で5打席連続敬遠されたこと、プロ野球には第一志望の阪神ではなく、クジによって長嶋率いる巨人に入団したこと、背番号55で大いに活躍したこと、10年後にはフリーエージェント(FA)宣言をしてニューヨークヤンキースに移籍し、ヤンキースがワールドシリーズで優勝した年には、日本選手初の最優秀選手(MVP)に輝いたことなどである。
記事を書いた朝日新聞記者の福角元伸は松井秀喜と星陵高校同期である。記事によると、彼は身長180㎝、しかも当時の石川県では数少なかった中学硬式クラブチームの出身で、自信満々で星陵高校の野球部に入ったという。ところが松井は当時の身長が185cm、体も大きく、入部当日に当時の山下監督から1年生は打撃練習をとの指示があり、彼は松井が軟式チームの出身であることもあり、得意満面で臨んだのだが、松井は打撃マシンの球を初球からバックスクリーンへたたき込んだのに度肝を抜かれたと言っている。そんなこともあって、松井は1年生で4番という破格の扱いになったという。また打撃練習でボールの下半分を叩く練習をしていたが、それは「ボールに逆スピンをかけて、遠くへ飛ばすため」だと監督に説明していたというから驚いてしまったとも述懐している。それにウエートトレイニングで下半身と背筋を鍛え、3年生の時には太ももは競輪選手のようだったとも。また松井選手の人柄を示す逸話として、3年生の時の甲子園大会での5打席連続敬遠のことも、監督は怒り心頭だったけれども、本人はこれもチームが勝つための作戦だからしようがないと達観していたとか。これにも脱帽したという。後日、「清原さんや桑田さんと違い、俺は打たなくて甲子園で有名になった」と話していたという。
巨人入団後、長嶋監督は松井に対して「4番1千日計画」を立ち上げ、東京ドームでの試合前には、田園調布の自宅に松井を呼び、直接指導したという。素振りで「バットが空を切る音で、どこが良いか悪いのかが分かるようになれ」と言われたという。松井は「プロでやっていくための、打撃の基礎を築いて頂いた」と話していたという。素振りは松井にとって、打撃の調整の原点になったとも。松井は10年間の巨人在籍中、本塁打王3回、打点王3回、首位打者1回、リーグ最優秀選手(MVP)1回を経験、この間巨人はセントラルリーグ優勝4回、日本一3回を達成している。
こうして打撃タイトルの常連となった松井にとって、アメリカ大リーグへの挑戦はむしろ自然な流れだったようだという。2003年に渡米し、自信を持って臨んだものの、1年を経て帰国して語ってくれた言葉は、「まるで、スポーツが違うようだ」という言だったという。とにかくスピードはもちろん、パワーが桁外れ、当時はまだ筋肉増強剤(ステロイド)の監視も今ほど厳しくはなく、大リーガーは化け物のような体躯、その中で松井は埋もれてしまったという。それでも持ち前の対応力で、2年目には日本選手で初めて30本を超える本塁打を記録した。しかし4年目の2006年には左手首の骨折があり、日米通算出場記録は1,768試合で途絶えた。以降も両膝の故障にも見舞われたりした。しかし7年目の2009年のワールドシリーズでは、悪いなりにも調整しながら、ワールドシリーズで日本選手初の最優秀選手に輝いた。それは相次ぐ故障にもめげず、最後までその時その時でベストを尽くそうと、常に練習を継続してきたからにほかならない。
高校時代、松井の部屋の机には1枚の色紙が飾られていて、それには「努力できることが、才能である」とあったという。父の昌男さんから贈られた言葉だそうで、松井は引退する日まで、その教えを忠実に実践した男だったと言える。
福角記者の朝日新聞記事のサブタイトルには、『ゴジラ 不屈の求道』とあった。
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