2013年1月8日火曜日

チームメートだった朝日新聞記者が語る松井秀喜の現役引退

 松井秀喜(以下すべて敬称を略する)がニューヨークで引退会見をしたのは12月28日朝(現地時間12月27日夕)である。ところが同日の朝、大阪朝日新聞の朝刊1面に、「松井秀喜引退へ」という記事が載った。書いたのは福角元伸記者である。そこには松井秀喜が現役引退の意思を固めたこと、それは「結果が出せなくなった。それに尽きる」と話したこと、そしてそれは近く正式に表明する、とあった。この日の朝刊に松井秀喜引退の記事が載った新聞が、例えば関係深い読売新聞などでもあったかどうかは知らないが、少なくとも地元の北國新聞には一切掲載されていない。もっともその日の夕刊には大きく報道されていた。またNHKでは28日の午後5時から会見の全容をテレビで放映していた。
 私自身は野球にそれほど興味を持ってはいない。そんな私でも長嶋や王の名は知っているし、松井のことも新聞やラジオやテレビでおおよそのことは知っている。旧能美郡根上町で生まれ、少年野球チームに所属し、野球熱心な父親によって右打ちから左打ちに変更し、高校は伝統ある星陵高校に入り、高校最後の甲子園大会では高知の明徳義塾高校との対戦で5打席連続敬遠されたこと、プロ野球には第一志望の阪神ではなく、クジによって長嶋率いる巨人に入団したこと、背番号55で大いに活躍したこと、10年後にはフリーエージェント(FA)宣言をしてニューヨークヤンキースに移籍し、ヤンキースがワールドシリーズで優勝した年には、日本選手初の最優秀選手(MVP)に輝いたことなどである。
 記事を書いた朝日新聞記者の福角元伸は松井秀喜と星陵高校同期である。記事によると、彼は身長180㎝、しかも当時の石川県では数少なかった中学硬式クラブチームの出身で、自信満々で星陵高校の野球部に入ったという。ところが松井は当時の身長が185cm、体も大きく、入部当日に当時の山下監督から1年生は打撃練習をとの指示があり、彼は松井が軟式チームの出身であることもあり、得意満面で臨んだのだが、松井は打撃マシンの球を初球からバックスクリーンへたたき込んだのに度肝を抜かれたと言っている。そんなこともあって、松井は1年生で4番という破格の扱いになったという。また打撃練習でボールの下半分を叩く練習をしていたが、それは「ボールに逆スピンをかけて、遠くへ飛ばすため」だと監督に説明していたというから驚いてしまったとも述懐している。それにウエートトレイニングで下半身と背筋を鍛え、3年生の時には太ももは競輪選手のようだったとも。また松井選手の人柄を示す逸話として、3年生の時の甲子園大会での5打席連続敬遠のことも、監督は怒り心頭だったけれども、本人はこれもチームが勝つための作戦だからしようがないと達観していたとか。これにも脱帽したという。後日、「清原さんや桑田さんと違い、俺は打たなくて甲子園で有名になった」と話していたという。
 巨人入団後、長嶋監督は松井に対して「4番1千日計画」を立ち上げ、東京ドームでの試合前には、田園調布の自宅に松井を呼び、直接指導したという。素振りで「バットが空を切る音で、どこが良いか悪いのかが分かるようになれ」と言われたという。松井は「プロでやっていくための、打撃の基礎を築いて頂いた」と話していたという。素振りは松井にとって、打撃の調整の原点になったとも。松井は10年間の巨人在籍中、本塁打王3回、打点王3回、首位打者1回、リーグ最優秀選手(MVP)1回を経験、この間巨人はセントラルリーグ優勝4回、日本一3回を達成している。
 こうして打撃タイトルの常連となった松井にとって、アメリカ大リーグへの挑戦はむしろ自然な流れだったようだという。2003年に渡米し、自信を持って臨んだものの、1年を経て帰国して語ってくれた言葉は、「まるで、スポーツが違うようだ」という言だったという。とにかくスピードはもちろん、パワーが桁外れ、当時はまだ筋肉増強剤(ステロイド)の監視も今ほど厳しくはなく、大リーガーは化け物のような体躯、その中で松井は埋もれてしまったという。それでも持ち前の対応力で、2年目には日本選手で初めて30本を超える本塁打を記録した。しかし4年目の2006年には左手首の骨折があり、日米通算出場記録は1,768試合で途絶えた。以降も両膝の故障にも見舞われたりした。しかし7年目の2009年のワールドシリーズでは、悪いなりにも調整しながら、ワールドシリーズで日本選手初の最優秀選手に輝いた。それは相次ぐ故障にもめげず、最後までその時その時でベストを尽くそうと、常に練習を継続してきたからにほかならない。
 高校時代、松井の部屋の机には1枚の色紙が飾られていて、それには「努力できることが、才能である」とあったという。父の昌男さんから贈られた言葉だそうで、松井は引退する日まで、その教えを忠実に実践した男だったと言える。
 福角記者の朝日新聞記事のサブタイトルには、『ゴジラ 不屈の求道』とあった。

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