昨年はこの旅を企画立案してくれていた高島夫妻の長女がまだ京都大学に在学していたにもかかわらず、なぜか旅行は奥飛騨温泉郷と松本への旅となった。あの時期京都は紅葉で真っ赤に染まっていたろうにと想いながらの旅だった。そして今年、まだ娘のケイちゃんが大学に在学中ということもあってか、再び「京都へ行くまいかい」が催されることになった。そして一昨年と同じく、またも4世代同伴の旅となった。
一行のメンバーを紹介しよう。第一世代は旧姓西野の三姉妹、上から順に、宮田キク子さん、石田レイ子さん、木村タカ子さん、それに石田と木村の旦那。これら計5人は皆さん70代である。第二世代は長姉宮田キク子さんの三姉妹、生まれた順に宮田マサヨさん、早川ミキ子さん、高島ヨシ子さん、それに早川と高島の旦那衆。このグループの年代は40〜50歳台である。第三世代は宮田マサヨさんの二姉妹のリセ子ちゃんとチオリちゃん、そして高島夫妻の長女のケイちゃん。この3人は皆さん20代である。そして第四世代は、姉のリセ子ちゃんの子供のタエ子ちゃんとメイ子ちゃん、妹のチオリちゃんの子供のリ子ちゃんの3人。この子達の歳は1桁台である。以上16名が今回のメンバーである。
旅行は5月31日の土曜日と6月1日の日曜日の2日間、初日は京都での、2日目は奈良での周遊が予定に組まれていて、出発と終着は金沢市上荒屋の宮田家、東京在住の石田さん夫妻と京都在住のケイちゃんは京都で合流することになっている。
平成26年 (2014) 5月31日(土)
朝8時にチャーターしたマイクロバスに乗り込み出発する。この旅行でのバスの運転は高島エイジさん、全行程を担当した。上荒屋から新設された北陸道の白山 IC までは指呼の距離、高速道に入り、バスは快適に南下する。手取川を過ぎた頃、私は持参した「財宝」をおもむろに取り出した。これは25%の「財宝」という焼酎を、これまた「財宝」という名水 (地下1000mから湧き出た天然ミネラルウォーター) で2:1に割ったものを、500 ml の財宝のミネラル水の容器に入れてあり、この水は家内が毎日愛飲している。そこで取り出した私の財宝を先ず家内に進呈した。すると嬉しそうにいつものように一気にガブッと一口、でもその中身は焼酎、でもすぐには吐き出せず、誰かがポリ袋を渡して漸く彼女は解放された。悪い悪戯をした。反省。しかし私はその後その財宝を快調に胃の腑へチビリチビリと送り込み続けた。
最初の休憩は南条 SA 、その後敦賀 IC で高速道を下り、国道8号線へ。当初京都大原へは北から入ると聞いていたので、小浜からの若狭街道 (鯖街道) を通るのかと思っていたら、そうではなくて近江の方からとのことだった。敦賀の南で8号線から 161号線 (西近江路) に入り南下し、志賀バイパス、湖西道路 (いずれも 国道161線 ) と通り、和邇 IC で下りてトイレ休憩。ここまで3時間ばかり、和邇川の畔で小休止する。園地にはニワゼキショウが咲き誇っていた。ここからは北に連なる比良山地 (盟主は武奈ヶ岳、懐かしい山) と南の比叡山との鞍部を抜け、途中峠から若狭街道 (国道 367 号線) に入ると、そこはもう目指す京都大原である。
さて予定では 12 時に大原三千院に入り、ここで石田さん達と合流の予定だったが、この時刻、石田さん達はまだ京都駅とのことで、迎えにバスは京都駅へと向かう。勝手知ったる京都の道、それと上手なハンドルさばき、無事石田さん達と合流できて、再び大原へと取って返す。車を停めたのは志ば漬の里にある土井志ば漬本舗、店には沢山の種類の志ば漬が所狭しと並んでいて、それは皆試食が可能、これには驚いた。店の周りには紫蘇畑が広がっている。時間は午後1時半、昼食はこの店の奥にある食事処の竈炊き立てごはんの「土井」で、奥の小上がりへ上がり込む。テーブルは2つ。片方は子供中心の女性ばかりで、第一世代1名、第二世代2名、第三世代2名、第四世代3名の8名。もう片方は男性4名と女性は第一世代2名と第二世代1名の7名。思い思いに飲み物を注文する。昼食にやがて小一時間をかけ、済んで志ば漬を土産に買い、バスで大原三千院へ向かう。
駐車場にバスを停め、徒歩で三千院へ向かう。参道の径を辿ると、道筋には土産物屋や茶屋などが並ぶ。宮川沿いに10分ばかり歩き左へ折れると、三千院の御殿門に達する。門を潜り、受付を通り拝観する。ここは天台宗の開祖である最澄 (伝教大師) が比叡山に築いた草庵を起源とする門跡寺院で、明治維新後にこの地へ移り「三千院」と公称されるようになったという。寺に上がり、客殿、宸殿、往生極楽殿と巡る。往生極楽殿には国宝の阿弥陀三尊像が安置されている。外に出て池泉回遊式の有泉園を通り、わらべ地蔵、弁財天を経て、高みにある金色不動堂に向かう。真っ直ぐに伸びた杉木立が美しい。それに楓が沢山植わっている。秋の紅葉はさぞ綺麗だろう。また庭を覆う苔も素晴らしい。堂には金色不動明王が祀られている。ここで金色不動明王と弁財天の御朱印をもらう。帰りには紫陽花園を回って下り、円融蔵で薬師如来と阿弥陀三尊の御朱印を頂き、入った御殿門から外へ出る。ざっと30分ばかり、来た径を引き返す。皆さん途中の茶店でかき氷に魅せられて一服、鮮やかな緑色は抹茶なのだろうか。茶店の前庭に大原菊と名の付いた花が咲いていた。植物名はミヤマヨメナとある。註にミヤコワスレはこれの園芸種だとあった。食べ終えて駐車場に向かう。
バスは国道 367 号線を南下し、京都市街へ、北山通の交差点を右折し西進すると、左手に森が見え、ここが今日最後の訪問の場所の京都府立植物園、正門から入る.時間はやがて午後5時、でもまだ陽は
高い。予定より約1時間の遅れである。この時期、丁度バラ、ハナショウブ、アジサイが見頃だという。初めにバラ園へ行く。夥しい種類のバラが咲き誇っている。壮観というしかない。赤・白・ピンク・深紅・黄・紫等々、実に見事だ。そぞろ歩いて花菖蒲園へ行く。まだ全部は咲き出してはいないが、随分多くの種類が植わっている。紫、黄、白の各色に縞筋が入ったり、ぼかしが入ったり、見頃ならば壮観だろう。
小一時間ばかりいて、嵯峨野の渡月橋近くにある今宵の宿「花のいえ」へ向かう。ここは公立学校共済組合嵐山保養所とのことだが、着いてその静かで優雅な佇まいにびっくりした。聞けば、朱印船貿易や高瀬川、保津川、富士川の開削で知られている角倉了以の邸趾とか、小堀遠州作と伝わる枯山水の庭園もある実に風情のある宿だ。本当に素晴らしい宿を世話して頂いた。
部屋は4室、男性は1室、着いた時間が遅かったこともあり、すぐに夕食とか。早速着替えて夕食の間へ。すると驚いたことに、「ふようの間」という畳の部屋に和室用のテーブル席が設えてあるではないか。何とも不思議な印象だった。テーブルには既に料理が置かれている。セットの会席料理なのだろう。お酒はそれぞれに注文、日本酒あり、ビールあり、焼酎あり、談笑しながらの宴会形式の夕食、ほぼ約2時間ばかり、8時半にお開きとなる。お風呂に浸かった後、男性の部屋にマサヨさんとその子達と孫達が登場、ビールを飲みながら暫し他愛のない会話を楽しむ。午後10時近くになり散会した。
2014年6月27日金曜日
2014年6月12日木曜日
平成26年の子うし会
子うし会というのは、昭和24年3月に野々市小学校を卒業した同窓生と昭和27年3月に野々市中学校を卒業した同窓生の集まりである。合わせた数は、男28名、女25名である。そしていつ頃からか、毎年少なくとも1泊でこの会を開いている。近くの温泉などでの会の場合、大概20名前後が参加する。これまでの会の経過をみると、近くでするのと遠くへ出かけてするのとを交互に繰り返してきた。昨年は喜寿の祝いということもあって、地元粟津温泉「法師」での開催で、今年は遠出の予定だったものの、遠出するなら日の長い時期にという地元女性軍の希望もあって、今年は再び地元になった。私は世話人代表になってはいるものの、実務の方は、男性は Y 世話人が、女性は A 世話人が、皆の意見を集約して行き先などを決めてくれる。その後の皆さんへの案内や取りまとめは私がしている。
案内を出す同窓生の数は、男性は28名中、物故者8名、消息不明者3名、障害や長期入院等で会に参加できない人6名と私を除く残り10名。また女性は25名中、物故者4名、過去10年間に一度も参加したことがない人7名を除いた残り14名である。この中には乗り物酔いや頻繁な車の乗り降りに支障がある人が女性に4人いて、この方達は長距離の移動や長い旅行は困難である。するとどうやら元気で旅行可能というのは20人ばかりということになる。その中で現在傍から見ても五体満足でピンピンしているのは、男で5人、女で7人ほどで、私自身は十病息災の身である。
この子うし会の旅行には、もう15年位前から北陸交通の N さんが担当してくれていて、今回の企画にも彼が相談に乗ってくれた。それでまとまった今年の案が私に届けられたのが3月末、富山県の雨晴温泉への1泊バス旅行にしたという。地元野々市からの出発は5月28日の午後1時半、帰着は翌日の午後0時半、立寄先は、初日は高岡市にある重要文化財の雲龍山勝興寺 (浄土真宗本願寺派) 、そして翌日は氷見市にある氷見漁港場外市場の「ひみ番屋街」の2カ所のみ、規模としては小さく、東京在住の2人と関西にいる3人の同窓生には、たった1日の短いバス旅行にわざわざ出てくるのに不服が出ないかどうかが心配だった。でもとにかく過去にこの会に参加したことがある24名に通知を出した。出欠の返事の期限は出発の2週間前の5月14日にした。
ところで期限までに返事があったのは22名、うち参加者は16名 ( 男6 女10) 、不参加者は体調不良でが5名 ( 男3 女2 )、多忙でが1名 ( 女 ) だった。返事のなかった男女各1名には後日電話で問い合わせたが、出発の2、3日前にならないと確答できないとのこと、これには本当に啞然となった。今回当初は20名の参加を見込んではいたものの、最終的な参加者は17名ということになった。
当日は天気も良く、野々市で乗車する12名は出発時間前に揃った。残りは金沢駅西口での乗車だが、以前とは乗車場所が異なっていたこともあって、少々時間を費やした。車は北陸交通がチャーターしたマイクロバス、一路北陸道と能越道を経由して高岡市伏木にある勝興寺へ向かう。この寺の開基は本願寺八世の蓮如上人で、当時は土山御坊といったが、佐渡にあって廃絶していた順徳天皇勅願所の「殊勝誓願興行寺」を再興相続して「勝興寺」としたとある。敷地3 ha には重文12棟があり、平成10
年から20年計画で修復工事が進められている。現在は本堂のみ修復が完工していて、私たちは本堂で説明を聞いた。また境内には天平の昔に越中国庁があったことを示す碑があり、万葉の歌人の大伴家持が5年間国守としてこの地に赴任していたとか。この辺り一帯、当時は越の国 ( 越前、越中、越後 )と称されていて、まだ加賀や能登という名はなかったと聴いたことがある。
寺を出て国道を北上して雨晴海岸を経て高台にある今宵の宿の「磯はなび」に入る。客室数50室もの温泉ホテル、空気が澄んでいれば、右手に立山連峰、左手には能登半島が見えるはずなのだが、生憎と黄砂で霞んでいて見えない。ゆっくりと露天風呂に浸りながら駄弁る。眺望がないのが残念だ。湯上がりに生ビール、大変旨い。暫時休んで宴会、ここ数年は宴会はテーブルと椅子の組み合わせ、今宵は何故か男性と女性が対面する構図、でも話に花が咲く。品は12品、食べ尽くせない。終わって幹事部屋に皆が集まり、飲みながらの雑談、それにしても以前と比べると随分酒量が落ちた。来年はこの時期に遠出して長崎の五島列島に行こうかと。就寝したのは翌日だった。
翌朝の朝食はバイキング、平日なのにかなりの客がいたのは驚きだった。宿を定刻10時に出る。氷見市中心部を抜け、氷見漁港の北側に移設された「ひみ番屋街」へ。ここには30店舗もあり、海山の幸、郷土の土産、和洋食堂、回転寿司、そして隣には氷見温泉の総湯までもがある一大拠点だ。ここで小1時間過ごし、能越道・北陸道を経て、この旅を終えた。来年は五島へ行こう。
案内を出す同窓生の数は、男性は28名中、物故者8名、消息不明者3名、障害や長期入院等で会に参加できない人6名と私を除く残り10名。また女性は25名中、物故者4名、過去10年間に一度も参加したことがない人7名を除いた残り14名である。この中には乗り物酔いや頻繁な車の乗り降りに支障がある人が女性に4人いて、この方達は長距離の移動や長い旅行は困難である。するとどうやら元気で旅行可能というのは20人ばかりということになる。その中で現在傍から見ても五体満足でピンピンしているのは、男で5人、女で7人ほどで、私自身は十病息災の身である。
この子うし会の旅行には、もう15年位前から北陸交通の N さんが担当してくれていて、今回の企画にも彼が相談に乗ってくれた。それでまとまった今年の案が私に届けられたのが3月末、富山県の雨晴温泉への1泊バス旅行にしたという。地元野々市からの出発は5月28日の午後1時半、帰着は翌日の午後0時半、立寄先は、初日は高岡市にある重要文化財の雲龍山勝興寺 (浄土真宗本願寺派) 、そして翌日は氷見市にある氷見漁港場外市場の「ひみ番屋街」の2カ所のみ、規模としては小さく、東京在住の2人と関西にいる3人の同窓生には、たった1日の短いバス旅行にわざわざ出てくるのに不服が出ないかどうかが心配だった。でもとにかく過去にこの会に参加したことがある24名に通知を出した。出欠の返事の期限は出発の2週間前の5月14日にした。
ところで期限までに返事があったのは22名、うち参加者は16名 ( 男6 女10) 、不参加者は体調不良でが5名 ( 男3 女2 )、多忙でが1名 ( 女 ) だった。返事のなかった男女各1名には後日電話で問い合わせたが、出発の2、3日前にならないと確答できないとのこと、これには本当に啞然となった。今回当初は20名の参加を見込んではいたものの、最終的な参加者は17名ということになった。
当日は天気も良く、野々市で乗車する12名は出発時間前に揃った。残りは金沢駅西口での乗車だが、以前とは乗車場所が異なっていたこともあって、少々時間を費やした。車は北陸交通がチャーターしたマイクロバス、一路北陸道と能越道を経由して高岡市伏木にある勝興寺へ向かう。この寺の開基は本願寺八世の蓮如上人で、当時は土山御坊といったが、佐渡にあって廃絶していた順徳天皇勅願所の「殊勝誓願興行寺」を再興相続して「勝興寺」としたとある。敷地3 ha には重文12棟があり、平成10
年から20年計画で修復工事が進められている。現在は本堂のみ修復が完工していて、私たちは本堂で説明を聞いた。また境内には天平の昔に越中国庁があったことを示す碑があり、万葉の歌人の大伴家持が5年間国守としてこの地に赴任していたとか。この辺り一帯、当時は越の国 ( 越前、越中、越後 )と称されていて、まだ加賀や能登という名はなかったと聴いたことがある。
寺を出て国道を北上して雨晴海岸を経て高台にある今宵の宿の「磯はなび」に入る。客室数50室もの温泉ホテル、空気が澄んでいれば、右手に立山連峰、左手には能登半島が見えるはずなのだが、生憎と黄砂で霞んでいて見えない。ゆっくりと露天風呂に浸りながら駄弁る。眺望がないのが残念だ。湯上がりに生ビール、大変旨い。暫時休んで宴会、ここ数年は宴会はテーブルと椅子の組み合わせ、今宵は何故か男性と女性が対面する構図、でも話に花が咲く。品は12品、食べ尽くせない。終わって幹事部屋に皆が集まり、飲みながらの雑談、それにしても以前と比べると随分酒量が落ちた。来年はこの時期に遠出して長崎の五島列島に行こうかと。就寝したのは翌日だった。
翌朝の朝食はバイキング、平日なのにかなりの客がいたのは驚きだった。宿を定刻10時に出る。氷見市中心部を抜け、氷見漁港の北側に移設された「ひみ番屋街」へ。ここには30店舗もあり、海山の幸、郷土の土産、和洋食堂、回転寿司、そして隣には氷見温泉の総湯までもがある一大拠点だ。ここで小1時間過ごし、能越道・北陸道を経て、この旅を終えた。来年は五島へ行こう。
2014年6月5日木曜日
シンリョウのツブヤキ(6)5月の花
5月に家の庭 (露地) で花が咲いた木々と草花を記した。植物名は50音順に記した。
植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
植物名の後に(4〜)とあるのは4月に前出したもので、科名属名は省略した。
植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物である。
また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種である。
1.木 本
アケボノ(4〜) オオムラサキ(4〜) キンシバイ(オトギリソウ科 オトギリソウ属)
クサイチゴ(4〜) ケヤキ(ニレ科 ケヤキ属) コマユミ(ニシキギ科 ニシキギ属)
サツキ(ツツジ科 ツツジ属) サンザシ(バラ科 サンザシ属)
シキミ・ハナノキ・ハナシバ(シキミ科 シキミ属) シュロ・ワジュロ(ヤシ科 シュロ属)
シロリュウキュウ(ツツジ科 ツツジ属) セイヨウバラ・ブッシュ(バラ科 バラ属)
タブノキ・イヌグス(クスノキ科 タブノキ属) ノイバラ(バラ科 バラ属)
ハクチョウゲ(アカネ科 ハクチョウゲ属) ハゼノキ・ハゼ・ロウノキ(ウルシ科 ウルシ属)
ヤブツバキ(4〜) ヤマフジ(4〜) ライラック・ムラサキハシドイ(4〜)
種名不詳(ユキノシタ科)
以上 20種(14科 16属)
2.草 本
アオマムシグサ(4〜) アゼナルコ(カヤツリグサ科 スゲ属)
アメリカスミレサイシン(4〜) イチゴツナギ(イネ科 イチゴツナギ属)
ウシノケグサ(イネ科 ウシノケグサ属) ウワバミソウ(イラクサ科 ウワバミソウ属)
オニタビラコ(4〜) オノマンネングサ(ベンケイソウ科 キリンソウ属)
カタバミ(4〜) カラスノエンドウ・ヤハズノエンドウ(4〜)
コナスビ(サクラソウ科 オカトラノオ属) コヌカグサ〔外〕(イネ科 コヌカグサ属)
コバンソウ・タワラムギ(イネ科 コバンソウ属)
コメツブウマゴヤシ〔外〕(マメ科 ウマゴヤシ属)
ジシバリ・イワニガナ・ハイジシバリ(キク科 ニガナ属) スズメノカタビラ(4〜)
スズラン(4〜) スミレ(4〜) セイヨウタンポポ〔外〕(4〜) セントウソウ(4〜)
セキショウ(サトイモ科 ショウブ属)
タチイヌノフグリ〔外〕(ゴマノハグサ科 クワガタソウ属)
タツナミソウ(シソ科 タツナミソウ属) ツボスミレ(4〜) トウバナ(シソ科 トウバナ属)
トキワハゼ(4=) ドクダミ・ジュウヤク(ドクダミ科 ドクダミ属)
ニワゼキショウ〔外〕(アヤメ科 ニワゼキショウ属) ノハナショウブ(アヤメ科 アヤメ属)
ノミノツヅリ(ナデシコ科 ノミノツヅリ属) ハハコグサ(キク科 ハハコグサ属)
ハルジオン(4〜) ハルタデ(タデ科 タデ属) ハルノノゲシ(キク科 ハチジョウナ属)
ヒメオドリコソウ〔外〕(4〜) ヒメスミレ(4〜) ヒメツルソバ〔外〕(4〜)
ヘビイチゴ(4〜) ホウチャクソウ(4〜) ホソイ(イグサ科 イグサ属)
ミスミソウ・ユキワリソウ(4〜) ムラサキカタバミ〔外〕(カタバミ科 カタバミ属)
ムラサキケマン(4〜) ヤエムグラ(アカネ科 ヤエムグラ属)
ヤマネコノメソウ(ユキノシタ科 ネコノメソウ属) ユキノシタ(ユキノシタ科 ユキノシタ属)
以上 47種(25科 42属)
植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
植物名の後に(4〜)とあるのは4月に前出したもので、科名属名は省略した。
植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物である。
また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種である。
1.木 本
アケボノ(4〜) オオムラサキ(4〜) キンシバイ(オトギリソウ科 オトギリソウ属)
クサイチゴ(4〜) ケヤキ(ニレ科 ケヤキ属) コマユミ(ニシキギ科 ニシキギ属)
サツキ(ツツジ科 ツツジ属) サンザシ(バラ科 サンザシ属)
シキミ・ハナノキ・ハナシバ(シキミ科 シキミ属) シュロ・ワジュロ(ヤシ科 シュロ属)
シロリュウキュウ(ツツジ科 ツツジ属) セイヨウバラ・ブッシュ(バラ科 バラ属)
タブノキ・イヌグス(クスノキ科 タブノキ属) ノイバラ(バラ科 バラ属)
ハクチョウゲ(アカネ科 ハクチョウゲ属) ハゼノキ・ハゼ・ロウノキ(ウルシ科 ウルシ属)
ヤブツバキ(4〜) ヤマフジ(4〜) ライラック・ムラサキハシドイ(4〜)
種名不詳(ユキノシタ科)
以上 20種(14科 16属)
2.草 本
アオマムシグサ(4〜) アゼナルコ(カヤツリグサ科 スゲ属)
アメリカスミレサイシン(4〜) イチゴツナギ(イネ科 イチゴツナギ属)
ウシノケグサ(イネ科 ウシノケグサ属) ウワバミソウ(イラクサ科 ウワバミソウ属)
オニタビラコ(4〜) オノマンネングサ(ベンケイソウ科 キリンソウ属)
カタバミ(4〜) カラスノエンドウ・ヤハズノエンドウ(4〜)
コナスビ(サクラソウ科 オカトラノオ属) コヌカグサ〔外〕(イネ科 コヌカグサ属)
コバンソウ・タワラムギ(イネ科 コバンソウ属)
コメツブウマゴヤシ〔外〕(マメ科 ウマゴヤシ属)
ジシバリ・イワニガナ・ハイジシバリ(キク科 ニガナ属) スズメノカタビラ(4〜)
スズラン(4〜) スミレ(4〜) セイヨウタンポポ〔外〕(4〜) セントウソウ(4〜)
セキショウ(サトイモ科 ショウブ属)
タチイヌノフグリ〔外〕(ゴマノハグサ科 クワガタソウ属)
タツナミソウ(シソ科 タツナミソウ属) ツボスミレ(4〜) トウバナ(シソ科 トウバナ属)
トキワハゼ(4=) ドクダミ・ジュウヤク(ドクダミ科 ドクダミ属)
ニワゼキショウ〔外〕(アヤメ科 ニワゼキショウ属) ノハナショウブ(アヤメ科 アヤメ属)
ノミノツヅリ(ナデシコ科 ノミノツヅリ属) ハハコグサ(キク科 ハハコグサ属)
ハルジオン(4〜) ハルタデ(タデ科 タデ属) ハルノノゲシ(キク科 ハチジョウナ属)
ヒメオドリコソウ〔外〕(4〜) ヒメスミレ(4〜) ヒメツルソバ〔外〕(4〜)
ヘビイチゴ(4〜) ホウチャクソウ(4〜) ホソイ(イグサ科 イグサ属)
ミスミソウ・ユキワリソウ(4〜) ムラサキカタバミ〔外〕(カタバミ科 カタバミ属)
ムラサキケマン(4〜) ヤエムグラ(アカネ科 ヤエムグラ属)
ヤマネコノメソウ(ユキノシタ科 ネコノメソウ属) ユキノシタ(ユキノシタ科 ユキノシタ属)
以上 47種(25科 42属)
2014年5月16日金曜日
「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(3)
(承前)
3.「蕎麦ふじおか」を信州飯綱高原へ移転し開店 平成21年 (2009)
住所:〒 380-0888 長野県長野市上ヶ屋 2471-2066 TEL : 026-239-2677
平成21年(2009) 7月、信州黒姫高原で20年間営んできた蕎麦屋「ふじおか」を、同じ信州の飯綱高原へ移転した。南に信越五山の飯縄山を望むゆるやかな斜面に、洒落たロッジ風の建物を建てた。環境はというと、黒姫では高原の林の中、どちらかというと静かで暗い印象を受けたものだが、飯綱の方は同じ高原の林の中だが、明るく開放的な雰囲気、建物も窓を大きく採ってあり、したがって店内は明るく光に満ち溢れている。高い天井、窓からは四季折々の高原の景色を居ながらにして堪能することができる。何とも贅沢な環境である。そして部屋にはグランドピアノが鎮座し、CD が聴ける装置も置かれている。営業時に音楽が奏でられることはないが、休日には音楽好きな二人のこと、この空間で寛ぎ楽しむのだろうか。また5月に訪れた時は、外にはまだ雪が残っていて、室内では薪ストーブが赤々と燃えていた。このような素晴らしい環境にあるのだが、ただ唯一の難点は、すんなりこの店へ辿り着けないことである。上信越国立公園内ということもあって、やたら広告看板を出せないこともこれに拍車をかけている。
黒姫から何故飯綱へ移転したのか、その真意はよく知らないが、一説には温暖化の影響もあって、黒姫ではいわゆる霧下蕎麦を期待出来なくなったのではとも聞いている。ところで飯綱へ来て、黒姫で使っていた白木のせいろが傷んできたこともあって作り直すことに。ところで、20年前に作ってくれた中川清司さんはその時人間国宝になられていた。しかしお願いして再び作って戴いた。そして出来上がったせいろは、以前のものに比して幾分小振りで、うすく透明な漆がかけられていたという。それを手にして彼は、このせいろに負けない立派なそばを打たねばと思ったという。それにはこれまでよりももっと細く打つようにしようと思ったという。そのためには、玄そばの風味をさらによく引き出すために、蕎麦を挽く際に粉の粒子を幾分粗くするようにしたという。しかし言うは易く行なうは難しで、目指すべき理想のそばは一朝一夕で簡単にかなうものではない。こうして彼は日々鋭い解析力と高い技術でもって格闘し、より高い進化した「ふじおか」のそばを目指しているという。宮下氏の言によれば、「ふじおか」の主の目下のテーマは「水をはじく、より強靭な麺体を持つそばを打つこと」であるとか、それにはより厳密な水回しが肝要とのことだ。彼は常に前へ進み、常に「これから」という先を見続けている62歳である。それにしても私がこの5月に飯綱でお会いした藤岡さんは、まだお若い好々爺という感じ、気品のある奥さんとは実に似合いの夫婦である。
「蕎麦ふじおか」の案内
● 名 刺:比較的詳しい?案内地図と案内内容が刷られている。
● 営業日:金・土・日・月曜日
● 営業時間:2名以上で予約の上、11時30分に入店して下さい。
● 入店制限:10歳以下の方の入店は不可。したがって親子連れは入れない。
● お品書き:せいろそば(お代わり可)、そばがき、そばぜんざい、お酒(鄙願)、ビール。
● 席 数:18(原則として相席なし) 4人掛け3脚、6人掛け1脚。
4.品の価格の変遷(1991.12 〜 2014.4) 単位:円
● せいろそば:1000 ー 1200 ー 1300 ー 1400 ー 1500 ー 3000
● おかわり:800 ー 800
● そばがき:700 ー 800
● そばぜんざい:800 ー 1000
● お酒 (越後大吟醸酒 [鄙願]):1000 ー 1200 ー 1500
● ビール:500 ー 600
最初の数字は黒姫 (1991.12) での価格、最後の数字は現在 (2014.4) の価格。
3.「蕎麦ふじおか」を信州飯綱高原へ移転し開店 平成21年 (2009)
住所:〒 380-0888 長野県長野市上ヶ屋 2471-2066 TEL : 026-239-2677
平成21年(2009) 7月、信州黒姫高原で20年間営んできた蕎麦屋「ふじおか」を、同じ信州の飯綱高原へ移転した。南に信越五山の飯縄山を望むゆるやかな斜面に、洒落たロッジ風の建物を建てた。環境はというと、黒姫では高原の林の中、どちらかというと静かで暗い印象を受けたものだが、飯綱の方は同じ高原の林の中だが、明るく開放的な雰囲気、建物も窓を大きく採ってあり、したがって店内は明るく光に満ち溢れている。高い天井、窓からは四季折々の高原の景色を居ながらにして堪能することができる。何とも贅沢な環境である。そして部屋にはグランドピアノが鎮座し、CD が聴ける装置も置かれている。営業時に音楽が奏でられることはないが、休日には音楽好きな二人のこと、この空間で寛ぎ楽しむのだろうか。また5月に訪れた時は、外にはまだ雪が残っていて、室内では薪ストーブが赤々と燃えていた。このような素晴らしい環境にあるのだが、ただ唯一の難点は、すんなりこの店へ辿り着けないことである。上信越国立公園内ということもあって、やたら広告看板を出せないこともこれに拍車をかけている。
黒姫から何故飯綱へ移転したのか、その真意はよく知らないが、一説には温暖化の影響もあって、黒姫ではいわゆる霧下蕎麦を期待出来なくなったのではとも聞いている。ところで飯綱へ来て、黒姫で使っていた白木のせいろが傷んできたこともあって作り直すことに。ところで、20年前に作ってくれた中川清司さんはその時人間国宝になられていた。しかしお願いして再び作って戴いた。そして出来上がったせいろは、以前のものに比して幾分小振りで、うすく透明な漆がかけられていたという。それを手にして彼は、このせいろに負けない立派なそばを打たねばと思ったという。それにはこれまでよりももっと細く打つようにしようと思ったという。そのためには、玄そばの風味をさらによく引き出すために、蕎麦を挽く際に粉の粒子を幾分粗くするようにしたという。しかし言うは易く行なうは難しで、目指すべき理想のそばは一朝一夕で簡単にかなうものではない。こうして彼は日々鋭い解析力と高い技術でもって格闘し、より高い進化した「ふじおか」のそばを目指しているという。宮下氏の言によれば、「ふじおか」の主の目下のテーマは「水をはじく、より強靭な麺体を持つそばを打つこと」であるとか、それにはより厳密な水回しが肝要とのことだ。彼は常に前へ進み、常に「これから」という先を見続けている62歳である。それにしても私がこの5月に飯綱でお会いした藤岡さんは、まだお若い好々爺という感じ、気品のある奥さんとは実に似合いの夫婦である。
「蕎麦ふじおか」の案内
● 名 刺:比較的詳しい?案内地図と案内内容が刷られている。
● 営業日:金・土・日・月曜日
● 営業時間:2名以上で予約の上、11時30分に入店して下さい。
● 入店制限:10歳以下の方の入店は不可。したがって親子連れは入れない。
● お品書き:せいろそば(お代わり可)、そばがき、そばぜんざい、お酒(鄙願)、ビール。
● 席 数:18(原則として相席なし) 4人掛け3脚、6人掛け1脚。
4.品の価格の変遷(1991.12 〜 2014.4) 単位:円
● せいろそば:1000 ー 1200 ー 1300 ー 1400 ー 1500 ー 3000
● おかわり:800 ー 800
● そばがき:700 ー 800
● そばぜんざい:800 ー 1000
● お酒 (越後大吟醸酒 [鄙願]):1000 ー 1200 ー 1500
● ビール:500 ー 600
最初の数字は黒姫 (1991.12) での価格、最後の数字は現在 (2014.4) の価格。
「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(2)
(承前)
3.「ふじおか」を信州黒姫高原へ移転 平成元年 (1989)
住所:長野県上水内郡信濃町野尻字山桑 2090-28
「ふじおか」について記している二人の著者がここを初めて訪れたのは、共に偶然にも開業2年後のことである。私たちが初めて訪れた時もそうだったが、道端に目につかない実に小さな標識があるのみで、林の中に建つ山荘風の蕎麦屋に辿り着くのは至難なことだった。それほど外観は蕎麦屋らしくなく、高床式の建物は一見その辺りに散見される別荘かペンションに見える。
こうしてここでは地元黒姫の何軒かの農家と契約して蕎麦を栽培してもらい、収穫した蕎麦はその場で脱酸素剤を入れて真空パックにし、地下の大きな冷蔵貯蔵室で1年分保管する方式を採り、玄そばを毎日使う分だけ製粉する。それには先ず汚れやゴミを磨き落とし、玄そばをサイズによって5段階にふるい分け、黒い外皮を脱穀機や皮むき機で取り除く。すると甘皮が登場する。この「丸抜き」を石臼で挽き製粉するのだが、この気の遠くなる仕事を全部彼一人でこなした。でもこれだとどんなに頑張っても1日50人分、せいろ百枚が限度だという。そしてそばは製粉までが一番の大仕事で、本当に良い蕎麦粉が出来てしまえば、もうそばは出来たも同然と仰る。また地元の蕎麦を使うのは、蕎麦はあまり移動させない方が良いとの考え方による。こうすることによって、四季を通じて常に素晴らしい味と香りと色をたたえた蕎麦粉が出来る。彼がまだ小学生の時に、担任の先生が「幸福ってどんな色だと思いますか」との質問に、ある女の子が「それはうぐいす色のような気がします」と言ったのを聞いて、どんな色なのかを調べたという。彼はこの蕎麦粉の色を見て、もっと淡い緑色なのだが、この色こそ彼女が言った幸福色そのものに違いないと思ったと述懐している。
彼は「そば」に関しては一家言を持っている。新そばは必ずしも一番美味しくはないと、暫く寝かせて2月頃が最も美味しいとも、もっともそれは彼の保存方法によっての条件なのだろうが。また、そばは打ちたてが一番とよく言われるが、これは必ずしも当たってはいなくて、多少寝かせた方が美味しいとも。打ちたてのそばは確かに芬香はあるが、その香りは粗野であり、味わいも角があるから、少し寝かせた方が、良質な味と香りがじんわりと出て、旨味のバランスがグッと良くなるとも。私が初めて寄ったのは平成15年 (2003) であるが、この時主に甘皮の付いた丸抜きを見せてもらったが、とても爽やかな浅緑色をしていた。
彼にそばの師匠はいない。独自で試行錯誤を繰り返しながら「ふじおか」のそばは作られてきた。しなやかで弾力があり、爽やかな喉越しをもつ細身のそばは、香りがあり、それに気品が備わった清冽な味わい、そして自然で美しい彼の郷愁ともいえる幸福色。しかし彼はこれに満足せずに更に進歩したいともらす。
彼はこの甘皮の優しい浅い緑色の清々しさを感じさせるそばを盛りつけるのに相応しい白木の「せいろ」を、京都の道具屋に特別に注文して作ってもらっている。この精巧な清々しいせいろを作ったのは中川清司氏、この方は後に重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝となられた方である。彼のこだわりをひしひしと感ずる。
こうして彼は黒姫高原の店で20年間切り盛りしてしてきたが、この間いろんな新しい試みをした。
● そばがき:生来蕎麦屋で出されるそばがきは、整形したものをそば湯やお湯を張った器に入れて供していたが、彼はお湯と共に火にかけながら柔らかく練り上げて器に載せて供したが、そのふんわりとした食感は実に素晴らしい。皿に直接盛るスタイルは彼の考案とかで、ふじおかのそれは正に芸術品である。
● そば湯:これまでのそば湯には、そばを茹でた釜の湯を用いていたが、彼は蕎麦粉をお湯で溶いて、そばのポタージュスープのようにして供した。最近ではこのようなタイプのそば湯を別製で出す店も多いが、これはふじおかで彼が始めたことである。
● そば汁:もともとふじおかでは江戸前の辛口のつゆだったが、あるときを境に激変して薄いつゆになったという。これは辛口のつゆにどっぷりとそばを浸けて食べる客が圧倒的に多くて、これではせっかくのそばの風味が損なわれてしまうので、どっぷり浸けてもそばの味わいが失われないように、薄めのつゆに調整したのだという。
● 打ち粉:自家製粉を標榜している蕎麦屋は多いが、打ち粉だけは粉屋から仕入れるのが通常なのだが、彼は打ち粉も自家製粉したものを使用している。
● お酒:出されるのは越後大吟醸酒の「鄙願」のみ。私が初めて訪れた折、大吟醸酒にしては吟醸香がまるでしないので訊ねたところ、いろいろ試して、そばの微かな香りを妨げない大吟醸酒はこのお酒のみと言われ、恐縮してしまったことを思い出す。
その他で特記すべき事柄は次のようである。
● 名刺:私は黒姫での店での名刺は知らないが、当初作られた名刺には主の藤岡優也と妻のみち子の両名の名前が並んで記され、それには「楚楚凛然」と刷り込まれていたという。
● 営業:休日は水曜と木曜日。予約は不可。入店は11時半からと13時の2回のみで、15時に閉店。しかし後には11時半1回のみの入店、13時の閉店となった。したがって、どうしても入店したかったら、開店2時間前位に着いて、順に就く必要があった。このことは、何とエラそうな蕎麦屋なんだというような風評が立つ因ともなった。
● 入店制限:10歳以下の入店は不可。したがって親子連れは入れない。
● お品書き:せいろさおば(お代わり可)、そばがき、そばぜんざい、お酒(鄙願)、ビール。
● 席数:18席(原則として相席なし)。
● 現状:この黒姫の店は飯綱への移転後もまだあるものの、お聞きしたところでは、屋根が一部落ちたと話されていた。(2014.4.20)
3.「ふじおか」を信州黒姫高原へ移転 平成元年 (1989)
住所:長野県上水内郡信濃町野尻字山桑 2090-28
「ふじおか」について記している二人の著者がここを初めて訪れたのは、共に偶然にも開業2年後のことである。私たちが初めて訪れた時もそうだったが、道端に目につかない実に小さな標識があるのみで、林の中に建つ山荘風の蕎麦屋に辿り着くのは至難なことだった。それほど外観は蕎麦屋らしくなく、高床式の建物は一見その辺りに散見される別荘かペンションに見える。
こうしてここでは地元黒姫の何軒かの農家と契約して蕎麦を栽培してもらい、収穫した蕎麦はその場で脱酸素剤を入れて真空パックにし、地下の大きな冷蔵貯蔵室で1年分保管する方式を採り、玄そばを毎日使う分だけ製粉する。それには先ず汚れやゴミを磨き落とし、玄そばをサイズによって5段階にふるい分け、黒い外皮を脱穀機や皮むき機で取り除く。すると甘皮が登場する。この「丸抜き」を石臼で挽き製粉するのだが、この気の遠くなる仕事を全部彼一人でこなした。でもこれだとどんなに頑張っても1日50人分、せいろ百枚が限度だという。そしてそばは製粉までが一番の大仕事で、本当に良い蕎麦粉が出来てしまえば、もうそばは出来たも同然と仰る。また地元の蕎麦を使うのは、蕎麦はあまり移動させない方が良いとの考え方による。こうすることによって、四季を通じて常に素晴らしい味と香りと色をたたえた蕎麦粉が出来る。彼がまだ小学生の時に、担任の先生が「幸福ってどんな色だと思いますか」との質問に、ある女の子が「それはうぐいす色のような気がします」と言ったのを聞いて、どんな色なのかを調べたという。彼はこの蕎麦粉の色を見て、もっと淡い緑色なのだが、この色こそ彼女が言った幸福色そのものに違いないと思ったと述懐している。
彼は「そば」に関しては一家言を持っている。新そばは必ずしも一番美味しくはないと、暫く寝かせて2月頃が最も美味しいとも、もっともそれは彼の保存方法によっての条件なのだろうが。また、そばは打ちたてが一番とよく言われるが、これは必ずしも当たってはいなくて、多少寝かせた方が美味しいとも。打ちたてのそばは確かに芬香はあるが、その香りは粗野であり、味わいも角があるから、少し寝かせた方が、良質な味と香りがじんわりと出て、旨味のバランスがグッと良くなるとも。私が初めて寄ったのは平成15年 (2003) であるが、この時主に甘皮の付いた丸抜きを見せてもらったが、とても爽やかな浅緑色をしていた。
彼にそばの師匠はいない。独自で試行錯誤を繰り返しながら「ふじおか」のそばは作られてきた。しなやかで弾力があり、爽やかな喉越しをもつ細身のそばは、香りがあり、それに気品が備わった清冽な味わい、そして自然で美しい彼の郷愁ともいえる幸福色。しかし彼はこれに満足せずに更に進歩したいともらす。
彼はこの甘皮の優しい浅い緑色の清々しさを感じさせるそばを盛りつけるのに相応しい白木の「せいろ」を、京都の道具屋に特別に注文して作ってもらっている。この精巧な清々しいせいろを作ったのは中川清司氏、この方は後に重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝となられた方である。彼のこだわりをひしひしと感ずる。
こうして彼は黒姫高原の店で20年間切り盛りしてしてきたが、この間いろんな新しい試みをした。
● そばがき:生来蕎麦屋で出されるそばがきは、整形したものをそば湯やお湯を張った器に入れて供していたが、彼はお湯と共に火にかけながら柔らかく練り上げて器に載せて供したが、そのふんわりとした食感は実に素晴らしい。皿に直接盛るスタイルは彼の考案とかで、ふじおかのそれは正に芸術品である。
● そば湯:これまでのそば湯には、そばを茹でた釜の湯を用いていたが、彼は蕎麦粉をお湯で溶いて、そばのポタージュスープのようにして供した。最近ではこのようなタイプのそば湯を別製で出す店も多いが、これはふじおかで彼が始めたことである。
● そば汁:もともとふじおかでは江戸前の辛口のつゆだったが、あるときを境に激変して薄いつゆになったという。これは辛口のつゆにどっぷりとそばを浸けて食べる客が圧倒的に多くて、これではせっかくのそばの風味が損なわれてしまうので、どっぷり浸けてもそばの味わいが失われないように、薄めのつゆに調整したのだという。
● 打ち粉:自家製粉を標榜している蕎麦屋は多いが、打ち粉だけは粉屋から仕入れるのが通常なのだが、彼は打ち粉も自家製粉したものを使用している。
● お酒:出されるのは越後大吟醸酒の「鄙願」のみ。私が初めて訪れた折、大吟醸酒にしては吟醸香がまるでしないので訊ねたところ、いろいろ試して、そばの微かな香りを妨げない大吟醸酒はこのお酒のみと言われ、恐縮してしまったことを思い出す。
その他で特記すべき事柄は次のようである。
● 名刺:私は黒姫での店での名刺は知らないが、当初作られた名刺には主の藤岡優也と妻のみち子の両名の名前が並んで記され、それには「楚楚凛然」と刷り込まれていたという。
● 営業:休日は水曜と木曜日。予約は不可。入店は11時半からと13時の2回のみで、15時に閉店。しかし後には11時半1回のみの入店、13時の閉店となった。したがって、どうしても入店したかったら、開店2時間前位に着いて、順に就く必要があった。このことは、何とエラそうな蕎麦屋なんだというような風評が立つ因ともなった。
● 入店制限:10歳以下の入店は不可。したがって親子連れは入れない。
● お品書き:せいろさおば(お代わり可)、そばがき、そばぜんざい、お酒(鄙願)、ビール。
● 席数:18席(原則として相席なし)。
● 現状:この黒姫の店は飯綱への移転後もまだあるものの、お聞きしたところでは、屋根が一部落ちたと話されていた。(2014.4.20)
2014年5月15日木曜日
「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(1)
この一文を書くにあたり、直接藤岡氏に取材して記事を書いた宮下裕史と佐藤隆介の文章を参考にした。参考にした図書と項目は次の通りである。
(1)佐藤隆介:うまいもの職人帖:平成9年 (1997) 文芸春秋:藤岡優也の蕎麦道
(2)宮下裕史:そば読本:平成6年 (1994) 平凡社:ふじおか 藤岡優也
(3)宮下裕史:新そば読本:平成11年 (1999) 平凡社:ふじおか 藤岡優也
(4)宮下裕史:「そば」名人:平成22年 (2010) プレジデント社:「蕎麦ふじおか」藤岡優也
0.藤岡優也の読み
佐藤隆介は「ふじおか・まさなり」、宮下裕史は「ふじおか・ゆうや」としている。
1.生い立ちから開業まで
彼が生まれたのは昭和27年 (1952)、伊勢松阪 (三重県松阪市) である。小さな時から手先が器用で、それには自信があり、よく一人でプラモデルを作ったりするのが好きで、誰よりも上手に作れるという自負があった。そんなこともあって、学校生活はあまり好きでなかったし、団体行動が苦手で、いつも僕は落ちこぼれだと思っていたという。中学生になってからは音楽に傾倒するようになる。初めフォークソングに熱中していたが、やがてクラシック音楽に魅力を感ずるようになる。高校へ入ると、クラシックギターを習うようになり、夢中で練習に励むようになり、すごく腕を上げた。高校の教科では物理と化学が大好き、そして音楽好きで手先が器用、それで団体行動が苦手なこともあって、将来はエンジニアになろうと決心するに至る。
大学は京都の同志社大学の工学部機械工学科を目指した。同志社大を選んだ大きな理由は、同校のマンドリン部が西の雄であったこと、東の雄の明治大学のマンドリン部も有名だったが、演奏曲目はポピュラー音楽をメインにしていたのに対し、同志社では伝統的にイタリアの古典音楽を演奏するのがしきたりだったことによる。彼は大学へはクラブ活動をするために行っていたようなものだったと述懐していたという。そしてこのマンドリン部で将来の伴侶となる信州下諏訪出身の「みち子」さんと知り合うことになる。そして定期演奏会のための合宿で初めて志賀高原へ行き、その時味わった信州の清澄な雰囲気に、とても魅せられたという。
ところで彼は、将来エンジニアになることを夢見ていたから、可能性のあるいくつかの企業でアルバイトをした。ところが裏表のある人間関係にさらされて疲弊し、企業の一員として身を置くことは無理ではないかと思うようになる。そんな折、信州戸隠の宿坊でアルバイトをする機会が訪れる。宿坊では客に手打ちそばを振る舞うが、そのそばは農家の主婦が打っていて、彼はここで初めてそばと接触することになる。そういう農家の女達の蕎麦談義を聞きながら、また自らもそばを打ち、毎日そばを食べながら、次第にそばに取りつかれるようになったという。そして生来手先が器用なこともあって、いつの間にか、門前の小僧はいっぱしのそば打ちになっていたという。しかしそばに興味を抱いた彼はこれに満足することなく、もっと旨いそばを求めて、そばを食べ歩き始めるようになる。
ところで、彼は特定の蕎麦屋での修業経験は全くない。1ヵ月ばかり東京でそば打ち教室に通った以外は、もっぱら本を読み漁って試行錯誤を繰り返したという。彼の信条は、「そばはつなぎを入れることなく打たねばそばとは言えない」であり、しかも「旨くなければならない」ということである。
2.故郷の松阪市でそば店「ふじおか」を開業 昭和55年 (1980)
彼の故郷の松阪市は「うどん圏」である。そんな故郷で、彼は28歳の時に、同志社大のマンドリン部で知り合った信州出身の奥さん、みち子さんと2人で、そば店「ふじおか」を開店することになる。類まれな器用さは、エンジニアとしてではなく、そば職人としてその能力を発揮することになる。彼が開業した当時、松阪市にはそば屋はなかったのではないか。私の2011年の資料を見ると1軒のみ、三重県自体、そば屋は全国でも4本の指に入る位の少なさである。そういう雰囲気の中での開業は大変な苦労を伴っただろうことは想像に難くない。ましてや良い蕎麦粉を手に入れること自体、難しかったのではなかったか。
そこで開業3年後の昭和58年 (1983)、旨いそばを打つべく、彼は自家製粉を始めた。未知の世界への突入である。そして打つのは蕎麦のみの「せいろそば」のみ、ただこれには何故かセットにして、今日も出されている「野菜料理」と「漬物」を付けるスタイルにこだわり、それは今日でも確立されたスタイルとして踏襲されている。また「十歳以下の子供の入店をお断りします」としたのも、この頃からだという。しかしこのような彼の孤高のスタイルは、地方の都市では受け入れられるはずもなく、うどん圏の人達の嗜好とは次第に乖離してゆくことになる。
(1)佐藤隆介:うまいもの職人帖:平成9年 (1997) 文芸春秋:藤岡優也の蕎麦道
(2)宮下裕史:そば読本:平成6年 (1994) 平凡社:ふじおか 藤岡優也
(3)宮下裕史:新そば読本:平成11年 (1999) 平凡社:ふじおか 藤岡優也
(4)宮下裕史:「そば」名人:平成22年 (2010) プレジデント社:「蕎麦ふじおか」藤岡優也
0.藤岡優也の読み
佐藤隆介は「ふじおか・まさなり」、宮下裕史は「ふじおか・ゆうや」としている。
1.生い立ちから開業まで
彼が生まれたのは昭和27年 (1952)、伊勢松阪 (三重県松阪市) である。小さな時から手先が器用で、それには自信があり、よく一人でプラモデルを作ったりするのが好きで、誰よりも上手に作れるという自負があった。そんなこともあって、学校生活はあまり好きでなかったし、団体行動が苦手で、いつも僕は落ちこぼれだと思っていたという。中学生になってからは音楽に傾倒するようになる。初めフォークソングに熱中していたが、やがてクラシック音楽に魅力を感ずるようになる。高校へ入ると、クラシックギターを習うようになり、夢中で練習に励むようになり、すごく腕を上げた。高校の教科では物理と化学が大好き、そして音楽好きで手先が器用、それで団体行動が苦手なこともあって、将来はエンジニアになろうと決心するに至る。
大学は京都の同志社大学の工学部機械工学科を目指した。同志社大を選んだ大きな理由は、同校のマンドリン部が西の雄であったこと、東の雄の明治大学のマンドリン部も有名だったが、演奏曲目はポピュラー音楽をメインにしていたのに対し、同志社では伝統的にイタリアの古典音楽を演奏するのがしきたりだったことによる。彼は大学へはクラブ活動をするために行っていたようなものだったと述懐していたという。そしてこのマンドリン部で将来の伴侶となる信州下諏訪出身の「みち子」さんと知り合うことになる。そして定期演奏会のための合宿で初めて志賀高原へ行き、その時味わった信州の清澄な雰囲気に、とても魅せられたという。
ところで彼は、将来エンジニアになることを夢見ていたから、可能性のあるいくつかの企業でアルバイトをした。ところが裏表のある人間関係にさらされて疲弊し、企業の一員として身を置くことは無理ではないかと思うようになる。そんな折、信州戸隠の宿坊でアルバイトをする機会が訪れる。宿坊では客に手打ちそばを振る舞うが、そのそばは農家の主婦が打っていて、彼はここで初めてそばと接触することになる。そういう農家の女達の蕎麦談義を聞きながら、また自らもそばを打ち、毎日そばを食べながら、次第にそばに取りつかれるようになったという。そして生来手先が器用なこともあって、いつの間にか、門前の小僧はいっぱしのそば打ちになっていたという。しかしそばに興味を抱いた彼はこれに満足することなく、もっと旨いそばを求めて、そばを食べ歩き始めるようになる。
ところで、彼は特定の蕎麦屋での修業経験は全くない。1ヵ月ばかり東京でそば打ち教室に通った以外は、もっぱら本を読み漁って試行錯誤を繰り返したという。彼の信条は、「そばはつなぎを入れることなく打たねばそばとは言えない」であり、しかも「旨くなければならない」ということである。
2.故郷の松阪市でそば店「ふじおか」を開業 昭和55年 (1980)
彼の故郷の松阪市は「うどん圏」である。そんな故郷で、彼は28歳の時に、同志社大のマンドリン部で知り合った信州出身の奥さん、みち子さんと2人で、そば店「ふじおか」を開店することになる。類まれな器用さは、エンジニアとしてではなく、そば職人としてその能力を発揮することになる。彼が開業した当時、松阪市にはそば屋はなかったのではないか。私の2011年の資料を見ると1軒のみ、三重県自体、そば屋は全国でも4本の指に入る位の少なさである。そういう雰囲気の中での開業は大変な苦労を伴っただろうことは想像に難くない。ましてや良い蕎麦粉を手に入れること自体、難しかったのではなかったか。
そこで開業3年後の昭和58年 (1983)、旨いそばを打つべく、彼は自家製粉を始めた。未知の世界への突入である。そして打つのは蕎麦のみの「せいろそば」のみ、ただこれには何故かセットにして、今日も出されている「野菜料理」と「漬物」を付けるスタイルにこだわり、それは今日でも確立されたスタイルとして踏襲されている。また「十歳以下の子供の入店をお断りします」としたのも、この頃からだという。しかしこのような彼の孤高のスタイルは、地方の都市では受け入れられるはずもなく、うどん圏の人達の嗜好とは次第に乖離してゆくことになる。
2014年5月9日金曜日
シンリョウのツブヤキ(5)4月の花
4月に家の庭 (露地) で咲いた木々と草を記した。植物名は五十音順に記した。
植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物であることを示す。
また〔栽〕とあるのは、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種である。
1.木 本
アオキ(ミズキ科 アオキ属) アケボノ(ツツジ科 ツツジ属) アンズ(バラ科 ウメ属)
イロハモミジ・タカオカエデ・イロハカエデ(カエデ科 カエデ属)
ウメ(バラ科 ウメ属) オオムラサキ(ツツジ科 ツツジ属)
クサイチゴ・ワセイチゴ・ナベイチゴ(バラ科 キイチゴ属)
コブシ・ヤマアララギ・コブシハジカミ(モクレン科 モクレン属)
サンショウ・ハジカミ(ミカン科 サンショウ属) シナレンギョウ(モクセイ科 レンギョウ属)
ドウダンツツジ(ツツジ科 ドウダンツツジ属) トサミズキ(マンサク科 トサミズキ属)
ナラガシワ(ブナ科 コナラ属) ヒイラギナンテン(メギ科 ヒイラギナンテン属)
ヒサカキ(ツバキ科 ヒサカキ属) ヤブツバキ・ツバキ・ヤマツバキ(ツバキ科 ツバキ属)
ヤマブキ(バラ科 ヤマブキ属) ヤマフジ・フジ(マメ科 フジ属)
ユズリハ(ユズリハ科 ユズリハ属) ライラック・ムラサキハシドイ(モクセイ科 ハシドイ属)
以上 20種(10科 14属)
注:アンズやウメは中国原産で、古くに果実として日本に渡来し、栽培された。
2.草 本
アオマムシグサ(サトイモ科 テンナンショウ属)
アメリカスミレサイシン〔外〕(スミレ科 スミレ属) イカリソウ(メギ科 イカリソウ属)
オニタビラコ(キク科 オニタビラコ属) カタバミ(カタバミ科 カタバミ属)
カラスノエンドウ・ヤハズノエンドウ(マメ科 ソラマメ属)
カンスゲ(カヤツリグサ科 スゲ属) コスミレ(スミレ科 スミレ属)
スイセン(ヒガンバナ科 スイセン属) スズメノカタビラ(イネ科 イチゴツナギ属)
スズラン(ユリ科 スズラン属) スミレ(スミレ科 スミレ属)
セイヨウタンポポ(キク科 タンポポ属) セントウソウ(セリ科 セントウソウ属)
タチツボスミレ(スミレ科 スミレ属) ダッチアイリス〔栽〕(アヤメ科 アヤメ属)
タネツケバナ(アブラナ科 タネツケバナ属) ツボスミレ(スミレ科 スミレ属)
ドイツスズラン〔栽〕(ユリ科 スズラン属) トキワイカリソウ(メギ科 イカリソウ属)
トキワハゼ(ゴマノハグサ科 サギゴケ属) ノミノフスマ(ナデシコ科 ハコベ属)
ハコベ・コハコベ(ナデシコ科 ハコベ属) ハルジオン〔外〕(キク科 ムカシヨモギ属)
ヒメオドリコソウ(シソ科 オドリコソウ属) ヒメスミレ(スミレ科 スミレ属)
ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外〕(タデ科 イヌタデ属)
ヒメリュウキンカ(キンポウゲ科 キンポウゲ属) フキ(キク科 フキ属)
フタバアオイ・カモアオイ(ウマノスズクサ科 カンアオイ属)
ヘビイチゴ(バラ科 ヘビイチゴ属) ホウチャクソウ(ユリ科 チゴユリ属)
ミスミソウ・ユキワリソウ(キンポウゲ科 ミスミソウ属)
ミミナグサ(ナデシコ科 ミミナグサ属) ムラサキケマン(ケシ科 キケマン属)
以上 35種(21科 27属)
植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物であることを示す。
また〔栽〕とあるのは、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種である。
1.木 本
アオキ(ミズキ科 アオキ属) アケボノ(ツツジ科 ツツジ属) アンズ(バラ科 ウメ属)
イロハモミジ・タカオカエデ・イロハカエデ(カエデ科 カエデ属)
ウメ(バラ科 ウメ属) オオムラサキ(ツツジ科 ツツジ属)
クサイチゴ・ワセイチゴ・ナベイチゴ(バラ科 キイチゴ属)
コブシ・ヤマアララギ・コブシハジカミ(モクレン科 モクレン属)
サンショウ・ハジカミ(ミカン科 サンショウ属) シナレンギョウ(モクセイ科 レンギョウ属)
ドウダンツツジ(ツツジ科 ドウダンツツジ属) トサミズキ(マンサク科 トサミズキ属)
ナラガシワ(ブナ科 コナラ属) ヒイラギナンテン(メギ科 ヒイラギナンテン属)
ヒサカキ(ツバキ科 ヒサカキ属) ヤブツバキ・ツバキ・ヤマツバキ(ツバキ科 ツバキ属)
ヤマブキ(バラ科 ヤマブキ属) ヤマフジ・フジ(マメ科 フジ属)
ユズリハ(ユズリハ科 ユズリハ属) ライラック・ムラサキハシドイ(モクセイ科 ハシドイ属)
以上 20種(10科 14属)
注:アンズやウメは中国原産で、古くに果実として日本に渡来し、栽培された。
2.草 本
アオマムシグサ(サトイモ科 テンナンショウ属)
アメリカスミレサイシン〔外〕(スミレ科 スミレ属) イカリソウ(メギ科 イカリソウ属)
オニタビラコ(キク科 オニタビラコ属) カタバミ(カタバミ科 カタバミ属)
カラスノエンドウ・ヤハズノエンドウ(マメ科 ソラマメ属)
カンスゲ(カヤツリグサ科 スゲ属) コスミレ(スミレ科 スミレ属)
スイセン(ヒガンバナ科 スイセン属) スズメノカタビラ(イネ科 イチゴツナギ属)
スズラン(ユリ科 スズラン属) スミレ(スミレ科 スミレ属)
セイヨウタンポポ(キク科 タンポポ属) セントウソウ(セリ科 セントウソウ属)
タチツボスミレ(スミレ科 スミレ属) ダッチアイリス〔栽〕(アヤメ科 アヤメ属)
タネツケバナ(アブラナ科 タネツケバナ属) ツボスミレ(スミレ科 スミレ属)
ドイツスズラン〔栽〕(ユリ科 スズラン属) トキワイカリソウ(メギ科 イカリソウ属)
トキワハゼ(ゴマノハグサ科 サギゴケ属) ノミノフスマ(ナデシコ科 ハコベ属)
ハコベ・コハコベ(ナデシコ科 ハコベ属) ハルジオン〔外〕(キク科 ムカシヨモギ属)
ヒメオドリコソウ(シソ科 オドリコソウ属) ヒメスミレ(スミレ科 スミレ属)
ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外〕(タデ科 イヌタデ属)
ヒメリュウキンカ(キンポウゲ科 キンポウゲ属) フキ(キク科 フキ属)
フタバアオイ・カモアオイ(ウマノスズクサ科 カンアオイ属)
ヘビイチゴ(バラ科 ヘビイチゴ属) ホウチャクソウ(ユリ科 チゴユリ属)
ミスミソウ・ユキワリソウ(キンポウゲ科 ミスミソウ属)
ミミナグサ(ナデシコ科 ミミナグサ属) ムラサキケマン(ケシ科 キケマン属)
以上 35種(21科 27属)
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