2013年12月23日月曜日

とある会の旅行にまつわることども(その7)

11. 翌日は松本へ、そして帰沢、私は病院へ
 翌朝7時に、宿から推奨の、別棟になっている「かわらの湯」へ行く。母屋から歩いて3分ばかり、川原といっても、谷川からは少々離れている。露天風呂かと思いきや、積雪に耐える屋根がある立派な檜風呂、でも谷川のせせらぎが間近に見え、清々しい。かれこれ 30分はいたろうか。朝食は8時半、昨晩と同じ場所、出立は 10時と聞いた。本来なら朝食にお酒は付きものなのだが、運転手二人はともかく、私も夕方には病院へ戻らねばならなくて飲めず、ということもあってお酒好きのユキオさんも遠慮されてしまった。何か悪く申し訳なかった。
 駐車場で、湯元長座の看板を背に写真を撮ってもらい、いざ出発。旅程は高島夫妻に一任、出たのは10時、下手から平湯バイパスに出て、安房トンネルを抜け,梓川沿いの国道 158号線 (野麦街道・飛騨街道) を松本へ、お天気は上々、松本平まで下りると、背後に真っ白な雪を纏った常念岳が見えてくる。安曇野のシンボルだ。昨晩は石田さん夫妻は高山から名古屋回りで帰京するとのことだったが、この期に及んで、松本から帰ることになった。特に何処へという当てもなく、取りあえずは松本城へと向かう。休日でしかも上天気とあって、駐車場はどこもかしこも満杯、しかし城の周囲を一巡してると、幸いにも松本市が臨時に設けた駐車場を見つけた。正に僥倖であった。小春日和の一日、ブラブラ歩きながら、松本城を大きく周回してから街へ。
 時は昼時、松本は蕎麦どころ、城の周りにも沢山の蕎麦屋があるが、これまで十数回松本にそばを食べに来た経験からは,特に城の南側の蕎麦屋のそばは観光客目当てでよくない。誰かが松本らーめんをと言うが、さすがにそんな店は見当たらない。そしてやっと血眼になって見つけた店は休業していた。歩いて女鳥羽川を渡る。松本でそばのおいしい店は何軒か知っているが、それには更に南へと歩かねばならず、駐車場からはどんどん遠ざかることになる。すると本町通りに、古い漆喰の壁がある家の1階に、カレー屋が見つかった。「デリー」という。腹も減っていて、衆議一決、ゾロゾロと入る。私たちが入ると満席に、客が次から次へと、結構繁盛している店のようだ。私はビーフの辛め、ただし白飯は半分にしてもらった。久方ぶりのカレー、味も上々、満足だった。
 店を出て女鳥羽川を対岸に渡り、なわて通りの繁華街を通り抜け、城の東側にある臨時駐車場に戻る。これで旅行の行事はすべて終わった。石田夫妻を松本駅まで送るが、市内は大変混雑して渋滞していた。駅へ着いて暫し語らい、また来年の再会を期して別れた。松本から東京へは1時間に1本は特急が出ているだろうから、もう帰ったも同然だ。
 さて後は金沢へ帰るのみ、松本からだと安曇野を国道 147号線 (松本街道) で北上して大町へ、さらに国道 148号線 (糸魚川街道) を姫川沿いに更に北上して糸魚川に出て、北陸道でということになる。松本を出たのが午後2時、私に課せられた病院の門限は午後5時なのだが、これは無理な相談、それより何よりも安全運転が第一だ。
 大町からは、左手に雪を纏った後立山連峰を見ながらの走行、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬三山などが展開する。道の駅白馬で小憩する。ここからはトンネルとスノーシェードの連続、運転には気が抜けない。しかも幹線道路とて交通量が多い。そして漸く糸魚川、ここから高速道に。有磯海 PA で休憩、早川夫妻とはここで別れた。マアちゃんはここでこちらの車に移る。
 車はひたすら走る。私は本来なら上荒屋まで行き、家内の車で病院へと思っていたのだが、高島夫妻の好意で、直に金沢医科大病院へ送って貰うことに、感謝々々。病院へ着いたのは午後6時10分。車からの下りしな、高島夫妻と感謝をこめて握手、全快したら拙宅で「サーモンの会」を開くことを約束した。慌ただしかったものの、楽しかった「とある会」の旅行は終わった。

「閑話休題」
 高島夫妻の娘のケイちゃんと幕内力士の遠藤とは、金沢市西南部中学での同級生だとさ。

2013年12月22日日曜日

とある会の旅行にまつわることども(その6)

10. 夜中に疾風の如く現れた山姥の怪
 寝ていて夜中に私は夢を見た。私はアマゾンのどこか奥深くに分け入っていて、場所はアマゾン河の上流、何となくエクアドルの国境に近い場所だと感じていた。そこで私は変わった鳥の啼き声を聞いた。その声は、ケ・ケ・ケ・ケ・ケと聞こえた。これはオオハシドリの啼き声に違いない。しかしそうこうしているうちに、その声は夢うつつの中での鳥の啼き声ではなく、どうもこの世のものらしくなった。目を覚ますと、その声は正に現実、声の主は隣の部屋からのようだった。そっと起きて、隣の部屋の戸を開けた。
 戸を開けると、エイジとヒロシはまだ囲炉裏の縁に座っていた。時間は真夜中。そして囲炉裏の間とは一段高くなっている部屋の縁に腰掛けて、おレイさんとタカちゃん (家内) がいて、皆と何か喋ったり笑ったりしている。私が夢のなかで聞いた鳥の声と覚しき啼き声は、正しくおレイさんの笑い声だったのだったのである。女性軍は寝たはずだったのに、何故居るのだろう。しかしエイジとヒロシが発言したことで、その様相が判明し出した。
 女性の皆さんと私が就寝のため部屋を出た後、エイジとヒロシとユキオさんはまだ囲炉裏の縁に座って飲んでいた。その後ユキオさんは温泉の湯へ、その時点で男姓の部屋の戸の鍵はかかっていなかった。残った二人が飲んでいると、突如入り口の戸が開き、疾風の如く、タカちゃんが髪を振り乱して、さながらやまんば (山姥) の如く突如現れ、部屋を横切り、クローゼットに突進、あれこれ物色した後、アッという間に、部屋から出て行ったという。この時戸口にはレイさんが立っていて、ニコッと笑みをたたえていたという。それはアッという間の出来事、部屋へ入るや2歩程でクローゼットに達し、入って出て行くまでも数秒という早業、あっけにとられて、声も出せなかったという。二人の表現によると、その行動はさながらムササビが部屋に飛び込んできて、アッという間にまた出ていったという表現だった。二人には一体何が起きたのか、全く分からなかったという。一瞬の出来事。ユキオさんが部屋に戻ってきたので一部始終を話し、これは一体何事だったのか、説明してもらわねばと話し、ユキオさんが全権大使となって、向かいの女性の部屋へ行き、これは一体何事だったのか、説明してほしいと頼んだ。それでおレイさんとタカちゃんが釈明に現れたのだった。
 この説明の折、時折間の手に出たおレイさんの高笑いの声が、さながらアマゾンの奥地に棲むオオハシドリの声に似ていて、それで私は夢のアマゾンから現実の世界に引き戻され、皆さんの輪の中に加わった次第。家内の説明では、夜に寒くなって下着を重ね着しようと思ったが見つからず、てっきり部屋が替わった際に、前のクローゼットに置き忘れたと思い、これはどうしても奪取しなければと思っての暴挙だったという。家内は元は陸上とバドミントンの選手、その昔とった杵柄の力を、一瞬のうちに遺憾なく発揮して起きた出来事だった。ようやく話しに決着がついて、先ずは大団円。それでそのお尋ねの下着は、翌朝、見つかったとのことだった。

2013年12月21日土曜日

とある会の旅行にまつわることども(その5)

9. 囲炉裏の間で、奥飛騨の田舎料理を盛り込んだ「ごっつぉ」を味わう
 大きな部屋に、テーブル式の囲炉裏が2基並んでいて、1テーブルに8人が座れる。足は下へ下ろせる。ところで我々一行は9人、8人ならば1テーブルに座れるのだが、生憎と9人、それで宿の計らいで,女5人と男4人に分断された。これは残念。囲炉裏には火が熾っていて、岩魚と五平餅が串に刺されていて、ほぼ焼き上がっている。料理の数は多い。「おしながき」は次のようだった。
 食前酒は、大女将手作りの果実酒。先付けは、山里の珍味盛りと銀杏餅の揚げ出しの二種。前菜は、季節の田舎料理。お造りは、河ふぐの重ね造りとあしらい一式。焼き物は、岩魚の塩焼き、飛騨牛の串焼きと五平餅。台の物は、飛騨牛と野菜色々の鉄板焼き。炊き合わせは、きのこ鍋。揚げ物は、野菜のかき揚げ。御飯は、五目御飯。香の物は、飛騨の漬物。水菓子は、アップルパイクリーム添え。
 お酒は、女性は清酒とビール、男性は焼酎、私が選んで芋焼酎の「蜜酒の杯」にする。それで飲むスタイルは、エイジはストレートと癒しの水、ユキオさんはお湯割り、ヒロシさんは水割り、私はオンザロック、全く四人四様である。談笑しながら、焼酎を飲みながら、料理も摘む。串に刺されている岩魚は7寸はあろうかという大物、私は頭が硬くて、骨を吐き出したが、全部すっかり食べた人もいて、目を見張った。熱い骨酒にしたら美味しいだろうと思う。五平餅も平生なら食べないのに、何故か抵抗なく食べてしまった。
 串焼きに飛騨牛がないと思いきや、程なく串に薄切りにした肉を巻き付けたのが現れた。火に翳して万遍なく適度に回して焼き上げて下さいと。私たちは忠告に従って忠実に焼いているのに、女性軍はと見ていると、我慢できないのか、そこそこに焙ったところで、かぶりついたようだ。きっとその方がレアで美味しいに決まってはいようが、男性群は実に律儀だ。焼き上がった頃に家内が来て、「あなたはこれを食べると食べ過ぎになるから」と、飛騨牛の串を取り上げていった。でも悔悟の念はなく、欲しければ呉れてやろうという寛大な気持ちになったから不思議だ。しかしその後、鉄板焼きで飛騨牛のコロ数個と野菜が出て、私も飛騨牛のお相伴にありつけた。
 ところで皆さんはほとんど刺し身の「河ふぐ」を残されていたが、今から思えば、鉄板の上で焼く手があったなあと思う。河ふぐとは鯰のこと、昔は川で捕まえて、虫がいるので生では食べずに、炊いて煮付けて食べたものだ。白い身で、こりこりとした食感で美味しかったことを覚えているが、生で食べたのは全く初めてだ。きっとどこかで養殖しているのだろう。でないと生では食せない。私は刺し身をすべて食べたが、味は淡白、柔らかくて、癖はないものの、そんなに旨いとは言えない代物、話の種だ。
 料理の量が多く、そのほとんどを平らげたが、お終い近く、茸が数種入った大鍋が出た。この辺りになると、焼酎はまだ飲めたものの、食べる方はお腹が一杯で一寸一服、当然のことながら、美味しく炊けた五目五版も、一摘み賞味したに止まった。それにしても、4人居たとはいえ、焼酎の 720ml の瓶を2本大方空けたというのには驚いた。私はそんなに飲まなかったような気がするのだが。

こうして夕食は終わった。食事では男性と女性が別々であったこともあって、皆さん部屋へ引き取る前に、皆で男性の部屋で炬燵に入って談笑しようということになった。蜜柑を食べながら、また残った焼酎を飲みながら、他愛もない会話をしながら、時間を過ごした。午後9時頃だったろうか、散会する。私も眠たくなって床に入る。残り3人は囲炉裏に陣取って、焼酎を飲みながら……。

とある会の旅行にまつわることども(その4)

7. 今宵の宿の福地温泉・湯元長座へ
 これで昼間の行事は終わり、今宵の宿の福地温泉・湯元長座へ向かう。国道 158 号線は、山間の S 字状のカーブを何回も回りながら標高を上げる。以前朴の木平スキー場へ来ていた頃は、平湯温泉から平湯峠 (1684m) を越えて行ったものだが、今は峠の下に平湯トンネルが出来て、簡単に平湯温泉へ抜けられる。それでも標高は 1500m はあろうか。トンネルを抜けて下りになり、福地温泉へは平湯温泉へは行かずに、平湯バイパス (国道 471 号線) を通って行く。今宵の宿の湯元長座は、南北に長く点在する温泉宿の一番下手の北側に位置する。車は南側の上手から入った。福地温泉は標高 1000m にある12 軒のこじんまりした温泉、道を北上し湯元長座に着いた。広い駐車場に車を停め、屋根付きの通路を辿って母屋へ、この温泉では最も大きいという。建物は築 130 年の飛騨造りと呼ばれる庄屋屋敷を移築したものとか、豪壮で重厚な感じがする。聞けばこの温泉の建物は、ほとんど古民家を解体移築したものだという。入ると大きな囲炉裏があり、熊や羚羊の毛皮が敷きつめられ、囲炉裏には薪が焼べられている。黒光りした太い梁や柱や鴨居、時間が百年タイムスリップしたようだ。暫しロビーで寛ぐ。ここは日本秘湯を守る会の会員宿でもある。
 3階の部屋へ案内される。女性5人、男性4人、2部屋があてがわれる。それで指定された通りの部屋で旅装を解いて、浴衣に着替えた段階で、男性の部屋が大きく、女性の部屋が小さいのに気付く。さらに決定的になったのは、男性の部屋には大きな鏡台があるのに、女性の部屋には姿見もないことが判明、そこで総入替え、着替えていたから、一切合切持っての相互の大移動、大変だった.忘れ物はないか、確認だけでも大変だが、この際慌てての未確認があって、後でとんでもないハプニングが起きることになる。
 漸く一段落して、一旦は一件落着。こんな大移動は初体験だ。暫し休憩してから風呂へ。この湯元長座の泉質は単純温泉 (源泉温度 46 ℃) とナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉 (源泉温度 90℃) で、湯量は合わせて毎分 550 ℓ、加温・加水はなく、源泉かけ流しである。内湯も良かったが、それに続く露天風呂は更に素晴らしく、木々に囲まれて広くてゆったりした感じだ。湯は柔らかく、湯温も程々の熱さ、お湯は滔々と流れていて、これぞ本当の温泉という感じ、ゆっくりと温まった。

8. 湯上がりにビールを飲みながら、テレビで大相撲中継を観戦する
 湯から上がって、男性3人は当然といえば当然、湯上がりのビール、部屋からフロントへ電話すると、部屋まで持ってきて貰えるとのことで、早速注文。生大はないとかで、生中を3杯、ほどなく届く。でも私は食前にインシュリンの注射をしなければならず、これまで一度も自分一人でしたことがなかったので、家内に介添えを頼んであり、その時間が5時 30分、私はそれまで待つことに。私は取りあえず「皆さんどうぞ私に遠慮なさらずに」と言ったが、もとより外交辞令、それで遠慮する面々ではない。そして 17:30、家内に手伝ってもらい、インシュリン 16 uを腹部へ注射、これで OK。時間が過ぎたこともあり、私は遠慮して生中でなく生小にして、囲炉裏縁の皆の輪に入った。
 折しもテレビは丁度大相撲14日目の結び前、大関稀勢の里と横綱白鵬との大一番、稀勢の里は昨日は横綱日馬富士を破って2敗のまま、今日は二人目の横綱白鵬との取組み、見ていると二人は蹲踞に入らずに立っての睨み合いが二度も続いた。こんな状況は久しく見たことがない。もちろん今場所でも初めてのことじゃなかろうか。皆はビールを飲むのも忘れ、テレビに食い入るように見ている。行司の軍配が返った。稀勢の里は素早く右上手を取り、寄る。白鵬は後手に回る。両者土俵際で投げの打ち合いとなるが、稀勢の里の上手投げが白鵬の下手投げに勝り、稀勢の里が勝ちを制した。4人とも興奮し、大歓声と大拍手。互いに肩を叩き合い、ジョッキでゴツンと乾杯、こんな光景は初めてだ。これは我々日本人が日本人横綱の出現を待望していることの証だ。ひとしきりの興奮の後、今度は日馬富士に今日と明日は勝ってほしいと願う。結びは日馬富士が大関鶴竜に勝った。そして千秋楽の横綱決戦では、日馬富士が白鵬を破ってほしいというのが4人の総意、これまでこんなに興奮したことがあろうか。ビールを飲み干したところで、夕食の案内。2階の囲炉裏の間に下りる。

2013年12月18日水曜日

とある会の旅行にまつわることども(その3)

5. 飛騨への旅は先ずは高山へ
 目指すは奥飛騨温泉郷の福地温泉、往きは高山経由、北陸・東海北陸と高速自動車道を継いで、清瀬ICからは中部縦貫自動車道へ、高山市街を下に見下ろす高台からは、真っ白な乗鞍岳が見える。国道41号線から高山の古い町並みへ、街中の駐車場はどこも満車、それで高山別院の駐車場へ行くよう勧める。ここは半日 800円、私たちはいつもここを利用している。古い街並も近く、都合が良い。さて街へ、そぞろ歩く。金沢とは一味違った古い雰囲気、時間は昼時、皆さんの第一希望は「高山らーめん」、私たちはいつも蕎麦だが、若い人達は食の趣向が違う。ここは若い人達に任せよう。とは言っても繁華街を外れた古い街並に入り込んでしまうと、中々らーめん屋は見つからない。ブラブラ歩いて、街外れの高山本陣にまで来てしまった。
 でもこの時運よく「中華そば」の看板が目に入った。でも「高山らーめん」とは書いてない。幹事のエイちゃんが駆け入って OK のサイン、9人がゾロゾロと入る。石田夫妻と私たちは同じ小テーブルに、これは正に予定の行動、というのも先ずはお酒を一献の魂胆があるからである。他の皆さんはカウンターに陣取る。これで店はほぼ一杯。高島と早川の旦那は運転手なのでお酒はご法度だ。お酒は「蓬萊」、飛騨古川の酒、時々飲むが癖のない美味しいお酒、1合 500円、1合半 700円、迷わず割安の1合半にする。そして遠来の石田の旦那の好みに合わせて熱燗とする。この熱燗、マアちゃんに試飲してもらったところ、余りにもあっさりしていて、お酒らしくないと言う。さすが酒豪である。そしておレイさんも家内も同感とか。このお酒、私は爽やかだと思ったが、女性軍は飲んべえということになろうか。ややあって中華そばが出た。中華麺はやや細めの縮れ麺、家内は私に汁は飲まないようにと御託宣、麺も多かったら私に頂戴と、お酒を飲みながらのらーめん、私には娑婆では初めてのことだ。でお酒も麺もなくなった。この中華そば、こだわりの手打ちなのだろうか、硬めの細麺は、まずまず旨かった。
 半兵衛なるその店を出て、高山本陣前にある南洋輸入のアクセサリーを扱っている家内推奨の店に入る。この前来た時もアレコレ物色、女性軍は皆さん満足そう。来れなかったバア子ちゃんにも何か買い物をしたようだった。でも男性群には縁のない店だ。店を出て、ブラブラと街並を歩き、駐車場へと戻る。途中に真っ赤な楓があり、実に印象的だった。今頃京都は紅葉・黄葉がきっと見事だろう。

6. 高山から平湯の飛騨大鍾乳洞へ向かう
 次に平湯にある大鍾乳洞へ、この前には郡上八幡の大滝鍾乳洞へ寄ったが、規模は小さく今一だった。これから訪れる鍾乳洞は「大」が付いているから、そこそこの大きさなのだろう。国道158号線を東へ、案内の看板に従って山へ入る。かなり車で標高をかせぐと、突然開けた場所に出た。標高は900m、郡上よりは広場の規模はもっと広く、建物も大きく、数も多く、沢山の観光客が訪れている。鍾乳洞へ入るばかりではなく、釣やバーベキューを楽しんでいる人も多くいる。階段を上ってゲートへ、足元も綺麗に整備されていて、その比は郡上八幡をはるかに超える。鍾乳洞の入口には、「出口には第一、第二、最終の第三があり、足に自信のない人は、第一もしくは第二出口から出るように」との指示がある。パンフレットを見ると、特に第二出口から第三出口にかけての第三洞にはかなりの登りがあるようだ。私はここ2週間ばかりは全く歩いていないので気掛かりだ。
 この鍾乳洞は昭和40年に発見されたとか、後発だからか、洞内の歩道は広くてきれいに舗装されていて感じが良い。順に洞内へ、私は3番目、2番目の家内の後について歩く。情けないがこの方が安全だ。第一洞では「竜宮の夜景」がスポット、ライトアップされている。洞内は歩きやすい。ずっと上りが続く。第一出口を過ぎて第二洞へ、階段が所々に現れるようになる。ここのスポットは「ナイアガラの滝」、これはフローストーン、流れる石のような鍾乳石、「幸福の滝」という水が流れる滝もある。ここを過ぎた辺りから通路は狭くて急な上り下りの連続となる。そして第二出口。そして看板には、「これより急な階段が百段続きます。自信のない人は第二出口から出て下さい。」とある。皆さんは私を気遣って、どうしますかと尋ねる。でも男晋亮、ここで出るわけには行かず、GOと宣言する。
 第三洞はのっけから急な鉄の階段、息が切れそうだ。短い休みを取りながら、手すりに手をかけながら、家内と離れないように歩を運ぶ。この洞のスポットは「月の世界」、ここは洞穴珊瑚で成り立ち、太古の昔、ここは海の底だったという。そして漸く最後の第三出口が見えた。通路の総延長は 800mばかり、ゆっくりの鑑賞で1時間弱要した。
 心配だったが、どうやら達成できた。第三出口を出ると、そこは山の中腹、ここから下へ下へと長い長い階段が洞穴の入り口まで続いている。入り口まで高度差 70-80mはあろうか。これだけ洞穴の中を登ったことになる。この下山の通路、屋根も囲いもあり、手すりも付けられていて、私にとって手すりは有り難かった。漸くの思いで入り口へ、以前なら何ということのない山の下り道、私も衰えたものだ。下りて、差し渡しが5mはあろうかと思われる大鍋をバックに記念写真を撮った。

とある会の旅行にまつわることども(その2)

3. 外泊許可が出て、清酒「晋亮」でささやかな乾杯
 11月22・23日の外泊と23・24日の外出は、9階の病室にいる時からお願いしてあって、主治医の先生にも了解を得ていたが、6階へ移って主治医の先生が代わるに及んで不安が過った。しかし9階の私の担当の受持ち看護婦さんと6階の主任看護婦さんの絶妙の連携と尽力で、6階に移った当日の22日に許可になった。本当に感謝・感激だった。しかし治療とインシュリンの自己注射の確認があったために、外泊と外出の許可は、22日の午後8時から24日午後5時までとの制約が入った。それにしても快哉。
 私が入院して以来、家内は酒断ちをしていたという。勿論私も隠し酒などしていない。不思議なもので、入院していると、特にお酒を欲しいと思うことはなかった。また禁断症状なども全く出なかった。家内に迎えに来てもらい、久しぶりに我が家の敷居をまたいだ。病院ではシャワーなどはしたが、入浴はなく、家では先ずゆっくりと風呂に入りたく、ゆったり浸かった。久しぶりに家内に背中を流してもらったが、垢がボロボロ、実に爽快だった。風呂から上がると無性に一寸一杯欲しくなった。病院にいる時、担当の看護婦さんに、恐る恐る外泊の時の飲酒について尋ねると、飲みなさいとは言えないけれど、飲んではいけないとも言えませんとのこと、家内も少しならと言う。ではと私は小さなワイングラスに、とっておきの清酒「晋亮」を半分位、家内はビールで、ささやかな乾杯をした。この清酒は長男が私に送ってくれたもので、福島喜多方の笹正宗、ラベルには和紙に「晋亮」と墨書されている。久しぶりに家内と談笑できた。やはり我が家に優るものはない。
 夜眠っていて、夢で、旅行の間、1日1回朝食後に飲む糖尿病治療薬が2日分必要なのに1日分しかないのに気付き、起きて確かめるとやはり1回分しかなく、翌朝旅行に出る前に病院へ取りに行くことにする。

4. 先ずは病院で薬を調達、そして飛騨の旅へ出立
 翌朝7時半に家を出る。忘れた糖尿病薬、1日1回なだけにどうしても持参しなければならず、朝食の配膳の少し前に病室に戻り、薬を持って出た。家内からは、旅行の時などは必ず余分に持ちなさいと注意された。納得。
 この日の朝は休日とあって、内灘町にある病院まではスイスイ、とはいっても 20km の道のり、順調でも40分はかかる。家内は私の我侭を聞き入れてくれて、朝と晩との2回、この道のりを毎日通ってくれた。往きか帰りかのどちらかにはラッシュにあうから、私のために毎日3ー4時間費やしてくれたことになる。巷の雀たちは、1日か2日に1回で十分よと言っているのにも拘らずにである。病室でも多くて1日1回、中には週に1回の人もいる。本当に申し訳なく、感謝々々である。
 病院を出て、集合場所の金沢市上荒屋の宮田邸に行く。ここで歳頭のバア子ちゃんが前日急に体調不良で入院し、体調は復したものの、大事をとって参加しないと聞く。すると一行は9人ということに。私も入院していて参加が危ぶまれたが、入院のことは姪のマアちゃん以外には一切話していない。私は病院へ入って体重が4kgばかり減っていて、皆と会った折、少しスマートになったねと言われた以外は特に気付かれることはなかった。10時近く、2台に分乗して出発する。東京から来沢した石田夫妻を金沢駅近くのホテルへ寄って乗せ、いざ出発。

2013年12月17日火曜日

とある会の旅行にまつわることども(その1)

1.とある会のメンバー
 とある会とはとある会のことで、もうかれこれ数年は続いている。昨年の京都行きでは「京都へ行こまい会」という名称だった。ところで今年は幹事の高島夫妻の娘さんがまだ京都にいるので、てっきり今年も京都行きだとばっかり思っていたところ、案内では今年は飛騨の福地温泉だという。高島夫妻は揃って中学校の先生、とても世話好きである。この会のメンバーは10人、メンバーの選定には誰が当たったのかは定かではないが、これまでにも何回か温泉行きがあり、ほぼ顔ぶれは決まっている。
 メンバーは端的に言えば、宮田一統が中心と言える。その第一世代は旧西野三姉妹、長女のバア子ちゃん(私が勝手にそう呼んでいる)は現宮田姓、二女のおレイさん(前に同じ)は東京在住(現石田姓)、そして三女は私の家内(現木村姓)、この会にはその連れ合いも入会資格があるとのこと、ほかに西野姓の男の兄弟も2人いるが、この会のメンバーには入っていない。次の第2世代には、長姉の子の三姉妹の、マアちゃん(現宮田姓)、ミキちゃん(現早川姓)、ヨッコちゃん(現高島姓)とその連れ合いである。これで単純に計算すると、固定メンバーは12人になるが、バア子ちゃんの旦那(宮田家の当主)は今回も旅行には参加せず、またマアちゃんの旦那は既に他界していて参加はできない。ということで、このとある会のメンバーは10人ということになる。このうち石田さん夫妻は東京住まいだが、他は金沢やその近郊に住んでいて、連絡は取りやすい。
 それで今年の旅行は、11月23日 (土曜・勤労感謝の日) と翌24日 (日曜) にすると、高島夫妻から連絡があった。私は今年もぜひ参加したいと思っていたが、俄に暗雲が去来した。

2.思いもよらない入院で、参加が危ぶまれる事態に
 私は一度は郡上八幡の街をブラついてみたいと思っていた。それが実現したのは11月3日の文化の日 (日曜) 、ところがこの日の夕食後に吐き下して悪寒があり、暖房して一夜を過ごした。それで翌日は観光を止めて、早々に帰宅することに、来る時は私が運転してきたが、帰りは長いトンネルは苦手という家内も、勇をこして運転してくれ、帰宅した。
 この日は長男が泊まるので、次男も呼び宴を催すことにしていたが、とても飲み食いする状況でなく、私は風邪薬を飲んで臥せっていた。翌朝、帰浜する長男を小松空港にまで車で送る積もりにしていたが、長男に拒否され、休養することに。近医へ受診しようかと迷ったが、取り敢えずは風邪薬を飲んで様子を見ることにし、7日は年2回のペースメーカー外来(金沢医科大学病院)なので、そこで受診すればよいと思っていた。この頃には息づかいも荒く、深く息を吸うと咳き込んで、胸部レントゲン写真を撮るのに難儀した。担当の心臓外科の先生は、ペースメーカーには問題はないと言われたが、呼吸が荒いのには全く言及されず、その診断は他で診察を受けて下さいと。家内が思わずこの病院で他の科を受診できませんかとお願いしても、それは私からは出来ないとのこと、胸部レントゲン写真では素人目にも真っ白でおかしいのにである。失望して診察室を出て廊下を歩いていると、その科の外来の主任と思われる看護婦さんが小走りに追って来られ、同じフロアの呼吸器内科の外来に案内してくれた。嬉しかった。その外来担当の先生は診察して即入院と言われ、先ずは安堵した。それから10日後、両側肺炎は随分と良くなった。そこで心配になったのは、23日と24日にある旅行のこと、恐る恐る先生に訊くと、それまでには退院できるでしょうとのこと、事実前日の22日には退院許可が出た。
 ところが肺炎は良くなったものの、血糖値が異常に高く、主治医が呼吸器内科の先生から内分泌内科の先生へ変更になり、病室も9階の整形外科に間借りの病室から、内分泌内科の本来の6階の病室に移動となった。それも21日の予定がずれて22日に、さて旅行前日の22日と旅行当日の23日の外泊と、22、23日の外出は許可になるのか、雲行きが怪しくなってきた。万事休す。

2013年12月13日金曜日

郡上八幡での出来事

 私はこれまで郡上八幡を通過したことはあるが、街に降り立ったことはなく、この静かな山間の街に何となく憧れ、一度は出かけたいと思っていた。家内と相談して出かける日は11月3日の文化の日(日)と翌日の4日(振替休日・月)、宿は懇意にしている北陸交通の方に世話してもらった。出かける日の天候は曇り後雨の予報、家を朝8時頃に出て、北陸道から東海北陸道へ、あの日本では2番目に長い飛騨トンネルの 10,710mはさすがに長い。ひるが野高原 PA で休憩をと思っていたが、着く手前には「ひるが野高原 PA は休日は大変混雑しています」という横断幕、着くと本当にその通り、本当に芋の子を洗うような混雑、他の PA は閑散としているのにである。本当に1台も停める余地がない始末、そこで家内の機転で、橋となっている通路の脇に車を停めた。監視員がいたら駄目だったろう。
 ここ蛭ヶ野からは、両白山地の南端に位置する大日岳が真正面に見える。晴れていれば見える白山は雲の中、こんな状況でも大型の観光バスもここで停まるから、その混雑たるや想像を絶する。軽食をとり、早々に郡上八幡へと向かう。今日の予定は、お薦めの街の南の山中にある大滝鍾乳洞を見て、街の蕎麦屋で昼食をとり、城山にある宿へ入り、そこから近くにある郡上八幡城を見て、宿へ戻るというものだ。先ずは鍾乳洞へ、山間を縫う大規模林道を通りどんどん標高を上げると、やがて広い空間が現れ、そこには沢山の車が駐車している。見ると鍾乳洞へ入る人もいようが、そこには釣り堀あり、バーベキューもでき、周囲には土産物屋も多く、ちょっとした野外観光地の様相を呈している。それでこの時間に鍾乳洞へ入るのは、私たちと子供連れの2組のみ、入口へ案内されると、目の前には10人ばかり乗れるトロッコ、これに乗るとウインチで高さで 50m ばかり引き上げてくれる。そして終点が鍾乳洞の入り口になっている。
 入口から出口までは凡そ30分とある。洞穴へ入る。明かりは点いてはいるが、通路は狭く歩きにくい。くねくねした狭い通路を上がったり下がったり、でも総じて上りが多い。所々に名称が付けられてはいるが、何とも規模が小さく、チャチである感は拭えない。最後に狭くてすごく急な階段をかなり下ると出口に出た。来る時にトロッコを降りた場所を下に見下ろせる場所だった。ここからは下の広場に向かって、杉の木立の中を小道が付いている。連れの子供が先頭になって、走るように下って行った。私たちはゆっくり下る。広場の周りには食べ物屋も多くあるが、一度街へ下りてから蕎麦屋に寄ることにする。
 先ず第一候補は本町の「そばの平甚」、でも店の前には長い行列、それに近くの駐車場はどこも満タン、諦めて第二候補の鍛冶屋町の「蕎麦正まつい」へ、でも近くに駐車場が見つからず、仕方なく3軒目の「そば八」へ、ここは町外れで、長良川に沿った国道 256 号線にある店、さすが街の観光客もここまでは足を延ばせず、店の前の駐車場に車を停める。古い潜り戸の方は閉まっていて、土産物屋を通って入ることになっている。家内はこんな蕎麦屋は不安だという。店に入ると、ガラス戸の向こうで親父が太い一本棒を使ってそばを打っているのが見える。ここのそばは手打ちだという証にはなる。食堂はかなり広い。私たちは入口に近い一角に座り、天ぷらそばを注文する。他に客は10人ばかり、待つこと暫くして注文の品が届く。天ぷらもそばも大盛り、天ぷらは地元の野菜、私はビールと地酒で頂く。運転は家内と交代だ。そばは見た目は生粉打ち、ただかなりの太打ち、1本を手繰ると、これはダンゴの味、手打ちには間違いないが、太い棒状のそばは正にそば団子、もしこれをもう少し伸して薄く切ったとしたら、バラバラかキレギレになるだろう。天ぷらはともかく、そばは半分以上残してしまった。家内の舌は私よりもっと厳しく、3分の2は残したろう。隣のテーブルに子連れの夫婦が入ってきたが、私たちがそばを沢山残したのを見て、目をパチクリしていた。早々に引き上げた。量も多かったが、久しぶりに実に不味いそばに遭遇した。雨の中、宿へ向かう。
 小雨の中、ナビに従って、城山にあるホテルへ向かう。宿のホテル積翠園に着くと、駐車場はほぼ満タン、案内板では地元の方が旭日双光賞を叙勲されたとかで、その祝賀会とのことである。荷物をフロントに預け、すぐ近くの城へは雨なので車で出かける。城への道路は一方通行のため、一旦城へ上がる道路に続く広場にまで下りる。城への道は、上の城にある駐車場の関係で、係員が誘導している。歩いて城へ行く人もかなり多いが、車道と歩道の区別はなく、雨の中難儀しているようだった。車は少しずつ動いている。どの位かかったろうか、漸く城の駐車場に着いた。駐車場は広くはなく、これでは渋滞もやむを得ないと納得する。
 郡上八幡城は山城、小さいが中々堅固、一見城郭の部分は国宝丸岡城を思わせるものがあった。城は三層、高台の城とて眺めは良い。一通り巡って城を辞す。駐車場からの帰りは一方通行、城からあっという間にホテルへ着けた。天気が良ければ、一方通行の車道を逆に辿れば、5分も歩けば城に着けそうな気がする。
 ホテルでチェックインする。部屋は1階に2室、2階に3室のみ。1室4人で、最大20人、宴会がメインで、宿泊ホテルとしては大きくはない。荷物は運ばれていた。時間は午後4時20分、取り敢えずは風呂へ、風呂は沸かし湯、湯槽はそんなに大きくはない。でも1間に3間ばかり、子供2人連れのお父さんがいて、お湯に戯れている。私が入って一旦水遊びを中断したが、私がどうぞ続けて下さいと言ったところ、エスカレートして、泳いでターンばかりでなく、飛び込みも始めた。私が飛び込みもOKですよとは思ってもいなかったろう。でもこの時不覚にも、お湯を少し飲んでしまった。風呂から上がって部屋で寛ぐ。夕食は個室でと言われる。まだこの時点では体調も極めて良く、異常は全く感じられなかった。 
 案内があって個室へ、「木村様献立表」とある立派な料理、一通り説明を受ける。飲み物は料理に合わせ、赤ワインフルボトル1本とアサヒスーパードライ延べ3本、地酒で乾杯して水入らずの小宴会、ただどんな会話を交わしたのかは思い出せない。ゆっくり時間をかけて食事をした後、部屋で寛ぐ。その後心地よく眠りにつく。ところが夜半に私に異変が起きた。晴天の霹靂、胸がむかむかし、そして突然急に食べたものを全部は吐き下してしまった。風呂の水を飲んだからか、ただ覚えているのは吐物の中に黒い欠片のようなものがいくつか見えたことで、それが何だったのかは確かめていない。そしてその後、歯がガチガチして噛み合わない程の強烈な悪寒、ストーブを最強にして、布団を何枚も掛けても寒かった。家内は救急車でも呼ぼうかと思ったという。でも明け方になって漸く落ち着きが戻った。本当に何が起きたのか全く見当がつきかねた。ただその後痰の色が黒いのが気になった。でもその色はやがて鉄錆色に変わった。しかし身体の調子は回復し、少々の脱力感はあるものの、熱もなく、ただ食欲はなく、朝食は止めにした。今日は街中を散策する予定だったが、すぐ家に帰ることに、運転は家内にお願いした。

〔閑話休題〕
 帰宅した11月4日は横浜から長男が帰郷していたこともあって、晩に次男家族も招いて会食することにしていたが、私は何となく身体がだるく、臥せていた。本来ならかかりつけの舩木病院へ受診するのが当然なのだが、実は3日後の11月7日にペースメーカーの検診で金沢医科大学病院へ行くことになっていて、血液検査、心電図、胸部X線検査をするので、その時に正確に診断されればと思い、当面は軽い脱力感のみなので、その日まで静かに過ごそうと思った。ただ帰宅後も2日間、あの鉄錆色の痰が続いたのが気掛かりだった。だがこの辺りの受診の判断は意見の分かれるところである。
 11月7日、正午近く、私のみでは不安だと、家内は病院を休んで金医大病院まで運転手兼付き添いで同行してくれた。心強かった。感謝々々。この日の心臓外科のペースメーカー外来の受付は 13〜15時、3つの検査は原則必要な検査、更にペースメーカーの機械的なチェックを済ませてM先生の診断を待つ。ただ胸部X線撮影の時、息を吸ってと言われても深呼吸ができず、咳き込んでしまったのが気掛かりだった。順番が来て診察室へ入る。このM先生には過去3年間ばかり診てもらっているが、いつも丁寧に説明してくれるのに、この日はその説明がなく、ペースメーカーには特に問題はないという。でも肺のレントゲン写真は真っ白で、家内が肺の方はどうですかと言うと、異常だと言う。ではこの病院のしかるべき診療科を紹介してほしいと言うと、私はそういう他科への斡旋や紹介は一切していないので、貴女の方で何処かへ受診して下さいとのこと、正にけんもほろろ、この病院では個人での初診は無理とのこと、それじゃ家から近い日赤病院にでも行こうかと、とぼとぼと診察室を後にした。すると年配の看護婦さんが小走りに後を追って来られて、同じフロアにある呼吸器内科へ案内してくれた。一旦捨てられたのに、助けていただいたあの方はまさに天使、本当に嬉しく、これで助かったと思った。この日に担当の女医さんのF先生は、X線写真を診られ、聴診器を当て、すぐに入院して下さいとのこと、とにかく一晩は絶対安静にして下さいとのこと、呼吸器内科にはベッドの空きはなく、緊急に整形外科の病棟に間借りすることになった。この日から4週間の病院生活が始まった。