子うし会というのは、昭和11年(子年)生まれと昭和12年(丑年)生まれで、昭和23年に野々市小学校、昭和26年に野々市中学校を卒業した同窓生の集まりである。男28人女26人が名簿に載っているが、既に他界した人が男7人女5人いる。また全く消息不明が男に2人いる。したがって現在の会員は男19人女21人である。全員75歳で後期高齢者だ。何時から毎年会おうということになったか定かではないが、今年は地元でということで案が練られた。何時もは地元在住の皆さんに集まってもらって決めるのだが、今年は男のYさんと女のAさんの両世話人にお願いし、決まった段階で私から皆さんに案内することに。昨年は遠出ということで、「明日香村史跡巡りと十津川温泉・熊野三山」を催行したが、あの時訪れた地は台風と豪雨とで甚大な被害が出て、何か因縁めいた巡り合わせを感じた旅となった。これらの企画に当たっては、もう15年以上も付き合いのある北陸交通のNさんが窓口となっていて、いつも野々市発着のバス旅行となる。きっかけは高校の同級生が北陸交通の社長をしていたことにもよる。
催行日は6月7日(木)と8日(金)、宿泊は山代温泉の森の出で湯「かが楽」、この宿は元は「大寿苑」といい、この会では過去に2回ばかり利用している。これまでは翌朝解散というスケジュールだったが、今回は女性会員からの要望で、翌日は観光したいということで、「永平寺・東尋坊と三国街並み散策」を追加した。この案は昼食場所さえ変えなければコース選定はかなりフレキシブルで、中には改築された越前松島水族館を見たいという要望もあったが、会費では賄えず、提案どおりとなった。また宿などでの食事は、足腰が弱っている人も多く、食事はテーブル・椅子という条件にしてある。当日の参加者は男10人女9人で、県外からの参加は、東京から2人、大阪から3人であった。
宿には午後4時に着いた。宿は山際にあり、木立に囲まれている。先ず湯へ入り、冷えたビールと差し入れの焼酎とで話に花が咲く。不参者の近況も皆さんに知らせたが、病気で参加できない人が多く、元気でも他の同窓会とかち合ったとか、急に親戚に不幸があったとか、親や配偶者が入院していて看病しなければならないとか、もう会員全員が揃うのは至難である。でも会員のほぼ半数の出席があったことは多とすべきだろう。それにしても宴会がテーブル・椅子というのは、昔の「さしつさされつ」の動作がしにくく、親近感が今一だ。宴会が終わっても幹事部屋に集まり、皆で飲みかつ駄弁った。
翌朝は9時に宿を出て永平寺に向かう。平日だが沢山の観光客、青い目の人もいる。永平寺は約760年前の寛元2年(1244)に道元禅師によって開かれた曹洞宗の大本山、三方を山に囲まれ、老杉が立ち茂る境内には70余りの建物があるという。正門参道から寺に上がる。久方ぶりだ。改築された傘松閣で簡単な説明を聞き、順路に従って七堂伽藍を巡る。法堂(はっとう)は最も高い位置にあり、廊下の階段を上らねばならない。約1時間かけて堂内を巡り駐車場へ戻った。
永平寺からは北上して、三国の東尋坊へ向かう。天気は良い。40分後には目的地に着いた。最も海に近い潮騒の宿「やし楼」が昼食場所、店の方が東尋坊へ案内するという。階段を下り、全体を見渡せる場所で記念写真を撮る。もう少し案内するというのを断り、食事場所に戻った。気温も上がって暑く、ビールが美味かった。ここは越前海岸、魚料理一色だ。済んで一服していると、ここ特産という緑色をした干した海草、1袋600円、2袋1000円、何故かまんまと口車に乗せられて皆2袋を買う。中には土産にと6袋も買う人も出た。そのままでも、汁の具にも最適だとか。
次いで三国の町へ、何回か来ているが、この古い街並みは記憶にない。この頃になると陽射しが強く、日傘が入り用だ。散策したのは北本町と南本町、ガイドの方に説明を受けながらそぞろ歩く。初めに寄ったのは北本町の旧岸名家の江戸時代の建物、代々材木商を営み、蔵の裏は川(湊)だったとか、ここは九頭竜川の河口、北前船の拠点でもあった場所だ。次いで南本町にある登録有形文化財の旧森田銀行本店、大正9年(1920)に作られた鉄筋コンクリート2階建で、外壁はタイル張りのルネサンス形式の建物。内部は至る所に象嵌が施され、取っ手は七宝焼、壁には彫刻、カウンターは欅の一枚板、何とも豪華な装飾だ。設計した山田七五郎は長崎県庁の設計者でもある。
こうして今年の「子うし会」は幕を下ろした。来年は喜寿の祝いをすることに。
0 件のコメント:
コメントを投稿