2012年6月19日火曜日

京都へ行くまいかい(その2)

 {第2日)
 翌朝、再び展望風呂でゆっくり寛ぎ、朝食を済ませ、9時には一夜の宿「緑風荘」を後にする。すぐ近くには世界文化遺産の西本願寺があり、早朝に出かけた人もいたようだ。車は宿を出て、一旦西本願寺にほんの暫らく立ち寄り、門前から阿弥陀堂(本堂)や御影堂(大師堂)を仰ぎ見る。その後車は西進、桂川を渡って川の右岸沿いに北へ向かう。どこをどう通ったかは皆目分からないが、京都市内なのに町中に畑があったり、水田があったり、こんな経験は初めてだ。だがややあって漸く見慣れた渡月橋の袂に出た。橋を渡って、世界文化遺産でもある天龍寺へ向かう。天龍寺の境内は広く、かつては嵐山も亀山も境内だったという。係員に誘導されて境内にバスを停める。
  『天龍寺』:臨済宗天龍寺派の大本山、正しくは「霊亀山天龍資聖禅寺」とか。足利尊氏が夢窓国師を開祖として創建したという寺である。夢窓国師は堂宇建立の資金調達のために、「天龍寺船」による貿易を行ない、康永2年(1343)にはほぼ七堂伽藍が整えられた。度々大火に見舞われ、現在ある堂宇の多くは明治になってからの再建であるという。この夢窓国師によって作られた曹源池を含む庭園は、国の史跡・特別名勝第1号に指定されている。また天龍寺は平成6年(1994)には世界文化遺産に登録された。
 バスを降りてそぞろ歩くと、正面に豪壮な庫裏と相対する。私達は左手の受付から庭園拝観に入る。大方丈をぐるりと回り、さらに書院の脇を通り、曹源池に沿って付けられた白い砂利道を歩む。北側から見ると、向こう側に嵐山が見え、借景になっている。庭には桜や楓が多く、春や秋はさぞや見事であろうと思われる。拝観コースをさらに奥へ進むと竹林の庭、綺麗に手入れされている。我が家の竹薮とは全く違う。雨が少し降ってきた。
 天龍寺を出て南へ下がり、大堰川(上流は保津川、下流は桂川)へ向かう。川の岸には遊覧の川舟が多く繋がれている。その一隻に乗る。操舟は竹竿一本、見るとアベックで二人しか乗っていない舟もある。それにしても2人と17人とでは、上流へ向かう労力には差があろうに。でも後で知ったことだが、原則相乗りはないとのこと、要は貸切ということらしい。それにしても、2人ならともかく17人も乗ると船頭もしんどかろうに。相乗りは繁忙期のみとかである。ゆっくり上流へ。すると川の中流に飲み物や食べ物を売っている舟がいて、船頭はその舟に横付けた。うまくできている。グルだ。私はビールを頂く。皆さんそれぞれに何某かを求める。商売が済むと、その舟は別の場所に移動していった。やがて川に瀬が見えてきて、舟はその手前で反転して下りになり、元の舟乗り場に戻った。凡そ30分ばかりの嵐峡の遊覧であった。7月になるとここでは鵜飼が行なわれるし、秋には紅葉、冬には雪景色、春には桜と、四季折々に堪能できる。
 次に向かうのは湯豆腐の「嵯峨野」、予約の時間にはまだ少し早いとかで、暫らく川の辺りでぶらぶらする。やがて声がかかり、天龍寺へ戻るようにして「嵯峨野」へ向かう。
 『嵯峨野』:平屋建ての新館の前を通り、鍵の手に曲がって本館へ、入って二階へ上がり座敷席へ。眼下には庭が見下ろせ、枝振りのいい赤松が素晴らしい。その奥は竹林、でも竹は中途から切られていて、一寸風情がない。今は若竹が伸びている。パンフレットには冬は湯豆腐のみ、夏はほかに辛子豆腐、冷しそうめんも選択できるとあるが、やはり初めてなら湯豆腐だろう。大きな土鍋に京都伝統の嵯峨豆腐が、お酒がすすむ。ここは昼時は混み合うが、その時間帯を外せば、フリでも入れると教えてくれた。京の有名な湯豆腐に出会えて満足だった。
 この後、土産物を仕入れるとて、洛北の北山通りのとある洋菓子店へ寄る。店内は押すな押すなの混雑ぶり、有名な店なのだろう。通りを挟んでの南側には京都府立植物園、何回か足を運んだことがある。また近くには「じん六」とか「もうやん」といううまい蕎麦屋があり、ここにも数回足を運んだことがある。懐かしい場所だ。家内も随分と買い込んだ様子、私には縁のない店だ。皆さんが買い終えるのにかなりの時間を要した。
 さて、この「京都へ行くまい会」もそろそろ大団円、残すは伏見・醍醐にある醍醐寺の参拝のみとなった。嵐山は京の西の端、その後北の端の上賀茂まで行き、そして醍醐はというと京の東南の隅、端から端へぐるりと回ったことになる。醍醐寺に着いたのは午後3時半だった。
 『醍醐寺』:真言宗醍醐派の総本山である。醍醐寺は弘法大師の孫弟子にあたる理源大師・聖宝によって、貞観16年(874)に創建されている。いわれによると、山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った折、白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神の示現によって、こんこんと」湧き出る霊泉(醍醐水)を得て、この山を譲り受け、ここに小堂宇を建立して、准抵・如意輪の両観音を刻み山上に祀ったのが醍醐寺の始まりであるという。その後延喜7年(907)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立され、更には五大堂も落成するに至って、山上の上醍醐の伽藍が完成した。この醍醐天皇の願いは朱雀・村上両天皇に引き継がれ、山下(下醍醐)の地にも伽藍の建立が計画され、延長4年(926)には釈迦堂が、天暦3年(949)には法華三昧堂が建立され、天暦5年(951)には五重大塔が落成し、山上山下にまたがる大伽藍が完成した。その後も多くの堂宇が建立された。
 しかし長い歴史のなかで何度も火災にあい、文明・応仁の乱では五重塔を残して下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃した。その後長い間復興されなかったが、慶長3年(1598)の春に豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に、秀吉や秀頼によって金堂や三宝院、また山上では開山堂や如意輪堂などが再建された。
 現在一山は国の史跡に指定され、長年護り続けられてきた10万点以上の寺宝類の多くは国宝(41点)、重要文化財(63,692点)に指定されている。(平成22年度末現在) また醍醐寺は世界文化遺産にも登録されている。
 私達は朱塗りの西大門(仁王門)から入り、国宝の五重塔へと進んだ。この塔は、醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が承平元年(931)に起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成したもので、完成に20年を要した。京都では最古の木造建築物と言われている。高さは38m、そのうち相輪部が12.8mで、全体の3割以上を占める。塔内部の壁画は創建当時のもので、塔本体とは別に国宝に指定されている。見上げると、その重厚さに圧倒される。次いで真如三昧耶堂へ向かう。この堂は法華三昧堂として創建されたものだが、後に焼失し、平成9年(1997)に再建された。内陣には中央に伊藤真乗が謹刻した涅槃尊象が安置され、向かって右には伊藤真乗、左には伊藤友司のいずれも金色の胸像が安置されている。伊藤真乗は真言宗醍醐派の阿ジャ梨であり、昭和59年(1984)には、弘法大師御入定1150年遠忌では導師を務められている。尊象は真如苑の教主様と霊祖様である。
 次いで少し下って醍醐寺の本堂である金堂へ行く。この金堂は豊臣秀吉の発願により紀州から移築されたもので、移築は秀吉の没後の慶長5年(1600)に落慶している。正面7間側面5間の入母屋造り本瓦葺きの建物である。本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作とされ、いずれも重要文化財に指定されている。
 今回は約1時間の参拝で、下醍醐にある伽藍のごく一部しか見ることが出来なかったが、またの機会には開山堂がある上醍醐にも行ってみたい。そこへは登山口にある女人堂から山道を約1時間かけて登らねばならないというが、ぜひ訪れてみたいものだ。また醍醐寺は「醍醐の花見」や力自慢の男女が大きな鏡餅を持ち上げる「餅上げ力奉納」でも有名である。
 
 こうして今回の「京都へ行くまいかい」は終わった。随分と盛り沢山であったが、これも車という機動力があったからで、それにも増して優れた企画の賜物である。少なくとも彼女はもう1年は在学するし、大学院へ進学すれば、少なくとも更に2年は続けられる皮算用になる。企画実行に当たったT先生夫妻に感謝したい。また当初の予算内に納まったと報告され、これには驚きを隠せなかった。正にオンブにダッコの楽しい旅だった。

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