2012年6月18日月曜日

京都へ行くまいかい(その1)

私の家内の兄弟姉妹は5人で、上から順に、長姉、長兄、次姉、本人、弟である。この中での総帥は長姉で、夫のほうも長男である旦那が総帥で宮田一家を仕切っている。一方で姉御の方も別に宮田組を形成している。それは血族と姻族の差であって、当然のことかも知れない。宮田の長姉と家内とは姉妹であるから繋がりは強く、家内はよく訪ねている。長姉には三人の娘がいて、それぞれ順に3人、3人、2人の孫がいる。そしてさらに長女の二人の娘には3人と1人の曾孫がいる。曾孫にとって長姉は曾祖母にあたるし、家内の姪に当たる長女は祖母ということになsる。家内よりずっと若いのにである。
 さて、家内は宮田組の一員であるからともかく、私までも声がかかって、家内の姪の子の結婚式、一泊旅行、進学祝、内輪の会などに、都合5回もお誘いを受けた。このうち平成21年(2009)の3月に、家内の姪にあたる三女の娘さんが、二水高校から京大に合格したとかで祝賀会が持たれ、素晴らしい快挙ということで私も参加した。宮田組の一族郎党が集まった楽しい会であった。後で聞いたことだが、その折に京都に娘が一人で行くのだから、皆で京都へ行くまいかということで「京都へ行くまい会」というのを発足させたとかであった。でもその年の秋には京都から娘さんが帰郷して、能登の輪島ねぶた温泉「能登の庄」へ旅行したし、平成22年(2010)には私達の三男坊が他界したこともあってか、旅行には出なかったし、平成23年(2011)には宮田家に面々が寄って、名目は忘れたが内輪の会が持たれた。
 そして今年、平成24年(2012)には晴れて「京都へ行くまい会」が現実に駆動することになった。日取りは6月2,3日の土日、この時期私は学童健診で忙しい時期なのだが、土日とあれば休日なので全く問題はない。二つ返事で参加することにした。そして東京の次姉夫婦も参加するという。そして程なく家内の姪に当たる三女の方から「京都へ行くまいかい!」というカラー刷りの冊子パンフレットが届いた。これまでも旅行の後にスナップ写真を編集した冊子を戴いていたが、今回のはこれまでになく実に素晴らしい内容になっていた。この夫妻は共に中学校の先生である。先生にこんな技術が必須なのかどうかはともかく、スケジュールから訪ねる場所まで、説明も写真とイラスト付きで実に分かりやすく解説されている。驚きである。先生は多忙だと聞いているが、ひょっとして睡眠時間を削っての制作じゃなかったろうか。冊子はA4で18ページ、とても誰もが簡単に真似できるものではない。
 今度の旅行には延べ17人の参加、アシにはマイクロバスを使用とか、運転は家内の姪にあたる三女の旦那先生、マイクロバス運転の免許をお持ちとか。国体でも県で責任ある立場にあることもあって、よくマイクロバスを運転して遠出することもあるという。彼の運転には以前にも接したことがあるが、正確な運転で乗っていて安心感があるのが嬉しい。嫁はんも運転上手だ。ところで家内からは、曾孫が4人同乗するが、中々活発な子達なのでバスでは騒ぐのは必定、気分を害することがあっても絶対怒らないでと釘をさされた。私は妙薬を飲んで乗るから大丈夫と言ったものの、どう対処すべきかはその場に当たってみないと分からないと思っていた。会費は男性5万円、女性3万円とのことだったが、それで足りるのかと心配だったが、足りなきゃ集めればよいとのことだった。
{第1日}
 宮田家からの出発は午前7時、東京の次姉夫婦は京都で合流とかである。上荒屋を出た後、すぐ近くに開設された白山ICから高速道へ、途中女形谷PAでトイレ休憩、南条SAで軽い朝食、多賀SAでトイレ休憩し、京都東ICで高速道を下りた。時間は11時少し前、京大生の娘さんの住まいが銀閣寺の近くとかで、娘さんと合流した後予定を変更して銀閣寺へ行くことに。娘さんは来週から教育実習とか、実習は郷里の出身母校でとのことで、選んだのは出身中学校、期間は3週間、このバスでいったん帰郷ということになった。
 『銀閣寺』:正しい寺名は「東山慈照寺」というそうだ。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、世界文化遺産になっている。訪れたのは大学の山岳会の総会が京都嵯峨の地であった時以来だ。総門から中門への参道の両脇に聳える背の高い生垣が印象的である。境内では径を辿り展望所へ上がった。ここからは境内を一望できる。観音菩薩を祀る銀閣(観音殿)の落ち着いた佇まいをを見ると心が休まる。踏襲したという金閣とは別の佇まいだ。
銀閣寺を出て、バスは西へ向かい、京都大学をぐるりと回って、昼食場所の「六盛」に向かう。
 『六 盛』:場所は平安神宮西横、疎水北側とある。名を聞いたことはあるが、訪れるのは初めてだ。創業は明治22年(1899)とか、京料理の老舗である。この六盛の名は、明治25年(1892)に学区制が敷かれた際、この学区内の6地区の繁栄を願って出来た組織「六盛会」に由来するという。二階へ上がる。部屋は明るくて開放的、本来は畳敷きなのだろうが、テーブルと椅子が設えてある。京料理そのものの、小奇麗な籠盛り弁当が出る。そして私たちは京の地酒の冷酒を当てに弁当を戴いた。
 六盛を出て、すぐ近くなのだがバスで移動して、京都市動物園と疎水を挟んで向い側にある「無リン庵へ行くグループに分かれる。子供らの親子は動物園へ行く。
 『無リン庵』:ここは元老・山県有朋が京都に造営した別荘であって、広い敷地の大半は彼自身の構想により、造園家の小川治兵衛が作庭したものだという。疎水から水を引き、滝、せせらぎ、池、芝生を配した池泉回遊式庭園である。この庭は明治時代の名園として国の「名勝」に指定されている。建物は母屋と茶室と洋館、中でも洋館は明治31年(1898)の建立で、二階には江戸初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、ここでは明治36年(1903)4月21日に、元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人による日露開戦直前の我が国の外交方針を決める無リン庵会議が開かれたという。
 その後シニアグループは、お茶屋「静閑院」に入り、抹茶の乗ったソフトクリームをゆっくり腰を下ろして堪能、だが私には天敵だ。
 再び合流してバスに乗り、長躯洛北の大徳寺へ向かう。でも時間はやがて午後4時、大方の塔頭は閉まっていたが、まだ拝観できる龍源院へ行く。
 『龍源院』:洛北にある臨済宗大徳寺の塔頭で、大徳寺では最も古い寺であるそうだ。方丈や表門などの建物は室町時代に作られた檜皮葺き、重厚だが素朴さが漂う。方丈前の石庭は「一枝坦」と言われ、左に大きな楕円形の「亀島」、そして右奥には石組の「蓬莱山」、右手前には石組の「鶴島」を配し、綺麗に掃かれた白い小石は大海原を模しているという。しばし縁に腰掛けて、不要なもののない庭と対峙する。また方丈の北側には「竜吟庭」がある。一面の杉苔の海原の中央奥には、須弥山を模した奇岩が聳えている。そして手前に遥拝石が配されている。そして方丈の東には、我が国最小という深く吸い込まれそうな感じの石庭「東滴壺」がある。また書院の間には、ショーケースの中に天正11年(1583)の銘のある種子島銃が飾ってあったが、かなり大きく重たそうだ。後年の銃よりはるかに大きい。また豊臣秀吉と徳川家康とが対局したという四方蒔絵の碁盤と碁筒も展示してあった。
 大徳寺を出て、今宵の宿の緑風荘へ向かう。
 『緑風荘』:小奇麗な西洞院通りに面した宿、西本願寺と東本願寺の中間の北側に位置している。よくある大団体用の宿ではなく、部屋も大部屋ではない。男性4人が一緒の部屋。先生もようやく運転手から解放された。本当にお疲れさんでした。6階にある展望風呂から上がり、先ずは持参の「菊水」で乾杯し、次いで次女の旦那が持参した「キス・オブ・ファイア」とかいうブルーの洒落た瓶に入った酒を頂く。欧米では人気の逸品とか、私は始めて接するサケだった。「常きげん」の蔵の作品とかである。夕食前にホロ酔いになってしまった。夕食は季節感のある京会席料理、充分に堪能した。はじめパンフレットを見たときは、町方のありふれた旅館と思っていたが、どうしてどうして、料理も応対もとても良くて、またぜひ訪れたいと思った宿である。

0 件のコメント:

コメントを投稿