2012年6月21日木曜日

木村先生を囲んで生薬を懐かしむ会

表記の会は、旧生薬学教室に在籍した人及び先生が関わった植物研究や漢方研究の同好会のメンバーを母体にしている。この企画を初めて提唱したのは、生薬学教室に在籍し昭和37年に卒業した松本武さんで、彼は1年かけて名簿を作成し、翌平成18年6月25日(日)に金沢市で初の会を開いた。参加者は40名で盛会であった。その折この会を1年おきに開催することを申し合わせた。第2回は熊野正さん(昭29)が世話人となり、平成20年9月23日(水・祝)に23人が集い、金沢市で開かれた。第3回は私(昭34)が代表世話人となって、大正12年(1923)生まれの先生は、平成22年には88歳になられることもあって、米寿の祝いも兼ねて、6月20日(日)に金沢市で開催した。29名の参加があった。そして今年は安田幸子さん(昭41)が世話人代表となって、6月17日(日)に金沢市で開催され、27名が参加した。
 これまで4回の開催で参加された方の総数は54人で、松本さん作成の名簿搭載者167名に2010年発行の薬学同窓会名簿から未搭載の生薬学教室在籍者23名を加えた190名に対する割合を見ると、出席した人は全体の28.4%になる。そこで、卒業年次を昭28~33、昭34~43、昭44~53、昭54~63に区切って、それぞれの年代での出席率を見ると、順に73%(19/43),51%(20/39)、21%(14/67)、2%(1/58)となる。これから伺えることは、還暦(昭49卒が該当)前で現役で勤務されている方が多い年代の方の参加が極端に少なくなっていることだ。また還暦を過ぎた方でも、現に勤務されている方の参加は少ないようだ。近況から伺うと、年配の方の場合は体調を崩されたりで参加できないとか、中には親御さんや配偶者の介護のために参加できないとかである。また遠方の方の参加も少ないようだ。でも今回も北は福島、南は奈良からも参加があり、北陸3県以外からの参加者も14名と半数を超えた。また特徴的だったのは、今回初めてこの会に参加された方が8人もいたということである。
 この日の会場は金沢市香林坊の金沢エクセルホテル東急5階のエクセレントルーム、午前11時に開会し、凡そ40分間木村先生の講話後、最年少の千木良さんからの花束贈呈を行ない、その後別室で記念の集合写真を撮り、正午から午後2時まで会食という段取りである。私は先生の講話や出席者のスピーチを若干メモしたものの、どうも悪筆なこともあって、手前の字なのに判読に困るという始末、困ったことである。すると誤った記述をするかも知れず、ご指摘いただければ訂正するにやぶさかではない。

1.木村先生の講話から
 [薬草園のこと]:昭和25年に昭和女子薬科大学から金沢大学に赴任した当時、戸田構想で薬学部は城内へ移転ということになり、真先に生薬学教室が旧旅団司令部跡の敷地に移転した。ところで教室には薬用植物園がつきもので、先生は候補地になった旧第九師団の馬場跡で植物園造りに精出した。場所は現在玉泉院復元工事が行なわれている場所である。馬場であったからして砂地で、終戦後はそこにサツマイモなどが植えられていた。水はけがよいこともあって、草や木を植えた後は水やりが大変で、旧四高のプールからの水運びが大変だった。  然し漸く目処がついた頃、ここに県の体育館が建つことになり、薬草園は甚兵衛門坂を上がった一画に移ることに、ここは元は何だったか知らないが、私達が手伝ったのはこの頃である。そのうち薬学部の移転計画は白紙となり、ふたたび小立野で薬草園を開くことになった。候補の一帯は当時ゴミ捨て場同然の場所、動物の死骸なども埋められていた。先生は園丁の方と鍬を取り開墾され、皆が散策できる立派な薬草園に仕上げられた。きちっと区画されたものではないが、それがよい落ち着きを醸し出していた。しかし一部の先生からはあれは薬草園なんてものではない、先ず生えている木は皆切ってしまえとの御託宣、でも先生は容認できないと無視された。すると彼は草しか知らないとか、また思想が悪く、赤だとまで言われた。当時は上意下達のみ、下から上へは通らなかった。また植物園は園丁に任せて、研究室で仕事をしろとも、でもその傍ら薬草園は先生にとっては宝であった。そして昭和63年に退官されるまではこうして薬草園は守られた。  先生の退官後は、薬学部の角間への移転、小立野トンネル開通に伴う掘割で、旧の薬草園は随分削られたはずである。今の現状を私は知らない。あのメタセコイアは健在だろうか。
 [心の根底にあるもの]:先生の心底にあるのは宮沢賢治のヒューマノズムであり、仏教思想が根源となっている。それは人類平等の思想でもある。これは自然保護、すなわち生き物をいとおしむことにも通ずる。このことでは岩手県出身の熊谷君(昭和34年卒、後に岩手の名士と言われた)とは共感したという。先生がまだ東大の学生の頃、甲府の軍医学校に配属されていた当時、青少年義勇軍とか満蒙開拓団の人達は戦況が逼迫していて大陸へ渡ることが出来ず、山梨の笛吹川の上流で食料不足を補うために開墾をすることのなった。これには地元の樵夫や炭焼きの人達には大変な世話になったが、これも貴重な体験だった。一帯にはキハダ、ハシリドコロ、ヒキオコシなどの薬草が自生しており、これは大学へ戻って、ハシリドコロの分布調査の研究をする端緒となった。  四高から東大物理学科へ進まれた新保さんにも影響を受けた。彼の部屋には宮沢賢治の郷里の五万分の一の地図が一面に貼ってあり、心酔していた。後にこの先輩の妹と結婚することになる。また四高では、チェロの師であるアーネスト・ブライスという先生から、バッハのマタイ伝の中のコラールを教わった。この先生は俳句も嗜まれ、オーボエでパーセルの曲も披露してくれた。後に皇太子(現天皇)の英語教師もされたという。あの有名な○○女史の前のことだとか。また日本が負けたら日本人になるとも。  
 [桜のこと]:先生は石川県文化財保護委員もしていて、桜や椿に興味を持っていた。能登に自生する菊桜が新しい品種であることを見つけ、ケタノシロキクザクラなどいくつかは先生の命名による。それらは「日本の桜」として出版され、その本はこの前のこの会で先生から出席の皆さんに配布されたが、誰からも感想文が届いていないと嘆いておいでた。これらの桜から取り木されて植えられた木を別の地方で出会うと実に嬉しい。私は桜に没頭するために国立能登青年の家に移ろうとまで思ったが、それは大学で却下された。いま菊桜のことを後2年くらいかけて纏めたいと思っている。一方で辰巳用水を守るために、ダム建設に反対して来たが、係争中なのにダム本体は出来上がってしまった。

2.スピーチから
 マイクを使って話すのだが、先生は聞きづらいと言われ、傍に立って話すことに。
 [清水さん:昭44]: 福島県喜多方市の出身。もとは北方と書いたそうだ。福島は日本有数の薬草の産地なのだが、それが今放射能汚染に苦しんでいる。原発から100km離れているが、採取されたドクダミの全草、キハダやホオノキの樹皮は放射能で汚染されていて、廃棄しなければならない現況にある。洗浄による徐染でも、1,000Bqを20Bq以下にすることはできない。朝鮮人参も会津は信濃と並ぶ産地だが、製品になるには4年かかることから、放射能汚染が懸念される。稲の汚染でも、雨ばかりではなく、根からも吸収されているというから、天然物も栽培品も危機にさらされている。シイタケ、コシアブラ、ワカサギもである。
 [奥田さん:昭33]:一昨年のこの会で、奥田さんは生まれ故郷である喜界島での皆既日食(2009/7/22)の連続写真を配布された。奄美一帯が雨で観測できなかったのにである。この日は「思い出二話」ということで話された。  その一:終戦後、郷里の喜界島は琉球軍政府に統合され、国籍は琉球人ということに、そして昭和26年には米国陸軍省立の琉球大学へ入学した。ところが昭和28年12月に奄美諸島が日本に復帰し、国籍は日本人となった。その後文部省の計らいで日本の大学への道が開け、昭和29年に金沢大学に入学できた。そのとき大学での入学手続きでの女子事務員の心遣い、町で道案内をしてくれたお年寄りの親切、気配りしてくれた電車の運転手など、そのときの親切で心優しい金沢の人達を忘れることは出来ない。  その二:大学へ入ったが、家からは全く送金がなかった。そこで横安江町にあったうどん屋「いしや」で焚き木割りをした。日給は500円で3食付きだった。 『腹白いタラをタラ腹食べ過ぎて ダラになりけり我輩は』 『好きな勉強 ビーコン、トゥリコン、ダラダラダッタ』。 また凍てつく冬の雪下ろしは一屋根500円2食付きで、4軒も回ると収入は2,000円にもなった。当時の授業料は6,000円だった。木村先生の講義では、許可を得て早引けし、一目散にアルバイトへ。感謝、有難うだった。
 その他8人からスピーチが、磯野さんからは宝生流の謡「養老」が披露された。

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