2012年2月16日木曜日

作文 山を想う (その1)

家で整理をしていたら、原稿用紙に書かれた標記の文章とその下書きが出てきた。私の字であるからして私が書いたものなのだが、話の中心になっている医王山へ行った記憶がどうしてか脱落している。初の白山行のことはよく覚えているのにである。でもこれは高校1年の時に叔父と薬学部の学生と採集行した時の記録らしい。しかし前半の記述は、今の私にはどうも理解しづらい。というのは現在のノーマルなルートとは全く異なっているからである。私も大学入学以降は最も親しみのある山として、主に残雪期から新雪期まで医王山は何十回となく歩いた。だから富山県側の径以外は大概の径は知っているはずなのだが、それなのによく分からない。昭和20年代の医王山は山に施設はなく、また径もそれ程多くなく、今はメインである見上峠からの径もあったかどうか定かではない。どなたかご教示いただければ幸いである。ということで、昔の拙い作文を採録する。当然誤りはあるが、なるべく原文のまま書き写すことにする。所々で注記を入れるがお許し願いたい。

 私が朝に夕に眺めている後の山々(注1)は、四季を通じて色々な変化を持って私の目を楽しませてくれる。春の新緑、夏の濃い緑、秋の紅葉、冬の白い雪等は最も私の目の的となり、又格別に美しいものとして見られるのである。私はその景色を眺める度毎に山々の尊さが身にしみ、山へのあこがれを持つのである。然しながらいつもの尊い山も時には一面の雲におおわれたり、雨や雪の中に隠されてしまったりするが、そのような景色も又私にとっては格別な趣があるように思われる。後の山々も冬になってからは真白にお化粧して、雪の白の純潔さと山の雄大さとが一段と増して、冬のけはいが濃くなってきた。
 [注1]:私の家は旧野々市町新町、西面は旧北國街道に面し、したがって東に見える山をここでは「後の山」と表現している。家のある場所と医王山とは丁度対峙していて、最も前には大乗寺山、その奥左には戸室山、右にはキゴ山、そして県境には白ハゲ山と奥医王山が菱池乗越(現夕霧峠、菱広峠)を挟んで、均整のとれた双耳峰を形成している。この山は加賀平野のどこからでも見えるけれども、遠くだと小さく見え、近いと里山の陰に隠れて見辛く、その点私の住む地点からの医王山が最もバランスの取れた端正な姿を見せてくれていると自負している。したがって旧松任市あたりからよく見える白山を盟主とした県境の山々は私のいる処からは見えない。また医王山を富山県側から見ると、前医王山が邪魔して単なる医王山塊としてしか見ることができず、端正な姿は西の方からでしか見ることはできない。 

 そんな冬のある日、冷たい秋の一日に叔父と一緒に医王山(後に見える山)へ登ったことを思い出した。その日の朝は家を早めに出て、小立野で叔父さん達と一緒になり、バスに乗り湯涌で下りたのは十時近くであった。話を聞いていると、この計画は計画としてはあったのだが、この医王山え登った経験を持っている人達は少ないとかで、私には少々心細く感ぜられた。小高い丘に登ると、湯涌の温泉が眼下にくっきりと見えており、それをとりまく山々は、今では緑の世界からはほぼ遠ざかっていると考えられた。
 昨日からの雨で道が非常に悪くなっていたが、雨が降った後の気持ちというものは、何ともいえない新鮮な気持ちであった。今日のたどりつくまでの道程は二里乃至二里半の山道で、それを歩き越えていかねばならない遠さである。登ったことのある人達でもここ数年間は登ったことがない人が大部分とあって、その上ただでさえ迷いやすい道なのであるから、大きい道から小さな径へ入った途端に迷ってしまった。「さあ、大変なことになったぞ」と、誰からの口からも飛び出た。
 前方には谷川の激しい流れが急がしく音を立てて走り、左右には急な崖が、がんとして動かない。来た道を引き返そうとすれば、又一キロの山道が後にひかえている。谷川の流れの向こうには遠く山村の一部落が見えている。私達はとうとう行きづまってしまったが、皆の考えによって二三人の人達が向こうの部落にまで行ってはっきりした確実な道程を聞いてくることになった。そこで時間はまだ早かったがその間に私達は弁当を食べて腹ごしらえをしてしまうことにして、二三人の人達に早く行って聞いて来て貰うことにした。私達が弁当も済んで休んでいる時、彼等は息をはずませてはあはあ云いながら帰って来て、村の人に聞いた話を報告してくれた。
 その話によると、この崖を登り切ってしまうと上に部落があって、そこで聞けばよいということだった。早速皆で協力しながら登り切って見ると、そこには広い広場が目の前に見られ、そこには大きな家が二三軒行儀よく並んでいた。秋の獲り入れも終わってしまったのか、広い広場には脱穀機で稲をこいている山村の娘さんがいたが、山の平和の最も代表的なシンボルとでも云えそうである。又そこには秋の冷たい日の光の下で洗濯をしているバアヤの姿も目に止った。その横では子供達が小さい女の子も交えて一緒に棒を持って遊んでいる幼い子の姿も見られた。私達は、しばらくそこに立ち止って色々な変化の伴っている広場をじっと見つめていたが、ふとわれに帰って尋ねたい事を先の洗濯をしているバアヤに聞いてみた。バアヤは初めは私達をじっと見て手を休めて不思議そうな顔をしていたが、やがて口をきいて親切に教えてくれた。が、遠い耳をしているので、少しピントがはずれている。仕方なく部落を出てみたが、径が四方に分かれていて、てんで見当がつかなかった。今度は一人の若々しい青年に聞いてやっと了解が得られた。
 教えて貰った青年に御礼を云って私達は部落を後に細々とした山道へさしかかった。人跡が稀だと云われるこの山道には時々蛇や兎等が飛び出るのを見かけながら一歩一歩ふみしめながら進んだ。坂を登り切ってしまうと、急に眼前が明るくなり、そこには大きいとは云えないような池が青々とした水を満々とたたえていて、まるで「ガマ」の口のような大きな口をあけている。青々とした池の面にはジュンサイとか云われる中位の水草が、冷たい秋の太陽を受けて、枯れがかった緑の葉を水の面に浮かべている。池の回りは青い芝生でおおわれていて、こんもりと茂っている上はまるでもうせんのような柔らかさだ。私は芝生の上に座って、ゆっくりと池を見渡した。大きくないとは云えかなり大きく、私達の運動場の半分位はあろうと思われる。青い空と緑の森を写している池は、時々ジュンサイの葉の間から顔をのぞかせる小さな魚が、水面に波紋を作ることもあった。
 池の端で休んでいると、時計はすでに十二時をまわっていた。一部の人達からは、ここで断念しよう、そして引き返そうという意見も出て来たが、元気を出してもう一里余りの道程を進むことにした。私達は浅野川の上流の谷間の田んぼ道を進んだ。田んぼと云っても、この辺りのはと云うと、私達が住んでいる加賀平野の水田とは大変違う。第一に、ここは耕地整理が全然といっていい位出来てないことが一番目につく。田んぼの大きさは皆ちりちりばらばらで、形も多種多様である。またこの辺は非常に水が冷たく、その上田は皆湿田というか、いつも水が田一面に入っていて、一寸でも入るとまるで沼のように柔らかい。このような谷間で米作をするということは、並大抵なことではないだろう。又いかに米が日本人にとって必要であるかがよく分かる。こんなことを思いながら、一本道をなおも行くと、目の前に木立の間から小高い丘が秋の日を受けながら、そそり立って構えていた。そこには灌木が茂り、下には丈の低い草が敷きつめたようにおおっている。そしてそこには一本の棒が立っていて、道はそこで途切れていた。
 そこには先に着いた人達が道が分からなくて、寝そべって休んでいた。棒に何か書いてないかと調べたが、半分以上土に埋もれている一方、上に出ている部分は風雨にさらされて剥げていて、用をなさない状態だった。ある人は根掘りで棒を掘っている。しかし手分けして先へ偵察に出かけた人が、とうとう道を見つけ出して帰って来てくれた。皆大変喜んだ。さっきからの二度の失敗で、大変時間を食ってしまったために、予定の時間より大分遅れていた。
 丘を過ぎてしまうと、木は丈が低くなり、間からは時々加賀の平野や、金沢の市街等が手に取るように見えた。景色に見とれて歩を運んでいると、私には歩くのがさほど苦しく感じられなくなった。楽しい気持ちを持って登って行くと、次第に標高が高くなり、視界も段々広くなってきた。そのうちに草木が全然生えていないとも云える小石ばかりのガレへ出た。もうここからは加賀平野は一望にして眺められ、河北潟や日本海もぼうっとかすんで見えていた。この辺りは白ハゲ山とも云って、野々市辺りから見ると茶色にガレて見える所であろう。しかし私が頂上と思い込んでいた所は間違っていたのである。頂上はまだまだ上とのことだったので、皆はどんどん上え登って行く。もっとも頂上まではすぐ着いたが、ガレのところからは大体二百米位歩いたようだった。医王山の頂上と思っていたが、医王山というのは、白ハゲ山とか奥医王山、黒瀑山、鳶ヶ峰等の総称であることも初めてわかった。雲は空の七割位まで占めて、日の光は到底仰ぐことは出来なかった。

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