2012年2月7日火曜日

白山の開祖・泰澄大師と湯宿「法師」

平成24年(2012)1月24日(日)、金沢泉丘高校第7期同窓生有志の会の耳順会が粟津温泉の「法師」で開催された。法師は粟津温泉では最も古い旅館と聞いていたが、今回第46代当主の法師善五郎さん(有限会社「善吾楼」社長)からお話があり、「法師」の開湯は白山の開祖・泰澄大師によること、さらには高野山真言宗別格本山・那谷寺とも密接な関係があることを知った。以下にその内容を記す。

(1)泰澄大師と白山開山と湯宿「法師」
 泰澄大師は天武天皇11年(682)に越前国麻生津(現福井市三十八社町泰澄寺)に豪族の三神安角(やすずみ)の次男として生まれた。神童と言われ、11歳(14歳とも)の時、夢のお告げから出家し、天台宗越知山大谷寺(おおたんじ)(現福井県丹生郡越前町大谷寺)に登り、法澄と号した。難行苦行の後に仏の教えを悟り、その名声は都まで届いたという。20歳の大宝2年(702)には文武天皇より鎮護国家法師に任じられた。地元では修験者の「越の大徳(たいとこ)」と呼ばれていた。35歳になった養老元年(717)には、雅亮法師(樵夫・笹切善五郎の次男)の案内で、弟子の臥(ふせ)の行者、浄定(きよさだ)行者とともに、加賀国(当時は越前国)白山の御前峰に登り、瞑想していた時、緑碧池から十一面観音の垂迹であるとされる九頭竜王が出現して、自らはイザナミノミコトの化身で白山明神・妙理大菩薩であると名乗って顕現したのが霊峰白山開山の由来と伝えられ、白山信仰の基となった。
 養老2年(718)、泰澄大師の夢枕に白山大権現が立たれ、「この白山の麓から山川を越えて五、六里行ったところに粟津村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あらたかな温泉があるが、地中深く隠れていて、まだ誰一人としてその霊泉のことを知らない。お前はご苦労だが山を下りて粟津村に行き、村人と力を合わせて温泉を掘り出し、末永く人々のために役立てるがよい」と。お告げにしたがって粟津村へ赴いた大師は、すぐさま村人の強力によって霊泉を掘り当て、試しに病人を入浴させたところ、忽ち病が治った。そこで大師はそれまで身近に使えていた雅亮法師に命じて、万人の病気治療のために一軒の湯治宿を建てさせ、その湯守を雅亮法師に任せた。そして粟津開湯に際しては大師より「法師」の名を頂いた。そして主は法師善五郎と名乗った。法師初代の誕生である。

(2)泰澄大師のその後
 養老3年(719)からは越前国を離れ、各地で仏教の布教を行なう。養老6年(722)、元正天皇のご病気を平癒したことにより、神融禅師の号を賜る。神亀2年(725)、僧行基が白山を訪ね、泰澄に本地垂迹の由来を問うたとされており、これにより泰澄は神仏習合説の祖とされている。行基(668-749)は諸国を巡り、寺院建立、道路開拓、橋梁架設、池堤設置などを行なっていて、後に聖武天皇の帰依を受けて大仏造営に与かり、大僧正の位を授けられている。天平2年(730)、一切経を写経し法隆寺に納めた(現存)。天平9年(737)、全国に痘瘡が流行し、勅命により祈願を行ない、疾病を終息させた。このことにより、聖武天皇から大和尚を授けられ、「泰澄」の尊称を賜った。
 神護景雲3年(769)、大師は故郷越前国の越知山大谷寺に戻り、釈迦堂の山窟に座禅を組まれたまま86歳で遷化された。寺の境内に祀られる国指定文化財の九重の石塔が大師の墓と言われている。

(3)泰澄大師と那谷寺
 白山を開山した養老元年(717)、泰澄は霊夢に現れた千手観音のお姿を彫って、現那谷寺の岩窟内に安置し、ここを自生山岩屋寺と名付けた。寺は大師を慕う人々と白山修験者によって栄えたという。その後平安中期の寛和2年(986)に花山法皇(第65代天皇、17歳で即位されたが2年で退位、その後出家され、全国各地を巡礼された)が参詣された折、岩窟内に光り輝く観音三十三身を感じ取られ、この山には観音霊場33箇所が宿るとされ、西国三十三箇所の第1番那智山の「那」と、第33番谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と改め、中興の祖となられた。そしてその後も度々参詣され、その折には粟津温泉の法師にてご入浴なされたという。
 しかし南北朝時代には、足利尊氏の軍勢が寺を城砦として新田義貞と戦ったが破れ、寺は灰燼に帰した。江戸時代になり、境内の荒廃を嘆いた第3代加賀藩主前田利常が、寛永17年(1640)に後水尾院の命を受け、名工山上善右衛門らに岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造らせ、庭園は小堀遠州に指導に当たらせたという。これらは現在、国指定重要文化財及び国指定名勝となっている。高野山真言宗別格本山でもある。

(4)歴代法師善五郎の心覚え
・初代:雅亮法師として大師に仕え、養老2年(718)大師による粟津開湯に際し、湯治宿「法師」を開く。
    法師善五郎(初代)を名乗る。
・10代:寛和2年(986)、花山法皇が岩屋寺に参詣され、寺名を「那谷寺」と改名される。法師へ来訪。
・17代:源平の合戦が始まる。文治3年(1187)、源義経と武蔵坊弁慶が安宅関を通る。
・27代:一向一揆が鎮められ、蓮如上人は探索の目を逃れ、法師で飯炊きをなされる。
    天正11年(1583)、前田利家が金沢城に入場、本格的な城造り始まる。
・33代:小堀遠州、法師を訪れ、庭園造りを指導。この時那谷寺にも。古九谷誕生。
    寛永17年(1640)、黄門・前田利常が来訪を記念し、門前に黄門杉を植える(現存)。
・35代:元禄2年(1689)、松尾芭蕉が北陸各地を行脚、那谷寺を訪れ、一句を残す。
・39代:寛政11年(1799)、村役人による湯元心得21ヵ条ができ、法師での入浴にも適用。
・41代:安政3年(1856)、粟津八景(越前の絵師・小川治郎右衛門による)を定める。
・43代:桂太郎、法師に宿し、延命閣にて「善吾楼」を揮毫。法師の社名となっている。
・46代:昭和62年(1987)、世界で200年以上の由緒ある企業のみで構成するエノキアン協会に加盟。
    加盟企業の中では最古の歴史を有している。
    「世界で最も歴史あるホテル」としてギネスに認定される。
・注1:エノキアン協会は1981年にフランスで設立された経済団体で、家業暦200年以上の企業のみ加盟が許される老舗企業の国際組織。40社が加盟。日本では、法師(718)、虎屋(1530)、月桂冠(1637)、岡谷鋼機(1669)、赤福(1707)が加盟。協会では法師が最も古い。
・注2:法師と同時期に創業した旅館として、慶雲館(山梨県西山温泉、705年)や千年の湯・古まん(兵庫県城崎温泉、717年)が知られている。法師は「ギネス・ワールド・レコーズ」に世界で最も歴史のある旅館として登録されたが、平成23年(2011)2月に、その座を慶雲2年(705)開湯の慶雲館に奪われた。
・注3:「法師」の泉質は、ナトリウム・硫酸塩・塩化物泉、泉温は42.5℃、温泉使用量は毎分5.8ℓ。
・注4:粟津温泉の入り口には、泰澄大師の像が立っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿