2012年2月10日金曜日

「白山登山記 自8月15日ー至8月17日」(1)

中学1年生のとき(昭和24年)、私は叔父に誘われて初めて白山へ登った。そのときの印象を綴った標記の作文が出てきたので、ここに採録する。この作文には誤字脱字のミスがあるが、敢えてなるべくそのまま記した。原文は縦書き、数字は漢数字。

「出かけるまで」
 僕に白山え一緒に登らないか、とおじさんが云われたのは八月十二日の晩の事だった。僕はすぐに「行く」と云う返事をしたが、「学校にさしつかえがなければいいが。」と思った。父も母も僕の意見にすぐに賛成してくれた。
 それですぐに学校へ行ったが、先生は帰られておいでないので明日学校へ行ったら云おうと思ったが会う機会が無かった。残るは後一日である。それで十四日の朝僕は先生にその事を話すとすぐに承知して下さった。何故なら明日は一学期の終業式ででも学校を休まなければならなかったからだ。
 明日の朝早く出かけると云うのでその晩は持物の用意をしたり地図を拡げて道程を測ったりした。その日は早く寝床についた。

「八月十五日」
 待ちに待った日が来たので朝早く起床した。僕は「どうらん」やリュックサックに物をつめ出かける準備をして出かけるのを待った。用意が出来たので僕は元気に「いって来ます」と云って家を出た。
 五時だというのに外は大変明るかった。駅につき電車に乗ると電車の中は満員で魚を釣る人と登山者とで身動きも出来ない程だったが鶴来まで来るとだいぶん楽になり金名線に乗りかえる時は登山者が大部分であるのだった。
 白山下から今度は白峰までのバスに乗ったがその時初めて僕達と一緒に行く金沢大学薬学部の先生方と会った。
 バスは動き出したが道幅一間半の山道を行くのだから大変時間がかかった。白峰えつくと今度は市ノ瀬までのバスに又乗りかえなければならないがバスが小型なのでいちいち燃料を入れているのでその時間でさえも一回するのに五十分程づつはかかった。その間僕達はそのあたりを見ていたが一番笑ったのはフラスきん入りと云うのがはっきり知っているのかそれはどうなのかわからないがそれをフランスきん入れと書いて店の前にぶらさげてあった。フランスきんもあるのならドイツきんやアメリカきんもあるのかと大笑いした。
 バスは動き出し美しい緑の山々を見ながら一時間半後には市ノ瀬えついた。朝五時に出てから四時間半経過した今、僕等は今から登ろうというので腹ごしらえをして市ノ瀬から徒歩についた。あやしいふらふらの釣橋を渡り急な坂を登った所に「室堂まで九〇〇〇米」と云う立札が立ててあった。平地の二里とちがって山道の二里だからつらいぞと家で云われたが僕は平気だと云って家を出た事を思い出した。急な坂を登ってからは、いたって楽なけいしゃのゆるい道に出たので僕は一人の先生に「白山登山はこんな楽なのですか」と知らないので聞くと「此は一番楽な所でこれからは大変急な所ばかりだよ」と云われた。
 途中猿壁と云う断崖もあってそこからははるかに不動瀧が見えて大変景色もよかった。
 道はいよいよぶなの森林の中え入って行った。すごく大きな樹木である。僕は色々木の名を聞いたが、一番目についたのは「ぶな」と「だけかんば」だった。直径六〇糎から一米近くもあるのが非常に沢山生えていて木の幹には自分の名前を記念にほったのかも知れないが、これも又非常に沢山ほってあった。
 しばらく行くと営林署小屋があって沢山の人達が休んでいた。が僕達はその前にある植物見本林と云う自然のままの樹木が沢山色々の種類に分類されているところへ行き大変僕は参考になった。僕達はただ此森林をただ一時間も一時間半も歩いて行った。行っても行っても樹木であり落ち葉であるのだ。じめじめとしたうす暗い日陰をくぐって行く所もあった。たまたまからりと晴れた所があると思うと、そこはすぐ足もとから下が何百米もの山くずれとなった断崖の上を歩いているのだった。道は小石ばかりで出来ていて何度も足をふみ滑らしてその度に胸がどきっどきっとしたがそこも通りすぎたので落ち葉をかき集めて一休みをした。僕は大変沢山物をかついでいたので休んだ時は本当に背がかるくなった様に思われた。
 そこをたってしばらく行くと観光新道と砂防新道との分かれる所に来た。僕等は左の観光新道の方におれた。そこから三十分程行くと「き市郎坂」という坂の入口に来たので此で一休みした。ちょうど下の方に手取川の上流柳谷川が流れ川むこうにには砂防新道があり少し遠い所には不動瀧が三段になって流れていた。休んでいる所に上の方から水が流れおちていて大変つごうがよかった。きれいにかわいた落ち葉が散りしいてきわめて静かな所であった。
 「さあこれから坂だ」そう思って登り初めるとそこには「室堂まで四〇〇〇米」と云う立札があって私の心はだんだん近ずいていく事を大変うれしく思った。坂を登っている途中山の木の幹や小枝には「ハルゼミ」がやかましい程鳴いていて僕達の心を楽しませて来れた。少し行くと十町程先に休む小屋があるというので急ぎ足で歩いたがなかなかその小屋へつきそうもなくとほうにくれた。あたりは「だけかんば」の森林で木の根が道に沢山出ていて歩きにくく早く小屋へ行かないかと思って急ぐと木の根につまずいたりした。
 市兵衛小屋につき一休みをしあたりを見まわすと今登ってきた山々がずっと遠くまで続いていて今登ろうとする山のほうは青空にくっきりとしていた。それから少し行くと山一面まっ白にくずれ落ちているところに出会った。ここを通るのはとても危険であった。上下何百米かに渡るざらざらとした崖を横切ってひもの様な道がついているが両足をそろえては立ち止る事も出来ない程のせまさである。僕はぴったりと体を崖にくっつけて片足づつ運ばせたが一足動くごとに足もとからは白色の土くれが落ちて行くのだ。ばらばらとくずれ落ちるはるか下の方には柳谷川がせまく深く流れている。
 そこを通り過ぎると今度は樹木の一本も生えていない大きな岩石がぐわらぐわらにある石原え来た。そこで始めての写真を採って貰った。石原がつきる頃になるとかつ葉樹はあまり見あたらなかったが常緑樹の「つが」や「もみ」が見られた。やがて最も急な坂を登り切って又少し行くと市ノ瀬旧道と観光新道と出合う所え出た。そこには殿が池という池があり又道は二つにわかれているのだった。右の方に折れて坂を登ると真砂坂と云う坂があってそれを登ると残雪のある蛇塚に来た。手に雪を取って食べて見るとつかれている僕達には大変おいしく思われた。
 小さい森を過ぎて高山植物もまばらに生えている五色ヶ浜を僕達は歩いた。歩いていると山の陰からは大きな石が二つあるのが見えた。するとどこからか「あ!!ミダガ原の入口が見えるぞっ」と云う様な声があちらからもこちらからも聞こえて来る。その時「ヤーホー」と砂防新道の方から声が聞えた。僕はその時すぐにあれはおじさんの声だという事がわかった。こちらからも「ヤーホー」と云った。山にこだまして山びこが聞えている。
 とうとう「ミダガ原」についた。一面草原で高山植物の「クロユリ」や「ハクサンコザクラ」の群落が沢山見られた。又所々に石を沢山つんであり、そのかたわらには「海抜二五〇〇米」「室堂まで九〇〇米」と書かれた立札が二つ立っていた。
 草原は大変気持ちがよくてまだまだ此にいたい様な気持がしたがそうはいかない。次に最後の坂五葉坂があった。坂の途中は雪渓のために道はうち消されていて歩く事は出来ないので仕方なく雪渓の上を歩き初めたが底がゴムのためなかなか通行は容易にできるものではなかった。此雪渓はすごく大きく又大変長いので土の上を歩き初めたが此も石が沢山あってどちらにしたらいいかわからなかった。しかし僕は「もう室堂だ」と思わず云った。その坂を横にまがる時二むね三むねの屋根の低い家が見えた。それが今夜僕達を休ませ眠らせてくれる白山室堂であったのだ。
 やれやれと安心してふり返ると今通って来た雪渓の上にはものすごくこいガスがかかっているのが見えた。室堂についたのは五時頃だったと思う。僕はあちこちとそこあたりを見廻ったがその時には必ずスケッチブックを持って行くのは忘れなかった。御前峰の方はすごいガスで頂上はぜんぜん見えない位だ。
 「明日の朝早く御前峰え登ろう」と云われたのでその日は暖かい火のある部屋え入って眠った。三時頃頂上の方を見るとはっきり見え三角のやぐらも見えた。

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